ディスコ堂 by mrkick

音楽に貴賎なし ―Discoの考察とCD批評

70年代前半

マーヴィン・ゲイ (Marvin Gaye)

Marvin Gaye今回は、前回のメロウついでに、今はなきソウル界最大級の功労者マーヴィン・ゲイさんと参りましょう!

マーヴィンさんといえば、「ソウル音楽の殿堂」モータウン・レコードの主力シンガーとして1960年代から活躍し、1971年発売のアルバム「What's Going On」(写真)は、今も70年代の新時代を告げる歴史的名盤として語り継がれています。まあ、ディスコなどでは括り切れない人物であることは確かですが、このアルバムのとき既にディスコ化の兆しもみてとれます。

というのも、69年発売の「M. P. G.」までは、「ズンチャ、ズンチャ」と明瞭に刻むドライなドラムビートをひとつの特徴とする典型的な60年代のモータウン・サウンドでした。でも、このアルバムからさわやかストリングスやパーカッションを取り入れるなどして、まるでフィリーサウンドのような軽やかなダンスビートを展開し始めるのです。天下無双の3オクターブの美声を誇るソウルの帝王たる彼自身は、ディスコブームそのものに違和感を抱いていたのですけど、「歌は世につれ」です。

マービンさんは1939年、ワシントンDCの敬虔なクリスチャンの家に生まれました。なにしろ父マービン・ゲイ・シニアはキリスト教系の聖職者。でも、幼少期にその父親からひどい虐待を受け、毎日のように暴行を受けていたといいます。それが、後の彼の人生観や音楽性にも大きな影響を与えました。

まずはお約束、地元の教会で歌ったり、ピアノやドラムを演奏したり、日々の苦悩を晴らすかのように音楽に打ち込みました。デトロイトのクラブなどで歌っているうち、60年ごろにモータウンの創始者であるベリー・ゴーディに見出されてデビュー。1962年のシングル「Stubborn Kind of Fellow」が最初のヒット(米ビルボードR&Bチャート8位)となり、注目されるようになりました。

この曲は70年代後半、元フィフス・ディメンションのルー・コートニー(Lou Courtney)がボーカルを務めるBuffalo Smokeというグループによってアップテンポな軽快ディスコとしてリメイクされました。イントロ部分がまったくなく突然コーラスが展開するというDJ泣かせな曲ですが、全体的にはなかなか良いアレンジでフロアではまずまずの人気となっています。

さて、ヒットを1曲出して勢いを得たマーヴィンさんは、破竹の勢いでスターダムを駆け上ります。とりわけ60年代半ばから後半にかけては、レーベルメイトであるタミー・テレルとの男女デュオ曲「Ain't No Mountain High Enough」(67年、米R&B3位、米一般総合チャート19位)、「Ain't Nothing Like The Real Thing」(68年、R&B1位、総合8位)、「You're All I Need To Get By」(68年、R&B1位、総合7位)などが大ヒットを記録しました。

この3曲ともに、以前に紹介した「ディスコの隠れた立役者」の夫婦デュオであるアシュフォード&シンプソンが作曲しており、彼ら独特のドラマチックな高揚感のある旋律が、聴く者、踊る者を桃源郷へと誘います。ほかにも、68年には「I Heard It Through The Grapevine」(R&B1位、総合1位)が彼の生涯を通じて最大のヒットになっております。

しかし、すっかり大スターになった70年前後には、自分はバラードを中心とする正統派ソウル歌手だと思っているのに、派手な世間受けするチャートヒットばかりを望むモータウン上層部とは方向性をめぐって何かと対立するようになります。ちょうどこのころ、パートナーとして全幅の信頼を置いていたタミー・テレルが、脳腫瘍により24歳の若さで急逝しており、加えてドラッグの常習や離婚問題も抱え、精神的に追い詰められた状態になってしまいました。

そんな彼が、起死回生の一発として繰り出したのが、「What's Going On」でした。マーヴィン自身がプロデュースし、ドラッグ中毒や戦争、失業、貧困、人種差別、環境破壊といった重〜い社会問題をテーマにしたコンセプトアルバムだったため、モータウン側は「こんな理屈っぽいレコードが売れるのか?」とあまり乗り気ではなかったのですけど、結果的には特大ヒットを記録。結果を出したマーヴィンさんはこれ以降、作曲、プロデュースを含めてより自由に自分の作品を手がけられるようになったのでした。

71年といえば、泥沼化するベトナム戦争の真っ只中。戦争や権力への抵抗を熱く歌い上げる骨太ロックや反戦ソウルが全盛期だった中で、「人がいっぱい泣いて、いっぱい死んでるけど、いったい何が起きてるの?お母さん、お父さん、お兄さん」「戦争は何も解決しないよ」などと極力柔らか〜く訴えるメッセージが、かえって人々の胸に響いたのです。

このアルバムでは、アルバムタイトル曲と「What's Happening Brother」、「Right On」などが、ピアノやストリングス、パーカッションをふんだんに活用したジャズ風の立派なダンス曲になっております。70年代初頭にもかかわらず、近い将来にディスコが担うことになる脱政治なウキウキ時代を予感させる先駆的作品でもあります。

この後、73年には、71年のウィルソン・ピケットの大ヒット曲で、日本でもテレビの人気コント番組「8時だョ!全員集合」(TBS系)で使用されたあげあげダンスチューン「Don't Knock My Love」のカバーも出してヒットさせています(R&B25位)。

さらに、いよいよ到来した本格的なディスコ時代でも、パーカッシブでちょいとサイケな「I Want You」(76年、R&B1位)、彼の曲の中では最大級にファンキーディスコな「Got To Get It Up」(77年、R&B、総合、米ディスコチャートともに1位!)、それに淡々と8ビートで展開しながらも自然と腰がくねくね動き出す「A Funky Space Reincarnation」(78年、R&B23位)、シンセサイザーやラップの要素をとり入れた「Ego Tripping Out」(同17位)などのダンス系のヒットを世に送り出しました。70年前後までの全盛期ほどではないにせよ、繊細な色気たっぷりの美声は健在で、まさに「帝王」の名をほしいままにしております。

それでも、80年代以降は、さすがに失速してきたマーヴィンさん。2度目の離婚や極度のドラッグ依存、うつ疾患、10億円以上ともいわれる巨額の借金、脱税問題のほか、モータウンとの確執もピークに達し、81年に発売したアルバム「In Our Life Time」(下写真)を最後にモータウンを離れました。このアルバムも「アメリカの核戦争による世界の終わり」なんかを歌ったかなりメッセージ性が強くてスピリチュアルな作品でしたが、借金返済の目的もあって相当に世俗ディスコを意識した内容でもありました。「Praise」とか「Love Party」みたいなダンサブルな収録曲が多くて素敵でしたけど、残念ながらセールス的にはいまひとつとなっております。

