ディスコ堂 by mrkick

音楽に貴賎なし ―Discoの考察とCD批評

THPオーケストラ (THP Orchestra)

THPいやあ再び秋も深まってまいりました。本日は日本の“元祖DJ”一遍上人(以前の投稿ご参照)ゆかりの遊行寺(神奈川県藤沢市)を久しぶりに訪れ、700年前の大解放ディスコである踊り念仏の国宝絵巻を特別展でとくと拝見してテンションも高まって参りましたので、どど〜んと心拍数上がりまくりの「必殺攻め攻めディスコ」を紹介いたしましょう。

時は1976年、ディスコブームが世界を覆いつくそうとしていたころです。カナダからTHPオーケストラなるディスコグループが現れました。英国人ミュージシャンのウィリー・モリソン(Willi Morrison)とイアン・ゲンター(Ian Guenther)のプロデュースにより、あからさまに「踊らば踊れ」のあげあげディスコを連発したのです。

デビューアルバム「Early Riser」は、タイトル自体は「早起きさん」と珍妙ですけど、アメリカの人気アクションドラマ「特別狙撃隊S.W.A.T.」のテーマ曲のディスコアレンジ「Theme From S.W.A.T.」など軽快なインストものが主に収録されており、「無難にまとめたな」感が強い。

続く77年発売の「Two Hot For Love」は、無名の女性ボーカリストであるBarbara Fry(バーバラ・フライ)を起用。以前取り上げたアレック・R・コスタンディノスとかセローンみたいなユーロディスコの影響を受けた長尺ものが注目点で、全米ディスコチャートではアルバムタイトル曲が3位まで上昇し大ヒットしました。ですが、まだまだあげあげマックスとはいかない感じで物足りなさが残ります。

78年の3枚目アルバム「Tender Is The Night」では、後に「Boys Will Be Boys」というアップリフティングな曲が全米ディスコチャートで8位(79年)を記録したダンカン・シスターズ(Duncan Sisters)がボーカルを務め、アルバムタイトル同名曲「Tender Is The Night」(米ディスコチャート14位)など、ストリングス中心のなかなかパワフルなダンスチューンを繰り出しました。それでも……やっぱり大きな特徴は見出せず、「血沸き肉踊る」ような躍動感を実現したとまでは言い難いのです。

そんなわけで、私が強烈に心ひかれる名盤とさせていただくのは、79年発売の4枚目「Good To Me」であります。もう、なんといってもボーカルが特別にユニークかつ変てこ(しかしとても上手)。ちょいとチャールストンみたいな風情も醸す歌声のジョイス・コブ(Joyce Cobb)というこれまた無名の女性なのですが、アルバムタイトル同名曲「Good To Me」(同16位)なんて、「せんっ、せいしょ〜ん(sensation)」とか、「ばん、ばあああああん(Bang Bang)」といった具合に、完全に人を食っているのか、いや実は確信犯で自らのアイデンティティーを懸命にアピールしているのか、とにかく絶対に忘れられない(忘れさせない)インパクト炸裂!「びんびろ〜ん」と繰り出される忘れ難いギターリフとの相乗効果で、虎視眈々と聴く者のダンスフロア魂をくすぐるのでした。

このアルバム全編を貫く曲調、というか節回しもそこはかとなく絶妙です。恐ろしくキャッチーな上に、よくよく聴いてみると、以前よりもドラムのキックが一段と強くなり、同年発売のドナ・サマーホット・スタッフ」並みにロックディスコ化しております。それにあの唯一無二のボーカルが乗っかってくるわけですから、(やや面食らいながらも)フロアに突進するしかないでしょう。これではかの一遍さんも、700年の時空を超え、ご自慢の鐘を鳴らしながら一緒に踊り狂わずにはいられますまい。

このアルバムではもう一つ、「Dancin' Forever」という曲もなんだか素晴らしい。「ビーウィズユー♪」「ダンシ〜ン♪」と連呼するコーラス部分では、「デン、デン、デン、デン…」と律儀に進行する四つ打ちドラムに合わせて、思わず両腕を前後に元気よく振って前進したくなる衝動に駆られる「早足の行進曲」とでも言える代物です。ディスコものだけでも1万枚・5万曲を超すCDやレコードを聴いてきたわけですけど、こんな曲、ほかにはあんまり見当たりません。

以上4枚のアルバムともに「モリソン&ゲンター」のコンビで作られたのですが、この辺で彼らの不思議なディスコワールドも終焉を迎えます。80年に入ってディスコブームが下火となり、レコード会社が倒産するなどして低迷し、表舞台からは消え去ってしまうのです。モリソンさんの方は、バブル期の1986年にもろデッド・オア・アライブを意識した「Pistol In My Pocket 」(Lana Pellay)なる曲を少しヒットさせました。私もこの曲は新宿や渋谷のディスコでかなり耳にしましたが、やっぱりこの人は「オーケストラ」というぐらいですから70年代の人なわけです。

THPはディスコ的には比較的重要なアーチストにもかかわらず、長くCD化はされていませんでした。2年前にようやく、英Harmless社から全4枚がどど〜んと再発(上写真はその1つで2枚組)となり、しかも思ったより音質もよいため、ディスコ好きには大変喜ばれております。

セルジオ・メンデス (Sergio Mendes)

Sergio Mendes Olympia5年後に控える東京五輪の話題が今、良くも悪くも沸騰中ですが、今回はそんな時勢に確信犯で乗っかっりつつ、「大オリンピック・ディスコ祭り」と参りましょう!

