2009年11月21日
ピーチェス・アンド・ハーブ (Peaches & Herb)
さあ、今回は久かたぶりに王道ディスコを一つ紹介します。あの米ビルボードの一般、R&Bの各チャートで1位を獲得した“二冠王バラード”「リユナイテッド(Reunited 邦題:恋の仲直り)」(79年)で知られる男女デュオ「ピーチェス&ハーブ」であります。……つまり、この人たちは、まずは日本におけるディスコの「チーク・タイム」のゆる〜い名曲で名を馳せたのでした。とはいえ、この人たちが王道だという根拠は、リユナイテッドではありません。「もろディスコ」の方でも大活躍したからです。まずは代表曲の一つ「ファンタイム(Funtime)」(80年、ディスコ14位)のYoutubeリンクを張っておきましょう。
いやあ、実は私、特別にすきなんですこの曲。イントロからガッツリガツンと盛り上げ気分全開でして、文字通りの“ファンタイム(楽しいひととき)”。「まずピアノやアカペラからゆったり入って〜、ベースとパーカッションとストリングスが来て〜、そしてホーンセクション入り〜の〜、え〜とそれからバスドラムが乗っかって〜、最後にようやくAメロのボーカルがそろりとやって来て〜」といった調子のありがちな“じらし戦術”とは対極をなすような、「のっけからドン!」状態なんですね。
ただし、ここで断っておきますが、DJにとって大切な“繋ぎの美”や、ディスコ・フロア特有の劇場効果を考えた「じらし系」も、私は嫌いではありませんね。そもそも、LPアルバムや12インチのロングバージョンでは、DJが連続してかける前曲の中間奏やアウトロ(エンディング)と、次の曲のイントロとの穏やかなる調和を重視する関係上、むしろこっちのタイプの方が主流なのです。
80年前後の時期に限ってみても、例えば“楽器じらし型”のMadleen Kaneの 'Forbidden Love'、Queen Samantha 'Close Your Eyes'、Lamont Dozierの 'Going To My Roots'、“ボーカルじらし型”ではMagic Fly 'Deliverance'、Claudja Barry & Ronnie Jones 'Two Of Us'、そしてご存知Donna Summerの'On The Radio' 'Last Dance'、'MacAthur Park'、とどめの一発'Enough Is Enough'といった具合で、これまたドラマチックで“踊らされる”わけです。
しかし、もう最初っから真っ向勝負、威風堂々「これでどうだ!!」という男気ファンタイムな曲というのは、とりわけ深夜の終電時刻が近づくピークタイムのフロアでは効果抜群です。上記ドナサマーで言えば「ホット・スタッフ」なんかもそうですね。ユーロディスコ界の“不動明王”アバも「ダンシングクイーン」とか「サマーナイト・シティ」など、けっこうこの種類が多い。
曲の頭から「カットイン」で前曲と繋げられる(というかそれしかほとんどありえない)ので、DJもかけやすい面があるし、客もすぐにドッカン、ドッカンとノリノりですしね(よほどハズさなければ)。私も昔、パーティーなんかでDJをやったときには重宝しました。「カットイン」は技術的には比較的楽ですから(笑)。要は、フロアの空気に応じて、「ガツン系」「じらし系」を使い分けるというのが常道でありましょう。
さて、ピーチェス&ハーブですが、この人たちはとにもかくにも「ハーブ」が主軸です。それもそのはず、60年代後半の結成時から現在(これまた息の長いこと!)までの間、男「ハーブ」のハーブ・フェーム(Herb Fame)は不変なのに、女のニックネームのピーチェスの方はなんと6人もいるんですから!
このデュオは、以前に紹介した仲睦まじい夫婦ディスコ系デュオ「アシュフォード&シンプソン」とか、ダカーポとかチェリッシュなどと違って、夫婦や恋人などではありません。仕事だけの関係の「単なる男と女のドライなデュオ」だという点が、そのような「入れ替わり立ち代り」になった原因なのでしょうか。
いや、実際は男と女の“ウエットな関係”が背景にあって、だからこそ交代劇が重なったのかもしれません。真相は知りませんが。まあ、夫婦デュオ、夫婦グループであっても、離婚すると今度は逆にキツイですしね(例:ABBA、ルクプル)。
いずれにしても、ピーチェス&ハーブは、初代ピーチェスのフランシーヌ・ベイカー(Francine Baker)時代に「United(一緒)」(68年、R&Bチャート11位)という中ヒットを放ち、三代目のリンダ・グリーン(Linda Greene)とのデュオで「Reunited(また一緒)」を大ヒットさせているのです。
特に80年前後、リユナイテッド、ファンタイムのほかに、シェイク・ユア・グルーブ・シング(78年、ディスコ2位)、ローラーディスコの代表格ローラー・スケーティング・メイト(79年、同18位)といった軽快ディスコを矢継ぎ早にリリースしたわけですが、この全盛期の女性パートは、ほぼすべてリンダが担当しています。
「不変のハーブ」も、かなり変わった経歴です。60年代後半、地元ワシントンDCでレコード店の店員をやっているとき、ディスコプロデューサーとして有名なヴァン・マッコイに見出されてデビューを果たしたというのに、初代デュオでようやく売れ始めた70年に突然引退し、いったん警察官になりました(理由不明)。76年に音楽業界に復帰し、三代目ピーチェス、つまりリンダとのデュオでヒットを連発した後、落ち目になった80年代半ばに再び公務員の「法廷警備官」になりました(これも経緯不明)。リンダもこのころ、デュオを離れて、夫とともに独自の音楽活動を始めました。
その後、ハーブの方は90年に、またもや四代目となるピーチェスを見つけて復帰。さらに五代目、初の白人歌手を起用しての六代目へと変遷し、往年のような名声とは程遠いものの、現役デュオとして現在に至っています。この間の2001年には、「ディスコ時代の印税が払われていない」などとして、三代目のリンダと一緒に弁護士を雇い(ある意味Reunited)、かつてのレコード会社を訴えて勝訴し、巨額の印税等を得ています。
世界のディスコフリークを魅了した能天気軽快ディスコとは裏腹に、実体はなかなか波乱万丈な「のっけからドン!」のピーチェス・アンド・ハーブ。でも、私はとにかく好きですねえ。例えば、前述した「アシュフォード・アンド・シンプソン」のエレガントディスコ路線よりも素直なドンドコディスコですし、私の好きな初期シンセサイザー音もうまく絡まってます。……かといって軽過ぎず、バラードも上質で、ソウル・ファンクの要素が十分詰まってますしね。
CDの方は……残念。ほとんどベスト盤しかありません。ファンタイムが入ったアルバム「Worth the Wait」が昨年、日本で発売されましたがすぐに廃盤。海外ではReunitedが入った最大ヒットアルバム「2 Hot」が発売されましたが、これもレア化しつつあります。ベスト盤については、上写真の「The Best Of Peaches & Herb」がまずは網羅的でよいと思います。