この翌82年、移籍先のCBSからアルバム「Midnight Love」をリリースし、これが久々の特大ヒットを記録。中でも、日本製リズムマシンの名機TR-808を駆使したシングルカット曲「Sexial Healing」は、R&Bチャート1位、総合チャート3位、ディスコチャート12位まで上昇し、80年代のR&B界を代表する一曲となりました。さすがの天才、ここで人生の再逆転です。…けれどもまた好事魔多し、2年後の84年4月1日、かねてより不仲だった父親と口論の末、なんと銃殺されるという悲劇に見舞われてしまうのです。まだ44歳でした。

ダンスフロアに鳴り響くディスコ音楽では、「ボディー・アンド・ソウル」(身も心も)という心身二元論が歌詞などによく用いられますが、むしろ心身合一こそがディスコの真骨頂。フロアで踊りまくって汗だくになって、「あれ、どっちが体でどっちが心だっけ?」というぐらいに倒錯してこそ、多幸多福な感覚を覚えます。「心が躍る」とはまさにこのことでしょう。ステージ上での貫禄たっぷりのエンターテイナーぶりとは裏腹に、心身が乖離したかのような破滅的な日常を歩んでしまったマーヴィンさんですが、それはもうディスコな生き様そのものだったといえます。

CDはベスト盤はもちろん、アルバムもさすがにほぼ全部が再発できちんと出ています。ディスコ的には、「What's Going On」の次に「In Our Lifetime」、「Hear My Dear」、「I Want You」へと進み、最後に「Midnight Love」で締めくくると、ディスコなマーヴィンさんが少しずつ見えてきます。ほとほと音楽家ってうらやましいですね。蓋し、「身は滅んでも、魂は生き続ける」(やっぱり心身二元論)。

Marvin Gaye_In Our Lifetime

スティービー・ワンダー (Stevie Wonder)

Stevie Wander今回はやぶから棒にスティービー・ワンダー! 前回登場のスターズオン45にも真似されるぐらいですから、芸歴は長く知名度抜群。ヒット曲はべらぼうな数です。

スティービーは1950年、米ミシガン州に生まれ、間もなくデトロイトに移りました。未熟児で誕生したことが原因で盲目となりましたが、幼少期に音楽に目覚め、黒人教会のゴスペルコーラス隊に参加します。9歳までにはピアノ、ドラム、ハーモニカを習得。もちろん歌もお上手。視覚を補って余りある天才少年ぶりを発揮します。

11歳のとき、地元デトロイトに誕生したばかりのモータウン・レコードの関係者に発掘され、すぐにデビュー。「リトル・スティービー・ワンダー」と銘打って大々的に売り出され、63年、尊敬するレイ・チャールズやサム・クックを意識したダンスナンバー「フィンガーチップス(Fingertips)」が米ビルボードチャートのポップ、R&B部門で堂々1位を獲得。これをスタート地点として、60年代から2000年代に至るまでヒットを量産し続けています。

そんなわけで、ソウル界ではトップクラスの大御所になるわけですが、ディスコへの貢献度も絶大でした。実は、彼はピアノからドラム、ベース、ギター、ハーモニカまでこなすマルチインストゥルメンタリスト(多楽器奏者)だった上に、以前に紹介したジャズ畑のハービー・ハンコックと同様、いやそれ以上にシンセサイザーに代表される新技術の導入に積極的な先駆者でした。「新しもの好き」の本領を発揮し、ブームが来る前に「ディスコっぽい曲」も発表していたのです。

まず、1966年には、誰でも耳にしたことがあるであろう「アップタイト」という曲が大ヒット(ビルボード一般3位、R&B1位)。これは完全にダンスフロアを意識した曲調で、あのモータウン独特の跳ね上がるようなドラムビートが特徴になっています。同じ時期にヒットしたマーサ・アンド・ザ・バンデラス「ダンシング・イン・ザ・ストリート」(64年、ビルボード一般2位)などと並び立つ「モータウン・ダンスビート」の代表曲といえます。後の時代には、ワム「フリーダム」やバネッサ・パラディス「ビー・マイ・ベイビー」などでもみられたビート展開ですね。

70年代に入ると、音楽会社側からの提供ではなく、自分自身で手がけた曲が多くなり、キャリアとしてもピーク期を迎えます。後に「君の瞳に恋してる」で知られるボーイズ・タウン・ギャングもリメイクした「Signed, Sealed, Delivered I'm Yours(邦題:涙をとどけて)」がビルボードR&Bチャート1位に輝く大ヒットを記録したのに続き、72年にはアルバム「Talking Book」の収録曲「迷信(Superstition)」が、ビルボード一般、R&Bチャートでともに1位を獲得しました。

特に「迷信」は、いくつかのリズムを混合した「ポリリズム」と呼ばれる複雑な曲調がベースになっており、まだ目新しかった電気キーボードのクラビネットの音色がぴょんぴょん飛び回る、まさに時代を画する一作。欧米を中心に芽吹いてきたディスコのフロアにも新風を吹き込んだのでした。

さらに、1974年に発表した大ヒットアルバム「Fullfillingness’ First Finale(ファースト・フィナーレ)」では、ジャクソン・ファイブポール・アンカ、それに当ブログでも紹介済みのミニー・リパートンデニース・ウィリアムスという「超絶高音系」の二大ソウル女性歌手が参加するという豪華ぶり。まだ20代半ばだというのに、既に大御所の貫禄を醸しています。

「Fullfilingness'…」の後、2年間の準備期間を経て、1976年に発表した2枚組アルバム「Songs In The Key Of Life(キー・オブ・ライフ=写真)」はもう、無敵の“良曲百貨店”状態。最高傑作といってよいと思います。デューク・エリントンに捧げた「Sir Duke(愛するデューク)」(一般1位、R&B1位、ディスコ2位)、わが愛娘に捧げた「Isn't She Lovely(可愛いアイシャ)」(ディスコ2位)、自らの幼少期を振り返った「I Wish(回想)」(一般1位、R&B1位、ディスコ2位)、いま聴いてもめちゃくちゃ盛り上がってみんな踊り出すこと必定の「Another Star(アナザー・スター)」(一般32位、R&B18位、ディスコ2位)といった具合に、どれもフロアキラーになりうる名曲ばかりです。

この後、ディスコブーム真っ只中の79年には「Journey Through The Secret Life Of Plants(シークレットライフ)」という一風変わった2枚組アルバムを発表。もともとドキュメンタリー映画のサントラに使う予定で制作されたこともあり、インストィルメンタル曲が中心で、なんだかコワくて奇妙な雰囲気です。

