ディスコ堂 by mrkick

音楽に貴賎なし ―Discoの考察とCD批評

Con Funk Shun

コン・ファンク・シャン私にとって1980年代前半はディスコのストライクゾーンど真ん中。「レッドゾーンデビュー」からも何とか立ち直り、いよいよディスコ通いが本格化したころにあたる。一番よく聞き、よく踊った時代である。しばらくはこの時期にこだわってみたい。

前にも触れたが、本当にいろんなジャンルの曲が同じディスコでかかっていた。東京ではニューウェーブ系の新宿ツバキハウスとか、ソウル系中心のサーファーディスコ「ナバーナ」だとか、そこそこ分かれていたのだが、今に比べれば細分化されていなかった。特に、地元に何十カ所もディスコが林立することがない地方はそうだった。

私がいた札幌を含めて、地方都市のディスコでかかる曲は、東京とそれほど違いはなかったのだが、中でも勢いを増してきたのが、黒人ソウルの流れをくむブラックコンテンポラリー(ブラコン)と呼ばれたジャンルである。中でもノリの良いものはディスコ・ファンクなんて表現も使われていた。

ご存知EW&Fとか、ジャズファンクからポップ路線へとイメージチェンジしたクール&ザ・ギャング、レイパーカーJrあたりが代表格で、性能が上がってきたシンセを多用し、都会的な雰囲気を醸しているのが特徴。とりわけ、派手派手しいハイエナジーやアップテンポのロックの曲が続いた後や、開店直後、夜中過ぎの時間帯によく聞いた。

当時、ディスコで聞いた曲のレコードがほしくても、お金がないため、FMラジオから録音する「エアチェック」をしたり、「黎光堂」とか「YOU&I」のようなレンタルレコード屋でレコードを借りて、しこしことテープに録音したりすることも多かった。毎日、学校の帰り道にレンタル屋に寄っていたのだが、最初のころに借りたのが、これもブラコンの代表格コン・ファンク・シャン(CFS)だった。

CFSといえば80年の「タイトなあの娘」が有名だが、私のお気に入りは82年発売のMs. Got-The-Body(邦題:気分はライト)で、写真のベスト盤に収録されている。札幌のディスコでもよく耳にした。自分より少し年上の20代の人々に人気があったようだ。ビルボードのブラックチャートでは15位まで上がった。

7人の大所帯バンドではあるが、もうすっかりシンセやドラムボックスが音作りの主体になっている。それでも、もともと正統派ソウルレーベル「スタックス」の出身でもあるだけに、なおベースやギターは存在感を示しているし、楽器音同士が適度に離れていて主張し過ぎていないので、ボーカルがくっきり明瞭で迫力がある。

彼らはこの後、クールのイメチェンを手がけた売れっ子プロデューサーのデオダートにプロデュースを依頼して、大衆受けを狙ったものの失敗してしまう。だが、クール、ダズバンド、バーケイズ、ギャップバンドなどと並ぶメジャーなダンス系ブラコンバンドとして、ダンスフリークたちの記憶の中にはいつまでも生き続けているグループだ。

デュラン デュラン

デュラン デュラン私が「ディスコデビュー」したのは高校生だった1982年初頭。ちょうどイギリスの新進ニューウェーブ・グループ、デュランデュランがデビューしたころだ。

当時の住所は札幌近郊。既に中学のころから好きなディスコのレコードを集めていた私は、ディスコデビューをひたすら夢見る少年だった。

高校1年も終わりに近づいたころ、ついに友人たちとススキノのディスコに行くことになった。男中心に総勢10人ほど。田舎の中途半端なつっぱり少年だった私は、パーマのリーゼント頭にゴルフウエアみたいないでたちだった。上は真っ赤なトロイ(というブランド)のポロシャツ、下が黒のフレアー(と呼ばれるズボン)というもの。格好だけを見ると40代以上のおやじそのものだった。

入ったのは「生羅栗巣樽(なまらくりすたる)」という変てこな名前のディスコだ。当時、つっぱりの格好ではなかなかディスコには入れなかったのだが、そこはなぜか入店を許可してくれた。

友人たちと暗い店内に入ると、入り口付近で既に、奥のフロアの方から「ドスドス」とバスドラが響いてくる。耳を澄ますと、よく知っている音色が聞こてきた。メン・アット・ワークの「ノックは夜中に」だった。