もう一つ、海外Psm Records盤のベストCD「At Their Best」(下写真)も悪くない。というのは、前記「The Best Of Peaches & Herb」には入っていない「I Want Us Back Together」という超アゲアゲの名曲が4分バージョンとはいえ収録されているのです。文字通り、男女かけあいのボーカルバランスが非の打ちどころなし(断定)。6分超のロングバージョンが入ったアルバム「Twice The Fire」(79年)のCD化がされていない中、このベストは価格も安く入手も比較的容易で、貴重なI Want Us Back Together収録CDとなっております。

2009年11月12日
サード・ワールド (Third World)
レゲエディスコの最後を飾るのは、サード・ワールドです。「Try Jah Love(邦題:ラブ・アイランド)」がなんといっても代表曲で、“熱帯海洋性ディスコ”でもあるだけに、日本ではサーファーディスコの定番でもありました。この人たちの歴史は古く、1973年、同じく老舗レゲエバンドのインナーサークルのメンバーらによって結成しました。70年代は保守本流のルーツ・レゲエを中心にした曲調だったのですが、78年に発表したアルバム「Journey To Addis」の中の「Now That We've Found Love」が米R&Bチャート9位に入ったあたりから、ポップ&ファンク&ディスコ志向が一気に強まりました。
「Noww That…」は、ソウルディスコ「I Love Music」、「Love Train」などでお馴染みのオージェイズがオリジナル。サード・ワールドがスローのディスコレゲエ風にリメイクして、新たな光が当てられたわけです。さらに91年には、Heavy D. & The Boysがハードハウス&ラップ風味で豪快にリメイクし、米ディスコチャートで2位まで上昇したので、ちょっとしたダンスクラシックになりました。
さて、サードワールドの曲調は、クロスオーバー音楽全盛期の80年代に入り、ますますレゲエとは違う意味で軽〜くなっていきます。厚顔無恥な邦題「ラブ・アイランド」(愛の島)が入った82年発表のアルバム「You've Got The Power」では、一つのディスコ的頂点を迎えました。
例えば、「ダンシング・オン・ザ・フロア(Dancing On The Floor)」(81年)、「ラゴス・ジャンプ(Lagos Jump)」(83年)とか、「センス・オブ・パーパス(Sense Of Purpose)」(85年、ディスコ45位)、「ワン・モワ・タイム(One More Time)」(同、同8位)などのシングルを発表して大衆路線をひた走り、本格派レゲエの復活を期待する古くからのファンの不平不満を尻目に、「ノー天気オッケー」のディスコフリークたちを大いに喜ばせたものでした。
私自身、サードワールドの曲はいろいろとフロアで耳にしましたが、やはりラブ・アイランドの印象は抜群です。プロデュースはかのスティービー・ワンダー(これまたクロスオーバーな!)。リードボーカルのウィリアム・クラークの声も、この曲ではひと際“伸び”があって好ましい状況です。
ただ、いざこの曲がかかると、ピアノで始まるイントロはものすごくインパクトがあって期待させるにしても、意外とビート展開が単調でノリにくい面があり、間奏や後半部分にはダラダラ感がありました。その意味でも典型的レゲエディスコといえましょうか。
80年代後半からは一気に失速した彼らですけど、ディスコ/クラブの点から言えば、94年にリリースした「トーク・トゥ・ミー(Talk To Me)」(米ディスコ19位)は、わりあいファンキーな佳曲だと思います。
写真のCDは件の「You've Got The Power」で、ジャケットもやけに能天気。ですが、この人たちの再発モノの中古CDはどれも、最近のタイミングでは妙にレア化しています。10年ぐらい前は、ワゴンセールでしょっちゅう見つけたほどなのに……。CDで持っていないアルバムもあるのですが、異常に高いので今は買わないことにしています。
2009年11月01日
ジミー・クリフ (Jimmy Cliff)
さて、ず〜っと前にお約束のレゲエ特集第二弾は、ジミー・クリフで〜す! 「ディスコじゃないじゃん!」と思われる可能性大ですが、特に80年代には、クロスオーバーなディスコ的要素たっぷりのアルバムをいくつか出しているのです。私も当時はよく聞いておりました。ジミーさんは1948年ジャマイカ生まれの生粋のレゲエ人。少年時代から音楽好きで、自分で曲をときどき作ったり、タレント発掘ショーに出演したりしていたのですが、デビューの機会はなかなか得られませんでした。
ところがある日、自宅のあるジャマイカの首都キングストンの街中を歩いていて、中国人が経営する閉店間際のパブを見つけます。「ここでちょっと歌ってみようかな」とジャマイカ人らしくとっさに思い立ち、飛び込みで持ち歌を披露したところ、居合わせた中国系の著名なレゲエ音楽プロデューサーであるレスリー・コングが「こりゃイケる」とデビューを持ちかけたのです。当時はまだ10代前半でしたが、これ以降、本国を中心に人気を高めていったわけです。
60年代半ば、ジミーさんはイギリスに移住。ボブ・マーリーとも関係が深いアイランド・レーベルと契約し、レコードをリリースするようになりました。それでも、まだ大スターになるまでにはいきませんでした。
本当にスターダムにのし上がったのは、ジャマイカを舞台にした1972年公開の“伝説のレゲエ映画”と呼ばれる「The Harder They Come」が大ヒットしたことがきっかけです。ジミーさんはこの映画の主役に抜擢されるとともに、自ら歌った映画と同名の主題歌も大ヒットしました。
このあたりから、歌手に加えて俳優としての人気が不動のものとなったのでした。今も俳優稼業は続けており、自身のホームページで「俳優として演じることは歌うことより好きだ」と語っているほどです。
このThe Harder They Comeは、貧しさから逃れようと大スターへの夢を追い続けた若きレゲエシンガーが、やがて薬物売買や暴力犯罪に手を染め、最後に壮絶な死を遂げるまでを描いた作品。主題歌は「the harder they come, the harder they'll fall.(苦労して手にいれたものは、簡単には失われない)」という皮肉にも聞こえるサビの部分が印象的です。
この曲は、実は前回のエディ・グラントのときにも触れたロッカーズ・リベンジ(Rocker's Revenge)が、83年にディスコリメイクを出しています。これがまたローランドTR-808を基調としたシンセサイザー音が小気味良く、ダンサブルかつドラマチックな出来栄えとなっております。
ジミーさんは80年代に入り、ディスコの雰囲気を醸すアルバムをいくつか発表します。中でも、待ったり系のダンクラ定番としても有名な「レゲエ・ナイト」などが入った「ザ・パワー・アンド・ザ・グローリー(The Power And The Glory)」(83年、写真)と、浜辺ではしゃぐジミーさんのダンス姿が印象的なプロモーションビデオの「Hot Shot」などが収録された「クリフ・ハンガー(Cliff Hanger)」(85年)が珠玉ですね。いずれもCD化がされており、入手も比較的容易です。
レゲエとディスコ・ビートの融合という意味では、エディ・グラントが音使いなどにやや実験的な要素を含んでいるのに対し、ジミー・クリフの方は素直に「ディスコのビートにレゲエのメロディーをかみ合わせた」といった印象があり、それに80年代ロックの要素を少々加えた感じです。
