ディスコ堂 by mrkick

音楽に貴賎なし ―Discoの考察とCD批評

ステイシー・ラティソウ (Stacy Lattisaw)

stacy latisaw祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり、沙羅双樹の花の色……というわけで、今回は、夢幻(ゆめまぼろし)のディスコ界を疾風のごとく駆け抜けた、一人の天才少女歌手を取り上げます。

前回登場のジャネット・ジャクソンと同じ1966年に、米ワシントンDC生まれたステイシー・ラティソウさんは、1979年、ジャネットさんより4歳も早い12歳でデビューアルバム「Young And In Love」を発表します。

このアルバムは「ハッスル」などのヒットで知られるディスコの仕掛け人、ヴァン・マッコイが全面プロデュース。特にシングルカットされた「When You're Young And In Love」とか、変則的なリズム進行を特徴とするシャッフルビートの「Rock With Me」などは、なかなかの佳作。12歳なのであどけなさが多少はあるにしても、単なるアイドル歌手ではなく、中高音域を伸びやかに歌い上げるソウルな歌声は高く評価されました。

彼女が本格的にブレイクしたのは、翌80年に発表した2枚目アルバム「Let Me Be Your Angel」(上写真)。プロデュースは、これまたディスコ期に頭角をあらわした売れっ子アーチストのナーラダ・マイケル・ウォルデンです。ディスコブームが米国では衰退期に入っていたにもかかわらず、シングルカットされた「Dynamite/Jump To The Beat」は全米ディスコチャートで1位、R&Bチャートでも8位を獲得しました。ダンス系だけではなくしっぽりバラードも得意で、アルバム同名曲の「Let Me Be Your Angel」も同じくR&Bチャートで8位まで上昇しています。

このころになると、知名度も飛躍的にアップ。テレビなどの出演回数も格段に増えました。81年には、憧れていたジャクソンズのツアーにも前座として参加。ステイシーさんは、米国人音楽ジャーナリスト、ジャスティン・カンター(Justin Kantor)氏による最近のインタビューに答えて、「ほかにも候補はたくさんいただろうに、彼らはこの私を選んでくれたのよ。歌手としての地位を上げてくれるまたとない機会になった。ステージの後、楽屋でマイケルたちと直接話せて感激したわ」と話しています。

その後もアルバムを年1回のペースで順調にリリースし、ヒット曲も連発。けれども、自ら、生来内気な性格だったというティーンエイジャーのころの彼女にとっては、いきなり人気者になったことには戸惑いもありました。通学と全米をまたにかけた音楽活動の両立は困難を極め、妬んだ同級生や先生(!)からの苛めにも遭っていたのでした。

レコード会社の方針にも、かなり不満があったようです。このインタビューでは、担当してもらったプロデューサーについて、「自分の好きなように歌わせてくれたヴァン・マッコイとナーラダ・マイケル・ウォルデンはお気に入りだった」と振り返っていますが、他の制作者とはしっくりいっていなかった様子です。「あるプロデューサーは、『このパートはジャネット・ジャクソンのように歌ってよ』なんて言ってきた。『はあ?何言ってんの?私は私。ジャネットじゃないわ!』と憤慨して言い返したのを覚えている」と話しています。

特に、「1985年にマイケル・マッサー(Michael Masser)がプロデュースして発売した『I'm Not The Same Girl』は完全な失敗作だった」ときっぱり! 「彼はホイットニー・ヒューストンやダイアナ・ロスと仕事をしてきた人だけどもう最悪。私を酷い目に遭わせたの。思うに、あのアルバムには、ホイットニーが歌うのを断った曲がいくつかあったのよ。ホント最悪な曲ばっかだった」とかなり辛辣です。生来内気ではあるけれども、芯はなかなかしっかりしていると思われます。

確かに、この「I'm Not…」は、やっと大人になってきたステイシーさんにとっては、少々子供っぽくて軽い収録曲が多かった(例:「Can't Stop Thinking Thinking About You」「I'm Not The Same Girl」)。ちょうど以前に紹介したティファニーやデビー・ギブソンといった少女歌手が台頭してきた時期でもあったので、レコード会社側としては同じような路線で成功させたかったのだと思いますが、彼女自身は「こんな曲はもう卒業したい。ぜんぜん成長できない!」と憤懣やるかたなかったのでした。とりわけ「I'm Not The Same Girl(私はもう同じ女の子じゃない)」というタイトルは、皮肉にも聞こえます。

その後、アトランタレーベル系のコティリオンから「黒人音楽の王道」モータウンへとレコード会社を移籍しました。86年に通算8枚目となるアルバム「Take Me All The Way」をリリース。「Nail To The Wall」(ディスコ2位、R&B4位)と「Jump Into My Life」(同3位、同13位)のダンスナンバー2曲がシングル曲としてヒットしました。

この2曲ともよく“バブリーディスコ”では耳にしました。アルバム自体が小粋なファンク系あり、力強いゴスペル風のバラードありとバラエティーに富み、かつ歌声にも円熟味が増していて、相当に出来栄えが良いと思っております。ただし、全体的に売れ線狙いが見え隠れして、同時期に特大ブレイクした「Control」の「ジャネットくささ」は否めませんが。

さて、モータウンで心機一転、アルバムを再びヒットさせたステイシーさん。89年に発表した記念すべき10枚目のアルバム「What You Need」からは、幼なじみのジョニー・ギルとのデュエットによるねっとりしたスロージャム「Where Do We Go From Here」が大ヒットし、全米R&Bチャートで初の1位を獲得したのでした。