いてもたってもいられない。私は友人たちと店の奥になだれ込んだ。まあ、なんてきらびやかなダンステリア!!。「クリスタル」ということもあって、ガラスの虎みたいな置物とか、金色のまがい物の装飾品みたいなものが随所に配置されている。まあ、今思うとダサいことこの上ないが、私はただ興奮していた。

しばらくは、フリードリンクの飲み物を取りに行ったり、聖子ちゃんカットの女の子を物色したり、店内をうろうろしていたのだが、そのとき突然、曲調が変わった。一世を風靡し始めていたデュラン・デュランの2作目(写真)に入っている「マイ・オウン・ウェイ」だ。

「行くぞ!!」と誰かが小さく掛け声を上げた。私たちは、タバコやらライターやらをテーブルの上に置いて、踊りに飛び出した。

いやあ、狂喜乱舞の異次元空間!踊りは適当、単にリズムに合わせるだけだったが、私はさらに舞い上がってしまった。フロアはさほど混んではいない。もみ上げを剃り、刈り上げにしたテクノカットの兄ちゃんが2人、七色のカクテル光線を浴びながら、向かい合って軽快に体をくねらせている。

そこはロック系の曲が中心のようだった。「アップサイド・ダウン」のようなブラコンもかかったが、フロック・オブ・シーガルズの「アイラン」のようなニューウエーブ、ニューロマンティックが多かったのを憶えている。もちろん、世界中でヒット街道をばく進していたデュラン・デュランは一番人気で、何度も繰り返しかかっていた。

ミラーボールの星の下、忘我の極地でしばらく踊っていると、友人たちが私を見て、けらけら笑い始めた。せっかく気持ちよく華麗なる宴に酔っているというのに、失礼な話ではある。「なによ!(注:北海道弁。女ことばのようだが、北海道では男がこう言う。東京だと「なんだよ!」)」と、私は怪訝な顔を友人たちに向けた。それでも、友人たちは笑い転げるばかりだ。

すると、「開いてるぞ!お前」と友人の一人が、嬉しそうに私の下半身を指差した。

…なんと、「社会の窓」が元気よく開いていたのである。あの一張羅ともいえる「赤のトロイ」のシャツのすそが、全開のファスナーの間から顔をのぞかせ、しっかり自己主張していたのだった。「みんな、みてみて!!」と言わんばかりに。ズボンが黒いだけに、その赤がいっそう目立っていたのが哀しかった。というより、むしろ消えて無くなりたかった。フロアの隅では、さっきちょっと目をつけていた女子が、くすくすとこちらを見て笑っているのが見えた…。

狂気の異空間で一人、現実に引き戻された私はその日、二度と踊らなかったことは言うまでもない。というか、とっとと家に帰りたかった。こんな恥、めったにかけるものではない。まさに、ほろ苦過ぎるディスコデビューであった。

以来、バイク好きでもあった悪友たちからつけられた私のあだ名は、「(全開バリバリ)レッドゾーン」ということになった。

ドナ・サマー (Donna Summer)

ドナ・サマー「どなたさま〜?」のドナ・サマーについて語りたい。元祖ディスコ・クイーン!!!最近、早くも息切れしつつあるも、投稿数なんとか30回超えたことだし。

以前にも「カサブランカレコード」の欄で触れたが、ばか長い17分バージョンの75年発売「ラブ・トゥ・ラブ・ユー・ベイビー」(写真)でディスコのスターダムにのし上がったわけだが、80年代に入るとさすがに勢いが衰えた。今では12インチが1万円ぐらいする「プロテクション」とか、MTVで流れた“女性労働賛歌PV”が印象的だった「シー・ワークス・フォー・ザ・マネー(邦題:情熱物語)」とか、なかなかのヒット曲を出しているのだが、ビルボードで1位を立て続けにとっていた頃とは様変わり。地味になったのは否めない。

そんな中、83年に一つの事件が起こった。米国内で開かれたあるコンサートでの彼女の発言が物議を醸し、イメージを大きく損ねたのである。内容は「エイズは、乱れた性を実践してきたゲイに対する神の天罰である」というもので、各メディアに紹介されてしまった。これをきっかけに、ゲイピープルから猛反発を食らってしまったのである。

米国では、ディスコは言うまでもなく、ゲイ文化と深いつながりを持つ。70年代中期、快楽主義的かつ刹那主義的なディスコは、ベトナム戦争や失業増大によって疲弊した米国人を再び陽気にさせたのだが、もう一つ、人種や同性愛を含めた「解放」をもたらしたことも重要な功績だったのである。

