ディスコ堂 by mrkick

音楽に貴賎なし ―Discoの考察とCD批評

聖なるディスコ (Divine Disco)

_SL1200_このブログでもかつて触れましたけど、黒人教会音楽であるゴスペルは、米国を中心とする黒人ディスコアーチストにも多大な影響を与えました。ジェームズ・ブラウンアレサ・フランクリンチャカ・カーンをはじめ、奴隷制度時代から根強く残る黒人差別や、ちょうど彼らの幼少期・少年期の1960年代に高揚した黒人差別撤廃運動を直に体験し、感性豊かな音楽的素養を育んだ大物ソウルミュージシャンは数知れません。

そこで今回は、最近発売された、ゴスペルとディスコを融合させた小粋なコンピレーションCD(上写真)をひとつ、唐突に紹介してみたいと思いま〜す!題して「Divine Disco」(聖なるディスコ)。発売元は米Cultures Of Soul Records(カルチャーズ・オブ・ソウル・レコード)です。

タイトルだけ見るとなにやら厳かな気分になり、「こりゃ踊ってる場合じゃないかな」と姿勢を正したくもなりますが、ご安心ください。70年〜80年代の音源を中心とした神ディスコ、祈りディスコの世界が横溢しており、もう初っ端から最後まで腰をくねらせて踊り狂わずにはいられませんもの。

高揚感たっぷりのゴスペル・コーラスは、ディスコとはもともと相性よろし。あの情熱的な歌声にずしりと重い四つ打ちビートが重なれば、もう怖いものなどありません。典型的ゴスペル・ディスコとしては、80年代の著名DJラリー・レバンがよくディスコでプレイした曲で、Lamont Dozierの「Going BackTo My Roots」にも似た感じのThe Joubert Singersの「Stand On The World 」(84年)あたりを思い出しますけど、このコンピもなかなかにレアでスピリチュアルなダンスチューンが満載なのです。

収録されているのは米国の無名ゴスペル・アーチストばかりですが、曲のタイトルからして、「Free Spirit」(自由な精神)とか、「One More Chance, Lord」(神よもう一度チャンスを与えたまえ)などゴスペルらしさ満開。7曲目「Thank You Jesus」(Gospel Ambassadors)などは「サンキュー、キリスト!」とちょいと軽めのタイトルではあるものの、イントロからドラム音がひたすら軽快に展開するノリノリぶり。

6曲目「Jesus Is Going Away (But He's Coming Back Again)」(The Inspirational Souls)に至っては、「イエス様は行ってしまった。でも彼はまた戻ってくるんだ」と、なにかと忙しいキリストが復活して自分たちの元に帰ってくることを素直に喜び、感謝の心をダンサブルな形で捧げています。

それもその筈。当ブログではくどいほど登場してきた鎌倉時代の一遍上人の踊念仏と同様、ディスコ、つまりダンスは世界共通の祈りであり、念仏なのであります。踊念仏を源流とする盆踊りは、年に一度、先祖の霊(仏様)と交流する楽しい儀式です。神社の祭りの神楽だって、文字通り「歌って踊って神様を楽しませて、自分たちも楽しむ」ことに本来の意味があるわけです。

ですから、このCDのジャケットのように、(背景が暗いからなんだか阿鼻叫喚地獄みたいでコワいにせよ)両手を高々と掲げながら、集団で狂喜乱舞するとあら不思議、輝けるディスコ神やらディスコ仏やらが、歓喜のシャワーのごとく、諸人の頭上に分け隔てなく遠慮なしに降り注いでくるわけです。もちろん、“注ぎ口”は、天井(天空)に鎮座する「ザ・ディスコご神体」のミラーボール。頑なな心が解き放たれることウケアイです。

14曲目に入っている先述の「Thank You, Jesus」の現代リミックスも注目点です。私自身、70〜80年代当時のオリジナルディスコへの志向が強い方なので、主に90年代以降の現代風リミックスには強い関心がないのですけど、この曲については、最新デジタルの複雑な音色が極力抑えられ、アナログシンセ風イントロがどことなく最近流行の「ピコ太郎」していて微笑ましい。

世界から思わぬ注目を浴びた「アポーペン、パイナポーペン」もシンプルだからこそ印象付けられたわけで、そこに「アーメン」的な国境・言葉の壁を越えた“呪文効果”が出るのだと思わされます。

折りしも、人種差別をちらつかせて(否、あからさまに公言して)、白人至上主義と指摘されるトランプ氏が米大統領選に勝利した後、アメリカではヒスパニック系や黒人の人々への心無い発言や差別行為が既に散見されるようになっています。時代の不安を映し出しているかのようですが、そんな今こそ、解放と融合を目指すゴスペル魂の伝統に裏打ちされた「聖なるディスコ」の活躍の時ではないでしょうか!(ためらいつつも断定)

このタイムリーな企画モノCDに入っているようなゴスペル・ディスコに耳を傾け、その祈りの調べに身を任せて汗を流せば、どんよりとした曇り空のような内向き思考の憂鬱などどこふく風。みるみるうちに、負を正に転換する明日への活力がみなぎってきます。クリスマスも近づく昨今、「ラブ・アンド・ピース!」よろしく無邪気に宇宙の果てまで舞い上がるのは楽しいもの。高過ぎて手が届かないと思ったら、神様って意外に身近にいたのです。

イヴォンヌ・エリマン(Yvonne Elliman)

Yvonne少し間が空いてしまいましたが、今回は静々とハワイ生まれのディスコディーバ、イヴォンヌ・エリマンと参りま〜す!

ハワイ出身の有名人といえばオバマ大統領と早見優ですが、ハワイの地元紙ホノルル・アドバタイザーの記事などによると、1951年に生まれたイヴォンヌさんは、なんと日本人の母、白人の父を持つ日系アメリカ人で顔立ちは実にアジアン。幼いころに音楽に目覚め、ピアノやウクレレを練習し、高校時代にはバンドを組んでライブ活動を始めました。

そんなある日、音楽の先生に「お前はやればできるから、イギリスで修行しろ!」と促されて高校卒業後に渡英。音楽業界の代理人を通して、ロンドンで高名なミュージカル音楽プロデューサーであるアンドルー・ロイド・ウェバーを紹介されました。

そこで彼の不朽の名作「ジーザス・クライスト・スーパースター」のロックオペラと映画でマグダラのマリア役を務めるというチャンスに恵まれ、飛躍的に知名度がアップ。同時にロック界の英雄エリック・クラプトンのバックボーカルにも抜擢され、彼の大ヒット曲「I Shot The Sherif」(74年、米ビルボード一般総合チャート1位)でもその歌唱力をいかんなく発揮したのでした。

