ディスコ堂 by mrkick

音楽に貴賎なし ―Discoの考察とCD批評

スカイ (Skyy)

Skyyいやあちょうど10日ぶりとなりま〜す。今回は愉快なファンク・ディスコの正統派「Skyy」(スカイ)と参りましょう!

ディスコ界では、常人には理解困難な“大うつけ者ファッション”(例・CherBetty WrightDee D. Jackson)が流行したわけですが、この人たちもまさに当時、宇宙人みたいに大げさなコスチュームに身を固めた愛嬌たっぷりの8人グループでした。背景には、米ソの超大国による宇宙開発の活発化、1976年に公開された映画「スターウォーズ」の大ヒットがあります。

ただ、外見上はキワモノ要素満載とはいえ、Skyyは狂気の限界をわきまえたディスコ界の常識人でした。音楽的にはとてもきちんとしていて、Brass Constructionのメンバーでもあったランディ・ミュラー(Randy Muller)とソロモン・ロバーツ(Solomon Roberts)を中心とした演奏にはそつがなく、デニス(Denise)、 デロレス(Delores)、ボンヌ(Bonne)のダニング(Dunning)3姉妹のボーカルワークも冴えわたる実力派だったのです。

1970年代半ばにニューヨークで結成した彼らは、70年代後半にディスコ・レーベルとして躍進したサルソウル(Salsoul)・レコードと契約。79年にはデビューアルバム「Skyy」(写真)を発表し、その中から「First Time Around」をヒットさせました。Skyyのグループ名は、既にSkyというグループが存在したため(確かにどこにでもありそうだ)、差別化するために末尾に「y」をくっつけたのでした。

この曲は、ディスコ・リズムの代名詞「シンドラム」を駆使した逸品で、Tamiko Jobnesのヒット曲「Can't Live Without Your Love」にも似た感じで「ぴゅんぴゅん、ぽこぽん!」サウンドが随所に展開するゴキゲンさです。

この人たちはけっこうな多産型グループで、その後は年に1〜2枚のペースでアルバムを発表。80年発売の2枚のアルバム「Skyport」と「Skyway」からはそれぞれ、「Here's To You」(米R&Bチャート23位、米ディスコチャート24位)と「Skyyzoo」(同32位、同41位)などのダンスヒットが生まれました。

特にSkyyzooは、文字通りカズー(Kazoo)という口で吹く楽器を駆使。Freedomの名曲「Get Up And Dance」みたいに「ぶーぶーぶー!♪」と子豚さんみたいなすっとぼけた音が次々と繰り出し、かえって踊り心がくすぐられます。

そして81年、彼らは代表アルバムとなる「Sky Line」を発表し、その中から「Call Me」という最大のヒットを生みました(R&B1位、ディスコ3位)。この曲は下地のヘビーなドラムとベースラインにギターやら電話の効果音やらがうまく乗っかり、そこにデニス・ダニングの声がほどよく絡んでくる佳作でして、ディスコでもよく耳にしたものです。

そのSkyy特有のリズム展開は、後のディスコヒットの「I’ll Do Anything For You」(Denroy Morgan、81年、米ディスコチャート7位)や「Thanks To You」(Sinnamon、82年、同1位)にもモロに影響を与えております。

このアルバムで言えば、「Let's Cereblate」(R&B16位)と、再びカズー音を多用した「Jam The Box」なども印象的。米国ではもはやディスコが過去のものとなる中、アーバンでおしゃれなディスコとして人気を持続させたわけです。ようやく冷静さを取り戻したのか、このころには「お恥ずかし宇宙人コスチューム」からブラコンな普通の衣装に衣替えしてます(下右写真は「Sky Line」のジャケット)。

その後も年1回のペースでアルバムを発表し続けますが、80年代半ばにはセールス的に失速。「もうこのあたりでおしまいかなあ」と思わせた矢先、キャピトル・レコードに移籍後の86年には、「Givin' It (To You)」というシンセサイザーを多用したなかなかにしたたかでシャープなダンス曲をチャート上位(R&B8位)に食い込ませたかと思うと、89年にはなんと、ミデアムスロー・ダンサー「Start Of A Romance」がSkyyにとっての8年ぶりの米R&Bチャート1位に輝きました。

しかも、その同じ年には「Real Love」がまたもやR&Bチャート1位となり、ディスコ出身アーチストの夢でもある「バラードでも大ヒット」を達成したのでした!

90年代にはさすがに息切れしたのか、92年に最後のアルバム「Nearer To You」を発表後はあまり音沙汰がなくなってしまったSkyy。キラキラ宇宙服から出発し、再び星空の宇宙へと旅立っていった感がありますし、結局はR&Bを越えた一般総合チャート上位への進出も果たせませんでした。でも、70年代後半からの約10年間、ディスコグループとしては十分過ぎる実績を残せたといえましょう。

彼らのレコードは、Salsoul時代を中心にほぼ満遍なくCDで再発されています。入門盤としては、主なヒット曲が12インチ・バージョンでがんがん収録されている英Big Break Records盤CD「Skyy ‎– Skyyhigh • The Skyy Anthology (1979-1992)」あたりがお勧めで〜す。
Skyy2

ケイト・ブッシュ (Kate Bush)

Kate Bush前回登場の奇天烈ニナ・ハーゲンとほぼ同じころ、弱冠19歳の奇才美少女がイギリスで鮮烈デビューを果たしました。名はケイト・ブッシュ。失業者があふれる英国病の不況下、4オクターブの美声を駆使して、停滞気味だったイギリス音楽界に新風を吹き込んだのです。

1978年発売のデビューシングル「Wuthering Heights(邦題・嵐が丘)」は、文字通りエミリー・ブロンテの愛憎物語の古典小説「嵐が丘」を歌った内容。本国では発売と同時にチャートを駆け上り、女性ソロアーチストとしては初めて自作曲で1位を獲得しました。前年末公開の映画「サタデー・ナイト・フィーバー」の大ヒットにより、世界はディスコブーム真っ只中でしたが、そんな世情などどこ吹く風、大いに風変わりでミステリアスな幻想曲が存在感を示したのです。日本では、かつての日本テレビ系のバラエティ番組「恋のから騒ぎ」のオープニングテーマとしても知られております。

