2009年08月01日

インビジブル・マンズ・バンド (Invisible Man's Band)

Invisible Man's Band最近すっかり投稿が遠のいてしまって"神出鬼没"状態ですが、世界を揺るがした"マイケル・ショック"もやや沈静化したところで、今回は隠れたホットサマー・ナンバーを一つ紹介しちゃいましょう。インビジブル・マンズ・バンドの「オール・ナイト・シング」(80年、米ディスコチャート10位、R&B9位)です。

ここ数年、久しぶりに70-80年代のレアなディスコナンバーの音源が次々とCD化されており、このインビジブルもその一枚となります。彼らのたった2枚のアルバムのうち、ノリノリの珠玉ディスコ「オールナイト」が入ったデビュー盤「インビジブル・マンズ・バンド」(80年)は、なんと今年2月、日本のユニバーサルから初CD化されております。もう一枚の「Really Wanna See You」(81年)も同じころ、英FTGレーベルからCDで再発になりました。

まあ、2枚目はセールス的にコケてしまい大した内容でもないのですが(笑)、やはりデビュー盤はなかなかのものです。ディスコブームが沈静化した時代だったにもかかわらず、日本はもちろん、欧米のディスコフロアでも確固たる地位を築いた名盤といえると思います。

それでも、この変な“アジア人蔑視っぽい”ジャケットのアルバムがディスコ名盤といえるのも、「オール・ナイト・シング」があればこそです。かのNYの著名ディスコ「スタジオ54」でも定番化していました。ほかの聴き所といえば、3曲目のダンスナンバー「X-カントリー」に、珍しいバンジョーの音色が入っている点でしょうか。

「オールナイト」は、イントロのドラムとベースによるビート進行から既に「必殺躍らせ隊」でして、アゲアゲのメロディー展開も、「踊れや踊れ」の掛け合いボーカルも、「びよよ〜ん」という電子効果音の控えめかつ微妙な入り具合も、もう完璧です。

ただ、ディスコ好きでしかもCD好きにはとても悩ましい曲の一つでした。ソウル、ディスコ系のコンピレーションCDにはほとんど入っておらず、見つけてもあまり音質の良くないものでしたので、12インチレコードを自分でしこしこCDに録音して聴いていたものです。

ですから、CDを見つけたときには素直に狂喜乱舞、感涙にむせびました。いまもけっこう安く売っているようですから、ディスコ好きならマストアイテムではないでしょうか……とはいうものの、何しろこの手のCDは廃盤後、中古でもすぐにバカ高くなりがちです(今なら送料込み1500円前後)。

このグループは、「O-o-h Child」(70年、全米一般8位、R&B14位)のほぼ「一発屋」として知られるファイブステア・ステップスのメンバーだったベーシストのケニー・バークとその兄弟らが結成しました。結局、インビジブルを結成しても大成功!!とはいかなかったわけですが、私にとっては「オールナイト」があれば十分でございます。ちなみにケニー・バークは、サンプリングネタで有名なメロウ・ダンスナンバー「Risin' To The Top」を82年に小ヒットさせてはおります。

聞くところによると、「オールナイト」の普通の12インチの長さはアルバムと同じ6分20秒程度なのですが、約8分の貴重テイクも存在するとか。私は一般バージョンしか知りませんし、それしか持ってません。あってもまたバカ高いことウケアイです。

2009年07月21日

ダイアナ・ロス (Diana Ross)

Diana Ross黒人女性歌手のトップスター、ダイアナ・ロスは、マイケル・ジャクソンの長年の親友でもあったことはよく知られています。

1960年代、希代の大人気黒人コーラスグループ「シュープリームス」の事実上のリーダーとして活躍したダイアナは、60年代末にはソロ活動を本格化、同時に、同じモータウンレーベル所属のアイドルとして売り出し中だったジャクソン5を、いわば“弟分”として自分のコンサートなどで紹介しています。このころに“少年マイケル”との友情も芽生えたのでした。

70年代に入ると、ほぼ完全にソロ歌手となります。シュープリームスのほかのメンバーとの確執も深まったわけですが、セールス的にはまずは順調で、「Ain't No Mountain High Enough」(70年、ビルボード一般、R&B各1位)、「Touch Me In The Morning」(73年、一般1位、R&B5位)などのヒットを出しました。それでも、飛ぶ鳥落とす勢いだったシュープリームス時代と比べると、やや影が薄くなったとの感は否めませんでした。

そんなダイアナは1976年、「Love Hangover(ラブ・ハングオーバー=恋の二日酔い)」などのディスコソングが収録されたアルバム「Diana Ross」を発表しました。この「二日酔い」はディスコブームの時流にうまく乗っかり、全米ビルボード一般、R&B、ディスコの各チャートで1位を獲得し見事「三冠女王」を達成したのでした。

この人は美貌もウリの一つでして、女優としても実績を重ねています。ビリー・ホリデイの生涯をモチーフにした「ビリー・ホリディ物語」(72年)で主演したのは有名ですが、78年には、「オズの魔法使い」の黒人版である「The Wiz(ザ・ウィズ)」でマイケルジャクソンと夢の共演を実現しています。

この「ウィズ」は、興行的には大コケしたものの、クインシー・ジョーンズがプロデュースしたサントラはヒットしました。特に、マイケルとのデュエットである「Ease On Down The Road」は、ディスコ史に燦然と輝く名曲であります。マイケルにとっても、この映画でクインシーとの出会いを果たし、両雄の協力関係はやがて「オフ・ザ・ウォール」、続いて「スリラー」という歴史的ヒットアルバムとして結実することになります。

ダイアナは79年には、ディスコ満開のアルバム「ザ・ボス」(ディスコチャート1位)を発表。この中からはお馴染み「ザ・ボス」、「ノー・ワン・ゲッツ・ザ・プライズ」などがフロアで大人気となりました。