彼女はソロアーチストとしても、71年に「ジーザス…」の挿入歌バラード「I Don't Know How To Love Me」が全米一般総合チャート(ポップチャート)28位まで上昇したほか、76年にビージーズが作曲したしっぽりスローテンポのポップバラード「Love Me」が同14位に、77年に似た感じのスローテンポ「Hello Stranger」が同15位にそれぞれチャートインするなど、順調にスター街道を突き進んで言ったのでした。恐ろしいほどのとんとん拍子ぶりです。

そして1978年、運命の時が訪れます。当時の夫ビル・オークス(Bill Oakes)が社長を務めるRSOレコードが、完全無欠のディスコサントラ「サタデーナイト・フィーバー」を発売。その中で再びビージーズの作品「If I Can't Have You」を歌い見事、米ビルボード・ポップチャートで1位を獲得したのでした!マイケル・ジャクソン「スリラー」の6,500万枚に次ぐ世界2位の4,000万枚も売れたというこのお化けアルバムからは、計7枚のシングルカット曲が1位になっていますが、堂々とその一角を占めることになったのです。

翌1979年には、同じRSOからアルバム「Yvonne」を発表。A面1曲目に収録のディスコ曲「Love Pains」(総合34位、米ディスコチャート75位)がまずまずのヒットとなりました。「デケデケ」シンセサイザーのベース音と朝の陽射しのように柔らかなストリングスの音色がうまくマッチしたこの曲は、RSOが12インチを制作したほか、82年には米西海岸のディスコ専門レーベル「モビーディック」がリミックスを手がけており、ディスコフロアでは「If Can't Have…」に匹敵するほどの人気となりました。

モビーディック盤については、私がかつて紹介したように、レーベルの元関係者からテスト盤をいただくという僥倖に恵まれましたので、個人的にも特に印象深いレコードとなっております。

超大物プロデューサーやエリック・クラプトンとの出会い、大手レコード会社の社長とのセレブな結婚生活といった多くの幸運もあり、女優・歌手としてスターダムにのし上がったイヴォンヌさん。しかし、社長とはその後離婚。2人目の音楽家の夫とは2人の子供に恵まれましたが、やはり別れて子供をつれてハワイに戻ってきました。80年以降は音楽活動からも遠ざかってしまいました。2000年代に入ってようやく活動を再開し、新作アルバムを発表するなどしているものの、もう「過去の人」との印象はぬぐえません。

CDはベスト盤が中心でしたが、今年になって、ディスコ期の2枚のアルバムをボーナストラック付きで収録した「Night Flight / Yvonne」が2枚組CDとして発売されております(上写真)。「If I Can't」のディスコバージョンやLove Painsの12インバージョンが入っており、音質もまずまずです。

このCDのライナーノーツには彼女のインタビューが載っており、「本当はクラプトンと一緒に仕事をしていた時のように、もっとロックを歌いたかったが、制作サイドから機会を与えられなかった」「2度目の夫は外で音楽活動させてくれず、結局は家庭に収まってしまった」などと語っています。スターにはなったものの、心底音楽に没入できなかった部分があったのかもしれません。だからこそ、20年以上ものブランクが生まれたということでしょう。

そんな背景にも思いを馳せながら、晩秋の夜長、ディスコからバラードまで幅広く歌い上げるアジアンな彼女の歌声を今一度、堪能してみるのも一興ではないでしょうか。

ヴォヤージ (Voyage)

Voyageさて、あれだけ騒々しかった近所のセミの声が聞こえなくなり、代わってコオロギが俄然張り切って夜長の主役の座についております。儚さひとしお季節の変わり目、テンション高めの今回は、フランスが生んだ爽やか過ぎる「幸せ独り占めディスコ」、ヴォヤージと参りましょう!

英語で「旅」の意味を持つヴォヤージ(Voyage)は、1970年代後半から80年代前半にかけて活躍した腕利きの裏方ミュージシャンたちで編成されたディスコ専門グループで、4人のフランス人男性(Marc Chantereau、Pierre-Alain Dahan、Sauveur Mallia、Andre Slim Pezin)が中心となって結成しました。

特に77年発売の彼らのデビューアルバム「Voyage」(米ビルボード・ディスコチャート1位)はあからさまなコンセプトアルバムとなっており、ボーカルを最小限に抑えたノンストップの正統派インストゥルメンタル・ディスコ。A面1曲目の「From East To West」(同チャート1位、米R&Bチャート85位)で飛行機に乗って東から西へと旅立ち、途中アフリカ(同2曲目「Point Zero」)、アジア(同3曲目「Orient Express」)、欧州(B面1曲目「Scotch Machine」)、南米(同3曲目「Latin Odyssey」)を経由して、気がつけばアメリカ(同4曲目「Lady America」)に無事到着しています。

なんと「計30分ちょっとで踊りながらまんまと世界一周」を果たすという、世界を股にかける「007」のジェームズ・ボンド顔負けのお手軽「空の旅ディスコ」なのでした。これを「30分間の贅沢&愉悦」と言わずして何と申しましょうか!それぞれの曲の調子も、案の定空港ラウンジ音楽な感覚をふんだんに盛り込みつつも、サンバのラテン風あり、シタール使いのオリエンタル風あり、素朴なパーカッション炸裂のアフリカ・ジャングル風ありと、世界一周だけあって飛切り(忙しなくも)ゴージャスな趣向となっております。アルバムのジャケットは「宇宙から見た地球の写真」のデザインとなっており、もう確信犯そのものです。

演奏も、もともとジャズやフレンチポップの分野で長年にわたり大物ミュージシャンとコラボレーションするなど、しっかりと経験を積んだ手練(てだれ)ぞろいだけにしっかりしております。アルバムを通して聴いていると、飛行機だけではなく、大地をぐんぐん駆け抜ける東海道新幹線「のぞみ号」か、はたまたサバンナを軽快に疾走する最速チーターか、という具合にあらゆる「速いもの」を想像してしまいます。全盛期を迎えていた70年代大仰ディスコの真髄を見る思いであります。

彼らの高速「旅ディスコ」路線は、翌78年に発売された2作目アルバムにも引き継がれました。タイトルも「Fly Away」(米ディスコ1位)とまたもや確信犯です。収録曲の曲調はデビュー作と似ており、アジア風やらアフリカ風やらポリネシアン風やらとやはり多国籍。中でも主軸のA面1曲目「Souvenirs」(スーベニア=旅のおみやげ。邦題は「恋のスーヴェニア」。米ビルボードディスコチャート1位、米R&B73位、米一般総合チャート41位)では、ボーカルとして加わったイギリス人女性(Sylvia Mason)が、駅弁売りのお兄さんのように「すべに〜〜〜あ♪(おみやげ〜〜〜♪)」と豪快に雄叫びを上げていて微笑ましい限りであります。

