ディスコ堂 by mrkick

音楽に貴賎なし ―Discoの考察とCD批評

レイフ・ギャレット (Leif Garret)

Leif Garret1さて、今回はアメリカが生んだ「少年アイドルディスコ」の代表選手レイフ・ギャレットです。1970年代半ばに突如として子役スターになり、あっという間に転落していったというまさに「ディスコな人生」を歩んでおります。

レイフさんは1961年米カリフォルニア州生まれ。幼少時から子役として映画やテレビに出演し、70年代に甘いマスクのティーン・アイドルとして人気が急上昇。1976年には名門アトランティック・レコードと契約し、歌手としてアルバムを出すようになります。

最初はビーチ・ボーイズの「サーフィンUSA」をはじめとする50〜60年代のサーフ音楽などのカバー曲が多かったのですが、70年代後半に入ると完全にディスコに開眼。78年に発売したアルバム「Feel The Need」に入っている「I Was Made for Dancin'」(邦題「ダンスに夢中」)が、全米ポップチャート(総合チャート)で10位となり、最高潮を迎えます。さらに同アルバムのタイトル曲(デトロイト・エメラルズの72年のヒットのカバー)も同57位と、まずまずの結果を残しました。

人気は海を越え、日本や欧州にも到達しました。特にシングルの「Feel The Need」のB面に収録されていた軽快ナンバーの「New York City Nights」は、1980年に田原俊彦がカバーして「哀愁でいと」の邦題で発売され、大ヒットさせております。

けれども、もともと歌がうまいわけではないこの人の歌手生命は、いかにも短かった。歌手として売れ始めたころにドラッグや酒に手を出し、典型的なアイドル転落プロセスを歩むことになります。17歳だった79年には飲酒運転で事故を起こし、同乗して重傷を負い、半身不随の身になった友人から提訴され、巨額の賠償金を支払うはめになってしまいました。

81年には、日本の作曲家、都倉俊一氏らのプロデュースによりアルバム「My Movie of You」を発売しますが、まったく勢いはなく、それ以降は音楽活動からは遠ざかってしまいました。俳優活動の方も、83年公開の大ヒット青春映画「アウトサイダー」に出演した程度で、やはり凋落の一途をたどります。何しろ大きな原因がドラッグ中毒だったので、立ち直るまでには非常に時間がかかってしまうことになりました。蓋し過剰こそディスコの生命、但し過剰な人生には代償が伴うものなのです。

ようやく90年代に入り、アメリカの「あの人は今」的なテレビ番組に出演したり、音楽活動も少しずつ再開したりするようになったものの、もう完全に「過去の人」です。

個人的には、「I Was Made for Dancin'」と「New York City Nights」はなかなに出来のよいアゲアゲ絶好調ディスコだと感じておりまして、12インチのロングバージョンなんかも昔に買った覚えがあります。しかし、ディスコのコンピレーションなんかでもほとんど無視されており、悲しい限りです。

というわけで、この人のCDはかなり絶望的なのですけど唯一、ベスト盤「The Leif Garrett Collection」(上写真)が主なヒット曲を網羅していて充実しています。例えば、前記「I Was Made...」と「New York...」以外では7曲目「You Had To Go And Change」、9曲目「Runaway Rita」なども米西海岸風の気分爽快なロックディスコが炸裂しておりまして、ベイ・シティ・ローラーズあたりと繋げてかけると思わぬ狂喜乱舞になりそうです。

ザ・シャイ・ライツ (The Chi-Lites)

Chi Lites最近なんだか説明くさい内容の投稿が増えているなとは薄々気付いておりまして、手詰まり状態ゆえの「やっつけ」感丸出しではあるものの、「ええい!ままよ!」とばかりに気を取り直し、今回は米イリノイ州はシカゴが生んだソウルボーカル・グループ界の重鎮、シャイ・ライツと参りましょう!

というわけでシャイ・ライツは、1950年代後半から活動しているという恐ろしく息の長いグループ。当初はHi-Lites(ハイ・ライツ)というグループ名だったのですが、1964年にメンバー達の地元であるシカゴ(Chicago)のスペルの「C」を加えてChi-Litesと改名し、現在に至っております。

中心人物は、なんといってもメロメロメロウな極上スウィート・ボイスが売り物のユージン・レコード(Eugene Record)さんです。リードボーカルのみならず、作曲もプロデュースもこの人が主に担当しておりました。所属レーベルは1916年創業の老舗ブランズウィック(Brunswick)。シカゴ発とはいいつつも、ストリングスを多用した流麗なダンスミュージックで知られるフィリーサウンドのような甘〜い楽曲を続々と世に送り出しております。

最初はなかなか芽が出なかったシャイ・ライツ様御一行ですが、69年になってミデアムスローなダンスナンバー「Give It Away」が米R&Bチャート上位(10位)に食い込み、徐々に存在感を増していきます。70年には、ビヨンセの2003年の大ヒット曲「Crazy In Love」でイントロ部分が豪快にサンプリングされた「Are You My Woman? (Tell Me So)」が、同8位まで上昇しています。

翌71年には、「Give More Power To The People」が同4位まで上昇。以前に紹介したエドウィン・スターの骨太反戦歌「War」とか、アイズレー・ブラザーズの「ファイト・ザ・パワー」などと同時代のプロテストソングで、反貧困や反差別を高らかに歌い上げており、普段はメロウな彼らの男気ある一面を見せております。

シャイ・ライツがピークを迎えるのはこの直後のこと。4人の美声が織りなすハーモニーが万人を夢心地へといざなう「Have You Seen Her」(71年)、そして誰もが一度は耳にしたことがあろう「Oh Girl」(72年)が、いずれもR&Bチャートで1位を獲得したのでした!特に「Oh Girl」は、全米総合チャート(ポップチャート)でも1位に輝く特大ヒットとなりました(ちなみに松山千春の「恋」にチョイ似)。前者「Have You Seen...」も、ポップチャートで3位に入っております。

