ディスコ堂 by mrkick

音楽に貴賎なし ―Discoの考察とCD批評

80年代前半

ザ・タイム (The Time)

The Timeここ東京は好天の日曜日となりましたが、今回は1980年代に活躍したプリンスファミリーのコミカルなファンク・バンド「ザ・タイム」と参りま〜す。

このバンドの起源は、1975年に米ミネアポリスで結成された「Flyte Tyme(フライト・タイム)」。リードボーカルは後にリップスに移って「ファンキータウン」(1980年、米ビルボード一般総合1位、米R&Bチャート2位、米ディスコチャート1位)という大ヒットを飛ばしたChynthia Johnson(シンシア・ジョンソン)が担当し、他にも 1980年代半ばからSOSバンドジャネット・ジャクソンのプロデュースで名を馳せることになるJimmy Jam(ジミー・ジャム、キーボード)やTerry Lewis(テリー・ルイス、ベース)も参加していました。

才人を集めつつもあまり売れなかったFlyte Tymeは、1981年、同じミネアポリスで既に頭角を現していたかのプリンスの指揮の下、ザ・タイムとして再出発。プリンスはリップスに移ったシンシアの替わりに、高校時代からのバンド・メイトであるモリス・デイをボーカルとして加え、音楽的にも自らの得意とするロックテイスト濃厚なシンセ・ファンク路線へと移行させました。これが奏功し、80年代を通してなかなかの存在感を発揮する異色ファンクバンドとして成長を遂げることになったのです。

ただ、81年に発表したタイムのファースト・アルバム「Time」は、名目上はジミー・ジャムやテリー・ルイスらメンバーの演奏となっているものの、実際はプリンスがモリスのボーカルを除くすべてのパートを演奏して制作されました。

あまりにも大きな影響力を発揮する天才プリンスと、袖にされがちなタイムの各メンバーとの確執も絶えませんでしたが、プリンスがソロアーチストとして忙しく活動するようになった82年に発表した2枚目「What Time Is It?」以降は、(プリンスの影響は依然大きいにせよ)バンド本来の独自性を見せるようになっていきます。

タイムの特徴は、なんといっても「80年代のディスコ伝道師」モリス・デイのチャップリンみたいなおどけた風貌とパフォーマンス、それにときどき「ウホホホホ!」と熱帯雨林の鳥類のような雄叫びまでをも交える個性的なボーカルワークにあります。1982年の「777-9311」(R&B2位、ディスコ47位)、「The Walk」(同24位、ディスコ47位)、84年の「Ice Cream Castles」(同11位、同70位)、Jungle Love(同6位、同9位)、85年の「The Bird」(同33位、同6位)など、ディスコでも人気を博した曲が数多くあります。

また、モリスさんは、プリンスが84年にプロデュースした映画「パープル・レイン」にミュージシャン役で起用されており、そこでは「Jungle Love」を始めとする自分たちの曲をコミカルに披露しております。このジャングル・ラブなどは、現在のUptown Funkなどのダンスヒットで知られるBruno Marsらの音作りに色濃く反映されており、80年代の音楽がなおもしぶとく息づいていることを感じさせます。かなり以前の曲ですけど、日本では米米クラブの「コメコメウォー」(88年)もオマージュ的に似たところがあります。

Timeは90年に「Jerk Out」(総合9位、R&B1位、ディスコ6位)という素っ頓狂な“鳥の雄叫び”をちりばめた大ヒットを飛ばした後、ヒット作は出なくなりました。この曲が入った「Pandemonium」が彼らの最後のアルバムになってしまったのですが......特筆すべきは、このアルバムにはなんと「Donald Trump (Black Version)」という曲も収録されているのです。文字通り、不動産王として既に有名だったトランプ・現米大統領をテーマにしたラブ・バラードで、「君はやっぱりトランプのようなお金持ちの男がいいんだろ?」みたいな歌詞が展開しております。これも作曲はプリンスでして、彼の天才ぶりならぬ“預言者”ぶりが、こんなところにも発揮されているのでした。

そんなわけで、トランプの呪いなのかどうか、90年代以降は勢いがなくなってしまったザ・タイム。それでも、解散・再結成を繰り返しつつ、2000年代以降も命脈は繋いでいます。昨春にプリンスが亡くなったすぐ後にも、ロンドンで追悼の再結成ライブパフォーマンスを披露しています。

タイムが81〜90年に発売した計4枚のアルバムともに、きちんとCDで再発されています。写真は、「ジャングル・ラブ」や「ザ・バード」が収録された84年発売の3枚目「Ice Cream Castle」。モリスさんの80年代のソロ作品「Color of Success」と「Daydreaming」も再発されておりまして、こちらも雄叫び度はやや低いながらも、彼特有の「ねっとりボーカル」を生かした落ち着いた感じのR&Bダンス曲が楽しめます。

ジュニア (Junior)

Junior謹賀新年。お久しぶりで〜す。今回は景気よく、イギリス発ソウルの先駆者でもあるジュニアさんと参りましょう!

彼の代表曲は、何といっても1981年発売の「Mama Used To Say(ママ・ユース・トゥ・セイ)」(全米R&Bチャート2位、全米ディスコ4位、全米総合チャート30位)。特徴的なファルセット・ボイスが生かされた80年代ソウル・ディスコの傑作といわれています。

この曲は、プロモーションビデオ(PV)もチープなCG映像にあふれかえる陽気さが特徴でなかなか面白いのですが、アルバム・バージョンや12インチ・バージョンだと、イントロの最初にボンゴのリズムが忍び足で入ってきたかと思うと、途中からは「かんかんころりん、かんころりん」とおとぼけパーカッションが彩りを添えるというひねり技を展開しています。

この「かんころりん」は、ジュニアのベストアルバムCD「The Best Of Junior」(写真)によると、本人と制作スタッフが「何かインパクトのある音を加えたい」というわけで録音作業中に急きょ挿入したもの。なんと録音スタジオの近所から牛乳ビンを何本か入手し、それぞれに異なる分量の水を入れて、音色の違う「ビン打楽器」を作って即興で音を入れたのでした。