さあ、ディスコブームの波に乗り、2作続けて世界中で大ヒットを記録した「ユーロディスコの雄」ヴォヤージですが、80年代に入ってからはどうだったのでしょう。彼らは節目の80年を境に、「もうディスコは飽きた」と思ったのか、もしくは「もうブームは終わった」と見切ったのか、ちょっと渋めのファンキー&ロック路線へと大きく舵を切りました。

80年発売の3作目「Voyage 3」では、一変して男性ボーカルを中心に据えた「I Love You Dancer」(米ディスコチャート17位)、「I Don't Want To Fall In Love」などのディスコ曲が収録されていますが、どうにも地味な印象はぬぐえません。それぞれの曲自体は悪くないのですけど、「やっぱディスコのボーカルは女性の方が有利だなあ」と思わせる内容になってしまいました。ディスコブームの退潮とも相まって、セールスも一気に落ち込んだのです。

そんなわけで、82年発売の4作目「One Step Higher」では、シンセサイザーを多用したややライトなディスコ路線を復活させましたが、時既に遅し。これが最後のアルバムとなってしまいました。以前に当ブログで紹介したAlec R. CostandinosCerroneらと並ぶ「フランス発人気ディスコ」の代表格だったヴォヤージも、ついにここで刀折れ矢尽きる状態となり、文字通り時代の彼方へと「ボン・ヴォヤージ!」(Bon Voyage=行ってらっしゃい!)してしまったのでした。

ただし、この最終作のA面1曲目に収録されたシングルカット曲の「Let's Get Started」については、再び高揚感のある女性ボーカルとコーラスをフィーチャーし、とってもハッピー・ゴー・ラッキー(楽天的)で爽快感たっぷり。ヴォヤージの真骨頂であるラウンジ風旅ディスコを見事に復活させており、彼らの短いながらも充実した旅(何しろ世界一周)の最終章にふさわしい名曲だと思います。当時のディスコでも聞いたことがありますが、これがかかると一気に場が華やぐ感じです。この数年後のバブル末期(89年)にディスコでよく聞いたスウィングアウト・シスターの「You On My Mind」にも似た雰囲気。私自身、NHK-FMの人気番組「クロスオーバー・イレブン」などで必死になってカセットデッキにエアチェック録音したものでした。

そんな有終の美を飾ったヴォヤージのアルバムは4年ほど前、英Harmless Recordsのディスコ復刻CDシリーズ「Disco Recharge」で4枚とも再発されました。それぞれ2枚組で、12インチバージョンも豊富に収録されていてかなり楽しめます。代表曲をコンパクトに堪能したいという向きには、カナダUnidiscのベスト盤「The Best Of Voyage」(写真)もあります。このCDのブックレットの表紙では、左に「Voyage」、中央に「One Step Higher」、右に「Fly Away」のLPのジャケット写真があしらわれています。

スパークス (Sparks)

Sparks_Newいやあ気がつけば、夏もすっかり終わってました!……というわけで今回は、火花飛び散るド迫力のディスコ伝道師、スパークスと参りましょう。

スパークスは、米ロサンゼルス出身のRon Mael(ロン・メイル)とRussell Mael(ラッセル・メイル)兄弟が中心になって1960年代後半に結成した「Halfnelson」が前身。2人は当時のアメリカ西海岸で盛んに流れていたフォークソングやプロテストソングに「あまりに理屈っぽい!」と嫌気が差し、ザ・フーやピンク・フロイドといったイギリスのモッズ、プログレッシブロック、グラムロック、アートロックに傾倒していきました。71年に「スパークス」と改名し、英国を中心に売り込みを開始。現地でトップ10ヒットを放つなど人気を不動のものとします。

アメリカの音楽業界で60年代と80年代に「ブリティッシュ・インベージョン」(英国の来襲)という言葉が使われたように、アメリカで人気を高めた英国人ミュージシャンは星の数ほどいます。でも、米国人なのに英国の音楽に心底惚れ込み、英国に出かけていってそこでまず火がついてしまったユニークな米国人ニューウェーブバンドになったわけです。

スパークスは、高音ボイスと派手な動きでステージを駆け回る弟ラッセルが前面に出て、その傍らで兄ロンが極端な無表情でキーボードを弾き続けるという摩訶不思議な「陰と陽」の設定。音楽的にはやはりプログレかつグラムロックな内容で、70年代半ばまでは「This Town Ain't Big Enough For Both Of Us」(74年)などの一風変わったロック系の大ヒットを英国で連発していたのですが、70年代後半には早くも息切れしたのか、人気が下降線になりました。そこで目を付けたのが、当時世界中を席巻していた「ディスコ」だったのです!(安易だけど)

彼らはここでなんと、いきなり「ディスコ百獣の王」の名を欲しいままにしたイタリア人音楽家ジョルジオ・モロダーさんにプロデュースを依頼。太っ腹のジョルジオさんは二つ返事で承諾し、ドナ・サマー顔負けの「ビロビロデケデケ」シンセサイザーを駆使したアルバム「No.1 In Heaven」(上写真)を制作し見事、英国チャートでのトップ10入りを再び果たすことになったのでした。

このアルバムで2人は、「Beat The Clock」(79年、英レコードリテーラー・ミュージックウィーク誌チャート9位)、「The Number One Song In Heaven」(同、同12位)、それに「Tryouts For The Human Race」(同、同5位)というディスコ曲を連打したわけです。いずれも弟ラッセルのひょろひょろした高音と幻惑の宇宙的シンセサイザーが妙に調和し、それを正確無比の生ドラムが律儀に下支えしている感じ。独特のクラシカルなメロディーラインもどこか哀愁を帯びていて、心地よく踊りの境地へと誘い込みます。しかも、これらの12インチシングルでは赤とか青の様々な色付きレコードやピクチャーレコードも数多く発売され、もう「ディスコ全開でスタンバってま〜す!」状態なのでした。

ラッセル&ロンは、このアルバムを契機にシンセ街道をばく進。80年代全体にわたってほぼ毎年、ダンス系アルバムを世に送り出しました。特に83年に発売したアルバム「In Outer Space」からは、ゴーゴーズのギタリストであるジェーン・ウィードリン(Jane Wiedlin)とのデュエット曲「Cool Places」、が米ビルボード総合一般チャートで49位、同ディスコチャートで13位まで上昇するヒットとなり、逆輸入的な形で故郷に錦を飾ることにもまんまと成功したのです。私もこの曲は当時ディスコで耳にしましたが、イントロから「デデデデ…」と野太いシンセ音が小気味よく展開し、のっけから踊り心がくすぐられたものでした(テンポやたら速いけど)。

さて、この兄弟は80年代までの勢いはないにせよ、今もその唯一無二のロックディスコぶりは健在。90年代以降もコンスタントに新作を発表したり、世界中をツアーで回ったりして、元気に活躍を続けております。かれこれ半世紀もの息の長〜いキャリアを支えてきたのも、実は70年代末の捨て身の「ディスコ開眼」であったにちがいないのであります。