1955年、英ケント州に生まれた彼女は、医者でピアニストの父と、直立したままウサギみたいにぴょんぴょん跳ねる独特のアイリッシュダンスの名手である母の下、幼少期からピアノやバイオリンを習うなどして音楽家の道を着実に歩み始めます。10代前半には既に作曲も始めており、デモテープを作って何度もレコード会社に売り込みますがことごとく撃沈。しかし、そんなデモテープの1本がプログレッシブ・ロックの雄、ピンク・フロイドのデビッド・ギルモアの手に渡り、才能を見出したデビッドさんの協力を得てデビューに至ったのでした。

後のキャリアを通した代表曲ともなった「嵐が丘」は、当時のイギリスの音楽シーンを彩っていたプログレッシブ・ロックやデビッド・ボウイに代表されるグラム・ロック、さらにはクラシックや劇場音楽や英国フォーク音楽の影響を色濃く映し出しており、なんとも形容しがたいアバンギャルド作品。それでも、あの少女アニメの声優か矢野顕子みたいな舌足らずで甲高いソプラノの歌声と、心地よく異次元へといざなう唯一無二な旋律には、えも言われぬ魅力があります。

歌詞も独特極まりなく、放浪の詩人アルチュセール・ランボーの難解な詩を読んでいるような気分になります。プロモーション・ビデオ(PV)もいくつか作られていますが、広漠たるいかにも英国的な草原を不思議な踊りで駆け回るケイトさんは、「天女の羽衣(はごろも)伝説」みたいで非世俗的です。

…とまあ、そんなわけで前回のニナさん以上にディスコっぽくないケイトさんですけど、80年に発売された3枚目のアルバム「Never For Ever」とか、85年に発売された5枚目のアルバム「Hounds of Love」(写真)には、ディスコで使える曲もちらほら。特に「Hounds of Love」は、初期高級シンセサイザーのフェアライトCMIを駆使しつつ、珍しくシンプルかつダンサブルな構成の曲が目立つ内容となっております。

中でも、終始きっちりとした16ビートでたたみ掛ける「Running Up That Hill」(85年、米ビルボード一般総合チャート30位、ディスコチャート17位)などは、ひとたびディスコで耳にしたならば、後ろから追っかけられるような切迫感に駆られて思わずフロアに引き込まれ、あっちにピョん、こっちにピョンってな具合に、フロアを野ウサギみたいに駆け回らざるを得なくなることウケアイです。ただ、この曲のPVを見てみると、なかなか真似のできない振り付けで床をのたうち回るシーンが展開しており、やっぱりアングラな「天女のはごろも」です。

この曲は、少し後にリリースされたフリートウッド・マックの似た曲調の「Big Love」や「Little Lies」、ペットショップ・ボーイズがプロデュースしたライザ・ミネリの「Losing My Mind」、それにプロパガンダの「P Machinery」なんかと繋いで聴くとイイ感じ。前衛的なだけではなく、いかにも80年代な曲もしっかり作っていたことが分かります。

ケイトさんは90年代以降も、寡作ながらコンスタントに活動を続けており、93年には先日57歳で早世したアメリカの奇才プリンスとの共作による「Why Should I Love You」などを含むアルバム「The Red Shoes」をリリース。2012年にはロンドン五輪のフィナーレ用に「Running Up That Hill」のリミックスバージョンを提供しています。

世俗に媚びない音楽が、逆に世俗に高く評価されるというのは、豊かで多様な音楽文化が根付いている証拠。和辻哲郎の言葉「風土が人間に影響する」ではないですが、イギリスがいつもロック・ポップス界の先頭を切って、型破りで面白い音楽を生み出してきたワケを垣間見る思いであります。

いやあ、それにしてもケイト・ブッシュさんって本来、「アート・ロック」の旗手とも呼ばれたぐらいですから、芸術的で知的で真面目な音楽人だとつくづく思います。究極の世俗音楽、ディスコのような奔放なおバカさがまったく見当たりませんもの!…というわけで次回は、再び純正ディスコの予定となりま〜す!

ニナ・ハーゲン (Nina Hagen)

Nina Hagenみなさんこんばんは〜!世の中すっかり春めいてきました。寒さが遠のくこんな季節、大学時代に六本木のディスコの帰り、終電は終わったし、カネも使い果たしたんで国道246号沿いをとぼとぼと三軒茶屋方面のアパートまで歩いて帰った記憶がよみがえります。くたびれてタクシーに乗ろうと思っても、乗りたいお客が多すぎて簡単につかまらない時代でもありました。30年前のバブルのころのお話でしたとさ(どのみちトホホ)。

…というわけで、今回はなんとなく背中がぞくぞくします。ムーミン谷のおさびし山のような、幽界へといざなう不気味な静寂があたりを包みこんでいますよ。かと思ったら、びっくり仰天玉手箱、闇夜に轟く戦慄の調べが背後に忍び寄ってきました。悪魔、魔女、黒ミサ、呪いの祈祷…。今夜はあなたをめくるめくゴシック・ワールドへとご招待します。さあ、ディスコ界きっての変態パンクロッカー、ニナ・ハーゲンと参りましょう!