そんな人知れぬ工夫もあって、見事に世界的なヒット曲を生み出したジュニアさん。それまでは黒人ソウル音楽といえばアメリカ発がお定まりだったわけですが、イギリス人の黒人として米国市場で売れた草分けの歌手になったのでした。

彼は「ママ」以降も、「Too Late」(81年、R&Bチャート8位、ディスコ67位)、「Unison」(83年、R&B44位)などの軽快なフロア・ヒットをいくつか飛ばしました。さほど売れなかったものの、84年発売の「Somebody」も重量感のある音作りで結構なダンサブルぶりを発揮しており、実際にディスコでもよく耳にしております。87年には、少し前に紹介したキム・ワイルドとのデュエット曲のロックディスコ「Another Step Closer To You」を本国イギリスを中心に大ヒットさせました。

80年代後半以降は、アーチストとしては人気が下降し目立った活躍はできなくなりましたが、エイミー・スチュアートやマキシ・プリースト、シーナ・イーストンといった他の人気歌手に楽曲を頻繁に提供するなど、作曲家・制作者としての才能を開花させています。

ジュニアさんは1961年生まれ。本名はNorman Giscombe Jr.といいまして、そこから「ジュニア」というアーチスト名が付けられました。80年ごろには早くもプロとしての音楽活動を始めていたのですけど、その初期の81年に本名でリリースした「Get Up And Dance」という曲がありまして、これがかなりレアで良質なディスコ曲となっております。同じイギリス育ちのソウル・ディスコ歌手だったビリー・オーシャンにも似た感じ。まだ20歳そこそこだったわけですので、相当に早熟なアーチストだったといえるでしょう。

この人のCDは、「ママ」が入ったデビューアルバム「Ji
」(1982年)以外はあまり再発されていません。さほどヒット曲もないので、ディスコ時代のヒット曲が12インチバージョンも含めてほぼ網羅された上記ベスト盤(米Mercury盤)が無難かと思われます。

スカイ (Skyy)

Skyyいやあちょうど10日ぶりとなりま〜す。今回は愉快なファンク・ディスコの正統派「Skyy」(スカイ)と参りましょう!

ディスコ界では、常人には理解困難な“大うつけ者ファッション”(例・CherBetty WrightDee D. Jackson)が流行したわけですが、この人たちもまさに当時、宇宙人みたいに大げさなコスチュームに身を固めた愛嬌たっぷりの8人グループでした。背景には、米ソの超大国による宇宙開発の活発化、1976年に公開された映画「スターウォーズ」の大ヒットがあります。

ただ、外見上はキワモノ要素満載とはいえ、Skyyは狂気の限界をわきまえたディスコ界の常識人でした。音楽的にはとてもきちんとしていて、Brass Constructionのメンバーでもあったランディ・ミュラー(Randy Muller)とソロモン・ロバーツ(Solomon Roberts)を中心とした演奏にはそつがなく、デニス(Denise)、 デロレス(Delores)、ボンヌ(Bonne)のダニング(Dunning)3姉妹のボーカルワークも冴えわたる実力派だったのです。

1970年代半ばにニューヨークで結成した彼らは、70年代後半にディスコ・レーベルとして躍進したサルソウル(Salsoul)・レコードと契約。79年にはデビューアルバム「Skyy」(写真)を発表し、その中から「First Time Around」をヒットさせました。Skyyのグループ名は、既にSkyというグループが存在したため(確かにどこにでもありそうだ)、差別化するために末尾に「y」をくっつけたのでした。

この曲は、ディスコ・リズムの代名詞「シンドラム」を駆使した逸品で、Tamiko Jobnesのヒット曲「Can't Live Without Your Love」にも似た感じで「ぴゅんぴゅん、ぽこぽん!」サウンドが随所に展開するゴキゲンさです。

この人たちはけっこうな多産型グループで、その後は年に1〜2枚のペースでアルバムを発表。80年発売の2枚のアルバム「Skyport」と「Skyway」からはそれぞれ、「Here's To You」(米R&Bチャート23位、米ディスコチャート24位)と「Skyyzoo」(同32位、同41位)などのダンスヒットが生まれました。

特にSkyyzooは、文字通りカズー(Kazoo)という口で吹く楽器を駆使。Freedomの名曲「Get Up And Dance」みたいに「ぶーぶーぶー!♪」と子豚さんみたいなすっとぼけた音が次々と繰り出し、かえって踊り心がくすぐられます。

そして81年、彼らは代表アルバムとなる「Sky Line」を発表し、その中から「Call Me」という最大のヒットを生みました(R&B1位、ディスコ3位)。この曲は下地のヘビーなドラムとベースラインにギターやら電話の効果音やらがうまく乗っかり、そこにデニス・ダニングの声がほどよく絡んでくる佳作でして、ディスコでもよく耳にしたものです。

そのSkyy特有のリズム展開は、後のディスコヒットの「I’ll Do Anything For You」(Denroy Morgan、81年、米ディスコチャート7位)や「Thanks To You」(Sinnamon、82年、同1位)にもモロに影響を与えております。

このアルバムで言えば、「Let's Cereblate」(R&B16位)と、再びカズー音を多用した「Jam The Box」なども印象的。米国ではもはやディスコが過去のものとなる中、アーバンでおしゃれなディスコとして人気を持続させたわけです。ようやく冷静さを取り戻したのか、このころには「お恥ずかし宇宙人コスチューム」からブラコンな普通の衣装に衣替えしてます(下右写真は「Sky Line」のジャケット)。

その後も年1回のペースでアルバムを発表し続けますが、80年代半ばにはセールス的に失速。「もうこのあたりでおしまいかなあ」と思わせた矢先、キャピトル・レコードに移籍後の86年には、「Givin' It (To You)」というシンセサイザーを多用したなかなかにしたたかでシャープなダンス曲をチャート上位(R&B8位)に食い込ませたかと思うと、89年にはなんと、ミデアムスロー・ダンサー「Start Of A Romance」がSkyyにとっての8年ぶりの米R&Bチャート1位に輝きました。

しかも、その同じ年には「Real Love」がまたもやR&Bチャート1位となり、ディスコ出身アーチストの夢でもある「バラードでも大ヒット」を達成したのでした!