スパークスのCDは、キャリアが長いだけにたくさん出ていますが、ディスコ好きとしてはどうしても欠かせない「No.1 In Heaven」のほか、80年前後の12インチバージョンを集めた2枚組「Sparks Real Extended」(英Repertoire Records、下写真)がダンサブル爆発の好盤となっております。

Sparks Real




カメオ (Cameo)

Cameo今回はまったりとカメオで〜す。「キャミオ」とか「キャメオ」といった表記がされることもありますが、英語の発音に忠実過ぎてちょっと気持ち悪いので、当ブログでは昔の国内盤LPで使われていた一般的な表記「カメオ」で統一したいと存じます。

さて、このカメオの中心人物は、ブラコン界の大立者ラリー・ブラックモン(Larry Blackmon)さんです。1956年、ニューヨークのハーレム地区生まれ。名門ジュリアード音楽院にも通っていた才人で、10代のころからドラマーとして一流プロのミュージシャンのセッションに加わっていました。1975年に仲間たちと前身の「New York City Players」というグループを結成し、これが後にCameoに名称変更されます。

75年発売のデビュー曲は「Find My Way」というもろディスコの逸品。それもそのはず、彼らがこの時に最初に契約したレコード会社は、このブログではしつこいほど登場してきた"ディスコの殿堂"カサブランカ系列のレコード会社(Chocolate City)だったのです。この曲は数年後、以前に紹介した1978年公開のカサブランカ制作のディスコ映画「サンク・ゴット・イッツ・フライデー」用にリメイクされて、挿入歌として使われました。つまり、後に個性派ファンクグループとして一時代を築いたカメオも、まずはディスコで第一歩を記したのでした。

その後、80年ごろまでは大編成(最大13人)のファンクディスコ・グループとして、オハイオ・プレイヤーズバーケイズ、タワー・オブ・パワーみたいなホーンセクションを軸とした曲作りに勤しんでいました。それにラリーさんの粘着質な歌声や、スライ・ストーン、オハイオ・プレイヤーズ、バーケイズなどにもよく見られた「ヤウヤ〜ウ!」という掛け声が乗っかってくる感じです。70年代ではもう1曲、「I Just Be Want To Be」(79年。米R&Bチャート3位、米ディスコチャート52位)も、いかにもファンクディスコのノリで豪快に攻め込んでくる佳作となっております。

これが1980年代半ばになると、音楽的に大きな変貌を遂げます。当時、急速に浸透していったシンセサイザーやドラムマシーンを多用するようになり、アーバンなヒップ・ホップの要素を強く打ち出すようになっていったのです。

このころに大ヒットしたShe's Strange(1984年。R&B1位、ディスコ25位、米一般総合チャート47位)とかSingle Life(1985年。R&B2位、ディスコ26位)、そして代表曲のWord Up(86年。R&B1位、ディスコ1位、総合6位)などは、音数はやや少ないものの、シャープでソリッドなダンスミュージックに仕上がっております。全米の一般総合(ポップ)チャートにも食い込むようになり、セールス的にはピークを迎えました。

同時に、ラリーさんは80年代半ばにバンドの構成員数を3人にまで絞り、残りは適宜サポートメンバーとして加わってもらうという方法に切り替え、人件費の大幅削減にも成功。70年代に活躍した多くのソウル・ファンク系バンドが80年代になって低迷していく中、音楽的にも経済的にも怒涛のバンドマスターぶりを発揮したのでした。

日本ではとりわけWord Upが、80年代後半のバブル期の定番曲としてもてはやされたものでした。「ピヨピヨ、ヒュルル〜ン」とお得意のシンセ音が縦横に飛び回り、フロアにいるこっちも心がピョンピョンと躍りだしたものです。テンポ数(BPM)は少なく遅めの曲ですので、踊り方はゆらゆらと海藻のようにゆったりとしたもの。一部のブレイクダンス好きの人々などは、もっとバックビート(裏拍子)を意識して跳ねるように踊っていたのをよく見かけました。プロモーション・ビデオ(PV)もまた、ラリーさんの見事に股間を強調したファッションセンスを含めて、なかなかに奇抜な内容です。

当時のディスコはまだ連日、非常に混み合っていましたので、フロアは常にカオス状態。でも、とりあえず自分が楽しめばそれでいいわけですので、とても自由でわがままなフロア空間が展開されておりました。Word Upにも「Do your dance, do your dance」(自分の踊りを踊りたまえ!)とか「We need to dance」(俺たちは踊らねば!)といったダンサブルなフレーズがどんどん出てきます。ラリーさんはこの曲で若者たちを(変な格好で)鼓舞して、「魂を揺さぶらせて自由に踊れ!」と叫んでいるかのようです。

当ブログでは音楽やアーチストの考察に重きを置いているため、これまで具体的な「踊り方」には敢えてあまり触れてこなかったわけですが、70年代には日本では「ステップ」という踊り方がありました。曲や曲調に合わせてあれこれと色んな「型」を覚えて、フロアのお客さんたちが同じ踊りをラインダンスのように踊っていたのです。

踊りの種類は「ファンキー・フルーツ」とか「チャチャ」とか「ブロードウェイ」とか「スケーター」とか「フォーコーナーズ」とかもう無数にあって、同じ踊りを皆でいっせいに踊ったのです。しかも、東京や大阪その他の都市ごとにそれぞれ微妙に違うステップがあり、皆ものすごくこだわってそれを踊っていました。

世界的にもディスコ空間でのこうしたステップ・ダンスはほぼ皆無で、日本特有の現象でした。これまでに当ブログでも何度も登場してきた一遍上人の踊念仏をひとつの源流とする「盆踊り」の伝統が、ステップ現象の背景にあったことは間違いないでしょう。皆と同じ踊りを舞うことで、ダンスフロア・コミュニティの一体感を味わっていたのですね。

その伝統は、少し間を置いて90年代以降のクラブで流行った「パラパラ」へと引き継がれました。今だって、アニメソング(アニソン)やアイドルの曲に合わせて同じ形式で踊るライブイベントが一部にあります。

ディスコでは70年代まではステップが盛り上がりを見せましたが、80年代に入ると、日本でも海外と同様、基本的にリズムに合わせて自由に手足や腰を動かす踊り(フリーダンス)が主流になりました。客層も老若男女に広がりを見せ、日本人全体が「ディスコ慣れ」してきたのだともいえます。

