ディスコ堂 by mrkick

音楽に貴賎なし ―Discoの考察とCD批評

80年代後半

カメオ (Cameo)

Cameo今回はまったりとカメオで〜す。「キャミオ」とか「キャメオ」といった表記がされることもありますが、英語の発音に忠実過ぎてちょっと気持ち悪いので、当ブログでは昔の国内盤LPで使われていた一般的な表記「カメオ」で統一したいと存じます。

さて、このカメオの中心人物は、ブラコン界の大立者ラリー・ブラックモン(Larry Blackmon)さんです。1956年、ニューヨークのハーレム地区生まれ。名門ジュリアード音楽院にも通っていた才人で、10代のころからドラマーとして一流プロのミュージシャンのセッションに加わっていました。1975年に仲間たちと前身の「New York City Players」というグループを結成し、これが後にCameoに名称変更されます。

75年発売のデビュー曲は「Find My Way」というもろディスコの逸品。それもそのはず、彼らがこの時に最初に契約したレコード会社は、このブログではしつこいほど登場してきた"ディスコの殿堂"カサブランカ系列のレコード会社(Chocolate City)だったのです。この曲は数年後、以前に紹介した1978年公開のカサブランカ制作のディスコ映画「サンク・ゴット・イッツ・フライデー」用にリメイクされて、挿入歌として使われました。つまり、後に個性派ファンクグループとして一時代を築いたカメオも、まずはディスコで第一歩を記したのでした。

その後、80年ごろまでは大編成(最大13人)のファンクディスコ・グループとして、オハイオ・プレイヤーズバーケイズ、タワー・オブ・パワーみたいなホーンセクションを軸とした曲作りに勤しんでいました。それにラリーさんの粘着質な歌声や、スライ・ストーン、オハイオ・プレイヤーズ、バーケイズなどにもよく見られた「ヤウヤ〜ウ!」という掛け声が乗っかってくる感じです。70年代ではもう1曲、「I Just Be Want To Be」(79年。米R&Bチャート3位、米ディスコチャート52位)も、いかにもファンクディスコのノリで豪快に攻め込んでくる佳作となっております。

これが1980年代半ばになると、音楽的に大きな変貌を遂げます。当時、急速に浸透していったシンセサイザーやドラムマシーンを多用するようになり、アーバンなヒップ・ホップの要素を強く打ち出すようになっていったのです。

このころに大ヒットしたShe's Strange(1984年。R&B1位、ディスコ25位、米一般総合チャート47位)とかSingle Life(1985年。R&B2位、ディスコ26位)、そして代表曲のWord Up(86年。R&B1位、ディスコ1位、総合6位)などは、音数はやや少ないものの、シャープでソリッドなダンスミュージックに仕上がっております。全米の一般総合(ポップ)チャートにも食い込むようになり、セールス的にはピークを迎えました。

同時に、ラリーさんは80年代半ばにバンドの構成員数を3人にまで絞り、残りは適宜サポートメンバーとして加わってもらうという方法に切り替え、人件費の大幅削減にも成功。70年代に活躍した多くのソウル・ファンク系バンドが80年代になって低迷していく中、音楽的にも経済的にも怒涛のバンドマスターぶりを発揮したのでした。

日本ではとりわけWord Upが、80年代後半のバブル期の定番曲としてもてはやされたものでした。「ピヨピヨ、ヒュルル〜ン」とお得意のシンセ音が縦横に飛び回り、フロアにいるこっちも心がピョンピョンと躍りだしたものです。テンポ数(BPM)は少なく遅めの曲ですので、踊り方は海藻のようにゆらゆら、ゆったりとしたもの。一部のブレイクダンス好きの人々などは、もっとバックビート(裏拍子)を意識して跳ねるように踊っていたのをよく見かけました。プロモーション・ビデオ(PV)もまた、ラリーさんの見事に股間を強調したファッションセンスを含めて、なかなかに奇抜な内容です。

当時のディスコはまだ連日、非常に混み合っていましたので、フロアは常にカオス状態。でも、とりあえず自分が楽しめばそれでいいわけですので、とても自由でわがままなフロア空間が展開されておりました。Word Upにも「Do your dance, do your dance」(自分の踊りを踊りたまえ!)とか「We need to dance」(俺たちは踊らねば!)といったダンサブルなフレーズがどんどん出てきます。ラリーさんはこの曲で若者たちを(変な格好で)鼓舞して、「魂を揺さぶらせて自由に踊れ!」と叫んでいるかのようです。