「何でもあり」のディスコで、ダイアナ・ロスのヒット曲「アイム・カミング・アウト」よろしく、ゲイたちは堂々と自己主張しはじめた。ディスコヒットを飛ばしたゲイ系の歌手やプロデューサーは、シルベスターやダン・ハートマンなど数知れない。ゲイは、黒人たちとともに、ディスコを支えてきた立役者だったわけだ。そんな大切なファン層に対して「天罰だ」などと言うことは、とんでもないことだった。

ドナサマーは後日、この発言を「言っていない」と否定したのだが、米国の複数のメディアが報道していることや、問題のコンサートの観客による詳細なルポがネット上に流れていることなどから、「やはり本当だった」とされているようだ。即座に名誉毀損などの法的措置を起こさなかったことも「やはり怪しい」と言われる根拠になっている。

あるにはあるものの、人種差別や同性愛差別が巷の大きな話題にならない日本では考えにくいが、キリスト教国家の米国では「ゲイ差別」は大問題になる。先の大統領選でも、家族の価値観や性の倫理は争点になっていた。

80年代の米国といえば、70年代の民主党優勢の時代が終わり、かの「ハリウッド西部劇男」のレーガン大統領の時代に入っていた。米国が大きく保守に傾いていた時代なのだ。ちょうどディスコが衰退し、ロック系やブリティッシュ系の新しい波が現われたのと軌を一にしている。

落ち目のドナサマーはこのころ、大ヒット曲が出なくなったばかりではなく、カサブランカとの契約トラブルや離婚問題などでかなり精神的に参っていた。保守的なキリスト教にのめりこみ、救いを求めていった時期だった。

ドナは、共和党支持者が好むこてこてのキリスト教番組に出演して歌ったり、公の場で宗教的発言を繰り返してみたり、民主党支持者からみれば「変節」の度合いを強めていたのである。ゲイは民主党支持者が多いから、「裏切られた」との思いを募らせていた。そこに出てきたのが、「ゲイ差別発言」だったのである。

発言の真偽はともかく、ディスコ隆盛期に「行き過ぎた」自由な倫理を逆側に戻そうとの動きが、音楽業界だけではなく、米国社会全体に出ていたのは事実なのだ。

私自身は、「性倫理の乱れ」があろうがなかろうが、そんなことは知ったことではなく、「陽気でおばかなディスコ大賛成」。ドナ・サマーだって今でも大好きなのだが、一つのムーブメントにまでなってしまうと、いろんなサイドから注目され、圧力がかかるようである。政治的なにおいが漂ってくると音楽は途端につまらなくなる。けれども、映画もそうだけれども、エンターテイメントに特定の思想や意図が込められ、アーチスト像が何だか歪んで見えてくることがあるのは確かである。ドナはディスコを象徴する存在だっただけに、そんなしがらみが、よけいに際立って見えてしまうのだ。

マイケル・ゼーガー・バンド

マイケル・ゼーガー・バンド日本盤のディスコものCDは確かに音は良いのだが、コレクター的な集め方をしていると、やはり物足りなくなってくる。2000枚も3000枚も物好きで集めていれば、それも仕方ないと思うのだが、このCDは別である。

何でこんなCDが出たのか、今だにちょっと不思議なくらい。いや、本当にうれしかったのである。もう6年くらい前になるが、安易なジンギスカンとかEW&Fではなく、日本盤できちんとした再発ディスコCDが出たのを知って、即買いしてしまったのを憶えている。レーベルはなんとテイチク。昔は得意の演歌だけではなく、こうしたディスコも手堅く発売していたのである。

黒鉄ヒロシ画のジャケットで知られる「レッツ・オール・チャント(邦題チャンタでいこう!)=1978年」のロングバージョンだけではない。マイケル・ゼーガーが手がけたホイットニー・ヒューストンの母シシー・ヒューストンのディスコヒットThink It Overのロングが入っているのがうれしい。ほかの曲もかなりオススメだ。

それにしても「チャンタ」は良い。ディスコの曲が流れる映画でもしょっちゅう使われている。「フー!フー!」の掛け声よろしく、典型的な「おばかディスコ」全開なのである。もちろん踊りやすさも文句なし。マイケル・ゼーガーはその後まともな音楽人となって、今ではアメリカの音楽大学の教授なんぞをしているらいが、この時代をぜひとも恥じないでいてほしい。




Mickey Mouse Disco

Mickey Mouse Discoミッキーマウスは1979年にディスコデビューした。ジョン・トラボルタ風のいでたちでジャケットに登場し、保守的なディズニーファンからは猛烈な非難を浴びたという。しかし、異色盤としてたちまち人気となり、全米で売上げ100万枚を超す「プラチナアルバム」となった。