90年代にはさすがに息切れしたのか、92年に最後のアルバム「Nearer To You」を発表後はあまり音沙汰がなくなってしまったSkyy。キラキラ宇宙服から出発し、再び星空の宇宙へと旅立っていった感がありますし、結局はR&Bを越えた一般総合チャート上位への進出も果たせませんでした。でも、70年代後半からの約10年間、ディスコグループとしては十分過ぎる実績を残せたといえましょう。

彼らのレコードは、Salsoul時代を中心にほぼ満遍なくCDで再発されています。入門盤としては、主なヒット曲が12インチ・バージョンでがんがん収録されている英Big Break Records盤CD「Skyy ‎– Skyyhigh • The Skyy Anthology (1979-1992)」あたりがお勧めで〜す。
Skyy2

ケイト・ブッシュ (Kate Bush)

Kate Bush前回登場の奇天烈ニナ・ハーゲンとほぼ同じころ、弱冠19歳の奇才美少女がイギリスで鮮烈デビューを果たしました。名はケイト・ブッシュ。失業者があふれる英国病の不況下、4オクターブの美声を駆使して、停滞気味だったイギリス音楽界に新風を吹き込んだのです。

1978年発売のデビューシングル「Wuthering Heights(邦題・嵐が丘)」は、文字通りエミリー・ブロンテの愛憎物語の古典小説「嵐が丘」を歌った内容。本国では発売と同時にチャートを駆け上り、女性ソロアーチストとしては初めて自作曲で1位を獲得しました。前年末公開の映画「サタデー・ナイト・フィーバー」の大ヒットにより、世界はディスコブーム真っ只中でしたが、そんな世情などどこ吹く風、大いに風変わりでミステリアスな幻想曲が存在感を示したのです。日本では、かつての日本テレビ系のバラエティ番組「恋のから騒ぎ」のオープニングテーマとしても知られております。

1955年、英ケント州に生まれた彼女は、医者でピアニストの父と、直立したままウサギみたいにぴょんぴょん跳ねる独特のアイリッシュダンスの名手である母の下、幼少期からピアノやバイオリンを習うなどして音楽家の道を着実に歩み始めます。10代前半には既に作曲も始めており、デモテープを作って何度もレコード会社に売り込みますがことごとく撃沈。しかし、そんなデモテープの1本がプログレッシブ・ロックの雄、ピンク・フロイドのデビッド・ギルモアの手に渡り、才能を見出したデビッドさんの協力を得てデビューに至ったのでした。

後のキャリアを通した代表曲ともなった「嵐が丘」は、当時のイギリスの音楽シーンを彩っていたプログレッシブ・ロックやデビッド・ボウイに代表されるグラム・ロック、さらにはクラシックや劇場音楽や英国フォーク音楽の影響を色濃く映し出しており、なんとも形容しがたいアバンギャルド作品。それでも、あの少女アニメの声優か矢野顕子みたいな舌足らずで甲高いソプラノの歌声と、心地よく異次元へといざなう唯一無二な旋律には、えも言われぬ魅力があります。

歌詞も独特極まりなく、放浪の詩人アルチュセール・ランボーの難解な詩を読んでいるような気分になります。プロモーション・ビデオ(PV)もいくつか作られていますが、広漠たるいかにも英国的な草原を不思議な踊りで駆け回るケイトさんは、「天女の羽衣(はごろも)伝説」みたいで非世俗的です。

…とまあ、そんなわけで前回のニナさん以上にディスコっぽくないケイトさんですけど、80年に発売された3枚目のアルバム「Never For Ever」とか、85年に発売された5枚目のアルバム「Hounds of Love」(写真)には、ディスコで使える曲もちらほら。特に「Hounds of Love」は、初期高級シンセサイザーのフェアライトCMIを駆使しつつ、珍しくシンプルかつダンサブルな構成の曲が目立つ内容となっております。

中でも、終始きっちりとした16ビートでたたみ掛ける「Running Up That Hill」(85年、米ビルボード一般総合チャート30位、ディスコチャート17位)などは、ひとたびディスコで耳にしたならば、後ろから追っかけられるような切迫感に駆られて思わずフロアに引き込まれ、あっちにピョん、こっちにピョンってな具合に、フロアを野ウサギみたいに駆け回らざるを得なくなることウケアイです。ただ、この曲のPVを見てみると、なかなか真似のできない振り付けで床をのたうち回るシーンが展開しており、やっぱりアングラな「天女のはごろも」です。

この曲は、少し後にリリースされたフリートウッド・マックの似た曲調の「Big Love」や「Little Lies」、ペットショップ・ボーイズがプロデュースしたライザ・ミネリの「Losing My Mind」、それにプロパガンダの「P Machinery」なんかと繋いで聴くとイイ感じ。前衛的なだけではなく、いかにも80年代な曲もしっかり作っていたことが分かります。

ケイトさんは90年代以降も、寡作ながらコンスタントに活動を続けており、93年には先日57歳で早世したアメリカの奇才プリンスとの共作による「Why Should I Love You」などを含むアルバム「The Red Shoes」をリリース。2012年にはロンドン五輪のフィナーレ用に「Running Up That Hill」のリミックスバージョンを提供しています。

世俗に媚びない音楽が、逆に世俗に高く評価されるというのは、豊かで多様な音楽文化が根付いている証拠。和辻哲郎の言葉「風土が人間に影響する」ではないですが、イギリスがいつもロック・ポップス界の先頭を切って、型破りで面白い音楽を生み出してきたワケを垣間見る思いであります。

いやあ、それにしてもケイト・ブッシュさんって本来、「アート・ロック」の旗手とも呼ばれたぐらいですから、芸術的で知的で真面目な音楽人だとつくづく思います。究極の世俗音楽、ディスコのような奔放なおバカさがまったく見当たりませんもの!…というわけで次回は、再び純正ディスコの予定となりま〜す!