この人はもう、本当はニューウェーブとかパンクとかロックとかディスコとかで単純にくくれない(実際ノーウェーブ=No Waveなんて形容もされた)、奇天烈要素満載で独自路線をゆく究極の個性派破天荒。なんか往年の戸川純というか、突き抜けておかしくなっちゃった椎名林檎みたいな感じ。暗黒そのものです。

私は10代のころ、開店したばかりの輸入盤店「タワーレコード札幌店」に通っていたのですが、バブル期の直前の1984年初頭にそこで入手した「Dance Music Report」(英語だけどwikipediaご参照)というアメリカのダンスミュージック専門誌をめくっていたら、ディスコチャート(これが購入の目的だった)で急上昇している曲を発見。それこそが彼女の代表アルバムである「Fearless」(1983年発売、ドイツ盤などの表記は「Angstlos」)収録の「ニューヨーク・ニューヨーク」(New York, New York、米ビルボードディスコチャート9位)でした。

なんだか新宿に昔あったディスコの店名みたいですけど、とにかくディスコシーンでも注目されたわけです。実際、タワーレコード札幌店の棚にもアルバムやディスコ用12インチ盤が大量に置かれていました。彼女の変なポーズの写真があしらわれている奇抜で分裂した(スキゾフレニックな)ジャケット(下写真)がひと際目を引いていたのですが、なんだかコワいので手が伸びなかったのでした。

しばらくしてこの曲をラジオで聞く機会があったのですけど、いやあ参りました。やっぱり恐ろしく変てこかつ悪趣味で、踊るどころの話ではなかった。特に彼女の歌唱法は、超高音から超低音、か細い囁きからだみ声まで自由自在。上手なのは分かるのですけど、あっちこっちに声が飛んじゃってまとまりがなく、イライラ(頭がくらくら)してきます。

ただし、その曲調はともかく、歌詞はすばらしい。徹頭徹尾「ディスコ、ディスコ!」と恥ずかしげもなく連呼しているので〜す!

内容は、ニューヨークを訪れて、世界一の大都市の華やかな文化、とりわけ当時まだ流行の先端を行っていた「ダンステリア(Danceteria)」や「マッドクラブ(Mudd Club)」「ロキシー(Roxy)」などのディスコに次々と入って大いに満喫した、みたいな感じ。凄まじいまでのディスコ魂が横溢しております。もちろん、「ニューヨークに住みたけりゃ、ただおバカになるだけでいいのよん!」とも言ってますから、パンクロッカーならではの皮肉がたっぷりとこめられているわけですが、ディスコ堂的には「ディスコ」の連呼というだけでプラス100点ですわ。

とくに日本の現場のディスコでは、耳にする機会はほぼ皆無。でも、アルバムをよくよく聴けば、シンセサイザーやシンセベースの音が小気味よく入って、踊りやすくしっかりとビートを刻んでいる曲もけっこうある。例えば、Fearlessには「Zara」なんていう曲もあり、彼女お得意の変てこなオペラ歌唱をオーバーダビングしつつ、デペッシュモードやニュー・オーダーみたいなシンセサイザーやドラムマシンも駆使されていて好感が持てます。

しかし、もっと驚くべきは、その生い立ち。1955年に旧東ドイツの首都、東ベルリンに生まれた彼女の実母は人気女優、実父は脚本家でして、最初からショービジネスの環境に育っています。両親の影響もあって早い段階でバレエやクラシック音楽を習い、テレビなどにもときどき出演してけっこうなタレントでした。旧東ドイツの映画について真面目に解説している珍しい海外のブログなどによると、1975年には「Today Is Friday」というテレビ映画にも主演し、驚天動地の清純派ぶりを見せつけております(内容は若者の望まぬ妊娠や堕胎をテーマにしたシュールなものだったけど)。

後のパンキッシュなルックスとはまったく真逆でかなりの美形。同じ「過激女性パンクロッカーの草分け」であるリーナ・ラビッチやスージー・アンド・ザ・バンシーズのスージー・スー、リディア・ランチ、さらにはちょっと異質だけど異形・異声の歌姫だったケイト・ブッシュなどとともに、「変な声だし風貌だけど普通にしてれば美人かもなあ」法則が成り立っているかのようです。

彼女は1976年、社会主義政権の当局の妨害など幾多の困難を乗り越えながら、自由を求めて両親と共に西ドイツへと移住。79年にはレコードデビューを果たします。その直前、パンクの本場ロンドンで先輩女性ロッカーであるリーナ・ラビッチやあのセックス・ピストルズの主要メンバーであるジョン・ライドンらと交流し、「こんな自己表現もあったのか!」と完璧に開眼。まったくカオスなミュージシャンへと変貌を遂げたのでした!

とまあ、そう言うこのブログも、もはやかなりカオスなわけですが…。けれども、そもそもディスコってそんなごちゃまぜなところも魅力なわけです。要は踊り狂ったもん勝ち。思いもよらない展開は常に大歓迎です。「愛ラブ混沌!」、いや「表現の自由万歳!」と小さく叫んでおきましょう。

それにしても、国内外ともに、こういう奇想天外で極端な変態ミュージシャンが最近は減ったような気がします。ヒットチャートに入るようなメジャー音楽の世界では、似た感じのダンスミュージックやバラードばかり。DTMのようなコンピューターで作る画一的でパターン化された音楽が主流になったことも一因でしょう。最大市場のアメリカもそうですが、音楽業界はメガ企業による寡占化も進みましたし、マスコミ全体を含めて巨大になり過ぎました。

まあ、一方のマイナーの世界では、例えば私の住むJR中央線沿線などにも面白いことをやろうとするミュージシャンはいっぱいいますし、インディーでアンダーグラウンドなままだからこそ、カルト趣味を満足させられるのかもしれません。実際に聴き手の嗜好も多様化しています。でも、それで稼いで食べていける人間などまずいません。無難で世間受けする音楽ばかりがもてはやされる風潮は、ニナさん的な表現の自由という意味でもいかがなものでしょうかね。

彼女は90年代以降も勢いを保ち続け、現在に至っても現役で活躍中。2000年代に入ってからは、イラク戦争の反対運動や動物愛護活動などに精力的に取り組んでおります。

CDはまあまあ出ています。肝心の「ニューヨーク・ニューヨーク」が入ったアルバム「Fearless」は今は廃盤ですが、主なヒット曲を網羅しツボを押さえたベスト盤がいくつかあります。上写真はその一つ「14 Friendly Abductions―The Best Of Nina Hagen」。私自身、最近は懐かしさもあってヘビロテで愉快にガンガン聴いております。特に最後14曲目に収録の1980年発売のカバー曲「My Way」は、前年に21歳で急逝したセックス・ピストルズの破天荒ベーシスト、シド・ビシャスへの鎮魂歌(彼も78年に歌ってヒットさせていた)ともいえます。やはり彼女の真骨頂、飛び切りハードな曲調ながらも、不思議な哀切感を漂わせる名品なのであります。

Nina_Hagen_Fearless

ワイルド・チェリー (Wild Cherry)

wild cherryまたまたお久しぶりで〜す!昨日たまたま自分のこのブログを見ていたら、訪問者数の累計カウンターが「555555」の5並びになって腰を抜かしました。思わずスクショです(下写真)。なんとなく得した気分になって参りましたので、今回は渾身の力を込めて「ワイルド・チェリー」を取り上げてみましょう!