当ブログでは音楽やアーチストの考察に重きを置いているため、これまで具体的な「踊り方」には敢えてあまり触れてこなかったわけですが、70年代には日本では「ステップ」という踊り方がありました。曲や曲調に合わせてあれこれと色んな「型」を覚えて、フロアのお客さんたちが同じ踊りをラインダンスのように踊っていたのです。

踊りの種類は、「ファンキー・フルーツ」とか「チャチャ」とか「ブロードウェイ」とか「スケーター」とか「フォーコーナーズ」とかもう無数にありました。しかも、東京や大阪その他の都市ごとにそれぞれ微妙に違うステップがあり、皆ものすごくこだわってそれを踊っていたのです。

世界的にもディスコ空間でのこうしたステップ・ダンスはほぼ皆無で、日本特有の現象でした。これまでに当ブログでも何度も登場してきた一遍上人の踊念仏をひとつの源流とする「盆踊り」の伝統が、ステップ現象の背景にあったことは間違いないでしょう。皆と同じ踊りを舞うことで、ダンスフロア・コミュニティの一体感を味わっていたのですね。

その伝統は、少し間を置いて90年代以降のクラブで流行った「パラパラ」へと引き継がれました。今だって、アニメソング(アニソン)やアイドルの曲に合わせて同じ形式で踊るライブイベントが一部にあります。

ディスコでは70年代まではステップが盛り上がりを見せましたが、80年代に入ると、日本でも海外と同様、基本的にリズムに合わせて自由に手足や腰を動かす踊り(フリーダンス)が主流になりました。客層も老若男女に広がりを見せ、日本人全体が「ディスコ慣れ」してきたのだともいえます。

「自由」ということは、往年のステップ・ダンスで踊っても別にぜんぜん構わないわけですけど、音頭取りのDJがかける音楽にゆるりと合わせて、お客さんたちが上手も下手もなく勝手気ままに踊り狂い、なおかつ何となく調和している様子が、踊り手と見物人が明確に分かれる「舞台型」ではなく「参加型」であるディスコ本来の姿であり、醍醐味です。フロアでタバコを吸ったり、酔っ払って何度も隣の人にぶつかってその足を「イテテ!」と踏んだり、尋常ならざるバカ騒ぎをしたりといった迷惑さえかけなければ、他人の目を気にする必要などないわけです。それこそがまさに、束の間の「解放と融合」の非日常空間といえましょう。

とまあ、理屈はさておき、ディスコの「考えるな、感じろ(いやむしろ踊れ)!」(ブルース・リーの名言より)の精神は、現代ダンスカルチャーにも脈々と受け継がれております。「国富論」で知られる18世紀の「経済学の父」アダム・スミスまでもが、意外にも「舞踊と音楽は人間が発明した最初の快楽である」との名言を残しています。人類が人類である以上、これからも人々は踊り続けるに違いありません!(断定)

カメオのCDはアルバム、ベスト盤ともにとても充実しております。写真の「Secret Omen」は79年発売のアルバムの再発CDで、珠玉ディスコの「Find My Way」と「I Just Wnat To Be」収録。ベスト盤だと、90年代に発売された米MercuryのFunk Essentialsシリーズの「The Best Of Cameo」(Volume1と2)および「The 12" Collection And More」が網羅的な内容となっております。これらを聴いて自宅で好き勝手に踊り狂い、日ごろの憂さを晴らすのもまた一興でしょう。

キム・ワイルド (Kim Wilde)

Kim wildeさて今回は、80年代の英国を代表する女性歌手キム・ワイルドさんで〜す!その名のとおり、当初はブロンディみたいなワイルドなロックまたはポップスの曲調が多かった人ですけど、80年代半ばから緩やか〜にディスコ化。怒涛のエネルギーに満ち溢れた数々のヒットを放っています。

