ディスコ堂 by mrkick

音楽に貴賎なし ―Discoの考察とCD批評

Vinyl Masterpiece

Vinyl Masterpieceいやあ最近何だか変に多忙である。ちっともお金はたまらないのに。来週はずっと出張やら急ぎの仕事やらが入っており、短時間で気軽に取り組んでいるこのブログも、さすがにちょっとごぶさたになるかもしれない。

というわけで、前段とは何の脈絡もなく、今回はディスコ再発モノのよいレーベルを一つ紹介したい。オランダのVinyl Masterpieceなのだが、このところ興味深いCDを連発しているのだ。↓
http://www.vinyl-masterpiece.com/index.php

中でも、写真のコンピCD「Masterpiece」がなかなか渋めの選曲で良い。Vol1とVol2の2枚がある(写真は2の方)がどちらも良い。

うーん、私もよく知らないアーチストがけっこう入っている。それでも、確かにフロアでは聞いた記憶があるものが多い。80年代全般の黒人ミディアム系の佳曲が目白押しで、録音状態もまずまずである。

Vol1には、あのArmentaのI Wanna Be With Youのロングバージョンが入っている。ほかではCD化されていないものだ。80年代中盤、とりわけ六本木ナバーナのようなサーファー系ディスコに行っていた人なら知っているはずだ。ボコーダーとかが途中で入っていて「軽快うねうねサウンド」全開である。

Vol2には、シェリル・リン、元ラベルのノナ・ヘンドリックス、1976年にDon't Leave Me This Wayのスーパーディスコヒットを飛ばしたテルマ・ヒューストンなどの80年代中期の貴重なダンス系作品を収録。シャラマーによく似たタイム・バンディッツの名曲アイム・オンリー・シューティング・ラブなんてのも入っていて、いやはや聴いていて気分爽快である。

いずれもマイナー曲ではあるが、こんな珍しい12インチ集CDはめったにない。80年代ディスコ好きなら、ぜひ聴いてみてほしい。上記URLで通販入手可能だ。東京であれば、Disk Unionでも手に入れることが出来る。









Yazoo

Yazoo80年代前期に花開いたシンセ(エレ)・ポップのディスコ。文字通りシンセ音が満開である。最初に紹介するという意味で、ヒューマンリーグかヤズーかデペッシュ・モードが迷ったが、やはりディスコブログだからまずはヤズーだと思った。

ディスコミュージックは80年代に入ってガラッと変わったことは既に述べた。フロアに置かれた巨大スピーカーからがしがし響いていたのは、それまでの生ドラムではなく、もうほとんどがドラムマシーンだった。

はっきり言って、踊るならドライでキック(めりはり)の聞いた電気ドラムの方が生モノより合っていると思う。最近の楽器はものすごく進歩していて、クラブでかかる特にテクノなんてすごいキックであるけれども、私にとっては、チープさが漂っていた80年代の音の方が断然、人間くさくて体にしっくりくる。

ヤズーは、デペッシュモードにいたシンセダンス音楽の名手ヴィンス・クラークと、黒人R&Bかと思うような歌唱力を誇ったアリソン・モイエの二人組。当時のニューウェーブとかシンセポップは、歌がけだるくて、下手なのが多かったのに、アリソンは秀逸だった。ミスマッチな感じが、迫力につながっていたのだと思う。

やっぱり、踊る上でも、歌唱力があった方が断然よい。好きではあるのだが、ニューオーダーとかソフト・セルの歌なんて、ちょっと聞いてられなかった。

ヤズーはその「ミスマッチ」ゆえか、2枚のアルバムを残して3年ぐらいで解散してしまった。ヴィンス・クラークは、Erasureというバンドで引き続きダンスミュージック界に君臨したものの、ソロになったアリソンはいくつかヒットを残した後、中途半端なまま表舞台から消えていった。

でも、二人はDon't GoとかSituationとか、80年代ディスコの名曲をいくつか残している。特にDon't Goはのっけから「パンチがきいた」アップテンポな曲で、みんなで激しく踊ったものだ。アルバムも何度も何度も繰り返し聴いた。いま聴いても、古さをまったく感じさせないほどである。

ヤズーのCDを買うなら、最初はやっぱりファーストがおすすめ。しかも、写真のイギリス盤が良い。Situationと、幻の名曲といわれるThe Other Side Of Loveのそれぞれ12インチバージョンが収録されている。