ところが、間もなく再びレコード会社側との関係が悪化します。アーチストを型にはめようとする音楽業界にもともと疑問を抱いていた彼女は、契約を更新することなく、そのまま引退してしまったのでした。「チャート1位」を獲得してすぐに引退するケースなど滅多にありません。「驕れる平家は久しからず」のような例ではないにしても、あれよと言う間に20代半ばで儚く消えていった「天才少女歌手」の引退劇に、栄枯盛衰の一つのパターンを見ることは可能でしょう。

その後は結婚して夫や子供たちとの家庭生活に専念するとともに、キリスト教に深く傾倒する日々となったステイシーさん。昨年には自伝を発表したのですが、そのタイトルは、何だかこだわった感じの「I'm Not The Same Girl----Renewed(もう同じ女の子じゃない----生まれ変わった私)」でした。

この人のアルバムは一応10枚ともCDで再発されていますが、一部は入手困難になっています。ベストであれば、16曲入りの米Rhino盤(下写真)がよいでしょう。1位になった「Where Do We Go From Here」がなぜか入っていませんが、それ以外のヒット曲はほぼ網羅されています。

Stacy Lattisaw Best

ジャネット・ジャクソン (Janet Jackson)

Janet84さ〜て、今回は何食わぬ顔でジャネット・ジャクソンさんで〜す! これまたバブル期の1980年代後半、ホイットニー・ヒューストンと並んで黒人歌姫の名をほしいままにしたトップスターでした。

兄マイケルの死から早くも3年以上が過ぎ、この人も懐かしい存在になりつつありますが、まあディスコ界でもよく活躍したものでした。米ビルボード誌のディスコチャートでは、バカ売れし始めた1986年から2001年までの15年間に15曲も1位になっています。これを上回るのは女王マドンナ(同時期に23曲)しかいません。

この人は言わずと知れたジャクソン・ファミリーの10人きょうだいの末っ子で、1966年に米インディアナ州に生まれした。ジャクソンファミリー全体のマネジャーでもある父ジョセフの指導の下、7歳で芸能界にデビューし、偉大なきょうだい達と各種ステージをこなす日々となりました。

16歳だった82年にはソロデビューアルバム「Janet Jackson」(上写真)、84年には2枚目の「Dream Street」(写真)をリリース。ところが、この2枚とも、その毛並の良さもあってチャートインまではしたものの(シングルで10位前後)、大ヒットというわけにはいきませんでした(例:「Say You Do」=83年、米ディスコ11位)。

デビュー盤は、ジャクソンズと同じようなきょうだいグループだったシルバーズの中心人物で、70年代後半の「ディスコ仕掛け人」の一人でもあったレオン・シルバーズらがプロデュース。2枚目は、ドナ・サマーをスターに育てたかの“エレクトロディスコの大魔神”ジョルジオ・モロダーとピート・ベロッテが万全の態勢でプロデュースを担当したのですが、デビュー盤よりも売り上げが落ちる始末だったのです。

2枚のアルバム自体、大物プロデューサーを起用した上に、偉大な兄達やジャクソンズ人脈の手練れスタジオミュージシャンの助けを借りた割には、「可もなく不可もなし」のアイドルR&B歌手としての作品内容でした。ステーシー・ラティソウやステファニー・ミルズイブリン・キングのような20歳前後の売れっ子黒人女性歌手が数多く輩出していましたから、その中に埋もれてしまった感もあります。

このころは、公私ともに壁にぶち当たった時期でした。「Dream Street」発表の後、父親のマネジメントから離れて独立。姉ラトーヤ、兄マイケルの自伝「La Toya」と「Moon Walk」などにも書かれていますが、とにかく父親が音楽活動に対して厳格で、しょっちゅう暴力も振るう人物だったために、嫌気が差して逃げ出してしまったのが真相でした。84年には突然、幼なじみで、「I Like It」「Rythm Of The Night」などのソウル&ディスコヒットで知られるデバージ(これまたきょうだいグループ)のジェームズ・デバージと電撃結婚し、すぐに離婚するという「お騒がせ事件」も起こしています。

停滞期の真っただ中の85年には、姉ラトーヤと一緒にいきなり東京の「世界歌謡祭」(ヤマハ音楽振興会主催)に出場して見事(?)「銀賞」を獲得しました。まあ、とりわけ兄マイケルの破竹の勢いと比べると、とても地味な状態が続いていたわけです。

しかし、日本がバブル期に突入した1986年に大変身したのがジャネットさんのもの凄いところ。少女風の出立ちを果敢に捨て、「ちょいワル」な感じで大人びた雰囲気のアルバム「Control」(下写真)を発表したら、なんとまあ、空前絶後の大ヒットを記録してしまったわけです。

カットされたシングルの全米チャートだけでみても、「What Have You Done Fome Me Lately」(R&B1位、ディスコ2位)、「Nasty」(同1位、同2位)、「When I Think Of You」(同3位、同1位)、「Control」(同1位、同1位)、「The Pleasure Principle」(同1位、同1位)といった具合に、兄マイケルをも凌駕する大爆発ぶりを見せつけたのでした。

プロデューサーは、SOSバンドなどを手掛けたことで知られるジャム&ルイス(Jimmy Jam & Terry Lewis)。さらにプロモーションビデオでは、ブレイク前のポーラ・アブドゥルを「ダンス振付師」として起用しています。その後のニュージャック・スイング・ブームを予感させるようなシンセサイザー重視の鋭角的なビートと挑戦的な歌詞は、まさに斬新。MTVなどですっかり定番になった彼女のダンスは、正確無比そのもの。「ついさっきまでの甘えん坊末っ娘歌手」の変貌ぶりには、まったく度肝を抜かれたものです。

