ディスコ堂 by mrkick

音楽に貴賎なし ―Discoの考察とCD批評

シンディ・ローパー (Cyndy Lauper)

Cyndi Lauper鳩が豆鉄砲を食ったようになった――。ある人は息を潜めてそう感想を漏らしたという。1983年10月、妖艶ダンス歌姫、マドンナの台頭によって息を吹き返した米国ディスコ界は、また新たな刺客を迎えようとしていた。ときあたかも、ニューヨーク発ソウル行き大韓航空のボーイング747ジャンボ機が、サハリン沖上空でソ連戦闘機のミサイル攻撃を受けて墜落、乗員29人と乗客240人全員が死亡した事件があったちょうどひと月後のことである。

米ソ冷戦がなお世界を暗く覆う中、発売されたアルバムは「She's So Unusual」(和訳:彼女はまったくもって変人です。写真)。1953年、ニューヨークに生まれたシンディ・ローパーのデビュー作である。齢三十を超えたばかりの遅咲きポップ歌手だが、ド派手な衣装とメイク、それにちょいと違和感が残るブルージーで高音基調の歌声から繰り出すダンスチューンは、世の若人たちの鬱憤を吹き飛ばすかのごとく、ディスコフロアを席巻したのだから侮れない。

この10曲入りアルバムからは、なんと5曲までもが全米でチャートインした。最初のシングルカット「Girls Just Want To Have Fun」(邦題:ハイスクールはダンステリア、米一般チャート2位、米ディスコチャート1位)は、もう天にも舞い上がるがごとく弾けまくり、踊る者の心を捉えて離さない。私自身、ディスコで初めて聞いた瞬間に、「こんなイカれた曲がまだこの世に存在したのか!」と感動にむせび、不覚にも踊りながら流れる涙が止まらなかった。

その徹底したイカれぶりは当時、圧倒的な勢いでお茶の間に浸透していった音楽番組MTVのPV(プロモーションビデオ)でも確認することができる。まず冒頭、イントロに合わせてシンディが、画面右から「ツツツー」と瞬間移動よろしく滑ってくる場面が印象的だ。そして、主人公の少女役であるシンディの「Have Fun」ぶりは、ラストに向けて加速度的に高まっていく。このビデオには、冒頭から後半まで本物の母親(カトリーヌ・ローパー)が「母親役」で出演していて、我が子の常軌を逸した行動にリアルにあきれる様子も見て取れる。

ほかにも、このアルバムからは「She Bop」(米一般3位、ディスコ10位)というダンスヒットが生まれた。これまた人を食った奇天烈路線を地で行く弾けぶり。とりわけ80年代を代表するディスコリミキサーだったアーサー・ベーカーによる「スペシャル・ダンス・ミックス」は、ディレイやサンプリングなどのエフェクトを駆使しており、踊る者の脳天を揺さぶるような衝撃を与えたものだった。

ただ、彼女は“ディスコ道”にのみ邁進したわけではなかった。実は、意外にもしっぽりバラードなどスロー系が得意なのだ。デビュー作収録の「Time After Time」(米一般1位)と「All Through The Night」(同5位)、それに2作目アルバム「True Colors」の同名曲シングル(86年、同1位)といった珠玉の名曲を数多く送り出しているのである。映画「グーニーズ」の主題歌として知られる「Goony Is Good Enough」(85年、同10位)とか、ブルースロックの雰囲気漂う「Money Changes Everything」(84年、同27位)や「I Drove All Night」(89年、同6位)など、毛色の違う作品もある。

こうした「清濁併せ呑む」姿勢こそが、彼女の真骨頂といってよいだろう。聴いているこちらは、はっちゃけディスコの後にいきなり美メロのバラードが耳に飛び込んでくると、ぽかん顔で目は点になる。けれども、得も言われぬ清涼感が次第に体を包みこむのである。

彼女は幼少時に絵と音楽に目覚め、10代前半にはギターを手に自作の曲を作るなどの活動を始めた。両親が早くに離婚するなど家庭環境は複雑だったが、特に絵は高く評価され、著名な美術系学校に進学したほどだった。ところが、とにかく子供のころから過激な衣装と奇抜なメイクが好きで、周囲からは白眼視されていた。学校は中退してしまい、しばらく愛犬と家出をして、カナダ方面を放浪していた時期もある。強過ぎる個性を持て余し、「アメリカ版尾崎豊」の風情をも帯びながら、自由な表現を求める日々が続いた。

20歳を過ぎたころには、ニューヨークに戻って音楽に没頭。あらゆるアルバイトをして糊口をしのぎながら、地元ロックグループのボーカルなどとして活動した。20代後半になって、個性的な歌声と風貌がようやくメジャーレーベルの目に留まり、鮮烈デビューへと至ったわけだ。晴れてスター歌手の仲間入りを果たし、その絶頂期に参加した85年のあの「We Are The World」でも、サビ直前のブリッジ部分のおいしいパートを担当して好印象を残している。

一時はライバルとも目されたマドンナの音楽には、プロデューサーら制作者側によって「作られた感」が残る。一方、シンディには自作の曲も多く、“一本独鈷”で自ら切り開いてきたいぶし銀の世界観が感じられる。多彩にして繊細。まさに苦労人だからこそ醸すことができる奥行きと味わいを感じさせるのだ。90年代には御多分に漏れず失速してしまったが、80年代を代表する天才異色歌手としての座は、いまも揺らぐ気配がない。

オーケストラル・マヌーヴァーズ・イン・ザ・ダーク (O.M.D.)