そして1980年には、シックのナイル・ロジャースとバーナード・エドワーズをプロデューサーに迎えて“ダメ押し”ディスコアルバム「ダイアナ」を発表。ナイル・ロジャース側とモータウンが出来栄えを巡って対立するハプニングがあったものの、収録曲の「アップサイド・ダウン」が一般、R&B、ディスコの各チャートで1位、ゲイ・ピープルの“カミング・アウト”賛歌の「アイム・カミング・アウト」が一般チャートで5位に入るなど、セールス的には大成功しました。

その後は少し勢いが衰えたダイアナさん。でも、ディスコ的には、ダリル・ホールがバック・ボーカルで参加した「Swept Away」(84年、ディスコ1位)、マイケルがバック・ボーカルで参加した「Eaten Alive」(85年、同3位)、「チェイン・リアクション」(86年、同7位)など、順調に「ディスコでも女王と言われたい」状態を持続しました。このあたりの80年代の曲は、私もディスコでずいぶんと耳にしました。とりわけSwept Away(スウェプト・アウェイ)は、アーサー・ベーカーのフリースタイルっぽいミックスが秀逸でした。

ディスコ・クイーンといえば、一般的にはドナ・サマーということになりますが、ダイアナさんは黒人歌手の「クイーン・オブ・ポップ」とさえ称されるだけあって、ディスコ系の曲でもまんべんなく名曲を世に送り出しています。そのキャリア、曲群は一度の投稿ではとても紹介しきれません。

今回のマイケルの悲報に接し、ダイアナは「突然のことであまりに悲しい。彼の家族や子供たちために祈りを捧げたい」といったコメントを発表していますが、多くを語ろうとはしていません。あまりにもショックを受けたためか、先日の追悼式にも「独りになって喪に復したい」と欠席しました。

実は、ダイアナ自身も、シュープリームス時代の仲間との仲たがいだけでなく、私生活で結婚、離婚を繰り返したり、5人の子のうちの1人が、モータウン創始者のベリー・ゴーディーとの間にできた子であることが後にバレたり、けっこうセレブ特有の波乱の人生を歩んでいます。

マイケルとは60年代後半の出会いの後、ずっと公私ともに友人としての付き合いがあったようです。スーパースター同士、周囲になかなか明かせぬ孤独感を互いに理解し合っていたのかもしれません。最近、やたらとCD/DVD店で見かけるUSAフォー・アフリカの「ウイ・アー・ザ・ワールド」(85年に大ヒットしたチャリティー曲)でも、マイケルとダイアナが、仲良く同じパートを掛け合いで歌っていてなんだか象徴的です。

写真上のCDは、ディスコ系アルバムとしての代表格「ザ・ボス」。1999年にモータウンで発売された盤で、「ザ・ボス」の12インチバージョンが収録されています。写真下のCD「ダイアナ」は、「ラブ・ハングオーバー」「シュープリームス・メドレー」をはじめ、相当に貴重な12インチバージョンが収録されたデラックス盤です。「ディスコのダイアナ・ロス」を知るには、このあたりが基本になるかと思います。

Diana

2009年07月04日

続マイケル・ジャクソン追悼 ――ジャクソンズ (The Jacksons)     *7/9動画追加

Jacksons予想されたとはいえ、連日のマイケル報道の過熱ぶりには驚かされます。あらためて偉大さを感じざるを得ません。・・・・・・というわけで、今回も取り急ぎ「最後の世界的スーパースター」マイケル関連で「ジャクソンズ」です。

ジャクソン5が、「契約金が安すぎる」ことなどを主な理由として、6年間在籍したモータウンからCBS(現在のエピックの前身)に移籍したのは1975年のことでした。モータウンとの間で訴訟沙汰となり、移籍のための和解条件としてグループ名が使えなくなってしまい、ジャクソンズへの改名を余儀なくされたのです。

ジャクソン5を構成していた兄弟で一人だけ、モータウンのベリー・ゴーディー社長の娘と結婚していたジャーメイン・ジャクソンだけが移籍せずにソロとして残留し、末弟のランディーと交代しました。この移籍騒動により、モータウンはドル箱スターを失い、その栄華にも陰りが見えるようになります。

このころはジャクソン5のセールス自体、低迷し始めていたのですが、「災い転じて福となす」ということで、ここで神風が吹いたのです。ご存知「ディスコブーム」であります。

ソウル・グループとして出発したとはいえ、マイケル少年を中心にもともとダンスミュージックを得意としていたジャクソン兄弟は、75年、、モータウン時代の最後のアルバムとなった「Moving Violation」を発表しました。もろにディスコを意識した内容で、この中からは「四つ打ち」の隠れた名曲「Foever Came Today」が全米ディスコ・チャートで4週間1位となる大ヒットとなりました。

その後、ランディーを迎えての「ジャクソンズ」になってからもディスコ路線を軽やかに継続。五人のコーラスが美しく印象的で、リードボーカルのマイケルが「ディスコ〜♪ディスコ〜♪」と連呼する「Blame It On The Boogie」(79年、ディスコチャート20位)、「Shake Your Body」(同、同)などのディスコもののシングル、アルバムを数多くリリースしました。

彼らの偉いところは、アメリカでディスコブームが去った後にもディスコを見捨てなかったことです。80年には「Can You Feel It」、「Walk Right Now」、「Lovely One」というダンサブルな名曲3曲が収録されたアルバム「Triumph」を発表し、再び全米ディスコチャート1位を獲得したのでした。

さらに84年には、「もう一丁ディスコだよん!」というわけでアルバム「Torture」を発表。この中からは、ソロで大ブレイクを果たしたマイケルが、あのミック・ジャガーと絶妙なデュエットを披露する「State Of Shock」が全米一般チャート3位、R&B4位、ディスコ3位という大ヒットを記録しています。さらにアルバム同名曲「Torture」(ディスコ9位)と、「Body」(同73位)もディスコで人気を博しました。