それでも、例えば1枚目B面収録のエレクトロディスコ「Race Babbling」などは、ミニマルでスペーシーでハウス音楽的な面白さがあると思います(ちょっと入ってるスティービーのボコーダーの声がハービー・ハンコックみたいだが)。2枚目B面「A Seed's A Star And Tree Medley」もディスコ系。それと、1枚目A面には、「Ai No Sono」という日本人の子供たちが合唱で参加している変てこな曲も入っています。

惜しむらくは、この「大ディスコ祭り」の期間中、リリースされたアルバムがこの1枚だけだったこと。各楽曲をじっくりと熟成して仕上げる職人肌のスティービーらしさゆえかとも思いますが、どうせならスティービー流のもっとポンポコポンな「もろディスコ」アルバムを出して欲しかった気もします。

さて、80年代に入ると、大方の予想通り、シンセサイザーが縦横無尽に駆け回る曲が目立ってきます。80年発表のアルバム「Hotter Than July(ホッター・ザン・ジュライ)」からは、「ズンチャ♪ ズンチャ♪」とのんびりレゲエ的展開の「マスター・ブラスター」(一般5位、R&B1位、ディスコ10位)がおもむろに大ヒット。また、68年に暗殺されたマーティン・ルーサー・キング牧師に捧げた収録曲「ハッピー・バースデー」が、そのまんま世界のダンスフロアの「お誕生日おめでとうアンセム」となっております。

このほか、80年代には、ディスコ的にいうと「That Girl」(82年、一般4位、R&B1位、ディスコ27位)「Do I Do」(82年、一般13位、R&B2位、米ディスコチャート1位)とか、めくるめく愛の賛歌「I Just Call To Say I Love You」(84年、一般1位、R&B1位)とか、高速テンポで目が回る「Part Time Lover」(85年、一般1位、R&B1位、ディスコ1位の3冠達成!!)とか、「Go Home」(85年、一般10位、R&B2位、ディスコ1位)、「Skeltons」(87年、一般19位、R&B1位、ディスコ20位)といった代表曲が生まれました。

特に、「I Just Call...」と「Part Time Lover」については、当時のフロアでも相当に耳にした定番曲で、セールス的にも絶好調だったわけですが、かつては濃厚に見られた政治的メッセージ性やソウル性は、かなり後退していきました。つまり、このあたりから「ゴーストバスターズ」のレイ・パーカーJrのごとく、80年代らしく商業的に「いけいけどんどん」になっていった模様です。まあ、それまでの功績を考えれば、ある程度は「やり尽くした感」が出てきても仕方がないとは思いますが。

同時代を生きたソウル界の大立者である故ジェームズ・ブラウンや故マイケル・ジャクソンと比べても、スキャンダルとは無縁で、非常に穏やかで朗らかな人格者とされるスティービーさん(昔から日本のテレビ番組にもよくニコニコ顔で出てたし。そんで10年ちょっと前には日本の缶コーヒーのCMにも出てたし)。ディスコからクラブミュージックへと移行した90年代以降も、昔ほどの勢いはないものの、コンスタントにヒットを出し続けております。幼くしてスターになったため、長〜いキャリアながらもまだ60代前半という若さでもありますので、これからもますますのご活躍を祈念いたしたく存じます。

バリー・ホワイト (Barry White)

Barry White聞けば一発でわかるモヤモヤ低音ボイス。アップリフティングな高音ボーカルが重視されがちなディスコでは、かなり異色だった伝説のヒットメーカー。久方ぶりの投稿となる今回は、「どこまでもメロウで小いやらしい」初期ディスコ界の巨漢の大御所バリー・ホワイトさんを取り上げてみましょう。

バリーさんは1944年米テキサス州生まれ。すぐに親とともにロサンゼルスに移り住みましたが、そこは貧困層が多く住む地区で、犯罪の温床にもなっていました。彼自身、不良グループに入り、窃盗の罪で服役したこともあります。けれども、当時流行していたプレスリーなどのロック音楽に目覚め、独学でピアノを練習して更生の道を歩み出します。60年ごろには地元のボーカルグループにも参加して、活動を本格化させました。

その後、60年代半ばになって、レコードレーベル「デルファイ(Del-fi)」のオーナーであるボブ・キーン(Bob Keane)に見出され、まずはA&R(アーチスト発掘担当)社員として働き始めました。そこで後にディスコヒットを飛ばすヴィオラ・ウィルス(Viola Wills)などへの楽曲提供、アレンジ、バックミュージシャンを手掛け、裏方としてのマルチな才能に磨きをかけたのでした。

ちなみに、ボブ・キーンはもともとクラリネット奏者で、30-40年代に流行したジャズのビッグバンドに強い影響を受けた人物。演奏者としては活躍できませんでしたが、80年代のヒット映画「ラ・バンバ」で描かれた50年代の人気ロック歌手リッチー・バレンスを見出し、育てたことでも知られます。

そして69年、バリーさんはシュープリームスを模した女性3人組のボーカルグループ「ラブ・アンリミテッド(Love Unlimited)」を発掘し、自らプロデュース。70年代には、彼女たちに加えて演奏者40人からなるオーケストラとして発展的に再編成し、「ラブ・アンリミテッド・オーケストラ」として売り出したところ、73年のデビュー曲「Love's Theme(愛のテーマ)」が大ヒット(全米一般チャート1位)したわけであります。

この曲は、70年代ディスコのルーツとも言われているインストゥルメンタルの逸品。軽くステップを踏みつつ、その旋律に身を委ねれば、「さわやかストリングス」がそよ風のように全身を駆け抜けます。いまだって、朝のテレビやラジオやCMや喫茶店や郊外型ショッピングセンターで、誰もが一度は耳にしたことがあるはずです。Love Unlimet Orchestraは、この後も70年代を通して、「オーケストラディスコ」の代表格としてヒットを重ねることとなります。

メンバーの中には、後に名を上げるレイ・パーカーJrやリー・リトナー、アーニー・ワッツといった面々も入っていました。当時の流行音楽シーンでは、ビッグバンドの「グレン・ミラー楽団」のような大編成バンドはほとんど消え去っていたのですが、敢えて人件費無視の「40人編成」という大ばくちを打ったことで、逆に大衆には新味のある音として受け入れられたといえるでしょう。