こうして彼らはスィートソウルの覇者となったわけですけど、ピークを過ぎてセールスも落ちてきた70年代半ば以降は、やはり爆発的に台頭する“ザ・ディスコ”の要素を少々取り入れるようになります。中でも、1977年発表の底抜けに陽気なジャケットのアルバム「The Fantastic Chi-Lites」(上写真)では、ダイアナ・ロスLove Hangover」ばりに曲の途中からあれよと言う間にテンポが急上昇して煽りまくる「My First Mistake」が、ダンスフロアでなかなかの人気となりました(チャートは振るわなかったが)。

このころ“看板役者”ユージン・レコードはソロ活動を本格化させ、アルバムも何枚か発表。特にシングルで発売された「Magnetism」(79年)は、身震いするほど軽快なデンサブル全開チューン。ときどき「ぼよよよ〜ん」とおもちゃみたいなおとぼけ電子音も入ってきて、なかなかに洒落の利いた内容になっております。

シャイ・ライツは正真正銘のボーカル・グループですが、実は70年代後半のディスコ・ブームの到来以降、ソウル界では彼らのようなボーカル・グループが総じて失速し、代わってダズ・バンドとかコン・ファンク・シャンバーケイズといったバンドが勢いを増すようになりました。

そうしたバンドは、80年代に入るとシンセサイザーを多用した重量級ファンクを好んで演奏するようになり、それが後のヒップ・ホップの隆盛のひとつのきっかけになったわけですが、逆に70年代前半まであれだけ流行した小じゃれた男性ボーカル・グループは、飽きられたのかあまり評価されなくなっていったのでした。

それでも、シャイ・ライツは試行錯誤を続けながらアルバムを発表し続けました。ディスコブームが終焉した後の83年には、「Bottom’s Up」がR&Bチャート7位(米ディスコチャート47位)まで上昇し、久しぶりのヒットとなりました。浜辺で地引網を引くような「よっこらしょ、どっこいしょ」リズムを前面に押し出しつつ、ギャップ・バンドみたいな“ぶいぶいシンセ”を駆使したスローミディアムの佳作となっております。

個人的には、81年発売のアルバム「Me and You」に収録の「Try My Side Of Love」が秀逸だと思っております。彼ら独特のドゥーワップ調のボーカルワークと、少々カリプソな雰囲気を醸す南洋性の旋律がうまく調和しており、これがフロアでかかれば、ゆらゆらとコンブのように心地よく踊れそうです。

80年代後半以降は、セールス的に下降線をたどってしまったシャイ・ライツ。2005年には中心人物のユージン・レコードが64歳で死去し、「もうこれまでか」と思われましたが、草創期から在籍するMarshall Thompsonら残りのメンバーが踏ん張って現在もライブなどの活動を続けています。結果として、メンバー交代を経ながらも、半世紀以上前の1950年代からのソウル音楽界の生き証人のような存在となっているわけです。

CDについては、70〜80年代に発売されたアルバムを中心にまずまず再発されています。ユージン・ワイルドのソロアルバムもここ数年でいくつか発売となっており、とりわけ英Expansion Recordsの「Welcome To My Fantasy」(79年)の再発CD(下写真)には、貴重な欣喜雀躍ディスコ「Magnetism」の7分バージョンや、ゴージャスでダンサブル上等なメドレー曲(「I Don't Mind/Take Everything」)もボーナストラックとして入っていて楽しめます。
Eugine Wild

ザ・タイム (The Time)

The Timeここ東京は好天の日曜日となりましたが、今回は1980年代に活躍したプリンスファミリーのコミカルなファンク・バンド「ザ・タイム」と参りま〜す。

このバンドの起源は、1975年に米ミネアポリスで結成された「Flyte Tyme(フライト・タイム)」。リードボーカルは後にリップスに移って「ファンキータウン」(1980年、米ビルボード一般総合1位、米R&Bチャート2位、米ディスコチャート1位)という大ヒットを飛ばしたChynthia Johnson(シンシア・ジョンソン)が担当し、他にも 1980年代半ばからSOSバンドジャネット・ジャクソンのプロデュースで名を馳せることになるJimmy Jam(ジミー・ジャム、キーボード)やTerry Lewis(テリー・ルイス、ベース)も参加していました。

才人を集めつつもあまり売れなかったFlyte Tymeは、1981年、同じミネアポリスで既に頭角を現していたかのプリンスの指揮の下、ザ・タイムとして再出発。プリンスはリップスに移ったシンシアの替わりに、高校時代からのバンド・メイトであるモリス・デイをボーカルとして加え、音楽的にも自らの得意とするロックテイスト濃厚なシンセ・ファンク路線へと移行させました。これが奏功し、80年代を通してなかなかの存在感を発揮する異色ファンクバンドとして成長を遂げることになったのです。

ただ、81年に発表したタイムのファースト・アルバム「Time」は、名目上はジミー・ジャムやテリー・ルイスらメンバーの演奏となっているものの、実際はプリンスがモリスのボーカルを除くすべてのパートを演奏して制作されました。

あまりにも大きな影響力を発揮する天才プリンスと、袖にされがちなタイムの各メンバーとの確執も絶えませんでしたが、プリンスがソロアーチストとして忙しく活動するようになった82年に発表した2枚目「What Time Is It?」以降は、(プリンスの影響は依然大きいにせよ)バンド本来の独自性を見せるようになっていきます。

タイムの特徴は、なんといっても「80年代のディスコ伝道師」モリス・デイのチャップリンみたいなおどけた風貌とパフォーマンス、それにときどき「ウホホホホ!」と熱帯雨林の鳥類のような雄叫びまでをも交える個性的なボーカルワークにあります。1982年の「777-9311」(R&B2位、ディスコ47位)、「The Walk」(同24位、ディスコ47位)、84年の「Ice Cream Castles」(同11位、同70位)、Jungle Love(同6位、同9位)、85年の「The Bird」(同33位、同6位)など、ディスコでも人気を博した曲が数多くあります。

また、モリスさんは、プリンスが84年にプロデュースした映画「パープル・レイン」にミュージシャン役で起用されており、そこでは「Jungle Love」を始めとする自分たちの曲をコミカルに披露しております。このジャングル・ラブなどは、現在のUptown Funkなどのダンスヒットで知られるBruno Marsらの音作りに色濃く反映されており、80年代の音楽がなおもしぶとく息づいていることを感じさせます。かなり以前の曲ですけど、日本では米米クラブの「コメコメウォー」(88年)もオマージュ的に似たところがあります。