OMD近年、80年代モノが世界的に再発されています。私としてはシンセサイザー、特に80年代前半に流行した素朴なアナログシンセがふんだんに使われた英国ニューウェーブサウンドがどうしても忘れがたい。

中でも、今回取り上げるOMDは、もう自分でもうんざりするほど聴きました。これまでに紹介したヒューマン・リーグニューオーダーデペッシュ・モードなどにも共通する憂鬱な薄暗い音が持ち味。とはいえ、そんな知的で都会的な感覚とは一味違う、独特の繊細さと温かさを感じます。カッコいいようでいて、どこか無防備な親しみやすさがある。つまり、よりディスコフロアに近い音なのでした。

英リバプールで70年代後半に結成。特に、昔日本のニュース番組「CNNデイウォッチ」のオープニングテーマにも使われた「エノラゲイ」(81年)は、彼らの代表曲の一つです。明るくて楽しい曲調ですが、なんと広島に原爆を落とした米軍機「エノラゲイ」のことを歌っていたりするある種の反戦歌。エノラゲイを子供になぞらえて(実際、米軍は広島の原子爆弾を「リトルボーイ」と呼んでいた)、「エノラゲイよ、君は昨日、(出撃などせず)家にいるべきだった…」というフレーズで始まり、「今、君の母親は君を誇りに思っているだろうか」などと展開するかなり直球な歌詞。

…なんだか頭(こうべ)を垂れてしまうわけですが、ディスコで踊っているときはそんなのお構いなしに“ザ・フィーバー”でありました。

ほかにも、シンセサイザーが「ピコピコピー♪」と鳴り響く間奏に哀感が漂う「テレグラフ」(83年)、牧歌的な曲調で遊園地のメリーゴーランドに乗ってるみたいな錯覚に陥る「シークレット」(85年)、全米ビルボードチャート4位まで上昇した切ない系ミデアムテンポ「イフ・ユー・リーブ」(86年)、いきなり正統派ポップスな感じになっちゃった「ドリーミング」(88年、ビルボード一般16位、全米ディスコ6位)などなど、いずれも「いやあこりゃ80年代に違いないわ」というディスコテイストな曲が目白押しです。

まあデジタル化が進んだ90年代になると、彼らの音もシャカシャカし過ぎてきちゃって興味を失ってしまったわけですが、80年代までの彼らの音楽には、今も無性に聴きたくなる「シンプル・イズ・ベスト」な分かりやすさがあります。「頭ではなく体で聴く」のがディスコの基本ですので、小難しい理屈など最初からいらないのかもしれませんがね。

CDはベスト盤、アルバム再発とものけっこう出ていますので心配御無用。写真の独盤「So80s OMD」はヒット曲の12インチ集で、「テレグラフ」とか「シークレット」とか「イフ・ユー・リーブ」などのロングバージョンが入っていて面白い内容となっております。

ロバータ・ケリー (Roberta Kelly)

Roberta Kellyドナサマー追悼で3年ぶりに踊りに行ったら腰をやられて1日寝込みました……というわけで、老体にムチ打って今回ご紹介するのは、ドナさまにはかないませんけど、しかしドナさまとも濃密に絡み合いながら、ディスコ史にしっかりその名を刻んだロバータ・ケリーさんで〜す!(カラ元気)

え〜と、このジャケット(左写真)からまずはスタートです。どうです? もうすっかりアフロな笑顔が弾けてるでしょう? それもそのはず、ロバータさんは、ディスコ黎明期の70年代前半には既にディスコ界にちょろりと顔を出し、かの「ミュンヘン・ディスコ」の先鞭をつけた偉人なのでありました。

1942年、米ロサンゼルス生まれ。幼少時にゴスペル音楽で喉を鍛え上げ、地元でソウルグループのリードボーカルを務めるなどの活動を始めました。米モータウンレコードの関係者から評価され、デビュー寸前までいったこともあります。それでも、やはり芽が出なかったので、70年代初頭、30歳ごろになって一念発起、ドイツに旅立ちます。

そのころのドイツ(旧西ドイツ)は、72年のミュンヘン五輪に向けてエンターテインメント界も各種イベントを計画するなどして、明るく盛り上がろうとしていました。「ナチスの悪夢」から逃れ、新しいドイツを築こうと懸命だったのです。つまり、ドナ・サマーと同様にロバータさんも、“オリンピック祭り”に加わってチャンスをうかがおうと考えたのです。

現地でロバータさんは、「フライ・ロビン・フライ」を後に大ヒットさせるシルバー・コンベンションの歌手ペニー・マクリーン、さらに68年にミュージカル出演のために訪独して下積み時代を送っていたドナ・サマーとも知り合うことになります。ドナとは、同じアフリカ系米国人の修行中の歌手として、すぐに意気投合しました。ここで、大物プロデューサーであるジョルジオ・モロダーとその相棒ピート・ベロッテとの繋がりも生まれたのでした。

ロバータさんはまず、74年にジョルジオらのプロデュースで「Kung Fu's Back Again」というトホホなカンフーものディスコでデビューしたもののあまり売れず、75年の「フライ・ロビン・フライ」のボーカルの一人として参加します。これは大ヒットしたものの、レコードのクレジットには彼女の名前が記されないという残念な結果に終わりました(特に黒人女性歌手にはよくあることだったのだが)。

転機が訪れたのは30代も半ばになった76年のことでした。同様にジョルジオ&ピートが手掛けた「Trouble Maker」がようやく欧米で大ヒット(米ディスコチャート1位)。続く「Zodiacs(邦題:恋の星占い)」も世界中のディスコで人気となりました。

このころには、「ジョルジオ繋がり」でドナ・サマーとともに米カサブランカ・レコードに移り、いよいよメジャー化するかと思われました。親友のドナが猛烈な勢いでスターダムにのし上がる中、78年に満を持して、ゴスペル曲で構成された珍しいディスコアルバム「Gettin' The Spirit」を発表したものの……不発に終わりましたとさ。残念!