血沸き肉躍るスポーツの祭典ということですので、情熱のダンスで踊り狂うディスコとの相性は元来よいもの。まずはディスコが欧米を中心に認知されはじめる1972年には、東西冷戦期の西ドイツで、あの忌まわしいナチス政権下のベルリン五輪(1936年)以来初となる“冷戦だけど表向き平和で〜す”のミュンヘン五輪が開かれ、それを契機にエンタメ・音楽業界が一気に盛り上がり、そのひとつの成果としてドナ・サマーボニーMロバータ・ケリーらが輩出した「ミュンヘン・ディスコ」シーンを生み出しました。

続く1976年のカナダのモントリオール五輪のころには、いよいよディスコ・ブームに火が付きます。当時のモントリオール五輪公式報告書(106ページ)などによると、選手村の近くのビルにも「おもてなし施設」として映画館やブティックとともにディスコが作られ、選手たちは夜な夜な歓喜の舞踏に興じたといいます。モントリオールのあるケベック州はもともとカナダの中でもとりわけフランス系移民の末裔が多く、第一言語がフランス語であるほどですので、ディスコの語源の仏語Discotheque(ディスコテーク)よろしく、「カナダ産ディスコ」が次々と弾け出しました。

代表例としてはジノ・ソッチョ、THPオーケストラ、クラウディア・バリーフランス・ジョリライムトランスXといったところで、いずれ劣らぬアゲアゲ・ダンサンサブルな良曲を数多く世に送り出しました。カナダは音楽大国というわけではないのに、五輪効果を背景に、ディスコ界ではけっこうな存在感を示すことになったのです。つい4年前には、ディスコのメッカとなったモントリオールを舞台にしたカナダ映画(「Funkytown」)も公開されております。

問題は次の1980年開催のモスクワ五輪。78年のソ連によるアフガン侵攻の影響で、日米欧を含めた西側諸国が相次いで参加ボイコットを決定し、なんとも締まらない大会になってしまったのです。せっかくおバカさん満開の大ディスコブーム真っ只中だというのに、これだと盛り上がるはずもなく、五輪を当て込んでリリースされたジンギスカンの「目指せモスクワ」などは、(人気はそれなりにあったが)まったく皮肉なトホホ・ディスコと化してしまったのです。

日本における第1次ディスコブーム(1970年代後期)と第2次ディスコブーム(1980年代後半からのバブル期)の狭間の84年には、ロサンゼルス五輪が開かれます。もちろん、日本を始め西側諸国はこぞって参加したものの、ソ連など東側諸国が報復とばかりにボイコット。これまた「盛り下がり五輪」となってしまいました。その結果、有力選手の多くが不参加だった1980、84年のメダルの価値も、否応なしに下がってしまっております(再び「スポーツへの政治介入ってホント嫌ですね」のトホホ)。

さて、ここでようやく今回の主役の登場です。ロス五輪については、個人的に「大ディスコ・マイブーム期」の只中でしたので、印象深い「ザ・五輪ディスコ」として「オリンピア」(1984年、米ビルボード一般チャート58位)をひとつ、紹介しておきましょう。

歌うのはブラジルが生んだボサノバ・ジャズの帝王セルジオ・メンデスさん。古くは、今なおカバーされ、愛され続けるボサノバダンスの名曲「Mas Que Nada(マシュ・ケ・ナダ)」(1966年、同47位)を発表し、ディスコブーム期にも、Sergio Mendes & The New Brasil '77名義で「The Real Thing」(1977年)、Sergio Mendes Brazill '88の名義で「I'll Tell You」(1979年、米ビルボード・ディスコチャート9位)、「Magic Lady」といった彼ならではの果てしなくメロウ&グルービーなダンス曲をリリースしていますが、ボイコット問題がくすぶるロス五輪に合わせてリリースした「オリンピア」は、一念発起して流行りのAORをゴージャスにダンスチューン化したような内容。以前に紹介したテリー・デサリオの「オーバーナイト・サクセス」にも似た雰囲気で、80年代シンセの硬質な音色もキンキン(しかしどこか心地よく)鳴り響いておりまして、当時はディスコでもよく耳にしました。ただし、題名が題名だけに、ちょいと豪快で大げさな感じです。

セルメンさんは、「オリンピア」を収録したアルバム「Confetti」(写真)の発売の1年前、「Sergio Mendes」という同じようなAOR/ダンス系のアルバムを出し、その中の「Never Gonna Let You Go」というバラードを久しぶりに大ヒット(ビルボード一般チャート4位)させておりますので、気を良くして「五輪に便乗しちゃうぞ!」と、渾身の昇天ダンスチューンに挑戦してみたのかもしれません。

その後、88年のソウル五輪、92年のバルセロナ五輪のころには、音楽シーンにおけるディスコの存在感そのものが徐々に薄くなっていったわけですが、例えば冬のトリノ五輪(2006年)では、開幕セレモニーで懐かしのディスコ曲が大量に流れて(私的には)話題を呼びました。盛り上げ要素抜群のディスコは、やはり各種お祭りのBGMとして使いやすい音楽なのだと思います。