ニナ・ハーゲン (Nina Hagen)

Nina Hagenみなさんこんばんは〜!世の中すっかり春めいてきました。寒さが遠のくこんな季節、大学時代に六本木のディスコの帰り、終電は終わったし、カネも使い果たしたんで国道246号沿いをとぼとぼと三軒茶屋方面のアパートまで歩いて帰った記憶がよみがえります。くたびれてタクシーに乗ろうと思っても、乗りたいお客が多すぎて簡単につかまらない時代でもありました。30年前のバブルのころのお話でしたとさ(どのみちトホホ)。

…というわけで、今回はなんとなく背中がぞくぞくします。ムーミン谷のおさびし山のような、幽界へといざなう不気味な静寂があたりを包みこんでいますよ。かと思ったら、びっくり仰天玉手箱、闇夜に轟く戦慄の調べが背後に忍び寄ってきました。悪魔、魔女、黒ミサ、呪いの祈祷…。今夜はあなたをめくるめくゴシック・ワールドへとご招待します。さあ、ディスコ界きっての変態パンクロッカー、ニナ・ハーゲンと参りましょう!

この人はもう、本当はニューウェーブとかパンクとかロックとかディスコとかで単純にくくれない(実際ノーウェーブ=No Waveなんて形容もされた)、奇天烈要素満載で独自路線をゆく究極の個性派破天荒。なんか往年の戸川純というか、突き抜けておかしくなっちゃった椎名林檎みたいな感じ。暗黒そのものです。

私は10代のころ、開店したばかりの輸入盤店「タワーレコード札幌店」に通っていたのですが、バブル期の直前の1984年初頭にそこで入手した「Dance Music Report」(英語だけどwikipediaご参照)というアメリカのダンスミュージック専門誌をめくっていたら、ディスコチャート(これが購入の目的だった)で急上昇している曲を発見。それこそが彼女の代表アルバムである「Fearless」(1983年発売、ドイツ盤などの表記は「Angstlos」)収録の「ニューヨーク・ニューヨーク」(New York, New York、米ビルボードディスコチャート9位)でした。

なんだか新宿に昔あったディスコの店名みたいですけど、とにかくディスコシーンでも注目されたわけです。実際、タワーレコード札幌店の棚にもアルバムやディスコ用12インチ盤が大量に置かれていました。彼女の変なポーズの写真があしらわれている奇抜で分裂した(スキゾフレニックな)ジャケット(下写真)がひと際目を引いていたのですが、なんだかコワいので手が伸びなかったのでした。

しばらくしてこの曲をラジオで聞く機会があったのですけど、いやあ参りました。やっぱり恐ろしく変てこかつ悪趣味で、踊るどころの話ではなかった。特に彼女の歌唱法は、超高音から超低音、か細い囁きからだみ声まで自由自在。上手なのは分かるのですけど、あっちこっちに声が飛んじゃってまとまりがなく、イライラ(頭がくらくら)してきます。

ただし、その曲調はともかく、歌詞はすばらしい。徹頭徹尾「ディスコ、ディスコ!」と恥ずかしげもなく連呼しているので〜す!

内容は、ニューヨークを訪れて、世界一の大都市の華やかな文化、とりわけ当時まだ流行の先端を行っていた「ダンステリア(Danceteria)」や「マッドクラブ(Mudd Club)」「ロキシー(Roxy)」などのディスコに次々と入って大いに満喫した、みたいな感じ。凄まじいまでのディスコ魂が横溢しております。もちろん、「ニューヨークに住みたけりゃ、ただおバカになるだけでいいのよん!」とも言ってますから、パンクロッカーならではの皮肉がたっぷりとこめられているわけですが、ディスコ堂的には「ディスコ」の連呼というだけでプラス100点ですわ。

とくに日本の現場のディスコでは、耳にする機会はほぼ皆無。でも、アルバムをよくよく聴けば、シンセサイザーやシンセベースの音が小気味よく入って、踊りやすくしっかりとビートを刻んでいる曲もけっこうある。例えば、Fearlessには「Zara」なんていう曲もあり、彼女お得意の変てこなオペラ歌唱をオーバーダビングしつつ、デペッシュモードやニュー・オーダーみたいなシンセサイザーやドラムマシンも駆使されていて好感が持てます。

しかし、もっと驚くべきは、その生い立ち。1955年に旧東ドイツの首都、東ベルリンに生まれた彼女の実母は人気女優、実父は脚本家でして、最初からショービジネスの環境に育っています。両親の影響もあって早い段階でバレエやクラシック音楽を習い、テレビなどにもときどき出演してけっこうなタレントでした。旧東ドイツの映画について真面目に解説している珍しい海外のブログなどによると、1975年には「Today Is Friday」というテレビ映画にも主演し、驚天動地の清純派ぶりを見せつけております(内容は若者の望まぬ妊娠や堕胎をテーマにしたシュールなものだったけど)。

後のパンキッシュなルックスとはまったく真逆でかなりの美形。同じ「過激女性パンクロッカーの草分け」であるリーナ・ラビッチやスージー・アンド・ザ・バンシーズのスージー・スー、リディア・ランチ、さらにはちょっと異質だけど異形・異声の歌姫だったケイト・ブッシュなどとともに、「変な声だし風貌だけど普通にしてれば美人かもなあ」法則が成り立っているかのようです。

彼女は1976年、社会主義政権の当局の妨害など幾多の困難を乗り越えながら、自由を求めて両親と共に西ドイツへと移住。79年にはレコードデビューを果たします。その直前、パンクの本場ロンドンで先輩女性ロッカーであるリーナ・ラビッチやあのセックス・ピストルズの主要メンバーであるジョン・ライドンらと交流し、「こんな自己表現もあったのか!」と完璧に開眼。まったくカオスなミュージシャンへと変貌を遂げたのでした!