ご存知、「Play That Funky Music(プレイ・ザット・ファンキー・ミュージック)」(1976年、米ビルボード・ポップチャート1位、R&Bチャート1位、ディスコ12位)で一世を風靡したナウでイカした白人5人組バンド。この曲は、初っ端から繰り出されるパンチの効いたギターリフが、音楽史上に輝くほどに印象的。日本でも例えば、北海道が生んだド迫力ボイスの女性ボーカリスト大黒摩季さんの90年代の大ヒット曲「別れましょう私から消えましょうあなたから」(タイトルやたら長い)のイントロでも、ちょいとパクった感じで使われています。

バンド自体は1970年、アメリカの中西部と呼ばれる地域のオハイオ州出身のミュージシャンRob Parissi(ロブ・パラッシ)さんが、地元の仲間を集めて結成。All Music Guide系サイトなどによると、バンド名は、ロブさんが体調を崩した時になめていたという、アメリカで今も発売されている咳止めドロップの「Wild Cherry」に由来します。

彼らはオハイオ州に隣接するペンシルバニア州のピッツバーグを拠点にライブ活動を展開。これが評判を呼び、間もなくレコードデビューも果たしますが、あまり売れませんでした。そこで、アメリカ有数の工場地帯で労働者としての黒人居住者も多い地元での知名度を上げるべく、オハイオ州が本場でもあるファンクミュージックとロックを融合させたような曲「Play That Funky…」を制作して発表すると、瞬く間にヒットチャートを駆け上ったのです。

この曲は当時、全米で燎原の火のごとく広まっていたディスコブームにも完璧に乗っかっていました。何しろ、歌詞の前半に「俺はロックンロールをガンガン歌うシンガーだったんだが、何もかもがイヤになった時があった。試しにディスコを覗いてみたら、みんな踊りまくってノリノリだった。そしたら誰かが俺の方を振り向いて『あのファンキーな音楽をプレイしてくれ!』って叫んだのさ」といった具合に、「ワイルド・チェリー様ご一行、ディスコへの旅立ち」がしっかりと歌われているのです!

「Play That…」が入った9曲入りデビューアルバム「Wild Cherry」(上写真)も、当然ながら大ヒット。ウィルソン・ピケットのカバー「wild cherry 99 1/2」、「Don't Go Near The Water」、コモドアーズのカバー「I Feel Satisfied」などなど、似たような感じのもろファンキーなダンス曲が目白押しです。モータウンやアトランティックといった黒人音楽レーベルの影響を濃厚に映し出しています。

すっかり気をよくした5人は、その後も次々とアルバムを発表します。…でも、これがどうしても売れませんでした。79年に出した4枚目のアルバム「
Only The Wild Survive」を最後に、あえなく解散。どれもファンキー・ロック路線を踏襲しており、ディスコ好きにはなかなかの佳作だと思うのですけど、やはり「Play That...」のインパクトが強すぎて、それを超えるモノが発表できなかったというわけです。せっかくディスコに開眼して世に出てきたのに、ブームが下火になったのと軌を一にして終焉を迎えてしまったのでした。

彼らは「あの曲」によって正真正銘の一発屋となりました。とはいえ、そんな“奇跡の1曲”があったからこそ、末永く記憶されるバンドになれたのも確かです。デビューアルバムはCD化もされていて普通に入手できます。でも…ほかの3枚は中古LPしかなく、これからも末永くCD化されることはないでしょう(トホホ)。

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キャプテン・アンド・テニール (Captain & Tennille)

Captain and Tennilleいやあお久しぶりで〜す。今回は、これまで何度となく取り上げてきた「ディスコで復活狙い」のパターンを再び。楽器もやるけどダ・カーポやチェリッシュみたいな米国の仲良し夫婦ポップデュオ「キャプテン・アンド・テニール」を紹介しておきましょう。

1942年生まれのDaryl Dragon(ダリル・ドラゴン。ニックネームは「キャプテン」)、40年生まれのToni Tennille(トニー・テニール)の夫婦2人ともに、1970年代前半にはビーチ・ボーイズのキーボード担当のバックミュージシャンでした。

結婚したのは1975年で、その年にデュオとして初のアルバム「 Love Will Keep Us Together」(邦題・「愛ある限り」)をA&Mレコードからリリース。シングルカットされたニール・セダカの曲のカバーで軽快極まるアルバムタイトル曲が、いきなり全米ビルボード一般チャート1位に輝きました!

その後毎年、A&Mからアルバムを発表し、ジャングル風のイントロからいきなり弾むように展開する爽やか系「Lonly Night (Angel Face)」(全米一般チャート3位)などのヒットを連発しましたが、78年に出した4枚目「Dream」があまり売れず、A&Mとの契約は解除になってしまいました。

そこに目を付けたのが、ドナ・サマービレッジ・ピープルが在籍していた「ディスコの殿堂」カサブランカ・レコードの社長、ニール・ボガートです。2人を説得して移籍させて、アルバム「Make Your Move」(写真、YouTubeで視聴可)をリリースしました。このアルバムからはしっぽりバラードの「Do That To Me One More Time」がなんと全米一般チャート1位となり、再びトップスターの座に返り咲くことになったのです。

このアルバムは夫ダリルがプロデュース。「Do That…」などのバラード数曲をのぞくと、けっこうなディスコ路線(カサブランカだから当たり前)です。特にA面4曲目「How Can You Be So Cold」は、もう最初からどんどこ四つ打ちディスコビートが炸裂し、そこにトニーのややハスキーなアルト&メゾソプラノの歌声が伸びやかに躍動するパターン。中盤ではディスコDJが次の曲と繋ぎやすいように長めの間奏(ブレイク)が入ってきて、印象的なベースラインやホーンセクションが織り込まれています。