いやあ、このあたりの曲は、当時の日本のディスコでももう定番ど真ん中! しかも、「ジャクソンズ」名義とはいっても、主役はやはりマイケルでした。80年代は、彼にとってはキャリアのピークでして、もう八面六臂の活躍です。台頭著しかったMTVで流れたPV映像を見ても分かるとおり、歌声、ダンス、スタイルともに最も美しく、完成度が高かった時期だと思いますね。

90年代以降は、マイケルの人気も徐々に下降線を辿り、同時にジャクソンズも影が薄くなりました。それでも、少し前の「80年代ブーム」にも見られたように、音楽の流行は繰り返されます。そのたびに、真っ先に思い出される名R&Bグループの一つとはなったわけです。

こう考えると、マイケルって天才だから「まっとうな青少年期」がなかったようですね。幼少時から常に兄達以上、大人以上に働いているような・・・・・・。契約上のトラブルだけではなく、父親との確執もあったみたいですしね。

まだ10歳そこそこでのデビューでしたから、真剣に「プロの歌手になりたい」と志していたわけでもなかったと思います。「どうしてもスターになりたい」と強い意志を持ち、名門大学を中退してまで田舎からニューヨークに移り住み、ヌード撮影やディスコミュージシャンのバックボーカルなどの下積みを経て、ようやく大スターの座を掴んだマドンナとの対照が際立ちます。

だからこそ人生の後半、なくしたものを探しに行くかのように、子供だけが理解できるようなネバーランド的ファンタジーの世界に救いを求めたのかもしれません。なんだか気の毒でもあります。あらためて「人の幸せって一体・・・・・・」と感慨ひとしおであります。

さて、ジャクソンズのCDですが・・・・・・おめでとうございます! 現在の盤権を持つソニーが近く「Triumph」(トライアンフ)、「Torture」(トーチャー)などの紙ジャケット盤を一斉に発売します。ちょっとノスタルジックにレコードの雰囲気を味わい人には、これもいいかもしれません。

しか〜し!、私が最もお薦めしたいのは、まずは上写真の「Original Album Classics」という、同じソニーBMGが昨年発売した輸入盤であります。ジャクソンズのアルバム5枚が入った豪華ボックスセットで、海外アマゾンなどを利用すれば(それがちょっと面倒だが)、送料込みで2000円程度で購入可能なんですねえ。ものすごくお得であります。

さらに、20年前に日本で発売された「ベスト・リミックス」(下写真)も超おすすめです。「Shake Your Body」とか「Blame It On The Boogie」、「Torture」などの当時のディスコバージョンが6曲、収録されています。「CDなんだから、どうせならもう2〜3曲収録してほしかったにゃあ」と言いたいところですが、どれもCDとしてはかなり貴重なバージョンとなっております。いまなら国内アマゾンのサイトや中古品店で、1000円前後で購入できるようです。

Jacksons Best Remix








*7/9追記

「ないだろう」と思っていたジャクソンズ(ジャクソン5)のディスコ関連の動画を2つ、Youtubeで見つけたので追加しておきます。最初は1974年の「Dancing Machine」で、マイケルが創始者とも言われる「ロボットダンス」部分が、「ピコピコピコ」というおトボケ電子音とともに入ってくる貴重なライブ映像です。もう一つは、テンプテーションズのヒットをダンサブルにリメイクした「Hum Along And Dance」(73年)で、これもライブ映像としては珍しいものです。





2009年06月29日

マイケル・ジャクソン追悼 ――ジャクソン・ファイブ (Jackson 5)

Jackson 5最近の東京地方、やけに湿度が増してきております。ふうぅ暑い暑い・・・・・・というわけで、「希代のスーパースター」マイケル・ジャクソンの謎の急死については、ディスコ堂としても語っておかなければなりません。なにしろ私自身、ディスコに通った時代には聴きまくっていましたし、彼の踊りをフロアで真似てみたことも多々あったわけですから(そもそも手足が短くて真似にならなかったが)。ホントお世話になりました。

死の本当の理由などもちろん分かりません。警察の捜査が進んでも、表面的なことしか判明しないのではないでしょうか。でも、彼の過去の夥しい整形疑惑や「小児愛者だった」「薬漬けだった。それに借金漬けだった」といった報道を見ていくと、やはり音楽や映画の世界的大スターの死によくみられるある種の「自殺っぽさ」を感じざるを得ないですね。

当ブログでは3年前にマイケルを取り上げた際、同じ50代前半で死んだ石原裕次郎を引き合いに、奇行癖のある彼について少し書き綴ったことがありましたが、そんな破滅型の人生こそが、彼の寿命を縮めたといっていいと思います。

マイケルはもう、カッコ付きの「マイケル・ジャクソン」として世界ブランド化されていました。今回の報道で「マイケル・ジャクソン・ジャパン株式会社」なる会社が日本にあることを知り、「そのまんまじゃん!」と驚嘆しつつも、後になって「なるほどな」と妙に納得したものです。もはや生身の人間を越えた「私人兼法人」のような存在。これでは、本当の自分が自分自身の虚像に押しつぶされ、アイデンティティーを見失ってしまうでしょう。

「マイケル・ジャクソン」の礎はいうまでもなく、実の兄弟たちと結成した「ジャクソン5」(上写真はCD「The Ultimate Collection」)にあります。「黒人音楽の砦」モータウン・レーベルのニューフェイスとして1969年、鳴り物入りでデビューしたマイケルたちは、デビュー曲「I Want You Back」から4曲続けて米ビルボード・ポップチャート1位を獲得するなど、驚異的な人気を示しました。