その後、二度と表舞台には出てこなくなってしまったロバータさん。とはいえ、前述の「Kung Fu's…」は、おとぼけサウンドとはいえ、ジョルジオによるプレミア付き初期ディスコではあります。五輪後の本格的なドイツの経済成長と軌を一にして登場した、バカラ、ジンギスカン、ボニーM、アラベスクといった底抜けに明るいミュンヘン・ディスコの礎をジョルジオ、ピート、ドナらとともに築いたのは確かなのです。

CDについては2-3年前、再発レーベル「Gold Legion」から2枚発売されました。代表曲「Touble Maker」や、雰囲気のいいミデアムテンポのリメイクダンス曲「Love Power」が入ったアルバム「Trouble Maker」、それと「Zodiac」やノリの良い「Love Sign」が入った“アフロな占い歌謡アルバム”「Zodiac Lady」(上写真)であります。

2枚のうち、「Trouble Maker」には詳細なライナーノーツ(英文)がついており、在りし日のドナ・サマーやジョルジオ・モロダーのコメントも載っていてとても貴重です。ドナさまは70年代初頭のミュンヘン暮らしを振り返り、ロバータについて「彼女とその母親は、私の娘ミミの子守りをよくしてくれたわ。あれ以来、私たちはずっと友達なのよ」などと語っています。

一方、ジョルジオさんは「ロバータもドナも、あるアメリカのアーチストのデモ音源を制作するために起用した。2人とも素晴らしい声の持ち主だったから、別々に歌手として売り出したかったんだ」と語っています。

70年代半ばの同時期、ドナさんには音楽史に残るほどに実験的な「Love To Love You Baby」や元祖テクノディスコ「I Feel Love」を手掛けて大成功を収めたのに対し、ロバータさんには「二番煎じっぽいカンフーもの」とか脱力の「占いもの」だったとは…。そこが運命の分かれ道でした。厳しいぜよ、ジョルジオ(いきなり土佐弁)…と、ここはしんみり訴えておきましょう。

追悼・ドナ・サマー (Obit: Donna Summer)

Donna Summer She Works Hardどなたさま〜?のドナ・サマー」と投稿したのはもう7年前のこと。以来、映画サンク・ゴッド・イッツ・フライデーとかジョルジオ・モロダーとかポール・ジャバラとか、ディスコシーンのさまざまな重要場面や立役者をここで語る際にもことごとく登場していたわけで、押しも押されぬ「ザ・ディスコ・クイーン」です。私ももちろん、アルバムを全部持っています。そんなドナさんが米現地時間17日にがんで亡くなりました。享年63。18日付ニューヨーク・タイムズも1面で大きく報じました。

1948年にボストンで生まれたドナ・サマー(本名・ LaDonna Andrea Gaines)は、敬虔なクリスチャンの家庭で育ち、まずは少女時代にゴスペル音楽に傾倒します。とはいえ、一般的なR&B歌手とは違い、10代のころはロックバンドでボーカルを務めるなど、ジャンルにとらわれない音楽活動を行っていました。

転機となったのは、60年代後半にニューヨークの人気ミュージカル「Hair」のオーディションに合格し、海外ツアーに出演するために一時ドイツへの移住を決めたときでした。しばらくはソロ歌手として芽が出なかったものの、そこでミュンヘンディスコやイタロディスコを創り上げたジョルジオ・モロダー、さらにピート・ベロッテという2人の敏腕プロデユーサーに出会い、74年にはようやくデビューアルバム「Lady Of The Night」の発表にこぎつけました。

その後、ジョルジオらが手掛けた「ラブ・トゥー・ラブ・ユー・ベイビー」(75年、米一般チャート2位、R&B3位、ディスコチャート1位)が大ヒットを記録。破竹の勢いだったディスコレーベル「カサブランカ」との契約も果たし、あとはよく知られた「ディスコディーバ伝説」の時代に突入していくわけです。

この曲の長さはなんと17分もありました。ラジオのDJに番組内でかけてもらうため1曲3〜4分が普通だったのですが、まさに「ディスコのDJにじっくりかけてもらうため」長くしたのです。また、ほぼ全編が、まだ出始めたばかりのシンセサイザーを駆使した「エレクトロディスコ」でした。おまけに、曲自体が“女性の喘ぎ声”が頻繁に聞こえてくるなど相当にエロくて、英BBCで放送禁止になったほど。先駆的かつセンセーショナルな試みだったので、一気に注目されたのですね。

これをきっかけに、レーベルの後押しを得て勢いをどんどん増していきます。完全無欠の世界初の本格的シンセサイザーディスコ「アイ・フィール・ラブ」、「ラスト・ダンス」、「オン・ザ・レイディオ」、元ドゥ−ビー・ブラザーズのジェフ・バクスターによるギターリフが素晴らしい「ホット・スタッフ」、「トゥー、トゥー、ヘイ、ビ、ビー!♪」の掛け声も楽しい「バッド・ガールズ」、さらにはバーブラ・ストライザンドとのド迫力異色デュエット「ノー・モア・ティアーズ」などなど、大ヒットを飛ばし続けたのでした。

80年代に入ると、ディスコブームの終焉やゲイについての失言騒動があって人気は下降線をたどるわけですが、83年の“女性労働賛歌”「シー・ワークス・ハード・フォー・ザ・マネー(邦題:情熱物語)」(写真上)がビルボード一般チャート3位まで上昇する久々の大ヒット。日本のバブル絶頂期の89年には、「ええ? ドナサマーがユーロビート界進出?!」と私も度肝を抜かれたわけですが、あのストック・エイトケン・ウォーターマンがプロデュースした「ディス・タイム・アイ・ノウ・イッツ・フォー・リアル」(米一般7位)がヒットしました。完全に消えたわけではなかったのですね。

なかなかに個性的で魅力があるものの最高ランクの声質ではなく、バラードのヒットもない。グラミー賞を5つも取るほどのトップ歌手だったにもかかわらず、正統派のソウル歌手との評価はありません。やはり「色物ディスコ」の歌手だということが、どこかでネックになったわけでしょうが、CMやバラエティ番組や駅前の喫茶店で誰もが耳にしたことがある曲がいくつもあるというのは、とても偉大なことです。もちろん、ディスコ堂としては「だからこそディ〜バ!」と声高らかに賞賛いたします。