Timeは90年に「Jerk Out」(総合9位、R&B1位、ディスコ6位)という素っ頓狂な“鳥の雄叫び”をちりばめた大ヒットを飛ばした後、ヒット作は出なくなりました。この曲が入った「Pandemonium」が彼らの最後のアルバムになってしまったのですが......特筆すべきは、このアルバムにはなんと「Donald Trump (Black Version)」という曲も収録されているのです。文字通り、不動産王として既に有名だったトランプ・現米大統領をテーマにしたラブ・バラードで、「君はやっぱりトランプのようなお金持ちの男がいいんだろ?」みたいな歌詞が展開しております。これも作曲はプリンスでして、彼の天才ぶりならぬ“預言者”ぶりが、こんなところにも発揮されているのでした。

そんなわけで、トランプの呪いなのかどうか、90年代以降は勢いがなくなってしまったザ・タイム。それでも、解散・再結成を繰り返しつつ、2000年代以降も命脈は繋いでいます。昨春にプリンスが亡くなったすぐ後にも、ロンドンで追悼の再結成ライブパフォーマンスを披露しています。

タイムが81〜90年に発売した計4枚のアルバムともに、きちんとCDで再発されています。写真は、「ジャングル・ラブ」や「ザ・バード」が収録された84年発売の3枚目「Ice Cream Castle」。モリスさんの80年代のソロ作品「Color of Success」と「Daydreaming」も再発されておりまして、こちらも雄叫び度はやや低いながらも、彼特有の「ねっとりボーカル」を生かした落ち着いた感じのR&Bダンス曲が楽しめます。

ジュニア (Junior)

Junior謹賀新年。お久しぶりで〜す。今回は景気よく、イギリス発ソウルの先駆者でもあるジュニアさんと参りましょう!

彼の代表曲は、何といっても1981年発売の「Mama Used To Say(ママ・ユース・トゥ・セイ)」(全米R&Bチャート2位、全米ディスコ4位、全米総合チャート30位)。特徴的なファルセット・ボイスが生かされた80年代ソウル・ディスコの傑作といわれています。

この曲は、プロモーションビデオ(PV)もチープなCG映像にあふれかえる陽気さが特徴でなかなか面白いのですが、アルバム・バージョンや12インチ・バージョンだと、イントロの最初にボンゴのリズムが忍び足で入ってきたかと思うと、途中からは「かんかんころりん、かんころりん」とおとぼけパーカッションが彩りを添えるというひねり技を展開しています。

この「かんころりん」は、ジュニアのベストアルバムCD「The Best Of Junior」(写真)によると、本人と制作スタッフが「何かインパクトのある音を加えたい」というわけで録音作業中に急きょ挿入したもの。なんと録音スタジオの近所から牛乳ビンを何本か入手し、それぞれに水を入れて音色の違う「ビン打楽器」を作って即興で音を入れたのでした。

そんな人知れぬ工夫もあって、見事に世界的なヒット曲を生み出したジュニアさん。それまでは黒人ソウル音楽といえばアメリカ発がお定まりだったわけですが、イギリス人の黒人として米国市場で売れた草分けの歌手になったのでした。

彼は「ママ」以降も、「Too Late」(81年、R&Bチャート8位、ディスコ67位)、「Unison」(83年、R&B44位)などの軽快なフロア・ヒットをいくつか飛ばしました。さほど売れなかったものの、84年発売の「Somebody」も重量感のある音作りで結構なダンサブルぶりを発揮しており、実際にディスコでもよく耳にしております。87年には、少し前に紹介したキム・ワイルドとのデュエット曲のロックディスコ「Another Step Closer To You」を本国イギリスを中心に大ヒットさせました。

80年代後半以降は、アーチストとしては人気が下降し目立った活躍はできなくなりましたが、エイミー・スチュアートやマキシ・プリースト、シーナ・イーストンといった他の人気歌手に楽曲を頻繁に提供するなど、作曲家・制作者としての才能を開花させています。

ジュニアさんは1961年生まれ。本名はNorman Giscombe Jr.といいまして、そこから「ジュニア」というアーチスト名が付けられました。80年ごろには早くもプロとしての音楽活動を始めていたのですけど、その初期の81年に本名でリリースした「Get Up And Dance」という曲がありまして、これがかなりレアで良質なディスコ曲となっております。同じイギリス育ちのソウル・ディスコ歌手だったビリー・オーシャンにも似た感じ。まだ20歳そこそこだったわけですので、相当に早熟なアーチストだったといえるでしょう。

この人のCDは、「ママ」が入ったデビューアルバム「Ji
」(1982年)以外はあまり再発されていません。さほどヒット曲もないので、ディスコ時代のヒット曲が12インチバージョンも含めてほぼ網羅された上記ベスト盤(米Mercury盤)が無難かと思われます。

聖なるディスコ (Divine Disco)

_SL1200_このブログでもかつて触れましたけど、黒人教会音楽であるゴスペルは、米国を中心とする黒人ディスコアーチストにも多大な影響を与えました。ジェームズ・ブラウンアレサ・フランクリンチャカ・カーンをはじめ、奴隷制度時代から根強く残る黒人差別や、ちょうど彼らの幼少期・少年期の1960年代に高揚した黒人差別撤廃運動を直に体験し、感性豊かな音楽的素養を育んだ大物ソウルミュージシャンは数知れません。

そこで今回は、最近発売された、ゴスペルとディスコを融合させた小粋なコンピレーションCD(上写真)をひとつ、唐突に紹介してみたいと思いま〜す!題して「Divine Disco」(聖なるディスコ)。発売元は米Cultures Of Soul Records(カルチャーズ・オブ・ソウル・レコード)です。

タイトルだけ見るとなにやら厳かな気分になり、「こりゃ踊ってる場合じゃないかな」と姿勢を正したくもなりますが、ご安心ください。70年〜80年代の音源を中心とした神ディスコ、祈りディスコの世界が横溢しており、もう初っ端から最後まで腰をくねらせて踊り狂わずにはいられませんもの。