「自由」ということは、往年のステップ・ダンスで踊っても別にぜんぜん構わないわけですけど、音頭取りのDJがかける音楽にゆるりと合わせて、お客さんたちが上手も下手もなく勝手気ままに踊り狂い、なおかつ何となく調和している様子が、踊り手と見物人が明確に分かれる「舞台型」ではなく「参加型」であるディスコ本来の姿であり、醍醐味です。フロアでタバコを吸ったり、酔っ払って何度も隣の人にぶつかってその足を「イテテ!」と踏んだり、尋常ならざるバカ騒ぎをしたりといった迷惑さえかけなければ、他人の目を気にする必要などないわけです。それこそがまさに、束の間の「解放と融合」の非日常空間といえましょう。

とまあ、理屈はさておき、ディスコの「考えるな、感じろ(いやむしろ踊れ)!」(ブルース・リーの名言より)の精神は、現代ダンスカルチャーにも脈々と受け継がれております。「国富論」で知られる18世紀の「経済学の父」アダムスミスまでもが、意外にも「舞踊と音楽は人間が発明した最初の快楽である」との名言を残しています。人類が人類である以上、これからも人々は踊り続けるに違いありません!(断定)

カメオのCDはアルバム、ベスト盤ともにとても充実しております。写真の「Secret Omen」は79年発売のアルバムの再発CDで、珠玉ディスコの「Find My Way」と「I Just Wnat To Be」収録。ベスト盤だと、90年代に発売された米MercuryのFunk Essentialsシリーズの「The Best Of Cameo」(Volume1と2)および「The 12" Collection And More」が網羅的な内容となっております。これらを聴いて自宅で好き勝手に踊り狂い、日ごろの憂さを晴らすのもまた一興でしょう。

リキッド・ゴールド (Liquid Gold)

Liquid Gold Pic今回も正統派ディスコ、リキッド・ゴールドと参りましょう。イギリスの男3人・女1人のグループで、80年前後に少々派手なディスコ曲を世に送り出しました。

主なヒット曲は、最も売れた「My Baby's Baby」(79年、米一般総合チャート45位、米ディスコチャート5位)に始まり、さびのメロディーラインが哀愁帯びて泣きたくなる「Dance Yourself Dizzy」(同、米ディスコ26位)、ややミデアムスローな「What's She Got」」(83年、米総合86位、米ディスコ23位)、けっこう渋めのギターリフが五臓六腑に染み渡る「Substitute」、「パニックになるな!」と言われながらも思わずパニくってフロアに駆け込んでしまうお馴染みアゲアゲ「Don't Panic」が"黄金クインテット"。本国を中心に大人気だった彼らですが、アメリカの一般チャートにも食い込んだのは立派です。

日本では、とりわけ「Dandce Yousellf...」(邦題:今宵ダンスで)と「Don't...」(同:ドント・パニック)の2曲がフロアの人気をさらいました。特に「今宵ダンスで」なんてのは、なかなかシャレオツなネーミングだと思いますよ。「ええ本日はお日柄も良く……皆様ようこそお越しくださいました……では、今宵はひとつダンスということで…」みたいな感じで、きちんと段取りを踏む和の奥ゆかしさを感じさせますね。こちらも襟を正して、「ああ左様でございますか、では踊ることと致しましょう」という気になります。結婚式の2次会のパーティーなんかにぴったりだと個人的には思っております。

このグループの結成は1977年で、中心メンバーは声量たっぷり女性ボーカルのエリー・ホープ(Ellie Hope)とレイ・ノット(Ray Knott)。2人とも70年代前半、「The Mexican」というヒットを飛ばしたイギリスのベーブルース(Babe Ruth)というロックグループの元メンバーでした。

ちなみにこのメキシカンという曲は、現代のダンスフロアにも十分通用するノリノリ西部劇なナンバーでして、ジャニス・ジョプリンばりの迫力ボイスをきかせていたJenny Haan(ジェニー・ハーン)なる女性がメインボーカル。80年代にはジェリービーンが彼女本人をボーカルに起用して、ローランド系アナログ・ドラムマシーンを駆使したフリースタイルのディスコ曲にリメイクし、大ヒットさせています。

実は、リキッド・ゴールドが残したアルバムは、「My Baby's Baby」、「Dance Yourself Dizzy」などが入った79年発売の「Liquid Gold」(上写真)のみ。とにかくジャケットは金ピカでインパクト大。でも、いくら「リキッドゴールド」(彩色用の光沢金)だからといっても、デスマスクみたいな不気味さの方がかえって際立ちます。私も真夜中なんかにレコード棚からこれを引っ張り出すと、背筋がぞっとして踊る気力を失ってしまうわけです。

結成から7年後の1984年、メンバーが1人抜け、2人抜けした結果、あえなく解散した「光沢金」。それでも、イギリスでは珍しいド真ん中の「メロディー明快、ジャケットも明快」のユーロディスコ系のグループとして、今も一度(ひとたび)かかれば踊る者を興奮のるつぼへと引きずり込む魔力に満ちております。アルバムの正式な再発CDは未だ出ていないものの、以前紹介した「Disco Discharge」シリーズや日本国内盤の「懐かしのディスコフィーバー!」的な各種ディスコ・コンピレーションには、主なヒット曲が収録されております。

スカイ (Skyy)

Skyyいやあちょうど10日ぶりとなりま〜す。今回は愉快なファンク・ディスコの正統派「Skyy」(スカイ)と参りましょう!

ディスコ界では、常人には理解困難な“大うつけ者ファッション”(例・CherBetty WrightDee D. Jackson)が流行したわけですが、この人たちもまさに当時、宇宙人みたいに大げさなコスチュームに身を固めた愛嬌たっぷりの8人グループでした。背景には、米ソの超大国による宇宙開発の活発化、1976年に公開された映画「スターウォーズ」の大ヒットがあります。

ただ、外見上はキワモノ要素満載とはいえ、Skyyは狂気の限界をわきまえたディスコ界の常識人でした。音楽的にはとてもきちんとしていて、Brass Constructionのメンバーでもあったランディ・ミュラー(Randy Muller)とソロモン・ロバーツ(Solomon Roberts)を中心とした演奏にはそつがなく、デニス(Denise)、 デロレス(Delores)、ボンヌ(Bonne)のダニング(Dunning)3姉妹のボーカルワークも冴えわたる実力派だったのです。

1970年代半ばにニューヨークで結成した彼らは、70年代後半にディスコ・レーベルとして躍進したサルソウル(Salsoul)・レコードと契約。79年にはデビューアルバム「Skyy」(写真)を発表し、その中から「First Time Around」をヒットさせました。Skyyのグループ名は、既にSkyというグループが存在したため(確かにどこにでもありそうだ)、差別化するために末尾に「y」をくっつけたのでした。

この曲は、ディスコ・リズムの代名詞「シンドラム」を駆使した逸品で、Tamiko Jobnesのヒット曲「Can't Live Without Your Love」にも似た感じで「ぴゅんぴゅん、ぽこぽん!」サウンドが随所に展開するゴキゲンさです。