つまり、本来は個性の強烈なレゲエを基本としながらも、かなり聞きやすくて大衆受けしそうな音なのですね。バカ売れはしませんでしたけど、それでも、レゲエの大御所にもこうした時期があったことは、ディスコ史的には大変な結構なことでございました。
ちなみに、ジミーさんの活躍は90年代に入っても続き、ジャマイカ人ボブスレー選手を題材にした映画「Cool Runnings」の挿入歌にもなったお馴染みの「I Can't See Clearly Now」などが、ヒットを記録しております。
それでは、次回もなんと!……レゲエと参ります。
2009年10月15日
エディ・グラント (Eddy Grant)
ロックものに少し飽きたので、今宵はレゲエ・ディスコのエディ・グラントと参りましょう。レゲエといえば、私などは夏の海をイメージするわけですが、日々冷気が強まる今のような季節に聴くのもまた一興。ズンチャ♪、ズンチャ♪ってな具合でちょいと気の抜けたビートに身をゆだねれば、能天気にうまく世の中を渡りきれる錯覚に陥ることでしょう。
レゲエといえばまずはボブ・マーリーですけど、彼のラストアルバムからのシングルカット「Could You Be Loved」(80年、米ディスコチャート49位)が少しディスコで受けた程度で、あとはまさに「もろレゲエの帝王」状態なので除外です。
でも、80年前後には、その周辺からいくつかディスコっぽいのが登場しました。代表例がエディさんだというわけです。
この人は南米ガイアナの出身で後にイギリスに移住。もともとイギリスの人種混成グループ「The Equals」の中心メンバーとして活躍していたのですが、77年のソロアルバム「Walking On Sunshine」で鮮烈ディスコデビューを果たし、中でも表題曲がフロアの定番となりました。
「Walking…」は82年、売れっ子ディスコプロデューサー&リミキサーのアーサー・ベーカー肝いりのグループ「Rockers Revenge(ロッカーズ・リベンジ)」がリメイクして大ヒット(米ディスコチャート1位)させています。
さらに、78年に12インチシングルとして発売された「Nobody's Got Time」も70年代のエディさんを象徴するディスコ曲です。90年代のハウスミュージックを思わせるミニマルなインストバージョン「Time Warp」も、世界中のディスコで大人気となりました。
「Walking…」と「Time Warp」は、当時のアメリカを代表するニューヨークのディスコ「パラダイス・ガラージ」で、カリスマDJのラリー・レヴァンが盛んにプレイ。後に「ガラージ・クラシック」と呼ばれる2曲となりました。精紳を解放する“脱力音楽”を持ち味とするため、熱いフロアでは逆に今ひとつ盛り上がらなかったレゲエに対し、しっかりとステップを踏めるようにビートをはめ込んだ点が、フロア受けした要因でした。
エディさんはその後、82年に発売したアルバム「Killer On The Rampage」で頂点に達します。レゲエでは珍しかったうねうねシンセサイザー音を取り入れたシングルカット曲「Electric Avenue(エレクトリック・アベニュー)」が、全米一般チャート2位、ディスコチャート6位まで上昇し、レゲエ系トップミュージシャンとしての地位を不動のものとしました。
エレクトリック・アベニューの特徴は、なんといっても「シンセサイザーをいじりながら即興で作った」と本人が認めるほどの、レゲエらしいイイ加減かつ斬新な曲調にあります。シンセ音も昔ですからチープですし、決してノリが良いとはいえないけれど、私も初めてディスコで聞いたときには、「次はどんなうにょうにょ効果音が入ってくるのだろう」などと期待しつつ、ディープでドープな幻惑の音楽に少々頭がクラクラしてしまいました。
その後、エディさんは同じアルバム「Killer…」からもっともろレゲエの「I Don't Wanna Dance(アイ・ドント・ワナ・ダンス=もう踊りたくねえ〜)」のディスコ用12インチシングルを出し、さらには大方の意表を突き、いきなりの陽気アップテンポでこっちも面食らった「Romancing The Stone(ロマンシング・ザ・ストーン)」(84年、ディスコチャート12位)といったダンス曲を発表。あとは人気も下火となり、文字通り海のもずく、否、もくずとなってしまったのですが、「レゲエってディスコでも案外いいじゃん」と最初に思わせた立役者であることは間違いありません。
彼のアルバムは近年、けっこうCDで再発されております。写真の代表作「Killer On The Rampage」も、昨年、「エレクトリック…」などの12インチバージョンが収録されたDVD付き豪華欧州盤(デラックス・エディション)が発売されています。
次回もレゲエと参ります。
2009年10月04日
ブロンディ (Blondie)
「悲しくて、やがて楽しきディスコかな」――というわけで、アメリカ・ニューヨーク発のグループ「ブロンディ」が、ロック系ディスコの名曲「コール・ミー」(1980年、米ビルボード一般チャート1位)を大ヒットさせたのは80年のこと。アメリカで「Disco Sucks!」(世に言う「ダサいぞディスコの乱」)が勃発し、ディスコが事実上の死の宣告を受けた翌年でした。コール・ミーはヒット映画「アメリカン・ジゴロ」のサントラ収録曲。サントラのプロデュースは、かの“電子ディスコの神”ジョルジオ・モロダーが担当しております。
ブロンディは、往年の名女優フェイ・ダナウェイを思わせる“妖しげセクスィー”の金髪ボーカル、デビー・ハリーがなんといっても主役です。結成は70年代半ばで、もともとはパンク・ロック音楽を志向しておりました。
しかし、まったく売れることはなく、音楽でメッセージや思想を発信する「パンク魂」にも嫌気が差してきました。45年生まれのデビーは、60年代半ばから歌手活動を続けてきて、このとき既に30代も半ばにさしかかろうとしていました。
焦りもあったのでしょう、彼女たちは「素直に楽しく踊れるポップな曲を作ろう(素直に売れたい!)」と思い立ち、イメージチェンジを図ったところ、うまい具合に大成功を収めたのでした。
つまり、前回紹介したアディクツやキュアーやクラッシュやンニュー・オーダーなど英国勢と同様、パンクに源流がありつつも、「宿敵ディスコにちゃっかり便乗組」だったでのあります。言い換えれば、ディスコが本当には死んでいなかったからこそ、転身ブロンディの成功が現実になったのであります。
70年代半ばから後半にかけて、英国を中心に隆盛を極めたパンク音楽。しかし、アメリカでもラモーンズなどのパンクバンドがしっかり根をおろしていました。特に人種の坩堝(るつば)ニューヨークは、なかなかの「アメリカン・パンク」のメッカとして君臨していたのであります。その末端に、デビー・ハリーたちも加わっていたのです。
実は、この人たちのディスコ化、ニューウェーブ(ポストパンク)化は、コール・ミーよりも2年前の78年に発表したアルバム「Parallel Lines」の「ハート・オブ・グラス」が原点です。この曲は、米ディスコチャートでは意外にも最高58位と振るわなかったのですが、どこかノンジャンルな曲自体の完成度の高さ、デビーの“インパクト強烈”なキャラクター、それに珍しいアメリカ発ニューウェーブであったことも手伝って、一般チャートではなんと1位に輝いております。