とまあ、そう言うこのブログも、もはやかなりカオスなわけですが…。けれども、そもそもディスコってそんなごちゃまぜなところも魅力なわけです。要は踊り狂ったもん勝ち。思いもよらない展開は常に大歓迎です。「愛ラブ混沌!」、いや「表現の自由万歳!」と小さく叫んでおきましょう。

それにしても、国内外ともに、こういう奇想天外で極端な変態ミュージシャンが最近は減ったような気がします。ヒットチャートに入るようなメジャー音楽の世界では、似た感じのダンスミュージックやバラードばかり。DTMのようなコンピューターで作る画一的でパターン化された音楽が主流になったことも一因でしょう。最大市場のアメリカもそうですが、音楽業界はメガ企業による寡占化も進みましたし、マスコミ全体を含めて巨大になり過ぎました。

まあ、一方のマイナーの世界では、例えば私の住むJR中央線沿線などにも面白いことをやろうとするミュージシャンはいっぱいいますし、インディーでアンダーグラウンドなままだからこそ、カルト趣味を満足させられるのかもしれません。実際に聴き手の嗜好も多様化しています。でも、それで稼いで食べていける人間などまずいません。無難で世間受けする音楽ばかりがもてはやされる風潮は、ニナさん的な表現の自由という意味でもいかがなものでしょうかね。

彼女は90年代以降も勢いを保ち続け、現在に至っても現役で活躍中。2000年代に入ってからは、イラク戦争の反対運動や動物愛護活動などに精力的に取り組んでおります。

CDはまあまあ出ています。肝心の「ニューヨーク・ニューヨーク」が入ったアルバム「Fearless」は今は廃盤ですが、主なヒット曲を網羅しツボを押さえたベスト盤がいくつかあります。上写真はその一つ「14 Friendly Abductions―The Best Of Nina Hagen」。私自身、最近は懐かしさもあってヘビロテで愉快にガンガン聴いております。特に最後14曲目に収録の1980年発売のカバー曲「My Way」は、前年に21歳で急逝したセックス・ピストルズの破天荒ベーシスト、シド・ビシャスへの鎮魂歌(彼も78年に歌ってヒットさせていた)ともいえます。やはり彼女の真骨頂、飛び切りハードな曲調ながらも、不思議な哀切感を漂わせる名品なのであります。

Nina_Hagen_Fearless

ミスティック・マーリン (Mystic Merlin)

Mystic Merlinさて今回、もはやクリスマス時期だけに今年最後になりそうな投稿の主役となりますのは、とびきりユニークで心底脱力することウケアイの「魔術ディスコ」で〜す!

デビューアルバムの発売が1980年ということですので、ディスコ的にはかなり「遅れてきた感」があるグループではあるものの、マジカルパワーで大奮闘しました。その名も「Mystic Merlin=ミスティック・マーリン」(直訳・神秘の魔術師)。「どんだけ神秘的なのかな?」と逆にそわそわしてきますが、何のことはない、ライブで演奏しながら「奇術」を披露していたファンクバンドなのであります。

…って、「いや待てよ? そんなグループ、いったい成立するのか?」との疑問が沸くのも自然なことでしょう。演奏して歌うだけでも大変なのに、加えて愉快な手品(奇術)を器用に披露するなど、常人のなせる技ではございません。でも実際、「アラジンと魔法のランプ」みたいな格好をして、コーラスの女性がやおら宙に浮き始めたり、気が付いたらメンバーが空中で真横になって楽器を弾いていたり、サックスの開口部(ベル)から突然もくもくと白煙を噴出させたりと、やたらと観客の度肝を抜く仕掛けがライブの呼び物になっていた人々なのでした。

1970年代後半、アメリカ・ニューヨークで結成されたこの魔術師バンドは、リードボーカルのキース・ゴンザレス(Keith Gonzales)、ベースのクライド・ブラード(Clyde Bullard)、ギターのジェリー・アンダーソン(Jerry Anderson)らが主要メンバーです。

中でもジェリーさんは、子供のころからマジックが大好き。地元ニューヨークでよく知られた手品ショップに通い詰め、有名マジシャンを育てたこともある店長は、「こいつは見込みがある」と空中浮揚、「ドロン!」といきなり姿を消す“雲隠れの術”、催眠術といった大技を無報酬で次々と仕込んでくれたのでした。

ここでジェリーさんは、そのままプロを目指せばよいものを、もう一つの夢であるミュージシャンへの道を追い求め始めます。こちらも結構な腕前だったようで、70年代前半にはブロードウェイの人気ミュージカルの楽団などでベース奏者として活躍するようになりました。このころにキースらに出会い、ファンクバンドを結成して音楽活動を本格化させたのです。

ところが、なかなか芽が出ない日々。野心に燃えるジェリーさんは、あるアイデアをメンバーたちに打診します。「同じようなグループがたくさんある中で、俺たちは目立たないといけない。俺が一から教えるから、みんなでマジックをやりながら演奏しようじゃないか!」。メンバーたちは目を白黒させましたが、最終的には賛同を得ることができました。ここに、世にも不思議な奇術ディスコ系バンドが誕生したのです。つまり、音楽一本で勝負することにどうにも自信が持てなかったために、奇策によって人々の気を引こうと目論んだのでした。

結果は……残念ながら今ひとつでした。イギリスなど欧州では「キワモノ」扱いされてテレビで人気を博し、少々ヒットも飛ばしましたけど、本国では全米R&Bチャートの下位に「Got To Make It Better」(81年、82位)と「Sixty Thrills A Minute」(同、76位)が入った程度。マジック(Magic)とミュージック(Music)の融合(本人たちはMugicと呼んでいた)という、非常にディスコ的で面白い発想ではありましたが、ブームが過ぎていたこともあって、聴衆(や踊る阿呆)の心をつかむには至らなかったのです。けだし、二兎追うものは一兎も得ず、なのでありました。

いちおうは大手キャピトル・レコードとの契約にこぎつけ、80年のデビューアルバムに続き、81年の2枚目アルバムを発表するもセールス的に不発に終わり、82年に最後となる3枚目「Full Moon」をリリース。ここでなんと、同じキャピトルのレーベルメイトで、80年代半ばから甘〜い歌声でR&Bヒットを大連発することになるフレディー・ジャクソンが、結成時からの主軸シンガーだったキースの脱退に伴ってリードボーカルに。シングルカットされた「Mr. Magician」を聴いても明らかなように、確かにボーカルはぐ〜んと引き締まりましたけど、どうもセールス的には波に乗れなかったのでした。