ダンス音楽界では、現在のテクノだとかハウスだとかレディー・ガガだとかの元祖にあたる人。電子ダンスミュージックの確立、(失言騒動があったにせよ)ディスコフロアにおけるゲイの解放、「ホット・スタッフ」で見せつけたロックとダンスミュージックの融合などなど、数々のエポックな功績を残して逝ったドナサマー。ディスコ宇宙のミラーボールのごとき大きな星がまた一つ、消えてしまったのです。心より哀悼の意を表します。

CDですが、これがアルバム単位だと意外と少ない。でも、ベストアルバムは国内外から豊富に出ているので、ひとまず網羅的に味わうことから始めたいところです。個人的には、なんとブルース・スプリングスティーンが作曲したロックディスコ「Protection」(曲調がどことなく葛木ユキ「ボヘミアン」に似ている)が入っている82年のアルバム「Donna Summer」とか、ミデアムテンポの切ない美メロ曲「Oh Billy Please」や雰囲気のいいバラードが収録された84年のアルバム「Cats Without Claws」(写真下)あたりの再発を期待したいところです。どちらも当時のディスコではよく耳にしたものです。

Donna Summer--Cats Without Claws

タタ・ベガ (Tata Vega)

Tata Vegaタタ・ベガさんはゴスペルシンガーとして鳴らした実力派。スティービー・ワンダー、チャカ・カーン、パティ・ラベル、マイケル・ジャクソン、そしてマドンナと、さまざまなビッグアーチストのバックボーカルとしても活躍した人でした。

1951年、米ニューヨーク生まれ。10代前半にミュージカルに出演してプロ活動を始め、歌唱力の高い歌手として頭角を現しました。モータウンとの契約を果たし、本人名義のアルバムも、「Full Speed Ahead」(76年)、「Totally Tata」(77年、写真)など、ディスコ全盛期の70年代後半を中心に何枚か出しています。

中でも出色なのは、ディスコブームが最高潮に達した79年に発売したアルバム「Try My Love」。全編にわたって底抜けに明るいダンスナンバーがちりばめられています。特に「I Just Keep Thinking About You」なんて、「これがゴスペル歌手のやることか!?」というくらいに歌謡曲チック。しかし、だからこそ、私にとっては一番のお気に入りのアホアホ系ディスコとなっております。

このアルバムからは、「Come And Try My Love」、「Gonna Do My Best To Love You」といったゴキゲンナンバーもあって、ディスコ好きにはたまらない感じです。しかし、「Get It Up For Love」を聴いてみると……アレ? なんだか自らバックボーカルでバックアップしているはずのチャカ・カーンみたい。まあ、メロディーラインが洗練されていてよい曲なのですが、残念ながら個性の乏しさがなんとなく滲み出てしまうのです。

私としては、あの風貌ならば(失礼)、もう少しウェザー・ガールズとか、バックボーカルを務めたパティ・ラベルみたいに「ザ・ディスコディーバ」としてどしどし弾けて欲しかったのですが、そうは問屋が卸しませんでした。正統派よろしく、98年には「Now I See」なる真面目なゴスペルアルバムまで発売してしまいましたからね。まあ致し方ありません。

はっきりいってマイナー歌手で終わってしまった「歌の上手い歌手」タタさん。この辺の「売れる、売れない」は誰にもわからない紙一重の差なのでなんとも説明しようがありませんが、ディスコ界ではそこそこの実績をアピールできたのだと考えております。私のFacebookの「友達リクエスト」(笑)にも、快くメッセージ付きで承諾してくれましたしね。これからも陰ながら応援しようと思っております。

CDは写真の「Tatally Vega」とデビュー作「Full Speed Ahead」が最近、発売されました。けれども、ディスコ好きとしては出色の「Try My Love」と「Givin' All My Love」(80年)という「もろディスコアルバム」のCD化が望ましい。首を長くして待つことに致しましょう。ぴょん!

テイラー・デイン (Taylor Dayne)

Taylor Dayne徹頭徹尾、シンセサイザーがぶりぶりうなりまくっています。「うるさい」、でも「好き」、「好き」、でも「うるさい」…。私にとっては、花占いのごとき「心うらはら」な曲でした。

そんな人騒がせな曲の名は「テル・イット・トゥ・マイ・ハート(Tell It To My Heart)」(全米ディスコチャート4位、一般チャート7位)。歌い手は、これまた白人ながらソウルフルで、かつロックテイストも滲ませる炎の迫力ボイスだったテイラー・デインさんです。YouTubeのビデオをみると…いきなりコワい!。もう「リアル獅子舞」状態。なんだか油断してると一気にパクッ!と食べられちゃいそうです。

時はバブル突入期の1987年、東京は渋谷の「スパジオ」というディスコで耳にしたのが最初でした。私の中でも代表的な「百花繚乱雨あられ、心頭滅却火もまた涼し」の超絶バブルディスコとなっております。ディスコでかかる12インチバージョンでは、イントロから「シンセラッパ」のごときいかにも80年代な電子ホーンセクションが「パンパカパーン♪」とコミカルに鳴り響き、続いてお約束の「ビシッ!バシッ!」のゲートリバーブ・ドラムも加わって、もうアゲアゲ絶好調。「ワンレン ボディコン お立ち台」のフロアは満杯、みな忘我の境地でした。

テイラーさんは1962年、米ニューヨーク生まれ。本名はLeslie Wundermanといいます。地元のクラブで歌っているうちに、歌唱力を認められて歌手デビュー。1985、86年にはLes Leeという名でそれぞれ「I'm The One You Want」(ユーロビート風)、「Tell Me Can You Love Me」(フリースタイル風)という「可もなく不可もなし」なディスコ曲を発表。翌年にメジャーレーベル(Arista)に移り、「テル・イット…」を含むデビューアルバム「Tell It To My Heart」で開き直ってアマゾネスな感じへとイメージを転換し、見事ブレイクを果たしたというわけです。