さらに80年発表の「AutoAmerican」からは、鐘の音とラップを取り入れて斬新だった「ラプチュアー」と、レゲエな雰囲気横溢の「夢見るNo.1(Tide Is High)」が、2曲カップリングで米ディスコチャート1位を獲得しています。ほかにも、「Denis」(77年)、「Sunday Girl」(78年)、「アトミック」(79年)などもディスコ系の人気曲でした。
一般チャートでの躍進はとにかく目ざましく、ハート・オブ・グラス以降、「コール・ミー」、「夢見るNo.1」、「ラプチュアー」と、79〜81年のたった3年の間に4曲もが1位になったのでした。各曲とも、アメリカだけでなく、欧州や豪州でも大ヒットしました。
センセーションを巻き起こしたブロンディですが、デビーたちは、「売れるコンセプトでやれ!」などと何かと口を出してくるレコード会社に対し、またぞろ嫌気が差してきました。82年に出した6枚目のアルバム「The Hunter」を最後に、あっさりと解散してしまったのです。
その後、デビーはソロ活動に専念して、“ドラッグディスコ”の「Rush Rush」(83年、ディスコチャート28位)や、確信犯的ユーロビート風味の佳曲「In Love With Love」(87年、同1位)などのディスコヒットを出し、まずまずの活躍ぶりでした。私自身、ブロンディ時代、ソロ時代ともども、彼女の曲はディスコのフロアでよく耳にしたものです。とりわけ、少し鼻にかかったような、あまり比類がない特徴的な声に魅力を感じます。
若いころはドラッグに走るなどの苦悩の時期を経ており、遅咲きの苦労人でもあったデビーは後に、ブロンディ時代を振り返って、「私たちは、人々の頭の中に既にある普遍的無意識に訴える音楽を作るように、懸命に努力した。ビートルズもそれで成功したのよ。それはクラシック音楽にも言えることね」(CD「Atomic/Atomix, The Very Best Of Blondie」ライナーノーツより)と述懐しています。
バンドというのは、伝統的な音に向かえば向かうほど、大衆に受け入れられるものだというのです。なかなか説得力がある言葉だとは思います。その「受け入れられる音楽要素」こそ、ブロンディの場合は「ディスコ」だったといえるのかもしれません。
上写真はハート・オブ・グラス収録の「Parallel Lines」。ブロンディは近年、高音質デジタルリマスターによる再発CD化が進んでおり、入手もかなり容易です。
2009年09月17日
アディクツ (Adicts)
今回はロック系といってもイギリスはパンクロック。なぜか札幌の一部ディスコだけで爆発的人気だった英国のバンド「Adicts(アディクツ)」の「Tokyo」(1984年)です。一部ディスコとは言っても、私は市内最大の店「釈迦曼陀羅」の巨大フロアでしか聞きませんでした。しかもこのTokyo一曲のみ。とっても非メジャーですが、もうとにかく人気の曲で、「ひとたびかかれば、フロアはいつも満員御礼」だったと記憶しています。まあ、タイトルが日本的だとはいっても、歌詞は単に「東京のセクシー女に会ってみてえ!」と連呼するだけのトホホな内容ですが。
アディクツは1970年代半ばに活動を開始したバンド。大ブームになったパンクの台頭とともに、EMIやフィリップスのようなメジャーレーベルの対抗軸として注目を浴び始めた、いわゆる「インディペンデント(インディー)・レーベル」で活躍していた人々でした。
パンクは、長期労働党政権の弊害として、70年代半ばに英国を襲った経済悪化(「英国病」と呼ばれる)により若者の失業者が急増する中で登場しました。過激な歌詞や曲調を売り物とし、いわばやり場のない怒りや不満をぶちまける“反逆の象徴”でした。もちろん、そんな男らしい硬派音楽ですから、「ディスコなんて女々しいぜ」と目の敵でした。
ところが、80年代に入ると、保守党のサッチャー政権となって経済はいちおう回復基調に。英国インディー系アーチストたちは「ポスト・パンク」を模索します。それまでの過激路線の反動として、どこか内向的で抑制的でありつつも、新参者楽器シンセサイザーをふんだんに取り入れたダンサブルな曲が目立つようになります。
かつてのパンク系グループの一部は、ニュー・オーダー(旧ジョイ・ディビジョン)やキュアーのように、時にやや暗いながらも、柔らかめのダンス・ポップ路線で成功を収めました。こうした動きの中から、バカ明るい(軽い?)デュランデュランやカジャグーグーのようなニューウェーブ路線も定着していったわけです。
かつて紹介したパンクの帝王クラッシュでさえ、ちょいとポップでディスコな曲を発表し、なんとビルボード一般チャート上位(「ロック・ザ・カスバ」が82年に8位、ついでにディスコチャートでも8位)にまで進出しています。
アディクツもそんな感じで、80年代に入ると純粋パンクから路線転向を図ったクチでした。メジャーレーベルからも「うちからレコードを出さないか」と声がかかり、大衆受けが求められる中で、かつては「宿敵」だったディスコにも使えそうな「Tokyo」の12インチ盤を制作したわけです(セールスは今ひとつだったが)。ちなみに、この12インチのアーチスト名の表記は、「Adicts」がドラッグ中毒者「Addicts」を連想させるとして、メディア放送向けに「ADX」となっています。
ただ、彼らの現在の公式HPでは、「Tokyoは骨がなくて最悪のレコードだった」などと評していますから、どこか踏ん切りがつかなかったのでしょうね。それでも、現在もデビュー当時と同じメンバーで活躍とのことですから、息の長さはたいしたものです。
札幌「釈迦曼陀羅」で当時、このTokyoと人気を二分していたインディー・パンクロック系としては「Stop」というのもありました。アーチスト名は「ツァイトガイスト(Zeitgeist)」というドイツ語ですので、旧西ドイツのグループかと思われます。
こちらの方は、手元の資料にもネット上にもほとんど記載事項が見つかりませんから、無名のまま埋もれていった極めてレアな「超ローカル・カルトディスコ」となりますね。でも、非常にテンポ軽快で踊らされる曲でして、私はこっちの方が好きでした。
人気ディスコ曲というのは、ある程度は全世界で共通するものですが、ご当地のDJが秘かに気に入ってかけていた名もなきローカルヒットが当然たくさんありました。日本でも全国でローカル・ヒットがあったのだと思います。
ほかにも、ディスコで人気だったパンクロック系アーチストとしては、「ネリー・ザ・エレファント(Nellie The Elephant)」などの超変テコな曲で知られるトイ・ドールズとか、超変テコな名前の「シグ・シグ・スプートニク(Sigue Sigue Sputnik)」とか、これまた奇妙な「Death Disco」や「This Is Not A Love Song」などの曲で知られるパブリック・イメージとか、いろいろいました。
ただし、いずれも今、こうしたエキセントリックな曲を聞いて踊るのはキツすぎます。否、聴くだけでも満腹感が襲ってきますね。年のせいでもあるのでしょうが。
