ディスコ堂 by mrkick

音楽に貴賎なし ―Discoの考察とCD批評

チェンジ (Change)

Change1980年代に登場した「チェンジ」は、茶化すことなどとてもできない正統派R&Bディスコグループ。押しも押されぬ「うた職人」ルーサー・ヴァンドロスの小粋でメロウなボーカルには、誰もがうっとりすることうけあいです。

1970年代後半にディスコヒットを数多く飛ばしたイタリア人の「ディスコ仕掛け人」であるジャックス・フレッド・ぺトラス(Jacques Fred Petrus)が結成させた、イタリア系グループです。自らプロデューサーとなり、相棒のイタリア人作曲家マウロ・マラバシ(Mauro Malavasi)とともに1980年にデビューアルバム「The Glow Of Love」(左写真)を制作。ソロとして売り出す前のルーサーさんがいずれもリードボーカルの表題曲シングルと「踊りにくくて繋ぎにくい」シャッフルビートの「Searching」、それにコーラス中心の「A Lover's Holiday」は、全米ビルボードディスコチャートで1位に輝きました。

大成功したこのデビューアルバムには、私の一番のお気に入りのAngel In My Pocketという小気味よいアップテンポ・ディスコも入っています。ここではなんと「ディスコディーバ」ジョセリン・ブラウンさんがリードボーカル。いつもながら伸びのあるボーカルはもちろんのこと、イントロからの「ビロン!」と跳ね上げるベースライン、それにタイミングよく入ってくる格調高きストリングスが、忘れかけていた踊り心を否応なしにくすぐります。

翌81年には2作目「Miracles」を発表。この年、ルーサーさんはソロになって「ネバー・トゥー・マッチ」をメロメロメロウに大ヒットさせましたので、今回はバックボーカル程度。けれども、日本でもサーファーディスコとして大ヒットした「Paradise」と「Hold Tight」(ともに米ディスコ1位)は、前作のR&Bディスコの雰囲気を踏襲した佳作となっております。

このアルバム2作とも、なんだか往年のシックみたいな曲調ばかりではありますが、世界中で定着してきたシンセサイザーを本格的に導入して、もう少し音に厚みを持たせているのが特徴といえましょう。

翌82年に発表した3作目「Sharing Your Love」では、元ファットバック・バンドのボーカルで、後に「C+C Music Factory」で「ディーパー、ディーパー♪♪(ヒット作Deeper Loveより)」と雄たけびを上げるデボラ・クーパー(Deborah Cooper)らをリードボーカルに据え、「The Very Best In You」(米R&Bチャート16位、ディスコ30位)、「Hard Times」、「Oh What A Night」といったダンスチューンを小ヒットさせました。さすがに息切れしてきたようで、曲がどれも似通ってきたのは仕方ないところですね。

それでも、84年にはこれまたディスコの重要人物コンビであるジャム&ルイス(Jimmy Jam & Terry Lewis)をプロデューサーに起用。SOSバンドに代表される2人の特徴がモロに浮き出ている「Change Of Heart」は、R&Bチャートで7位まで上昇するヒットとなりました。

そして1985年、「Turn On Your Radio」を発表したのを最後に、グループは解散。翌86年には仕掛け人のジャックス・フレッドが謎の多い殺人事件で死亡(享年39)。チェンジは完全に過去の人たちになってしまったのでした。

このグループは、ジャックス・フレッドが中心だったため基本的にイタリア系といえますが、制作の多くは米国内で行われ、主に米市場で成功しています。「Walking On A Music」みたいなおバカでラテンで陽気なサウンドを源流とするイタロディスコと、シックでアーバンでニューヨーカーなR&Bサウンドが、とてもうまく融合した一例だったとはいえるでしょう。例えば、デビュー作には、「The End」というインストの不思議なシンセサイザーディスコ曲が含まれています。めちゃめちゃ浮いていて違和感があるのですけど、彼らの結成の経緯や背景を考えれば、うなずけるものがあるのです。

CDはまずまず再発されています。特に最近、発売された「The Glow Of Love / Miracles (Special Edition)」(英Harmless盤、右下写真)は、ルーサー・ヴァンドロスがいたころの全盛期のアルバム2枚全曲と12インチバージョン数曲が収録されていてお得感があると思います。

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D トレイン (D-Train)

D Trainおちゃめな「Dワールド」へようこそ!――というわけで、今回は1980年代初頭に天下御免の「ぶいぶいシンセ・ファンク」ぶりを発揮していたディスコ野郎Dトレインさんを取り上げてみましょう。

D-Trainは実際には2人組のディスコプロジェクトです。リードボーカルを務める中心人物「Dトレイン」ことJames "D-Train" Williamsと、もう一人、彼の高校時代からの友人でプロデュースや楽器演奏を担当したHubert Eaves III(ヒューバート・イーブズ3世)で構成していました。このイーブズさんは70年代、83年に「ジューシー・フルーツ」を大ヒットさせたエムトゥーメイ(Mtume)に所属したこともあります。

彼らはスタートダッシュがよかった。デビューアルバム「You're The One For Me」に入っている同名シングル曲が、いきなり米ディスコチャートで1位になる大ヒットを記録(1981年、米R&Bチャート4位)になりました。この曲のアルバムバージョン(フランソワ・ケボーキアン・ミックス)は、出だしがアカペラっぽく「With the love I have inside of me……」てな感じでゆったりと入り、やおら「デンデコデン!♪」と展開する「じらし&期待感」で切り込むタイプ。この手法は、後のヒット「Music」でも見られます。

ちなみに、この曲は同時期にポール・ハードキャッスルぶいぶいにリメイクしています。「19(ナインティーン)」の大ヒットで知られるシンセサイザーの名手だけに、こちらもなかなか聞きごたえがありますですよ(ボーカルはD Trainの方がずっといいけど)。

さらに、「Keep On」(82年、ディスコ2位、R&B13位)、ディオンヌ・ワーウィックアイザック・ヘイズのヒット曲のディスコリメイク「Walk On By」(同、ディスコ45位、R&B42位)、ダブ・バージョンがカルト的な人気だった「''D'' Train Theme」など、シンセベースがうなりを上げるぶりぶりディスコを立て続けにフロアに送り出しました。