私自身、当時のあほあほバブルなディスコの現場では、ホイットニー、マイケル・フォーチュナティープリンス、ジョディ―・ワトリーあたりと並んで、いや一番耳にしたであろうアーチストでした。とりわけ、最近あの世にも恐ろしい「クラブ・フラワー撲殺事件」が勃発した六本木ロアビルにあった「リージェンシー」というディスコで、ジャネットのNastyやらControlやらが盛んに流れていました。それでも、格差社会や貧困問題、ドラッグの蔓延などとはまだほぼ無縁で浮かれ気分だったあの時代、フロアはどこまでも平和で能天気だったわけですけど。

豹変ジャネットさんは、「Control」の後も大勢力を持続し、「Rhythm Nation 1814」(89年)、「Janet…」(90年)と発表アルバムはことごとく大ヒット。押しも押されぬ大スターの座を不動のものとしました。90年以降、そして21世紀のクラブ時代にもしっかりと根を下ろし続けるパワーはさすがですけど、原点はやはり「Control」にあったといえるでしょう。

CDはとにかく大量に出ておりますので心配御無用でございます。「Control」については、ディスコ的には12インチバージョンで構成された「More Control」か「Control Remixes」あたりは必須と思われます。

Janet86

デキシーズ・ミッドナイト・ランナーズ (Dexys Midnight Runners)

Dexies Midnight Runners時間があるので、さっさと次行きま〜す。ジグソーばりの一発屋といえば、この人たちも私にとっては印象深い。80年代にいきなり大ヒットを飛ばした途端、さっそうと表舞台から走り去ってしまった「デキシーズ・ミッドナイト・ランナーズ」であります。

82年に出したアルバム「Too-Rye-Aty(邦題:女の涙はワザもんだ!!)」からのシングルカット「カモン・アイリーン」があれよと言う間に全米1位(ビルボード一般チャート)を獲得したのですが、それっきりになってしまいました。

この曲は、しょんぼりしたアルバムジャケット(写真)とは対照的に、やけに陽気なアコースティックかつフォークダンスな曲調です。なんだか、日本人なら誰でも知っている米国民謡「オクラホマ・ミキサー」(原曲はTurky In The Straw)みたい。そんな牧歌的フォーク&カントリーにソウル、ロックの要素を組み合わせた英国発ニューウェーブサウンドです。シンセサイザーが使われていないディスコ曲は既にほとんどなくなっていた時期だけに、異色のダンスヒットとなりました。

このグループは、アイルランド系英国人のケビン・ローランド(Kevin Rowland)が中心になって結成し、自らリードボーカルも務めています。「ミッドナイト・ランナーズ」とは、「(薬物などでハイになって)夜通し踊る人々」の意味。彼はもともとパンクロッカーだったのですが、自身のルーツでもあるアイルランド音楽、さらにはアイルランド人の先祖にあたるケルト人の民族音楽を基調としたユニークな音に目覚め、結果的に(1曲だけだが)名作を世に残したのです。バイオリンやバンジョー、アコーデオンといった生楽器を導入し、独自の世界観を創り上げたのでした。

先に述べた「フォークダンスぶり」は、彼がアイルランド系であることに起因します。18世紀以降、隣の大国・英国の圧迫や飢饉から逃れようと、貧しきアイルランド人が大量に米国に移住してゆきましたので、米国の民謡(フォークソング)や民族舞踊(フォークダンス)といったルーツ音楽には、ケルト音楽やアイリッシュダンスといったアイルランド風味がふんだんに盛り込まれています。「デキシーズ…」と「フォークダンス」の親和性、相似性には、そんな背景があると考えます。

私自身、「カモン・アイリーン」は当時のディスコでよく耳にしました。直前にかかっていたマイケル・ジャクソンデュラン・デュランなどのシンセでポップな流行曲との“繋がりの悪さ”を薄々感じながらも、フロアはけっこう老若男女で埋め尽くされたものです。ほかの曲では絶対にそんなことなかったのですが、後半に曲のテンポが加速度的に上がっていく部分があったりして、その違和感がかえって人々の意表を突き、「歓喜の舞」へと駆り立てたのでした。

このアルバムには、ほかにもカモン・アイリーンを多少速くした曲調の「ケルティック・ソウル・ブラザーズ」のような小気味よいダンス曲がありました。「カモン…」以降は人気が急落してしまったのは残念ですけど、かつて新天地を求めて米国に渡ったアイルランド移民のごとく、不況で失業者が急増していた80年代欧州の若者の憂さを晴らすかのような、元気な音楽を残してくれたわけです。

CDはほかのアルバムやベスト盤(?)を含めて各種出ておりますが、ディスコ的には「ワザもんだ!!」が1枚あれば十分だと存じます。

ジグソー (Jigsaw)

Jigsawこの人たちは、もう絶対にあの曲しか浮かびません。……いや、いくらなんでも、もう1曲ぐらいあったはずだぞ……やっぱり、残念ながらどうしても浮かびませーん。……ハイそうです、「スカイ・ハイ」。

というわけで、今回は「天下御免の一発野郎」ジグソーであります。まあ、いまさら「リング・マイベル」「ディスコ・ダック」なんかの例を出すまでもなく、ディスコってやつは一発屋を大量に生んだジャンルですので、別にどうってことはないのですが、それにしても切な過ぎる、この一発ぶりは。

