ディスコ堂 by mrkick

音楽に貴賎なし ―Discoの考察とCD批評

キム・カーンズ

キム・カーンズキム・カーンズといえば、「ベティ・デイビスの瞳」がばか売れ(1981年ビルボード年間1位)したことで知られる。一発屋のようだが、米国ではこの曲より前にケニー・ロギンスとのデュエット曲「Don't Fall In Love With A Dreamer」を4位に食い込ませる大健闘を見せているからあなどれない。ほかにもまずまずのヒットを何枚も出しているのだ。

ディスコ的にいうと、「ベティ…」は、米ディスコチャートで26位まで上がったものの、あまり使い物にならない。バスドラビートがほきちんと刻まれていないので踊るのにはきついし、かといってチークのスローとしても使えずに中途半端だ。

彼女がディスコで威力を発揮したのは、写真のCD「カフェ・レーサーズ」(83年)。以前のアルバムより、相当にポップでミーハーな仕上がりになっている。ダンスチャートや大衆受けを狙っているのがばればれで、逆にディスコ好きには好感が持てるのである。

私が当時よく耳にしたのは何と言っても「You Make My Heart Beat Faster-And That's All That Matters(恋のビートを速くして)」。原題が長いのが嫌になるが、曲調が軽快で実に踊りやすい。ほかに「ハリケーン」「インビテーション」という佳曲があって、いずれもシンセサイザーをがんがん響かせつつ、哀愁漂うメロディーを聞かせてくれている。

もともと、この人はディスコ向きの人ではないと思う(断定)。声のしわがれ具合からすれば、やっぱりロックとかカントリーの方が合っている。その意味で、このカフェ・レーサーは例外的にいい雰囲気なのである。

このころは、なぜだかハスキーボイス系の白人女性シンガーがこぞって、ディスコ調の曲を出していた。「ヒーロー」でお馴染みのボニータイラーとか、フリートウッドマックのスティーヴィー・二ックスとか…。さらにいうと、オリビア・ニュートン・ジョンとか、メリサ・マンチェスターとかもディスコで受けていた。思えば、この時代はディスコでも一般チャートでも、「白人ピン女性シンガー」の全盛期だったのかもしれない。

ちなみに、カフェ・レーサーのCDはたやすく手に入る。しかも何と!!「恋のビート…」、「ハリケーン」、「インビテーション」ともども、豪華12インチバージョンが収録されているのだから、オススメだというほかない。


ビルボード・トップ・ヒッツ 1983

ビルボード・トップ・ヒッツ私が18歳だった1983年は、洋楽ヒットの多くがダンスミュージックといわれた。ディスコ好きのほとんどは、ビルボードチャートにも通じていた。ビルボード一般チャートの上位曲が、がんがんフロアでかかっていた。

写真は、CD再発レーベル「ライノ」が出したビルボード年間チャートコンピの1983年のもの。収録されているのは、メン・アット・ワーク、トト、ストレイ・キャッツ、マイケル・センベロ、エディ・グラント、スパンダー・バレー、ボニータイラー、グレッグ・キーン・バンド、カルチャー・クラブ、エア・サプライ。さすがにエア・サプライでは踊れないが、ほとんどがディスコでもおなじみのアーチストである。

実はこのコンピ、ビルボードの本当の年間チャートと正確に連動していない。この年の「本物」年間チャートは、1位がポリス「見つめていたい」、2位がマイケル・ジャクソン「ビリージーン」、3位がアイリーン・キャラ「フラッシュ・ダンス」、4位がメン・アット・ワーク「ダウン・アンダー」、5位がマイケル・ジャクソン「今夜ビート・イット」などとなっている。これらはディスコヒットそのものといえるのではないか。

「本物」の6位以降の顔ぶれをみると、マン・イーター(ホール&オーツ、7位)、マニアック(マイケル・センベロ、9位)、スイートドリームス(ユーリズミックス、10位)、君は完璧さ(カルチャー・クラブ、11位)、カモン・アイリーン(デキシーズ・ミッドナイト・ランナーズ、13位)などと続いている。これまたディスコ!!!である。

この年はマイケル・ジャクソンのスリラーがバカ売れしたことで記憶されている。でも、一度死んだはずのディスコが、多少のロックやニューウエーブのテイストを身にまとい、再増殖を始めたころでもあったのである。