1983年には2作目となる「Music」を発表。この中からは前述の同名シングル曲(ディスコ12位、R&B20位)、「Keep Giving Me Love」(ディスコ24位、R&B55位)のほか、名画「いそしぎ」のテーマ曲「The Shadow Of Your Smile」のユニークなディスコリメイクがヒットしました。

翌84年には「Something's On Your Mind」を発表。この中からは同名曲がシングルとして発売されました。メロディーを重視したスローテンポ曲ということもあり、ディスコではさほど売れませんでしたが、R&Bチャートでは5位に入りグループとして最高のヒットになりました。

岐路を迎えつつあるディスコ界に新風を吹き込み、破竹の勢いが持続するかと思われたのですが、これを最後にグループは解散。D Trainがソロで活動をつづけました。ソロ名義では、Somethign On Your Mindのミデアムスロー路線を踏襲した「Misunderstanding」(86年、R&B10位)という曲がまずまずのヒットとなりました。

いやあ、こうしてみると多彩な芸歴を誇っているアーチストのような気がしてきます。けれども、なんだか初期のヒットはみんな似たような感じなのが残念。私も当時のディスコでは頻繁に耳にしたのですが、「なにがどれでなんて曲だっけ」という感じでした。まあ、それだけ短期間で何曲もヒットを出したという証でもあるわけですが。

Dトレインのデビューからの3枚のアルバムは、すべてお馴染み米プレリュード・レコードからのリリース。現在はディスコものの再発で知られるカナダのUnidiscが盤権を持っていますので、CDはひととおり揃っています。「うひひっ!」と笑顔はじけるおちゃめなDトレインさんが写っている上写真のCDは、「ザ・ベスト・オブ・Dトレイン」。主なヒット曲がロングバージョンで収録されておりますので、「最初の1枚」としては最適かと存じます。

バリー・ホワイト (Barry White)

Barry White聞けば一発でわかるモヤモヤ低音ボイス。アップリフティングな高音ボーカルが重視されがちなディスコでは、かなり異色だった伝説のヒットメーカー。久方ぶりの投稿となる今回は、「どこまでもメロウで小いやらしい」初期ディスコ界の巨漢の大御所バリー・ホワイトさんを取り上げてみましょう。

バリーさんは1944年米テキサス州生まれ。すぐに親とともにロサンゼルスに移り住みましたが、そこは貧困層が多く住む地区で、犯罪の温床にもなっていました。彼自身、不良グループに入り、窃盗の罪で服役したこともあります。けれども、当時流行していたプレスリーなどのロック音楽に目覚め、独学でピアノを練習して更生の道を歩み出します。60年ごろには地元のボーカルグループにも参加して、活動を本格化させました。

その後、60年代半ばになって、レコードレーベル「デルファイ(Del-fi)」のオーナーであるボブ・キーン(Bob Keane)に見出され、まずはA&R(アーチスト発掘担当)社員として働き始めました。そこで後にディスコヒットを飛ばすヴィオラ・ウィルス(Viola Wills)などへの楽曲提供、アレンジ、バックミュージシャンを手掛け、裏方としてのマルチな才能に磨きをかけたのでした。

ちなみに、ボブ・キーンはもともとクラリネット奏者で、30-40年代に流行したジャズのビッグバンドに強い影響を受けた人物。演奏者としては活躍できませんでしたが、80年代のヒット映画「ラ・バンバ」で描かれた50年代の人気ロック歌手リッチー・バレンスを見出し、育てたことでも知られます。

そして69年、バリーさんはシュープリームスを模した女性3人組のボーカルグループ「ラブ・アンリミテッド(Love Unlimited)」を発掘し、自らプロデュース。70年代には、彼女たちに加えて演奏者40人からなるオーケストラとして発展的に再編成し、「ラブ・アンリミテッド・オーケストラ」として売り出したところ、73年のデビュー曲「Love's Theme(愛のテーマ)」が大ヒット(全米一般チャート1位)したわけであります。

この曲は、70年代ディスコのルーツとも言われているインストゥルメンタルの逸品。軽くステップを踏みつつ、その旋律に身を委ねれば、「さわやかストリングス」がそよ風のように全身を駆け抜けます。いまだって、朝のテレビやラジオやCMや喫茶店や郊外型ショッピングセンターで、誰もが一度は耳にしたことがあるはずです。Love Unlimet Orchestraは、この後も70年代を通して、「オーケストラディスコ」の代表格としてヒットを重ねることとなります。

メンバーの中には、後に名を上げるレイ・パーカーJrやリー・リトナー、アーニー・ワッツといった面々も入っていました。当時の流行音楽シーンでは、ビッグバンドの「グレン・ミラー楽団」のような大編成バンドはほとんど消え去っていたのですが、敢えて人件費無視の「40人編成」という大ばくちを打ったことで、逆に大衆には新味のある音として受け入れられたといえるでしょう。

一方、バリーさん自身もソロ名義で同時期、「I'm Gonna Love You Just A Little More Baby」(73年、米R&B1位、一般3位)、「Can't Get Enough Of Your Love, Babe」(74年、R&B、一般ともに1位)、「You're The First, The Last, My Everything」(同年、R&B1位、ディスコ2位)といった大ヒットを次々と飛ばしました。もちろん、バックバンドとして、彼の率いる「Love Unlimited Orchestra」がその巨大な背中をしっかり支えていました。

いずれの曲も、「もわ〜〜〜」としたバリーさんのバリトン&ベース・ボイス、つまり以前に紹介したアイザック・ヘイズをもう一段低く、しかもそのキワどい歌詞と同様に「小いやらしい」感じにした声が横溢し、むせ返るほどです。とはいえ、基本のリズム進行は8ビートもしくは16ビートの「ズンチャカディスコ」ですので(バラードもあるけど)、フロアでは踊りながら「もわ〜〜〜」と高揚してくることウケアイであります。

底抜けにゴージャスなオーケストラの演奏に絡む「は〜とふる」な歌声、ため息、熱い吐息。クラシカルな欧州発白人音楽と、ゴスペルを源流とする黒人ソウル音楽との絶妙な組み合わせが、長引くベトナム戦争に憔悴し、愛に飢えていた米国民の胸を焦がしたのでした。