この曲は1975年の発売。文字通り天にも昇るような明るさと、親しみやすいにもほどがあるポジティブ・メロディー&リズム進行を特徴としています。米ビルボード一般チャートで3位まで上昇するなど、世界的に記憶される名曲の一つとなりました。ただし、詞の内容は「どうして僕たちの愛は終わらなければならなかったのか! 君が空高く吹き飛ばしてしまったんだぞ!」といった感じで、失恋を明るく歌っているようですが。

とりわけ日本での人気は別格で、当時テレビで大人気だったプロレスラーのリング入場曲に使われたこともあります。近くのスーパーの特売セールや子供向けイベントの会場などで、誰もが一度は必ず耳にしたことがあるはずです。当然ディスコでも流行りましたが、ホントにかかっちゃったら恥ずかしくて踊れなくなることウケアイです。

さて、そんなジグソーとはどんな人々なのでしょうか。実は、60年代から80年代にかけてかなり長期間、活動した英国のグループで、デビュー当初は相当に過激なハードロックバンドでした。あまりにも売れなかったからなのか、70年代には節操なくビートルズみたいなソフトロック路線に変更。それでもあまり売れなかったけれども、ディスコっぽさを導入した75年にかろうじて「スカイハイ」をヒットさせたのでした。

それでも、よくよく聴いてみれば、他の曲もそんなに悪くはありません。リードボーカルのデス・ダイヤー(Des Dyer)を中心としたコーラスワークは美しくまとまっていてなかなか印象的ですし、演奏もアレンジもしっかりしている。随所にシンセサイザーのような新しい技術を導入するなど、工夫の跡もみられます。

例えば、ギルバート・オサリバンみたいなポップロックの「Who Do You Think You Are」とか、いかにも70年代なバラード「My Summer Song」とか、メロウソウルな雰囲気の「You Bring Out The Best In Me」(素敵なMC付きのYouTube動画でどうぞ)なんて、(ディスコではないにせよ)もっとヒットしていても不思議はないほどの佳作だと思います。でも如何せん、ハードロックからディスコ、R&Bまでがむしゃらに手出しした分、キャリアを通してのバラバラ感や個性の乏しさ、軽さはどうしても否めません。

やっぱり、すべてにおいて「天下御免のスカイハイ」の大成功が災いしたのではないでしょうか。この曲はあまりにもインパクトが強過ぎました。もう完全に「ジグソー=スカイハイ=天下御免」が成立しています。もちろん、「不発の無名」よりはずっといいわけですけどね。

ジグソーのCDは、一発屋とはいえベスト盤がいろいろ出ています(全曲スカイハイというわけではなく)。5、6年前には、日本盤で個別アルバムもいくつかCDで発売されていまして、写真はその1枚の「Pieces Of Magic (邦題:恋のマジック)」(ビクター)。「スカイハイ」の後の77年に発売されたものですが、mrkickとしては恐る恐る買ってみたわけです。知らない曲ばかりでなんだか怖かったのですけど、意外や意外、ポップあり、かなりアゲアゲなシンセサイザー・ディスコあり、ファンク風あり、バラードありと、けっこう楽しめました(やっぱりバラバラなわけだが)。

シェイラ&B.ディヴォーション (Sheila & B. Devotion)

 Devotion Spacerいやあすいませ〜ん。落下傘で降りてきちゃいました!……というわけで、今回はパラシュートに赤いコスチューム(でも目は笑っていない)、さらに周囲には謎の怪鳥プテラノドンが飛び交う意味不明なジャケットでお馴染みのシェイラさんであります。

シェイラさん(本名:Anny Chancel)は1945年フランス生まれ。実は以前に紹介したフランス・ギャル、シルビー・バルタンと同様、60年代にはフランス発の少女ポップス音楽である「イェイ・イェイ(ye-ye)」のトップスターとして鳴らしました。70年代後半には、男性ダンサーをくっつけて「シェイラ&B.ディヴォーション」というグループ名となり、ディスコスターとして活躍しています。

「イェイ・イェイ」の歌手たちは、英語で言う「ガール・ネクスト・ドア」(隣のお嬢さん)的な身近な存在であり、昔のアメリカで言えばオリビア・ニュートン・ジョン、日本で言ったら松田聖子なんかのアイドルに近い。女性アイドルには大きく「セクシー系」と「非セクシー系」があるといえますが、シェイラさんは後者の方で、「あらシェイラさん?こんにちは」とあいさつすれば、「こんにちわ〜!」と明るい笑顔で返ってきそうなところが魅力でした。確かに、隣に住む“セクシー系の権化”マリリン・モンローやマドンナやビヨンセに「あらあらこんにちは!」なんて声を掛けても、貫録たっぷりにシカトされそうです。

そんな親しみ安さ抜群のシェイラさんの人気も、70年代にイェイ・イェイ・ムーブメントが終わると陰りを見せました。そこですかさず目を付けたのが、大流行し始めていたディスコ。もともとアイドルとディスコの親和性は高いので、いくつかのヒットを飛ばすことができたわけです。

「ディボーション」としての最初のアルバム「Singin' In The Rain」(77年)からは、タイトル曲が欧米でヒット(米ビルボードディスコチャート30位)。2枚目の“意味不明ジャケット”の「King Of The World」(80年、写真)からは、「Spacer」という曲がヒット(同44位)しました。特に2枚目はナイル・ロジャーズとバーナード・エドワーズがプロデュースしており、「Spacer」を聴くと、イントロのピアノソロが非常に印象的である上、いかにも彼ららしい流麗なメロディーやギター&ベースリフが展開していて秀逸です。ただし、シェイラさんの歌声は今一つなので覚悟する必要がありますが。