「Full Moon」のジャケット(上写真)を見れば分かるとおり、熱海あたりの温泉街にある妖しい秘宝館から飛び出してきたような出立ちには、かえって猛烈に興味をそそられます。そんな器用貧乏の感がぬぐえない涙ぐましいまでの自己アピールこそ、「目立ってナンボ」のディスコ界では特に重要だったのです。曲や歌自体は無難にダンサブルであり、演奏もしっかりしております。ファンク王国アメリカにおいては、あまりにも優れたライバルが多すぎたということでしょう。

CDについては、意外にも3枚のアルバムともに、英国の再発レーベルであるBBRから発売されています。往年のマジックを見られるわけではない(YouTubeでも見あたらない。ここでほんのちょっと確認できる程度)にせよ、なりふり構わず何とか世に出ようともがいた異形ミュージシャンたちの物語に思いを馳せつつ、聴き入ってみるのも一興かと存じます。

セルジオ・メンデス (Sergio Mendes)

Sergio Mendes Olympia5年後に控える東京五輪の話題が今、良くも悪くも沸騰中ですが、今回はそんな時勢に確信犯で乗っかっりつつ、「大オリンピック・ディスコ祭り」と参りましょう!

血沸き肉躍るスポーツの祭典ということですので、情熱のダンスで踊り狂うディスコとの相性は元来よいもの。まずはディスコが欧米を中心に認知されはじめる1972年には、東西冷戦期の西ドイツで、あの忌まわしいナチス政権下のベルリン五輪(1936年)以来初となる“冷戦だけど表向き平和で〜す”のミュンヘン五輪が開かれ、それを契機にエンタメ・音楽業界が一気に盛り上がり、そのひとつの成果としてドナ・サマーボニーMロバータ・ケリーらが輩出した「ミュンヘン・ディスコ」シーンを生み出しました。

続く1976年のカナダのモントリオール五輪のころには、いよいよディスコ・ブームに火が付きます。当時のモントリオール五輪公式報告書(106ページ)などによると、選手村の近くのビルにも「おもてなし施設」として映画館やブティックとともにディスコが作られ、選手たちは夜な夜な歓喜の舞踏に興じたといいます。モントリオールのあるケベック州はもともとカナダの中でもとりわけフランス系移民の末裔が多く、第一言語がフランス語であるほどですので、ディスコの語源の仏語Discotheque(ディスコテーク)よろしく、「カナダ産ディスコ」が次々と弾け出しました。

代表例としてはジノ・ソッチョ、THPオーケストラ、クラウディア・バリーフランス・ジョリライムトランスXといったところで、いずれ劣らぬアゲアゲ・ダンサンサブルな良曲を数多く世に送り出しました。カナダは音楽大国というわけではないのに、五輪効果を背景に、ディスコ界ではけっこうな存在感を示すことになったのです。つい4年前には、ディスコのメッカとなったモントリオールを舞台にしたカナダ映画(「Funkytown」)も公開されております。

問題は次の1980年開催のモスクワ五輪。78年のソ連によるアフガン侵攻の影響で、日米欧を含めた西側諸国が相次いで参加ボイコットを決定し、なんとも締まらない大会になってしまったのです。せっかくおバカさん満開の大ディスコブーム真っ只中だというのに、これだと盛り上がるはずもなく、五輪を当て込んでリリースされたジンギスカンの「目指せモスクワ」などは、(人気はそれなりにあったが)まったく皮肉なトホホ・ディスコと化してしまったのです。

日本における第1次ディスコブーム(1970年代後期)と第2次ディスコブーム(1980年代後半からのバブル期)の狭間の84年には、ロサンゼルス五輪が開かれます。もちろん、日本を始め西側諸国はこぞって参加したものの、ソ連など東側諸国が報復とばかりにボイコット。これまた「盛り下がり五輪」となってしまいました。その結果、有力選手の多くが不参加だった1980、84年のメダルの価値も、否応なしに下がってしまっております(再び「スポーツへの政治介入ってホント嫌ですね」のトホホ)。

さて、ここでようやく今回の主役の登場です。ロス五輪については、個人的に「大ディスコ・マイブーム期」の只中でしたので、印象深い「ザ・五輪ディスコ」として「オリンピア」(1984年、米ビルボード一般チャート58位)をひとつ、紹介しておきましょう。

歌うのはブラジルが生んだボサノバ・ジャズの帝王セルジオ・メンデスさん。古くは、今なおカバーされ、愛され続けるボサノバダンスの名曲「Mas Que Nada(マシュ・ケ・ナダ)」(1966年、同47位)を発表し、ディスコブーム期にも、Sergio Mendes & The New Brasil '77名義で「The Real Thing」(1977年)、Sergio Mendes Brazill '88の名義で「I'll Tell You」(1979年、米ビルボード・ディスコチャート9位)、「Magic Lady」といった彼ならではの果てしなくメロウ&グルービーなダンス曲をリリースしていますが、ボイコット問題がくすぶるロス五輪に合わせてリリースした「オリンピア」は、一念発起して流行りのAORをゴージャスにダンスチューン化したような内容。以前に紹介したテリー・デサリオの「オーバーナイト・サクセス」にも似た雰囲気で、80年代シンセの硬質な音色もキンキン(しかしどこか心地よく)鳴り響いておりまして、当時はディスコでもよく耳にしました。ただし、題名が題名だけに、ちょいと豪快で大げさな感じです。

セルメンさんは、「オリンピア」を収録したアルバム「Confetti」(写真)の発売の1年前、「Sergio Mendes」という同じようなAOR/ダンス系のアルバムを出し、その中の「Never Gonna Let You Go」というバラードを久しぶりに大ヒット(ビルボード一般チャート4位)させておりますので、気を良くして「五輪に便乗しちゃうぞ!」と、渾身の昇天ダンスチューンに挑戦してみたのかもしれません。

その後、88年のソウル五輪、92年のバルセロナ五輪のころには、音楽シーンにおけるディスコの存在感そのものが徐々に薄くなっていったわけですが、例えば冬のトリノ五輪(2006年)では、開幕セレモニーで懐かしのディスコ曲が大量に流れて(私的には)話題を呼びました。盛り上げ要素抜群のディスコは、やはり各種お祭りのBGMとして使いやすい音楽なのだと思います。

