ハマさん2七色のカクテル光線が飛び交うディスコのフロア。大音響の洪水が巨大なスピーカーから流れ出し、振動が内臓の奥深くを揺さぶるかのようだ。天空から見下ろすのは、ありがたきミラーボールの御神体。ふと足元を見やると、ドライアイスのスモークがふわふわと忍び寄ってきた。ここは桃源郷か、はたまた闇の魔界への入り口か……。と、そこに、耳元で囁くような滑らかなアナウンスがどこからか流れてきた。

「夜のにおいが大好き 大人の香りがするから ゼノンのあるマチが大好き あなたがそこでDJをしているから ……さあ、次にお届けするのは、そんなロマンチックなあなたにぴったりな哀愁ハイエナジーのこの曲です……」

曲の合間に曲紹介の「しゃべり(トーク)」を入れたDJスタイルは、いまのクラブにはない、ディスコならではの演出だった。現在よりもはるかに若者の心を捉えていたラジオのディスクジョッキー(DJ)のスタイルを踏襲したものともいえる。フロアを埋め尽くした客はみな、前口上とともに流れてくるヒット曲の数々に酔いしれ、時が経つのを忘れて闇夜の舞踊に興じたのである。

そんな「しゃべり(トーク)DJ」の代表格として、70-80年代の夜の新宿・歌舞伎町で名をはせたのが「DJハマちゃん」こと浜田直樹さん(51歳、写真上下)だ。冒頭に挙げたのも、ハマちゃんが実際に使っていたアナウンスの一例である。季節はずれの肌寒さを感じさせる4月下旬、ご当地新宿の喫茶店で会ったハマちゃんは、このアナウンスにまつわるこんなエピソードを私に明かしてくれた。

「実は、この言葉は、ファンからもらった手紙に書いてあったんです。ある女の子が、『ハマちゃん、これ食べてね』って差し入れの弁当を持ってきたのですが、一緒に入っていた手紙に自作の詩が添えられていたんですよ。まあ、あのころのDJはモテましたから……1日に5個ぐらい差し入れの弁当をもらって、スタッフに分けていたほどでしたからね」

普通の状態で聞けば照れくさいほどのいわば“歯の浮くような”詩ではある。が、心の壁を取り払う解放空間のディスコであればこそ、高揚した者たちの胸に素直に響くのだ。 憧れのDJに思いを伝えるため、懸命に言葉を紡いだこの少女にとっても、日常の生き難さや鬱憤から逃れるための、数少ない癒しの場だったに違いない。私自身も当時、その中に身を置いていた一人として、よく理解できる。それがたとえ虚しい「つかの間の夢」であり、大人たちからは禁じられた「火遊びの場」だったとしても、彼ら、彼女らにとっては、祝祭の熱狂に身を委ねる理由が確かにあった。

ハマちゃんは中学時代にディスコ音楽と出会った。高校時代には客として通いつめ、大学時代の1978年にプロDJとして働き始めた。空前の大ヒット映画「サタデー・ナイトフィーバー」が火付け役となり、世界中でディスコ音楽が鳴り響いていたころだ。赤坂、六本木、渋谷、新宿……。東京のディスコの“主戦場”で、先輩DJにしごかれながら腕を磨き、1982年6月に新宿・歌舞伎町にあった大規模店「ゼノン」にDJとして入り、間もなく数人の後輩を抱えるチーフDJとなった。

「僕がDJになったころはブームがピークでしたから、フロアが連日満杯でした。従来の黒人ソウル系に加えて、ビージーズやキッスのような白人ミュージシャンもブームに乗っかり、ディスコの曲を次々と出すようになっていました。でも、80年代初頭までは、やはりアース・ウィンド・アンド・ファイアー、ピーチェス・アンド・ハーブ、エドウィンスター、リック・ジェームス、それに『ヤングマン』のビレッジ・ピープルなど、黒人ミュージシャンの曲をかけることが多かった。ジョージ・ベンソンのようなサーファーが好む曲も流行っていましたね」

だが、ゼノンに入ったのは、折りしも歌舞伎町が強烈な“逆風”に晒されていた時期だった。1982年6月、中学生の少女がディスコの帰りに何者かに殺害されたいわゆる「新宿ディスコ殺人事件」(1997年時効成立)が発生した。深夜営業の禁止、未成年者の入店規制などの取締りが強化され、新宿ディスコの灯火は消えたかのように思えた。ところが……。