ダリル・ホール&ジョン・オーツ

ダリル・ホール&ジョン・オーツいまさら説明の必要もないホール&オーツは、私にとってはまったくのディスコ。82−83年ごろ、フロアで鬼のようにかかっていたからだ。

やはり「プライベート・アイズ」が代表曲だろうが、おなじぐらいかかっていたのが「マンイーター」。でも、テンポが170BPMくらいある速い曲で、踊るのは疲れた。ロックンロールで踊っているやつもいたほどである(あまり合ってなかった気がするが)。普通のBPMは速くてせいぜい140前後だった。

80年代前半は、特に地方ではロックンロール風の曲もけっこうかかっていた。アダム・アントの「グッディ・トゥ・シューズ」なんてのがかかったときには、グリースで固めたリーゼントの男たちがフロアに飛び出していったものである。色んなファッションの人間がごった煮状態。いやあ、むちゃくちゃなもんだ。

前に紹介したスペシャルズもそうだが、速い曲は盛り上がりタイムにかかる曲が多く、人気があった。普段はスローやミディアム系が多い黒人ものでさえ、ポインターシスターズの「ソー・エキサイテッド」みたいに、ものすごくアップテンポなのもディスコでかかっていた。

もちろん、ホール&オーツはグリース的な「ロックンロール」ではない。マンイーターを除けば、ミディアム、スローがほとんどである。「アイ・キャン・ゴー・フォー・ザット」「アウト・オブ・タッチ」などは、ディスコで「まだ盛り上がる前」の午後7時台とか、「盛り上がった後」の夜中過ぎなんかによく耳にした。

ホール&オーツでは、写真の12インチ集が一番のおすすめ。当時の貴重なリミックスが満載になっている。2集あるので、2枚ともあると便利だ。ただし、肝心の「プライベート・アイズ」は「UKミックス」となっているものの、中身はほとんどアルバムバージョンと変わらない、というか「どこが違うの?」という感じなので注意を要する。













スペシャルズ

スペシャルズスペシャルズは、80年代前半、フロアの最高潮の盛り上がりタイムによくかかった。ただし聞いたのは「リトル・ビッチ(小さい悪魔)」のみ。一緒に「ワン、ツー!!」の掛け声を上げるのが約束事だった。2分半しかない超短い曲なのだが、かなり早いテンポなので、踊った後は疲れてしまったものだ。

アルバム自体の発売は79年なのだが、80年代に入ってもかなり長い間、ディスコで生き残った珍しい曲でもある。いわゆるスカ・ビートで、英国ではパンクと並んで若者(特に不良)に人気があったジャンルだ。スカはレゲエのルーツでジャマイカが発祥の地。70年代になって中南米から大量の移民労働者が入ってきたことを背景として、海岸部の工業都市を中心に広まっていった。

80年代には、ディスコに英国モノがあふれていた。スペシャルズだけではなく、パンク系もロック系もニューウェーブ系も全盛。やはりヤズーやデペッシュモードのようなテクノ系が強かったのだが、シンセ音をあまり使わないデキシーズ・ミッドナイト・ランナーズやビッグ・カントリーなんていう渋めのものもよく耳にした。

「ジャスト・ゴット・ラッキー」などのヒットがあるジョー・ボクサースなんてのも良かった。労働者階級の象徴であるデニムのオーバーオールを着て演奏していたニューウェーブロック系の人々である。いかにも英国の古い工業都市で生まれ育った若者といった風情。でも、踊りやすい曲が多かった。

スカにしろパンクにしろ、当時の英国が今以上に失業問題が深刻で、かつサッチャー政権下で階級格差もさらに広がった時期だからこそ、盛り上がった。英国とアイルランドとの宗教紛争もまだひどい時期だったし、なんか苛立ちがあったのだろう。でも、どこか反抗的な音は、ディスコでも受け入れられる素地がある。わけの分からない混沌とした闇と光の中で、皆でストレスを解消できる格好の場でもあるのだ。

ちなみに、スカ・レゲエ好きの米フロリダ在住の米国人の友人に言わせると、「スペシャルズはスカとはいえない」ときっぱり。本来は、もっとゆったりとした能天気な音なのだという。まあ、「何でもありのディスコ」ということからすれば、あまりに厳密なジャンル分けこそ、本来、野暮なことではあるが。