B面2曲目「Happy Together」も正統派ディスコのノリを踏襲しています。やはり60年代に活躍した米国のロックバンド「ザ・タートルズ」の代表曲のカバーなのですが、途中でシタールの音色や馬の足音が入ってくるなど、珍妙なオリエンタル感覚で攻め立てています。

2005年に米ユニバーサル・ミュージックから発売された「Make Your Move」の再発CDのライナーノーツには、トニー自身が寄稿しているのですが、このアルバムについて「ダリルの一風変った解釈が詰まっている『中東の砂漠風ディスコ』なのよ」と説明しています。まあヒットしたのはバラードの「Do That…」だったわけですけど、かつてはポップスで一世を風靡したこの人たちにも、立派に「ディスコ期」があったわけです。

この後、2人は80年にカサブランカからもう1枚、アルバムを出しますが、これは不発に終わり、音楽業界の表舞台からは遠ざかっていきます。今は2人とも70代半ばになりますが、つい2年前に離婚しており、それぞれ米国内で静かに余生を過ごしているようです。

ミスティック・マーリン (Mystic Merlin)

Mystic Merlinさて今回、もはやクリスマス時期だけに今年最後になりそうな投稿の主役となりますのは、とびきりユニークで心底脱力することウケアイの「魔術ディスコ」で〜す!

デビューアルバムの発売が1980年ということですので、ディスコ的にはかなり「遅れてきた感」があるグループではあるものの、マジカルパワーで大奮闘しました。その名も「Mystic Merlin=ミスティック・マーリン」(直訳・神秘の魔術師)。「どんだけ神秘的なのかな?」と逆にそわそわしてきますが、何のことはない、ライブで演奏しながら「奇術」を披露していたファンクバンドなのであります。

…って、「いや待てよ? そんなグループ、いったい成立するのか?」との疑問が沸くのも自然なことでしょう。演奏して歌うだけでも大変なのに、加えて愉快な手品(奇術)を器用に披露するなど、常人のなせる技ではございません。でも実際、「アラジンと魔法のランプ」みたいな格好をして、コーラスの女性がやおら宙に浮き始めたり、気が付いたらメンバーが空中で真横になって楽器を弾いていたり、サックスの開口部(ベル)から突然もくもくと白煙を噴出させたりと、やたらと観客の度肝を抜く仕掛けがライブの呼び物になっていた人々なのでした。

1970年代後半、アメリカ・ニューヨークで結成されたこの魔術師バンドは、リードボーカルのキース・ゴンザレス(Keith Gonzales)、ベースのクライド・ブラード(Clyde Bullard)、ギターのジェリー・アンダーソン(Jerry Anderson)らが主要メンバーです。

中でもジェリーさんは、子供のころからマジックが大好き。地元ニューヨークでよく知られた手品ショップに通い詰め、有名マジシャンを育てたこともある店長は、「こいつは見込みがある」と空中浮揚、「ドロン!」といきなり姿を消す“雲隠れの術”、催眠術といった大技を無報酬で次々と仕込んでくれたのでした。

ここでジェリーさんは、そのままプロを目指せばよいものを、もう一つの夢であるミュージシャンへの道を追い求め始めます。こちらも結構な腕前だったようで、70年代前半にはブロードウェイの人気ミュージカルの楽団などでベース奏者として活躍するようになりました。このころにキースらに出会い、ファンクバンドを結成して音楽活動を本格化させたのです。

ところが、なかなか芽が出ない日々。野心に燃えるジェリーさんは、あるアイデアをメンバーたちに打診します。「同じようなグループがたくさんある中で、俺たちは目立たないといけない。俺が一から教えるから、みんなでマジックをやりながら演奏しようじゃないか!」。メンバーたちは目を白黒させましたが、最終的には賛同を得ることができました。ここに、世にも不思議な奇術ディスコ系バンドが誕生したのです。つまり、音楽一本で勝負することにどうにも自信が持てなかったために、奇策によって人々の気を引こうと目論んだのでした。

結果は……残念ながら今ひとつでした。イギリスなど欧州では「キワモノ」扱いされてテレビで人気を博し、少々ヒットも飛ばしましたけど、本国では全米R&Bチャートの下位に「Got To Make It Better」(81年、82位)と「Sixty Thrills A Minute」(同、76位)が入った程度。マジック(Magic)とミュージック(Music)の融合(本人たちはMugicと呼んでいた)という、非常にディスコ的で面白い発想ではありましたが、ブームが過ぎていたこともあって、聴衆(や踊る阿呆)の心をつかむには至らなかったのです。けだし、二兎追うものは一兎も得ず、なのでありました。

いちおうは大手キャピトル・レコードとの契約にこぎつけ、80年のデビューアルバムに続き、81年の2枚目アルバムを発表するもセールス的に不発に終わり、82年に最後となる3枚目「Full Moon」をリリース。ここでなんと、同じキャピトルのレーベルメイトで、80年代半ばから甘〜い歌声でR&Bヒットを大連発することになるフレディー・ジャクソンが、結成時からの主軸シンガーだったキースの脱退に伴ってリードボーカルに。シングルカットされた「Mr. Magician」を聴いても明らかなように、確かにボーカルはぐ〜んと引き締まりましたけど、どうもセールス的には波に乗れなかったのでした。

「Full Moon」のジャケット(上写真)を見れば分かるとおり、熱海あたりの温泉街にある妖しい秘宝館から飛び出してきたような出立ちには、かえって猛烈に興味をそそられます。そんな器用貧乏の感がぬぐえない涙ぐましいまでの自己アピールこそ、「目立ってナンボ」のディスコ界では特に重要だったのです。曲や歌自体は無難にダンサブルであり、演奏もしっかりしております。ファンク王国アメリカにおいては、あまりにも優れたライバルが多すぎたということでしょう。

CDについては、意外にも3枚のアルバムともに、英国の再発レーベルであるBBRから発売されています。往年のマジックを見られるわけではない(YouTubeでも見あたらない。ここでほんのちょっと確認できる程度)にせよ、なりふり構わず何とか世に出ようともがいた異形ミュージシャンたちの物語に思いを馳せつつ、聴き入ってみるのも一興かと存じます。