ディズニーは、ディズニーランドのアトラクションでかかっているようなダンス調の曲を多数、制作しているが、「ディスコ」は後にも先にもこの1枚だけである。代表曲の1曲目「ディスコ・ミッキー・マウス」では、イントロから安っぽいシンセサイザーパーカッションが炸裂し、続いて正統派女性ボーカルが「ミッキーマウスはダンスフロアの人気者。女の子がキャーキャー騒ぐ!」みたいな歌詞を歌い上げるというパターンだが、ノリは非常によろしい。

ほかにも、ドナルドダックの実物(の声)が登場する「マッチョダック」、スティービーワンダーのダンス系の名曲「アナザー・スター」を思い起こさせるラテンディスコ「ウエルカム・トゥー・リオ」、「チム・チム・チェリー」のもろオーケストラディスコ・バージョンなど、聞き所がけっこうある。有名な「イッツ・ア・スモール・ワールド」のファンク版みたいのも入っているが、これはいまひとつである。

オリジナルのLPは日本でもたまに中古盤で目にするが、写真の95年発売の再発CDは、入手困難になってきている。ディスコとディズニーの双方のコレクターがこぞって探し回っているようである。米アマゾンで中古販売しているのを見かけるものの、6000円〜1万円もする。

ただ、その米アマゾンに投稿されているレビューを眺めていると、30代ぐらいの多くの人が懐かしがってこのCDを購入していることが分かる。10以上あるレビューの「☆」の数は、なんとすべてが満点の5つ。米国人のディズニーへの崇拝ぶりを垣間見る思いだ。

セローン (Cerrone)

Cerrone 3久しぶりの投稿である。気合を入れて紹介したいのは、70年代中期から活躍していたこのCerrone(セローン、セローニ)。典型的なディスコ音楽の源流を作ったといえる人なのである。ディスコという意味では地味な国のフランスの人でありながら、シンセサイザー音をいち早く取り入れて、後の欧州系ディスコや、ひいては現在に通じるテクノの流れを作った偉人だと私は思っている。

彼の代表曲は、Love in C Minorと写真のアルバムに入っているSupernatureの2曲。特に後者は、77年の発売ながら、既に電気音の長所をあますところなく採用した名曲だ。シンセ技術が未熟な時代、例えば各楽器音をシンクロさせることが技術的に非常に難しかったにも関わらず、シンセ、ボーカル、効果音などが見事に調和している。曲調はやや神秘性を帯びた緩やか系。BPMは120ぐらい。何度も何度も採りなおしながら録音したと思われる労作なのだ。今のクラブでも十分、使えることうけあいである。

発売から5年近く経った81〜82年ごろになっても、私の地元だった札幌のディスコでは、盛り上げ時間帯が終わり、一息ついた時間にふとかかっていた。当時、同様にディスコヒットを飛ばしていたゲイリーズ・ギャングとか、英国初期テクノダンスの雄であるヒューマン・リーグなんかと一緒にかかっていたのを思い出す。

さて、やっぱり70年代ものだけに、12インチのアナログやLP盤は入手が困難になってきている。まずはCDをオススメしたい。Hot Production盤とMaligator盤の2種類が出ている。Hot…はたいてい音が良くないのだが、この盤はまずまずの線を行っている。CDジャケのうたい文句の通り、マスターテープが入手できた例なのだろう。例によって2、3曲目とつながっているのだが、非常に自然で無理がない。つなぎ部分も聞き所になる。

ただ、一つ難点がある。CDはいずれも、なんと肝心のSupernatureが冒頭、LPのものと比べて30秒ほど切れているのである。何でなんだろう?理由は私にも分からないが、残念なことだ。完全10分超バージョンは、Atlantic Dance ClassicsというダンスコンピCDにのみ収録されている。米アマゾンで比較的、たやすく手に入るのでチェックしてみていただきたい。

Cerroneは息の長いアーチストで、現在までアルバムを何十枚も出し続けていることでも知られる。新作のHysteriaは、かつてのディスコのテイストをしっかり生かしていて感心だ。同じように最近、ハイエナジーのBobby Oも新作を出したが、音はいかにも現代に媚びていて(テクノあたりを意識しすぎ…)私は違和感を覚える。Cerroneは良い意味でこだわりがあって好きだ。ジャケットもかつて以上にエロくなっているし(?)、健在ぶりをアピールしているかのようである。