上写真は、「Tokyo」が収録されたアディクツのアルバム「Smart Alex」の再発CD。現在でもけっこう根強い人気があるのか、国内でも入手はとても容易です。
2009年09月07日
ヴァン・ヘイレン (Van Halen)
ロックがディスコでかかったことについては前回投稿でも述べました。しかし、ヘビメタやハードロックはさすがにご勘弁を……という意味では、ヴァン・ヘイレンは特別でした。確かにキッスの「ラビニューベイベー」(79年、ディスコチャート37位)という例はありました。でも、あれはもうほぼ純粋どんどこディスコな曲でしたから除外。ジャーニーとかELOとかフォリナーとかヒューイルイスとか、“中高生向け産業ロック”っぽいのも数多くかかったけど、これも本格的なハードさにかけるので除外。その意味では、84年発売の彼らのアルバム「1984」(上写真)からのシングル「Jump(ジャンプ)」(米一般チャート1位、ディスコチャート17位)こそ、本命ロックが世界のディスコフロアを賑わせた代表的な曲だと考えられます。
日本でも大人気で、サビの「ジャンプ!!」の部分では、フロアで皆一緒に飛び上がったりした日々……。でも、なんといっても、グループの中心人物でリードギタリストのエディ・ヴァンヘイレンによる伝説の速弾きがディスコで聞ける面白さが、際立っていたわけです(時間は短いが)。
こうしたエディ氏のディスコ化、ポップ化、大衆化は既に2年前の1982年、マイケル・ジャクソンのあの「今夜はビート・イット」で実現されておりました。マイケルとプロデューサーのクインシー・ジョーンズは「たまにはロックっぽいのをやろう」とビート・イットを制作し、ヴァンヘイレンの例の超速ギターソロを後から挿入したのでした。ヴァン・ヘイレインは二つ返事でOKし、なんとノーギャラで参加したのです。
マイケル、ヴァンヘイレンの両サイドともに、ジャンルを越えて幅広いリスナー層に売り込みたいとの欲求があったということでしょう。否、70年代から「R&B」と「ハードロック」の分野の第一線で活躍してきた両者だけに、互いにどこか閉塞感があったとみることもできます。結果として、このコラボは絶妙な調和を生み出し、ポップス史に残る名作として位置づけられることになったのでした。
個人的には、「ディスコフロアとエレキの相性はいまいち」と今も昔も考えております。あくまでもリズム&ビートが中核となるディスコですから、エレキがあまりキンキンに前面に出過ぎるとうるさい感じ。でもまあ、ジャンプについては、まずはドラム進行が四つ打ちのディスコな雰囲気が満載ですし、キーボード/シンセサイザーも負けずにウィンウィン鳴ってますし、ボーカルの“お馴染みひょうきん者”デヴィッド・リーロスも素直な歌いっぷりですから、もうハードロックさは後退しているわけですがね。
一方でビート・イットの方は、ちょっと過剰なハードロック感がにじみ出ており、いくぶんエレキが耳障りだと思いました。バカ売れしたのでディスコでも頻繁にかかっていましたけど、あまり私自身は欣喜雀躍しなかった記憶があります。自宅で聞くのは今だってオッケーですけどね。
ビート・イット、ジャンプに限らず、ローリング・ストーンズ「Undercover Of The Night」(83年、ディスコ9位)とか、ボン・ジョヴィ「リヴィン・オン・ア・プレイヤー」(86年、一般1位)とか、ヨーロッパ「ファイナル・カウントダウン」(87年、同8位)とか、それに驚きの「ヒップホップ+ハードロック」をやってのけたRUN-D.M.C.「ウォーク・ディス・ウェイ」(86年、ディスコ6位)とか、ロック風でありながら、フロア・フレンドリーな曲はこのころたくさんありました。
ポップヒットはディスコヒットでもあり、「巷で売れてるからかけてます」という感じ。でも、お客にとっては、よく知っている曲がフロアでかかると狂喜乱舞です。マニアは別として、普通の人はディスコチャートの動きなど注目していませんから、一般のヒット曲をディスコで聞いて踊るのは楽しみでもあったのです。「ディスコ(ダンスミュージック)」の範疇に入らなくても、「ダンサブル(踊れる)」な曲は多かったのです。
ことほどさように自由奔放でクロスオーバーな80年代。しかし、その数年後の90年前後を境として、世界は政情不安を背景とした時代閉塞感に再び苛まれました。アメリカは湾岸戦争、イギリスはサッチャー首相退陣、東欧ではベルリンの壁&ソ連崩壊、中国では天安門事件、そして日本ではバブル崩壊です。
音楽界もしかり。ダンス界では、新世代のデジタルシンセサイザーに代表されるハイパーな電子化とあいまって、“ジャンルの壁”乱立状態。ハウスだテクノだトランスだドラム&ベースだと猛烈に多様化が進み、なんだかリアルな世紀末の様相を呈してきます。曲調も全体的にメロディーが消失して単調となり、どこかサイケでアシッドでシュールでキッチュで(?)、ドナサマーやらヴィレッジピープルやらアバやらボニーMやらが打ち立てた伝統の“無防備な親しみやすさ”が薄れました。「開放的ディスコ」は「閉鎖的クラブ」に駆逐されたのです。
クロスオーバー時代の真っ只中、フロアのど真ん中に咲いたお気楽「ジャンプ!」も、今思えば、やがて反動としてやってくる「ジャンル細分化バラバラ事件」の不気味な序曲に過ぎなかったのかもしれません。
2009年08月28日
ゴールデン・イヤリング (Golden Earring) 〜地味系ロックディスコたち
残暑厳しい折、今回は唐突にロック系ディスコをいくつか。……といってもかなり地味〜でして、でも当時、「こんなのがディスコで聞ければいいなあ」などとひそかに流行るのを期待していた(でも流行らなかった)曲たちです。
まず1曲目は、Flash And The Pan (フラッシュ・アンド・ザ・パン)というオーストラリアのポップ・ロックデュオの「Hey St. Peter(ヘイ・セイント・ピーター)」(77年)です。高校時代に聴いていたNHK-FMの深夜音楽番組「クロスオーバー・イレブン」でやたらとかかっていて、なぜかじわりと気に入ってしまった代物であります(Youtube動画↓)。
77年といえば「サタデーナイト・フィーバー」の影響でディスコブームが到来したばかりのころでした。チャートアクション的には、全米一般チャートで最高76位とふるわず。日本を含めてディスコでもほとんど無視でしたが、コーラスの「ヘイ!ヘイ!」なんてのはベタにノリがよく、中間奏の迫力のピアノもストリングスも鬼気迫る過剰さで身体を揺さぶります。フィルターがかったボーカルは、後のバグルズのヒット曲「ラジオスターの悲劇」(80年)を思い出させますね。
実は、この人たちは80年代に入ってから、「Media Man」(80年、米ディスコチャート82位)、「Waiting for a Train」(83年、英国チャート7位)、「Midnight Man」(85年、米ディスコチャート19位)などのダンス系ヒットを出しています。しかし、私はフラッシュ・アンド・パンといえばもう真っ先に思い出すのが「ヘイ!ピーター!」なのでした。
お次も同じくオーストラリアの正統派ロックバンド「Dragon(ドラゴン)」であります。本国ではそこそこ人気があったものの、世界大衆音楽史的には「Rain(レイン)」(84年、米ディスコ43位、米一般チャート88位)程度のプチ一発屋です。