当時は、シーナ・イーストンとかマドンナとか、女性の音楽的社会進出を思わせる美貌系のソロ女性歌手ブームがありましたので、彼女もその一人ということになります。

1960年生まれの彼女の父親は、1950〜60年代の英国ロックンロール&ロカビリー界のトップスターだったマーティー・ワイルド。1981年の20歳のとき、その父親の協力の下、同じくミュージシャンである実弟のリッキーがプロデュースして、デビューアルバム「Kids In America」を発表。収録曲の同名シングル「Kids In America」が、いきなり本国のシングルチャートで2位に輝きます。全米チャートでは最高25位といまひとつでしたが、ドイツやフランス、豪州などでも軒並みチャートインしました。

この曲は、父の影響を感じさせるアップテンポのロック調で、随所にアナログ・シンセサイザーの「びよんびよん」な音が響き渡ります。キムさんのクールで無機質な表情に似合わないあどけない声が、現在にも通じるミスマッチな魅力を放っています。

続く82年に発表した2枚目「Select」では、ロック色をやや弱める一方、シンセポップ、ニューウェーブ色を強めました。この中には、昔紹介したウルトラボックスみたいなブリティッシュ・ニューウェーブロック大全開でアゲアゲな「Words Fell Down」や「View From A Bridge」や「Chaos At The Airport」、かと思えばしっぽりと哀切感漂わせる隠れた名曲「Cambodia」などが収録されています。

その後、毎年のようにアルバムを発表した彼女ですが、「Kids In America」ほどのヒット曲には恵まれませんでした。ただ、1984発表の4枚目「Teases & Dares」に収録されている「The Second Time」などは、テイラー・デインみたいな“ラッパ・シンセ”が縦横無尽に駆け回り、それを几帳面な電子ドラム音が「まあそう慌てなさんな」とばかりにしっかりと下支えするダンサブルさが持ち味で、当時のディスコでもけっこう耳にしました。

さらに、同アルバムの別の収録曲としては、もろ「親父の影響」で作られたと思われるロカビリー・ディスコ(?)の「Rage To Love」にも、個性的な発想の音作りを感じさせます。

セールス的に停滞気味になった彼女にとって本当の転機となったのは、やはり86年発売の5枚目「Another Step」(写真)に収録の「You Keep Me Hangin' On」でしょう。ついにというか、いきなりというか、あれよと言う間に米ビルボード一般チャート1位(ディスコチャートでは6位)に輝いてしまったのです。

この曲は、ザ・シュープリームスの名曲をハイエナジー風のディスコにリメイクした内容で、当時流行りのゲートリバーブのエフェクトをかけた「ビシッ!バシッ!」ドラムも絶好調の一品。「おもしろうて、やがてかなしき鵜舟(うぶね)かな」(By 芭蕉)の大バブル経済下だった六本木界隈のディスコでも、バナナラマ並みに高らかに響き渡っていましたとさ。

ちなみに、このアルバムの他の収録曲では、「Another Step (Closer To You)」もなかなかおもしろい。というのも、同じく英国のソウルディスコ歌手で、「ママ・ユース・トゥ・セイ」のヒット曲を持つJunior(ジュニア)さんとの異色デュエット曲になっているからです。曲調はオーソドックスな80年代ロックディスコという感じですが、2人の一風変わったソプラノ系の声質が、ディスコに集う者たちに、「はて踊るべきか、踊らざるべきか」と一瞬戸惑いを起こさせるような、独特の高揚感を生み出しています。

80年代後半にはもう1曲、「You Came」(88年、米ディスコチャート10位)という曲を発表しました。もうこのあたりまでくると、確信犯というかある種の開き直りというか、メロディーライン重視の「ちょいとユーロビート」な感じになっちゃってます。

というわけで、90年代に入ると、20代のころのワイルドさもさすがに影を潜め、セールスまでもが落ち込む一方になっていったキムさん。それでも、鮮烈デビュー作だった「Kids In America」からの一連の鋭角的な作品群は、その風貌とも相まって、パワフルで華々しかった80年代の音楽シーンを象徴しており、相当なインパクトがあったと思います。

再発CDは各アルバムともに発売されています。写真は「You Keep Me…」が収録された代表的アルバム「Another Step」で、収録曲のロングバージョンを網羅したCD2枚組の英Cherry Pop盤が5年前に出ています。

次回も、ニューウェーブとかそのへんに焦点を絞ってみたいと考えております。

ジャネット・ジャクソン (Janet Jackson)

