Bee Gees 79アメリカを中心としたディスコブームの最大の立役者ビージーズは、実はイギリス・マンチェスター出身でオーストラリア育ちの3人組です。バリー、モーリス、ロビンのギブ兄弟は、70年代後半の世界音楽シーンをほぼディスコ一色に染め上げました。

77年に発売した映画「サタデー・ナイト・フィーバー」のサントラでは、全17曲のち「ステイン・アライブ」「恋のナイト・フィーバー」などお馴染みの8曲を担当しています。映画の主役のジョン・トラボルタとともに一躍、ディスコの象徴にまでなったのは周知の通りです。

この3人組は、もともとビートルズを模倣してイギリスで売り出され、60年代からフォーク、ソフトロック、ポップスといった分野で音楽活動を展開していました。「ニューヨーク炭鉱の悲劇」(67年)などの中ヒットを飛ばしていたのですが、70年代半ばにはスランプに陥りました。そこで彼らと長年の付き合いがあったロバート・スティグウッドというイギリスの大物プロデューサーの仲介でサタデー・ナイト・フィーバーを担当することになり、大成功を収めたというわけです。

勢いに乗った3人は、79年にアルバム「Spirits Having Flown」(上写真)を発売し、これも大ヒットさせます。ディスコ系では「Tragedy(哀愁トラジェディ)」というのが入っていて、ビルボード一般チャート1位、ディスコチャートで22位となりました。

この間、3人の末弟でアイドル顔のアンディ・ギブも「シャドウ・ダンシング」(78年、ビルボード一般1位)などのディスコ系の大ヒット曲を連発。“ギブ兄弟”はまさに時代の寵児となりました。バリーはついでに78年には、オリビア・ニュートンジョンとジョン・トラボルタの大ヒット青春映画「グリース」のサントラまで担当しております。

ところが、やはりよいことは長くは続かない。80年代に入ると、ディスコブームの終焉とともに、一気に人気が凋落していきました。ディスコから離れて、かつてのソフトロック路線に戻ったものの成果は今ひとつ。バリーについては、ちょっと前に紹介したディオンヌ・ワーウィックとかバーブラ・ストライザンドといった大物アーチストのプロデュースなどはやっており、かなりの知名度は保っていたのですが、もうピークはとっくに過ぎていました。

異常な人気が終わった後には、反動がありました。バリーは背中の難病にかかり、かつてのような活動はできなくなりました。モーリスはアルコール中毒になり長年、苦しんだ末に2003年に53歳で死去。弟のアンディはドラッグとアルコールに溺れ88年、心筋炎により30歳で早世しました。

まあ、こうした暗い後日談は、当ブログでも何度も触れてきたように、AIDS禍をはじめとして、ディスコ界では珍しくありません。あまりにもアナーキーで狂気の空間、時代だったがゆえに、「宴のあと」は空しいものです。

それでも、人種やジェンダーなどの垣根を越え、精紳の解放をもたらし、なんとなく融合できた自由でアナーキーな時代など、音楽史的にはほかに見当たりません。

自由の思想を日本に広めようと奮闘した大正期のアナキスト大杉栄は、評論「新秩序の創造」でこう言っています。「みんなが勝手に踊って行きたいんだ。そしてみんなその勝手が、ひとりでに、うまく調和するようになりたいんだ。(略)この発意と合意との自由のないところになんの自由がある、なんの正義がある」。

まったくディスコとは、こうした自由調和の空間だった気がします。みな勝手に踊っていても、なんとなく秩序があった。DJという“船頭役”はいるにせよ、勝手にフロアから離れることもできるわけですから、支配者などではないわけです。ここが「ミュージシャンが観客を独占して離さない」通常のライブと大きく違う点です。

身体性がすべてであり、非常に愚かで頭の悪いおバカさん空間ではありますが、そんないい加減な場所に、私は何度救われたか知れません(笑)。そして何よりも、ドスンと全身に響いてくる大音量の音楽があればこそでしたね。

(トラボルタの“決めポーズ”付きで)「ディスコっていえばビージーズかい?」なんて、私は今も言われることがありますけど、ディスコの礎を築いた功労者たちとして、ギブ兄弟は永遠に讃えられるべきでしょう(大断定)。

さて、この人たちのCDは一通り出ています。どれも比較的入手しやすい状況であります。おススメは下写真のワーナー盤2枚組「グレイテスト・ヒッツ」ですね。ヒット曲がほぼ網羅されている上、かの「ステイン・アライブ」の12インチバージョンが収録されているのです。これは中間奏で入ってくるサックスの音色がここち良く、曲自体がけっこうレアでもあります。

Bee Gees