高揚感たっぷりのゴスペル・コーラスは、ディスコとはもともと相性よろし。あの情熱的な歌声にずしりと重い四つ打ちビートが重なれば、もう怖いものなどありません。典型的ゴスペル・ディスコとしては、80年代の著名DJラリー・レバンがよくディスコでプレイした曲で、Lamont Dozierの「Going BackTo My Roots」にも似た感じのThe Joubert Singersの「Stand On The World 」(84年)あたりを思い出しますけど、このコンピもなかなかにレアでスピリチュアルなダンスチューンが満載なのです。

収録されているのは米国の無名ゴスペル・アーチストばかりですが、曲のタイトルからして、「Free Spirit」(自由な精神)とか、「One More Chance, Lord」(神よもう一度チャンスを与えたまえ)などゴスペルらしさ満開。7曲目「Thank You Jesus」(Gospel Ambassadors)などは「サンキュー、キリスト!」とちょいと軽めのタイトルではあるものの、イントロからドラム音がひたすら軽快に展開するノリノリぶり。

6曲目「Jesus Is Going Away (But He's Coming Back Again)」(The Inspirational Souls)に至っては、「イエス様は行ってしまった。でも彼はまた戻ってくるんだ」と、なにかと忙しいキリストが復活して自分たちの元に帰ってくることを素直に喜び、感謝の心をダンサブルな形で捧げています。

それもその筈。当ブログではくどいほど登場してきた鎌倉時代の一遍上人の踊念仏と同様、ディスコ、つまりダンスは世界共通の祈りであり、念仏なのであります。踊念仏を源流とする盆踊りは、年に一度、先祖の霊(仏様)と交流する楽しい儀式です。神社の祭りの神楽だって、文字通り「歌って踊って神様を楽しませて、自分たちも楽しむ」ことに本来の意味があるわけです。

ですから、このCDのジャケットのように、(背景が暗いからなんだか阿鼻叫喚地獄みたいでコワいにせよ)両手を高々と掲げながら、集団で狂喜乱舞するとあら不思議、輝けるディスコ神やらディスコ仏やらが、歓喜のシャワーのごとく、諸人の頭上に分け隔てなく遠慮なしに降り注いでくるわけです。もちろん、“注ぎ口”は、天井(天空)に鎮座する「ザ・ディスコご神体」のミラーボール。頑なな心が解き放たれることウケアイです。

14曲目に入っている先述の「Thank You, Jesus」の現代リミックスも注目点です。私自身、70〜80年代当時のオリジナルディスコへの志向が強い方なので、主に90年代以降の現代風リミックスには強い関心がないのですけど、この曲については、最新デジタルの複雑な音色が極力抑えられ、アナログシンセ風イントロがどことなく最近流行の「ピコ太郎」していて微笑ましい。

世界から思わぬ注目を浴びた「アポーペン、パイナポーペン」もシンプルだからこそ印象付けられたわけで、そこに「アーメン」的な国境・言葉の壁を越えた“呪文効果”が出るのだと思わされます。

折りしも、人種差別をちらつかせて(否、あからさまに公言して)、白人至上主義と指摘されるトランプ氏が米大統領選に勝利した後、アメリカではヒスパニック系や黒人の人々への心無い発言や差別行為が既に散見されるようになっています。時代の不安を映し出しているかのようですが、そんな今こそ、解放と融合を目指すゴスペル魂の伝統に裏打ちされた「聖なるディスコ」の活躍の時ではないでしょうか!(ためらいつつも断定)

このタイムリーな企画モノCDに入っているようなゴスペル・ディスコに耳を傾け、その祈りの調べに身を任せて汗を流せば、どんよりとした曇り空のような内向き思考の憂鬱などどこふく風。みるみるうちに、負を正に転換する明日への活力がみなぎってきます。クリスマスも近づく昨今、「ラブ・アンド・ピース!」よろしく無邪気に宇宙の果てまで舞い上がるのは楽しいもの。高過ぎて手が届かないと思ったら、神様って意外に身近にいたのです。

イヴォンヌ・エリマン(Yvonne Elliman)

Yvonne少し間が空いてしまいましたが、今回は静々とハワイ生まれのディスコディーバ、イヴォンヌ・エリマンと参りま〜す!

ハワイ出身の有名人といえばオバマ大統領と早見優ですが、ハワイの地元紙ホノルル・アドバタイザーの記事などによると、1951年に生まれたイヴォンヌさんは、なんと日本人の母、白人の父を持つ日系アメリカ人で顔立ちは実にアジアン。幼いころに音楽に目覚め、ピアノやウクレレを練習し、高校時代にはバンドを組んでライブ活動を始めました。

そんなある日、音楽の先生に「お前はやればできるから、イギリスで修行しろ!」と促されて高校卒業後に渡英。音楽業界の代理人を通して、ロンドンで高名なミュージカル音楽プロデューサーであるアンドルー・ロイド・ウェバーを紹介されました。

そこで彼の不朽の名作「ジーザス・クライスト・スーパースター」のロックオペラと映画でマグダラのマリア役を務めるというチャンスに恵まれ、飛躍的に知名度がアップ。同時にロック界の英雄エリック・クラプトンのバックボーカルにも抜擢され、彼の大ヒット曲「I Shot The Sherif」(74年、米ビルボード一般総合チャート1位)でもその歌唱力をいかんなく発揮したのでした。

彼女はソロアーチストとしても、71年に「ジーザス…」の挿入歌バラード「I Don't Know How To Love Me」が全米一般総合チャート(ポップチャート)28位まで上昇したほか、76年にビージーズが作曲したしっぽりスローテンポのポップバラード「Love Me」が同14位に、77年に似た感じのスローテンポ「Hello Stranger」が同15位にそれぞれチャートインするなど、順調にスター街道を突き進んで言ったのでした。恐ろしいほどのとんとん拍子ぶりです。

そして1978年、運命の時が訪れます。当時の夫ビル・オークス(Bill Oakes)が社長を務めるRSOレコードが、完全無欠のディスコサントラ「サタデーナイト・フィーバー」を発売。その中で再びビージーズの作品「If I Can't Have You」を歌い見事、米ビルボード・ポップチャートで1位を獲得したのでした!マイケル・ジャクソン「スリラー」の6,500万枚に次ぐ世界2位の4,000万枚も売れたというこのお化けアルバムからは、計7枚のシングルカット曲が1位になっていますが、堂々とその一角を占めることになったのです。

