パトリック・カウリー2ディスコミュージックがオーケストラからシンセサイザー中心へと変化を遂げ始めた1980年代初頭、一人の異才プロデューサーが世に華々しく登場します。大きな目と口ひげがトレードマークの、パトリック・カウリー。「ハイ・エナジー」と称された新進シンセディスコのパイオニアとして、米サンフランシスコを拠点に次々とヒット曲を制作しました。

パトリックは1950年、ニューヨークに生まれました。幼少時から音楽好きで、ドラムを中心にギターやキーボードを習得。21歳でサンフランシスコに移住し、地元の大学でシンセサイザーを学び始めます。まだシンセサイザーが楽器として認知されていなかった71年のことでした。

70年代後半、パトリックは、サンフランシスコのディスコレーベル「ファンタジー・レコード」で当時、頭角を現していた黒人歌手シルベスターに気に入られ、シンセサイザー担当ミュージシャンとして始動しました。このころのシルベスターのヒット曲である「ユー・メイク・ミー・フィール」や「ダンス(ディスコ・ヒート)」の制作にも関わっています。

81年、ファンタジーの従業員だった人物と共同で独自レーベル「メガトン・レコード」を設立し、プロデュース活動を本格化。そこで作った「メナジー」が全米ディスコチャートで1位を獲得し大ヒットとなりました。以後、独特の精妙なシンセ音を売り物とした「パトリック・サウンド」が全開。「メガトロン・マン」(81年)や、日本でもお馴染みのシルベスターのボーカルによる「ドゥ・ユー・ワナ・ファンク」(82年)などのヒットを連発するようになりました。ファンタジーと同様に「サンフランシスコ・ゲイディスコ仲間」である、モビーディック・レーベルにも、作品を残しています。

パトリックがプロデュースしたミュージシャンには、シルベスターのほかポール・パーカー、Jolo、ラバードなどたくさんいるのですが、特に有名な作品はドナ・サマーの「アイ・フィール・ラブ」の「パトリック・カウリー・リミックス」でしょうか。時間はなんと15分以上。もともとサイケなこの曲を、うねうねにこねくり回し、さらに陶酔感を増幅させています。

ボビー・オーランド(シー・ハズ・ア・ウェイなど)、イアン・レヴィン(ソー・メニー・メンなど)らと並ぶ、ハイ・エナジーの立役者。特にシンセの使い手としては、ポップス史上、最も偉大な人物の一人として後世、語り継がれることでしょう(断定)。

メガトン・レーベルは、私にとっても基本中の基本であります。札幌の「釈迦曼荼羅」などの地元ディスコでは、超常連でかかっていました。高校のころ、最もレコードを買ったレーベルでもあります。何しろカネがない時代でしたが、「ソー・メニー・メン」(ミケル・ブラウン)などで有名なレコード・シャック・レーベルや、「クイーン・オブ・フールス」(ジェシカ・ウイリアムス)などで知られるパッション・レーベルと並んで、ジャケ買いするようにしていました。

パトリックは1982年にエイズで死去。享年32。メガトンでの実働期間が、わずか1〜2年だというのですから驚きです。私がディスコ通いをしていた頃には既に、この世にいなかったのですねぇ。まさに早世の天才音楽人でした。

写真のCDは、ユニディスク・レーベルから出ている、パトリックのソロのベスト盤。ほかにもオリジナルアルバムの再発が何枚も同レーベルから出ています。