2枚のアルバムの発売以降は、ディスコブームが終わったこともあり、人気がパラシュートのように急下降してしまったのは残念なところ。でも、数あるフレンチディスコの代表例として、疾風怒濤のディスコ界に一定の貢献を果たしたといえます。CDは、2枚のアルバムの再発、それにベスト盤が欧州ワーナーミュージックから出ています。

シンディ・ローパー (Cyndy Lauper)

Cyndi Lauper鳩が豆鉄砲を食ったようになった――。ある人は息を潜めてそう感想を漏らしたという。1983年10月、妖艶ダンス歌姫、マドンナの台頭によって息を吹き返した米国ディスコ界は、また新たな刺客を迎えようとしていた。ときあたかも、ニューヨーク発ソウル行き大韓航空のボーイング747ジャンボ機が、サハリン沖上空でソ連戦闘機のミサイル攻撃を受けて墜落、乗員29人と乗客240人全員が死亡した事件があったちょうどひと月後のことである。

米ソ冷戦がなお世界を暗く覆う中、発売されたアルバムは「She's So Unusual」(和訳:彼女はまったくもって変人です。写真)。1953年、ニューヨークに生まれたシンディ・ローパーのデビュー作である。齢三十を超えたばかりの遅咲きポップ歌手だが、ド派手な衣装とメイク、それにちょいと違和感が残るブルージーで高音基調の歌声から繰り出すダンスチューンは、世の若人たちの鬱憤を吹き飛ばすかのごとく、ディスコフロアを席巻したのだから侮れない。

この10曲入りアルバムからは、なんと5曲までもが全米でチャートインした。最初のシングルカット「Girls Just Want To Have Fun」(邦題:ハイスクールはダンステリア、米一般チャート2位、米ディスコチャート1位)は、もう天にも舞い上がるがごとく弾けまくり、踊る者の心を捉えて離さない。私自身、ディスコで初めて聞いた瞬間に、「こんなイカれた曲がまだこの世に存在したのか!」と感動にむせび、不覚にも踊りながら流れる涙が止まらなかった。

その徹底したイカれぶりは当時、圧倒的な勢いでお茶の間に浸透していった音楽番組MTVのPV(プロモーションビデオ)でも確認することができる。まず冒頭、イントロに合わせてシンディが、画面右から「ツツツー」と瞬間移動よろしく滑ってくる場面が印象的だ。そして、主人公の少女役であるシンディの「Have Fun」ぶりは、ラストに向けて加速度的に高まっていく。このビデオには、冒頭から後半まで本物の母親(カトリーヌ・ローパー)が「母親役」で出演していて、我が子の常軌を逸した行動にリアルにあきれる様子も見て取れる。

ほかにも、このアルバムからは「She Bop」(米一般3位、ディスコ10位)というダンスヒットが生まれた。これまた人を食った奇天烈路線を地で行く弾けぶり。とりわけ80年代を代表するディスコリミキサーだったアーサー・ベーカーによる「スペシャル・ダンス・ミックス」は、ディレイやサンプリングなどのエフェクトを駆使しており、踊る者の脳天を揺さぶるような衝撃を与えたものだった。

ただ、彼女は“ディスコ道”にのみ邁進したわけではなかった。実は、意外にもしっぽりバラードなどスロー系が得意なのだ。デビュー作収録の「Time After Time」(米一般1位)と「All Through The Night」(同5位)、それに2作目アルバム「True Colors」の同名曲シングル(86年、同1位)といった珠玉の名曲を数多く送り出しているのである。映画「グーニーズ」の主題歌として知られる「Goony Is Good Enough」(85年、同10位)とか、ブルースロックの雰囲気漂う「Money Changes Everything」(84年、同27位)や「I Drove All Night」(89年、同6位)など、毛色の違う作品もある。

こうした「清濁併せ呑む」姿勢こそが、彼女の真骨頂といってよいだろう。聴いているこちらは、はっちゃけディスコの後にいきなり美メロのバラードが耳に飛び込んでくると、ぽかん顔で目は点になる。けれども、得も言われぬ清涼感が次第に体を包みこむのである。

彼女は幼少時に絵と音楽に目覚め、10代前半にはギターを手に自作の曲を作るなどの活動を始めた。両親が早くに離婚するなど家庭環境は複雑だったが、特に絵は高く評価され、著名な美術系学校に進学したほどだった。ところが、とにかく子供のころから過激な衣装と奇抜なメイクが好きで、周囲からは白眼視されていた。学校は中退してしまい、しばらく愛犬と家出をして、カナダ方面を放浪していた時期もある。強過ぎる個性を持て余し、「アメリカ版尾崎豊」の風情をも帯びながら、自由な表現を求める日々が続いた。

20歳を過ぎたころには、ニューヨークに戻って音楽に没頭。あらゆるアルバイトをして糊口をしのぎながら、地元ロックグループのボーカルなどとして活動した。20代後半になって、個性的な歌声と風貌がようやくメジャーレーベルの目に留まり、鮮烈デビューへと至ったわけだ。晴れてスター歌手の仲間入りを果たし、その絶頂期に参加した85年のあの「We Are The World」でも、サビ直前のブリッジ部分のおいしいパートを担当して好印象を残している。

一時はライバルとも目されたマドンナの音楽には、プロデューサーら制作者側によって「作られた感」が残る。一方、シンディには自作の曲も多く、“一本独鈷”で自ら切り開いてきたいぶし銀の世界観が感じられる。多彩にして繊細。まさに苦労人だからこそ醸すことができる奥行きと味わいを感じさせるのだ。90年代には御多分に漏れず失速してしまったが、80年代を代表する天才異色歌手としての座は、いまも揺らぐ気配がない。

オーケストラル・マヌーヴァーズ・イン・ザ・ダーク (O.M.D.)