1964年の東京五輪では、「東京五輪音頭」なる民謡調の珍曲が巨匠・古賀政男によって作曲されております。今聴くと大いに困惑することウケアイなのですが、半世紀以上の時を超え、2回目の東京五輪ではどんな音楽が使われるのでしょうか。まあディスコじゃなくても全然かまわないのですけど、くれぐれもパクリだけは勘弁していただきたい!(ディスコ自体がパクリ要素満載なのだが)

なお、セルメンさんのディスコ感覚なアルバムのCDについては、残念ながらどれも再発されていないか、過去に出ていてもレア化し始めております。

ネイキッド・アイズ (Nakid Eyes)

Naked Eyesさて、今回は灼熱の夏を彩るニューウェーブ・シリーズ第3弾、ネイキッド・アイズと参りましょう。80年代前半、サンプリング・シンセサイザーの草分けで当時約1千万円もしたフェアライトCMIをいち早く導入し、ユニークな哀感漂う音作りにせっせと励んでいた英国の男性2人組です。

最大のヒット曲は、1982年発表の「Always Somthing There To Remind Me」(米ビルボード一般チャート8位、米ビルボード・ディスコチャート37位)。米ポップス界の巨匠バート・バカラックによる60年代の作品のカバーです。邦題は「僕はこんなに」といかにも意味不明ですが、曲調は美メロで至って真面目であり、フェアライト特有の「カン、カン、ボワ〜ン、ドッカ〜ン」という金属的かつ工場機械的な電子音が、大仰なだけにかえって日本人好みのはかなさを感じさせてくれています。

変則的高速ビートのこの曲は、「踊ってみな」と言われても、なかなかのり切れない難攻不落な展開のため、当時のディスコで聞くことはほとんどありませんでした。でも、少々控えめな曲調の次のヒット曲「プロミセス・プロミセス」(83年、一般11位、ディスコ32位)は、けっこう耳にしております。人気DJだったジェリービーンによる「ジェリービーン・ミックス」では、まだ無名歌手で、彼の恋人でもあったマドンナのささやくような美声も入っていて、二重に楽しめる内容となっています。

続くヒット曲「(What) In The Name Of Love」(84年、一般39位、ディスコ35位)は、「こんなに」と「プロミセス」を合わせたような「カン、カン、ボワ〜ンの哀愁ダンサブル」な雰囲気を漂わせており、これまたメロディーラインが美しい。フロアで激踊りを披露するわけにはいかないにしても、奥の暗がりで席に座ってドリンクでも口にしながら、手足をリズミカルに動かすには最適な内容となっています。

このデュオの構成メンバーはPete ByrneとRob Fisherで、80年代初めに2人で活動を始めて、活動を休止した84年までに2枚のアルバムを出しています。うちRobはClimie Fisherという別のデュオを結成し、「Love Changes (Everything)」(88年、一般23位、ディスコ16位)というダンスヒットを飛ばしますが、99年に病気のため39歳で早世しています。

今あらためて聴いてみますと、前回紹介したABCにも似た、80年代に大量に登場したエレポップな要素がふんだんに詰まっていることが分かります。それでも、この人たちの曲は、特にメロディーラインに個性が感じられます。短い活動期間ではありましたが、一発屋ではありませんし、ディスコ界にもポップス界にも、相応の貢献を果たしたといえましょう。

CDは、2枚のアルバムともに再発で出ております。ベスト盤もいくつかあり、写真は2002年発売の米EMI盤ベスト「Everything And More」。主なヒット曲の12インチバージョンが入っていてうんと楽しめますが、最近は希少化しているようです。

エービーシー (ABC)

ABC今年も、北国育ちにとっては酷暑がこたえる季節となりましたが、そんな逆境もどこ吹く風、今回も英国ニューウェーブなおもむきでABCと参りましょう。

1980年にマーティン・フライ(Martin Fry)らが中心となって活動を開始したグループで、シンセサイザーを駆使したダンスミュージックをがんがん繰り出していました。

代表曲はなんといってもデビューアルバム「The Lexicon Of Love」に収録されていた「The Look Of Love」(全米ビルボード一般チャート18位、ディスコチャート1位)でして、ぶりぶりシンセサイザーにサックスの音色がほどよく絡み、そこにマーティンの情熱的なボーカルが乗っかってきます。おまけに「ピンピンポンポン!♪」とハープの音なんかもうっすらと入ってきて、なかなか個性的な音作りをしていました。

この曲は、アメリカの音楽番組MTVでよくオンエアされていたプロモーション・ビデオ(PV)も印象的でした。往年のミュージカル映画「メリー・ポピンズ」を模した底抜けにカーニバルかつフェスティバルなメルヘン動画となっており、お子様でも安心して楽しむことができます。

アルバムのプロデュースは、数多くのアーチストのヒットアルバムを手がけた売れっ子プロデューサーのトレバー・ホーン。収録曲からの2枚目のシングルカットとなった「Poison Arrow」(一般25位、ディスコ39位)も、まずまずのヒットを記録しました。

このころは、アメリカのヒットチャートにイギリス産音楽が続々と進出していった「第2次ブリティッシュ・インベージョン」の時期にあたります。曲調的には、同様に80年代半ばに人気が出たスパンダー・バレエとかフランキー・ゴーズ・トゥ・ザ・ハリウッドなどとも似たところがありますが、やはりマーティンのボーカルに最も特徴が出ているグループです。

