
当時の住所は札幌近郊。既に中学のころから好きなディスコのレコードを集めていた私は、ディスコデビューをひたすら夢見る少年だった。
高校1年も終わりに近づいたころ、ついに友人たちとススキノのディスコに行くことになった。男中心に総勢10人ほど。田舎の中途半端なつっぱり少年だった私は、パーマのリーゼント頭にゴルフウエアみたいないでたちだった。上は真っ赤なトロイ(というブランド)のポロシャツ、下が黒のフレアー(と呼ばれるズボン)というもの。格好だけを見ると40代以上のおやじそのものだった。
入ったのは「生羅栗巣樽(なまらくりすたる)」という変てこな名前のディスコだ。当時、つっぱりの格好ではなかなかディスコには入れなかったのだが、そこはなぜか入店を許可してくれた。
友人たちと暗い店内に入ると、入り口付近で既に、奥のフロアの方から「ドスドス」とバスドラが響いてくる。耳を澄ますと、よく知っている音色が聞こてきた。メン・アット・ワークの「ノックは夜中に」だった。
いてもたってもいられない。私は友人たちと店の奥になだれ込んだ。まあ、なんてきらびやかなダンステリア!!。「クリスタル」ということもあって、ガラスの虎みたいな置物とか、金色のまがい物の装飾品みたいなものが随所に配置されている。まあ、今思うとダサいことこの上ないが、私はただ興奮していた。
しばらくは、フリードリンクの飲み物を取りに行ったり、聖子ちゃんカットの女の子を物色したり、店内をうろうろしていたのだが、そのとき突然、曲調が変わった。一世を風靡し始めていたデュラン・デュランの2作目(写真)に入っている「マイ・オウン・ウェイ」だ。
「行くぞ!!」と誰かが小さく掛け声を上げた。私たちは、タバコやらライターやらをテーブルの上に置いて、踊りに飛び出した。
いやあ、狂喜乱舞の異次元空間!踊りは適当、単にリズムに合わせるだけだったが、私はさらに舞い上がってしまった。フロアはさほど混んではいない。もみ上げを剃り、刈り上げにしたテクノカットの兄ちゃんが2人、七色のカクテル光線を浴びながら、向かい合って軽快に体をくねらせている。
そこはロック系の曲が中心のようだった。「アップサイド・ダウン」のようなブラコンもかかったが、フロック・オブ・シーガルズの「アイラン」のようなニューウエーブ、ニューロマンティックが多かったのを憶えている。もちろん、世界中でヒット街道をばく進していたデュラン・デュランは一番人気で、何度も繰り返しかかっていた。
ミラーボールの星の下、忘我の極地でしばらく踊っていると、友人たちが私を見て、けらけら笑い始めた。せっかく気持ちよく華麗なる宴に酔っているというのに、失礼な話ではある。「なによ!(注:北海道弁。女ことばのようだが、北海道では男がこう言う。東京だと「なんだよ!」)」と、私は怪訝な顔を友人たちに向けた。それでも、友人たちは笑い転げるばかりだ。
すると、「開いてるぞ!お前」と友人の一人が、嬉しそうに私の下半身を指差した。
…なんと、「社会の窓」が元気よく開いていたのである。あの一張羅ともいえる「赤のトロイ」のシャツのすそが、全開のファスナーの間から顔をのぞかせ、しっかり自己主張していたのだった。「みんな、みてみて!!」と言わんばかりに。ズボンが黒いだけに、その赤がいっそう目立っていたのが哀しかった。というより、むしろ消えて無くなりたかった。フロアの隅では、さっきちょっと目をつけていた女子が、くすくすとこちらを見て笑っているのが見えた…。
狂気の異空間で一人、現実に引き戻された私はその日、二度と踊らなかったことは言うまでもない。というか、とっとと家に帰りたかった。こんな恥、めったにかけるものではない。まさに、ほろ苦過ぎるディスコデビューであった。
以来、バイク好きでもあった悪友たちからつけられた私のあだ名は、「(全開バリバリ)レッドゾーン」ということになった。