Jocelyn Brown「陰徳を施せ、そしてそれが名声を博したら赤面せよ」(アレキサンダー・ポープ=英国の詩人)――というわけで、今回はジョセリン・ブラウンであります。「表のディスコディーバ」がドナ・サマーだとすれば、「裏のディスコディーバ」はこの人といえるかもしれません。

1950年米ノースカロライナ生まれ。3歳で歌い始め(もちろんゴスペル)、14歳にはプロとして活動を始めます。前回投稿のエクスタシー、パッション&ペインのバーバラ・ロイが、姪であるジョセリンを説得。彼女も歌の道を歩み始めたのでした。

ジョセリンはもともとは教師を目指していました。学校を出た後、実際に3年ほど教師を勤めています。それでも、歌手としての活動が多忙になり、辞めることにしたのでした。

歌手活動に専念してからの活躍は、目を見張るものがあります。70年代にKleer、Mantus、Disco Tex & Sexolettes、Cerrone、Machine、Changeといったディスコ系アーチストのバックボーカルを次々と務め、実績を重ねていきました。さらにはダン・ハートマン、ダイアナ・ロス、ロバータ・フラック、ジャニス・ジョプリン、ジョン・レノン、ベット・ミドラー、ミック・ジャガー、ジョージ・ベンソンなどなど、様々な大物アーチストのライブに参加。ジャンルを越えて大活躍し、「ボーカル職人」とでもいうような存在になったのでした。

ディスコ・ディーバとしての転機になったのは、78年にNYのディスコプロデューサーであるパトリック・アダムスが手がけた「Musique」というプレリュードレーベルのグループに、バックボーカリストとして参加したことでした。「Keep On Jummin'」と「In The Bush」という2曲が大ヒットし、彼女のド迫力ボイスがあらためて注目されるようになったのです。

翌79年には、同じプレリュードからデビューしたグループ「インナー・ライフ(Iner Life)」のメーンボーカルに抜擢され、「I'm Caught Up」などのヒット曲を世に送り出しました。その後このグループは、今では「ガラージ・クラシック」として知られるサルソウル・レーベルに移り、「Ain't No Mountain High Enough」(81年、ビルボードディスコチャート20位)や「Moment Of My Life」(82年、同15位)といった名曲をリリースしました。

それでも、彼女が関わったどの曲にしても、彼女自身の名がメーンでクレジットされることはなく、あくまでも「影」の存在でした。いわば「陰徳」を積んできたわけですが、それがようやく報われることになったのは、1984年の「Somebody's Else's Guy」(同13位)でしょう。これは彼女自身の名でヒットさせた最初の曲。同時期に発売された「Picking Up Pomises」(84年)ともども、札幌のディスコでよ〜くかかっていたものです。

これ以降は、もう完全に「ジョセリン・ブラウン」として一本立ちします。90年代には「Always There」(91年)をはじめとするヒットを連発するようになりました。ニューヨリカンソウルとかインコグニートとのコラボレーションでも有名ですね。ただし、このあたりはもはやハウスでR&Bな「クラブ」の世界であって、「ディスコ」ではありませんが。

ディスコ系の「助っ人女性ボーカリスト」としては、マーサ・ウォッシュ、ロレッタ・ハロウェイと並ぶ「御三家」の一人ともいえる、ジョセリン・ブラウン。彼女は最近のマスコミのインタビューでこう答えています。「私は単に仕事としてではなく、ディスコが大好きで歌っていたの。でも、ジョン・レノンにしても、ダイアナ・ロスにしても、著名アーチストたちは皆、それぞれに伝説を持っていたわね。人をどうやって楽しませるか、それに自分自身をどう楽しませるか、という点について大いに学ばせてもらったわ」。彼女自身、新たな伝説になった、ということになりましょうか。

ジョセリン・ブラウンのCDは豊富に出ておりますが、最近は写真のインナー・ライフ時代の選曲集(サルソウル盤、2枚組)を好んで聴いております。マスターテープ自体が古いため、少し音質が落ちる部分がありますけど、まあディスコものではいつものことだし、諦めております。