さらに、1985年にリリースした3枚目のアルバム「How To Be A Zillionaire!」からは「Be Near Me」(米一般9位、ディスコ1位)やサンプリングエフェクトをちりばめた「(How To Be A) Zillionaire」(同20位、同4位)、「Vanity Kills」(同91位、同5位)が、1987年にリリースした「Alphabet City」からはスモーキー・ロビンソンへの敬意を込めた「When Smokey Sings」(同5位、同1位)といったヒットを飛ばしています。いずれもボーカルとシンセサイザー、ホーンセクション、ドラムビートがうまく調和したスタイリッシュな佳作ぞろいとなっており、躍り甲斐があります。当時のディスコでも頻繁に耳にしたものでした。

CDは、各アルバム、ベスト盤ともに一応発売されておりますが、一部レア化して高騰しています。

キム・ワイルド (Kim Wilde)

Kim wildeさて今回は、80年代の英国を代表する女性歌手キム・ワイルドさんで〜す!その名のとおり、当初はブロンディみたいなワイルドなロックまたはポップスの曲調が多かった人ですけど、80年代半ばから緩やか〜にディスコ化。怒涛のエネルギーに満ち溢れた数々のヒットを放っています。

当時は、シーナ・イーストンとかマドンナとか、女性の音楽的社会進出を思わせる美貌系のソロ女性歌手ブームがありましたので、彼女もその一人ということになります。

1960年生まれの彼女の父親は、1950〜60年代の英国ロックンロール&ロカビリー界のトップスターだったマーティー・ワイルド。1981年の20歳のとき、その父親の協力の下、同じくミュージシャンである実弟のリッキーがプロデュースして、デビューアルバム「Kids In America」を発表。収録曲の同名シングル「Kids In America」が、いきなり本国のシングルチャートで2位に輝きます。全米チャートでは最高25位といまひとつでしたが、ドイツやフランス、豪州などでも軒並みチャートインしました。

この曲は、父の影響を感じさせるアップテンポのロック調で、随所にアナログ・シンセサイザーの「びよんびよん」な音が響き渡ります。キムさんのクールで無機質な表情に似合わないあどけない声が、現在にも通じるミスマッチな魅力を放っています。

続く82年に発表した2枚目「Select」では、ロック色をやや弱める一方、シンセポップ、ニューウェーブ色を強めました。この中には、昔紹介したウルトラボックスみたいなブリティッシュ・ニューウェーブロック大全開でアゲアゲな「Words Fell Down」や「View From A Bridge」や「Chaos At The Airport」、かと思えばしっぽりと哀切感漂わせる隠れた名曲「Cambodia」などが収録されています。

その後、毎年のようにアルバムを発表した彼女ですが、「Kids In America」ほどのヒット曲には恵まれませんでした。ただ、1984発表の4枚目「Teases & Dares」に収録されている「The Second Time」などは、テイラー・デインみたいな“ラッパ・シンセ”が縦横無尽に駆け回り、それを几帳面な電子ドラム音が「まあそう慌てなさんな」とばかりにしっかりと下支えするダンサブルさが持ち味で、当時のディスコでもけっこう耳にしました。

さらに、同アルバムの別の収録曲としては、もろ「親父の影響」で作られたと思われるロカビリー・ディスコ(?)の「Rage To Love」にも、個性的な発想の音作りを感じさせます。

セールス的に停滞気味になった彼女にとって本当の転機となったのは、やはり86年発売の5枚目「Another Step」(写真)に収録の「You Keep Me Hangin' On」でしょう。ついにというか、いきなりというか、あれよと言う間に米ビルボード一般チャート1位(ディスコチャートでは6位)に輝いてしまったのです。

この曲は、ザ・シュープリームスの名曲をハイエナジー風のディスコにリメイクした内容で、当時流行りのゲートリバーブのエフェクトをかけた「ビシッ!バシッ!」ドラムも絶好調の一品。「おもしろうて、やがてかなしき鵜舟(うぶね)かな」(By 芭蕉)の大バブル経済下だった六本木界隈のディスコでも、バナナラマ並みに高らかに響き渡っていましたとさ。

ちなみに、このアルバムの他の収録曲では、「Another Step (Closer To You)」もなかなかおもしろい。というのも、同じく英国のソウルディスコ歌手で、「ママ・ユース・トゥ・セイ」のヒット曲を持つJunior(ジュニア)さんとの異色デュエット曲になっているからです。曲調はオーソドックスな80年代ロックディスコという感じですが、2人の一風変わったソプラノ系の声質が、ディスコに集う者たちに、「はて踊るべきか、踊らざるべきか」と一瞬戸惑いを起こさせるような、独特の高揚感を生み出しています。

80年代後半にはもう1曲、「You Came」(88年、米ディスコチャート10位)という曲を発表しました。もうこのあたりまでくると、確信犯というかある種の開き直りというか、メロディーライン重視の「ちょいとユーロビート」な感じになっちゃってます。

というわけで、90年代に入ると、20代のころのワイルドさもさすがに影を潜め、セールスまでもが落ち込む一方になっていったキムさん。それでも、鮮烈デビュー作だった「Kids In America」からの一連の鋭角的な作品群は、その風貌とも相まって、パワフルで華々しかった80年代の音楽シーンを象徴しており、相当なインパクトがあったと思います。