ロック・ザ・カスバ

ロック・ザ・カスバパンク王クラッシュはディスコでもなかなか人気だった。ビルボード・ディスコチャートで「ロンドン・コーリング」(80年)は30位、「ディス・イズ・レディオ・クラッシュ」(81年)は17位にまでそれぞれ上昇。そして82年はかの「ロック・ザ・カスバ」が8位に食い込んだ。ポップチャートでも初のベスト10に輝いた。

70年代の「白い暴動」のころみたいなもろパンクだったら、こんなに大衆受けはしなかったであろうクラッシュ。でも、路線修正はディスコ的には大正解で、私も「ロック・ザ・カスバ」をよくリクエストしたものだ。特に出だしのドラム、ギター、ピアノの掛け合いがすばらしい。

同じパンク王でも、さすがにセックスピストルズだとちょっときつい。いきなり「アナーキー・イン・ザ・UK」では、それこそアナーキーなフロアで暴動が起きかねない。個人的にも、あまりにやんちゃなシド・ビシャス(ピストルズのボーカル)より、適度に大人のジョー・ストラマー(クラッシュのボーカル)の方が好きである。2人とも今は故人になってしまったが。

それにしても良い時代であった。「クール&ザ・ギャング→シンディー・ローパー→マドンナ→ボビーO→ジャーニー→クラッシュ→スペシャルズ」なんてつなぎが、平気で行われていたのである。とてつもなく節操がないが、客が喜んでいたのだから、それでよかったのだ。

写真は「カスバ」が収録されているアルバム「コンバット・ロック」。一般受けを狙ったものだとして従来のファンからは不満も出た。バンドメンバーの仲もぎくしゃくしてしまった。これを気に主力メンバーが相次いで脱退して、第一期クラッシュは終焉を迎えてしまったのだが、私にとってはやはり、80年代前半の名盤の一つなのである。


バリー・マニロウ

バリー・マニロウ今回はアダルト・コンテンポラリー(アダコンとはいわない)の雄、バリー・マニロウだ。「哀しみのマンディ」みたいなバラードで有名ではあるけれど、ラテンノリの明るい曲が多いので、ディスコにも向く人だ。78年のヒット曲「コパカバーナ」は日本でもばか売れ。でも、詞の内容は「落ちぶれたショーガールが、昔の名声と恋人を懐かしむよ〜」としみったれたものである。

NYブルックリン生まれ。子供のころからピアノや作曲が得意だった彼は、音楽学校に通いながら、CBSレコードでアルバイトをしていた。あるディレクターから「ミュージカルの曲づくりを手伝わないか」と誘われて作曲したところ、そのミュージカルがヒットして、業界では多少知られるようになった。このときはまだ18歳。その後、ベット・ミドラーのツアー・ピアノマンをやるなど下積みを経験し、28歳のときの74年、「マンディ」でついにスターになった…というわけだ。

80年代に入ると大ヒットが出なくなったが、ディスコの佳作を出している。シンセを駆使して、曲調がめちゃめちゃポップになった。このころの代表曲「君は恋フレンド」(82年)、「君はルッキンホット」(84年)は、フロアの盛り上がりタイムによくかかっていた。でも、「君は恋…」の方はロングバージョンがなかったようで、かかってもすぐ終わってしまって、次の曲につなげられてしまっていたのを思い出す。

90年代になるとジャズに傾倒していったもようで、最近の音楽サイトなどでは、ジャズ・ボーカリストと紹介されていることもある。ちなみに93年には、コパカバーナのダンスバージョンのリメイクがリリースされたが、こてこてのハウスになってしまってて辛かった。

写真は3年前発売のベスト。コパカバーナの5分45秒のプロモ版ディスコバージョンが収録されているのが良かった。「ルッキンホット」も入っている。そのほかのバラードとかは私にとってはあまり関心はないが、「マンディ」だけは名曲だと思う。1曲目収録の「恋はマジック」(73年)は、ドナサマーが76年にディスコリメイクしヒットさせたことで知られる。それでも、全般的には、あのフリオ・イグレシアスにも似た「おばさん向けポップス」といった軽い印象である。





Con Funk Shun

コン・ファンク・シャン私にとって1980年代前半はディスコのストライクゾーンど真ん中。「レッドゾーンデビュー」からも何とか立ち直り、いよいよディスコ通いが本格化したころにあたる。一番よく聞き、よく踊った時代である。しばらくはこの時期にこだわってみたい。