ディスコブームが一段落した80年代に入ると、ヒット曲が急に出なくなって勢いが止まったかのように見えたバリーさん。ところが、90年代には「あの(エロ)声よもう一度」というわけで、クインシー・ジョーンズ、アイザック・ヘイズ、ティナ・ターナーといった大物とコラボレーションして、「The Secret Garden」(90年、R&B1位)や「Practice What You Preach」(94年、同1位)などの大ヒット曲を飛ばすようになりました。その復活力や恐るべし、であります。

そんなバリーさんも、長年の肥満に起因する高血圧や内臓疾患がもとで2003年、58歳の若さで死去します。もうあの声を生で聴けないと思うと残念ですが、CDはベスト盤を含めて豊富に出ております。写真は、私が最も好きな軽やかアップテンポディスコLet The Music Playが収録された76年のソロアルバム「Let The Music Play」。アマゾンなどで千数百円で入手可能なようですので、あの声に一度メロメ〜ロにハマってみてくだされば幸いです。

大震災から2年

東日本大震災から2年が経ちました。2月下旬から3月初めにかけて、4回目の現地取材に行って参りましたので、自分で撮った写真をいくつか紹介しておきます(クリックで拡大)。記事は来週、再来週の2回にわたって、ネットメディアの「nippon.com(ニッポンドットコム)」に掲載されます。今後も定点観測を続けたいと考えています。次回からは再び通常の音楽ブログに戻ります。


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津波でひしゃげた線路は撤去された。周囲には新築の家も=JR仙石線東名駅



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ここも津波に流されたが、一部の松は生き残った=宮城県東松島市野蒜地区




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誰もいなくなった松原の住宅跡に、持ち主不明の黒電話が置かれていた=同市野蒜地区



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震災直後には流された家や車が沈んでいた運河。橋は補修されていない=同市野蒜地区



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地元住民によると、付近の店の商品は震災5日後には全部なくなっていた=JR仙石線野蒜駅




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全校児童の7割が犠牲になった大川小学校。傍らでは整地工事が進む=石巻市釜谷地区



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瓦礫は取り除かれ、この防災対策庁舎跡の周囲は更地になった=南三陸町志津川地区



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港から1キロほど内陸へ進むと、プレハブの仮設商店街に辿りついた=同町志津川地区



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巨大な船は、流されたままの形で更地の中にぽつんと残されている=気仙沼市



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かつての中心市街地。津波は、病院のあるこの土手の上に達した=女川町



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土地のかさ上げを含む港の復旧工事は、最近になって本格化したばかりだ=同町



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倒壊した鉄筋のビルは、突き刺さった車とともに放置されている=同町



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朝日を臨む丘に建つ慰霊碑。この町の死者・行方不明者数は約900人を数える=同町



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道の駅「高田松原」付近。観光ホテルの取り壊し作業が続く=岩手県陸前高田市



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白砂青松の海浜は跡形もなく消えた。遠くの一本松が天災の惨さを物語る=同市

デニース・ウィリアムス (Deniece Williams)

Denice Williams, When Love Comes Calling昨日、部屋で朝方まで本を読みふけっていたら、近くの公園の樹木から「キョッ、キョッ!」と、ウグイスかホトトギスの地鳴きのような澄んだ鳥の声が聞こえてきました。寒空の中、春の兆しもちほら。今回はソウルディスコ界きっての「シンギングバード」、デニース・ウィリアムスと参りましょう。

ディスコ的には1979年のはっちゃけチューン「I've Got The Next Dance」(米ディスコチャート1位、R&B26 位、一般ポップチャート73位)と、84年のお馴染み「Let's Hear It For The Boy」(米ディスコ、R&B、一般ポップともに1位!)ということになりますが、バラードでもミディアムスローでもなんでもこなす、ソウル界屈指の美声の持ち主です。

耳に心地よく響くユニークな声質は、かつて紹介した“黒猫系ボイス”のチャカ・カーンとかアーサ・キットの逆をゆくかのごとく、「おとなしめの三毛猫」をも彷彿とさせます。4オクターブもの音域を生かした「さえずり唱法」が身の上でして、まさに、ミニー・リパートンと並ぶ「ソウルソプラノの女王」といえましょう。パティ・ラベルのような特大声量パワーで攻めるタイプとは、対極に位置する歌姫ですね。

1951年、米インディアナ州生まれ。バルティモアにある大学に通っていたころまでは、看護婦を目指す普通の女性だったのですが、地方のクラブで歌手のアルバイトをやっているうちに音楽関係者に「あまりに歌がお上手!」と発掘され、プロの道を歩み始めたのでした。

70年代前半まではマイナーなグループでボーカルを務めたり、スティービーワンダーのバックコーラスを担当したりと、地味な活動が目立ちました。しかし、76年のデビューアルバム「This Is Niecy」からシングルカットされたモータウンっぽいミディアムスロー「Free」が米R&Bチャート2位、ポップ(一般)チャートで25位まで上昇するヒットとなり、一躍注目の的になりました。

その後はしばらく安定した人気を保ち続けます。78年には、ストリングスを重視したイージーリスニング系ディスコ「Gone Gone Gone」(79年)などでも知られる往年のソウルボーカリスト、ジョニー・マティス(Johnny Mathis)とのデュエットによるミディアムスロー「Too Much, Too Little, Too Late」がポップチャートとR&Bチャートで1位になる大ヒットとなります。ディスコブーム期には、前述の「I've Got…」ではじけまくって大活躍。しっとり気分で丁寧に歌い込んだかと思うと、いきなりアップテンポで飛んだり跳ねたりと忙しい日々でした。

80年代に入ってからはさらにパワーアップ! まず、82年に再び甘美なボーカル魔術を駆使したバラード「It's Gonna Take A Miracle」(R&B、ポップ1位)がヒットした後、映画「フットルース」のサントラに使われた前述「Let's Hear It…」が彼女にとっての最大のヒットとなり、完全に油がのったサンマ状態で歌いまくることになったわけです。
 