このころの基本は、やはりシンセサイザーなど電気音の発達にあるが、一般チャートだけに、同じダンスミュージックでも、かつての典型的な「ドンドコ系」からは変化して、メロディーなどは多様化している。

ただ、ジャンル化が進んだ今と違って、米国でも日本でも「大衆音楽」という言葉が生きていたから、どれも老若男女にとって耳に馴染みやすい曲ばかりだ。ヒット曲のビデオクリップを流していたTV局であるMTVという存在も、そうした大衆性を担保していた。

写真のコンピで特筆すべきは、エレクトリック・アベニュー(エディ・グラント、本物チャートで22位)ではないか。けっこうディスコでも聞いたが、レゲエ調で、「ポッポコ、ヘッポコ」と電気効果音の使い方が変てこな曲だったのを思い出す。ドレッドヘアのエディが登場するMTVのビデオクリップも変だった。その後、小ヒット程度しか出していないので、ほぼ「一発屋」とみて間違いないけれども、印象深いアーチストである。










Vinyl Masterpiece

Vinyl Masterpieceいやあ最近何だか変に多忙である。ちっともお金はたまらないのに。来週はずっと出張やら急ぎの仕事やらが入っており、短時間で気軽に取り組んでいるこのブログも、さすがにちょっとごぶさたになるかもしれない。

というわけで、前段とは何の脈絡もなく、今回はディスコ再発モノのよいレーベルを一つ紹介したい。オランダのVinyl Masterpieceなのだが、このところ興味深いCDを連発しているのだ。↓
http://www.vinyl-masterpiece.com/index.php

中でも、写真のコンピCD「Masterpiece」がなかなか渋めの選曲で良い。Vol1とVol2の2枚がある(写真は2の方)がどちらも良い。

うーん、私もよく知らないアーチストがけっこう入っている。それでも、確かにフロアでは聞いた記憶があるものが多い。80年代全般の黒人ミディアム系の佳曲が目白押しで、録音状態もまずまずである。

Vol1には、あのArmentaのI Wanna Be With Youのロングバージョンが入っている。ほかではCD化されていないものだ。80年代中盤、とりわけ六本木ナバーナのようなサーファー系ディスコに行っていた人なら知っているはずだ。ボコーダーとかが途中で入っていて「軽快うねうねサウンド」全開である。

Vol2には、シェリル・リン、元ラベルのノナ・ヘンドリックス、1976年にDon't Leave Me This Wayのスーパーディスコヒットを飛ばしたテルマ・ヒューストンなどの80年代中期の貴重なダンス系作品を収録。シャラマーによく似たタイム・バンディッツの名曲アイム・オンリー・シューティング・ラブなんてのも入っていて、いやはや聴いていて気分爽快である。

いずれもマイナー曲ではあるが、こんな珍しい12インチ集CDはめったにない。80年代ディスコ好きなら、ぜひ聴いてみてほしい。上記URLで通販入手可能だ。東京であれば、Disk Unionでも手に入れることが出来る。









Yazoo

Yazoo80年代前期に花開いたシンセ(エレ)・ポップのディスコ。文字通りシンセ音が満開である。最初に紹介するという意味で、ヒューマンリーグかヤズーかデペッシュ・モードが迷ったが、やはりディスコブログだからまずはヤズーだと思った。

ディスコミュージックは80年代に入ってガラッと変わったことは既に述べた。フロアに置かれた巨大スピーカーからがしがし響いていたのは、それまでの生ドラムではなく、もうほとんどがドラムマシーンだった。

はっきり言って、踊るならドライでキック(めりはり)の聞いた電気ドラムの方が生モノより合っていると思う。最近の楽器はものすごく進歩していて、クラブでかかる特にテクノなんてすごいキックであるけれども、私にとっては、チープさが漂っていた80年代の音の方が断然、人間くさくて体にしっくりくる。

ヤズーは、デペッシュモードにいたシンセダンス音楽の名手ヴィンス・クラークと、黒人R&Bかと思うような歌唱力を誇ったアリソン・モイエの二人組。当時のニューウェーブとかシンセポップは、歌がけだるくて、下手なのが多かったのに、アリソンは秀逸だった。ミスマッチな感じが、迫力につながっていたのだと思う。