Dee Dee Bridgewater

Dee Dee Bridgewater本業が忙しくて久しぶりの投稿なのだが、Dee Deeのこのアルバム「バッド・フォー・ミー」から再開したい。70年代ディスコの中でも5本の指に入ると私は思っているのである。

この人はジャズシンガーとして知られた存在だ。まあ、歌唱力は文句のつけようがない。もちろん、例えば、アレサ・フランクリンやパティ・ラベルには負けるかもしれないが、非常に迫力があるのだ。私などは彼女の声を聞くたびに「ジャズとかゴスペルの人って、70年代ディスコに合うよなあ」って思う。

ご他聞にもれず、「ブームだったのでディスコやっちゃいました」系ではある。アルバムタイトル曲は彼女の唯一のディスコヒット。しかし、時は既にディスコ下火直前の79年春、チャートは最高72位だった。

しかして、この曲の魅力は彼女の声だけではない。ピアノがものすごくよろしいのである。軽快でフュージョンっぽくて都会的でねえ。そう、あの「シャイン・オン」(ディスコ的には代表曲)のジョージ・デュークなのであった。当時出始めたヤマハの電子ピアノの鍵盤を縦横無尽に叩きまくって、ことごとく「躍らせる」のである。

このアルバムのほかの曲もけっこう良い。CDは輸入だと送料込みで1500円くらいで入手できる。典型的な「ディスコinジャズ」を堪能してほしいと思う。

ちなみに、「バッド・フォー・ミー」はこのアルバムでは5分半だが、ロングバージョンだと8分半あって、ジョージのピアノが長ーく聞けてさらに素敵だ・・・いずれ紹介したいと思っているが、このバージョンは唯一、Give Your Body Up/Vol.1というライノレーベルのCDに収録されているのでご注目を。たまにアマゾンで中古で手に入る。




Victim Of Love

Elton Johnポップロックの大御所エルトンジョンの曲は、子供のころからよく聴いてきた。バラードからハードロックまで何でもこなせる器用な人だという印象だが、私にとってはこの本格的ディスコアルバム「Victim Of Love」である。

1979年はディスコ絶頂期。各時代の最先端の音を採用してきたエルトンさんにとっても、「一枚ぐらい、もろディスコを作ってみよう」ということだったのではないか。商業的にも手っ取り早く元がとれるし。

音楽ファンにとっては賛否両論ではある。それでも、中身はビート重視で踊りやすさ爆発。アルバムのA、B面の曲がそれぞれつながって録音されているというのは、当時のディスコLPでは一般的だが、特に、CDで言う6曲目「Street Boogie」から、7曲目のアルバムタイトル曲へのつなぎがかっこよい。

このCDは中古で安く売られている。7曲しか入っていないからお得感もないが、「誰でもディスコ」時代を象徴する好盤だと思っている。本格的エルトンジョンファンには毛嫌いされているようだが。






T.K. Disco

T.K. DiscoTKはカサブランカと並ぶ70年代中・後期の代表的ディスコ系レーベル。本拠地はマイアミで、米音楽業界の大立者ヘンリー・ストーン(Henry Stone)が1960年代に設立。KC&ザ・サンシャインバンドが最も有名な所属アーチストだった。ディスコに興味があるのであれば、一度は通る「TKの道」である。

KCだけではない。以前にも紹介したピーター・ブラウンのほか、ディスコ黎明期の1974年に「ロック・ユア・ベイビー」をヒットさせたジョージ・マックレー、「スパンク」のジミー''BO''ホーン、「アット・ミッドナイト」や「ドゥ・ホワット・ワナ・ドゥ」のTコネクション、「ゲット・オフ」のフォクシーなどなど、日本でも大ヒットした面々がそろい踏みだった。

KCを除いて一番、売れたのはアニタ・ワードの「リング・マイ・ベル」(79年)。初期のシンセドラムが素朴でよい。景気づけに加わる「ポーン、ポーン」という人をくったような電気音もまた印象的である。全米ポップチャートで2週連続1位を記録したのだが、その後、音沙汰が無くなり、いわゆる一発屋ということになった。

このCDは2枚組でウエストサイド盤。どの曲も、まだ80年代後半のような過度な電気音が強調されておらず、オーケストラとボーカルを主体にした「さわやか南洋性ディスコ」だ。当時のTKのエッセンスを凝縮していておすすめである。