Janet84さ〜て、今回は何食わぬ顔でジャネット・ジャクソンさんで〜す! これまたバブル期の1980年代後半、ホイットニー・ヒューストンと並んで黒人歌姫の名をほしいままにしたトップスターでした。

兄マイケルの死から早くも3年以上が過ぎ、この人も懐かしい存在になりつつありますが、まあディスコ界でもよく活躍したものでした。米ビルボード誌のディスコチャートでは、バカ売れし始めた1986年から2001年までの15年間に15曲も1位になっています。これを上回るのは女王マドンナ(同時期に23曲)しかいません。

この人は言わずと知れたジャクソン・ファミリーの10人きょうだいの末っ子で、1966年に米インディアナ州に生まれした。ジャクソンファミリー全体のマネジャーでもある父ジョセフの指導の下、7歳で芸能界にデビューし、偉大なきょうだい達と各種ステージをこなす日々となりました。

16歳だった82年にはソロデビューアルバム「Janet Jackson」(上写真)、84年には2枚目の「Dream Street」(写真)をリリース。ところが、この2枚とも、その毛並の良さもあってチャートインまではしたものの(シングルで10位前後)、大ヒットというわけにはいきませんでした(例:「Say You Do」=83年、米ディスコ11位)。

デビュー盤は、ジャクソンズと同じようなきょうだいグループだったシルバーズの中心人物で、70年代後半の「ディスコ仕掛け人」の一人でもあったレオン・シルバーズらがプロデュース。2枚目は、ドナ・サマーをスターに育てたかの“エレクトロディスコの大魔神”ジョルジオ・モロダーとピート・ベロッテが万全の態勢でプロデュースを担当したのですが、デビュー盤よりも売り上げが落ちる始末だったのです。

2枚のアルバム自体、大物プロデューサーを起用した上に、偉大な兄達やジャクソンズ人脈の手練れスタジオミュージシャンの助けを借りた割には、「可もなく不可もなし」のアイドルR&B歌手としての作品内容でした。ステーシー・ラティソウやステファニー・ミルズイブリン・キングのような20歳前後の売れっ子黒人女性歌手が数多く輩出していましたから、その中に埋もれてしまった感もあります。

このころは、公私ともに壁にぶち当たった時期でした。「Dream Street」発表の後、父親のマネジメントから離れて独立。姉ラトーヤ、兄マイケルの自伝「La Toya」と「Moon Walk」などにも書かれていますが、とにかく父親が音楽活動に対して厳格で、しょっちゅう暴力も振るう人物だったために、嫌気が差して逃げ出してしまったのが真相でした。84年には突然、幼なじみで、「I Like It」「Rythm Of The Night」などのソウル&ディスコヒットで知られるデバージ(これまたきょうだいグループ)のジェームズ・デバージと電撃結婚し、すぐに離婚するという「お騒がせ事件」も起こしています。

停滞期の真っただ中の85年には、姉ラトーヤと一緒にいきなり東京の「世界歌謡祭」(ヤマハ音楽振興会主催)に出場して見事(?)「銀賞」を獲得しました。まあ、とりわけ兄マイケルの破竹の勢いと比べると、とても地味な状態が続いていたわけです。

しかし、日本がバブル期に突入した1986年に大変身したのがジャネットさんのもの凄いところ。少女風の出立ちを果敢に捨て、「ちょいワル」な感じで大人びた雰囲気のアルバム「Control」(下写真)を発表したら、なんとまあ、空前絶後の大ヒットを記録してしまったわけです。

カットされたシングルの全米チャートだけでみても、「What Have You Done Fome Me Lately」(R&B1位、ディスコ2位)、「Nasty」(同1位、同2位)、「When I Think Of You」(同3位、同1位)、「Control」(同1位、同1位)、「The Pleasure Principle」(同1位、同1位)といった具合に、兄マイケルをも凌駕する大爆発ぶりを見せつけたのでした。

プロデューサーは、SOSバンドなどを手掛けたことで知られるジャム&ルイス(Jimmy Jam & Terry Lewis)。さらにプロモーションビデオでは、ブレイク前のポーラ・アブドゥルを「ダンス振付師」として起用しています。その後のニュージャック・スイング・ブームを予感させるようなシンセサイザー重視の鋭角的なビートと挑戦的な歌詞は、まさに斬新。MTVなどですっかり定番になった彼女のダンスは、正確無比そのもの。「ついさっきまでの甘えん坊末っ娘歌手」の変貌ぶりには、まったく度肝を抜かれたものです。