やっぱり、踊る上でも、歌唱力があった方が断然よい。好きではあるのだが、ニューオーダーとかソフト・セルの歌なんて、ちょっと聞いてられなかった。

ヤズーはその「ミスマッチ」ゆえか、2枚のアルバムを残して3年ぐらいで解散してしまった。ヴィンス・クラークは、Erasureというバンドで引き続きダンスミュージック界に君臨したものの、ソロになったアリソンはいくつかヒットを残した後、中途半端なまま表舞台から消えていった。

でも、二人はDon't GoとかSituationとか、80年代ディスコの名曲をいくつか残している。特にDon't Goはのっけから「パンチがきいた」アップテンポな曲で、みんなで激しく踊ったものだ。アルバムも何度も何度も繰り返し聴いた。いま聴いても、古さをまったく感じさせないほどである。

ヤズーのCDを買うなら、最初はやっぱりファーストがおすすめ。しかも、写真のイギリス盤が良い。Situationと、幻の名曲といわれるThe Other Side Of Loveのそれぞれ12インチバージョンが収録されている。



ダリル・ホール&ジョン・オーツ

ダリル・ホール&ジョン・オーツいまさら説明の必要もないホール&オーツは、私にとってはまったくのディスコ。82−83年ごろ、フロアで鬼のようにかかっていたからだ。

やはり「プライベート・アイズ」が代表曲だろうが、おなじぐらいかかっていたのが「マンイーター」。でも、テンポが170BPMくらいある速い曲で、踊るのは疲れた。ロックンロールで踊っているやつもいたほどである(あまり合ってなかった気がするが)。普通のBPMは速くてせいぜい140前後だった。

80年代前半は、特に地方ではロックンロール風の曲もけっこうかかっていた。アダム・アントの「グッディ・トゥ・シューズ」なんてのがかかったときには、グリースで固めたリーゼントの男たちがフロアに飛び出していったものである。色んなファッションの人間がごった煮状態。いやあ、むちゃくちゃなもんだ。

前に紹介したスペシャルズもそうだが、速い曲は盛り上がりタイムにかかる曲が多く、人気があった。普段はスローやミディアム系が多い黒人ものでさえ、ポインターシスターズの「ソー・エキサイテッド」みたいに、ものすごくアップテンポなのもディスコでかかっていた。

もちろん、ホール&オーツはグリース的な「ロックンロール」ではない。マンイーターを除けば、ミディアム、スローがほとんどである。「アイ・キャン・ゴー・フォー・ザット」「アウト・オブ・タッチ」などは、ディスコで「まだ盛り上がる前」の午後7時台とか、「盛り上がった後」の夜中過ぎなんかによく耳にした。

ホール&オーツでは、写真の12インチ集が一番のおすすめ。当時の貴重なリミックスが満載になっている。2集あるので、2枚ともあると便利だ。ただし、肝心の「プライベート・アイズ」は「UKミックス」となっているものの、中身はほとんどアルバムバージョンと変わらない、というか「どこが違うの?」という感じなので注意を要する。













スペシャルズ

スペシャルズスペシャルズは、80年代前半、フロアの最高潮の盛り上がりタイムによくかかった。ただし聞いたのは「リトル・ビッチ(小さい悪魔)」のみ。一緒に「ワン、ツー!!」の掛け声を上げるのが約束事だった。2分半しかない超短い曲なのだが、かなり早いテンポなので、踊った後は疲れてしまったものだ。

アルバム自体の発売は79年なのだが、80年代に入ってもかなり長い間、ディスコで生き残った珍しい曲でもある。いわゆるスカ・ビートで、英国ではパンクと並んで若者(特に不良)に人気があったジャンルだ。スカはレゲエのルーツでジャマイカが発祥の地。70年代になって中南米から大量の移民労働者が入ってきたことを背景として、海岸部の工業都市を中心に広まっていった。

80年代には、ディスコに英国モノがあふれていた。スペシャルズだけではなく、パンク系もロック系もニューウェーブ系も全盛。やはりヤズーやデペッシュモードのようなテクノ系が強かったのだが、シンセ音をあまり使わないデキシーズ・ミッドナイト・ランナーズやビッグ・カントリーなんていう渋めのものもよく耳にした。