再発CDは各アルバムともに発売されています。写真は「You Keep Me…」が収録された代表的アルバム「Another Step」で、収録曲のロングバージョンを網羅したCD2枚組の英Cherry Pop盤が5年前に出ています。

次回も、ニューウェーブとかそのへんに焦点を絞ってみたいと考えております。

カレン・カーペンター (Karen Carpenter)

Karen Carpenterいやあ、ゴールデンウィークもとうに終わり、間もなく梅雨入りとなります。今回はひとつ、「ありそでなさそな、でもあったカーペンターズ・ディスコ」を紹介しておきましょう。

カーペンターズといえば、まずはカレンさんの天下無敵の美声が醸す珠玉のメロディーラインということになりますが、大ディスコブーム期の1979年から1980年にかけて制作された彼女の唯一のソロアルバムには、ディスコ的な空気が横溢しています。

中心プロデューサーは、ポップスやロックを軸に数々の大物ミュージシャンを手がけていたフィル・ラモーン。とりわけ呼び物の「My Body Keeps Changing My Mind」では、のっけからドンドコディスコ全開で、立ちくらみがするほどです。ドラム、ベース、ストリングス、ホーンセクションが恥ずかしげもなく大展開する中で、A、Bメロから後半のコーラスにかけて、あの透き通る歌声が負けじと響き渡ります。「ダンシン!ダンシン!」と連呼なんかしちゃってもう、完全に茶目っ気たっぷりの「あげあげカレン」状態です。

もう一曲、「Lovetlines」もなかなかにしたたかなディスコ・フュージョン路線。最初は"朝もや田園風"のさわやか風味でそろりと入りつつ、コーラスでは――やっぱりドラムやらベースやらがにぎやかに競演してディスコ大全開!(喝采)。この「フュージョンからのディスコ」という変化球もまた、否応なしに踊り心をくすぐることウケアイなのです。

さらに、「Remember When Lovin' Took All Night」という曲も、8ビートのドラムがしっかりと下地を作り、そこにメロディアスな歌声が乗っかるパターンで、ほんのりとしたディスコ路線を打ち出しています。

それもそのはず。彼女は、ディスコをはじめとするダンスミュージックの基礎となる「リズム感」が抜群なのでした。もともと高校時代にはドラマーとしてバンドに参加していたほどで、プロになってからもよく披露していました。Youtubeにはいつくかその時の映像がありますが、ステージを目が点になるほど縦横に駆け回る姿からも明らかなように、相当な腕前なのでした。彼女のウリは、天性の歌声だけではなかったのです。やはり音楽の申し子としか思えません。

けれども、この華々しき「ディスコ系アルバム」は完成後、レコード会社(A&M)や、長年の音楽的相棒である兄リチャードからの反応が芳しくなく、なんとお蔵入りになってしまいました。自信作の発売見送りの知らせを受けたカレンさんは、相当に落ち込み、激しく抗議したと伝えられています(そりゃそうだ)。その3年後、1983年にはカレンさんは32歳で急死。それから13年の時を経て、1996年に発売されることになり、ようやく日の目を見ることになったいわくつきの「幻のカーペンターズ・ディスコ」でもあったのです。

というわけで、このアルバム「Karen Carpenter(邦題:遠い初恋)」では、王道の「イエスタデイ・ワンス・モア」とか「トップ・オブ・ザ・ワールド」とは一味ちがった、カーペンターズの世界が堪能できます。もちろん、得意のバラード調も収録されております。CDは入手容易となっております。

アシャ・プスリ (Aha Puthli)

asha_puthli今回は、少し前に読者の方からリクエストがあった、インドのムンバイ出身の「妖艶系」歌手、アシャ・プスリさんを取り上げてみましょう。なんといっても、そのもわ〜んとした“女性版バリー・ホワイト”みたいな特徴的な声が印象深く、ディスコ的には底ぬけにメロウな「The Devil Is Looose」、「Music Machine」などの曲で知られています。

幼少時にはオペラなどの古典音楽を学び、後に米国に渡って前衛的な歌唱法のジャズ歌手として活動。さらに欧州でも70年代に入って、プレ・ディスコ期のダンス曲「I Am a Song」などを発表しました。世界を股にかけた活動ぶりでして、今やすっかり定着した音楽ジャンルであるワールドミュージックのさきがけとも言える人です。

70年代後半には、ディスコ・アルバムを相次いでリリース。当時流行していた、コスチュームの派手なグラム・ロックの影響を受け、ジャケットもなかなかに個性的なデザインのものがありました。

The Love Is Devil」、「Space Talk」などのしっとりとした曲が多く収録された1976年のアルバム「The Devil Is Loose」(写真)に続き、78年にはJean Vanlooというディスコ・プロデューサーを起用して本格的なディスコアルバム「L'Indiana」を発売。特に「L'Indiana」には、「四つ打ち」ドンドコディスコの王道をゆく「I'm Gonna Dance」、ドナ・サマーばりのアルペジエーター・シンセが炸裂する「There Is A Party Tonight」、やや緊迫したイントロが逆に踊り心を否応なしにくすぐる「Music Machine (Dedication To Studio 54)」といった、スペーシーかつ真っ正直にフロアを意識した楽曲が連なっており、好感度抜群です。