このアルバムからは、「Prove Your Love」(88年、ディスコ1位、一般7位)という特大ダンスヒットも生まれました。前作と同じようなロック風味のド迫力ディスコでして、これまたよくディスコで耳にしたものです。レーガン政権の終焉(89年)、ベルリンの壁崩壊(同)、天安門事件(同)、日本の昭和の終わりとバブル崩壊(90年ごろ)などを前にした、80年代末期の世界規模の変革期を思わせるようなエネルギーの大爆発。折しも、ダンス音楽的にも、ディスコがいよいよ下火となり、ハウスやテクノなどのよりハイパーなクラブミュージックへと模様替えをする時期でもありました。

もろ“肉食系”を思わせる姿と曲の彼女ですが、この後に意外な素顔を見せました。これまでと打って変わり、ディスコのチークタイムの定番となった「I’ll Always Love You」という驚天動地のしっぽりバラードを大ヒット(88年、一般チャート3位)させたのです。さらに、「Love Will Lead You Back」(90年、一般1位)という今も語り継がれる珠玉のバラードもきちんと発表しました。

そもそも彼女は、「カントリーの女王」ドリー・パートンにも似た、中高音で圧倒的に伸びる歌声が持ち味。「アップテンポもスローもどっちもいけるじゃん!」という実力を見せつけたのです。

もちろん、彼女の基本であるダンスミュージックもコンスタントに出しています。「Dont' Rush Me」(88年、ディスコ6位、一般2位)、「With Every Beat Of My Heart」(89年、ディスコ8位、一般5位)のほか、70年代に「セクシー・ディスコチューン」のヒットを連発したバリー・ホワイトのカバーである「Can't Get Enough Of Your Love」(93年、ディスコ2位)という曲があります。2000年代に入ってからはさすがに失速しましたが、ダンス系ではこれまた「うるさい」テクノ/トランス系の「Planet Love」(2000年、ディスコチャート1位)などのヒットを出し、激動のショービジネスを粘り強く生き抜いている様子がうかがえます。

まあ、とにかくテイラーさんのほとんどのダンス曲は、私などは、今では踊らずとも聞くだけで少々疲れてしまうのですけど、その実績は認めるわけでございます。ディスコ的にはけっこう新しい時代の人ですので、再発CDやベスト盤も各種出ております。

……というわけで、「でも、久しぶりにちゃんと聞こうかな」と思って「テルイット」をYouTubeで探していたら……。こんな究極のバージョン(95年)を見つけました。私も間違って発売当時に輸入盤店でレコードを買ってしまった覚えがあります。もうバブルを通り越して世紀末です。「うるさい」どころの話じゃないですが、どういうわけか、いつ聞いても「パクッ!」っと気になる旋律ではあります。

リック・ジェームス (Rick James)

Rick jamesいやあ、ポッカポカの春です。春といえばディスコ。ディスコといえば、今回取り上げるリック・ジェームスさんもかなりのものです。黒人音楽のエリート集団「モータウン・レコード」を基盤としながらも、素行の悪さは筋金入り。70年代から80年代にかけてのディスコシーンを大いに暴れまわり、56歳で早世した異色の才人であります。

1948年ニューヨーク生まれ。不良少年時代に音楽に目覚め、近所の友人たちとバンドを組んで活動を始めます。10代後半には、後にロックグループ「ステッペンウルフ」の中心メンバーとなるニック・セイント・ニコラスや、これまたロック系のニール・ヤングらとグループを結成してプロとしての音楽活動を本格化させました。リックさんの音楽には、意外にもロックの源流があったわけです。

しばらくは無名の時代が続いたのですが、ようやく1978年、モータウン系レーベルから待望のソロデビューアルバム「Come Get It!」を発表。この中からアップテンポの「You and I」(米ビルボードR&Bチャート1位、ディスコチャート3位)、ミデアムスローの「Mary Jane」(R&B3位)が大ヒットし一躍、注目株となりました。

その後も、なかなか面白いロックテイストの「Love Gun」とか、ピアノのイントロが印象的な「Big Time」などのディスコ系の中型ヒットを飛ばしたわけですが、彼のピークは、なんといっても1981年に出したアルバム「Street Songs」(上写真)です。

この中からは、野太いベース音と中低音ボーカル、それにぶいぶい鳴り響くシンセサイザーが特徴の珠玉のファンキーディスコ「Give It To Me Baby」(R&B、ディスコともに1位)、後にMCハマーらがリメイクして再びヒットさせた「Super Freak」(R&B3位、ディスコ1位、米ビルボード一般チャート16位)などの大ヒットが生まれました。

ジャケット写真や当時の動画をみると、まさに「小粋なドレッドヘアのハナ肇」状態。とはいえ、ディスコブームの後、R&B系が元気をなくしていた時代だっただけに、シンセサイザーを駆使した新しいダンスミュージック時代の幕開けを告げる痛快な一発になったのでした。

引き続きリックさんは、テンプテーションズがボーカルで参加した「Standing On The Top」(82年、ディスコ11位)、ますますシンセサイザーがぶいぶいうなる「Dance With Me」(同、同7位)、リズムマシーンを前面に出した「Cold Blooded」(83年、R&B1位)、なんだかハイエナジーディスコみたいな「Glow」(85年、ディスコ1位)などなど、軽快なアップテンポのダンス系ヒットを次々と世に送り出しました。

80年代半ばには、一時はライバルと目されたプリンスのように、手下の女性グループ「Mary Jane Girls」をプロデュースして成功させています、前回紹介のティーナ・マリーも“手下”の一人で、70年代に才能を見出し、曲をプロデュースするなどして育て上げました。