一方、バリーさん自身もソロ名義で同時期、「I'm Gonna Love You Just A Little More Baby」(73年、米R&B1位、一般3位)、「Can't Get Enough Of Your Love, Babe」(74年、R&B、一般ともに1位)、「You're The First, The Last, My Everything」(同年、R&B1位、ディスコ2位)といった大ヒットを次々と飛ばしました。もちろん、バックバンドとして、彼の率いる「Love Unlimited Orchestra」がその巨大な背中をしっかり支えていました。

いずれの曲も、「もわ〜〜〜」としたバリーさんのバリトン&ベース・ボイス、つまり以前に紹介したアイザック・ヘイズをもう一段低く、しかもそのキワどい歌詞と同様に「小いやらしい」感じにした声が横溢し、むせ返るほどです。とはいえ、基本のリズム進行は8ビートもしくは16ビートの「ズンチャカディスコ」ですので(バラードもあるけど)、フロアでは踊りながら「もわ〜〜〜」と高揚してくることウケアイであります。

底抜けにゴージャスなオーケストラの演奏に絡む「は〜とふる」な歌声、ため息、熱い吐息。クラシカルな欧州発白人音楽と、ゴスペルを源流とする黒人ソウル音楽との絶妙な組み合わせが、長引くベトナム戦争に憔悴し、愛に飢えていた米国民の胸を焦がしたのでした。

ディスコブームが一段落した80年代に入ると、ヒット曲が急に出なくなって勢いが止まったかのように見えたバリーさん。ところが、90年代には「あの(エロ)声よもう一度」というわけで、クインシー・ジョーンズ、アイザック・ヘイズ、ティナ・ターナーといった大物とコラボレーションして、「The Secret Garden」(90年、R&B1位)や「Practice What You Preach」(94年、同1位)などの大ヒット曲を飛ばすようになりました。その復活力や恐るべし、であります。

そんなバリーさんも、長年の肥満に起因する高血圧や内臓疾患がもとで2003年、58歳の若さで死去します。もうあの声を生で聴けないと思うと残念ですが、CDはベスト盤を含めて豊富に出ております。写真は、私が最も好きな軽やかアップテンポディスコLet The Music Playが収録された76年のソロアルバム「Let The Music Play」。アマゾンなどで千数百円で入手可能なようですので、あの声に一度メロメ〜ロにハマってみてくだされば幸いです。

ハロルド・メルヴィン & ザ・ブルー・ノーツ (Harold Melvin and The Blue Notes)  &イベント告知

Harold Melvynフィリー・ソウルの大御所といえばこの人たち。米国ディスコの源流とも言われるほどダンサブルな面々ですけど、あくまでも渋くて真面目でダンディーな5人組です。

結成はなんと1954年。日本がまだ戦後の混乱期にあったころです。文字通りフィラデルフィア出身のハロルド・メルヴィンさんを中心にした男性ボーカルグループで、60年代まではパッとしなかったのですが、70年代初頭からディスコ系のヒットを連発して一躍トップスターになりました。

メジャー化の原動力になったのは、ちょうど70年にメンバーとして加わったテディ・ペンダーグラス(Teddy Pendergrass)でした。もともとはドラマーだったのですが、類まれなる甘〜〜〜いバリトンの声の持ち主で、この人の歌声を聴く者はみんなメロメロ状態になってしまったのです。

彼の加入の2年後には、その後の米国ディスコの流れを決定づけるパイオニアレーベルで、名ディスコ仕掛け人であるギャンブル&ハフ(Gamble & Huff)が率いる「フィラデルフィア・インターナショナル・レコーズ(PIR)」と契約。「I Miss You」(72年、R&B7位)、「If You Don't Know Me By Now」(72年、同1位)という「とろ〜りはちみつ」なバラードで軽くジャブを飛ばした後、いかにもフィリーなディスコ曲「The Love I Lost」(73年、R&B1位)を大ヒットさせ、後に大爆発するディスコブームの到来を大いに予感させたものでした。

PIRからの3枚目アルバム「Wake Up Everybody」からは、テルマ・ヒューストン(Thelma Houston)も歌った「Don't Leave Me This Way」(75年)とか、「Wake Up Everybody」(75年、R&B1位)というディスコヒットが生まれました。

さらに、同じ75年に出した4枚目のアルバム「To Be True」からは、「Where Are All My Friends」(R&B8位、米ディスコチャート11位)と「Bad Luck」(R&B4位、ディスコ1位)というディスコシングル曲をリリースしました。特にBad Luckはディスコチャートで11週間も続けて1位になる特大ヒットになっています。

ダンス系とバラード系のヒットをバランス良く出しているのが、この人たちの特徴でもあるわけですが、それもこれも「テディの美声」あればこそ。アップテンポでもスローテンポでも、彼の声はいつでも耳に心地よく響きます。天賦の才とはこのことでしょう。

しかし、グループとしての一体感は、いつの間にか損なわれていきました。案の定、あまりにも「おお!テディ、ソーグーッド!」ともてはやされたために、とりわけ長年のリーダーであるハロルドさんとテディさんの関係がしっくりこなくなってしまったのです。自信あふれるテディ自身も、「コンサートやレコードで、自分の名前をもっと前面に出してほしい」などと強気に迫ったとされ、火に油を注ぐ形になりました。

結局、「To Be True」を最後にテディさんはソロに転向し、その後もヒットを飛ばし続けました。残されたメンバーは、もちろん活動を続け、70年代後半以降も「Prayin'」(79年、R&B18位)、「Tonight's The NIght」(同61)、「Hang On In There」(81年、同51位)みたいな結構すぐれた軽快ディスコ曲も出したわけですけど、目玉のボーカルを失って一気に存在感は低下。切ないものです。

ところが、好事魔多し。テディさんは82年、交通事故で突然、半身不随になり、歌手活動が著しく制限されてしまったのです。それでも、車いすでライブや慈善活動を続け、88年にはミデアムダンス曲「Joy」(R&B1位、ディスコ42位)も大ヒットさせています。

波乱万丈の歴史を刻んだフィリーディスコの帝王、ハロルド・メルヴィン&ザ・ブルー・ノーツ。現在ではハロルド(97年に57歳で死去)、テディ(2010年に59歳で死去)を含めて、ほとんどの主要メンバーが鬼籍に入りましたが、ディスコ史、そしてソウル史においても強烈なインパクトを残したグループだったことは確かです。

CDはベスト盤、アルバム再発ともにけっこう出回っております。上写真は10年ほど前に出たエピック盤「The Ultimate Blue Notes」。価格が1枚1000円前後と非常に手頃な上に、主なヒット曲が網羅されていてお得な感じです。