さらに、79年には「1001 Nights of Love」(愛の千一夜)という正統的なディスコアルバムを、80年には「I'm Gonna Kill It Tonight」というちょいとロックっぽいアルバムを発表。その後も精力的に新作を発表し続けました。同時に、美貌を生かして映画出演やモデルとしても人気を博しています。

以前に紹介したマドリーン・ケーンアンドレア・トゥルーアマンダ・レア、それにユニークな美声を誇ったケイト・ブッシュあたりを彷彿させる魅惑系ディスコ歌手として、独特の存在感を発揮したアシャさんですが、低音からソプラノまでぐいぐい伸びる幅広い歌声こそが、彼女の真骨頂と言えるでしょう。

残念ながらヒットチャートを派手ににぎわしたような曲はなく、CD化はほとんどされておりません。日本での知名度もあまりありませんけど、インド出身というだけでも珍しく、それに声質といい曲調といい、かなり異色な実力派女性歌手ですので、ディスコ好きであれば、レコードであっても何枚かコレクションに加えておくと面白いと思います。

彼女は現在も米フロリダ州を拠点に音楽関連の仕事を続けています。私のFacebookの「友だち」でもありますので、簡単にメッセージを送ったところ、「マサノリ、素敵な言葉と私の音楽への愛をありがとう。あなたのブログの読者に紹介してくれてとても感謝しています」といった返事が来ました。

アシャさんの曲はYouTubeに大量にアップロードされておりますし、現在のアーチストによるサンプリングなどでも使用されているようですので、またどこかで脚光を浴びる日が来るかもしれません。

レイクサイド (Lakeside)

Lakeside今月10周年を迎えたこのブログ、地味に始まり、気がつけば今も地味〜に続けております。今後とも何卒よろしくお願い申し上げます。

さて、今から30年以上もの昔、「Sound Of Los Angeles Records」の略語である「Solar(ソーラー=太陽の意)」というレーベルがありました。ディック・グリフィー(Dick Griffey)という人物が、友人で音楽番組「ソウル・トレイン」の司会で有名なドン・コーネリアスとともに創立。発祥は米東海岸のフィラデルフィアですが、すぐに文字通りロサンゼルスに拠点を移しました。以前にも紹介したシャラマーウィスパーズのほか、ミッドナイト・スターやダイナスティ、キャリー・ルーカスなどのこてこてダンス系の人気者が多数輩出した元気いっぱいのレーベルだったのです。

今回はその代表的な所属アーチストのひとつ、レイクサイドに光を当てましょう。上写真のアルバム「Fantastic Voyage(ファンタスティック・ボヤージ)」の表題曲シングルが、1980年の全米R&Bチャートで栄えある1位(全米ディスコチャートでは12位)に輝いた最大9人編成の「楽器、ボーカルなんでもそろってま〜す」の大所帯黒人グループです。

確かに「ファンタスティック」あたりは、当時のディスコでもラジオの洋楽番組でもよ〜く耳にしました。シンセベースの音色も楽しい、もう「ぶいぶい、ぶっりぶり」の泥臭さ満点の重量級ファンクでして、踊る際にも、丹田(へその下あたり)に力を込めて心してかかったものです。

レイクサイドの起源は1960年代末にさかのぼります。ファンクの本場であるオハイオ州デイトンで、地元のギタリストStephen Shockley(スティーブン・ショックレー)、リード・ボーカルになるMark Wood(マーク・ウッド)らが結成した「Young Underground」がルーツ。シカゴのタレント発掘コンテストで優勝するなどして実力が認められ、ソウル界の大御所カーティス・メイフィールドらが創立したカートム・レコードと契約しましたが、その会社は間もなく倒産してしまいました。

失意のうちにロサンゼルスに移り、レイクサイドと改名。ここではなんと、かのモータウンとの契約にこぎつけました。しかし芽は出ず、メジャーのABCレーベルに移ってから初のレコードを出しましたけど、これも売れず…という具合に、不遇続きのグループでした。それでも、1970年代後半には、成長著しいソーラーとの契約という大きな転機が訪れたわけです。

ソーラーでは、78年にアルバム「Shot Of Love」をリリース。その中の「ぶいぶいベース系」ダンス曲「It's All The Way Live」がR&Bチャート4位まで上昇するヒットとなり、ようやく日の目をみることになりました。その後、「Pull My Strings」(79年、同31位)、先述の「ファンタスティック」、「Raid」(83年、同8位)、「Outrageous」(84年、同7位、ディスコ42位)といったヒット曲を出しています。私自身、「ファンタスティック」以外では、「Outrageous」もずいぶんとディスコで耳にしました。

いずれもやっぱり重量ファンク系なのですが、ビートルズのスタンダードナンバーのリメイク「I Want To Hold Your Hand」(82年、同5位)などのスローバラードも高水準です。彼らは大都会ロサンゼルスの垢抜けた雰囲気を感じさせつつも、もともとはどファンクの激戦地区オハイオで鍛えてきた人々なので、演奏力は折り紙付きです(コンテストで優勝したし)。ビレッジ・ピープルみたいなコスプレなアルバムジャケットを見ても分かるように、衣装がいつも奇抜で、ライブパフォーマンスの評判も高かったグループです。それに、マーク・ウッドを中心としたボーカルは、時には男臭く、時には耳に心地よくメロウに響いて変幻自在です。アメリカの中西部と西海岸が融合した音作りになっていると思います。

