Michael Jackson「石原裕次郎が酒に浸ったのは、実物の自分とスターとしての自分の境界が見えなくなったからだ」――そんな主旨の言葉を、作家野坂昭如氏はかつて著書で述べていました。私がディスコ通いをしていた1987年、肝臓がんにより52歳で死去した裕次郎氏は、大酒のみとしても知られていました。銀幕のスターも、私生活ではけっこう身を持ち崩していたというわけです。「酒が原因で死んだのでは」との報道も、19年前の当時はよく流れていました。

ところで、「ダンスポップの特大スター」マイケル・ジャクソンは10年ほど前から、ペドフィリアック(小児愛者)であるとずいぶんといわれてきました。実際、立件もされたわけですから、相当な「疑い」はあったのかもしれません。だんだんと顔が白くなる「整形疑惑」や数々の奇行ともども、彼を変人扱いする大きな根拠になってしまいました。それでも、小児愛者疑惑については、評決により無罪となっています。

有名人はプライベートも興味の対象とされてしまいます。裕次郎氏もマイケル氏も、常にマスコミに監視されて、あれこれと書きたてられる立場でした。特にマイケルなんて、パパラッチ的なマスコミの犠牲者の代表ともいえるでしょう。そうこうするうち、本人の実像と虚像がだんだんとかけ離れていくこと必定ですから、生身の人間として身を持ち崩すのも無理はないかもしれません。

ですが、「本当の加害者」とは、それを求める大衆であることは強調しておきたいですね。

本当は裕次郎が酒飲みだろうが、マイケルに奇行癖があろうが、プライベートな部分って、作品や仕事の評価とは別であるはずです。でも、現実はそうはいかない。健全な民主主義社会では、権力などの発信者側が「流したい」情報だけではなく、大衆が「知りたい」と思う情報をマスコミは提供し続けるわけです。「民主主義ってときに残酷だな」と、思わずにはいられません。

ディスコだってそうなんですよ。当の大衆が一時期熱狂したにもかかわらず、熱が冷めると「ダサい」とかいう。マスコミもそれに乗ずる。「マスコミや広告代理店の側がブームを作り、壊す」という側面も否定はしませんが、いちおう民主主義社会である以上、概ね「お客」でもある大衆の気分をまず汲み取って「ブーム化」「非ブーム化」しているわけです。

まあ、流行なんてそんないい加減なものですけれども、一般的なレッテルだけではない評価を私は大切にしたい(きっぱり)。それだって「思想信条の自由」みたいな、民主主義というものですしね。「ディスコはいいのだ」という少数派の立場を保ちつつ、やはり少しでも誤解を解いていければ(!?)と思っています。「つぶやきの広場」ブログなんですから。

そう、ディスコはそもそも誤解されている。本質を見ないでイメージから「ダサい」と決め付けるムキが多い。といって、ムキになってはいけませんが…。

このブログで何度も触れてきたように、簡単にいえば、ディスコとは70年代中期〜80年代後期を中心に存在した「DJがいる踊り場」、もしくは「DJがいる踊り場でかかった曲」のことです。ときに音楽通からは「歌謡曲だよね!」なんてインテリチックに軽蔑されがちですが、そんな差別意識を私は持っていません。

マイケルだって、とりわけ70年代後半に「ジャクソン・ファイブ」の一員としてのソロ活動を本格化して以降、そりゃもう立派なディスコ・アーチストでした。いいですねえ〜、「ビリー・ジーン」や「スタート・サムシング」「スリラー」のぐる〜ぶ感、そしてマイケルの踊り。ディスコそのものです。ただし、ヴァン・ヘイレンがギターで参加した「今夜はビート・イット」は、ややロック過ぎると思いますが。

写真の「スリラー」(82年)は、世界中で計4000万枚以上ものバカ売れを記録した怪物盤です。ディスコでも80年代の一番の主役でした。プロデュースは、当時は飛ぶ鳥を落とす勢いだったクインシー・ジョーンズ。9曲中7曲までもが全米ベスト10に入りましたし、ほとんどは踊りやす〜い曲です。私自身もディスコで7曲すべてを聞いたことがあります。この時代を代表するディスコといえば、女性ではマドンナがいる。でも、それでも彼の足元にも及びませんね。

奇行のマイケルも、この偉大なアルバムがある限り大丈夫。もうピークは過ぎてますが、誰だって人生のピークを越えたら落ち目になるわけですから、仕方がありません。

さらに言うと、「バッド」(87年)より後のマイケルには関心がありません。87−88年というのは、徐々にディスコの勢いが衰えていく微妙な時期でもあるからです。このスリラーと、前作「オフ・ザ・ウォール」(79年)の2枚があれば、私は十分でございます。