ところが、このレインは非常にダンサブルでして、驚くほどに「シンプル・イズ・ベスト」な一品。ドラムビートの刻み方が「さあ踊れや踊れ」といわんばかりにソリッドかつ鋭角的である上に、コード進行やメロディーが奇をてらわずとても素直で、かの“真の一発屋”ロマンティックスの「トーキング・イン・ユア・スリープ」を彷彿とさせます。「さわやか哀愁ロックでダンシング!」てな気分になることウケアイです。
さて、しんがりを務めますは今回のイチ押し、ご存知「Golden Earring (ゴールデン・イヤリング)」で〜す
!……えっ?知らない?……なんとまあ、こんな素晴らしい人々をないがしろにするとはもったいないことでございまする。
というのは冗談です。これまた実際地味な人たちでして、本国オランダでは絶大な人気を誇るのですが、ほかの国での知名度はいまいち……。けれども、82年に全米一般チャート10位まで上昇した「Twilight Zone (トワイライト・ゾーン)」は珠玉のダンサブルロックだと思っております(ディスコチャートには入らなかったが、しかもディスコフロアでも一度も聞かなかったが)。
この曲も上記フラッシュパン、ドラゴンと同様、律儀なベース&ドラム展開といい、2人の男性がうまく掛け合うボーカルといい、「おうお〜!!」というややトホホな掛け声といい、「男ロックだぜ魂」でストレートに身体にしみこんでくるタイプ。でも、旋律はなかなか切なくて泣かせる感じもある。フロアでかかったら、そこそこ人気が出たはずだったのではないでしょうか、と個人的には思います。
この人たちのデビューはなんと1965年で、2003年ごろにもニューアルバムを出しているという大ベテランです。まあ、ほぼ一発屋ですけど、私はこの一曲のためだけに再発アルバムCD「Cut」(下右写真)を購入したのでした。上掲Youtubeではライブ映像しかなかったのですが、このアルバムのスタジオ録音バージョンはずっと重量感があって、しかも8分近くある長モノです。
思えば、とりわけ80年代はロック系ディスコが花盛り。ほかにも、私がフロアで聞いたことがあるアーチスト名と曲名だけでも挙げておきますと……グレッグ・キーン・バンド(「ジェパディー」ほか)、スティーブ・ミラー・バンド(「アブラカタブラ」)、Jガイルズ・バンド(「堕ちた天使」ほか)、プリテンダーズ(「チェイン・ギャング」ほか)、ナック(「マイ・シャローナ」だけ)、ビリー・アイドル(「ホワイト・ウェディング」ほか)、ジョン・ウエイト(「ミッシング・ユー」)、スティックス(「ミスター・ロボット」だけ)、フォリナー(「アージェント」)、ミッドナイト・オイル(「パワー・アンド・パッション」)、メン・アット・ワーク(「ノックは夜中に」ほか)、スレイド(「ラン・ラナウェイ」)、ZZトップ(「レッグス」)、ロッド・スチュアート(「ベイビー・ジェーン」)、フランク・スタローン(「ファーフロム・オーバー」)、スターシップ(「ウイ・ビルト・シティー」)などなど。
いやあ、国もスタイルもさまざまで、個性が際立つ人々ばかりです。90年代以降にジャンルや客層が細分化する前の、華々しくも、やがて哀しき“ごった煮フロア全盛期”を実感いたします。

まず1曲目は、Flash And The Pan (フラッシュ・アンド・ザ・パン)というオーストラリアのポップ・ロックデュオの「Hey St. Peter(ヘイ・セイント・ピーター)」(77年)です。高校時代に聴いていたNHK-FMの深夜音楽番組「クロスオーバー・イレブン」でやたらとかかっていて、なぜかじわりと気に入ってしまった代物であります(Youtube動画↓)。
77年といえば「サタデーナイト・フィーバー」の影響でディスコブームが到来したばかりのころでした。チャートアクション的には、全米一般チャートで最高76位とふるわず。日本を含めてディスコでもほとんど無視でしたが、コーラスの「ヘイ!ヘイ!」なんてのはベタにノリがよく、中間奏の迫力のピアノもストリングスも鬼気迫る過剰さで身体を揺さぶります。フィルターがかったボーカルは、後のバグルズのヒット曲「ラジオスターの悲劇」(80年)を思い出させますね。
実は、この人たちは80年代に入ってから、「Media Man」(80年、米ディスコチャート82位)、「Waiting for a Train」(83年、英国チャート7位)、「Midnight Man」(85年、米ディスコチャート19位)などのダンス系ヒットを出しています。しかし、私はフラッシュ・アンド・パンといえばもう真っ先に思い出すのが「ヘイ!ピーター!」なのでした。
お次も同じくオーストラリアの正統派ロックバンド「Dragon(ドラゴン)」であります。本国ではそこそこ人気があったものの、世界大衆音楽史的には「Rain(レイン)」(84年、米ディスコ43位、米一般チャート88位)程度のプチ一発屋です。
ところが、このレインは非常にダンサブルでして、驚くほどに「シンプル・イズ・ベスト」な一品。ドラムビートの刻み方が「さあ踊れや踊れ」といわんばかりにソリッドかつ鋭角的である上に、コード進行やメロディーが奇をてらわずとても素直で、かの“真の一発屋”ロマンティックスの「トーキング・イン・ユア・スリープ」を彷彿とさせます。「さわやか哀愁ロックでダンシング!」てな気分になることウケアイです。
さて、しんがりを務めますは今回のイチ押し、ご存知「Golden Earring (ゴールデン・イヤリング)」で〜す
!……えっ?知らない?……なんとまあ、こんな素晴らしい人々をないがしろにするとはもったいないことでございまする。というのは冗談です。これまた実際地味な人たちでして、本国オランダでは絶大な人気を誇るのですが、ほかの国での知名度はいまいち……。けれども、82年に全米一般チャート10位まで上昇した「Twilight Zone (トワイライト・ゾーン)」は珠玉のダンサブルロックだと思っております(ディスコチャートには入らなかったが、しかもディスコフロアでも一度も聞かなかったが)。
この曲も上記フラッシュパン、ドラゴンと同様、律儀なベース&ドラム展開といい、2人の男性がうまく掛け合うボーカルといい、「おうお〜!!」というややトホホな掛け声といい、「男ロックだぜ魂」でストレートに身体にしみこんでくるタイプ。でも、旋律はなかなか切なくて泣かせる感じもある。フロアでかかったら、そこそこ人気が出たはずだったのではないでしょうか、と個人的には思います。
この人たちのデビューはなんと1965年で、2003年ごろにもニューアルバムを出しているという大ベテランです。まあ、ほぼ一発屋ですけど、私はこの一曲のためだけに再発アルバムCD「Cut」(下右写真)を購入したのでした。上掲Youtubeではライブ映像しかなかったのですが、このアルバムのスタジオ録音バージョンはずっと重量感があって、しかも8分近くある長モノです。