私自身、当時のあほあほバブルなディスコの現場では、ホイットニー、マイケル・フォーチュナティープリンス、ジョディ―・ワトリーあたりと並んで、いや一番耳にしたであろうアーチストでした。とりわけ、最近あの世にも恐ろしい「クラブ・フラワー撲殺事件」が勃発した六本木ロアビルにあった「リージェンシー」というディスコで、ジャネットのNastyやらControlやらが盛んに流れていました。それでも、格差社会や貧困問題、ドラッグの蔓延などとはまだほぼ無縁で浮かれ気分だったあの時代、フロアはどこまでも平和で能天気だったわけですけど。

豹変ジャネットさんは、「Control」の後も大勢力を持続し、「Rhythm Nation 1814」(89年)、「Janet…」(90年)と発表アルバムはことごとく大ヒット。押しも押されぬ大スターの座を不動のものとしました。90年以降、そして21世紀のクラブ時代にもしっかりと根を下ろし続けるパワーはさすがですけど、原点はやはり「Control」にあったといえるでしょう。

CDはとにかく大量に出ておりますので心配御無用でございます。「Control」については、ディスコ的には12インチバージョンで構成された「More Control」か「Control Remixes」あたりは必須と思われます。

Janet86

テイラー・デイン (Taylor Dayne)

Taylor Dayne徹頭徹尾、シンセサイザーがぶりぶりうなりまくっています。「うるさい」、でも「好き」、「好き」、でも「うるさい」…。私にとっては、花占いのごとき「心うらはら」な曲でした。

そんな人騒がせな曲の名は「テル・イット・トゥ・マイ・ハート(Tell It To My Heart)」(全米ディスコチャート4位、一般チャート7位)。歌い手は、これまた白人ながらソウルフルで、かつロックテイストも滲ませる炎の迫力ボイスだったテイラー・デインさんです。YouTubeのビデオをみると…いきなりコワい!。もう「リアル獅子舞」状態。なんだか油断してると一気にパクッ!と食べられちゃいそうです。

時はバブル突入期の1987年、東京は渋谷の「スパジオ」というディスコで耳にしたのが最初でした。私の中でも代表的な「百花繚乱雨あられ、心頭滅却火もまた涼し」の超絶バブルディスコとなっております。ディスコでかかる12インチバージョンでは、イントロから「シンセラッパ」のごときいかにも80年代な電子ホーンセクションが「パンパカパーン♪」とコミカルに鳴り響き、続いてお約束の「ビシッ!バシッ!」のゲートリバーブ・ドラムも加わって、もうアゲアゲ絶好調。「ワンレン ボディコン お立ち台」のフロアは満杯、みな忘我の境地でした。

テイラーさんは1962年、米ニューヨーク生まれ。本名はLeslie Wundermanといいます。地元のクラブで歌っているうちに、歌唱力を認められて歌手デビュー。1985、86年にはLes Leeという名でそれぞれ「I'm The One You Want」(ユーロビート風)、「Tell Me Can You Love Me」(フリースタイル風)という「可もなく不可もなし」なディスコ曲を発表。翌年にメジャーレーベル(Arista)に移り、「テル・イット…」を含むデビューアルバム「Tell It To My Heart」で開き直ってアマゾネスな感じへとイメージを転換し、見事ブレイクを果たしたというわけです。

このアルバムからは、「Prove Your Love」(88年、ディスコ1位、一般7位)という特大ダンスヒットも生まれました。前作と同じようなロック風味のド迫力ディスコでして、これまたよくディスコで耳にしたものです。レーガン政権の終焉(89年)、ベルリンの壁崩壊(同)、天安門事件(同)、日本の昭和の終わりとバブル崩壊(90年ごろ)などを前にした、80年代末期の世界規模の変革期を思わせるようなエネルギーの大爆発。折しも、ダンス音楽的にも、ディスコがいよいよ下火となり、ハウスやテクノなどのよりハイパーなクラブミュージックへと模様替えをする時期でもありました。