前にも触れたが、本当にいろんなジャンルの曲が同じディスコでかかっていた。東京ではニューウェーブ系の新宿ツバキハウスとか、ソウル系中心のサーファーディスコ「ナバーナ」だとか、そこそこ分かれていたのだが、今に比べれば細分化されていなかった。特に、地元に何十カ所もディスコが林立することがない地方はそうだった。

私がいた札幌を含めて、地方都市のディスコでかかる曲は、東京とそれほど違いはなかったのだが、中でも勢いを増してきたのが、黒人ソウルの流れをくむブラックコンテンポラリー(ブラコン)と呼ばれたジャンルである。中でもノリの良いものはディスコ・ファンクなんて表現も使われていた。

ご存知EW&Fとか、ジャズファンクからポップ路線へとイメージチェンジしたクール&ザ・ギャング、レイパーカーJrあたりが代表格で、性能が上がってきたシンセを多用し、都会的な雰囲気を醸しているのが特徴。とりわけ、派手派手しいハイエナジーやアップテンポのロックの曲が続いた後や、開店直後、夜中過ぎの時間帯によく聞いた。

当時、ディスコで聞いた曲のレコードがほしくても、お金がないため、FMラジオから録音する「エアチェック」をしたり、「黎光堂」とか「YOU&I」のようなレンタルレコード屋でレコードを借りて、しこしことテープに録音したりすることも多かった。毎日、学校の帰り道にレンタル屋に寄っていたのだが、最初のころに借りたのが、これもブラコンの代表格コン・ファンク・シャン(CFS)だった。

CFSといえば80年の「タイトなあの娘」が有名だが、私のお気に入りは82年発売のMs. Got-The-Body(邦題:気分はライト)で、写真のベスト盤に収録されている。札幌のディスコでもよく耳にした。自分より少し年上の20代の人々に人気があったようだ。ビルボードのブラックチャートでは15位まで上がった。

7人の大所帯バンドではあるが、もうすっかりシンセやドラムボックスが音作りの主体になっている。それでも、もともと正統派ソウルレーベル「スタックス」の出身でもあるだけに、なおベースやギターは存在感を示しているし、楽器音同士が適度に離れていて主張し過ぎていないので、ボーカルがくっきり明瞭で迫力がある。

彼らはこの後、クールのイメチェンを手がけた売れっ子プロデューサーのデオダートにプロデュースを依頼して、大衆受けを狙ったものの失敗してしまう。だが、クール、ダズバンド、バーケイズ、ギャップバンドなどと並ぶメジャーなダンス系ブラコンバンドとして、ダンスフリークたちの記憶の中にはいつまでも生き続けているグループだ。

デュラン デュラン

デュラン デュラン私が「ディスコデビュー」したのは高校生だった1982年初頭。ちょうどイギリスの新進ニューウェーブ・グループ、デュランデュランがデビューしたころだ。

当時の住所は札幌近郊。既に中学のころから好きなディスコのレコードを集めていた私は、ディスコデビューをひたすら夢見る少年だった。

高校1年も終わりに近づいたころ、ついに友人たちとススキノのディスコに行くことになった。男中心に総勢10人ほど。田舎の中途半端なつっぱり少年だった私は、パーマのリーゼント頭にゴルフウエアみたいないでたちだった。上は真っ赤なトロイ(というブランド)のポロシャツ、下が黒のフレアー(と呼ばれるズボン)というもの。格好だけを見ると40代以上のおやじそのものだった。

入ったのは「生羅栗巣樽(なまらくりすたる)」という変てこな名前のディスコだ。当時、つっぱりの格好ではなかなかディスコには入れなかったのだが、そこはなぜか入店を許可してくれた。

友人たちと暗い店内に入ると、入り口付近で既に、奥のフロアの方から「ドスドス」とバスドラが響いてくる。耳を澄ますと、よく知っている音色が聞こてきた。メン・アット・ワークの「ノックは夜中に」だった。

いてもたってもいられない。私は友人たちと店の奥になだれ込んだ。まあ、なんてきらびやかなダンステリア!!。「クリスタル」ということもあって、ガラスの虎みたいな置物とか、金色のまがい物の装飾品みたいなものが随所に配置されている。まあ、今思うとダサいことこの上ないが、私はただ興奮していた。