「ジャスト・ゴット・ラッキー」などのヒットがあるジョー・ボクサースなんてのも良かった。労働者階級の象徴であるデニムのオーバーオールを着て演奏していたニューウェーブロック系の人々である。いかにも英国の古い工業都市で生まれ育った若者といった風情。でも、踊りやすい曲が多かった。

スカにしろパンクにしろ、当時の英国が今以上に失業問題が深刻で、かつサッチャー政権下で階級格差もさらに広がった時期だからこそ、盛り上がった。英国とアイルランドとの宗教紛争もまだひどい時期だったし、なんか苛立ちがあったのだろう。でも、どこか反抗的な音は、ディスコでも受け入れられる素地がある。わけの分からない混沌とした闇と光の中で、皆でストレスを解消できる格好の場でもあるのだ。

ちなみに、スカ・レゲエ好きの米フロリダ在住の米国人の友人に言わせると、「スペシャルズはスカとはいえない」ときっぱり。本来は、もっとゆったりとした能天気な音なのだという。まあ、「何でもありのディスコ」ということからすれば、あまりに厳密なジャンル分けこそ、本来、野暮なことではあるが。


ロック・ザ・カスバ

ロック・ザ・カスバパンク王クラッシュはディスコでもなかなか人気だった。ビルボード・ディスコチャートで「ロンドン・コーリング」(80年)は30位、「ディス・イズ・レディオ・クラッシュ」(81年)は17位にまでそれぞれ上昇。そして82年はかの「ロック・ザ・カスバ」が8位に食い込んだ。ポップチャートでも初のベスト10に輝いた。

70年代の「白い暴動」のころみたいなもろパンクだったら、こんなに大衆受けはしなかったであろうクラッシュ。でも、路線修正はディスコ的には大正解で、私も「ロック・ザ・カスバ」をよくリクエストしたものだ。特に出だしのドラム、ギター、ピアノの掛け合いがすばらしい。

同じパンク王でも、さすがにセックスピストルズだとちょっときつい。いきなり「アナーキー・イン・ザ・UK」では、それこそアナーキーなフロアで暴動が起きかねない。個人的にも、あまりにやんちゃなシド・ビシャス(ピストルズのボーカル)より、適度に大人のジョー・ストラマー(クラッシュのボーカル)の方が好きである。2人とも今は故人になってしまったが。

それにしても良い時代であった。「クール&ザ・ギャング→シンディー・ローパー→マドンナ→ボビーO→ジャーニー→クラッシュ→スペシャルズ」なんてつなぎが、平気で行われていたのである。とてつもなく節操がないが、客が喜んでいたのだから、それでよかったのだ。

写真は「カスバ」が収録されているアルバム「コンバット・ロック」。一般受けを狙ったものだとして従来のファンからは不満も出た。バンドメンバーの仲もぎくしゃくしてしまった。これを気に主力メンバーが相次いで脱退して、第一期クラッシュは終焉を迎えてしまったのだが、私にとってはやはり、80年代前半の名盤の一つなのである。


バリー・マニロウ

バリー・マニロウ今回はアダルト・コンテンポラリー(アダコンとはいわない)の雄、バリー・マニロウだ。「哀しみのマンディ」みたいなバラードで有名ではあるけれど、ラテンノリの明るい曲が多いので、ディスコにも向く人だ。78年のヒット曲「コパカバーナ」は日本でもばか売れ。でも、詞の内容は「落ちぶれたショーガールが、昔の名声と恋人を懐かしむよ〜」としみったれたものである。

NYブルックリン生まれ。子供のころからピアノや作曲が得意だった彼は、音楽学校に通いながら、CBSレコードでアルバイトをしていた。あるディレクターから「ミュージカルの曲づくりを手伝わないか」と誘われて作曲したところ、そのミュージカルがヒットして、業界では多少知られるようになった。このときはまだ18歳。その後、ベット・ミドラーのツアー・ピアノマンをやるなど下積みを経験し、28歳のときの74年、「マンディ」でついにスターになった…というわけだ。