ジャクソン5のメジャーデビューに向けて、モータウンは、マイケルの年齢を偽って3歳減らして8歳にして「あどけなさ」を強調したり、アカの他人の黒人ミュージシャンをバンド・メンバーに加えて「ジャクソン兄弟のいとこで〜す♪」と紹介したりして、マーケティングに腐心しました。結果的に、黒人としては初めて「一般白人にも受けいれられるアイドル」となったわけですが、このころには既に、「マイケル」の虚像人生は始まっていたともいえます。

70年代半ばにジャクソン5は、セールスが落ちたことに加えて、モータウンとの間で契約について争いが生じたため、別のレーベルに移籍。グループ名も「ザ・ジャクソンズ」に変えました。

マイケルは70年代後半にはソロ活動を本格化。折りしもディスコ・ブームが絶頂期を迎えたころです。ダンスの上手いマイケルは、クインシー・ジョーンズという敏腕プロデューサーを味方につけ、アルバム「オフ・ザ・ウォール」(79年)で「歌って踊れる大スター」としての地位を不動のものとしました。

このアルバムからは、レコードA面1、2曲目の「Don't Stop 'Til You Get Enough」(今夜はドント・ストップ)と「Rock With You」(ロック・ウィズ・ユー)がビルボード・ディスコチャート2位まで上昇しています。

さらに82年の「スリラー」で、「マイケル・ブランド」を確立するわけですね。ディスコ的には、このころのポール・マッカートニーとのデュエット「Say Say Say」(83年、ディスコチャート2位)も印象深い。当時の地元・札幌のディスコでよくかかっていて、DJボックスの傍らに、二人が並んで写っている写真が載った青いジャケットが置かれていたのを、今でも鮮明に思い出します。

一方で、「Black 0r White」(91年、ディスコチャート2位)などでは、やや過激な反人種差別メッセンジャーぶりも披露しました。巨額のカネが動く音楽ビジネスに幼いころから身を置く中で、相変らずの白人優位社会への怒りやコンプレックスを増幅させていったフシもあります。だからこそ努力を重ねて、人種やジャンルの垣根を越えた「キング・オブ・ポップ」と呼ばれるまでになったのかもしれせん。

その文脈の中に、「整形疑惑」や「奇行」があったのでしょうか。思えば、「Black 0r White」のあたりから、彼の“不思議ちゃん”ぶりがどんどんエスカレートしていきましたからねえ・・・・・・。彼はあまりマスコミに本音を語らない人でしたから、誤解や根拠のない憶測も生じやすかったのだとみられます。いずれにしても、彼が伝説になってしまった今、このあたりの謎も、解かれることは永遠になくなってしまいました。

――まあ、彼の歌やダンスの才能は誰もが認めるところですし、スターになった最大の要因は「実力」であったことはいうまでもありません。私も文句なしに大好きな歌手でした。マイケルは孤独で繊細で、そして飛び切りカッコいい「ディスコのスター」でもあったのです。

日本人の私としては、時宗・一遍さんの「おどり念仏」よろしく、マイケルの曲で激しく踊って供養してあげたいところです。来週あたり、筋肉痛必至でどこかの「ダンクラ・イベント」に顔を出しましょうかな(かなりトホホ)。

最後に、Youtubeで見つけたマイケル少年のダンス映像を以下、貼り付けておきます。ジャクソン5時代の動画でして、ロッキング・ダンスにロボットダンスを組み合わせた「極めて華麗なるダンス」を披露しています。ほかのメンバーも上手なのですが(番組ホストらしきおじさんは除く)、彼のリズム感や切れ味はダントツです。マイケルの早熟かつ圧倒的に非凡な才能の原点をここに見ることができるでしょう。



2009年06月14日

トミー・ボーイ・レコード (Tommy Boy Records)

Tommy Boy今回は、シュガーヒルの成功に触発されて登場したヒップホップレーベル「トミー・ボーイ」を紹介しておきましょう。大学生のラジオDJだった米国人トム・シルバーマンによって1981年、細々と立ち上がったのですが、元黒人ギャングのアフリカ・バンバータを発掘して一気に人気レーベルとなりました。

もともとディスコ音楽に関心が高かったトム氏は、レーベル設立に先立つ1978年に、「ダンスミュージック新聞」みたいな零細メディアを立ち上げています。これが後に、世界初の本格的ダンスミュージック専門メディアともいわれる「ダンス・ミュージック・レポート(Dance Music report=DMR)」に発展します。

DMRはダンスチャート(曲名の横には参考としてBPMが記されていた)や新譜紹介を内容としており、しばらくして世界中の輸入レコード店で発売されるほどの“権威”になりました。私も地元札幌のタワーレコードでときどき購入して、レコードを買う際の参考にしたものです。

そんなトム氏に見出されたアフリカ・バンバータが、「アフリカ・バンバータ&ザ・ソウル・ソニック・フォース」の名で「プラネット・ロック」を発売したのは1982年のこと。まだメジャー化する前のアーサー・ベイカーのプロデュースによる斬新な打ち込みシンセサウンドが大いに注目され、大ヒット(全米ディスコチャート3位など)となりました。

さらに、似たようなサウンドの「プラネット・パトロール」というジョン・ロビーを中心とした伝説のグループも「Play At Your Own Risk」(82年、ディスコチャート10位)などのヒットを連発し、インディーレーベルであるトミーボーイの地位向上に貢献しました。

こうした曲は、ラップやサンプリングを取り入れた「フリースタイル」とか「エレクトロ・ファンク」の範疇に入りますが、ライバルのシュガーヒル以上に、クラフトワークやYMOやヤズーなどのテクノポップの要素を盛り込んでいるのが特徴です。