まあ、セールス的にはこの辺がピークでした。個人的には、「指ぱっちん」とともに厳かに始まる緊迫のミディアムテンポ「So Deep In Love」(82年、これもジョニーさんとのデュエット)とか、朝もやに包まれたヨーロッパの田園風景のようなメロウなイントロから突然、「ダンサブル上等!」な展開になる「Next Love」(84年)、「打ち込みシンセドラム」を駆使したいかにも80年代なディスコ曲「Never Say Never」(86年)といったお気に入りがあるのですが、80年代も後半になると、どうしてもひところの勢いがそがれた感じになっております。

90年代に入ると、自身のルーツである黒人ゴスペルミュージックに傾倒。スピリチュアルな世界観を表現するようになり、逆にポピュラー音楽の表舞台からは去っていきました。このあたりは、ドナ・サマーグロリア・ゲイナーを始めとする、かつてディスコで鳴らした歌手たちの一つのパターンでもあります。

嬉しいことに、彼女の全盛期のアルバムが近年、続々とCD化されております。例えば、「I've Got…」が収録された「When Loves Come Calling」(上写真)。レイ・パーカーJrEW&Fのモーリス・ホワイト、デビッド・フォスター、TOTOのスティーブ・ルカサーなどが参加した豪華盤で、英国の再発レーベルであるBig Break Records(BBR)が3年前に発売したものです。「I've Got」と、別のミデアム系ディスコ曲「I Found Love」の12インチバージョンが入っていて楽しめます。

フランキー・ゴーズ・トゥ・ザ・ハリウッド (Frankie Goes To The Hollywood))

Frankie Goest Toいやあ、早いもので前回投稿から1ヵ月以上が過ぎました。実際まったりと終わった(笑)久々のディスコイベントも無事乗り越え、新年一発目の投稿は……またまた長〜い名前のフランキー・ゴーズ・トゥ・ザ・ハリウッド(FGTH)であります!

もともとは英国で1970年代に隆盛を極めたパンク音楽に影響を受けた英リバプールの若者が、80年に結成したニューウェーブバンド。さしたる特徴のない凡百のアーチストだったのですけど、83年に発表した「リラックス(Relax)」(左写真、米一般チャート10位)がいきなり大ヒットし、一躍スターダムにのし上がったわけです。

リラックスを始めとする彼らの曲そのものは、当時ぽんぽんと出てきたシンセサイザーの打ち込み編集による「テケテケポコポコ」ダンスミュージック。売れた大きな理由は、とにかく「マーケティングの力」といえました。

発掘したのは、この手の英シンセポップのスタンダード曲「ラジオスターの悲劇」(79年)のヒットで知られるバグルズのメンバーで、売れっ子プロデューサーでもあったトレヴァー・ホーンです。そのトレヴァーらが83年にZTTレーベルを創設した際、目玉アーチストとしてFGTHを起用し、見事に大穴を当てたのです。とりわけ本国英国での人気は絶大でした。

まず、リラックスという曲自体、ゲイの“禁断の愛”を歌った挑発的な内容。英国の代表メディアであるBBCは、リリース直後は「へ〜、新しくて面白い曲じゃん」と平気でラジオ番組でかけていたのに、後で歌詞の意味に気づいて「わいせつに過ぎる!」と即刻放送禁止。プロモーション・ビデオも、ダンスクラブを舞台に際どいシーンが続出の素晴らしい“表現の自由”が展開されていたのですが……やっぱりBBCやMTVで放送禁止となりました。

それでも、洋の東西を問わず、際モノ狙いはときに成功するもの(はずすとイタいが)。「FGTHオリジナルTシャツ」などのノベルティ・グッズも売れ行き好調で、リラックスは英国内でチャート1位を続け、かのビートルズにも匹敵するほどの特大ヒットになっていったのです。BBCなどの放送禁止措置についても、あまりに人気が出たために間もなく解禁になりました(これも節操がないが)。

続く「トゥー・トライブズ(Two Tribes)」(84年、米ディスコ3位)も、打ち込みポコポコ路線を踏襲したダンスチューン。トレヴァー特有のオーケストラヒット(オーケストラ風のサンプリング音)を連打する大仰なメロディーと重厚ビートが、クドいほどに耳を突き刺します。歌詞の方も、米ソの「東西冷戦」をテーマとしており、だから曲名も「2つの部族(Tribe)」となっているわけです。

ただし、前作ほどのインパクトはなく、この辺りからセールスは急降下(早い)。けっこう泣かせるバラードの「The Power Of Love」、ちょっとしっぽりした感じの「Welcome To The Pleasure Dome」、これまたオーケストラな雰囲気のミディアムテンポのダンスナンバー「Rage Hard」といった佳作は出しましたが、特にアメリカでのセールスはふるいませんでした。

日本のディスコでも、リラックス、トゥー・トライブズともに、フロアの定番曲でした。私も、リラックスのあの長〜いイントロの12インチバージョンがかかっていたのをよく覚えています。もうこうなったら、歌詞の内容も何も関係なく、狂喜乱舞するほかありません。

際モノは物議を醸す、だから売れることもある――。常に刺激を欲しがる浮世にあっては、これはもうセオリーですけど、とかく当局筋(お上)との関係は問題になります。今なら大したことがないような歌詞であっても、30年前の当時は、ゲイとかセックスとかはまだまだご法度だったということです。

歌や踊り、つまり歌舞音曲は、昔から時の権力の取り締まりや保守的な人々からの白眼視の対象になってきました。私の好きな「700年前の元祖DJ」一遍上人(ご参考1ご参考2)も、民衆を引き連れて、「踊念仏」で鐘を鳴らしながら踊りまくり、魂の救済(衆生済度)を図ったわけですが、“首都”鎌倉に入ろうとしたら「まかりならぬ」と警備兵に止められ、やむなく手前の村の広場で踊り狂った、との記録が残っています。盆踊りのもとになった室町時代の風流踊り、江戸時代の歌舞伎なんかも、取り締まりの対象になりました。