80年代に入ると大ヒットが出なくなったが、ディスコの佳作を出している。シンセを駆使して、曲調がめちゃめちゃポップになった。このころの代表曲「君は恋フレンド」(82年)、「君はルッキンホット」(84年)は、フロアの盛り上がりタイムによくかかっていた。でも、「君は恋…」の方はロングバージョンがなかったようで、かかってもすぐ終わってしまって、次の曲につなげられてしまっていたのを思い出す。

90年代になるとジャズに傾倒していったもようで、最近の音楽サイトなどでは、ジャズ・ボーカリストと紹介されていることもある。ちなみに93年には、コパカバーナのダンスバージョンのリメイクがリリースされたが、こてこてのハウスになってしまってて辛かった。

写真は3年前発売のベスト。コパカバーナの5分45秒のプロモ版ディスコバージョンが収録されているのが良かった。「ルッキンホット」も入っている。そのほかのバラードとかは私にとってはあまり関心はないが、「マンディ」だけは名曲だと思う。1曲目収録の「恋はマジック」(73年)は、ドナサマーが76年にディスコリメイクしヒットさせたことで知られる。それでも、全般的には、あのフリオ・イグレシアスにも似た「おばさん向けポップス」といった軽い印象である。





Con Funk Shun

コン・ファンク・シャン私にとって1980年代前半はディスコのストライクゾーンど真ん中。「レッドゾーンデビュー」からも何とか立ち直り、いよいよディスコ通いが本格化したころにあたる。一番よく聞き、よく踊った時代である。しばらくはこの時期にこだわってみたい。

前にも触れたが、本当にいろんなジャンルの曲が同じディスコでかかっていた。東京ではニューウェーブ系の新宿ツバキハウスとか、ソウル系中心のサーファーディスコ「ナバーナ」だとか、そこそこ分かれていたのだが、今に比べれば細分化されていなかった。特に、地元に何十カ所もディスコが林立することがない地方はそうだった。

私がいた札幌を含めて、地方都市のディスコでかかる曲は、東京とそれほど違いはなかったのだが、中でも勢いを増してきたのが、黒人ソウルの流れをくむブラックコンテンポラリー(ブラコン)と呼ばれたジャンルである。中でもノリの良いものはディスコ・ファンクなんて表現も使われていた。

ご存知EW&Fとか、ジャズファンクからポップ路線へとイメージチェンジしたクール&ザ・ギャング、レイパーカーJrあたりが代表格で、性能が上がってきたシンセを多用し、都会的な雰囲気を醸しているのが特徴。とりわけ、派手派手しいハイエナジーやアップテンポのロックの曲が続いた後や、開店直後、夜中過ぎの時間帯によく聞いた。

当時、ディスコで聞いた曲のレコードがほしくても、お金がないため、FMラジオから録音する「エアチェック」をしたり、「黎光堂」とか「YOU&I」のようなレンタルレコード屋でレコードを借りて、しこしことテープに録音したりすることも多かった。毎日、学校の帰り道にレンタル屋に寄っていたのだが、最初のころに借りたのが、これもブラコンの代表格コン・ファンク・シャン(CFS)だった。

CFSといえば80年の「タイトなあの娘」が有名だが、私のお気に入りは82年発売のMs. Got-The-Body(邦題:気分はライト)で、写真のベスト盤に収録されている。札幌のディスコでもよく耳にした。自分より少し年上の20代の人々に人気があったようだ。ビルボードのブラックチャートでは15位まで上がった。

7人の大所帯バンドではあるが、もうすっかりシンセやドラムボックスが音作りの主体になっている。それでも、もともと正統派ソウルレーベル「スタックス」の出身でもあるだけに、なおベースやギターは存在感を示しているし、楽器音同士が適度に離れていて主張し過ぎていないので、ボーカルがくっきり明瞭で迫力がある。

彼らはこの後、クールのイメチェンを手がけた売れっ子プロデューサーのデオダートにプロデュースを依頼して、大衆受けを狙ったものの失敗してしまう。だが、クール、ダズバンド、バーケイズ、ギャップバンドなどと並ぶメジャーなダンス系ブラコンバンドとして、ダンスフリークたちの記憶の中にはいつまでも生き続けているグループだ。

