Leif Garret1さて、今回はアメリカが生んだ「少年アイドルディスコ」の代表選手レイフ・ギャレットです。1970年代半ばに突如として子役スターになり、あっという間に転落していったというまさに「ディスコな人生」を歩んでおります。

レイフさんは1961年米カリフォルニア州生まれ。幼少時から子役として映画やテレビに出演し、70年代に甘いマスクのティーン・アイドルとして人気が急上昇。1976年には名門アトランティック・レコードと契約し、歌手としてアルバムを出すようになります。

最初はビーチ・ボーイズの「サーフィンUSA」をはじめとする50〜60年代のサーフ音楽などのカバー曲が多かったのですが、70年代後半に入ると完全にディスコに開眼。78年に発売したアルバム「Feel The Need」に入っている「I Was Made for Dancin'」(邦題「ダンスに夢中」)が、全米ポップチャート(総合チャート)で10位となり、最高潮を迎えます。さらに同アルバムのタイトル曲(デトロイト・エメラルズの72年のヒットのカバー)も同57位と、まずまずの結果を残しました。

人気は海を越え、日本や欧州にも到達しました。特にシングルの「Feel The Need」のB面に収録されていた軽快ナンバーの「New York City Nights」は、1980年に田原俊彦がカバーして「哀愁でいと」の邦題で発売され、大ヒットさせております。

けれども、もともと歌がうまいわけではないこの人の歌手生命は、いかにも短かった。歌手として売れ始めたころにドラッグや酒に手を出し、典型的なアイドル転落プロセスを歩むことになります。17歳だった79年には飲酒運転で事故を起こし、同乗して重傷を負い、半身不随の身になった友人から提訴され、巨額の賠償金を支払うはめになってしまいました。

81年には、日本の作曲家、都倉俊一氏らのプロデュースによりアルバム「My Movie of You」を発売しますが、まったく勢いはなく、それ以降は音楽活動からは遠ざかってしまいました。俳優活動の方も、83年公開の大ヒット青春映画「アウトサイダー」に出演した程度で、やはり凋落の一途をたどります。何しろ大きな原因がドラッグ中毒だったので、立ち直るまでには非常に時間がかかってしまうことになりました。蓋し過剰こそディスコの生命、但し過剰な人生には代償が伴うものなのです。

ようやく90年代に入り、アメリカの「あの人は今」的なテレビ番組に出演したり、音楽活動も少しずつ再開したりするようになったものの、もう完全に「過去の人」です。

個人的には、「I Was Made for Dancin'」と「New York City Nights」はなかなに出来のよいアゲアゲ絶好調ディスコだと感じておりまして、12インチのロングバージョンなんかも昔に買った覚えがあります。しかし、ディスコのコンピレーションなんかでもほとんど無視されており、悲しい限りです。

というわけで、この人のCDはかなり絶望的なのですけど唯一、ベスト盤「The Leif Garrett Collection」(上写真)が主なヒット曲を網羅していて充実しています。例えば、前記「I Was Made...」と「New York...」以外では7曲目「You Had To Go And Change」、9曲目「Runaway Rita」なども米西海岸風の気分爽快なロックディスコが炸裂しておりまして、ベイ・シティ・ローラーズあたりと繋げてかけると思わぬ狂喜乱舞になりそうです。