けれども、生来の暴れん坊で破天荒だったこの人には、スキャンダルがつきものでした。ティーナ・マリーを含めた度重なる艶聞はまだ可愛いものですが、女性への傷害の罪で服役したこともあります。特にコカインをはじめとするドラッグ依存はケタ外れにひどく、自ら「多いときには週7000ドル(56万円)をドラッグに使った。そんな時期が5年間続いた」などとメディアに明かしたほどです。

90年代以降は人気も失速し、ますます身を持ち崩す状況が続きました。そして2004年8月、肺疾患と心不全などにより、そのディスコな人生に自業自得的に終止符を打ってしまったのです。

アホアホでお気楽なディスコに限らず、ミュージシャンには「破滅型」がたくさんいますけど、この人は度を超していました。ただ、かつて世界中のディスコフロアを満杯にした陽気な音楽だけは、今も世のダンスフリークを魅了し続けています。

CDはいろいろと出ていますが、代表作「Street Songs」だと、米モータウン盤の2枚組「Deluxe Edition」が12インチバージョンやライブ音源が入っていて珍しいのでよいかと存じます。ベスト盤であれば、同じく米モータウン盤の2枚組「Anthorogy」(下写真)が網羅的かつ12インチバージョン入りで楽しめます。
Rick James Best

ティーナ・マリー (Teena Marie)

Teena Marie_Lover Girl 「♪お、ば、け〜のきゅう?♪」…というわけで、今回は「オバケのQ太郎」(古い)も顔負けの変てこジャケット(左写真)でお馴染みのティーナ・マリーさんであります。

この人は、白人でありながら相当に聴かせる黒人テイストの声を売り物にしたソウル・ディーバです。前回紹介のホイットニー・ヒューストンが、黒人でありながら白人ファン層をどしどし開拓していったのとはちょうど逆ですね。

1956年米カリフォルニア州生まれ。黒人居住地区に住んだ経験があることなどから、幼少時からモータウン・レーベルを中心とする黒人音楽に関心を持ち、歌だけではなく、ギター、ベース、キーボード、コンガなどをほぼ独学で習得。ローカルバンドのリードシンガーとして、レコードアーチストのオーディションを受けながら活動するうち、「真面目なモータウンの破滅型天才」リック・ジェームズに見いだされ、79年に彼のプロデュースによるアルバム「World and Peaceful」で、念願のモータウンでのメジャーデビューを果たしました。

このアルバムのジャケットには、ティーナさんの写真は載っていません。そのパワフルかつソウルフルな声質からてっきり黒人だと思っていたリスナーも多かったことから、黒人ファン層の定着・拡大を目指すモータウンサイドが、「ミステリアスなままの方がいい」と無人の風景画みたいなジャケットデザインにしたのでした。

80年代以降も着実にレコードリリースを重ねて、「Behind The Groove」(80年、米ディスコチャート4位)、「I Need Your Lovin'」(80年、米ディスコ2位、米R&Bチャート9位)、「Square Biz」(81年、R&B3位、ディスコ12位)といったヒット曲をコンスタントに出すようになります。そして、上写真の84年の「オバQ」アルバム「Starchild」に収録されているダンス曲「Lover Girl」が全米一般チャート4位(ディスコ6位、R&B9位)まで上昇する最大のヒット曲になり、頂点を迎えました。私自身、この曲をディスコで聞いて、輸入レコード屋に買いに走った記憶があります。

さらに88年にも、日本ではバブル期のディスコ(チークタイム)やカフェバーで頻繁に耳にした珠玉バラード「Ooo La La La」がR&Bチャートで1位となり、好調ぶりを見せつけました。

80年代にブレイクした彼女ですが、実は個人的にはデビューアルバム「Wild and Peaceful」が非常に秀逸だと思っています。特に、後に恋人とも噂されたリックとのデュエットによるシングル曲「I'm A Sucker For Your Love」(米R&Bチャート8位)は、ノリの良いリズム進行、コーラスの小気味よさ、楽器パートのバランスのよいアレンジ(特に切な過ぎるサックス)など、どれをとっても「ザ・70年代黒人ディスコ」でして、私の中でもディスコチャートの総合トップ50(候補がたくさんあり過ぎて微妙だが)には入る名曲だと思います。

ティーナさんは90年代以降も何枚かアルバムを出すなど、継続して音楽活動を続けていました。けれども、2010年12月に54歳で急逝してしまいます。死因ははっきりしませんが、持病のてんかん発作に原因があったのではないかとの海外メディア報道がありました。ほかの多くのディスコ―ミュージシャンと同様、早すぎる死を迎えてしまったわけですが、多彩な才能をいかんなく発揮した生涯だったと思います。

ところで、冒頭でオバQなどととても失礼なことを言いましたけど、実物は美貌でもあったとされていますので、念のため(写真下)。CDについてはここ数年、国内外からアルバムの再発盤やベスト盤が数多く出ていて、入手も比較的容易です。
Teena Marie3

ホイットニー・ヒューストン (Whitney Houston)

Whitney Houston"She will never be forgotten as one of the greatest voices to ever grace the earth."(彼女は永遠に記憶されるだろう。世界を輝かせた最も偉大な声の持ち主として)――マライア・キャリー がツイッターに記した追悼の言葉。

11日に48歳で逝去したホイットニー・ヒューストン。でも、正直言って最近はスキャンダルにまみれた印象しかなかった。そう、ちょうどマイケル・ジャクソンがそうだったように、亡くなってから思い出したように「スーパースターだった」と称えられることには、なんだか違和感も覚える。

私がホイットニー・ヒューストンを知ったのは、浪人中の1985年初頭のことだ。受験勉強に集中するという名目で、1年間だけディスコ通いを“封印”して、実家から離れた札幌駅近くの祖母の家に寝泊まりしていた。それでも、ときどき「息抜き」と称して地元FMラジオの洋楽番組に聴き入っていた。そんなある日、耳に飛び込んできたのが、目下売り出し中のホイットニーが最初に放ったダンスヒット「Thinking About You」だった。FMのDJが「とびきり美しいメゾソプラノの声が評判の……」などと軽やかに紹介していたのを覚えている。