人間はやっぱり自由でいたいし、心の解放を求めます。時にはハメをはずして歌いたいし踊りたい。好きな音楽を思う存分、楽しみたいんですね。

今の日本でも、未明に客に踊らせないようにする「ダンス規制」なんていうアホらしい決まり事が論議を呼んでいます。現在のクラブでは、昔のディスコ以上にドラッグや暴力が目立っている風潮が背景にあるのかもしれませんが、あまりに行き過ぎて過激化、暴動化しない限り、「ええじゃないか!」と自由に踊らせるべきでしょう。「きょうは無礼講じゃ!」と酒を飲んで踊りまくり、おバカさんになって憂さを晴らした先祖伝来の村祭りと同じ祝祭空間であることを考えれば、まったく野暮なことです(トホホ)。

確かに、今振り返っても、手足をくねらせて踊り狂うのは恥ずかしい。バブルに踊らされるのも恥ずかしい。でも、あ〜あ、それでも人は、踊らずにはいられないのです。

――この人たちのCDは、ベストも個別アルバムも豊富に出ています。特に最近、日本で発売されたZTT編集盤「フランキー・セッド(Frankie Said)」(下写真)は、各種出ている12インチシングルのうちの貴重盤も含めて網羅的に収録されていて面白いと思います。

Frankie Said


ハロルド・メルヴィン & ザ・ブルー・ノーツ (Harold Melvin and The Blue Notes)  &イベント告知

Harold Melvynフィリー・ソウルの大御所といえばこの人たち。米国ディスコの源流とも言われるほどダンサブルな面々ですけど、あくまでも渋くて真面目でダンディーな5人組です。

結成はなんと1954年。日本がまだ戦後の混乱期にあったころです。文字通りフィラデルフィア出身のハロルド・メルヴィンさんを中心にした男性ボーカルグループで、60年代まではパッとしなかったのですが、70年代初頭からディスコ系のヒットを連発して一躍トップスターになりました。

メジャー化の原動力になったのは、ちょうど70年にメンバーとして加わったテディ・ペンダーグラス(Teddy Pendergrass)でした。もともとはドラマーだったのですが、類まれなる甘〜〜〜いバリトンの声の持ち主で、この人の歌声を聴く者はみんなメロメロ状態になってしまったのです。

彼の加入の2年後には、その後の米国ディスコの流れを決定づけるパイオニアレーベルで、名ディスコ仕掛け人であるギャンブル&ハフ(Gamble & Huff)が率いる「フィラデルフィア・インターナショナル・レコーズ(PIR)」と契約。「I Miss You」(72年、R&B7位)、「If You Don't Know Me By Now」(72年、同1位)という「とろ〜りはちみつ」なバラードで軽くジャブを飛ばした後、いかにもフィリーなディスコ曲「The Love I Lost」(73年、R&B1位)を大ヒットさせ、後に大爆発するディスコブームの到来を大いに予感させたものでした。

PIRからの3枚目アルバム「Wake Up Everybody」からは、テルマ・ヒューストン(Thelma Houston)も歌った「Don't Leave Me This Way」(75年)とか、「Wake Up Everybody」(75年、R&B1位)というディスコヒットが生まれました。

さらに、同じ75年に出した4枚目のアルバム「To Be True」からは、「Where Are All My Friends」(R&B8位、米ディスコチャート11位)と「Bad Luck」(R&B4位、ディスコ1位)というディスコシングル曲をリリースしました。特にBad Luckはディスコチャートで11週間も続けて1位になる特大ヒットになっています。

ダンス系とバラード系のヒットをバランス良く出しているのが、この人たちの特徴でもあるわけですが、それもこれも「テディの美声」あればこそ。アップテンポでもスローテンポでも、彼の声はいつでも耳に心地よく響きます。天賦の才とはこのことでしょう。

しかし、グループとしての一体感は、いつの間にか損なわれていきました。案の定、あまりにも「おお!テディ、ソーグーッド!」ともてはやされたために、とりわけ長年のリーダーであるハロルドさんとテディさんの関係がしっくりこなくなってしまったのです。自信あふれるテディ自身も、「コンサートやレコードで、自分の名前をもっと前面に出してほしい」などと強気に迫ったとされ、火に油を注ぐ形になりました。

結局、「To Be True」を最後にテディさんはソロに転向し、その後もヒットを飛ばし続けました。残されたメンバーは、もちろん活動を続け、70年代後半以降も「Prayin'」(79年、R&B18位)、「Tonight's The NIght」(同61)、「Hang On In There」(81年、同51位)みたいな結構すぐれた軽快ディスコ曲も出したわけですけど、目玉のボーカルを失って一気に存在感は低下。切ないものです。

ところが、好事魔多し。テディさんは82年、交通事故で突然、半身不随になり、歌手活動が著しく制限されてしまったのです。それでも、車いすでライブや慈善活動を続け、88年にはミデアムダンス曲「Joy」(R&B1位、ディスコ42位)も大ヒットさせています。

波乱万丈の歴史を刻んだフィリーディスコの帝王、ハロルド・メルヴィン&ザ・ブルー・ノーツ。現在ではハロルド(97年に57歳で死去)、テディ(2010年に59歳で死去)を含めて、ほとんどの主要メンバーが鬼籍に入りましたが、ディスコ史、そしてソウル史においても強烈なインパクトを残したグループだったことは確かです。

CDはベスト盤、アルバム再発ともにけっこう出回っております。上写真は10年ほど前に出たエピック盤「The Ultimate Blue Notes」。価格が1枚1000円前後と非常に手頃な上に、主なヒット曲が網羅されていてお得な感じです。


*イベントお知らせ
12月8日(土)夜、西武新宿線新井薬師駅南口の目の前のバー「ゆんたく」にて、まったりとアホアホなディスコDJパーティーを行います。入場お値段は1ドリンク付き1000円。ご興味のある方は、お気軽にお立ち寄りくださいませ!! 詳細は↓

http://www.facebook.com/events/300433423400391/

テリー・デサリオ (Teri Desario)

Teri Desario最近、日韓企業を比較する雑誌企画の取材をやりまして、そこで改めて感じたのが日本の巨大メーカーの低落ぶり。周知の通り、ソニーやパナソニック、それに一時は液晶テレビで破竹の勢いだったシャープなどなど、家電業界の業績の落ち込み方は尋常ではありません。財閥寡占や格差拡大といった矛盾を抱えながらも、相変わらず快走を続ける韓国企業とは対照的でした。