しばらくは、フリードリンクの飲み物を取りに行ったり、聖子ちゃんカットの女の子を物色したり、店内をうろうろしていたのだが、そのとき突然、曲調が変わった。一世を風靡し始めていたデュラン・デュランの2作目(写真)に入っている「マイ・オウン・ウェイ」だ。

「行くぞ!!」と誰かが小さく掛け声を上げた。私たちは、タバコやらライターやらをテーブルの上に置いて、踊りに飛び出した。

いやあ、狂喜乱舞の異次元空間!踊りは適当、単にリズムに合わせるだけだったが、私はさらに舞い上がってしまった。フロアはさほど混んではいない。もみ上げを剃り、刈り上げにしたテクノカットの兄ちゃんが2人、七色のカクテル光線を浴びながら、向かい合って軽快に体をくねらせている。

そこはロック系の曲が中心のようだった。「アップサイド・ダウン」のようなブラコンもかかったが、フロック・オブ・シーガルズの「アイラン」のようなニューウエーブ、ニューロマンティックが多かったのを憶えている。もちろん、世界中でヒット街道をばく進していたデュラン・デュランは一番人気で、何度も繰り返しかかっていた。

ミラーボールの星の下、忘我の極地でしばらく踊っていると、友人たちが私を見て、けらけら笑い始めた。せっかく気持ちよく華麗なる宴に酔っているというのに、失礼な話ではある。「なによ!(注:北海道弁。女ことばのようだが、北海道では男がこう言う。東京だと「なんだよ!」)」と、私は怪訝な顔を友人たちに向けた。それでも、友人たちは笑い転げるばかりだ。

すると、「開いてるぞ!お前」と友人の一人が、嬉しそうに私の下半身を指差した。

…なんと、「社会の窓」が元気よく開いていたのである。あの一張羅ともいえる「赤のトロイ」のシャツのすそが、全開のファスナーの間から顔をのぞかせ、しっかり自己主張していたのだった。「みんな、みてみて!!」と言わんばかりに。ズボンが黒いだけに、その赤がいっそう目立っていたのが哀しかった。というより、むしろ消えて無くなりたかった。フロアの隅では、さっきちょっと目をつけていた女子が、くすくすとこちらを見て笑っているのが見えた…。

狂気の異空間で一人、現実に引き戻された私はその日、二度と踊らなかったことは言うまでもない。というか、とっとと家に帰りたかった。こんな恥、めったにかけるものではない。まさに、ほろ苦過ぎるディスコデビューであった。

以来、バイク好きでもあった悪友たちからつけられた私のあだ名は、「(全開バリバリ)レッドゾーン」ということになった。

ドナ・サマー (Donna Summer)

ドナ・サマー「どなたさま〜?」のドナ・サマーについて語りたい。元祖ディスコ・クイーン!!!最近、早くも息切れしつつあるも、投稿数なんとか30回超えたことだし。

以前にも「カサブランカレコード」の欄で触れたが、ばか長い17分バージョンの75年発売「ラブ・トゥ・ラブ・ユー・ベイビー」(写真)でディスコのスターダムにのし上がったわけだが、80年代に入るとさすがに勢いが衰えた。今では12インチが1万円ぐらいする「プロテクション」とか、MTVで流れた“女性労働賛歌PV”が印象的だった「シー・ワークス・フォー・ザ・マネー(邦題:情熱物語)」とか、なかなかのヒット曲を出しているのだが、ビルボードで1位を立て続けにとっていた頃とは様変わり。地味になったのは否めない。

そんな中、83年に一つの事件が起こった。米国内で開かれたあるコンサートでの彼女の発言が物議を醸し、イメージを大きく損ねたのである。内容は「エイズは、乱れた性を実践してきたゲイに対する神の天罰である」というもので、各メディアに紹介されてしまった。これをきっかけに、ゲイピープルから猛反発を食らってしまったのである。

米国では、ディスコは言うまでもなく、ゲイ文化と深いつながりを持つ。70年代中期、快楽主義的かつ刹那主義的なディスコは、ベトナム戦争や失業増大によって疲弊した米国人を再び陽気にさせたのだが、もう一つ、人種や同性愛を含めた「解放」をもたらしたことも重要な功績だったのである。