この人たちはけっこうな多産型グループで、その後は年に1〜2枚のペースでアルバムを発表。80年発売の2枚のアルバム「Skyport」と「Skyway」からはそれぞれ、「Here's To You」(米R&Bチャート23位、米ディスコチャート24位)と「Skyyzoo」(同32位、同41位)などのダンスヒットが生まれました。

特にSkyyzooは、文字通りカズー(Kazoo)という口で吹く楽器を駆使。Freedomの名曲「Get Up And Dance」みたいに「ぶーぶーぶー!♪」と子豚さんみたいなすっとぼけた音が次々と繰り出し、かえって踊り心がくすぐられます。

そして81年、彼らは代表アルバムとなる「Sky Line」を発表し、その中から「Call Me」という最大のヒットを生みました(R&B1位、ディスコ3位)。この曲は下地のヘビーなドラムとベースラインにギターやら電話の効果音やらがうまく乗っかり、そこにデニス・ダニングの声がほどよく絡んでくる佳作でして、ディスコでもよく耳にしたものです。

そのSkyy特有のリズム展開は、後のディスコヒットの「I’ll Do Anything For You」(Denroy Morgan、81年、米ディスコチャート7位)や「Thanks To You」(Sinnamon、82年、同1位)にもモロに影響を与えております。

このアルバムで言えば、「Let's Cereblate」(R&B16位)と、再びカズー音を多用した「Jam The Box」なども印象的。米国ではもはやディスコが過去のものとなる中、アーバンでおしゃれなディスコとして人気を持続させたわけです。ようやく冷静さを取り戻したのか、このころには「お恥ずかし宇宙人コスチューム」からブラコンな普通の衣装に衣替えしてます(下右写真は「Sky Line」のジャケット)。

その後も年1回のペースでアルバムを発表し続けますが、80年代半ばにはセールス的に失速。「もうこのあたりでおしまいかなあ」と思わせた矢先、キャピトル・レコードに移籍後の86年には、「Givin' It (To You)」というシンセサイザーを多用したなかなかにしたたかでシャープなダンス曲をチャート上位(R&B8位)に食い込ませたかと思うと、89年にはなんと、ミデアムスロー・ダンサー「Start Of A Romance」がSkyyにとっての8年ぶりの米R&Bチャート1位に輝きました。

しかも、その同じ年には「Real Love」がまたもやR&Bチャート1位となり、ディスコ出身アーチストの夢でもある「バラードでも大ヒット」を達成したのでした!

90年代にはさすがに息切れしたのか、92年に最後のアルバム「Nearer To You」を発表後はあまり音沙汰がなくなってしまったSkyy。キラキラ宇宙服から出発し、再び星空の宇宙へと旅立っていった感がありますし、結局はR&Bを越えた一般総合チャート上位への進出も果たせませんでした。でも、70年代後半からの約10年間、ディスコグループとしては十分過ぎる実績を残せたといえましょう。

彼らのレコードは、Salsoul時代を中心にほぼ満遍なくCDで再発されています。入門盤としては、主なヒット曲が12インチ・バージョンでがんがん収録されている英Big Break Records盤CD「Skyy ‎– Skyyhigh • The Skyy Anthology (1979-1992)」あたりがお勧めで〜す。
Skyy2

ケイト・ブッシュ (Kate Bush)

Kate Bush前回登場の奇天烈ニナ・ハーゲンとほぼ同じころ、弱冠19歳の奇才美少女がイギリスで鮮烈デビューを果たしました。名はケイト・ブッシュ。失業者があふれる英国病の不況下、4オクターブの美声を駆使して、停滞気味だったイギリス音楽界に新風を吹き込んだのです。

1978年発売のデビューシングル「Wuthering Heights(邦題・嵐が丘)」は、文字通りエミリー・ブロンテの愛憎物語の古典小説「嵐が丘」を歌った内容。本国では発売と同時にチャートを駆け上り、女性ソロアーチストとしては初めて自作曲で1位を獲得しました。前年末公開の映画「サタデー・ナイト・フィーバー」の大ヒットにより、世界はディスコブーム真っ只中でしたが、そんな世情などどこ吹く風、大いに風変わりでミステリアスな幻想曲が存在感を示したのです。日本では、かつての日本テレビ系のバラエティ番組「恋のから騒ぎ」のオープニングテーマとしても知られております。

1955年、英ケント州に生まれた彼女は、医者でピアニストの父と、直立したままウサギみたいにぴょんぴょん跳ねる独特のアイリッシュダンスの名手である母の下、幼少期からピアノやバイオリンを習うなどして音楽家の道を着実に歩み始めます。10代前半には既に作曲も始めており、デモテープを作って何度もレコード会社に売り込みますがことごとく撃沈。しかし、そんなデモテープの1本がプログレッシブ・ロックの雄、ピンク・フロイドのデビッド・ギルモアの手に渡り、才能を見出したデビッドさんの協力を得てデビューに至ったのでした。

後のキャリアを通した代表曲ともなった「嵐が丘」は、当時のイギリスの音楽シーンを彩っていたプログレッシブ・ロックやデビッド・ボウイに代表されるグラム・ロック、さらにはクラシックや劇場音楽や英国フォーク音楽の影響を色濃く映し出しており、なんとも形容しがたいアバンギャルド作品。それでも、あの少女アニメの声優か矢野顕子みたいな舌足らずで甲高いソプラノの歌声と、心地よく異次元へといざなう唯一無二な旋律には、えも言われぬ魅力があります。

歌詞も独特極まりなく、放浪の詩人アルチュセール・ランボーの難解な詩を読んでいるような気分になります。プロモーション・ビデオ(PV)もいくつか作られていますが、広漠たるいかにも英国的な草原を不思議な踊りで駆け回るケイトさんは、「天女の羽衣(はごろも)伝説」みたいで非世俗的です。

…とまあ、そんなわけで前回のニナさん以上にディスコっぽくないケイトさんですけど、80年に発売された3枚目のアルバム「Never For Ever」とか、85年に発売された5枚目のアルバム「Hounds of Love」(写真)には、ディスコで使える曲もちらほら。特に「Hounds of Love」は、初期高級シンセサイザーのフェアライトCMIを駆使しつつ、珍しくシンプルかつダンサブルな構成の曲が目立つ内容となっております。

中でも、終始きっちりとした16ビートでたたみ掛ける「Running Up That Hill」(85年、米ビルボード一般総合チャート30位、ディスコチャート17位)などは、ひとたびディスコで耳にしたならば、後ろから追っかけられるような切迫感に駆られて思わずフロアに引き込まれ、あっちにピョん、こっちにピョンってな具合に、フロアを野ウサギみたいに駆け回らざるを得なくなることウケアイです。ただ、この曲のPVを見てみると、なかなか真似のできない振り付けで床をのたうち回るシーンが展開しており、やっぱりアングラな「天女のはごろも」です。