キャリー・ルーカス (Carrie Lucas)

Carrie Lucas今回はおもむろにキャリー・ルーカスと参りましょう。なんといっても「アイ・ガッタ・キープ・ダンシン(I Gotta Keep Dancin')」(1977年、米ディスコチャート2位、R&Bチャート44位、一般チャート64位)と「ダンス・ウィズ・ユー(Dance With You)」(79年、同6位、同27位、同70位)が代表曲。特別に歌唱力があるというわけではありませんが、モデル顔負けの180センチ近い長身と美貌を生かしつつ、勢いのあるレーベルや豪華バックミュージシャンといった周囲にも恵まれてディスコスターになりました。

米カルフォルニア州に生まれ、幼いころから歌手を目指していたキャリーさん。ですが、ベスト盤の2枚組CD「The Best Of Carrie Lucas」(写真)のライナーノーツに載っているインタビューによると、「とてつもなく内気な性格で、歌手になりたいなんて親にも言えなかった。でも、地元の合唱団や学校の合唱部に所属していて、歌うことが大好きだった。みんなに内緒でタレント事務所を訪れたことが何度かあった。面接でことごとく落とされたけど」などと語っております。

彼女はまず、地元ロサンゼルスでほかのアーチストに楽曲を提供したり、ソウル歌手D.J. ロジャーズのバックボーカルを務めたりして、徐々に認められるようになりました。間もなくロサンゼルスのディスコ系新興レーベルであるソーラー(Solar)の創業者ディック・グリフィー(Dick Griffy)に見出され、1976年に見事、のっけからホーンセクションが炸裂し、エンディングまでぐいぐいとドラマチックに展開するオーケストラディスコの真髄を見せつける「I Gotta Keep Dancin'」でレコードデビュー。その上、幸運にも大ヒットしてしまったのです。

この過程では、既にスティービーワンダーのバックバンドのキーボーディストとして活躍していた実弟のグレッグ・フィリンゲンズ(Greg Phillingens)の存在が大きく影響しました。「I Gotta...」が収録された1977年発売のデビューアルバム「Simply Carrie」では、グレッグがアレンジャーやキーボード奏者として参加しています。

「I Gotta...」のヒットで勢いに乗った彼女は、これ以降84年までに、Solarでさらに5枚のアルバムを発表。ディスコ最盛期の1979年には、3枚目のアルバム「In Danceland」の収録曲で、軽快なコーラスとギターリフの音色が印象的な「Dance With You」が再びヒット曲となり、「天空を突き抜ける長身ディスコディーバ」の称号をほしいままにしたのでした。

この間、発掘してくれたディックとは結婚まで至りました。各アルバムにはウィスパーズシャラマーのジョディー・ワトリー、レイクサイドなどの売れっ子のレーベルメイトがバックミュージシャンとして参加しており、文字通り「ソーラー総出」の贅沢極まりない応援団を背に、ディスコ街道をまい進したのであります。

なにしろディスコ系アルバムを短期間に6枚も出しておりますので、上記2曲以外にもけっこう踊れるナンバーがあります。ドゥーワップ調のメロディーをベースに、あろうことか途中でスタンド・バイ・ミーの旋律も入ってきて意表を突く「Street Corner Symphony」(79年)、カーリー・サイモンやリタ・クーリッジみたいなさわやかなポップス路線で執拗に攻め立てる「It's Not What You Got」(80年、米ディスコ10位、R&B74位)、シャラマーみたいないかにもSolarらしい小気味よいコーラス、メロディー、ビート展開が印象的なミディアムナンバー「Show Me Where You're Coming From」(82年、R&B23位)といった佳曲が数多くあります。

Solarの人気に陰りが見え始めた80年代半ば以降、音楽活動が休止状態となり、結婚生活と子育てに専念するようになったキャリーさん。あれだけ精力的に歌いまくっていたのに少々残念ではありましたが、CDは再発モノの多いカナダのUnidisc盤を中心にまずまず出ています。個人的には、代表作ではないものの、80年代にリリースされた「Portrait Of Carrie」と「Still In Love」の2枚のアルバムが、70年代の売れ線ドンドコディスコからシンセサイザーを取り入れた落ち着いたR&B風へと曲調がうまく移行していて気に入っております。

THPオーケストラ (THP Orchestra)

THPいやあ再び秋も深まってまいりました。本日は日本の“元祖DJ”一遍上人(以前の投稿ご参照)ゆかりの遊行寺(神奈川県藤沢市)を久しぶりに訪れ、700年前の大解放ディスコである踊り念仏の国宝絵巻を特別展でとくと拝見してテンションも高まって参りましたので、どど〜んと心拍数上がりまくりの「必殺攻め攻めディスコ」を紹介いたしましょう。

時は1976年、ディスコブームが世界を覆いつくそうとしていたころです。カナダからTHPオーケストラなるディスコグループが現れました。英国人ミュージシャンのウィリー・モリソン(Willi Morrison)とイアン・ゲンター(Ian Guenther)のプロデュースにより、あからさまに「踊らば踊れ」のあげあげディスコを連発したのです。

デビューアルバム「Early Riser」は、タイトル自体は「早起きさん」と珍妙ですけど、アメリカの人気アクションドラマ「特別狙撃隊S.W.A.T.」のテーマ曲のディスコアレンジ「Theme From S.W.A.T.」など軽快なインストものが主に収録されており、「無難にまとめたな」感が強い。

続く77年発売の「Two Hot For Love」は、無名の女性ボーカリストであるBarbara Fry(バーバラ・フライ)を起用。以前取り上げたアレック・R・コスタンディノスとかセローンみたいなユーロディスコの影響を受けた長尺ものが注目点で、全米ディスコチャートではアルバムタイトル曲が3位まで上昇し大ヒットしました。ですが、まだまだあげあげマックスとはいかない感じで物足りなさが残ります。