OMD近年、80年代モノが世界的に再発されています。私としてはシンセサイザー、特に80年代前半に流行した素朴なアナログシンセがふんだんに使われた英国ニューウェーブサウンドがどうしても忘れがたい。

中でも、今回取り上げるOMDは、もう自分でもうんざりするほど聴きました。これまでに紹介したヒューマン・リーグニューオーダーデペッシュ・モードなどにも共通する憂鬱な薄暗い音が持ち味。とはいえ、そんな知的で都会的な感覚とは一味違う、独特の繊細さと温かさを感じます。カッコいいようでいて、どこか無防備な親しみやすさがある。つまり、よりディスコフロアに近い音なのでした。

英リバプールで70年代後半に結成。特に、昔日本のニュース番組「CNNデイウォッチ」のオープニングテーマにも使われた「エノラゲイ」(81年)は、彼らの代表曲の一つです。明るくて楽しい曲調ですが、なんと広島に原爆を落とした米軍機「エノラゲイ」のことを歌っていたりするある種の反戦歌。エノラゲイを子供になぞらえて(実際、米軍は広島の原子爆弾を「リトルボーイ」と呼んでいた)、「エノラゲイよ、君は昨日、(出撃などせず)家にいるべきだった…」というフレーズで始まり、「今、君の母親は君を誇りに思っているだろうか」などと展開するかなり直球な歌詞。

…なんだか頭(こうべ)を垂れてしまうわけですが、ディスコで踊っているときはそんなのお構いなしに“ザ・フィーバー”でありました。

ほかにも、シンセサイザーが「ピコピコピー♪」と鳴り響く間奏に哀感が漂う「テレグラフ」(83年)、牧歌的な曲調で遊園地のメリーゴーランドに乗ってるみたいな錯覚に陥る「シークレット」(85年)、全米ビルボードチャート4位まで上昇した切ない系ミデアムテンポ「イフ・ユー・リーブ」(86年)、いきなり正統派ポップスな感じになっちゃった「ドリーミング」(88年、ビルボード一般16位、全米ディスコ6位)などなど、いずれも「いやあこりゃ80年代に違いないわ」というディスコテイストな曲が目白押しです。

まあデジタル化が進んだ90年代になると、彼らの音もシャカシャカし過ぎてきちゃって興味を失ってしまったわけですが、80年代までの彼らの音楽には、今も無性に聴きたくなる「シンプル・イズ・ベスト」な分かりやすさがあります。「頭ではなく体で聴く」のがディスコの基本ですので、小難しい理屈など最初からいらないのかもしれませんがね。

CDはベスト盤、アルバム再発とものけっこう出ていますので心配御無用。写真の独盤「So80s OMD」はヒット曲の12インチ集で、「テレグラフ」とか「シークレット」とか「イフ・ユー・リーブ」などのロングバージョンが入っていて面白い内容となっております。

ロバータ・ケリー (Roberta Kelly)

Roberta Kellyドナサマー追悼で3年ぶりに踊りに行ったら腰をやられて1日寝込みました……というわけで、老体にムチ打って今回ご紹介するのは、ドナさまにはかないませんけど、しかしドナさまとも濃密に絡み合いながら、ディスコ史にしっかりその名を刻んだロバータ・ケリーさんで〜す!(カラ元気)

え〜と、このジャケット(左写真)からまずはスタートです。どうです? もうすっかりアフロな笑顔が弾けてるでしょう? それもそのはず、ロバータさんは、ディスコ黎明期の70年代前半には既にディスコ界にちょろりと顔を出し、かの「ミュンヘン・ディスコ」の先鞭をつけた偉人なのでありました。

1942年、米ロサンゼルス生まれ。幼少時にゴスペル音楽で喉を鍛え上げ、地元でソウルグループのリードボーカルを務めるなどの活動を始めました。米モータウンレコードの関係者から評価され、デビュー寸前までいったこともあります。それでも、やはり芽が出なかったので、70年代初頭、30歳ごろになって一念発起、ドイツに旅立ちます。

そのころのドイツ(旧西ドイツ)は、72年のミュンヘン五輪に向けてエンターテインメント界も各種イベントを計画するなどして、明るく盛り上がろうとしていました。「ナチスの悪夢」から逃れ、新しいドイツを築こうと懸命だったのです。つまり、ドナ・サマーと同様にロバータさんも、“オリンピック祭り”に加わってチャンスをうかがおうと考えたのです。

現地でロバータさんは、「フライ・ロビン・フライ」を後に大ヒットさせるシルバー・コンベンションの歌手ペニー・マクリーン、さらに68年にミュージカル出演のために訪独して下積み時代を送っていたドナ・サマーとも知り合うことになります。ドナとは、同じアフリカ系米国人の修行中の歌手として、すぐに意気投合しました。ここで、大物プロデューサーであるジョルジオ・モロダーとその相棒ピート・ベロッテとの繋がりも生まれたのでした。

ロバータさんはまず、74年にジョルジオらのプロデュースで「Kung Fu's Back Again」というトホホなカンフーものディスコでデビューしたもののあまり売れず、75年の「フライ・ロビン・フライ」のボーカルの一人として参加します。これは大ヒットしたものの、レコードのクレジットには彼女の名前が記されないという残念な結果に終わりました(特に黒人女性歌手にはよくあることだったのだが)。

転機が訪れたのは30代も半ばになった76年のことでした。同様にジョルジオ&ピートが手掛けた「Trouble Maker」がようやく欧米で大ヒット(米ディスコチャート1位)。続く「Zodiacs(邦題:恋の星占い)」も世界中のディスコで人気となりました。

このころには、「ジョルジオ繋がり」でドナ・サマーとともに米カサブランカ・レコードに移り、いよいよメジャー化するかと思われました。親友のドナが猛烈な勢いでスターダムにのし上がる中、78年に満を持して、ゴスペル曲で構成された珍しいディスコアルバム「Gettin' The Spirit」を発表したものの……不発に終わりましたとさ。残念!