私も当時、新しい音使いには相当に感動したものです。FMラジオで聞いてすぐ、レコードレンタル屋で借りて試聴しました。

でも、ほとんどTR808などの“打ち込みシンセ”一本で勝負しているため、いまいち音の厚みに欠けるのが難点。ディスコで初めて聞いたときには、「おおぉ、ついに来たかああぁ!」と勇んでフロアに飛び込んでいったものの、その軽〜い音色にどうも体がノリ切れず、結局は肩を落としてしょんぼりと座席に戻った記憶があります。

看板ミュージシャンのアフリカ・バンバータは、黒人の地位向上運動にも積極的に取り組み、いまや若者たちのカリスマにまでなっています。ほかにもThe Force MD's、TKAなどのメジャーミュージシャンが数多く輩出し、「B-Boy全開バリバリ」のヒップホップ好きには絶対に欠かせないレーベルとなった「トミーボーイ」――ですが、ディスコという意味では、最初から何かが違っていました。やはりブレイクダンスに適した「荒削りなストリートっぽさ」は、屋内フロアでのぬくぬくとしたプレイなど許さなかったのかもしれませんねぇ。

写真は数あるトミーボーイのベストCDの一つ「Tommy Boy's Classic Cuts」(米ライノ盤)。90年代以降にリリースされた作品も含め、代表曲がまとまって収録されています。

2009年06月02日

シュガー・ヒル・レコード (Sugar Hill Records)

Sugar Hill「GM国有化って、ソ連かい!」――というわけで、自由と平等が調和した「社会主義的資本主義の殿堂」ディスコの考察は続きます。今回もブレイクダンスに目を向けたいと存じます。

フロアでのブレイクダンスはちょいと御法度。でも、その音楽は世界で広く受け入れられ、百花繚乱あめあられ、いろんなブレイクダンス曲が続々と噴き出してきたのが1980年代であります。そして、ブレイクダンス曲隆盛の背景には、いうまでもなくアメリカの黒人やラテン系の若者が広めたサブカルチャー「ヒップ・ホップ」があります。

ヒップ・ホップ・カルチャーには、ブレイクダンスはもちろんのこと、壁に絵を描くグラフィティ・ライティングやファッション(アディダスのスーパースターなど)も含まれますが、やはり人々の心と体を動かして止まないミュージックが中核。特徴としては、ラップ、サンプリング、スクラッチ、打ち込みドラムビートなどが挙げられます。なによりも、ベトナム戦争による経済疲弊やインフレ、政治不信がアメリカを襲った70年代前半に、ニューヨークやロサンゼルスなどの大都会に住む黒人を中心とした人種的マイノリティーや貧困層が始めた、という点が重要です。

ヒップホップ音楽は、以前に少し紹介したシュガーヒル・ギャングの「ラッパーズ・デライト」(79年、米ディスコチャート14位)に代表されるように、ディスコのおいしいところをサンプリングによって巧みに取り入れて発展しました。ラップ自体、登場したころは「ディスコラップ」とも呼ばれていました。そもそもダンスを強く意識していますし、ディスコを通して発展してきた事実は否定しようがありません。

ただ、ニューヨークのディスコといえば、「スタジオ54」のように金満と放蕩の象徴のような店も少なくありませんでしたから、ブロンクスやハーレムの貧困青少年層にとっては、お金の要らないストリートがあくまでも主舞台。その意味で、本流音楽として隆盛を極めたディスコに対抗するアンチな側面も強く出ています。「ディスコに毒されないソウルやファンクの伝統を受け継いでいる」との評価もあります。

「初のラップヒット」とも言われるラッパーズ・デライトを(ラップで)歌った3人組ラッパーのシュガーヒル・ギャングは、「シュガー・ヒル・レコード」の所属アーチスト。このインディー・レーベルは、ポルノチックなソウルヒット「Pillow Talk」(73年)の歌手として知られるシルビア・ロビンソンが中心になって立ち上げたもので、彼女が発掘したラッパーたちによるラッパーズ・デライトの大ヒットによって、いきなり注目株になったのでした。

シュガー・ヒル・レコードは、その後、ヒップホップレーベルの草分けとしてヒットを大量に世に送り出します。代表アーチストには、Grandmaster Flash & The Furious Five、Treacherous Three、West Street Mobなどがいて、いずれもダンスやR&Bチャートのヒットを次々と繰り出しました。ポストディスコの売れ筋を模索しながらも、「ラップなんて歌じゃねえし」と敬遠しがちだったメジャーレーベルを尻目に、どんどんと富を生み出しました。

他曲からの「盗作」を疑わせるサンプリングの問題など、成功の「影」の部分がつきまとってきたのは確かですが、貧しさや暴力に苛まれる黒人やマイノリティーの社会に、カネと力と希望を与える存在になったとはいえるでしょう。いまなおシュガーヒルは、後に続いたトミーボーイやセルロイドレーベルなどと並ぶオールドスクールのヒップホップ音楽の砦として君臨しているわけです。

日本のディスコでも、いきなりブレイクダンスをかます客は少なかったにせよ、シュガーヒル・レーベルの曲自体はけっこう流れていましたし、それなりに好まれていたようです。私自身はラップがあまり好きではなかったので、フロアでかかってもパスしがちでしたが。

シュガーヒルがわりと好きなのは、以前紹介したインクレディブル・ボンゴ・バンドをサンプリングしたもろブレイカー「Break Dance-Electric Boogie」(West End Mob、83年、米ディスコチャート52位)ですね。ボコーダー風シンセ、ちょっと牧歌的なスクラッチ、そしてもちろんボンゴの音色がほどよく絡み合っており、これはイントロを聴いただけで、逆立ちしなくても髪の毛が逆立ちます。その兄弟曲のような「Apache」(Sugarhill Gang)も、一風変わったインディアン風味のブレイクダンス曲として面白いと思います。