変てこな形のアンテナを自作し、FMや遠距離のAM、短波放送を小学生のころから聞いていたラジオ好きの私にとっては、とりわけ戦後日本の高度成長の象徴であり、高性能トランジスタ・ラジオで名を馳せた「ソニー」の御威光はとにかく大きかった。そんな私の小型ラジオから頻繁に流れていたのは、ほかならぬ当時大流行のディスコ音楽でした。

でも、兄貴分の欧米のメーカーを脅かすほどに勢力を拡大した「メード・イン・ジャパン」も今は昔。2年前、ソニーの終戦後の歴史について調べるため本社に取材に行ったことがあるのですが、広報担当の中堅社員が「いやあ、トランジスタラジオとかウォークマンを発売したころの勢いなんて、もう夢のようですよ」なんてやや力なく語っていたのを思い出します。

もちろん、SONYのブランド力はなおあるとは思います。特に音楽業界の取材をしたときは、ある大手レコード会社の幹部社員が「アーチストのネット配信での楽曲販売やテレビ番組への出演交渉など、ソニーのマーケティングの上手さにはなかなか勝てない」などとボヤいていました。実際、「ソニー・ミュージック」所属のアーチストは今も綺羅星のごとくです。往年のテープレコーダーやラジオの生産、音楽業界進出に端を発する「エンタメ力」は相当なもの。私も携帯プレーヤーはi-Podではなくウォークマンを使っていますし、気に入っている携帯AMラジオもソニー製です。

それでも、あの右肩上がりの上気した時代の空気とは、とても比べものになりません。

1984年、ソニーのカセットテープのCMに使われたテリー・デサリオの「オーバーナイト・サクセス」(YouTube動画ご参照)。ソニーだけでなく、日本のあらゆるメーカーが最も脂が乗っていた時期に、この曲は日本で大ヒットしました。前年に公開された「フラッシュダンス」とか80年公開の「フェーム」を意識した「オーディション再現型」の構成になっていて、ブロードウェイ・スターになる夢を実現しようと奮闘する米国の若者たちの群像を描いています。

カセットテープなんて今はほとんど使われていないわけですが、79年に発売されたソニー自慢のウォークマンが世界市場を席巻していたころですので、底抜けにポジティブな展開になっております。日本企業が制作したので世界ヒットではなかったのですけど、国内のディスコではガンガンかかっていましたし、私ももちろん、即座に12インチレコードを買いにレコード店に走ったものです。

さて、このテリーさんは、実は正真正銘のディスコ畑の歌手です。1951年にマイアミで生まれた彼女は、10代のころにはフォークやジャズに熱中。地元のクラブを中心に歌っている時に、たまたま知人から評判を聞いたビージーズのバリー・ギブに見出され、ディスコレーベルとして勢力を伸ばし続けていたレーベル「カサブランカ」よりレコードデビューを果たしたラッキーガールです。

78年発売の初のアルバム「プレジャー・トレイン(Pleasure Train)」(写真)からは、プロデュースしたバリーさんがバックボーカルで参加したAint Nothing Gonna Keep Me From You」が米ビルボード一般チャートで43位に入り、ディスコでもヒット。邦題は「夢見る乙女」ということで、いきなり脱力するわけですが、彼女の澄んだ高音が全編にわたって横溢していて、かつビージーズっぽさもしっかり感じさせてけっこう良い曲です。ここで彼女は、ひとまず「ディスコ歌手」としての礎を築いたのです。

翌79年、同じアルバムからのシングルカット「The Stuff Dreams Are Made Of」も米ディスコチャートで41位まで上昇し、まずまずのヒットとなります。同年後半には2枚目のアルバム「Midnight Madness」を発売し、その中からはマイアミの学生時代の級友で、K.C. & The Sunshine Bandのリーダーであるハリー・ウェイン・ケーシーとのデュエットによるバラード「Yes, I'm Ready」が、米一般チャートで2位まで上がる大ヒットを記録しました。

80年代になると、やはりディスコブームが下火になったことで活躍の場が狭まり、カサブランカとの関係もこじれてきます。80年にはポップ/ロック色を強めた3枚目のアルバム「Caught」を発売するも、ほとんど売れずじまいでした。

4枚目のアルバム「Relationships(関係)」はなんと、録音を終えていたのに発売中止となり、カサブランカとの“関係”も契約解除により途切れてしまったのです。今年発売された「Caught」の再発CDのライナーノーツにはテリーさんのコメントも載っているのですが、「(契約解除には)すごく落ち込んだ。たった18ヶ月間で、ヒット歌手から契約解除に至ったんだから。
私のマネジャーのプロモートが上手じゃなかったの。やっぱり歌手は、周囲に信頼できるスタッフがいないとダメね。そして、強固なファン層を持っていないと、うまくいかない」などと振り返っています。

その後は信仰に目覚め、キリスト教のゴスペル音楽に傾倒。ポップス歌手としてはTVドラマの挿入歌を歌う程度となり、表舞台からは遠ざかっていきました。
なんだか前回のステイシー・ラティソウみたいな展開ですけど、彼女の場合は、この間にソニー側からのオファーを受けて「オーバーナイト・サクセス」というCM曲を1曲、録音してその名を刻んでいたわけです。

このCMが流れた翌85年、日本が欧米各国との間で取り決めた「プラザ合意」や利下げをきっかけに急激な円高が進行。金が余ってバブル経済の引き金となり、それが崩壊した90年以降には日本経済の「失われた20年」が始まりました。そう考えると、あの曲は、テリーさんにとってもソニーにとっても日本経済にとっても、まさに一夜の夢のごとく出現した「最後の輝き」だったのかもしれません。

テリーさんのCDは最近、少しずつ再発されています。「Pleasure Train」は米国のCD再発レーベルGold Legionから、「Caught」も英国のRock Candy Recordsから、それぞれリリースされています。