1964年の東京五輪では、「東京五輪音頭」なる民謡調の珍曲が巨匠・古賀政男によって作曲されております。今聴くと大いに困惑することウケアイなのですが、半世紀以上の時を超え、2回目の東京五輪ではどんな音楽が使われるのでしょうか。まあディスコじゃなくても全然かまわないのですけど、くれぐれもパクリだけは勘弁していただきたい!(ディスコ自体がパクリ要素満載なのだが)

なお、セルメンさんのディスコ感覚なアルバムのCDについては、残念ながらどれも再発されていないか、過去に出ていてもレア化し始めております。

ネイキッド・アイズ (Nakid Eyes)

Naked Eyesさて、今回は灼熱の夏を彩るニューウェーブ・シリーズ第3弾、ネイキッド・アイズと参りましょう。80年代前半、サンプリング・シンセサイザーの草分けで当時約1千万円もしたフェアライトCMIをいち早く導入し、ユニークな哀感漂う音作りにせっせと励んでいた英国の男性2人組です。

最大のヒット曲は、1982年発表の「Always Somthing There To Remind Me」(米ビルボード一般チャート8位、米ビルボード・ディスコチャート37位)。米ポップス界の巨匠バート・バカラックによる60年代の作品のカバーです。邦題は「僕はこんなに」といかにも意味不明ですが、曲調は美メロで至って真面目であり、フェアライト特有の「カン、カン、ボワ〜ン、ドッカ〜ン」という金属的かつ工場機械的な電子音が、大仰なだけにかえって日本人好みのはかなさを感じさせてくれています。

変則的高速ビートのこの曲は、「踊ってみな」と言われても、なかなかのり切れない難攻不落な展開のため、当時のディスコで聞くことはほとんどありませんでした。でも、少々控えめな曲調の次のヒット曲「プロミセス・プロミセス」(83年、一般11位、ディスコ32位)は、けっこう耳にしております。人気DJだったジェリービーンによる「ジェリービーン・ミックス」では、まだ無名歌手で、彼の恋人でもあったマドンナのささやくような美声も入っていて、二重に楽しめる内容となっています。

続くヒット曲「(What) In The Name Of Love」(84年、一般39位、ディスコ35位)は、「こんなに」と「プロミセス」を合わせたような「カン、カン、ボワ〜ンの哀愁ダンサブル」な雰囲気を漂わせており、これまたメロディーラインが美しい。フロアで激踊りを披露するわけにはいかないにしても、奥の暗がりで席に座ってドリンクでも口にしながら、手足をリズミカルに動かすには最適な内容となっています。

このデュオの構成メンバーはPete ByrneとRob Fisherで、80年代初めに2人で活動を始めて、活動を休止した84年までに2枚のアルバムを出しています。うちRobはClimie Fisherという別のデュオを結成し、「Love Changes (Everything)」(88年、一般23位、ディスコ16位)というダンスヒットを飛ばしますが、99年に病気のため39歳で早世しています。

今あらためて聴いてみますと、前回紹介したABCにも似た、80年代に大量に登場したエレポップな要素がふんだんに詰まっていることが分かります。それでも、この人たちの曲は、特にメロディーラインに個性が感じられます。短い活動期間ではありましたが、一発屋ではありませんし、ディスコ界にもポップス界にも、相応の貢献を果たしたといえましょう。

CDは、2枚のアルバムともに再発で出ております。ベスト盤もいくつかあり、写真は2002年発売の米EMI盤ベスト「Everything And More」。主なヒット曲の12インチバージョンが入っていてうんと楽しめますが、最近は希少化しているようです。

エービーシー (ABC)

ABC今年も、北国育ちにとっては酷暑がこたえる季節となりましたが、そんな逆境もどこ吹く風、今回も英国ニューウェーブなおもむきでABCと参りましょう。

1980年にマーティン・フライ(Martin Fry)らが中心となって活動を開始したグループで、シンセサイザーを駆使したダンスミュージックをがんがん繰り出していました。

代表曲はなんといってもデビューアルバム「The Lexicon Of Love」に収録されていた「The Look Of Love」(全米ビルボード一般チャート18位、ディスコチャート1位)でして、ぶりぶりシンセサイザーにサックスの音色がほどよく絡み、そこにマーティンの情熱的なボーカルが乗っかってきます。おまけに「ピンピンポンポン!♪」とハープの音なんかもうっすらと入ってきて、なかなか個性的な音作りをしていました。

この曲は、アメリカの音楽番組MTVでよくオンエアされていたプロモーション・ビデオ(PV)も印象的でした。往年のミュージカル映画「メリー・ポピンズ」を模した底抜けにカーニバルかつフェスティバルなメルヘン動画となっており、お子様でも安心して楽しむことができます。

アルバムのプロデュースは、数多くのアーチストのヒットアルバムを手がけた売れっ子プロデューサーのトレバー・ホーン。収録曲からの2枚目のシングルカットとなった「Poison Arrow」(一般25位、ディスコ39位)も、まずまずのヒットを記録しました。

このころは、アメリカのヒットチャートにイギリス産音楽が続々と進出していった「第2次ブリティッシュ・インベージョン」の時期にあたります。曲調的には、同様に80年代半ばに人気が出たスパンダー・バレエとかフランキー・ゴーズ・トゥ・ザ・ハリウッドなどとも似たところがありますが、やはりマーティンのボーカルに最も特徴が出ているグループです。

さらに、1985年にリリースした3枚目のアルバム「How To Be A Zillionaire!」からは「Be Near Me」(米一般9位、ディスコ1位)やサンプリングエフェクトをちりばめた「(How To Be A) Zillionaire」(同20位、同4位)、「Vanity Kills」(同91位、同5位)が、1987年にリリースした「Alphabet City」からはスモーキー・ロビンソンへの敬意を込めた「When Smokey Sings」(同5位、同1位)といったヒットを飛ばしています。いずれもボーカルとシンセサイザー、ホーンセクション、ドラムビートがうまく調和したスタイリッシュな佳作ぞろいとなっており、躍り甲斐があります。当時のディスコでも頻繁に耳にしたものでした。

CDは、各アルバム、ベスト盤ともに一応発売されておりますが、一部レア化して高騰しています。

レイクサイド (Lakeside)