*イベントお知らせ
12月8日(土)夜、西武新宿線新井薬師駅南口の目の前のバー「ゆんたく」にて、まったりとアホアホなディスコDJパーティーを行います。入場お値段は1ドリンク付き1000円。ご興味のある方は、お気軽にお立ち寄りくださいませ!! 詳細は↓

http://www.facebook.com/events/300433423400391/

B. B. キング (B. B. King)

 King今回は、前回投稿の「Ben E. King」とけっこう間違えやすい「B. B. King」でございます。日本が占領下にあった1940年代後半から活躍し、今でも押しも押されぬブルースギターの大御所なのですが、かな〜りディスコな時代もあったのでした。

1973年、後にキャンディ・ステイトン(Candi Staton)やマイティー・クラウド・オブ・ジョイ(Mighty Cloud of Joy)のディスコヒットをプロデュースしたデーブ・クロフォード(Dave Crawford)のプロデュースによりアルバム「To Know You Is To Love You」を発表。これがけっこうなダンサブル路線でして、前人未到の「ブルースディスコ」をここに実現して見せたのです。

それもそのはず、録音は、これまで当ブログで何度も解説してきたフィラデルフィアサウンドの生産元「シグマ・サウンド・スタジオ」。シングルカットされた表題曲でもお分かりのとおり、渋〜〜いボーカルワークと「ブルースギターの神様」ぶりは濃厚に残しつつ、ドラムはかのアール・ヤングが担当し、荒削りながら初期ディスコの「ドンドコ」風味を醸しているのです。

続く1974年にも、同じデーブ・クロフォードのプロデュースによりシグマで録音し、似たようなバックミュージシャン陣を起用したアルバム「Philadelphia」(上写真)をリリース。前作以上にディスコなノリでして、ここに「ディスコ&ブルース」という珍奇?かつ素敵なジャンルが確立したのでした。

特に表題曲のシングル「フィラデルフィア」は、なんとまあ、全米ディスコチャート上位にも、ちょろりと顔を出す始末(最高6位)。アール・ヤングも「もうこうなったらとことんドンドコやったれ!」とばかりに、ディスコビートをかなり前面に押し出しています。とにかくYouTube動画で聴いてみて下さい。↓



しかし、ここで大切なのは、かつて紹介したジェームズ・ブラウンやアイザック・ヘイズやエドウィン・スターなどのように、「ソウルアーチストが無理やりディスコ化した」ような曲調ではないことです(そんな変身ぶりも愛嬌があって大好きだが)。極上のブルース・ギターと、アールヤングのディスコビート、さらにファンクディスコのホーンセクションが本当の意味で融合した、ディスコ史に残る珠玉のコラボレーションだと私は思います。

BBキングは1925年、米ミシシッピー州生まれ。1951年に伝説の名曲「3 O'clock Blues」が初めてビルボードR&Bチャート1位に輝いて以来、第一線で活躍し続けてきたのですが、なんと80代半ばに入った現在も現役歌手としてツアーを回っているという超人でもあります。

そんな老境のキングさんがかつて一瞬、試みた茶目っ気ディスコ。私はほかのアルバムは興味がないので持っていませんが(笑)、上記フィラデルフィア発の2枚だけは必聴なのであります。CD化もされております。

MFSB (エム・エフ・エス・ビー)

MFSBスライに続いて今回も「ちょいとタイムマシーン」シリーズ。フィラデルフィアサウンドを作り上げた中心オーケストラだったMFSBであります。70年代初頭に活動をはじめ、初期ディスコ時代に絶大な貢献を果たしたアーチストです。

1971年、ケニー・ギャンブルとレオン・ハフという2人のミュージシャン兼プロデューサーが、デトロイトのモータウンに対抗して、米フィラデルフィアを拠点とする音楽レーベル「フィラデルフィア・インターナショナル・レコード(PIR)」を立ち上げました。そのときに、所属ミュージシャンのバックで演奏するオーケストラとして編成したのがMFSBというわけです。

精鋭ミュージシャン約30人で編成されたMFSBは、「Mother, Father, Sisiter, Brother」の略で、家族的な「友愛」をイメージ(なんか鳩山さんみたいだが)。音の特徴は、メリハリの利いたドラム&ベースラインと滑らかなストリングス。とにかく踊りやすさを重視しており、台頭しつつあったディスコという空間に、ものの見事にマッチしてしまったのであります。

とりわけ、ディスコビート・ドラム(ドンドコドラム)の発明者とされるドラム担当のアール・ヤングが紡ぎだす「シャカ、シャカ、シャカ、シャカ♪」のハイハット音が、曲に無上の躍動感を与え、聞く者たちを「いきなり華麗なダンサー」に仕立て上げてしまうのでした。(YouTube動画「アール・ヤングの楽しいドラム教室!」ご参照)

PIRのミュージシャンは、当ブログでも既に紹介したオージェイズビリー・ポールスタイリスティックスのほか、今年1月に死去したテディー・ペンダー グラスがいたハロルド・メルヴィン&ザ・ブルー・ノーツなどの黒人が中心。「フィリーサウンド」とディスコのブームに乗って、彼らの曲は世界中で大ヒット しました。

MFSB名義でのアルバムは、1973年発表の「MFSB」が第一弾。人気TV番組「ソウル・トレイン」のテーマになった「T.S.O.P.(ザ・サウンド・オブ・フィラデルフィア)」(米一般チャート1位、米R&Bチャート1位)が収録されています。

この後もヒット・アルバムをリリースし続け、「Love Is The Message」(74年、R&B42位)、「Sexy」(75年、R&B2位、米ディスコチャート2位)などのシングルヒットも生み出しました。

しかし、70年代半ば以降は、メンバーが「レオン&ハフ」と契約面で対立して脱退するなどして、大きくグループ編成が変わりました。脱退したメンバーの多くは、ライバルの「サルソウル・オーケストラ」に転籍しました。活動ぶりも人気も、下降線を辿っていったのです。メジャーな活躍としては、77年公開の映画「サタデーナイト・フィーバー」のサントラで「K-Jee」という曲を演奏しているのが目立つ程度です。

ディスコブームのさきがけだったのに、ディスコブームど真ん中のころには下火になってしまったMFSB。まあ、それでも、一時代を築いたフィリーサウンドの要だった彼らのアルバムは、とても斬新でした。デクスター・ワンセル、ビンセント・モンタナなど、後に自らの名前でレコードをリリースした大物アーチストが所属していたこともあり、演奏の完成度も高かったと評価されています。

というわけで、アルバム再発CDもベストCDも世界各国から順調に出ています。写真は70年代半ばに出した2枚のアルバム「Philadelphia Freedom」(75年)と「Summertime」(76年)をカップリングした2枚組みCD(英edsel盤)。「う〜〜〜んエレガント」な「ザ・オーケストラディスコ」MFSBの真髄が味わえる最後の演奏が聞くことができます。