ほかにも、「私はトーキョー好き!」との変な日本語ラップが入る「All Night Long」(Kevie Kev)とか、トニー・バジルの「ミッキー」に似たやたらとアップテンポでヒップホップらしからぬ異色曲「At The Ice Arcade」(Chilly Kids)が印象に残っています。

シュガーヒル・レーベル系アーチストのCDは、ものすごくたくさんあります。写真はCD5枚と12インチレコード1枚がセットになった「The Sugar Hill Records Story」。レコードが入っているのでやたらとデカイのですが、その分でかいライナーノーツも入っているし、入門盤としてはうってつけだと思います。

2009年05月27日

ブレイク・マシーン (Break Machine)

Break Machine「跳ねば跳ねよ 踊らば踊れ 春駒の 法の道をば 知る人ぞ知る」(跳ねろや跳ねろ 踊れや踊れ 春駒のように 仏の道を 知ることができよう)by 一遍上人――というわけで、今回は鎌倉時代の「おどり念仏の大スター」も腰を抜かすことウケアイの「跳んだり跳ねたりブレイクダンス」を考察しちゃいましょう。

ナイトフィーバー的ディスコブームが一段落した1980年代に、世界を席巻し始めたブレイクダンス。TR808に代表されるドラムマシーンやアナログシンセサイザーのエレクトロな音色を前面に出した、アメリカの「フリースタイル」やラップなどのヒップホップ系音楽が、この新しいダンススタイルにぴったりはまって大流行したのでした。

ブレイク(破壊)というくらいですから、文字通りあっちこっちに跳ね回り、立ち技、床技を繰り出して見物人を沸かせます。捻挫、骨折なんてあたり前! エネルギー燃えたぎる若者たちは、こぞってぴょんぴょん、クルクル、くねくねと挑戦したものでした。日本では「僕笑っちゃいます」のヒットで知られる欽ちゃんファミリーの風見真吾が、「涙のtake a chance」(84年)という曲で踊っていました(私もレコード買っちゃいましたのでトホホ)。

そんなブレイクダンスの曲を繰り出したアーチストは数あれど、私にとっての代表選手は「ブレイクマシーン」ですね。「ストリートダンス」(84年、ビルボードディスコチャート6位、英一般チャート3位)と、「ブレイクダンス・パーティー」(同、英チャート9位)などがヒット曲で、特に後者は、シンセドラム&ベースのノリが小気味よく、大のお気に入りでした。

ブレイクマシーンはアメリカのヒップホップアーチスト、キース・ロジャーズ(Keith Rodgers)を中心とした音楽ユニット。プロデューサーは、70年代に「ディスコ王国」として名を馳せたカサブランカレーベルの中心人物で「YMCA」のビレッジピープルなどを手がけたジャック・モラーリ(Jaques Morali)でした。ジャックさんはディスコブーム後、ブレイクダンスで秘かな復活を遂げていたことになります。

当時のブレイクダンス用の曲は、ラップが入った泥臭〜いヒップホップが多かったのですが、ブレイクマシーンの曲は、メロディー重視のエレクトロファンクといった風情です。それでも、ストリートダンスブレイクダンスパーティーのYouTube映像を見ても分かるとおり、ブレイクダンスにもぴったりはまっております。

ところが、実際のディスコのフロアでは、ブレイクダンスはしっくりきませんでした。答えは簡単、「ほかの客に迷惑」だからです! 特に、床に倒れ込んで技を繰り出す“床技”は動きがド派手で、場所を広大に必要とします。はっきり言って邪魔なのでした(トホホ)。私も友人たちと、北海道の雪の上で「ウィンドミル」とか「ヘリコプター」なんかを練習して、なんとかできるようになったのですが、ディスコでやってみたことはありませんでした。もしやっていたら大顰蹙ですし、恥ずかしいことこの上ありません。

つまり、ブレイクダンスは、ストリートもしくは舞台(ステージ)で披露する「見物型」の踊りであって、「参加型」の踊りではないんですね。ディスコは「ステージ」ではなく、あくまでも「フロア」が主舞台で、誰もが参加できる場でなくてはいけませんから、貴重な空間を独占するブレイクダンサーたちは敬遠されたわけです。とりわけフロアが狭い日本のディスコでは、なおさらのことです。

日本のディスコは、70年代に流行った独自のステップダンスに見られたように、同じダンスを集団で踊る「盆踊り」を大きな起源としています。盆踊りは、500年前の戦国期の「風流踊り」(昔の投稿参考)が前身です。さらにその「風流踊り」は、平安時代に空也上人(写真下左)、鎌倉時代に一遍上人という“元祖DJ”がそれぞれ提唱した集団乱舞「念仏踊り(おどり念仏)」にルーツがあるといわれています。

いずれの「踊り」も音楽や拍子、念仏に合わせて派手に体を動かすことで、「みんなで忘我の境地で踊り狂って阿呆になろう!……否、極楽浄土へ行こう!」というありがたい教えが根源にあるのですね。自由で個性的なのは大いに結構ですが、あまりに大胆でワガママな(!)ブレイクダンスは、ディスコという集団乱舞空間では駆逐される運命にあったのであります。

ディスコ的には厳しい立場に置かれたブレイクダンス。ですが、周知の通り、ブレイクダンスは、「見物型」の踊りとしては、いまも消えることなく生き続けていますし、かえってスゴく複雑かつ高度に(踊りというよりむしろ曲芸のように)発展しちゃってます。「古今東西、踊ること自体が祈りであり愉楽なのだ」というわけでしょうか。ただ、あまねく人々の魂を救う「衆生済度」の観点からすれば、「ブレイクダンスはディスコダンスにはなれなかった」のです。

さて、ブレイクマシーンの曲はほとんどCD化されてませんので、レコードを求めるのが筋です。写真上は1984年発売のミニアルバム「Break Dance Party」で、主なヒット曲がロングバージョンで網羅されています。レア度は低く、入手はかなり容易です。私の好きな「ブレイクダンス・パーティー」の12インチバージョンは、最近発売された英Funky Town Grooves盤コンピレーションCD「Mirage Records Soul & Funk Collection Vol.3」に珍しく収録されています。円高なので輸入盤だと送料込み2000円位で入手可能です。

<日本古来の踊念仏ディスコ>
空也の踊念仏(国際日本文化センター)




(国際日本文化センターHPより)

2009年05月20日

ヴィオラ・ウイルス (Viola Wills) …ついでに緊急告知!