思えば、とりわけ80年代はロック系ディスコが花盛り。ほかにも、私がフロアで聞いたことがあるアーチスト名と曲名だけでも挙げておきますと……グレッグ・キーン・バンド(「ジェパディー」ほか)、スティーブ・ミラー・バンド(「アブラカタブラ」)、Jガイルズ・バンド(「堕ちた天使」ほか)、プリテンダーズ(「チェイン・ギャング」ほか)、ナック(「マイ・シャローナ」だけ)、ビリー・アイドル(「ホワイト・ウェディング」ほか)、ジョン・ウエイト(「ミッシング・ユー」)、スティックス(「ミスター・ロボット」だけ)、フォリナー(「アージェント」)、ミッドナイト・オイル(「パワー・アンド・パッション」)、メン・アット・ワーク(「ノックは夜中に」ほか)、スレイド(「ラン・ラナウェイ」)、ZZトップ(「レッグス」)、ロッド・スチュアート(「ベイビー・ジェーン」)、フランク・スタローン(「ファーフロム・オーバー」)、スターシップ(「ウイ・ビルト・シティー」)などなど。
いやあ、国もスタイルもさまざまで、個性が際立つ人々ばかりです。90年代以降にジャンルや客層が細分化する前の、華々しくも、やがて哀しき“ごった煮フロア全盛期”を実感いたします。

2009年08月15日
ディスコ、ドラッグ、サイバー・ノリP (Disco, Drugs, Cyber Nori-P )
「サイバー・ノリPがバキバキ、キメキメDJプレイ!」ってな字幕や見出しが踊っています。テレビのニュースやワイドショーでは、薬物犯罪容疑者となった“ノリノリのりピー”の熱狂DJぶりを映し出すVTRが定番になってしまいました。起訴、不起訴、公判、判決、芸能界復帰…などなど、呼称が「容疑者」から「被告」に変わろうと変わるまいと、これからも節目をにらみながらのネガティブな酒井法子報道は続いていくことでしょう。あの映像で流れているのは、「サイバー(電脳)」というぐらいですからまさに「恍惚」トランス系音楽でして、1980年代までのディスコをルーツとする今風のクラブを彷彿させるものであります。あの映像からは判断しかねますが、もしそんな超ノリノリ・ハイパー音楽にドラッグが乗っかったとすれば、もう怖いものなしの強烈な超越感が訪れることになります。
そういえば彼女は、サーファーでもあったわけで。その昔、死神のように襲ってくる大波の恐怖を「のり越える」ため、世界の若者サーファーがこぞってドラッグに手を出した経緯も思い出します。
でも、犯罪は犯罪。一線をホントに「越えて」しまったらバッキバキにアウト!です。ディスコ的な放蕩主義とフリーセックスの一つの結果として80年代に広がり始めたエイズ禍や、バブル絶頂期の日本のディスコブームに冷水を浴びせかけた1988年の「六本木トゥーリア死傷事故」同様にしゃれになりません。人間、ハメを外すのも楽しいひと時ですけど、世の中にはやはり常識があり、物事にはどうしても限度があるのです。
このブログで何度か触れたように、私の好きな戦前のアナキスト大杉栄の言葉「勝手に踊って、ひとりでに調和する」状態、さらには鎌倉仏教の“元祖DJ”一遍上人の「衆生往生を願う踊念仏で神々と戯れる」状態こそが、理想的アナキズムを体現した「解放と融合の象徴」であるディスコ(クラブ)の真骨頂です。境界の見極めは非常に難しいとはいえ、実際に事件・事故というおかしな不調和が起きてしまったらどうでしょう。一気に祝祭の集団熱狂も冷めてしまい、しらけてしまうだけですね。2001年の明石の花火大会事故は一例ですし、過激化した数年前の浅草・三社祭とか青森・ねぶた祭も危ういところでした。
……とは言っても、従来やはり踊り場とドラッグが隣り合わせだったことは確かでした。刹那的快楽の負の側面があった事実は否めません。ニューヨークに実在した有名ディスコ「54」(上写真=History of Gay Bars in New York Cityより=)を題材にした映画「54(フィフティーフォー)」に描かれているように、70年代半ばからのディスコブーム期には、とりわけアメリカで、マフィア絡みのドラッグ使用・売買の現場としてディスコが定着していました。
なんと一部の英和辞典にも載っている「プラトンの隠れ家」(Plato's Retreat。同名の名曲ディスコも存在。過去投稿参考)は当時、ニューヨークにある会員制ディスコ兼ドラッグ&セックスクラブとして有名でした。
このころに頻繁に使われたドラッグを意味する英語スラングには、DISCOの文字を使ったものがいくつもありました。中に「Disco Biscuit(ディスコ・ビスケット)」というのがあり、これは実は、のりピーと同時期に薬物犯罪容疑で逮捕された押尾学が使用したとされる「MDMA(合成麻薬)」を意味します。それに実際、ちょっと前に紹介した「ALL Night Thing」もそうだといわれていますが、ドラッグの陶酔感を歌詞と音で表現したディスコ曲自体が数多く存在したのです。
アメリカでは60年代半ばから差別撤廃運動が起こり、ベトナム戦争の長期化や超保守のニクソン大統領のウォーターゲートスキャンダル(1972年)などへの若者の反動として、ドラッグや反体制運動を含めたヒッピームーブメントが拡大していました。そんな自由崇拝の風潮の流れを受けて、いわば「ポストヒッピー!」の行く先として「ディスコ」があったわけです。
私がディスコに行き始めた80年前後の日本では、東京など大都会を除けば、まだドラッグ問題は「やくざマター」の範疇でした。私がいた札幌のディスコの周辺には、酒やタバコやケンカやシンナーといった「不良の真似事」をする連中はいましたが、さすがにドラッグの話はあまり聞きませんでした。
ただし、シンナーについては、けっこう常習者がいましたね。自身の体験でいえば、20歳ぐらいのころ、あるディスコの大会で年齢を詐称して「ディスコクイーン」(トホホ)になった16歳の無職少女と知り合ったことがあるのですけど、車に乗せてドライブ中、「アンパンやるわ」なんて言いながらいきなりビニール袋をバッグから取り出し、あどけない顔でシンナーを吸引し始めたときにはドン引きでした。
……でもまあ、そんな感じで、覚せい剤や麻薬や大麻については、ほぼ「超やばいヤクザ」の世界の話だったのに、次第に普通の人々の間に蔓延していったようで恐ろしい限りです。近年はディスコブーム期のアメリカと同じように、日本のクラブを始めとする盛り場周辺にも、ドラッグの影がちらつくようになってしまったのです。
再び私自身の経験を話せば、北海道で新聞記者をやっていた10年ほど前、地方都市の繁華街にある馴染みの普通のバーで、美しい女性客(クラバーでもあった)の一人が、いきなり気軽に「ガンジャ(大麻)やりませんか?」と、タバコのようなものを差し出してきて、腰を抜かしたことがありました。唯一、私の素性を知っていた若い店長は真っ青でした。わざわざ通報するようなことはしませんでしたが、やはりこうした常習者がよく出入りしていたようです。その数カ月後、地元警察がその店長ら数人を大麻取締法違反容疑で逮捕。たまたま警察担当記者だった私は、沈痛な面持ちで、顔見知りの店長の逮捕原稿を書くことになったのでした。
もともと、北海道は大麻の自生地としてもよく知られています。フライフィッシングが趣味だった私は、休日に渓流でイワナやヤマメを追っかけている最中、何度も大麻と思われる植物を目にしたものです。保健所などが懸命に刈り取るのですが、採集しに来る悪い輩も少なくなく、事実、「○○山付近に自生する大麻を吸引した疑いで逮捕」という原稿も書いたことがあります。
世にますますはびこる大麻に薬物――。けれども、ディスコ/クラブという空間もディスコ/クラブ音楽も、それにサーフィンだって、決してそれ自体が悪いわけではありません。ディスコは「踊って楽しむ場所と音楽」という意味では、逆に、健全に精紳を高揚させて神々と交信(!)できる奇跡的な存在だったに違いないのです。