78年の3枚目アルバム「Tender Is The Night」では、後に「Boys Will Be Boys」というアップリフティングな曲が全米ディスコチャートで8位(79年)を記録したダンカン・シスターズ(Duncan Sisters)がボーカルを務め、アルバムタイトル同名曲「Tender Is The Night」(米ディスコチャート14位)など、ストリングス中心のなかなかパワフルなダンスチューンを繰り出しました。それでも……やっぱり大きな特徴は見出せず、「血沸き肉踊る」ような躍動感を実現したとまでは言い難いのです。

そんなわけで、私が強烈に心ひかれる名盤とさせていただくのは、79年発売の4枚目「Good To Me」であります。もう、なんといってもボーカルが特別にユニークかつ変てこ(しかしとても上手)。ちょいとチャールストンみたいな風情も醸す歌声のジョイス・コブ(Joyce Cobb)というこれまた無名の女性なのですが、アルバムタイトル同名曲「Good To Me」(同16位)なんて、「せんっ、せいしょ〜ん(sensation)」とか、「ばん、ばあああああん(Bang Bang)」といった具合に、完全に人を食っているのか、いや実は確信犯で自らのアイデンティティーを懸命にアピールしているのか、とにかく絶対に忘れられない(忘れさせない)インパクト炸裂!「びんびろ〜ん」と繰り出される忘れ難いギターリフとの相乗効果で、虎視眈々と聴く者のダンスフロア魂をくすぐるのでした。

このアルバム全編を貫く曲調、というか節回しもそこはかとなく絶妙です。恐ろしくキャッチーな上に、よくよく聴いてみると、以前よりもドラムのキックが一段と強くなり、同年発売のドナ・サマーホット・スタッフ」並みにロックディスコ化しております。それにあの唯一無二のボーカルが乗っかってくるわけですから、(やや面食らいながらも)フロアに突進するしかないでしょう。これではかの一遍さんも、700年の時空を超え、ご自慢の鐘を鳴らしながら一緒に踊り狂わずにはいられますまい。

このアルバムではもう一つ、「Dancin' Forever」という曲もなんだか素晴らしい。「ビーウィズユー♪」「ダンシ〜ン♪」と連呼するコーラス部分では、「デン、デン、デン、デン…」と律儀に進行する四つ打ちドラムに合わせて、思わず両腕を前後に元気よく振って前進したくなる衝動に駆られる「早足の行進曲」とでも言える代物です。ディスコものだけでも1万枚・5万曲を超すCDやレコードを聴いてきたわけですけど、こんな曲、ほかにはあんまり見当たりません。

以上4枚のアルバムともに「モリソン&ゲンター」のコンビで作られたのですが、この辺で彼らの不思議なディスコワールドも終焉を迎えます。80年に入ってディスコブームが下火となり、レコード会社が倒産するなどして低迷し、表舞台からは消え去ってしまうのです。モリソンさんの方は、バブル期の1986年にもろデッド・オア・アライブを意識した「Pistol In My Pocket 」(Lana Pellay)なる曲を少しヒットさせました。私もこの曲は新宿や渋谷のディスコでかなり耳にしましたが、やっぱりこの人は「オーケストラ」というぐらいですから70年代の人なわけです。

THPはディスコ的には比較的重要なアーチストにもかかわらず、長くCD化はされていませんでした。2年前にようやく、英Harmless社から全4枚がどど〜んと再発(上写真はその1つで2枚組)となり、しかも思ったより音質もよいため、ディスコ好きには大変喜ばれております。

セルジオ・メンデス (Sergio Mendes)

Sergio Mendes Olympia5年後に控える東京五輪の話題が今、良くも悪くも沸騰中ですが、今回はそんな時勢に確信犯で乗っかっりつつ、「大オリンピック・ディスコ祭り」と参りましょう!

血沸き肉躍るスポーツの祭典ということですので、情熱のダンスで踊り狂うディスコとの相性は元来よいもの。まずはディスコが欧米を中心に認知されはじめる1972年には、東西冷戦期の西ドイツで、あの忌まわしいナチス政権下のベルリン五輪(1936年)以来初となる“冷戦だけど表向き平和で〜す”のミュンヘン五輪が開かれ、それを契機にエンタメ・音楽業界が一気に盛り上がり、そのひとつの成果としてドナ・サマーボニーMロバータ・ケリーらが輩出した「ミュンヘン・ディスコ」シーンを生み出しました。

続く1976年のカナダのモントリオール五輪のころには、いよいよディスコ・ブームに火が付きます。当時のモントリオール五輪公式報告書(106ページ)などによると、選手村の近くのビルにも「おもてなし施設」として映画館やブティックとともにディスコが作られ、選手たちは夜な夜な歓喜の舞踏に興じたといいます。モントリオールのあるケベック州はもともとカナダの中でもとりわけフランス系移民の末裔が多く、第一言語がフランス語であるほどですので、ディスコの語源の仏語Discotheque(ディスコテーク)よろしく、「カナダ産ディスコ」が次々と弾け出しました。

代表例としてはジノ・ソッチョ、THPオーケストラ、クラウディア・バリーフランス・ジョリライムトランスXといったところで、いずれ劣らぬアゲアゲ・ダンサンサブルな良曲を数多く世に送り出しました。カナダは音楽大国というわけではないのに、五輪効果を背景に、ディスコ界ではけっこうな存在感を示すことになったのです。つい4年前には、ディスコのメッカとなったモントリオールを舞台にしたカナダ映画(「Funkytown」)も公開されております。

問題は次の1980年開催のモスクワ五輪。78年のソ連によるアフガン侵攻の影響で、日米欧を含めた西側諸国が相次いで参加ボイコットを決定し、なんとも締まらない大会になってしまったのです。せっかくおバカさん満開の大ディスコブーム真っ只中だというのに、これだと盛り上がるはずもなく、五輪を当て込んでリリースされたジンギスカンの「目指せモスクワ」などは、(人気はそれなりにあったが)まったく皮肉なトホホ・ディスコと化してしまったのです。

日本における第1次ディスコブーム(1970年代後期)と第2次ディスコブーム(1980年代後半からのバブル期)の狭間の84年には、ロサンゼルス五輪が開かれます。もちろん、日本を始め西側諸国はこぞって参加したものの、ソ連など東側諸国が報復とばかりにボイコット。これまた「盛り下がり五輪」となってしまいました。その結果、有力選手の多くが不参加だった1980、84年のメダルの価値も、否応なしに下がってしまっております(再び「スポーツへの政治介入ってホント嫌ですね」のトホホ)。