Lakeside今月10周年を迎えたこのブログ、地味に始まり、気がつけば今も地味〜に続けております。今後とも何卒よろしくお願い申し上げます。

さて、今から30年以上もの昔、「Sound Of Los Angeles Records」の略語である「Solar(ソーラー=太陽の意)」というレーベルがありました。ディック・グリフィー(Dick Griffey)という人物が、友人で音楽番組「ソウル・トレイン」の司会で有名なドン・コーネリアスとともに創立。発祥は米東海岸のフィラデルフィアですが、すぐに文字通りロサンゼルスに拠点を移しました。以前にも紹介したシャラマーウィスパーズのほか、ミッドナイト・スターやダイナスティ、キャリー・ルーカスなどのこてこてダンス系の人気者が多数輩出した元気いっぱいのレーベルだったのです。

今回はその代表的な所属アーチストのひとつ、レイクサイドに光を当てましょう。上写真のアルバム「Fantastic Voyage(ファンタスティック・ボヤージ)」の表題曲シングルが、1980年の全米R&Bチャートで栄えある1位(全米ディスコチャートでは12位)に輝いた最大9人編成の「楽器、ボーカルなんでもそろってま〜す」の大所帯黒人グループです。

確かに「ファンタスティック」あたりは、当時のディスコでもラジオの洋楽番組でもよ〜く耳にしました。シンセベースの音色も楽しい、もう「ぶいぶい、ぶっりぶり」の泥臭さ満点の重量級ファンクでして、踊る際にも、丹田(へその下あたり)に力を込めて心してかかったものです。

レイクサイドの起源は1960年代末にさかのぼります。ファンクの本場であるオハイオ州デイトンで、地元のギタリストStephen Shockley(スティーブン・ショックレー)、リード・ボーカルになるMark Wood(マーク・ウッド)らが結成した「Young Underground」がルーツ。シカゴのタレント発掘コンテストで優勝するなどして実力が認められ、ソウル界の大御所カーティス・メイフィールドらが創立したカートム・レコードと契約しましたが、その会社は間もなく倒産してしまいました。

失意のうちにロサンゼルスに移り、レイクサイドと改名。ここではなんと、かのモータウンとの契約にこぎつけました。しかし芽は出ず、メジャーのABCレーベルに移ってから初のレコードを出しましたけど、これも売れず…という具合に、不遇続きのグループでした。それでも、1970年代後半には、成長著しいソーラーとの契約という大きな転機が訪れたわけです。

ソーラーでは、78年にアルバム「Shot Of Love」をリリース。その中の「ぶいぶいベース系」ダンス曲「It's All The Way Live」がR&Bチャート4位まで上昇するヒットとなり、ようやく日の目をみることになりました。その後、「Pull My Strings」(79年、同31位)、先述の「ファンタスティック」、「Raid」(83年、同8位)、「Outrageous」(84年、同7位、ディスコ42位)といったヒット曲を出しています。私自身、「ファンタスティック」以外では、「Outrageous」もずいぶんとディスコで耳にしました。

いずれもやっぱり重量ファンク系なのですが、ビートルズのスタンダードナンバーのリメイク「I Want To Hold Your Hand」(82年、同5位)などのスローバラードも高水準です。彼らは大都会ロサンゼルスの垢抜けた雰囲気を感じさせつつも、もともとはどファンクの激戦地区オハイオで鍛えてきた人々なので、演奏力は折り紙付きです(コンテストで優勝したし)。ビレッジ・ピープルみたいなコスプレなアルバムジャケットを見ても分かるように、衣装がいつも奇抜で、ライブパフォーマンスの評判も高かったグループです。それに、マーク・ウッドを中心としたボーカルは、時には男臭く、時には耳に心地よくメロウに響いて変幻自在です。アメリカの中西部と西海岸が融合した音作りになっていると思います。

アメリカでは各地方や都市に独特の音楽があって、そのまま代名詞になっていました。例えば、ケンタッキーのカントリー、シカゴのブルース、ニューオリンズのジャズやソウル、メンフィスのサザンソウル、といった具合。ロックでも、西海岸ロックとか、サザンロックなどたくさんあります。ディスコで言えば、フィラデルフィア・サウンドからマイアミ・サウンドに至るまで、ご当地ディスコがかなりありました。世界に目を向けても、欧州やアジアならではのディスコがありました。もちろん、今もそうした見方はされますけど、昔の方が地理的な色分けがはっきりしていたのです。

ディスコ音楽は90年ごろを境にクラブ音楽に移行し、テクノ、ハウス、ヒップホップ、R&B、ジャングル、ドラムンべース、ディープソウルといっ た具合に、ジャンルがより細分化していきました。シンセサイザーやコンピューターによる作曲技術の進化により、それまでは考えられなかったような音がどんどん作れるようになり、リスナーの嗜好も同時に多様化、個人化したことが背景にあると思います。

逆に、とりわけ高度情報化によりボーダレスかつグローバル化する中で、地理的には音楽の境界が薄くなったようです。少し前でもシカゴ・ハウスとか、デトロイト・テクノみたいなのは一部ありましたけど、基本的には、ニューヨーク、ロサンゼルス、それにロンドンや東京で制作されようとも、ヒップホップはヒップホップですし、ハウスはハウスです。地域別の個性は、かつてより感じられません。観客の目の前で演じるライブ音楽の価値はいまだに色あせていないにせよ、mp3などの音声ファイルに音楽を取り込めば、よい音質で世界中、誰でもどこでも手軽に手渡しして楽しんでもらえる時代ですしね。

レイクサイド、ソーラーレーベルともども、80年代後半には活動が急速に衰えていき、やがて消滅しました。そんな意味でもレイクサイドは、オハイオとロサンゼルスという2つの地域的特徴を濃厚に醸す最終世代のファンクバンドといえます。

再発CDは、ソーラーの原盤権を受け継いだカナダのUnidiscを中心に出ておりますが、かなり希少になってきております。ベスト盤であれば、英国Recall盤の2枚組(下写真)が、主なヒットが網羅的に収録されていてお勧めではあるものの、2枚目の収録曲の目録が間違っているなど、けっこうトホホです。
Lakeside_Best
CDのライナーノーツ書きました


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