「何でもあり」のディスコで、ダイアナ・ロスのヒット曲「アイム・カミング・アウト」よろしく、ゲイたちは堂々と自己主張しはじめた。ディスコヒットを飛ばしたゲイ系の歌手やプロデューサーは、シルベスターやダン・ハートマンなど数知れない。ゲイは、黒人たちとともに、ディスコを支えてきた立役者だったわけだ。そんな大切なファン層に対して「天罰だ」などと言うことは、とんでもないことだった。

ドナサマーは後日、この発言を「言っていない」と否定したのだが、米国の複数のメディアが報道していることや、問題のコンサートの観客による詳細なルポがネット上に流れていることなどから、「やはり本当だった」とされているようだ。即座に名誉毀損などの法的措置を起こさなかったことも「やはり怪しい」と言われる根拠になっている。

あるにはあるものの、人種差別や同性愛差別が巷の大きな話題にならない日本では考えにくいが、キリスト教国家の米国では「ゲイ差別」は大問題になる。先の大統領選でも、家族の価値観や性の倫理は争点になっていた。

80年代の米国といえば、70年代の民主党優勢の時代が終わり、かの「ハリウッド西部劇男」のレーガン大統領の時代に入っていた。米国が大きく保守に傾いていた時代なのだ。ちょうどディスコが衰退し、ロック系やブリティッシュ系の新しい波が現われたのと軌を一にしている。

落ち目のドナサマーはこのころ、大ヒット曲が出なくなったばかりではなく、カサブランカとの契約トラブルや離婚問題などでかなり精神的に参っていた。保守的なキリスト教にのめりこみ、救いを求めていった時期だった。

ドナは、共和党支持者が好むこてこてのキリスト教番組に出演して歌ったり、公の場で宗教的発言を繰り返してみたり、民主党支持者からみれば「変節」の度合いを強めていたのである。ゲイは民主党支持者が多いから、「裏切られた」との思いを募らせていた。そこに出てきたのが、「ゲイ差別発言」だったのである。

発言の真偽はともかく、ディスコ隆盛期に「行き過ぎた」自由な倫理を逆側に戻そうとの動きが、音楽業界だけではなく、米国社会全体に出ていたのは事実なのだ。

私自身は、「性倫理の乱れ」があろうがなかろうが、そんなことは知ったことではなく、「陽気でおばかなディスコ大賛成」。ドナ・サマーだって今でも大好きなのだが、一つのムーブメントにまでなってしまうと、いろんなサイドから注目され、圧力がかかるようである。政治的なにおいが漂ってくると音楽は途端につまらなくなる。けれども、映画もそうだけれども、エンターテイメントに特定の思想や意図が込められ、アーチスト像が何だか歪んで見えてくることがあるのは確かである。ドナはディスコを象徴する存在だっただけに、そんなしがらみが、よけいに際立って見えてしまうのだ。

マイケル・ゼーガー・バンド

マイケル・ゼーガー・バンド日本盤のディスコものCDは確かに音は良いのだが、コレクター的な集め方をしていると、やはり物足りなくなってくる。2000枚も3000枚も物好きで集めていれば、それも仕方ないと思うのだが、このCDは別である。

何でこんなCDが出たのか、今だにちょっと不思議なくらい。いや、本当にうれしかったのである。もう6年くらい前になるが、安易なジンギスカンとかEW&Fではなく、日本盤できちんとした再発ディスコCDが出たのを知って、即買いしてしまったのを憶えている。レーベルはなんとテイチク。昔は得意の演歌だけではなく、こうしたディスコも手堅く発売していたのである。

黒鉄ヒロシ画のジャケットで知られる「レッツ・オール・チャント(邦題チャンタでいこう!)=1978年」のロングバージョンだけではない。マイケル・ゼーガーが手がけたホイットニー・ヒューストンの母シシー・ヒューストンのディスコヒットThink It Overのロングが入っているのがうれしい。ほかの曲もかなりオススメだ。

それにしても「チャンタ」は良い。ディスコの曲が流れる映画でもしょっちゅう使われている。「フー!フー!」の掛け声よろしく、典型的な「おばかディスコ」全開なのである。もちろん踊りやすさも文句なし。マイケル・ゼーガーはその後まともな音楽人となって、今ではアメリカの音楽大学の教授なんぞをしているらいが、この時代をぜひとも恥じないでいてほしい。




CDのライナーノーツ書きました


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