Viola Wills5月6日、往年のディスコアーチストがまた一人、がんでこの世を去りました。「Gonna Get Along Without You Now」(80年、ビルボードディスコチャート52位)、「If You Could Read My Mind」(80年、同2位)などのヒットで知られるヴィオラ・ウイルスです。享年69。

60年代に大規模な黒人暴動が発生したことで知られる米ロサンゼルスのワッツ地区生まれ。貧しさの中で歌手を志し、70年代にオーケストラ・ディスコで一時代を築いたバリー・ホワイトに見出され、バック・ボーカリストなどの音楽活動を本格化させました。それでもなかなかチャンスに恵まれず、40歳になってようやく「Gonna Get Along Without You Now」がヒットして、ディスコ歌手として名を上げました。

日本ではそんなに有名ではないものの、特に欧米のゲイ・ディスコ・フリークの間では人気が高かった人です。ジャンル的には柔らかめのハイエナジーが中心。メロディーラインが美しいカバー曲が多く、特に最大のヒット「If You Could…」は、サビの部分が伸びやかで高揚感があります。

この曲は、もともとカナダのロックシンガーGordon Lightfootが69年にヒットさせており、それをヴィオラがカバーして再ヒットさせました。4年前に当ブログで紹介したことがあるディスコ映画「54」(98年)でも、ハウスディスコグループ「Stars on 54」によるカバーが主題歌として使われています。

よく聴くとこの曲のメロディーのサビは、70年代にジョージ・ベンソン、さらには80年代にホイットニー・ヒューストンがヒットさせたバラード「Greatest Love Of All」にとてもよく似ています。実際、80年代後半には「Greatest…の作者が、Gordon氏の曲を盗用した」との疑惑も持ち上がったようですね。まあ、それぐらい普遍的に耳ざわりの良いメロディーだったということにはなります。

ほかのディスコ曲としては、「Stormy Weather」(82年、同4位)があります。個人的には、後にネイキッド・アイズも歌ってヒットさせたカバー曲のもろディスコ「Always Something There To Remind Me」(80年)とか、シブいR&B調の「Dare To Dream」(85年)なども、なかなかヨイ出来だと思います。

特別に歌が上手いわけではありませんが、ややハスキーで個性的な声質が持ち味でした。メジャーにはなれなかったけれど、いつまでも記憶に残りそう。そんな歌手だったと思います。

CDは、写真の加Unidisc盤のほか、米Hot Productions盤のベストがあります。ただ、この人は80年代後半以降、ハウスリメイクの曲を大量にリリースしており、これらのベスト盤にもかなり混ざってしまっています。私のような70〜80年代のディスコ好きにとって最良のCDは、今のところ見当たりません。


*5月20日追記

久々の投稿がやっと終わった…とホッとしていたら、直後に「どうしてもお前のブログで俺のイベントを宣伝してほしい」とのメールが、海外から突然届きました。場所はなんと!…フランスはパリ。しかも日付は5月23日…いくらなんでも無茶です。しかし、長年の友人にて、ダメもとですが、義理を果たすべくここに追記で掲載させていただきます。

店名:「La Java」(参考地図)(英文ガイド
住所:「105 Rue du Faubourg du Temple 75010, Paris, France」
地下鉄駅:「 Belleville 」
日時:2009年5月23日午後11時〜(現地時間)
DJ名:Jussi Kantonen (ユッシー・カントーネン=下右写真=、HP

この人は、当ブログでも何度か取り上げているフィンランドのディスコ研究家で、本業は建築家。「Saturday Night Forever」という著名なディスコ解説本の著者であるほか、欧州各地を駆け巡る売れっ子ディスコDJでもあります。

ものすご〜く日本びいきで、毎年のように来日しては、コアなディスコ・レコード(西条秀樹とかピンクレディーとか)や、日本のポルノおよびアクション女優(池玲子とか梶芽衣子とか)のむか〜しのビデオとかを大量に購入して帰るという「フィンランドが生んだサブカル(特に日本モノ)の権威」でもあります。ディスコ的にも、これまでグロリア・ゲイナーとかボリス・ミドニーとかD.C.ラルーとか、メジャーどころのディスコ・ミュージシャンへのインタビューを次々と実現しており、世界ディスコ界でもリスペクトされているのは事実です。私もいつも、彼の博学多識ぶりには感服しております。

ですから、私だって、とても面白そうな彼のプレイを体験(うっふ〜ん)してみたいのはやまやまです。しかし、なにしろ3日後のパリ。万が一、パリ界隈在住者または旅行予定者でこのブログをご覧のディスコフリークの方がおられましたら、立ち寄ってあげてくださいませ。何卒よろしくお願いいたします。ローテーションとしては、「時代は70〜80年代初頭。最初はマカロニ・ウエスタン系から入って、途中カンフー系をほどよく絡めて、後半にテーマ・オブ・ジャパンで盛り上げていこうと思っている」(!?)とのことです。う〜ん、あばんぎゃるど

Jussi Kantonen

2009年05月10日

フィンツィ・コンティーニ (Finzy Contini)