ステイシー・ラティソウ (Stacy Lattisaw)

stacy latisaw祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり、沙羅双樹の花の色……というわけで、今回は、夢幻(ゆめまぼろし)のディスコ界を疾風のごとく駆け抜けた、一人の天才少女歌手を取り上げます。

前回登場のジャネット・ジャクソンと同じ1966年に、米ワシントンDC生まれたステイシー・ラティソウさんは、1979年、ジャネットさんより4歳も早い12歳でデビューアルバム「Young And In Love」を発表します。

このアルバムは「ハッスル」などのヒットで知られるディスコの仕掛け人、ヴァン・マッコイが全面プロデュース。特にシングルカットされた「When You're Young And In Love」とか、変則的なリズム進行を特徴とするシャッフルビートの「Rock With Me」などは、なかなかの佳作。12歳なのであどけなさが多少はあるにしても、単なるアイドル歌手ではなく、中高音域を伸びやかに歌い上げるソウルな歌声は高く評価されました。

彼女が本格的にブレイクしたのは、翌80年に発表した2枚目アルバム「Let Me Be Your Angel」(上写真)。プロデュースは、これまたディスコ期に頭角をあらわした売れっ子アーチストのナーラダ・マイケル・ウォルデンです。ディスコブームが米国では衰退期に入っていたにもかかわらず、シングルカットされた「Dynamite/Jump To The Beat」は全米ディスコチャートで1位、R&Bチャートでも8位を獲得しました。ダンス系だけではなくしっぽりバラードも得意で、アルバム同名曲の「Let Me Be Your Angel」も同じくR&Bチャートで8位まで上昇しています。

このころになると、知名度も飛躍的にアップ。テレビなどの出演回数も格段に増えました。81年には、憧れていたジャクソンズのツアーにも前座として参加。ステイシーさんは、米国人音楽ジャーナリスト、ジャスティン・カンター(Justin Kantor)氏による最近のインタビューに答えて、「ほかにも候補はたくさんいただろうに、彼らはこの私を選んでくれたのよ。歌手としての地位を上げてくれるまたとない機会になった。ステージの後、楽屋でマイケルたちと直接話せて感激したわ」と話しています。

その後もアルバムを年1回のペースで順調にリリースし、ヒット曲も連発。けれども、自ら、生来内気な性格だったというティーンエイジャーのころの彼女にとっては、いきなり人気者になったことには戸惑いもありました。通学と全米をまたにかけた音楽活動の両立は困難を極め、妬んだ同級生や先生(!)からの苛めにも遭っていたのでした。

レコード会社の方針にも、かなり不満があったようです。このインタビューでは、担当してもらったプロデューサーについて、「自分の好きなように歌わせてくれたヴァン・マッコイとナーラダ・マイケル・ウォルデンはお気に入りだった」と振り返っていますが、他の制作者とはしっくりいっていなかった様子です。「あるプロデューサーは、『このパートはジャネット・ジャクソンのように歌ってよ』なんて言ってきた。『はあ?何言ってんの?私は私。ジャネットじゃないわ!』と憤慨して言い返したのを覚えている」と話しています。

特に、「1985年にマイケル・マッサー(Michael Masser)がプロデュースして発売した『I'm Not The Same Girl』は完全な失敗作だった」ときっぱり! 「彼はホイットニー・ヒューストンやダイアナ・ロスと仕事をしてきた人だけどもう最悪。私を酷い目に遭わせたの。思うに、あのアルバムには、ホイットニーが歌うのを断った曲がいくつかあったのよ。ホント最悪な曲ばっかだった」とかなり辛辣です。生来内気ではあるけれども、芯はなかなかしっかりしていると思われます。

確かに、この「I'm Not…」は、やっと大人になってきたステイシーさんにとっては、少々子供っぽくて軽い収録曲が多かった(例:「Can't Stop Thinking Thinking About You」「I'm Not The Same Girl」)。ちょうど以前に紹介したティファニーやデビー・ギブソンといった少女歌手が台頭してきた時期でもあったので、レコード会社側としては同じような路線で成功させたかったのだと思いますが、彼女自身は「こんな曲はもう卒業したい。ぜんぜん成長できない!」と憤懣やるかたなかったのでした。とりわけ「I'm Not The Same Girl(私はもう同じ女の子じゃない)」というタイトルは、皮肉にも聞こえます。

その後、アトランタレーベル系のコティリオンから「黒人音楽の王道」モータウンへとレコード会社を移籍しました。86年に通算8枚目となるアルバム「Take Me All The Way」をリリース。「Nail To The Wall」(ディスコ2位、R&B4位)と「Jump Into My Life」(同3位、同13位)のダンスナンバー2曲がシングル曲としてヒットしました。

この2曲ともよく“バブリーディスコ”では耳にしました。アルバム自体が小粋なファンク系あり、力強いゴスペル風のバラードありとバラエティーに富み、かつ歌声にも円熟味が増していて、相当に出来栄えが良いと思っております。ただし、全体的に売れ線狙いが見え隠れして、同時期に特大ブレイクした「Control」の「ジャネットくささ」は否めませんが。

さて、モータウンで心機一転、アルバムを再びヒットさせたステイシーさん。89年に発表した記念すべき10枚目のアルバム「What You Need」からは、幼なじみのジョニー・ギルとのデュエットによるねっとりしたスロージャム「Where Do We Go From Here」が大ヒットし、全米R&Bチャートで初の1位を獲得したのでした。

ところが、間もなく再びレコード会社側との関係が悪化します。アーチストを型にはめようとする音楽業界にもともと疑問を抱いていた彼女は、契約を更新することなく、そのまま引退してしまったのでした。「チャート1位」を獲得してすぐに引退するケースなど滅多にありません。「驕れる平家は久しからず」のような例ではないにしても、あれよと言う間に20代半ばで儚く消えていった「天才少女歌手」の引退劇に、栄枯盛衰の一つのパターンを見ることは可能でしょう。

その後は結婚して夫や子供たちとの家庭生活に専念するとともに、キリスト教に深く傾倒する日々となったステイシーさん。昨年には自伝を発表したのですが、そのタイトルは、何だかこだわった感じの「I'm Not The Same Girl----Renewed(もう同じ女の子じゃない----生まれ変わった私)」でした。