もろ“肉食系”を思わせる姿と曲の彼女ですが、この後に意外な素顔を見せました。これまでと打って変わり、ディスコのチークタイムの定番となった「I’ll Always Love You」という驚天動地のしっぽりバラードを大ヒット(88年、一般チャート3位)させたのです。さらに、「Love Will Lead You Back」(90年、一般1位)という今も語り継がれる珠玉のバラードもきちんと発表しました。

そもそも彼女は、「カントリーの女王」ドリー・パートンにも似た、中高音で圧倒的に伸びる歌声が持ち味。「アップテンポもスローもどっちもいけるじゃん!」という実力を見せつけたのです。

もちろん、彼女の基本であるダンスミュージックもコンスタントに出しています。「Dont' Rush Me」(88年、ディスコ6位、一般2位)、「With Every Beat Of My Heart」(89年、ディスコ8位、一般5位)のほか、70年代に「セクシー・ディスコチューン」のヒットを連発したバリー・ホワイトのカバーである「Can't Get Enough Of Your Love」(93年、ディスコ2位)という曲があります。2000年代に入ってからはさすがに失速しましたが、ダンス系ではこれまた「うるさい」テクノ/トランス系の「Planet Love」(2000年、ディスコチャート1位)などのヒットを出し、激動のショービジネスを粘り強く生き抜いている様子がうかがえます。

まあ、とにかくテイラーさんのほとんどのダンス曲は、私などは、今では踊らずとも聞くだけで少々疲れてしまうのですけど、その実績は認めるわけでございます。ディスコ的にはけっこう新しい時代の人ですので、再発CDやベスト盤も各種出ております。

……というわけで、「でも、久しぶりにちゃんと聞こうかな」と思って「テルイット」をYouTubeで探していたら……。こんな究極のバージョン(95年)を見つけました。私も間違って発売当時に輸入盤店でレコードを買ってしまった覚えがあります。もうバブルを通り越して世紀末です。「うるさい」どころの話じゃないですが、どういうわけか、いつ聞いても「パクッ!」っと気になる旋律ではあります。

ホイットニー・ヒューストン (Whitney Houston)

Whitney Houston"She will never be forgotten as one of the greatest voices to ever grace the earth."(彼女は永遠に記憶されるだろう。世界を輝かせた最も偉大な声の持ち主として)――マライア・キャリー がツイッターに記した追悼の言葉。

11日に48歳で逝去したホイットニー・ヒューストン。でも、正直言って最近はスキャンダルにまみれた印象しかなかった。そう、ちょうどマイケル・ジャクソンがそうだったように、亡くなってから思い出したように「スーパースターだった」と称えられることには、なんだか違和感も覚える。

私がホイットニー・ヒューストンを知ったのは、浪人中の1985年初頭のことだ。受験勉強に集中するという名目で、1年間だけディスコ通いを“封印”して、実家から離れた札幌駅近くの祖母の家に寝泊まりしていた。それでも、ときどき「息抜き」と称して地元FMラジオの洋楽番組に聴き入っていた。そんなある日、耳に飛び込んできたのが、目下売り出し中のホイットニーが最初に放ったダンスヒット「Thinking About You」だった。FMのDJが「とびきり美しいメゾソプラノの声が評判の……」などと軽やかに紹介していたのを覚えている。

二浪までして(一浪目はやはりディスコ狂い)、なんとか東京の大学に入学したのが85年4月。もちろん、ディスコも大解禁スパークル状態だ。時給が比較的高く、しかも「食事2回付き」という理由で、渋谷の道玄坂にあった大衆居酒屋をバイト先にすぐ決めて、その金をどんどんレコードとディスコに注ぎ込む日々となった。

世はバブル前夜。おカネなんて相変わらずなかったのに、華やぐ世相にすっかり乗せられて、六本木や渋谷、新宿の大衆ディスコに入り浸り、朝までノリノリで恥ずかしく踊りまくった。このころのディスコはちょうど過渡期で、客層も世代交代が進んでいた。音楽的にも70年代のストリングス中心から、当時は最新鋭のシンセサイザー中心の曲調に変わっていた。「ギブ・ミー・アップ」(マイケル・フォーチュナティー)や「ビーナス」(バナナラマ)といったイタロディスコ、それにユーロビートが台頭してきたのもこのころだった。