Finzy Contini疾風怒濤のマイケルさんに続きましてはフィンツィ・コンティーニ。代表曲のラテンフレーバー・ディスコ「チャチャチャ」は、例によって日本でも石井明美がカバーして大ヒット、その曲を主題歌としたドラマ「男女七人夏物語」も大ヒット……というわけで、そろそろ私の中のバブルも弾けそうです。

とはいっても、この曲の発売は1985年ですから、正確にはバブルのごく初期にあたるのですけど、80s後半のノリを濃厚に映し出す作品として記憶に刻み込まれております。

イタリア出身の女性ボーカリスト「クラウディア」を中心とした女1人男2人のグループ(貴重なYoutube映像)。それに、プロデューサーは「Disco Band」などのヒットで知られるScotchを手がけたDavid Zambelliらが担当していますから、大きなカテゴリーからみればイタロディスコに含まれます。

それでも、テンポがゆるめの曲が多いながらも、中身はもうバブル期特有の純粋ユーロビートでした。当時のディスコでは結構しつこく流れていましたから、私もそんなフロアで“バブルに踊らされた”一人といえますね(笑)。

チャチャチャについては、フランスでも「Key Largo」というアーチストが同時期にリリースして、競作となっています。こちらのバージョンも日本のディスコで流れていました。

チャチャチャの後は、「Ou-La-La」、「Clap Your Hands」など、チャチャチャと似た感じラテンものイタロの12インチをいくつかリリースしています。

80年代末期には曲調が少し変わり、バナナラマや初期カイリー・ミノーグやソニアなどを手がけたプロデューサーチームのストック・エイトケン・ウォーターマン(SAW)風の「In The Name Of Love」をリリース。日本ではかなりの人気で、バブル崩壊前夜、やたらとハイパーになっていくユーロビートを象徴するようなヒット曲になりました。90年代半ば以降は、表舞台から消え去ったようです。

写真のCDは、87年に日本のキングレコードから発売されたファーストアルバム「チャチャチャ」。初期作品集ですので、すべてラテン調でまとめられていますが、チャチャチャ、それに小ヒットのOu-La-La以外にはあまり見るべきものがありません。私もこれを書くにあたって、約20年ぶりに聴いた次第です。

2009年05月01日

マイケル・フォーチュナティ (Michael Fortunati)

マイケル・フォーチュナティイタロディスコとはいいながら本国では相手にされず、日本バブルディスコの象徴になってしまった「ギブ・ミー・アップ」(1986年)。肩掛けキーボードがトレードマークだったマイケル・フォーチュナティさんは、いまどこでなにをやっているのでしょう。

――そんな思いにかれられる切ない彼なのですが、とにかく日本でのみ売れたといっても過言ではないので、海外サイトや各種ディスコ資料を調べても、あまりデータがありません。ベルギーなど欧州の一部ではヒットしたとされていますけど、Youtubeとか見ても、外国人からの書き込みがとても少ないので、やはりマイナーだったと思われます。

日本では歌謡番組に出演するなど、一時期は相当な知名度を誇っていました。ディスコで流行っていたものですから、私もギミーアップと次にリリースした中ヒット「イン・トゥー・ザ・ナイト」(87年)のレコードだけは買いました。あとは「ハレルヤ」とか「レット・ミー・ダウン」などのシングル曲がありますけど、徹底した「二番煎じ型」ですので、ホントどれも似た感じです(トホホ)。

そのころ私は上京したばかりで、六本木、新宿、渋谷と、勇んで出かけたどの店でも大人気だったのを覚えています。まあ、マハラジャの経営者だった成田勝氏がなぜか当時、「イントゥーザナイト」の方のカバー・レコードを発売していますから、「マイケル・フォーチュナティといえばマハラジャ」というイメージもありますね。

彼の曲の曲調は「派手めのイタロ」といった感じでしょうか。80年代後半に定着し、在来ディスコを駆逐していったハウスミュージックやイタロハウスやハイパーユーロビートのノリも含まれていますので、今思えば、ギミーアップあたりはディスコ終焉に向けた序曲だったのかもしれません。

ギミーアップは、同時期に出たバナナラマの「I Heard A Rumor」と酷似していることで話題になりました。日本では、メロディーラインが哀愁系でなかなかの名曲だった「I Don't Know」のヒットがあるアイドルデュオのBabeなどがカバーしており、かなりの売れ行きを示しました。

そもそも日本の歌謡曲は当時、イタロサウンドにずいぶんと影響を受けていました。中山美穂、浅香唯、本田美奈子、工藤静香、Wink……。アイドルが歌うダンス系の曲はおしなべて、イタロ風もしくはユーロビート風のシンセサイザーの打ち込み音がばっしばし入っていたものです。

玄人はだしの音楽ファンにはてんで相手にされないマイケルさん。頼みの日本での人気も、90年ごろからは急下降。それでも、ギミーアップのおかげで、日本ディスコ史には確実に足跡を残しましたね。バブル狂乱期、私もけっこう喜んで踊っておりましたし、お世話になった一曲ということにはなるでしょう。「頑張れマイケル!!」とまずは声援を送っておきます。

CDについては、日本盤のベストがいくつか出ています。写真は2002年発売のEMI盤。ギミーアップとイントゥーザナイトの「ニューバージョン」もおまけとして入っているところが、過去の栄光にしがみつく痛々しさをほんのりと醸しているかのようですが。

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mrkick (Mr. Kick)
本名・菊地正憲。何かと誤解されるディスコを擁護し、「実は解放と融合の象徴だった」と小さく訴える孤高のディスコ研究家。44歳。本業は雑誌、論壇誌、経済誌などに執筆する元新聞記者のジャーナリスト/ライター。踊る機会はめっきり少なくなったが、CD&レコードの収集は28年前から地味〜に続行中。アドレスは↓
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