二浪までして(一浪目はやはりディスコ狂い)、なんとか東京の大学に入学したのが85年4月。もちろん、ディスコも大解禁スパークル状態だ。時給が比較的高く、しかも「食事2回付き」という理由で、渋谷の道玄坂にあった大衆居酒屋をバイト先にすぐ決めて、その金をどんどんレコードとディスコに注ぎ込む日々となった。

世はバブル前夜。おカネなんて相変わらずなかったのに、華やぐ世相にすっかり乗せられて、六本木や渋谷、新宿の大衆ディスコに入り浸り、朝までノリノリで恥ずかしく踊りまくった。このころのディスコはちょうど過渡期で、客層も世代交代が進んでいた。音楽的にも70年代のストリングス中心から、当時は最新鋭のシンセサイザー中心の曲調に変わっていた。「ギブ・ミー・アップ」(マイケル・フォーチュナティー)や「ビーナス」(バナナラマ)といったイタロディスコ、それにユーロビートが台頭してきたのもこのころだった。

とってもおおまかに言うと、ディスコ音楽には、ジャズ、ソウル、ファンク、ブラック・コンテンポラリーなどの「黒人系」と、ロック、ポップス、ニューウェーブ、ユーロビート、ラテンなどの「白人系」の2つの流れがある。それぞれに愛すべき特徴があり、それをこのブログでもだらだらと書いてきたのだが、要するに私はどちらも好きだった(バブルだったし)。

実は、当時の「バブルディスコ・シーン」では、70年代の大ディスコブームの反動もあり、黒人系は少々押され気味だった。少し前の投稿で紹介したシックのナイル・ロジャーズもそうだったように、70年代まで活躍したいろんな著名黒人アーチストが、80年代には方向性を見失い、ヒットが出なくなっていた。そうした状況下、まさに彗星のごとく登場したのがホイットニー・ヒューストンだったのだ。

ホイットニーは1963年、米ニュージャージー州に生まれ、幼いころからゴスペルグループの一員、さらにはモデルとして活躍した。歌の師匠でもある母親はシシー・ヒューストン(Cissy Houston)といい、ド迫力ファンキーディスコの「Think It Over」(78年、米ビルボードディスコチャート5位)のヒットで知られるプロ歌手だ。「I'll Never Fall In Love Again」(70年、ビルボード一般チャート6位)、「That's What Friends Are For」(85年、同1位、ビルボードR&Bチャート1位)などの大ヒットで知られるソウルの大御所ディオンヌ・ワーウィックは従姉(シシーの姉の子)にあたる。

音楽一家に育ったホイットニーは、比類なき声はもちろん、モデル出身ならではの美貌も売りにしていた。黒人であるホイットニーのアイドルみたいなアップ写真が載ったジャケットは、かなり新鮮だった。私は渋谷や新宿の輸入盤店で、嬉々として12インチやアルバムレコードを買い漁ったものだ。これには差別を感じさせるが、70年代までの黒人女性歌手のジャケットには、「本人の写真だと抵抗感がある」などの理由から、変てこな「似顔絵」もよく使われていたほどなのだ(例:Evlyn Thomas,Miquel Brown,そしてなんとホイットニー母Cissyも)。

ホイットニーは、ゴスぺル出身のガチンコ黒人系ディーバでありながら、ビジュアルも含めて白人たちにもアピールできる「ポップス歌手」の要素を兼ね備えていた。米国で大人気だった音楽専門番組「MTV」でも、堂々と本人が前面に現れるプロモーションビデオが盛んに流れた。マイケル・ジャクソンと同様、初めて人種を越えたファン層を獲得したのが最大の功績だったといえるのだ。

私が80年代後半の日本のバブルディスコでとにかくよく耳にしたのが、デビューアルバム「Whitney Houston」(写真)に収録されている、ナーラダ・マイケル・ウォルデンがプロデュースした「How Will I Know(恋は手さぐり)」(86年、ビルボード一般1位、R&B1位、ディスコチャート3位)だ。「イントロから桜満開!」てな調子で、圧倒的に明るい曲調と底抜けに伸びやかな歌声は、まさに「ウキウキ我が世の春時代」の到来を全身で実感させたものだ。

このアルバムは特大ヒット「Saveing All My Love For You」などのバラードも出色だが、ディスコの立役者が数多く参加していて、前述の「Thinking About You」は元BTエクスプレスのカシーフがプロデュースしているし、「マイケル兄」のジャーメイン・ジャクソンも3曲、プロデュースしている。

続くセカンドアルバム「Whitney」(87年)ともなると、バブル全開の日本のディスコでも完全に主役状態となった。「I Wanna Dance With Somebody」、「Love Will Save The Day」といった彼女のアゲアゲな曲がかかると、「百花繚乱雨あられ、盛者必衰会者定離」(バブルだけに意味不明)状態となり、フロアは(私も含めて)踊る阿呆の老若男女で埋め尽くされたのである。

史上最高の7曲連続の全米一般チャート1位、6回のグラミー賞受賞など、輝かしい実績を残したホイットニー。確かにマライア・キャリーが言うとおり、「永遠に記憶される」ほどの歌姫だったが、そのマライア自身が「新しい歌姫」として登場した90年代初頭には、既に陰りが見えていた。

折しも、かつて黒人少年アイドルグループ「ニュー・エディション」の中心ボーカルとして「ミスター・テレフォンマン」などの可愛らしい曲を歌っていたにもかかわらず、ワイルドにドラッグ依存になっていったボビー・ブラウンとの92年の結婚も、彼女にとっては悪い意味で転機となった。