パティ・ラベル (Patti LaBelle)

Patti Labelle前々回の投稿では「圧倒的な厚底」をフィーチャーいたしましたが、今回はもう圧倒的以上に「超絶的な」声量を誇るディスコディーバ「パティ・ラベル」を紹介しましょう。

ソウル界では、これまでに当ブログで紹介したダイアナ・ロス、チャカ・カーン、アレサ・フランクリン、ディオンヌ・ワーウィックといった歴史的ディーバたちがいますが、私が思うに、声量の点ではパティがディスコ界、いやソウル、ポップス界最強です。

子供のころに黒人教会のゴスペル音楽に目覚めた彼女の歌声は、「良心の呼び声」(実存主義哲学者ハイデッガー)ならぬ「魂の呼び声」そのものです。アフリカにルーツがある黒人としての文化・歴史的背景、それにアジア人や欧州人には決して真似ができない独特の声質があればこそ、呪術的な響きさえ帯びて胸に迫ってくるのだと思われます。ず〜っと聴いていたら耳が変になるほどですね。聴く方にも気合と根性が求められます。

さて、そんなパティさんは1944年、フィラデルフィアに生まれました。10代で早くも頭角をあらわし、60年代にボーカルグループ「パティ・ラベル&ブルーベルズ」としてヒットをいくつか飛ばし、さらに70年代に「ラベル(LaBELLE)」という女性3人のコーラスグループのリードボーカルとして大ブレイクを遂げました。

ラベルを大スターにしたヒット曲は、ご存知「レディー・マーマレード」(74年、全米一般チャート、R&Bチャート各1位、ディスコチャート7位)。街娼をテーマにしたソウル音楽の問題作でもあり、ディスコ黎明期の代表曲でもあります。曲自体のインパクトはあまりにも強く、その後何度もリメイクされています。

ラベルの脇を固める2人はノナ・ヘンドリックスとサラ・ダッシュで、いずれ劣らぬ強力ボイスの持ち主でしたが、やはりパティの破壊力にはかないませんね。

当時の彼女たち3人は、イギリスのデビッド・ボウイなどのグラムロックの影響もあって、オウムかインコみたいなド派手な衣装で聴衆にアピールしていました。ですので、コンサートなどでの興奮度(暑苦しさ)もひとしおだったと思われます。

けれども、ラベルとしてのヒットはこの程度でした。ミディアムスローの「What Can I Do For You?」(75年、R&B8位)、けっこうディスコ色が濃厚な「Missin' With My Mind」(同、19位)などがありますが、マーマレードに比べれば小粒なのです。

間もなくパティは、満を持してソロに転向。エピック、フィラデルフィア・インターナショナルの各レーベルから、「Patti Labelle」(77年)、「It's Alright With Me」(79年)、「 The Spirit's In It」(81年)などのディスコ系のアルバムを次々と発表しましたが、セールスはいまひとつでした。

ところがどっこい、ダイナマイト・ボイスは健在でした。83年にリリースしたバラード「If Only You Kew」がR&Bチャート1位に輝き完全復活。85年には人気映画「ビバリーヒルズ・コップ」のサントラにも使用されたディスコ曲「New Attitude」(米ディスコ1位、R&B3位)と「Stir It Up」(ディスコ18位、R&B5位)をリリース。この2曲はテンポが速めなのですが、私も当時、ディスコで耳にしてなかなか熱狂させられました。

この時期、彼女はグローバー・ワシントンJrやボビー・ウーマックといった有名歌手との“デュエット作戦”も敢行し、いずれもヒットを記録。86年には、マイケル・マクドナルドとのデュエットで発表したバラード「On My Own」が一般チャートとR&Bチャートで1位を記録したのでした。

その後、90年代に入ってもコンスタントにヒットを放ち、結果的には息の長〜い歌手としても名を残すことになったわけです。 パティの勝因は、アップテンポの迫力ディスコもさることながら、なんといってもバラードで魅力をアピールできた点にあります。声量で圧倒するだけでなく、意外に繊細さも兼ね備えていたといえましょう。

ちなみに、ラベルの残りの2人は、いずれもディスコ界で地味ながら佳作を発表しています。ノナ・ヘンドリックスは「Bustin' Out」(81年、米ディスコ2位)、「B-Boys」(83年、同25位)などのパワフルな曲でフロアを盛り上げましたし、サラ・ダッシュも典型的70年代ディスコの「Sinner Man」(78年、同9位)、メガトンレーベル系ハイエナジーの「ラッキー・トゥナイト」(83年、同19位)といったややメロディアスなディスコ路線でまずまずの結果を残しました。

まあ、「ダイアナ・ロス&シュープリームス」のように、トリオの中でも突出した実力を誇ったパティとの差は歴然ですけどね。

パティがリリースしたアルバムは山のようにあるのですけど、再発CDについては、いくつも出ているベスト盤以外は、あまり充実しているとはいえません。そんな中、写真の英国盤CD「The Spirit's in It/I'm in Love Again/Patti」は数少ないアルバム単品モノで、80年代前半のフィラデルフィア・レーベル時代の3作が2枚のCDに収められています。「パティさん in Disco」を味わうには、ぴったりの内容といえましょう。

ザ・トランプス (The Trammps)

Tramps1見よ、このアマゾンの巨大昆虫のごとき圧倒的な厚底ハイヒールを!――というわけで、今回はまばゆい原色の世界を狂喜乱舞するディスコ・ワンダーランドの代表選手の黒人グループ、ザ・トランプスであります。

この人たちはもう、「燃えるディスコアーチスト」と断定して構わないと思います。何しろ代表アルバムは、ディスコ映画「サタデーナイト・フィーバー」でも表題曲が使用された「Disco Inferno=ディスコ・インフェルノ」(ディスコ灼熱地獄、77年、米ディスコチャート1位)。しかも、60年代半ばの結成当初のグループ名は「Volcano=ボルケーノ」(噴火口)ですので、既に爆発エネルギーが有り余っている状態で音楽活動を始めたことになります。

ほかにも、「That's Where The Happy People Go」(76年、同1位)、「ディスコ・パーティー」(76年、同1位)や、80年代のフジテレビの人気番組「なるほど!ザ・ワールド」のテーマ曲でもあった「トランプス・ディスコのテーマ(Trammps Dsico Theme)」、「Hard Rock And Disco」(80年、同76位)など、もろ「ディスコ」がテーマのヒット曲が目白押しである上、「Zing Went The Strings of My Heart 」(72年、米R&Bチャート17位)のように、早くも70年代初頭から、やがてホントに大爆発するディスコブームに向けたダンサブルな曲作りにいそしんでいたことから「本格的ディスコバンドの元祖」とも言われているのです。