翌1979年には、同じRSOからアルバム「Yvonne」を発表。A面1曲目に収録のディスコ曲「Love Pains」(総合34位、米ディスコチャート75位)がまずまずのヒットとなりました。「デケデケ」シンセサイザーのベース音と朝の陽射しのように柔らかなストリングスの音色がうまくマッチしたこの曲は、RSOが12インチを制作したほか、82年には米西海岸のディスコ専門レーベル「モビーディック」がリミックスを手がけており、ディスコフロアでは「If Can't Have…」に匹敵するほどの人気となりました。

モビーディック盤については、私がかつて紹介したように、レーベルの元関係者からテスト盤をいただくという僥倖に恵まれましたので、個人的にも特に印象深いレコードとなっております。

超大物プロデューサーやエリック・クラプトンとの出会い、大手レコード会社の社長とのセレブな結婚生活といった多くの幸運もあり、女優・歌手としてスターダムにのし上がったイヴォンヌさん。しかし、社長とはその後離婚。2人目の音楽家の夫とは2人の子供に恵まれましたが、やはり別れて子供をつれてハワイに戻ってきました。80年代以降は音楽活動からも遠ざかってしまいました。2000年代に入ってようやく活動を再開し、新作アルバムを発表するなどしているものの、もう「過去の人」との印象はぬぐえません。

CDはベスト盤が中心でしたが、今年になって、ディスコ期の2枚のアルバムをボーナストラック付きで収録した「Night Flight / Yvonne」が2枚組CDとして発売されております(上写真)。「If I Can't」のディスコバージョンやLove Painsの12インバージョンが入っており、音質もまずまずです。

このCDのライナーノーツには彼女のインタビューが載っており、「本当はクラプトンと一緒に仕事をしていた時のように、もっとロックを歌いたかったが、制作サイドから機会を与えられなかった」「2度目の夫は外で音楽活動させてくれず、結局は家庭に収まってしまった」などと語っています。スターにはなったものの、心底音楽に没入できなかった部分があったのかもしれません。だからこそ、20年以上ものブランクが生まれたということでしょう。

そんな背景にも思いを馳せながら、晩秋の夜長、ディスコからバラードまで幅広く歌い上げるアジアンな彼女の歌声を今一度、堪能してみるのも一興ではないでしょうか。

ヴォヤージ (Voyage)

Voyageさて、あれだけ騒々しかった近所のセミの声が聞こえなくなり、代わってコオロギが俄然張り切って夜長の主役の座についております。儚さひとしお季節の変わり目、テンション高めの今回は、フランスが生んだ爽やか過ぎる「幸せ独り占めディスコ」、ヴォヤージと参りましょう!

英語で「旅」の意味を持つヴォヤージ(Voyage)は、1970年代後半から80年代前半にかけて活躍した腕利きの裏方ミュージシャンたちで編成されたディスコ専門グループで、4人のフランス人男性(Marc Chantereau、Pierre-Alain Dahan、Sauveur Mallia、Andre Slim Pezin)が中心となって結成しました。

特に77年発売の彼らのデビューアルバム「Voyage」(米ビルボード・ディスコチャート1位)はあからさまなコンセプトアルバムとなっており、ボーカルを最小限に抑えたノンストップの正統派インストゥルメンタル・ディスコ。A面1曲目の「From East To West」(同チャート1位、米R&Bチャート85位)で飛行機に乗って東から西へと旅立ち、途中アフリカ(同2曲目「Point Zero」)、アジア(同3曲目「Orient Express」)、欧州(B面1曲目「Scotch Machine」)、南米(同3曲目「Latin Odyssey」)を経由して、気がつけばアメリカ(同4曲目「Lady America」)に無事到着しています。

なんと「計30分ちょっとで踊りながらまんまと世界一周」を果たすという、世界を股にかける「007」のジェームズ・ボンド顔負けのお手軽「空の旅ディスコ」なのでした。これを「30分間の贅沢&愉悦」と言わずして何と申しましょうか!それぞれの曲の調子も、案の定空港ラウンジ音楽な感覚をふんだんに盛り込みつつも、サンバのラテン風あり、シタール使いのオリエンタル風あり、素朴なパーカッション炸裂のアフリカ・ジャングル風ありと、世界一周だけあって飛切り(忙しなくも)ゴージャスな趣向となっております。アルバムのジャケットは「宇宙から見た地球の写真」のデザインとなっており、もう確信犯そのものです。

演奏も、もともとジャズやフレンチポップの分野で長年にわたり大物ミュージシャンとコラボレーションするなど、しっかりと経験を積んだ手練(てだれ)ぞろいだけにしっかりしております。アルバムを通して聴いていると、飛行機だけではなく、大地をぐんぐん駆け抜ける東海道新幹線「のぞみ号」か、はたまたサバンナを軽快に疾走する最速チーターか、という具合にあらゆる「速いもの」を想像してしまいます。全盛期を迎えていた70年代大仰ディスコの真髄を見る思いであります。

彼らの高速「旅ディスコ」路線は、翌78年に発売された2作目アルバムにも引き継がれました。タイトルも「Fly Away」(米ディスコ1位)とまたもや確信犯です。収録曲の曲調はデビュー作と似ており、アジア風やらアフリカ風やらポリネシアン風やらとやはり多国籍。中でも主軸のA面1曲目「Souvenirs」(スーベニア=旅のおみやげ。邦題は「恋のスーヴェニア」。米ビルボードディスコチャート1位、米R&B73位、米一般総合チャート41位)では、ボーカルとして加わったイギリス人女性(Sylvia Mason)が、駅弁売りのお兄さんのように「すべに〜〜〜あ♪(おみやげ〜〜〜♪)」と豪快に雄叫びを上げていて微笑ましい限りであります。

さあ、ディスコブームの波に乗り、2作続けて世界中で大ヒットを記録した「ユーロディスコの雄」ヴォヤージですが、80年代に入ってからはどうだったのでしょう。彼らは節目の80年を境に、「もうディスコは飽きた」と思ったのか、もしくは「もうブームは終わった」と見切ったのか、ちょっと渋めのファンキー&ロック路線へと大きく舵を切りました。