デュラン デュラン

デュラン デュラン私が「ディスコデビュー」したのは高校生だった1982年初頭。ちょうどイギリスの新進ニューウェーブ・グループ、デュランデュランがデビューしたころだ。

当時の住所は札幌近郊。既に中学のころから好きなディスコのレコードを集めていた私は、ディスコデビューをひたすら夢見る少年だった。

高校1年も終わりに近づいたころ、ついに友人たちとススキノのディスコに行くことになった。男中心に総勢10人ほど。田舎の中途半端なつっぱり少年だった私は、パーマのリーゼント頭にゴルフウエアみたいないでたちだった。上は真っ赤なトロイ(というブランド)のポロシャツ、下が黒のフレアー(と呼ばれるズボン)というもの。格好だけを見ると40代以上のおやじそのものだった。

入ったのは「生羅栗巣樽(なまらくりすたる)」という変てこな名前のディスコだ。当時、つっぱりの格好ではなかなかディスコには入れなかったのだが、そこはなぜか入店を許可してくれた。

友人たちと暗い店内に入ると、入り口付近で既に、奥のフロアの方から「ドスドス」とバスドラが響いてくる。耳を澄ますと、よく知っている音色が聞こてきた。メン・アット・ワークの「ノックは夜中に」だった。

いてもたってもいられない。私は友人たちと店の奥になだれ込んだ。まあ、なんてきらびやかなダンステリア!!。「クリスタル」ということもあって、ガラスの虎みたいな置物とか、金色のまがい物の装飾品みたいなものが随所に配置されている。まあ、今思うとダサいことこの上ないが、私はただ興奮していた。

しばらくは、フリードリンクの飲み物を取りに行ったり、聖子ちゃんカットの女の子を物色したり、店内をうろうろしていたのだが、そのとき突然、曲調が変わった。一世を風靡し始めていたデュラン・デュランの2作目(写真)に入っている「マイ・オウン・ウェイ」だ。

「行くぞ!!」と誰かが小さく掛け声を上げた。私たちは、タバコやらライターやらをテーブルの上に置いて、踊りに飛び出した。

いやあ、狂喜乱舞の異次元空間!踊りは適当、単にリズムに合わせるだけだったが、私はさらに舞い上がってしまった。フロアはさほど混んではいない。もみ上げを剃り、刈り上げにしたテクノカットの兄ちゃんが2人、七色のカクテル光線を浴びながら、向かい合って軽快に体をくねらせている。

そこはロック系の曲が中心のようだった。「アップサイド・ダウン」のようなブラコンもかかったが、フロック・オブ・シーガルズの「アイラン」のようなニューウエーブ、ニューロマンティックが多かったのを憶えている。もちろん、世界中でヒット街道をばく進していたデュラン・デュランは一番人気で、何度も繰り返しかかっていた。

ミラーボールの星の下、忘我の極地でしばらく踊っていると、友人たちが私を見て、けらけら笑い始めた。せっかく気持ちよく華麗なる宴に酔っているというのに、失礼な話ではある。「なによ!(注:北海道弁。女ことばのようだが、北海道では男がこう言う。東京だと「なんだよ!」)」と、私は怪訝な顔を友人たちに向けた。それでも、友人たちは笑い転げるばかりだ。

すると、「開いてるぞ!お前」と友人の一人が、嬉しそうに私の下半身を指差した。

…なんと、「社会の窓」が元気よく開いていたのである。あの一張羅ともいえる「赤のトロイ」のシャツのすそが、全開のファスナーの間から顔をのぞかせ、しっかり自己主張していたのだった。「みんな、みてみて!!」と言わんばかりに。ズボンが黒いだけに、その赤がいっそう目立っていたのが哀しかった。というより、むしろ消えて無くなりたかった。フロアの隅では、さっきちょっと目をつけていた女子が、くすくすとこちらを見て笑っているのが見えた…。

狂気の異空間で一人、現実に引き戻された私はその日、二度と踊らなかったことは言うまでもない。というか、とっとと家に帰りたかった。こんな恥、めったにかけるものではない。まさに、ほろ苦過ぎるディスコデビューであった。

以来、バイク好きでもあった悪友たちからつけられた私のあだ名は、「(全開バリバリ)レッドゾーン」ということになった。
CDのライナーノーツ書きました


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