この曲は、少し後にリリースされたフリートウッド・マックの似た曲調の「Big Love」や「Little Lies」、ペットショップ・ボーイズがプロデュースしたライザ・ミネリの「Losing My Mind」、それにプロパガンダの「P Machinery」なんかと繋いで聴くとイイ感じ。前衛的なだけではなく、いかにも80年代な曲もしっかり作っていたことが分かります。

ケイトさんは90年代以降も、寡作ながらコンスタントに活動を続けており、93年には先日57歳で早世したアメリカの奇才プリンスとの共作による「Why Should I Love You」などを含むアルバム「The Red Shoes」をリリース。2012年にはロンドン五輪のフィナーレ用に「Running Up That Hill」のリミックスバージョンを提供しています。

世俗に媚びない音楽が、逆に世俗に高く評価されるというのは、豊かで多様な音楽文化が根付いている証拠。和辻哲郎の言葉「風土が人間に影響する」ではないですが、イギリスがいつもロック・ポップス界の先頭を切って、型破りで面白い音楽を生み出してきたワケを垣間見る思いであります。

いやあ、それにしてもケイト・ブッシュさんって本来、「アート・ロック」の旗手とも呼ばれたぐらいですから、芸術的で知的で真面目な音楽人だとつくづく思います。究極の世俗音楽、ディスコのような奔放なおバカさがまったく見当たりませんもの!…というわけで次回は、再び純正ディスコの予定となりま〜す!

ニナ・ハーゲン (Nina Hagen)

Nina Hagenみなさんこんばんは〜!世の中すっかり春めいてきました。寒さが遠のくこんな季節、大学時代に六本木のディスコの帰り、終電は終わったし、カネも使い果たしたんで国道246号沿いをとぼとぼと三軒茶屋方面のアパートまで歩いて帰った記憶がよみがえります。くたびれてタクシーに乗ろうと思っても、乗りたいお客が多すぎて簡単につかまらない時代でもありました。30年前のバブルのころのお話でしたとさ(どのみちトホホ)。

…というわけで、今回はなんとなく背中がぞくぞくします。ムーミン谷のおさびし山のような、幽界へといざなう不気味な静寂があたりを包みこんでいますよ。かと思ったら、びっくり仰天玉手箱、闇夜に轟く戦慄の調べが背後に忍び寄ってきました。悪魔、魔女、黒ミサ、呪いの祈祷…。今夜はあなたをめくるめくゴシック・ワールドへとご招待します。さあ、ディスコ界きっての変態パンクロッカー、ニナ・ハーゲンと参りましょう!

この人はもう、本当はニューウェーブとかパンクとかロックとかディスコとかで単純にくくれない(実際ノーウェーブ=No Waveなんて形容もされた)、奇天烈要素満載で独自路線をゆく究極の個性派破天荒。なんか往年の戸川純というか、突き抜けておかしくなっちゃった椎名林檎みたいな感じ。暗黒そのものです。

私は10代のころ、開店したばかりの輸入盤店「タワーレコード札幌店」に通っていたのですが、バブル期の直前の1984年初頭にそこで入手した「Dance Music Report」(英語だけどwikipediaご参照)というアメリカのダンスミュージック専門誌をめくっていたら、ディスコチャート(これが購入の目的だった)で急上昇している曲を発見。それこそが彼女の代表アルバムである「Fearless」(1983年発売、ドイツ盤などの表記は「Angstlos」)収録の「ニューヨーク・ニューヨーク」(New York, New York、米ビルボードディスコチャート9位)でした。

なんだか新宿に昔あったディスコの店名みたいですけど、とにかくディスコシーンでも注目されたわけです。実際、タワーレコード札幌店の棚にもアルバムやディスコ用12インチ盤が大量に置かれていました。彼女の変なポーズの写真があしらわれている奇抜で分裂した(スキゾフレニックな)ジャケット(下写真)がひと際目を引いていたのですが、なんだかコワいので手が伸びなかったのでした。

しばらくしてこの曲をラジオで聞く機会があったのですけど、いやあ参りました。やっぱり恐ろしく変てこかつ悪趣味で、踊るどころの話ではなかった。特に彼女の歌唱法は、超高音から超低音、か細い囁きからだみ声まで自由自在。上手なのは分かるのですけど、あっちこっちに声が飛んじゃってまとまりがなく、イライラ(頭がくらくら)してきます。

ただし、その曲調はともかく、歌詞はすばらしい。徹頭徹尾「ディスコ、ディスコ!」と恥ずかしげもなく連呼しているので〜す!

内容は、ニューヨークを訪れて、世界一の大都市の華やかな文化、とりわけ当時まだ流行の先端を行っていた「ダンステリア(Danceteria)」や「マッドクラブ(Mudd Club)」「ロキシー(Roxy)」などのディスコに次々と入って大いに満喫した、みたいな感じ。凄まじいまでのディスコ魂が横溢しております。もちろん、「ニューヨークに住みたけりゃ、ただおバカになるだけでいいのよん!」とも言ってますから、パンクロッカーならではの皮肉がたっぷりとこめられているわけですが、ディスコ堂的には「ディスコ」の連呼というだけでプラス100点ですわ。

とくに日本の現場のディスコでは、耳にする機会はほぼ皆無。でも、アルバムをよくよく聴けば、シンセサイザーやシンセベースの音が小気味よく入って、踊りやすくしっかりとビートを刻んでいる曲もけっこうある。例えば、Fearlessには「Zara」なんていう曲もあり、彼女お得意の変てこなオペラ歌唱をオーバーダビングしつつ、デペッシュモードやニュー・オーダーみたいなシンセサイザーやドラムマシンも駆使されていて好感が持てます。

しかし、もっと驚くべきは、その生い立ち。1955年に旧東ドイツの首都、東ベルリンに生まれた彼女の実母は人気女優、実父は脚本家でして、最初からショービジネスの環境に育っています。両親の影響もあって早い段階でバレエやクラシック音楽を習い、テレビなどにもときどき出演してけっこうなタレントでした。旧東ドイツの映画について真面目に解説している珍しい海外のブログなどによると、1975年には「Today Is Friday」というテレビ映画にも主演し、驚天動地の清純派ぶりを見せつけております(内容は若者の望まぬ妊娠や堕胎をテーマにしたシュールなものだったけど)。

後のパンキッシュなルックスとはまったく真逆でかなりの美形。同じ「過激女性パンクロッカーの草分け」であるリーナ・ラビッチやスージー・アンド・ザ・バンシーズのスージー・スー、リディア・ランチ、さらにはちょっと異質だけど異形・異声の歌姫だったケイト・ブッシュなどとともに、「変な声だし風貌だけど普通にしてれば美人かもなあ」法則が成り立っているかのようです。

彼女は1976年、社会主義政権の当局の妨害など幾多の困難を乗り越えながら、自由を求めて両親と共に西ドイツへと移住。79年にはレコードデビューを果たします。その直前、パンクの本場ロンドンで先輩女性ロッカーであるリーナ・ラビッチやあのセックス・ピストルズの主要メンバーであるジョン・ライドンらと交流し、「こんな自己表現もあったのか!」と完璧に開眼。まったくカオスなミュージシャンへと変貌を遂げたのでした!