その後、二度と表舞台には出てこなくなってしまったロバータさん。とはいえ、前述の「Kung Fu's…」は、おとぼけサウンドとはいえ、ジョルジオによるプレミア付き初期ディスコではあります。五輪後の本格的なドイツの経済成長と軌を一にして登場した、バカラ、ジンギスカン、ボニーM、アラベスクといった底抜けに明るいミュンヘン・ディスコの礎をジョルジオ、ピート、ドナらとともに築いたのは確かなのです。

CDについては2-3年前、再発レーベル「Gold Legion」から2枚発売されました。代表曲「Touble Maker」や、雰囲気のいいミデアムテンポのリメイクダンス曲「Love Power」が入ったアルバム「Trouble Maker」、それと「Zodiac」やノリの良い「Love Sign」が入った“アフロな占い歌謡アルバム”「Zodiac Lady」(上写真)であります。

2枚のうち、「Trouble Maker」には詳細なライナーノーツ(英文)がついており、在りし日のドナ・サマーやジョルジオ・モロダーのコメントも載っていてとても貴重です。ドナさまは70年代初頭のミュンヘン暮らしを振り返り、ロバータについて「彼女とその母親は、私の娘ミミの子守りをよくしてくれたわ。あれ以来、私たちはずっと友達なのよ」などと語っています。

一方、ジョルジオさんは「ロバータもドナも、あるアメリカのアーチストのデモ音源を制作するために起用した。2人とも素晴らしい声の持ち主だったから、別々に歌手として売り出したかったんだ」と語っています。

70年代半ばの同時期、ドナさんには音楽史に残るほどに実験的な「Love To Love You Baby」や元祖テクノディスコ「I Feel Love」を手掛けて大成功を収めたのに対し、ロバータさんには「二番煎じっぽいカンフーもの」とか脱力の「占いもの」だったとは…。そこが運命の分かれ道でした。厳しいぜよ、ジョルジオ(いきなり土佐弁)…と、ここはしんみり訴えておきましょう。

追悼・ドナ・サマー (Obit: Donna Summer)

Donna Summer She Works Hardどなたさま〜?のドナ・サマー」と投稿したのはもう7年前のこと。以来、映画サンク・ゴッド・イッツ・フライデーとかジョルジオ・モロダーとかポール・ジャバラとか、ディスコシーンのさまざまな重要場面や立役者をここで語る際にもことごとく登場していたわけで、押しも押されぬ「ザ・ディスコ・クイーン」です。私ももちろん、アルバムを全部持っています。そんなドナさんが米現地時間17日にがんで亡くなりました。享年63。18日付ニューヨーク・タイムズも1面で大きく報じました。

1948年にボストンで生まれたドナ・サマー(本名・ LaDonna Andrea Gaines)は、敬虔なクリスチャンの家庭で育ち、まずは少女時代にゴスペル音楽に傾倒します。とはいえ、一般的なR&B歌手とは違い、10代のころはロックバンドでボーカルを務めるなど、ジャンルにとらわれない音楽活動を行っていました。

転機となったのは、60年代後半にニューヨークの人気ミュージカル「Hair」のオーディションに合格し、海外ツアーに出演するために一時ドイツへの移住を決めたときでした。しばらくはソロ歌手として芽が出なかったものの、そこでミュンヘンディスコやイタロディスコを創り上げたジョルジオ・モロダー、さらにピート・ベロッテという2人の敏腕プロデユーサーに出会い、74年にはようやくデビューアルバム「Lady Of The Night」の発表にこぎつけました。

その後、ジョルジオらが手掛けた「ラブ・トゥー・ラブ・ユー・ベイビー」(75年、米一般チャート2位、R&B3位、ディスコチャート1位)が大ヒットを記録。破竹の勢いだったディスコレーベル「カサブランカ」との契約も果たし、あとはよく知られた「ディスコディーバ伝説」の時代に突入していくわけです。

この曲の長さはなんと17分もありました。ラジオのDJに番組内でかけてもらうため1曲3〜4分が普通だったのですが、まさに「ディスコのDJにじっくりかけてもらうため」長くしたのです。また、ほぼ全編が、まだ出始めたばかりのシンセサイザーを駆使した「エレクトロディスコ」でした。おまけに、曲自体が“女性の喘ぎ声”が頻繁に聞こえてくるなど相当にエロくて、英BBCで放送禁止になったほど。先駆的かつセンセーショナルな試みだったので、一気に注目されたのですね。