80年発売の3作目「Voyage 3」では、一変して男性ボーカルを中心に据えた「I Love You Dancer」(米ディスコチャート17位)、「I Don't Want To Fall In Love」などのディスコ曲が収録されていますが、どうにも地味な印象はぬぐえません。それぞれの曲自体は悪くないのですけど、「やっぱディスコのボーカルは女性の方が有利だなあ」と思わせる内容になってしまいました。ディスコブームの退潮とも相まって、セールスも一気に落ち込んだのです。

そんなわけで、82年発売の4作目「One Step Higher」では、シンセサイザーを多用したややライトなディスコ路線を復活させましたが、時既に遅し。これが最後のアルバムとなってしまいました。以前に当ブログで紹介したAlec R. CostandinosCerroneらと並ぶ「フランス発人気ディスコ」の代表格だったヴォヤージも、ついにここで刀折れ矢尽きる状態となり、文字通り時代の彼方へと「ボン・ヴォヤージ!」(Bon Voyage=行ってらっしゃい!)してしまったのでした。

ただし、この最終作のA面1曲目に収録されたシングルカット曲の「Let's Get Started」については、再び高揚感のある女性ボーカルとコーラスをフィーチャーし、とってもハッピー・ゴー・ラッキー(楽天的)で爽快感たっぷり。ヴォヤージの真骨頂であるラウンジ風旅ディスコを見事に復活させており、彼らの短いながらも充実した旅(何しろ世界一周)の最終章にふさわしい名曲だと思います。当時のディスコでも聞いたことがありますが、これがかかると一気に場が華やぐ感じです。この数年後のバブル末期(89年)にディスコでよく聞いたスウィングアウト・シスターの「You On My Mind」にも似た雰囲気。私自身、NHK-FMの人気番組「クロスオーバー・イレブン」などで必死になってカセットデッキにエアチェック録音したものでした。

そんな有終の美を飾ったヴォヤージのアルバムは4年ほど前、英Harmless Recordsのディスコ復刻CDシリーズ「Disco Recharge」で4枚とも再発されました。それぞれ2枚組で、12インチバージョンも豊富に収録されていてかなり楽しめます。代表曲をコンパクトに堪能したいという向きには、カナダUnidiscのベスト盤「The Best Of Voyage」(写真)もあります。このCDのブックレットの表紙では、左に「Voyage」、中央に「One Step Higher」、右に「Fly Away」のLPのジャケット写真があしらわれています。

スパークス (Sparks)

Sparks_Newいやあ気がつけば、夏もすっかり終わってました!……というわけで今回は、火花飛び散るド迫力のディスコ伝道師、スパークスと参りましょう。

スパークスは、米ロサンゼルス出身のRon Mael(ロン・メイル)とRussell Mael(ラッセル・メイル)兄弟が中心になって1960年代後半に結成した「Halfnelson」が前身。2人は当時のアメリカ西海岸で盛んに流れていたフォークソングやプロテストソングに「あまりに理屈っぽい!」と嫌気が差し、ザ・フーやピンク・フロイドといったイギリスのモッズ、プログレッシブロック、グラムロック、アートロックに傾倒していきました。71年に「スパークス」と改名し、英国を中心に売り込みを開始。現地でトップ10ヒットを放つなど人気を不動のものとします。

アメリカの音楽業界で60年代と80年代に「ブリティッシュ・インベージョン」(英国の来襲)という言葉が使われたように、アメリカで人気を高めた英国人ミュージシャンは星の数ほどいます。でも、米国人なのに英国の音楽に心底惚れ込み、英国に出かけていってそこでまず火がついてしまったユニークな米国人ニューウェーブバンドになったわけです。

スパークスは、高音ボイスと派手な動きでステージを駆け回る弟ラッセルが前面に出て、その傍らで兄ロンが極端な無表情でキーボードを弾き続けるという摩訶不思議な「陰と陽」の設定。音楽的にはやはりプログレかつグラムロックな内容で、70年代半ばまでは「This Town Ain't Big Enough For Both Of Us」(74年)などの一風変わったロック系の大ヒットを英国で連発していたのですが、70年代後半には早くも息切れしたのか、人気が下降線になりました。そこで目を付けたのが、当時世界中を席巻していた「ディスコ」だったのです!(安易だけど)

彼らはここでなんと、いきなり「ディスコ百獣の王」の名を欲しいままにしたイタリア人音楽家ジョルジオ・モロダーさんにプロデュースを依頼。太っ腹のジョルジオさんは二つ返事で承諾し、ドナ・サマー顔負けの「ビロビロデケデケ」シンセサイザーを駆使したアルバム「No.1 In Heaven」(上写真)を制作し見事、英国チャートでのトップ10入りを再び果たすことになったのでした。

このアルバムで2人は、「Beat The Clock」(79年、英レコードリテーラー・ミュージックウィーク誌チャート9位)、「The Number One Song In Heaven」(同、同12位)、それに「Tryouts For The Human Race」(同、同5位)というディスコ曲を連打したわけです。いずれも弟ラッセルのひょろひょろした高音と幻惑の宇宙的シンセサイザーが妙に調和し、それを正確無比の生ドラムが律儀に下支えしている感じ。独特のクラシカルなメロディーラインもどこか哀愁を帯びていて、心地よく踊りの境地へと誘い込みます。しかも、これらの12インチシングルでは赤とか青の様々な色付きレコードやピクチャーレコードも数多く発売され、もう「ディスコ全開でスタンバってま〜す!」状態なのでした。

ラッセル&ロンは、このアルバムを契機にシンセ街道をばく進。80年代全体にわたってほぼ毎年、ダンス系アルバムを世に送り出しました。特に83年に発売したアルバム「In Outer Space」からは、ゴーゴーズのギタリストであるジェーン・ウィードリン(Jane Wiedlin)とのデュエット曲「Cool Places」、が米ビルボード総合一般チャートで49位、同ディスコチャートで13位まで上昇するヒットとなり、逆輸入的な形で故郷に錦を飾ることにもまんまと成功したのです。私もこの曲は当時ディスコで耳にしましたが、イントロから「デデデデ…」と野太いシンセ音が小気味よく展開し、のっけから踊り心がくすぐられたものでした(テンポやたら速いけど)。