値段も米国アマゾンだと日本円で2000−3000円で、しかもほとんどが12インチバージョンである。KCやアニタは入っていないけれど、これとは別に本人たちのベスト盤が広く売られているのでそちらをどうぞ。

もっと一般的な入門盤CDがよければ、再発モノで有名なRhinoレーベルの「Get Down Tonight: Best of T.K. Records」の方がよいだろう。ほかに、ホット・プロダクションの「The Best of T.K. Disco Singles」というのもあるが、このレーベルは音質がいまひとつだし、12インチバージョンを途中でちょん切ったりしているので注意。アナログ盤は…たいていどれも高値になってきているので、やっぱり私はCDをすすめたい。

カサブランカ・レコーズ・ストーリー

カサブランカ・レコーズ・ストーリーディスコを語るならまずはカサブランカである。最もメジャーなディスコレーベルで、ディスコ映画まで制作してしまったのだ。創業者はニール・ボガートという人で、ビルボードと並ぶヒットチャート会社だったキャッシュボックスの社員やMGMレコードの地方営業担当者などを経験後、1973年に立ち上げた。

創業当初の業績は芳しくなかったが、75年に一大転機が訪れる。ニールはドイツの無名歌手ドナ・サマーの「ラブ・トゥ・ラブ・ユー・ベイビー」の不思議で妖艶な歌声とメロディーに目を付けた。「これをうちで売り出そう」と、すぐさま契約を取り付けた。結果はディスコチャートで4週連続1位、ポップチャートで最高2位の大ヒットを記録したのだ。

この曲には大きな仕掛けがあった。ニールは最初に4分程度のシングルを聞いたとき、「ディスコでプレイして、客を躍らせるには短すぎる」と感じた。そこで、ドイツのプロデューサーに頼んで、ロングバージョンを制作してもらったのである。長さは破格の16分49秒で、これがディスコだけでなく、全米のラジオで大受けしたのである。しかもそのプロデューサーとは、かの「シンセサイザーの魔術師」ジョルジオ・モロダーであった。

ここから、カサブランカの鬼のような快進撃が始まる。お抱えの歌姫ドナ・サマーはもちろん、ビレッジ・ピープル、リキッド・ゴールド、テリー・デサリオなどなど、次々とディスコ系ヒットメーカーを世に送り出したのだ。

典型的なディスコアーチストだけではない。「宇宙的どファンク」のパーラメント、80年代に「ワードアップ」のヒットを飛ばしたカメオ、後に女優としても開花したシェール、「ラヴィン・ユー・ベイビー」のキッスなども含まれている。特にカメオとかシェールなんて、いま聞くとこっちが恥ずかしくなるぐらい、見事な「王道ディスコ」を披露している。

ニールは映画制作にも力を入れた。78年には、アメリカ映画史にさん然と輝く(はずはない)もろディスコ映画「サンク・ゴッド・イッツ・フライデー」を制作、発表。出演はドナ・サマー、コモドアーズのほか、後に「フライ」のハエ男ぶりで有名になったジェフ・ゴールドブラム、「愛の吐息」のベルリンのボーカリストとしてスターダムにのし上がる前のテリー・ナン(このころまだ10代)などとなっている。

ストーリーは、売れない歌手ニコル(ドナサマー)が、ディスコDJに自分を必死に売り込んで成功を収めるという「とほほ」な内容だが、同じような努力をして有名になった歌手はマドンナをはじめ数知れないし、当時のディスコの雰囲気も分かって面白い。まずは出演陣を見ているだけでも楽しめる。

ニールは80年、ビレッジ・ピープルのプロモーションを目的とした映画「キャント・ストップ・ザ・ミュージック」や「ファンキー・タウン」が大ヒットしたリップスを世に送り出したあたりで、突如としてカサブランカをメジャーレーベルのポリグラムに売却し、音楽業界の一線から退いてしまう。まさにアメリカのディスコブームと同時に現われ、その衰退期の到来と共に去っていたカリスマなのだ。

写真のCDは、そんなカサブランカのエッセンスがちりばめられた4枚組の好盤だ。相場価格は6000円前後とそんなに安くはないが、主要なアーチストを網羅。シェールのディスコ「テイク・ミー・ホーム」の12インチバージョンや、カメオの「恥ずかしディスコ」である「ファインド・マイ・ウェイ」といった貴重な曲も収録されている。










CDのライナーノーツ書きました(自己宣伝)


たまには「ボカロでYMCA」
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初証言でつづる昭和国会裏面史!
著書です!(自己宣伝)


キーワードは意外に「ディスコ」。
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