とってもおおまかに言うと、ディスコ音楽には、ジャズ、ソウル、ファンク、ブラック・コンテンポラリーなどの「黒人系」と、ロック、ポップス、ニューウェーブ、ユーロビート、ラテンなどの「白人系」の2つの流れがある。それぞれに愛すべき特徴があり、それをこのブログでもだらだらと書いてきたのだが、要するに私はどちらも好きだった(バブルだったし)。

実は、当時の「バブルディスコ・シーン」では、70年代の大ディスコブームの反動もあり、黒人系は少々押され気味だった。少し前の投稿で紹介したシックのナイル・ロジャーズもそうだったように、70年代まで活躍したいろんな著名黒人アーチストが、80年代には方向性を見失い、ヒットが出なくなっていた。そうした状況下、まさに彗星のごとく登場したのがホイットニー・ヒューストンだったのだ。

ホイットニーは1963年、米ニュージャージー州に生まれ、幼いころからゴスペルグループの一員、さらにはモデルとして活躍した。歌の師匠でもある母親はシシー・ヒューストン(Cissy Houston)といい、ド迫力ファンキーディスコの「Think It Over」(78年、米ビルボードディスコチャート5位)のヒットで知られるプロ歌手だ。「I'll Never Fall In Love Again」(70年、ビルボード一般チャート6位)、「That's What Friends Are For」(85年、同1位、ビルボードR&Bチャート1位)などの大ヒットで知られるソウルの大御所ディオンヌ・ワーウィックは従姉(シシーの姉の子)にあたる。

音楽一家に育ったホイットニーは、比類なき声はもちろん、モデル出身ならではの美貌も売りにしていた。黒人であるホイットニーのアイドルみたいなアップ写真が載ったジャケットは、かなり新鮮だった。私は渋谷や新宿の輸入盤店で、嬉々として12インチやアルバムレコードを買い漁ったものだ。これには差別を感じさせるが、70年代までの黒人女性歌手のジャケットには、「本人の写真だと抵抗感がある」などの理由から、変てこな「似顔絵」もよく使われていたほどなのだ(例:Evlyn Thomas,Miquel Brown,そしてなんとホイットニー母Cissyも)。

ホイットニーは、ゴスぺル出身のガチンコ黒人系ディーバでありながら、ビジュアルも含めて白人たちにもアピールできる「ポップス歌手」の要素を兼ね備えていた。米国で大人気だった音楽専門番組「MTV」でも、堂々と本人が前面に現れるプロモーションビデオが盛んに流れた。マイケル・ジャクソンと同様、初めて人種を越えたファン層を獲得したのが最大の功績だったといえるのだ。

私が80年代後半の日本のバブルディスコでとにかくよく耳にしたのが、デビューアルバム「Whitney Houston」(写真)に収録されている、ナーラダ・マイケル・ウォルデンがプロデュースした「How Will I Know(恋は手さぐり)」(86年、ビルボード一般1位、R&B1位、ディスコチャート3位)だ。「イントロから桜満開!」てな調子で、圧倒的に明るい曲調と底抜けに伸びやかな歌声は、まさに「ウキウキ我が世の春時代」の到来を全身で実感させたものだ。

このアルバムは特大ヒット「Saveing All My Love For You」などのバラードも出色だが、ディスコの立役者が数多く参加していて、前述の「Thinking About You」は元BTエクスプレスのカシーフがプロデュースしているし、「マイケル兄」のジャーメイン・ジャクソンも3曲、プロデュースしている。

続くセカンドアルバム「Whitney」(87年)ともなると、バブル全開の日本のディスコでも完全に主役状態となった。「I Wanna Dance With Somebody」、「Love Will Save The Day」といった彼女のアゲアゲな曲がかかると、「百花繚乱雨あられ、盛者必衰会者定離」(バブルだけに意味不明)状態となり、フロアは(私も含めて)踊る阿呆の老若男女で埋め尽くされたのである。

史上最高の7曲連続の全米一般チャート1位、6回のグラミー賞受賞など、輝かしい実績を残したホイットニー。確かにマライア・キャリーが言うとおり、「永遠に記憶される」ほどの歌姫だったが、そのマライア自身が「新しい歌姫」として登場した90年代初頭には、既に陰りが見えていた。

折しも、かつて黒人少年アイドルグループ「ニュー・エディション」の中心ボーカルとして「ミスター・テレフォンマン」などの可愛らしい曲を歌っていたにもかかわらず、ワイルドにドラッグ依存になっていったボビー・ブラウンとの92年の結婚も、彼女にとっては悪い意味で転機となった。