この人のアルバムは一応10枚ともCDで再発されていますが、一部は入手困難になっています。ベストであれば、16曲入りの米Rhino盤(下写真)がよいでしょう。1位になった「Where Do We Go From Here」がなぜか入っていませんが、それ以外のヒット曲はほぼ網羅されています。

Stacy Lattisaw Best

ジャネット・ジャクソン (Janet Jackson)

Janet84さ〜て、今回は何食わぬ顔でジャネット・ジャクソンさんで〜す! これまたバブル期の1980年代後半、ホイットニー・ヒューストンと並んで黒人歌姫の名をほしいままにしたトップスターでした。

兄マイケルの死から早くも3年以上が過ぎ、この人も懐かしい存在になりつつありますが、まあディスコ界でもよく活躍したものでした。米ビルボード誌のディスコチャートでは、バカ売れし始めた1986年から2001年までの15年間に15曲も1位になっています。これを上回るのは女王マドンナ(同時期に23曲)しかいません。

この人は言わずと知れたジャクソン・ファミリーの10人きょうだいの末っ子で、1966年に米インディアナ州に生まれした。ジャクソンファミリー全体のマネジャーでもある父ジョセフの指導の下、7歳で芸能界にデビューし、偉大なきょうだい達と各種ステージをこなす日々となりました。

16歳だった82年にはソロデビューアルバム「Janet Jackson」(上写真)、84年には2枚目の「Dream Street」(写真)をリリース。ところが、この2枚とも、その毛並の良さもあってチャートインまではしたものの(シングルで10位前後)、大ヒットというわけにはいきませんでした(例:「Say You Do」=83年、米ディスコ11位)。

デビュー盤は、ジャクソンズと同じようなきょうだいグループだったシルバーズの中心人物で、70年代後半の「ディスコ仕掛け人」の一人でもあったレオン・シルバーズらがプロデュース。2枚目は、ドナ・サマーをスターに育てたかの“エレクトロディスコの大魔神”ジョルジオ・モロダーとピート・ベロッテが万全の態勢でプロデュースを担当したのですが、デビュー盤よりも売り上げが落ちる始末だったのです。

2枚のアルバム自体、大物プロデューサーを起用した上に、偉大な兄達やジャクソンズ人脈の手練れスタジオミュージシャンの助けを借りた割には、「可もなく不可もなし」のアイドルR&B歌手としての作品内容でした。ステーシー・ラティソウやステファニー・ミルズイブリン・キングのような20歳前後の売れっ子黒人女性歌手が数多く輩出していましたから、その中に埋もれてしまった感もあります。

このころは、公私ともに壁にぶち当たった時期でした。「Dream Street」発表の後、父親のマネジメントから離れて独立。姉ラトーヤ、兄マイケルの自伝「La Toya」と「Moon Walk」などにも書かれていますが、とにかく父親が音楽活動に対して厳格で、しょっちゅう暴力も振るう人物だったために、嫌気が差して逃げ出してしまったのが真相でした。84年には突然、幼なじみで、「I Like It」「Rythm Of The Night」などのソウル&ディスコヒットで知られるデバージ(これまたきょうだいグループ)のジェームズ・デバージと電撃結婚し、すぐに離婚するという「お騒がせ事件」も起こしています。

停滞期の真っただ中の85年には、姉ラトーヤと一緒にいきなり東京の「世界歌謡祭」(ヤマハ音楽振興会主催)に出場して見事(?)「銀賞」を獲得しました。まあ、とりわけ兄マイケルの破竹の勢いと比べると、とても地味な状態が続いていたわけです。

しかし、日本がバブル期に突入した1986年に大変身したのがジャネットさんのもの凄いところ。少女風の出立ちを果敢に捨て、「ちょいワル」な感じで大人びた雰囲気のアルバム「Control」(下写真)を発表したら、なんとまあ、空前絶後の大ヒットを記録してしまったわけです。

カットされたシングルの全米チャートだけでみても、「What Have You Done Fome Me Lately」(R&B1位、ディスコ2位)、「Nasty」(同1位、同2位)、「When I Think Of You」(同3位、同1位)、「Control」(同1位、同1位)、「The Pleasure Principle」(同1位、同1位)といった具合に、兄マイケルをも凌駕する大爆発ぶりを見せつけたのでした。

プロデューサーは、SOSバンドなどを手掛けたことで知られるジャム&ルイス(Jimmy Jam & Terry Lewis)。さらにプロモーションビデオでは、ブレイク前のポーラ・アブドゥルを「ダンス振付師」として起用しています。その後のニュージャック・スイング・ブームを予感させるようなシンセサイザー重視の鋭角的なビートと挑戦的な歌詞は、まさに斬新。MTVなどですっかり定番になった彼女のダンスは、正確無比そのもの。「ついさっきまでの甘えん坊末っ娘歌手」の変貌ぶりには、まったく度肝を抜かれたものです。

私自身、当時のあほあほバブルなディスコの現場では、ホイットニー、マイケル・フォーチュナティープリンス、ジョディ―・ワトリーあたりと並んで、いや一番耳にしたであろうアーチストでした。とりわけ、最近あの世にも恐ろしい「クラブ・フラワー撲殺事件」が勃発した六本木ロアビルにあった「リージェンシー」というディスコで、ジャネットのNastyやらControlやらが盛んに流れていました。それでも、格差社会や貧困問題、ドラッグの蔓延などとはまだほぼ無縁で浮かれ気分だったあの時代、フロアはどこまでも平和で能天気だったわけですけど。

豹変ジャネットさんは、「Control」の後も大勢力を持続し、「Rhythm Nation 1814」(89年)、「Janet…」(90年)と発表アルバムはことごとく大ヒット。押しも押されぬ大スターの座を不動のものとしました。90年以降、そして21世紀のクラブ時代にもしっかりと根を下ろし続けるパワーはさすがですけど、原点はやはり「Control」にあったといえるでしょう。

CDはとにかく大量に出ておりますので心配御無用でございます。「Control」については、ディスコ的には12インチバージョンで構成された「More Control」か「Control Remixes」あたりは必須と思われます。

Janet86
CDのライナーノーツ書きました


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