さて、ここでようやく今回の主役の登場です。ロス五輪については、個人的に「大ディスコ・マイブーム期」の只中でしたので、印象深い「ザ・五輪ディスコ」として「オリンピア」(1984年、米ビルボード一般チャート58位)をひとつ、紹介しておきましょう。

歌うのはブラジルが生んだボサノバ・ジャズの帝王セルジオ・メンデスさん。古くは、今なおカバーされ、愛され続けるボサノバダンスの名曲「Mas Que Nada(マシュ・ケ・ナダ)」(1966年、同47位)を発表し、ディスコブーム期にも、Sergio Mendes & The New Brasil '77名義で「The Real Thing」(1977年)、Sergio Mendes Brazill '88の名義で「I'll Tell You」(1979年、米ビルボード・ディスコチャート9位)、「Magic Lady」といった彼ならではの果てしなくメロウ&グルービーなダンス曲をリリースしていますが、ボイコット問題がくすぶるロス五輪に合わせてリリースした「オリンピア」は、一念発起して流行りのAORをゴージャスにダンスチューン化したような内容。以前に紹介したテリー・デサリオの「オーバーナイト・サクセス」にも似た雰囲気で、80年代シンセの硬質な音色もキンキン(しかしどこか心地よく)鳴り響いておりまして、当時はディスコでもよく耳にしました。ただし、題名が題名だけに、ちょいと豪快で大げさな感じです。

セルメンさんは、「オリンピア」を収録したアルバム「Confetti」(写真)の発売の1年前、「Sergio Mendes」という同じようなAOR/ダンス系のアルバムを出し、その中の「Never Gonna Let You Go」というバラードを久しぶりに大ヒット(ビルボード一般チャート4位)させておりますので、気を良くして「五輪に便乗しちゃうぞ!」と、渾身の昇天ダンスチューンに挑戦してみたのかもしれません。

その後、88年のソウル五輪、92年のバルセロナ五輪のころには、音楽シーンにおけるディスコの存在感そのものが徐々に薄くなっていったわけですが、例えば冬のトリノ五輪(2006年)では、開幕セレモニーで懐かしのディスコ曲が大量に流れて(私的には)話題を呼びました。盛り上げ要素抜群のディスコは、やはり各種お祭りのBGMとして使いやすい音楽なのだと思います。

1964年の東京五輪では、「東京五輪音頭」なる民謡調の珍曲が巨匠・古賀政男によって作曲されております。今聴くと大いに困惑することウケアイなのですが、半世紀以上の時を超え、2回目の東京五輪ではどんな音楽が使われるのでしょうか。まあディスコじゃなくても全然かまわないのですけど、くれぐれもパクリだけは勘弁していただきたい!(ディスコ自体がパクリ要素満載なのだが)

なお、セルメンさんのディスコ感覚なアルバムのCDについては、残念ながらどれも再発されていないか、過去に出ていてもレア化し始めております。

ネイキッド・アイズ (Nakid Eyes)

Naked Eyesさて、今回は灼熱の夏を彩るニューウェーブ・シリーズ第3弾、ネイキッド・アイズと参りましょう。80年代前半、サンプリング・シンセサイザーの草分けで当時約1千万円もしたフェアライトCMIをいち早く導入し、ユニークな哀感漂う音作りにせっせと励んでいた英国の男性2人組です。

最大のヒット曲は、1982年発表の「Always Somthing There To Remind Me」(米ビルボード一般チャート8位、米ビルボード・ディスコチャート37位)。米ポップス界の巨匠バート・バカラックによる60年代の作品のカバーです。邦題は「僕はこんなに」といかにも意味不明ですが、曲調は美メロで至って真面目であり、フェアライト特有の「カン、カン、ボワ〜ン、ドッカ〜ン」という金属的かつ工場機械的な電子音が、大仰なだけにかえって日本人好みのはかなさを感じさせてくれています。

変則的高速ビートのこの曲は、「踊ってみな」と言われても、なかなかのり切れない難攻不落な展開のため、当時のディスコで聞くことはほとんどありませんでした。でも、少々控えめな曲調の次のヒット曲「プロミセス・プロミセス」(83年、一般11位、ディスコ32位)は、けっこう耳にしております。人気DJだったジェリービーンによる「ジェリービーン・ミックス」では、まだ無名歌手で、彼の恋人でもあったマドンナのささやくような美声も入っていて、二重に楽しめる内容となっています。

続くヒット曲「(What) In The Name Of Love」(84年、一般39位、ディスコ35位)は、「こんなに」と「プロミセス」を合わせたような「カン、カン、ボワ〜ンの哀愁ダンサブル」な雰囲気を漂わせており、これまたメロディーラインが美しい。フロアで激踊りを披露するわけにはいかないにしても、奥の暗がりで席に座ってドリンクでも口にしながら、手足をリズミカルに動かすには最適な内容となっています。

このデュオの構成メンバーはPete ByrneとRob Fisherで、80年代初めに2人で活動を始めて、活動を休止した84年までに2枚のアルバムを出しています。うちRobはClimie Fisherという別のデュオを結成し、「Love Changes (Everything)」(88年、一般23位、ディスコ16位)というダンスヒットを飛ばしますが、99年に病気のため39歳で早世しています。

今あらためて聴いてみますと、前回紹介したABCにも似た、80年代に大量に登場したエレポップな要素がふんだんに詰まっていることが分かります。それでも、この人たちの曲は、特にメロディーラインに個性が感じられます。短い活動期間ではありましたが、一発屋ではありませんし、ディスコ界にもポップス界にも、相応の貢献を果たしたといえましょう。

CDは、2枚のアルバムともに再発で出ております。ベスト盤もいくつかあり、写真は2002年発売の米EMI盤ベスト「Everything And More」。主なヒット曲の12インチバージョンが入っていてうんと楽しめますが、最近は希少化しているようです。
CDのライナーノーツ書きました


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