同じ92年に公開された映画「ボディガード」主題歌の「I'll Always Love You」は、スーパーヒットにはなった。この映画は白人男性と黒人女性スターのロマンスがモチーフになっているだけに、彼女を象徴してもいる。だが、この直後からドラッグ依存や数々の奇行が目立ち始め、やがて声質までもが極端に衰えていく。破滅ぶりが際立っていくのだ。

90年代初頭といえば、ちょうど日本のバブルが弾けてしまった時期にあたる。金融破綻だ就職氷河期だなどと、平成日本は落ち込む一方となっていった。大衆ディスコのバブルもはかなく消え去り、ダンス音楽シーンも私がついていけないほどに細分化、ハイパー電子音楽化が加速していったのだ。

確かに、彼女はダイアナ・ロスアレサ・フランクリンでも成し得なかったこと、つまり人種の壁を初めて突破した偉大なディーバに違いなかった。しかし、最盛期は85年以降のわずか数年間。その間に世界の頂点を極めたものの、うまく下山できなかった。どうにも私にとって“ホイットニー・ヒューストン”は、“哀しきバブル”と二重写しになるのだ。爆発的な膨張感と、宴のあとのほろ苦さ。それでも、私はだからこそ、刹那に生きる人間の深みと凄味を感じてしまうのである。

テレックス (Telex)

Telex2に・じ・い・ろのラブビーム!♪――というわけで、今回は久しぶりにテクノのりで。30年以上も昔なのに、なんだかPerfumeを彷彿させる音が気になる、ベルギーが生んだ異色のテクノディスコ・グループ「テレックス」であります。

彼らは男性3人組。1978年の結成当初から、テクノポップとユーロディスコを融合させたようなユニークな実験音楽を発表したことで注目され、クラフトワーク、YMOディーボMジョルジオ・モロダーセローンDee D. ジャクソン、 スパークスなどと同様、後のハウスやテクノといったシンセサイザー中心のディスコ音楽の礎を築きました。テクノ音楽が一気にメジャー化する前の70年代か ら活躍していたというのがポイント。ディスコファンやクラブDJに限らず、今も世界中でカルト的な人気を保っている人々です。

代表曲はなんといってもMoskow Discow(79年、米ディスコチャート36位)。モーグなどのアナログシンセサイザーを駆使しつつ、列車の効果音を織り込んでディスコ調に仕上げた面白い作品ですが……実際はこれを聞いても私はそれほど踊る気にはなれません(当時の日本のディスコでは聞いたことないし)。当時のニューウェーブ音楽にありがちな、なんだか無機質で暗い印象です。

彼らには1980年、アバやトミー・シーバックなどの陽気なディスコ系アーチストが多く出場した欧州の「歌の祭典」ユーロヴィジョンに出場した過去も持ちます。出場曲はおとぼけサウンドのもろ「ユーロヴィジョン(Eurovision)」。出場したくて出場したであろうに、ポップで軽〜い歌の祭典をからかったような内容になっています。ただし、「Moskow」よりは少々アホアホな明るさを醸していてディスコ的です。

ほかにも、「Twist A Saint Tropez」(80年、同45位)、「Peanuts」(88年、同45位)などのテクノディスコな曲がありますが、どれもやっぱり変てこな感じです。

海外の音楽サイトに最近、載ったメンバーの一人、 Michel Moersのインタビュー記事(「Elektro Diskow」)によると、Michelは彼ら独特の皮肉やユーモアについて、「ベルギーは地理的に欧州の中心に位置し、歴史的にはいろいろな国から侵略を受けてきた。だからベルギー人はもともと超現実的で、生き残るために他人に冷淡な態度をとる必要があった。そんな風土に子供のころから影響を受けてきたのだと思う」と説明しています。

Michelはディスコについて、「もともとディスコの持つグルーブ感が好きで、自分たちの音楽に取り入れるようになった。実は昔の電子楽器は、電流が不安定だったり、シーケンサーが不正確だったりして、サックスやギターと同様の人間くささがあった。だからかえってグルーブ感があった」としています。このあたりは、私も納得する説明ですね。80年代中ごろまでのシンセサイザーは、どことなく温かみを感じたものです。その後の技術進歩を背景に、90年前後からは急速にシャキシャキと鋭角的で乾燥した音になっていきました。

さらにMichelは、最近のダンスミュージックについて、「どれも同じように聞こえてしまう。電子音楽の技術が進歩して音作りが簡便になったことで、『カット&ペースト』で作った『クローン』のような曲になってしまっている」などとけっこう厳しい見方。う〜ん、いや、これにも私はおおむね同感であります。とはいえ、たとえば前述のPerfumeなどは、70-80年代のレトロテクノのノリがあることに加えて、メロディーに日本民謡のようなトロリとした哀感を感じることもあり、嫌いではないわけですけどね。

テレックスはここ20年ほど、あまり活発に活動していません。6年前に新譜を出した程度です。カルト的人気のわりにはベスト盤CDもあまり出回っていませんが、写真の“おさかなベスト”(ベルギーEMI盤)は、「Moskow」「Eurovision」などのヒット曲が網羅的におさめられている上に、比較的入手も容易です。
プロフィール

mrkick (Mr. Kick)

「ディスコのことならディスコ堂」----本名・菊地正憲。何かと誤解されるディスコを擁護し、「実は解放と融合の象徴だった」と小さく訴える孤高のディスコ研究家。1965年北海道生まれのバブル世代。本業は雑誌、論壇誌、経済誌などに執筆する元新聞記者のジャーナリスト/ライター/翻訳家。もはや踊る機会はなくなったが、CD&レコードの収集だけは37年前から地味〜に続行中。アドレスは↓
mrkick2000@gmail.com

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*最近多忙のため、曲名質問には基本的にお答えできません。悪しからずご了承ください。
*「ディスコ堂」の記事等の著作権はすべて作者mrkick(菊地正憲)に帰属します。

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