アメリカでは各地方や都市に独特の音楽があって、そのまま代名詞になっていました。例えば、ケンタッキーのカントリー、シカゴのブルース、ニューオリンズのジャズやソウル、メンフィスのサザンソウル、といった具合。ロックでも、西海岸ロックとか、サザンロックなどたくさんあります。ディスコで言えば、フィラデルフィア・サウンドからマイアミ・サウンドに至るまで、ご当地ディスコがかなりありました。世界に目を向けても、欧州やアジアならではのディスコがありました。もちろん、今もそうした見方はされますけど、昔の方が地理的な色分けがはっきりしていたのです。

ディスコ音楽は90年ごろを境にクラブ音楽に移行し、テクノ、ハウス、ヒップホップ、R&B、ジャングル、ドラムンべース、ディープソウルといっ た具合に、ジャンルがより細分化していきました。シンセサイザーやコンピューターによる作曲技術の進化により、それまでは考えられなかったような音がどんどん作れるようになり、リスナーの嗜好も同時に多様化、個人化したことが背景にあると思います。

逆に、とりわけ高度情報化によりボーダレスかつグローバル化する中で、地理的には音楽の境界が薄くなったようです。少し前でもシカゴ・ハウスとか、デトロイト・テクノみたいなのは一部ありましたけど、基本的には、ニューヨーク、ロサンゼルス、それにロンドンや東京で制作されようとも、ヒップホップはヒップホップですし、ハウスはハウスです。地域別の個性は、かつてより感じられません。観客の目の前で演じるライブ音楽の価値はいまだに色あせていないにせよ、mp3などの音声ファイルに音楽を取り込めば、よい音質で世界中、誰でもどこでも手軽に手渡しして楽しんでもらえる時代ですしね。

レイクサイド、ソーラーレーベルともども、80年代後半には活動が急速に衰えていき、やがて消滅しました。そんな意味でもレイクサイドは、オハイオとロサンゼルスという2つの地域的特徴を濃厚に醸す最終世代のファンクバンドといえます。

再発CDは、ソーラーの原盤権を受け継いだカナダのUnidiscを中心に出ておりますが、かなり希少になってきております。ベスト盤であれば、英国Recall盤の2枚組(下写真)が、主なヒットが網羅的に収録されていてお勧めではあるものの、2枚目の収録曲の目録が間違っているなど、けっこうトホホです。
Lakeside_Best

ホット・ブラッド (Hot Blood)

Hot Blood10周年、細く、長〜く、せめて月イチ更新で…というわけで今回、奇妙奇天烈摩訶不思議、抱腹絶倒笑止千万な奇人変人と自ら称してはばからない私mrkickが満を持してお送りするのは、「チーン、チーン…♪」ってな具合に、珍妙な柱時計の効果音で始まる究極のへなちょこおバカさんディスコ、「ソウル・ドラキュラ」で〜す。

これ、当時流行った「エクソシスト」なんかのホラー映画に影響を受けた、一発狙いの欧州系ディスコ・プロジェクトであることは間違いないのですが、あまり情報がない謎のグループでもあります。でも、「ドラキュラ」だけは、多くの人が一度は聞いたことがあると思います(ラジオとか駅前の喫茶店の有線とかで)。

各種資料や欧州の友人のディスコDJにあたっても、「実体ははっきりしない」との答えが返ってきます。単に「camp(低俗)でcheesy(安っぽい)なホラーものでしたな」という感じ。それにしても、「Hot Blood(熱い血)」って、ホット・コーヒーとかホット・ココアみたいな感覚で、人様の生き血をすすってはいけません。

素性がよく分からない人たちではありますが、レコードのクレジットをよくよく見ると、ボニーMのディスコリメイクの名曲「サニー」(76年)などのアレンジャーでもあったステファン・クリンクハマー(Stefan Klinkhammer)らが中心的に関わっていたようですので、旧西ドイツのミュンヘン・ディスコの範疇であることが浮かび上がります。日本のウィキペディアでは「フランスのグループ」と記載されていますが、根拠は不明。楽曲データベース「Discogs」や「Disco Delivery」をはじめ海外のサイトではことごとく「ドイツのグループ」となっておりますので、やはりドイツの線が濃厚です。

しかも、最初にフランスのCarrereレーベル(ディスコものをよくリリースしていた)からシングル(写真)が発売されたのは1975年ですから、かなり早い段階の「ミュンヘンひねりワザ恐怖ディスコ」となります。

この「ドラキュラ」は日本を中心に大ヒット。翌1976年には、2枚目のシングル「Le Chat (邦題:快傑!ソウル・キャット 」を発売し、特にフランスで大ヒットしています。フランス語の分かる海外の友人によると、「歌詞がすごいスケベ〜だから、面白くて売れたんだよ」といいます。まあ、歌うことより踊ることに重きを置くディスコの歌詞ってのは、大概はそんなもんです。

その翌1977年には、「ドラキュラ」など7曲が収録されたアルバム「Dracula And C°」を発売しましたが、これが最初で最後のアルバムになってしまいました。でも、内容的には、「Blackmail」とか「Baby Frankie Stein」など、例によってエコーを利かせた「トゥールッ、トゥルットゥ♪、ワッハー、シュワシュワハー♪」の女性ボーカルと低音の男性ボーカルにストリングスを乗せたオーケストラディスコが縦横無尽に展開していて、至ってまともな印象です。