さて、この兄弟は80年代までの勢いはないにせよ、今もその唯一無二のロックディスコぶりは健在。90年代以降もコンスタントに新作を発表したり、世界中をツアーで回ったりして、元気に活躍を続けております。かれこれ半世紀もの息の長〜いキャリアを支えてきたのも、実は70年代末の捨て身の「ディスコ開眼」であったにちがいないのであります。

スパークスのCDは、キャリアが長いだけにたくさん出ていますが、ディスコ好きとしてはどうしても欠かせない「No.1 In Heaven」のほか、80年前後の12インチバージョンを集めた2枚組「Sparks Real Extended」(英Repertoire Records、下写真)がダンサブル爆発の好盤となっております。

Sparks Real




カメオ (Cameo)

Cameo今回はまったりとカメオで〜す。「キャミオ」とか「キャメオ」といった表記がされることもありますが、英語の発音に忠実過ぎてちょっと気持ち悪いので、当ブログでは昔の国内盤LPで使われていた一般的な表記「カメオ」で統一したいと存じます。

さて、このカメオの中心人物は、ブラコン界の大立者ラリー・ブラックモン(Larry Blackmon)さんです。1956年、ニューヨークのハーレム地区生まれ。名門ジュリアード音楽院にも通っていた才人で、10代のころからドラマーとして一流プロのミュージシャンのセッションに加わっていました。1975年に仲間たちと前身の「New York City Players」というグループを結成し、これが後にCameoに名称変更されます。

75年発売のデビュー曲は「Find My Way」というもろディスコの逸品。それもそのはず、彼らがこの時に最初に契約したレコード会社は、このブログではしつこいほど登場してきた"ディスコの殿堂"カサブランカ系列のレコード会社(Chocolate City)だったのです。この曲は数年後、以前に紹介した1978年公開のカサブランカ制作のディスコ映画「サンク・ゴット・イッツ・フライデー」用にリメイクされて、挿入歌として使われました。つまり、後に個性派ファンクグループとして一時代を築いたカメオも、まずはディスコで第一歩を記したのでした。

その後、80年ごろまでは大編成(最大13人)のファンクディスコ・グループとして、オハイオ・プレイヤーズバーケイズ、タワー・オブ・パワーみたいなホーンセクションを軸とした曲作りに勤しんでいました。それにラリーさんの粘着質な歌声や、スライ・ストーン、オハイオ・プレイヤーズ、バーケイズなどにもよく見られた「ヤウヤ〜ウ!」という掛け声が乗っかってくる感じです。70年代ではもう1曲、「I Just Be Want To Be」(79年。米R&Bチャート3位、米ディスコチャート52位)も、いかにもファンクディスコのノリで豪快に攻め込んでくる佳作となっております。

これが1980年代半ばになると、音楽的に大きな変貌を遂げます。当時、急速に浸透していったシンセサイザーやドラムマシーンを多用するようになり、アーバンなヒップ・ホップの要素を強く打ち出すようになっていったのです。

このころに大ヒットしたShe's Strange(1984年。R&B1位、ディスコ25位、米一般総合チャート47位)とかSingle Life(1985年。R&B2位、ディスコ26位)、そして代表曲のWord Up(86年。R&B1位、ディスコ1位、総合6位)などは、音数はやや少ないものの、シャープでソリッドなダンスミュージックに仕上がっております。全米の一般総合(ポップ)チャートにも食い込むようになり、セールス的にはピークを迎えました。

同時に、ラリーさんは80年代半ばにバンドの構成員数を3人にまで絞り、残りは適宜サポートメンバーとして加わってもらうという方法に切り替え、人件費の大幅削減にも成功。70年代に活躍した多くのソウル・ファンク系バンドが80年代になって低迷していく中、音楽的にも経済的にも怒涛のバンドマスターぶりを発揮したのでした。

日本ではとりわけWord Upが、80年代後半のバブル期の定番曲としてもてはやされたものでした。「ピヨピヨ、ヒュルル〜ン」とお得意のシンセ音が縦横に飛び回り、フロアにいるこっちも心がピョンピョンと躍りだしたものです。テンポ数(BPM)は少なく遅めの曲ですので、踊り方は海藻のようにゆらゆら、ゆったりとしたもの。一部のブレイクダンス好きの人々などは、もっとバックビート(裏拍子)を意識して跳ねるように踊っていたのをよく見かけました。プロモーション・ビデオ(PV)もまた、ラリーさんの見事に股間を強調したファッションセンスを含めて、なかなかに奇抜な内容です。

当時のディスコはまだ連日、非常に混み合っていましたので、フロアは常にカオス状態。でも、とりあえず自分が楽しめばそれでいいわけですので、とても自由でわがままなフロア空間が展開されておりました。Word Upにも「Do your dance, do your dance」(自分の踊りを踊りたまえ!)とか「We need to dance」(俺たちは踊らねば!)といったダンサブルなフレーズがどんどん出てきます。ラリーさんはこの曲で若者たちを(変な格好で)鼓舞して、「魂を揺さぶらせて自由に踊れ!」と叫んでいるかのようです。

当ブログでは音楽やアーチストの考察に重きを置いているため、これまで具体的な「踊り方」には敢えてあまり触れてこなかったわけですが、70年代には日本では「ステップ」という踊り方がありました。曲や曲調に合わせてあれこれと色んな「型」を覚えて、フロアのお客さんたちが同じ踊りをラインダンスのように踊っていたのです。

踊りの種類は、「ファンキー・フルーツ」とか「チャチャ」とか「ブロードウェイ」とか「スケーター」とか「フォーコーナーズ」とかもう無数にありました。しかも、東京や大阪その他の都市ごとにそれぞれ微妙に違うステップがあり、皆ものすごくこだわってそれを踊っていたのです。