主に活躍したレーベルは、ソウルとディスコを融合させた「フィリーサウンド」で知られるフィラデルフィア・インターナショナル・レコード(PIR)で、グループの中心人物はアール・ヤング(Earl Young)。このアールさんはドラム奏者兼低音ボーカリストでして、「テケテケテケテケ、テケテケテケテケ♪〜」と2小節32ビートを連ねる「ドンドコ生ディスコドラム」の元祖といわれるほど、黒人ディスコ界ではとても重要な人物です。

この人たちの代名詞「ディスコ・インフェルノ」は、同時期に大ヒットした映画「タワーリング・インフェルノ」にヒントを得て作られたと言われております。軽快なディスコビートに乗せて、「Burn, Baby, Burn♪=バーン、ベイビー、バーン♪」(燃えろや燃えろベイビー!)と連呼するという、それはそれは恐ろしい曲なのでありました。ただでさえ、履いてる本人にとっても隣で踊る他人にとっても危険極まりない超厚底靴で溢れた熱いフロアが、ますますめらめらと燃え上がることウケアイです。

アルバムとしては、もう一枚、77年に発売された「ディスコ・チャンプス(Disco Champs)」も面白い。もともと彼らが70年代前半にシングルとしてリリースしていた「Where Do We Go From Here」、「Love Epidemic」、前述の「Trammps Disco Theme」といったダンス曲数曲を、かのディスコリミキサー王のトム・モールトンがミックスし直し、完全無欠のディスコアルバムへと変貌させた内容になっているのです。ですから、これ1枚をかけ続けるだけで、しばらくは往時のディスコセンセーションを味わうことができるという趣向になっています。

ただし、この人たちの選手寿命はとても短かった。ディスコブームが終わった80年以降も、移籍先のアトランティック・レーベルから、息を吹き返したロックに急接近した前述の“無理矢理融合ディスコ曲”「Hard Rock And Disco(ハードロックとディスコ)」(注:曲自体は結構ノリがよくて悪くないが)を出すなどしてみたものの、セールス的には落ち込む一方となります。やがてメンバーが離脱したり、不仲になってしまったりして、自己崩壊を起こしてしまったのでした。これまで何度となく触れてきた「節目の80年」をうまく越えられなかったアーチストのひとつに数えられるでしょう。

80年代初頭からディスコに行き始めた私も、この人たちの曲をフロアで聞くことはもはやありませんでした。シンセサイザードラムの時代となり、アールさんの「早打ちドンドコ生ドラム」自体、古臭さが否めない状況になっていたのは残念でした。

彼らが70年代に出したアルバムのCDは、ベスト盤を含めてまずまず順調に制作されています。上写真は米アトランティック盤の「ディスコ・インフェルノ」。「Disco Champs」(下写真)の方も、5年前に米PIR盤として再発されています。とりあえず、先駆者たちに敬意を込めて「ディスコファン必聴!」と明記しておきましょう。

Tramps2

ザ・テンプテーションズ (The Temptations)

Temptationsソウル界の最高峰に君臨したボーカルグループであるテンプテーションズ(テンプス)は、1960年代前半に結成以来、モータウン系レーベルから数々の大ヒット曲を世に送り出しました。

代表曲はバラードなら「マイ・ガール」(65年、全米一般チャート1位、R&B1位)、「Just My Imagination」(71年、一般1位、R&B1位)、アップテンポなら「ゲット・レディー」(66年、一般29位、R&B1位)、「I Can't Get Next To You」(69年、一般1位、R&B1位)といったところでしょう。結成当初から、長らくモータウンサウンドの代名詞のように言われてきました。

このグループがセールス的に最高峰でいられたのは70年代半ばまでです。60年代末に始まったヒッピームーブメントに象徴される新しい時代の波に乗るために、スライ&ザ・ファミリーストーンみたいな「サイケデリック・ソウル」路線をとったものの、徐々に失速。加えて、エディー・ケンドリックス、デビッド・ラフィン、デニース・エドワーズという看板テノール歌手が、相次いでソロに転向したり、ドラッグ中毒になって素行が悪くなったりして、自己崩壊を起こしてしまったのです。

それでも、テンプスさんたちは、メンバーチェンジやメンバーの死去、所属レーベルの移籍といった紆余曲折を経て、現在もなお存続している稀有な長寿アーチストとなっています。

ディスコ的にはまず、72年の「Papa Was A Rolling Stone」(一般1位、R&B5位)が面白い。曲自体はもさ〜としたサイケな調子でダンス向けとは言い難いのですけど、まだディスコブームのかなり前だったにもかかわらず、通常シングルで約7分、12インチ盤だと12分もの長さがあるロング・チューンなのでした。

さらに、ディスコが盛り上がり始めた75年には、「ハッピー・ピープル」(R&B1位、米ディスコチャート11位)、「グラスハウス」(R&B9位、ディスコ8位)といったダンサブルな曲が収録された「A Song For You」をリリース。その後も「パワー」(80年、ディスコ23位)、リック・ジェームスとのコラボによる「Standing On The Top」(82年、R&B6位、ディスコ11位)をはじめ、ドラムビートを明確にしたディスコ曲をコンスタントに出したものの思ったようには売れず、低迷期に入ってしまいました。

しかし、「もうこれで表舞台からは退場か……」と思わせた矢先の84年、テンプスさんは復活を遂げました。アルバム「Truly For You」(写真)のシングルカット「Treat Her Like A Lady」がR&Bで久しぶりのベスト5入りとなる2位まで上昇、ディスコでも13位となりました。

まあ、とりわけ60年代の金看板だったエディーもデビッドもソロになって久しく、チャートアクション的には往時とは比べ物にはなりませんけど、このアルバムでは、相変わらず秀逸なコーラスと、流行りのシンセサイザーの打ち込み音がうまく調和しています。特に「Treat Her…」は「明るく正しい80年代ディスコ」でして、日本のディスコフロアでも大人気でした。以前に取り上げたコモドアーズと同様、かつての名ソウルグループが「看板アーチストなし」で復活したことは特筆すべきでしょう。

続いて翌85年に出したアルバム「Touch Me」も、似たようなエレクトロ・ファンクっぽい内容。とても聞きやすく踊りやすいディスコな曲がいくつか含まれています。

ソロになったエディー、デビッドともに、ディスコでもそれなりの活躍を果たしました。エディーには「Goin' Up In Smoke」(76年、米ディスコチャート11位)、デビッドには「You're My Piece Of Mind」(77年)といったディスコ系のとてもヨイ曲があります。ただ、これまた往時のテンプス時代とは比べるべくもありません。どちらも突出した美声の持ち主だったのですが、やはりコーラスの中でこそ生かされていたとみるべきでしょう。結果的には、二人とも長年の不摂生がたたって、90年代初頭に50代前半の若さで亡くなっています。

