Peter Jacque Band今回はピーター・ジャックス・バンド(PJB)。ジャケットがどことなく哀しみを誘いますが、70年代後半の派手派手アッパーディスコの代表として挙げたいアーチストです。

このグループ名は、中心人物であるイタリア人プロデューサーのジャックス・フレッド・ぺトラス(Jacques Fred Petrus)からとったものです。グループ自体は当時よくあったディスコ用スタジオミュージシャンの集合体でした。リードボーカルは、後にR&B系ディスコグループのブラック・アイボリーやAleem(アリーム)のメンバーとなるLeroy Burgess(リロイ・バージェス)でした。

デビューは、79年にイタリアのGoody Musicから発売されたファーストアルバム「ファイヤー・ナイト・ダンス」です。たった4曲しか入っていないのですけど、それぞれ8〜9分もあってじっくり楽しめます。ビルボード・ディスコチャートでは最高6位まで上昇しました。

日本では、特に1曲目の「ウォーキング・オン・ミュージック」が、盛り上げ時間帯のキラーチューンとしてかかっていました。初期のシンセサイザーを前面に出しつつ、バイオリンなどの古典的な生音とうまく調和させています。シルベスターのヒット曲「ユー・メイク・ミー・フィール」やクイーン・サマンサ「瞳にファンタジー」なんかに似た感じです。

このバンドは2作目「ウエルカム・バック」からメンバーを一新して、「ミスアメリカ」の黒人モデルなどを起用して正式にグループ化。ただ、ヒットからは遠ざかっていきました。

仕掛け人のジャックスは70年代後半から80年代前半にかけて、相棒のMauro Malavasiとともにイタリア系ディスコプロデューサーとして活躍し、名を残しました。PJBだけではなく、ヴィレッジ・ピープルそっくりの「アイム・ア・マン」のヒットで知られるマッチョ、ユーロダンスのヒットメーカーだったRudyなどを世に送り出しています。

またここ数年、注目を浴びているイタロ・ディスコの源流となるチェンジやBB&Qバンドやハイ・ファッションなどのレコード制作にも、中心プロデューサーとして携わっています。

当時、ジャックスたちのほかにも、ドナ・サマーサウンドの生みの親ジョルジオ・モロダーとか、D.D.サウンドのヒット曲で知られるラビヨンダ兄弟とか、イタリア系のディスコプロデューサーやミュージシャンが輩出していました。

ディスコの大きな潮流の中で、イタリア系サウンドはかなり重要な位置を占めていたといえます。曲調は、哀愁を漂わせながらも、けっこうラテンで明るい。その流れは、後にイタリアからたくさん出てきたユーロビートにも通じるものがあります。

写真のPJBのCDは、数年前に仕入れたロシア盤(!)。最近、オリジナル音源がGoody Musicから再発となっています。

写真のいかにもチープなジャケットのデザインは、79年の発売当時の米国販売元であるプレリュードレコード製LPと同じものですが、イタリアのオリジナルLPだと裸の女性が写ったハードコアなものだったそうです。米国サイドで「これではマズい」と判断されたため、変更になったのでした。

ちなみに、ジャックスは80年代後半、つきあいのあったマフィアと揉めて殺されました。いかにもイタリアンな結末とはいえ、恐ろしい限りです。