薄暗いフロアでかかったら、踊りながら背後霊を感じてしまいそうな世にも恐ろしい「ホラー・ディスコ」。似たような例としては、同時代では以前にちょっと紹介した“吸血鬼ディスコ”のサントラ「Nocturna」(79年)とか、クラウディオ・シモネッティらがいたゴブリンの「Tenebre」(82年、映画「シャドー」のテーマ。ゴブリンはイタリア・ホラーの傑作「サスペリア」の音楽も担当)、イージー・ゴーイングの「Fear」(79年。シモネッティはこのグループにもいた)、ラロ・シフリンの「ジョーズ」(76年)、そしてマイケルジャクソンの「スリラー」(笑。82年)あたりが思い浮かびます。純粋なホラーではないにせよ、ドナ・サマーの「Deep」(77年)なんかも緊迫しててけっこうコワい。あからさまな直球勝負のホット・ブラッドも、そうした系譜に連なる存在といえましょう(実体不明にせよ)。

ホット・ブラッドのアルバムの再発CDは、ロシアの変な海賊盤以外はありません。正規盤があったら欲しいけど、謎が謎を呼ぶグループだけに原盤権探し自体が難しそうです。「ドラキュラ」を収録したディスココンピであれば、以前に紹介したものも含めてたくさんあります。

ノーランズ (The Nolans)

Nolan Sisters 2今回は肩の力を抜いて、ノーランズと参りましょう。ご存知、イギリスが生んだガールポップ・グループで、1970年代末〜80年代前半に本国や日本で大人気となりました。

グループ名は、アイルランド人歌手の両親にもとに生まれた6人姉妹に由来し、うち年長の5人がアイルランド生まれ。62年にイギリス西部の「社交ダンスのメッカ」であるブラックプールに一家で移住しました。

人気が出たのは70年代後半ですが、既に63年には、地元ブラックプールで両親や2人の兄弟と一緒に「シンギング・ノーランズ」として活動していました。このとき、後にノーランズの一員となる末っ子のコリーン(Coleen、65年生まれ)はまだ誕生していませんでしたが、総勢9人もの大所帯ファミリー・ボーカル・グループだったのです。

後の1974年、姉妹は親や兄弟と離れて、EMIに所属して本格的なレコードデビューを果たします。当時のグループ名は「ノーラン・シスターズ」で、テレビのコメディやバラエティ番組に出演して人気者となりました。ただし、ヒットには恵まれませんでした。

転機が訪れたのは1979年のこと。アルバム「Nolan Sisters」収録のシングル「Spirit, Body and Soul」が英国チャートで34位になった後、セカンドシングルの「I'm In The Mood For Dancing」(邦題:ダンシング・シスター)が3位まで上昇。その人気が日本やオーストラリア、ニュージーランドにも飛び火したのでした。ガールポップ・コーラスグループや女性コーラスグループはほかにもたくさんありましたが、姉妹だけで(しかも大勢)構成していること自体が非常に珍しく、そんな新奇性も人気を後押ししたと思われます。

リードボーカルは、コリーンの次に若いバーニー・ノーラン(Bernie Nolan)。つい2年前、がんにより52歳の若さで亡くなってしまいましたが、あどけないルックスの割には、ときどきド演歌顔負けの“こぶし”をきかせるけっこうな迫力ボイスの持ち主でした。

この曲の歌詞は、この手のグループにありがちな夢見る乙女のロマンチックな恋心を綴ったような内容ではなく、「とにかく踊らば踊れ!頭のてっぺんから爪先まで!」「いやあ、踊りたくてたまんねえぜ!」などと(英語で)連呼するかなり積極的なダンシングぶりを見せつけており、おなじみのあの旋律も、王道を行くディスコポップとでも言うべき能天気な明るさが持ち味です。かっちりとした8ビートのリズム進行に身をゆだねれば、なかなか爽やかに踊り続けられそうな曲でしたけど、その爽やかさが仇になったのか、ディスコで聞くことはありませんでした。

80年にはノーランズと改名。イントロの「おとぼけアナログシンセ」のピコピコ音が脱力感を誘う「Gotta Pull Myself Together」(恋のハッピーデート)のほか、小粋なカントリー&ウエスタン風に攻め立てる「Attention To Me」(アテンション・トゥ・ミー)、再びバーニーさんのド迫力ハイトーンボイスが弾ける「Sexy Music」(セクシーミュージック)といった印象深いヒット曲を出しました。特に日本での人気はなかり持続しました。「ダンシング・シスター」なんて、日本語バージョンがあったくらいです。

けれども、80年代半ばにはセールスは急降下。メンバーがソロ活動に重心を移すなどして、気がつけばあえなくフェードアウトしていたわけです。同時代のイギリス産「男版アイドル」のベイ・シティー・ローラーズと違い、アメリカで人気が出なかったのも、世界的にはいま一つ印象が薄くなってしまった要因といえます。

それでも、6年前には再結成ツアーを行って好評を博しています。気をよくして2013年にもツアーをやると発表したのですが、バーニーさんの病状悪化により中止になりました。彼女は中心ボーカルでしたから、ここに本当の意味でノーランズは幕を下したといえましょう。

再発CDは、ベイシティー・ローラーズと同様に、ベスト盤を中心に比較的出回っています。写真もその一つで、2004年に発売されたSony Music盤のものです。
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