とまあ、そう言うこのブログも、もはやかなりカオスなわけですが…。けれども、そもそもディスコってそんなごちゃまぜなところも魅力なわけです。要は踊り狂ったもん勝ち。思いもよらない展開は常に大歓迎です。「愛ラブ混沌!」、いや「表現の自由万歳!」と小さく叫んでおきましょう。

それにしても、国内外ともに、こういう奇想天外で極端な変態ミュージシャンが最近は減ったような気がします。ヒットチャートに入るようなメジャー音楽の世界では、似た感じのダンスミュージックやバラードばかり。DTMのようなコンピューターで作る画一的でパターン化された音楽が主流になったことも一因でしょう。最大市場のアメリカもそうですが、音楽業界はメガ企業による寡占化も進みましたし、マスコミ全体を含めて巨大になり過ぎました。

まあ、一方のマイナーの世界では、例えば私の住むJR中央線沿線などにも面白いことをやろうとするミュージシャンはいっぱいいますし、インディーでアンダーグラウンドなままだからこそ、カルト趣味を満足させられるのかもしれません。実際に聴き手の嗜好も多様化しています。でも、それで稼いで食べていける人間などまずいません。無難で世間受けする音楽ばかりがもてはやされる風潮は、ニナさん的な表現の自由という意味でもいかがなものでしょうかね。

彼女は90年代以降も勢いを保ち続け、現在に至っても現役で活躍中。2000年代に入ってからは、イラク戦争の反対運動や動物愛護活動などに精力的に取り組んでおります。

CDはまあまあ出ています。肝心の「ニューヨーク・ニューヨーク」が入ったアルバム「Fearless」は今は廃盤ですが、主なヒット曲を網羅しツボを押さえたベスト盤がいくつかあります。上写真はその一つ「14 Friendly Abductions―The Best Of Nina Hagen」。私自身、最近は懐かしさもあってヘビロテで愉快にガンガン聴いております。特に最後14曲目に収録の1980年発売のカバー曲「My Way」は、前年に21歳で急逝したセックス・ピストルズの破天荒ベーシスト、シド・ビシャスへの鎮魂歌(彼も78年に歌ってヒットさせていた)ともいえます。やはり彼女の真骨頂、飛び切りハードな曲調ながらも、不思議な哀切感を漂わせる名品なのであります。

Nina_Hagen_Fearless

ワイルド・チェリー (Wild Cherry)

wild cherryまたまたお久しぶりで〜す!昨日たまたま自分のこのブログを見ていたら、訪問者数の累計カウンターが「555555」の5並びになって腰を抜かしました。思わずスクショです(下写真)。なんとなく得した気分になって参りましたので、今回は渾身の力を込めて「ワイルド・チェリー」を取り上げてみましょう!

ご存知、「Play That Funky Music(プレイ・ザット・ファンキー・ミュージック)」(1976年、米ビルボード・ポップチャート1位、R&Bチャート1位、ディスコ12位)で一世を風靡したナウでイカした白人5人組バンド。この曲は、初っ端から繰り出されるパンチの効いたギターリフが、音楽史上に輝くほどに印象的。日本でも例えば、北海道が生んだド迫力ボイスの女性ボーカリスト大黒摩季さんの90年代の大ヒット曲「別れましょう私から消えましょうあなたから」(タイトルやたら長い)のイントロでも、ちょいとパクった感じで使われています。

バンド自体は1970年、アメリカの中西部と呼ばれる地域のオハイオ州出身のミュージシャンRob Parissi(ロブ・パラッシ)さんが、地元の仲間を集めて結成。All Music Guide系サイトなどによると、バンド名は、ロブさんが体調を崩した時になめていたという、アメリカで今も発売されている咳止めドロップの「Wild Cherry」に由来します。

彼らはオハイオ州に隣接するペンシルバニア州のピッツバーグを拠点にライブ活動を展開。これが評判を呼び、間もなくレコードデビューも果たしますが、あまり売れませんでした。そこで、アメリカ有数の工場地帯で労働者としての黒人居住者も多い地元での知名度を上げるべく、オハイオ州が本場でもあるファンクミュージックとロックを融合させたような曲「Play That Funky…」を制作して発表すると、瞬く間にヒットチャートを駆け上ったのです。

この曲は当時、全米で燎原の火のごとく広まっていたディスコブームにも完璧に乗っかっていました。何しろ、歌詞の前半に「俺はロックンロールをガンガン歌うシンガーだったんだが、何もかもがイヤになった時があった。試しにディスコを覗いてみたら、みんな踊りまくってノリノリだった。そしたら誰かが俺の方を振り向いて『あのファンキーな音楽をプレイしてくれ!』って叫んだのさ」といった具合に、「ワイルド・チェリー様ご一行、ディスコへの旅立ち」がしっかりと歌われているのです!

「Play That…」が入った9曲入りデビューアルバム「Wild Cherry」(上写真)も、当然ながら大ヒット。ウィルソン・ピケットのカバー「wild cherry 99 1/2」、「Don't Go Near The Water」、コモドアーズのカバー「I Feel Satisfied」などなど、似たような感じのもろファンキーなダンス曲が目白押しです。モータウンやアトランティックといった黒人音楽レーベルの影響を濃厚に映し出しています。

すっかり気をよくした5人は、その後も次々とアルバムを発表します。…でも、これがどうしても売れませんでした。79年に出した4枚目のアルバム「
Only The Wild Survive」を最後に、あえなく解散。どれもファンキー・ロック路線を踏襲しており、ディスコ好きにはなかなかの佳作だと思うのですけど、やはり「Play That...」のインパクトが強すぎて、それを超えるモノが発表できなかったというわけです。せっかくディスコに開眼して世に出てきたのに、ブームが下火になったのと軌を一にして終焉を迎えてしまったのでした。

彼らは「あの曲」によって正真正銘の一発屋となりました。とはいえ、そんな“奇跡の1曲”があったからこそ、末永く記憶されるバンドになれたのも確かです。デビューアルバムはCD化もされていて普通に入手できます。でも…ほかの3枚は中古LPしかなく、これからも末永くCD化されることはないでしょう(トホホ)。

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CDのライナーノーツ書きました


たまには「ボカロでYMCA」
キュート奇天烈でよろし。
本業分野の著書です!―my latest book


初証言でつづる昭和国会裏面史!
著書です!―my book


キーワードは意外に「ディスコ」。
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