テンプスや元テンプスたちのアルバムの再発CDは、意外にあまり制作されておりません。復活記念アルバムとなった「Truly For You」については最近、オランダPTGレーベルから再発されましたが、まもなくレア化しました。ベスト盤がいくつかあるので、ほとんどそれで我慢するしかない状態です。

マイケル・ジャクソン追悼 ――ジャクソン・ファイブ (Jackson 5)

Jackson 5最近の東京地方、やけに湿度が増してきております。ふうぅ暑い暑い・・・・・・というわけで、「希代のスーパースター」マイケル・ジャクソンの謎の急死については、ディスコ堂としても語っておかなければなりません。なにしろ私自身、ディスコに通った時代には聴きまくっていましたし、彼の踊りをフロアで真似てみたことも多々あったわけですから(そもそも手足が短くて真似にならなかったが)。ホントお世話になりました。

死の本当の理由などもちろん分かりません。警察の捜査が進んでも、表面的なことしか判明しないのではないでしょうか。でも、彼の過去の夥しい整形疑惑や「小児愛者だった」「薬漬けだった。それに借金漬けだった」といった報道を見ていくと、やはり音楽や映画の世界的大スターの死によくみられるある種の「自殺っぽさ」を感じざるを得ないですね。

当ブログでは3年前にマイケルを取り上げた際、同じ50代前半で死んだ石原裕次郎を引き合いに、奇行癖のある彼について少し書き綴ったことがありましたが、そんな破滅型の人生こそが、彼の寿命を縮めたといっていいと思います。

マイケルはもう、カッコ付きの「マイケル・ジャクソン」として世界ブランド化されていました。今回の報道で「マイケル・ジャクソン・ジャパン株式会社」なる会社が日本にあることを知り、「そのまんまじゃん!」と驚嘆しつつも、後になって「なるほどな」と妙に納得したものです。もはや生身の人間を越えた「私人兼法人」のような存在。これでは、本当の自分が自分自身の虚像に押しつぶされ、アイデンティティーを見失ってしまうでしょう。

「マイケル・ジャクソン」の礎はいうまでもなく、実の兄弟たちと結成した「ジャクソン5」(上写真はCD「The Ultimate Collection」)にあります。「黒人音楽の砦」モータウン・レーベルのニューフェイスとして1969年、鳴り物入りでデビューしたマイケルたちは、デビュー曲「I Want You Back」から4曲続けて米ビルボード・ポップチャート1位を獲得するなど、驚異的な人気を示しました。

ジャクソン5のメジャーデビューに向けて、モータウンは、マイケルの年齢を偽って3歳減らして8歳にして「あどけなさ」を強調したり、アカの他人の黒人ミュージシャンをバンド・メンバーに加えて「ジャクソン兄弟のいとこで〜す♪」と紹介したりして、マーケティングに腐心しました。結果的に、黒人としては初めて「一般白人にも受けいれられるアイドル」となったわけですが、このころには既に、「マイケル」の虚像人生は始まっていたともいえます。

70年代半ばにジャクソン5は、セールスが落ちたことに加えて、モータウンとの間で契約について争いが生じたため、別のレーベルに移籍。グループ名も「ザ・ジャクソンズ」に変えました。

マイケルは70年代後半にはソロ活動を本格化。折りしもディスコ・ブームが絶頂期を迎えたころです。ダンスの上手いマイケルは、クインシー・ジョーンズという敏腕プロデューサーを味方につけ、アルバム「オフ・ザ・ウォール」(79年)で「歌って踊れる大スター」としての地位を不動のものとしました。

このアルバムからは、レコードA面1、2曲目の「Don't Stop 'Til You Get Enough」(今夜はドント・ストップ)と「Rock With You」(ロック・ウィズ・ユー)がビルボード・ディスコチャート2位まで上昇しています。

さらに82年の「スリラー」で、「マイケル・ブランド」を確立するわけですね。ディスコ的には、このころのポール・マッカートニーとのデュエット「Say Say Say」(83年、ディスコチャート2位)も印象深い。当時の地元・札幌のディスコでよくかかっていて、DJボックスの傍らに、二人が並んで写っている写真が載った青いジャケットが置かれていたのを、今でも鮮明に思い出します。

一方で、「Black 0r White」(91年、ディスコチャート2位)などでは、やや過激な反人種差別メッセンジャーぶりも披露しました。巨額のカネが動く音楽ビジネスに幼いころから身を置く中で、相変らずの白人優位社会への怒りやコンプレックスを増幅させていったフシもあります。だからこそ努力を重ねて、人種やジャンルの垣根を越えた「キング・オブ・ポップ」と呼ばれるまでになったのかもしれせん。

その文脈の中に、「整形疑惑」や「奇行」があったのでしょうか。思えば、「Black 0r White」のあたりから、彼の“不思議ちゃん”ぶりがどんどんエスカレートしていきましたからねえ・・・・・・。彼はあまりマスコミに本音を語らない人でしたから、誤解や根拠のない憶測も生じやすかったのだとみられます。いずれにしても、彼が伝説になってしまった今、このあたりの謎も、解かれることは永遠になくなってしまいました。

――まあ、彼の歌やダンスの才能は誰もが認めるところですし、スターになった最大の要因は「実力」であったことはいうまでもありません。私も文句なしに大好きな歌手でした。マイケルは孤独で繊細で、そして飛び切りカッコいい「ディスコのスター」でもあったのです。

日本人の私としては、時宗・一遍さんの「おどり念仏」よろしく、マイケルの曲で激しく踊って供養してあげたいところです。来週あたり、筋肉痛必至でどこかの「ダンクラ・イベント」に顔を出しましょうかな(かなりトホホ)。

最後に、Youtubeで見つけたマイケル少年のダンス映像を以下、貼り付けておきます。ジャクソン5時代の動画でして、ロッキング・ダンスにロボットダンスを組み合わせた「極めて華麗なるダンス」を披露しています。ほかのメンバーも上手なのですが(番組ホストらしきおじさんは除く)、彼のリズム感や切れ味はダントツです。マイケルの早熟かつ圧倒的に非凡な才能の原点をここに見ることができるでしょう。

CDのライナーノーツ書きました(自己宣伝)


たまには「ボカロでYMCA」
キュート奇天烈でよろし。
本業分野の著書!(自己宣伝)


初証言でつづる昭和国会裏面史!
著書です!(自己宣伝)


キーワードは意外に「ディスコ」。
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