世界的にもディスコ空間でのこうしたステップ・ダンスはほぼ皆無で、日本特有の現象でした。これまでに当ブログでも何度も登場してきた一遍上人の踊念仏をひとつの源流とする「盆踊り」の伝統が、ステップ現象の背景にあったことは間違いないでしょう。皆と同じ踊りを舞うことで、ダンスフロア・コミュニティの一体感を味わっていたのですね。

その伝統は、少し間を置いて90年代以降のクラブで流行った「パラパラ」へと引き継がれました。今だって、アニメソング(アニソン)やアイドルの曲に合わせて同じ形式で踊るライブイベントが一部にあります。

ディスコでは70年代まではステップが盛り上がりを見せましたが、80年代に入ると、日本でも海外と同様、基本的にリズムに合わせて自由に手足や腰を動かす踊り(フリーダンス)が主流になりました。客層も老若男女に広がりを見せ、日本人全体が「ディスコ慣れ」してきたのだともいえます。

「自由」ということは、往年のステップ・ダンスで踊っても別にぜんぜん構わないわけですけど、音頭取りのDJがかける音楽にゆるりと合わせて、お客さんたちが上手も下手もなく勝手気ままに踊り狂い、なおかつ何となく調和している様子が、踊り手と見物人が明確に分かれる「舞台型」ではなく「参加型」であるディスコ本来の姿であり、醍醐味です。フロアでタバコを吸ったり、酔っ払って何度も隣の人にぶつかってその足を「イテテ!」と踏んだり、尋常ならざるバカ騒ぎをしたりといった迷惑さえかけなければ、他人の目を気にする必要などないわけです。それこそがまさに、束の間の「解放と融合」の非日常空間といえましょう。

とまあ、理屈はさておき、ディスコの「考えるな、感じろ(いやむしろ踊れ)!」(ブルース・リーの名言より)の精神は、現代ダンスカルチャーにも脈々と受け継がれております。「国富論」で知られる18世紀の「経済学の父」アダム・スミスまでもが、意外にも「舞踊と音楽は人間が発明した最初の快楽である」との名言を残しています。人類が人類である以上、これからも人々は踊り続けるに違いありません!(断定)

カメオのCDはアルバム、ベスト盤ともにとても充実しております。写真の「Secret Omen」は79年発売のアルバムの再発CDで、珠玉ディスコの「Find My Way」と「I Just Wnat To Be」収録。ベスト盤だと、90年代に発売された米MercuryのFunk Essentialsシリーズの「The Best Of Cameo」(Volume1と2)および「The 12" Collection And More」が網羅的な内容となっております。これらを聴いて自宅で好き勝手に踊り狂い、日ごろの憂さを晴らすのもまた一興でしょう。

リキッド・ゴールド (Liquid Gold)

Liquid Gold Pic今回も正統派ディスコ、リキッド・ゴールドと参りましょう。イギリスの男3人・女1人のグループで、80年前後に少々派手なディスコ曲を世に送り出しました。

主なヒット曲は、最も売れた「My Baby's Baby」(79年、米一般総合チャート45位、米ディスコチャート5位)に始まり、さびのメロディーラインが哀愁帯びて泣きたくなる「Dance Yourself Dizzy」(同、米ディスコ26位)、ややミデアムスローな「What's She Got」」(83年、米総合86位、米ディスコ23位)、けっこう渋めのギターリフが五臓六腑に染み渡る「Substitute」、「パニックになるな!」と言われながらも思わずパニくってフロアに駆け込んでしまうお馴染みアゲアゲ「Don't Panic」が"黄金クインテット"。本国を中心に大人気だった彼らですが、アメリカの一般チャートにも食い込んだのは立派です。

日本では、とりわけ「Dandce Yousellf...」(邦題:今宵ダンスで)と「Don't...」(同:ドント・パニック)の2曲がフロアの人気をさらいました。特に「今宵ダンスで」なんてのは、なかなかシャレオツなネーミングだと思いますよ。「ええ本日はお日柄も良く……皆様ようこそお越しくださいました……では、今宵はひとつダンスということで…」みたいな感じで、きちんと段取りを踏む和の奥ゆかしさを感じさせますね。こちらも襟を正して、「ああ左様でございますか、では踊ることと致しましょう」という気になります。結婚式の2次会のパーティーなんかにぴったりだと個人的には思っております。

このグループの結成は1977年で、中心メンバーは声量たっぷり女性ボーカルのエリー・ホープ(Ellie Hope)とレイ・ノット(Ray Knott)。2人とも70年代前半、「The Mexican」というヒットを飛ばしたイギリスのベーブルース(Babe Ruth)というロックグループの元メンバーでした。

ちなみにこのメキシカンという曲は、現代のダンスフロアにも十分通用するノリノリ西部劇なナンバーでして、ジャニス・ジョプリンばりの迫力ボイスをきかせていたJenny Haan(ジェニー・ハーン)なる女性がメインボーカル。80年代にはジェリービーンが彼女本人をボーカルに起用して、ローランド系アナログ・ドラムマシーンを駆使したフリースタイルのディスコ曲にリメイクし、大ヒットさせています。

実は、リキッド・ゴールドが残したアルバムは、「My Baby's Baby」、「Dance Yourself Dizzy」などが入った79年発売の「Liquid Gold」(上写真)のみ。とにかくジャケットは金ピカでインパクト大。でも、いくら「リキッドゴールド」(彩色用の光沢金)だからといっても、デスマスクみたいな不気味さの方がかえって際立ちます。私も真夜中なんかにレコード棚からこれを引っ張り出すと、背筋がぞっとして踊る気力を失ってしまうわけです。

結成から7年後の1984年、メンバーが1人抜け、2人抜けした結果、あえなく解散した「光沢金」。それでも、イギリスでは珍しいド真ん中の「メロディー明快、ジャケットも明快」のユーロディスコ系のグループとして、今も一度(ひとたび)かかれば踊る者を興奮のるつぼへと引きずり込む魔力に満ちております。アルバムの正式な再発CDは未だ出ていないものの、以前紹介した「Disco Discharge」シリーズや日本国内盤の「懐かしのディスコフィーバー!」的な各種ディスコ・コンピレーションには、主なヒット曲が収録されております。
CDのライナーノーツ書きました


たまには「ボカロでYMCA」
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キーワードは意外に「ディスコ」。
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