「深夜営業はなくなりましたが、客の入りは相変わらずよかったんですよ。事件の悪夢を凌ぐほど、“踊り場”ディスコの人気はなお高かったということです。週末は超満員で、1日2千人から3千人は入っていましたからね。ディスコ音楽についても、ちょうど新しい風が吹き込んできた時期だったんです。大スターになったデュラン・デュランなどのイギリスのニューウェーブもそうです」

けれども、一番“潮目が変わった”と感じたのは、81年に発売され、徐々に世界中のディスコで定着し、日本でも後にロングランヒットとなっていった「君の瞳に恋してる」の登場だった。いわずと知れたこのボーイズ・タウン・ギャングの名曲がフロアで大ウケしたこの時期、ハマちゃんは先輩から教わった「しゃべり型」DJにも磨きをかけた。

「六本木は『曲のつなぎ方』、新宿は『しゃべり』で客をひきつける文化があったように思います。とにかく『エー』というつなぎ言葉を入れないでよどみなくしゃべる。ここに一番、注意を払っていました。たとえば、30分間普通に曲をつないで、『一押し』の1曲をしゃべりで紹介して、その後は少しゆっくりした曲でトーンダウンさせて……といった具合にプレイしていって、とにかく客を飽きさせないように工夫していましたね」

当時の曲は、後のハウスやテクノといったビート重視かつ単調な曲調と違って、Aメロ、Bメロ、そしてコーラスと、曲全体の抑揚やメロディーラインがはっきりしていた。それだけに、ボーカルが入るまでのイントロの段階で雰囲気を盛り上げる「しゃべり」は、抜群の効果を発揮した。とりわけ、「君の瞳」に代表されるハイエナジー、さらにその発展形としてのユーロビートは、「哀愁ディスコ」ともいわれるほどドラマチックに展開するのが特徴だったから、なおさら劇場効果を呼び起こすことができた。

80年代後半に入ると、円高や低金利を背景にバブル経済に突入し、いよいよ「バブルディスコ」の絶頂期となる。もちろんDJハマちゃんもエンジン全開である。このころにはゼノンのほか、六本木にあった有名店「リージェンシー」などでもチーフDJとしてプレイするようになった。流行の最先端の遊び場で、毎日何十枚ものレコードに針を落としていく中で、ディスコの国内盤を発売する音楽レーベルのスタッフとのパイプも太くなっていった。

「何しろ毎月、300枚以上ものレコードが店に届いていましたからね。その多くは、レコード会社のプロモーターから『この曲をかけてほしい』と届けてきたレコードです。ほかに1店あたり毎月約8万円分、近くの輸入盤店で買い付けていました」

国内の最新ヒットの動向を左右するほどの音楽発信源として、ディスコのDJが相当な影響力を持っていたことがよくわかる。実際、ハマちゃんは当時、「ギブ・ミー・アップ」で知られるマイケル・フォーチュナティーやジェリービーンなど、数十枚のディスコヒットの7インチシングルやLPレコードのライナーノーツも書いている。 バブル時代の光景といえば「お立ち台、ワンレン、ボディコン」が連想されるほど、ディスコとバブルは密接不可分な関係だった。いわば老若男女、日本人も外国人もともに踊り狂う「5メートル四方のアナキズム」を実現したフロアとは、浮かれ気分の若者にとっては最高の舞台でもあったのだ。

けれども、だからこそ、ディスコにはいつも光と闇が交差した。酒、暴力、男女の歪んだ出会い、ドラッグ……。究極の「自由空間」は、同時に異常なまでの「放蕩空間」と紙一重だったから、古来からの祭りがそうであるように、いつだって狂気を孕んでいた。もちろん、DJたちにとっても誘惑は多かった。

「中には女や酒に溺れて身を持ち崩すDJ仲間がいたことも確かです。私はお酒は飲めず、性格も真面目な方だったので、ほとんど遊びはやりませんでした。とにかくDJをやること自体が好きでしょうがなかったから、いつも『明日はこの曲を中心にかけよう』とか、そんなことばかり考えていました。その分、店のオーナーからは信頼されていたとは思いますがね」 と笑顔を見せるハマちゃんだが、それでも、いかにも「ザ・歌舞伎町」な恐ろしい体験もしたそうだ。