これをきっかけに、レーベルの後押しを得て勢いをどんどん増していきます。完全無欠の世界初の本格的シンセサイザーディスコ「アイ・フィール・ラブ」、「ラスト・ダンス」、「オン・ザ・レイディオ」、元ドゥ−ビー・ブラザーズのジェフ・バクスターによるギターリフが素晴らしい「ホット・スタッフ」、「トゥー、トゥー、ヘイ、ビ、ビー!♪」の掛け声も楽しい「バッド・ガールズ」、さらにはバーブラ・ストライザンドとのド迫力異色デュエット「ノー・モア・ティアーズ」などなど、大ヒットを飛ばし続けたのでした。

80年代に入ると、ディスコブームの終焉やゲイについての失言騒動があって人気は下降線をたどるわけですが、83年の“女性労働賛歌”「シー・ワークス・ハード・フォー・ザ・マネー(邦題:情熱物語)」(写真上)がビルボード一般チャート3位まで上昇する久々の大ヒット。日本のバブル絶頂期の89年には、「ええ? ドナサマーがユーロビート界進出?!」と私も度肝を抜かれたわけですが、あのストック・エイトケン・ウォーターマンがプロデュースした「ディス・タイム・アイ・ノウ・イッツ・フォー・リアル」(米一般7位)がヒットしました。完全に消えたわけではなかったのですね。

なかなかに個性的で魅力があるものの最高ランクの声質ではなく、バラードのヒットもない。グラミー賞を5つも取るほどのトップ歌手だったにもかかわらず、正統派のソウル歌手との評価はありません。やはり「色物ディスコ」の歌手だということが、どこかでネックになったわけでしょうが、CMやバラエティ番組や駅前の喫茶店で誰もが耳にしたことがある曲がいくつもあるというのは、とても偉大なことです。もちろん、ディスコ堂としては「だからこそディ〜バ!」と声高らかに賞賛いたします。

ダンス音楽界では、現在のテクノだとかハウスだとかレディー・ガガだとかの元祖にあたる人。電子ダンスミュージックの確立、(失言騒動があったにせよ)ディスコフロアにおけるゲイの解放、「ホット・スタッフ」で見せつけたロックとダンスミュージックの融合などなど、数々のエポックな功績を残して逝ったドナサマー。ディスコ宇宙のミラーボールのごとき大きな星がまた一つ、消えてしまったのです。心より哀悼の意を表します。

CDですが、これがアルバム単位だと意外と少ない。でも、ベストアルバムは国内外から豊富に出ているので、ひとまず網羅的に味わうことから始めたいところです。個人的には、なんとブルース・スプリングスティーンが作曲したロックディスコ「Protection」(曲調がどことなく葛木ユキ「ボヘミアン」に似ている)が入っている82年のアルバム「Donna Summer」とか、ミデアムテンポの切ない美メロ曲「Oh Billy Please」や雰囲気のいいバラードが収録された84年のアルバム「Cats Without Claws」(写真下)あたりの再発を期待したいところです。どちらも当時のディスコではよく耳にしたものです。

Donna Summer--Cats Without Claws

タタ・ベガ (Tata Vega)

Tata Vegaタタ・ベガさんはゴスペルシンガーとして鳴らした実力派。スティービー・ワンダー、チャカ・カーン、パティ・ラベル、マイケル・ジャクソン、そしてマドンナと、さまざまなビッグアーチストのバックボーカルとしても活躍した人でした。

1951年、米ニューヨーク生まれ。10代前半にミュージカルに出演してプロ活動を始め、歌唱力の高い歌手として頭角を現しました。モータウンとの契約を果たし、本人名義のアルバムも、「Full Speed Ahead」(76年)、「Totally Tata」(77年、写真)など、ディスコ全盛期の70年代後半を中心に何枚か出しています。

中でも出色なのは、ディスコブームが最高潮に達した79年に発売したアルバム「Try My Love」。全編にわたって底抜けに明るいダンスナンバーがちりばめられています。特に「I Just Keep Thinking About You」なんて、「これがゴスペル歌手のやることか!?」というくらいに歌謡曲チック。しかし、だからこそ、私にとっては一番のお気に入りのアホアホ系ディスコとなっております。

このアルバムからは、「Come And Try My Love」、「Gonna Do My Best To Love You」といったゴキゲンナンバーもあって、ディスコ好きにはたまらない感じです。しかし、「Get It Up For Love」を聴いてみると……アレ? なんだか自らバックボーカルでバックアップしているはずのチャカ・カーンみたい。まあ、メロディーラインが洗練されていてよい曲なのですが、残念ながら個性の乏しさがなんとなく滲み出てしまうのです。

私としては、あの風貌ならば(失礼)、もう少しウェザー・ガールズとか、バックボーカルを務めたパティ・ラベルみたいに「ザ・ディスコディーバ」としてどしどし弾けて欲しかったのですが、そうは問屋が卸しませんでした。正統派よろしく、98年には「Now I See」なる真面目なゴスペルアルバムまで発売してしまいましたからね。まあ致し方ありません。

はっきりいってマイナー歌手で終わってしまった「歌の上手い歌手」タタさん。この辺の「売れる、売れない」は誰にもわからない紙一重の差なのでなんとも説明しようがありませんが、ディスコ界ではそこそこの実績をアピールできたのだと考えております。私のFacebookの「友達リクエスト」(笑)にも、快くメッセージ付きで承諾してくれましたしね。これからも陰ながら応援しようと思っております。

CDは写真の「Tatally Vega」とデビュー作「Full Speed Ahead」が最近、発売されました。けれども、ディスコ好きとしては出色の「Try My Love」と「Givin' All My Love」(80年)という「もろディスコアルバム」のCD化が望ましい。首を長くして待つことに致しましょう。ぴょん!
CDのライナーノーツ書きました


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