偶然にも本日8月15日は、日本にとって64回目の終戦記念日であるとともに、戦勝国アメリカにとっては1969年にニューヨーク州で開かれた空前絶後のロック祭「ウッドストック」の40周年記念日でもあります。このヒッピー期を象徴する若者の熱狂の宴では、ドラッグ中毒だったといわれるジャニス・ジョプリンやジミ・ヘンドリックスらが、“教祖様”よろしく降臨して「サイケデリック(幻覚的)ロック」を崇高に歌い奏で、同じようにドラッグ経験者も多かった大勢の聴衆の精神を高揚させたはずです。
そう、ディスコもロックも、サイケなレゲエもヒップホップも、それに「コカイン」を歌ったエリック・クラプトンも、だからといって悪者ではないことは明らかです。ドラッグ漬けのジャニスもジミヘンも、早過ぎる死をもって破滅的にケリをつけた感がある特別な天才ですし、そもそも彼らの生んだ音楽は、「ドラッグ中毒者」とは切り離して考えるべき「芸術作品」です。
何しろドラッグは、南米先住民の風習や「アヘン戦争」の例を持ち出すまでもなく、古今東西、人類の身近にあったわけですから、音楽だけをあげつらっても仕方がありません。「サイバー・ノリP」のキメキメ映像をみて、「いやあトランスってドラッグ音楽なんだね」などと安易に決め付けるのは禁物であります。要はディスコやクラブに行く人、サーフィンする人などそれぞれの個人的資質の問題です。
精紳的な生物である人間は、どうしても超越願望を抱いてしまいがちですが、違法行為にのめりこんでは絶対にしゃれになりませんから、あくまでも順法精紳で困難やストレスを「乗り越えたい」ものです。ディスコやクラブやパーティーや祭で、ほどほどに酒を飲んで踊る程度で陶酔感を得る方がずっと平和ですね……と断言しておきましょう。
というわけで、最後に、ドラッグをモチーフにしたことで知られる“作品としてのドラッグ系ディスコ”を5曲ほどYouTubeから紹介しておきましょう。1曲目は、ジョルジオ・モロダーが音楽を担当した映画「スカー・フェイス」の挿入歌でして、私にとっても懐かしい限り。2曲目は70年代らしいシブーい幻覚系ソウルディスコ。3曲目もきわどい歌詞ですが、“検閲”に触れぬよう見事にかわしています。4曲目は大ヒットした70年代ディスコの名曲。人種差別への皮肉や家族の転落劇を題材にした非常に奥深い内容の歌詞ですが、後に物議を醸し、ラジオ向けに「薬物」や「大麻」と歌う部分が削除・変更されてしまったといういわくつきの曲です。5曲目は以前にも紹介したレイド・バックで、異色の北欧発ニューウェーブ系となっております。
1. Rush Rush (Debbie Harry)
*1983年。「yayo(ヘロイン)」という隠語が随所に出てくる。
2. Smokin Cheeba Cheeba (Harlem Underground Band)
*76年。Cheebaとはマリファナのこと。そのまんまのタイトル。千葉県ではない。
3. Mary Jane (Rick James)
*78年。Mary Janeとは女性名のようだがマリファナを指す。「メリージェーン愛してる!」と連呼。
4. There But For The Grace Of God Go I (Machine)
*79年。歌詞中、非行に走った自分の娘が「クスリと葉っぱにハマった (Popping Pills And Smoking Weed)」と歌う部分が、「太った上に(夜遊びで)睡眠不足に陥った (Gaining Weight And Losing Sleep)」と変更になった。
5. White Horse (Laid Back)
*83年。題名がコカイン、ヘロインの隠語。クラブでもカルト的人気。
2009年08月11日
デニス・ラサール (Denise Lasalle)
70年後半のソウル界では、ディスコのアルバムを出してヒットを狙うのがほぼお決まりのパターン。デニス・ラサールもその一人でした。もともとはサザン・ソウルのシブーいブルースやバラードが得意なシンガーですが、このころはご他聞に漏れず、なかなかダンサブルなサウンドを世に送り出していました。今となっては、例によって「ディスコだった私」を「なかったことにしよう」と払拭するのに必死のようです。ベスト盤からも確信犯的にことごとくディスコを外していますし。でも、私はむしろその時代を高く評価する者です(ディスコ堂だから当たり前)。ややハスキーで“はすっぱ”な感じの歌声は、ディスコチューンにもぴったり適合していて、個人的にかなり好きな部類に入ります。
彼女は1939年ミシシッピ州生まれで、本名はデニス・オラ・クレイグ(Denise Ora Craig)。これまた例によって地元の教会でゴスペルを歌っているうちに音楽に目覚め、1960年代半ば、レコード会社に自分で書いた曲を売り込んで認められ、徐々に頭角を現していきました。もともと文才があったようで、10代のころには、小説雑誌に短編を何本か掲載したことがあるそうです(ライナーノーツより)。
60年代後半には、後に夫となるビル・ジョーンズ(Bill Jones)とともに、二人の名前を使ったレコード会社「クレイジョン(Crajon)」を立ち上げて成功させるなど、ビジネス面でも才能を発揮しました。71年には、デトロイトの中小レーベルのWestboundから出したシングル「Trapped By A Thing Called Love」が全米R&B1位に輝き、その後もヒットを連発しています。
とはいっても、そこはモータウンやアトランティックの所属スターなどとは違い、セールス的に大ブレイク!とまではいきません。70年代後半には落ち目となり、ABC(後のMCA)に移籍して、起死回生を狙ったディスコ曲入りアルバム「Second Breath 」「The Bitch Is Bad」「Under The Influence」「Unwrapped」「I'm So Hot 」などを立て続けに出したのであります。
これらのアルバムからは、「Freedom To Express Myself」(76年、米ディスコチャート17位)「The Bitch Is Bad」(77年)、「Under The Influence」(79年)、「P.A.R.T.Y.」(79年、R&B90位)、「I'm So Hot」(80年、米R&B82位、ディスコチャート33位)といった軽快なディスコヒット(マイナーだが)が生まれています。このうち日本では、しっとりとしたミッドテンポの「I'm So Hot」が、ダンスクラシックとして特に人気があります。
80年代半ばになると、彼女は再びゴスペル、ブルース、サザン・ソウルのシブーい世界へと舞い戻り、そのまま90年代、21世紀を迎えております。もう70歳の高齢ですし、余生を暮らす地元アメリカ南部を中心に、ときどきステージに立つ程度の音楽活動のようです。
前述のとおり、彼女のディスコ時代のアルバムはことごとく軽視されいるため、CD化もほとんどされていません。写真は、珍しく日本盤(P-Vine)で3年前に発売されたCD再発アルバム「I'm So Hot」。表題曲のほか、低音のシンセサイザーの音色がユニークな2曲目の「Try My Love」も、ダンクラ決定!の名曲だと思っています。