「80年代半ばごろ、歌舞伎町の喫茶店に入ろうとしたら、少し派手な格好をしていたからでしょうか、若いチンピラに『チャラチャラしてんじゃねえよ。何だおめえは』って凄まれました。『ディスコのDJやってます』と答えたら、いきなり態度がかわっちゃって、ひるんだ表情を見せたんです。地元の店のDJと問題を起こしちゃまずいと思ったんでしょうね」

すかさず、傍らにいた“兄貴分”らしい男が「おわびをさせてほしい」と丁寧に謝ってきた。近くの高級焼肉店に招待したいという。ここで断るとまた面倒なことになると思い、黙ってついていった。

「そうしたら店に入って席に着くなり、その男が、料理の名前が並んだメニューの右上から左下の隅まで指ですーっとなぞって、『これ全部くれ』って店員に注文したんですよ」 。 テーブルに届けられた大量の肉と野菜。「こりゃ食いきれない」と大いにひるんだものの、必死になって箸を運び、なんとか平らげることができた。……だが、これで終わりではなかった。帰り際、「DJさん、タクシー代です」とお金を渡された。その額がなんと10万円だったという。

「2、3千円で到着できるような場所に住んでいたから、これまた『困ったな』と思いました。でも、とりあえず受け取ったんです。そう、ここで断わってはいけないんです。渡世人の彼らのプライドを傷つけることになるので、かえってまずいんですね」

彼らの本当の意図はうかがい知れないにしても、一般の人間からすれば馬鹿馬鹿しいほどの見栄の張りようだ。けれども、こんな滑稽な出来事が実際に起きるのも、虚実がないまぜになった日本一の歓楽街「歌舞伎町」であるが故なのだろう。地元で巨額の金を稼いでいた人気店のDJとは当時、それほど一目置かれていた存在だった、ともいえるのだ。

しかし、酔狂の宴は永遠には続かなかった。90年代初頭、バブル経済が崩壊するとともにディスコも衰退し、間もなくうたかたのように消えていった。ハマちゃんも90年代の後半以降は、レコード会社で制作者として勤務するなど、別の道を歩んでいった。ほかのディスコDJたちの多くも、クラブの台頭とともに一線を退いていった。

なにしろ「バブル=泡」なのだ。鎌倉時代の随筆家、鴨長明が無常観を綴った「方丈記」の冒頭にも「川の水面に浮かぶうたかた(泡)は、消えては生まれ、生まれては消え、とどまるところがない……」とある。投機に浮かれた不動産業者も株のブローカーも、そして好景気を歓迎した普通の人々も、こぞって“幻”に踊らされていたのだから、ディスコだけをあげつらってもしかたあるまい。

それでもハマちゃんは、ディスコ世代のDJとしての情熱が冷めたわけではなかった。今だって、本業のレコード・CD販売業の傍ら、都内のダンスクラシックやディスコのイベントに呼ばれ、熟成した「しゃべりDJ」を披露することも少なくない。こつこつと集めたレコード、CDも今なお計1万枚以上、所有しているという。

ディスコってなんだったんだろう――。残り少なくなったコーヒーを口にしながら、ハマちゃんはあの時代を振り返ってこう話した。

「みんなにとっての自己表現の場、だったのかな。ファッションだったり、ダンスだったりと、方法は様々だけれど、とにかくいろんな人が集まる流行の空間で、自分たちの存在をアピールする格好の場だったのだと思います。ディスコはあくまでも踊る客が主役ですからね。DJはそれに応えながら『こんな曲があるよ』と即興で紹介していく。『コール・アンド・レスポンス』(呼びかけと反応)の世界なんです。あれだけ世代を超えて人々を引き寄せた遊び場は、ディスコ以外にはないでしょう」

娯楽や趣味、そして社会そのものがますます個別化し、多様化、断片化している今、もう二度と同じような共有空間は立ち現れないかもしれない。けれども、ディスコは死んではいない。踊り場が「クラブ」と名を変えて生きながらえているように、音楽に身をゆだねて体を動かす人々の欲求は、これからも変わることはないからだ。クラブのルーツとして、さらには唯一、世界を同時に熱狂させたダンス音楽として、ディスコはいつまでも記憶されるはずだ。

だからこそ私自身、「楽し過ぎた」あの時代を生きた客の一人として、単なるノスタルジーではなく、リアルに幻影を追い続けられているのかもしれない。あのときの名DJが、なお現役で活躍している事実こそが、それを証明してくれるのである。
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