同じ92年に公開された映画「ボディガード」主題歌の「I'll Always Love You」は、スーパーヒットにはなった。この映画は白人男性と黒人女性スターのロマンスがモチーフになっているだけに、彼女を象徴してもいる。だが、この直後からドラッグ依存や数々の奇行が目立ち始め、やがて声質までもが極端に衰えていく。破滅ぶりが際立っていくのだ。

90年代初頭といえば、ちょうど日本のバブルが弾けてしまった時期にあたる。金融破綻だ就職氷河期だなどと、平成日本は落ち込む一方となっていった。大衆ディスコのバブルもはかなく消え去り、ダンス音楽シーンも私がついていけないほどに細分化、ハイパー電子音楽化が加速していったのだ。

確かに、彼女はダイアナ・ロスアレサ・フランクリンでも成し得なかったこと、つまり人種の壁を初めて突破した偉大なディーバに違いなかった。しかし、最盛期は85年以降のわずか数年間。その間に世界の頂点を極めたものの、うまく下山できなかった。どうにも私にとって“ホイットニー・ヒューストン”は、“哀しきバブル”と二重写しになるのだ。爆発的な膨張感と、宴のあとのほろ苦さ。それでも、私はだからこそ、刹那に生きる人間の深みと凄味を感じてしまうのである。

ヘイウッド (Haywoode)

Haywoode今回は80年代の中・後半から。イギリスが生んだ短期間限定ディスコディーバ、ヘイウッドさんで〜す。

「ミニテバ、ミニテバ♪(minite by minite)」……。当時とにかくよくフロアで耳にしたのが、このアーバン風味で耳に心地よい女性コーラスのイントロで入ってくる「Getting Closer」(85年)です。私にとっては、六本木あたりのネオン輝く“うれし恥ずかしバブルディスコ”を象徴する一曲でもあります。

彼女の曲を担当した主なプロデューサーは、バナナラマリック・アストリーなどの大物を手がけたご存知ストック・エイトケン・ウォーターマン(SAW)です。ちょうどデッド・オア・アライブのプロデュース成功でようやく芽が出始めた1985年ごろ、後に主力分野となるユーロビートとはひと味違うR&B系の黒人女性ボーカルとして育てようとしていたのが、プリンセス(Princess)とこのヘイウッドでした。

とりわけヘイウッドの方は、少女時代から歌とダンスに熱中し、下積みを経てメジャーレーベルのCBSと契約。83年にはシングル「A Time Like This」でレコードデビューまで果たし、さらには「I Can't Let You Go」(84年)、「Roses」(85、米ディスコチャート30位)をリリースしていました。順調に地歩を固めていたので、SAWサイドの期待も大きいものでした。

けれども、アメリカ、本国英国ともにチャート上位に惜しいところで食い込むことができなかったことから、CBSは宣伝にあまり力を入れなくなりました。結局は、ヒットメーカーSAWの協力を得ながらも、「Getting Closer」と「Roses」などが一瞬、ディスコで受けた程度という哀しい展開。それまでのシングルを集めた待望の「アライバル(Arrival)」というアルバムを85年に一枚出し、ほかにディスコシングルを数枚出したきりで、表舞台からは去ってしまったのです。皮肉にも、Arrival(到着)した途端に消える運命となったのでした。

おまけに、SAWの方はヘイウッドとの関わりがなくなった直後、前述のバナナラマ、リック・アストリーのほか、メル&キム、カイリー・ミノーグらを次々とプロデュースして「お気軽ユーロビートの権化」として特大の成功を収めたのでした。ヘイウッドさんって、まったく不遇な人としかいいようがありません。

ただ、「アライバル」自体の評価は、世界のDJやディスコ界の好事家たちの間では古くからとっても高かったのです。「アライバル」は伝説化し、80年代に日本でのみ発売されたCDは、eBayなどのオークションサイトで数百ポンド(数万円)の値を付けるほどでした。でも、本人からすれば新譜として売れなければ収入に結びつかないわけですから、悔しさもひとしおだったはずです。

ところが……そんな“幻のディーバ”ヘイウッドさんの「アライバル」のCDが、20年以上もの時を経て先ごろ、UKソニーからなぜか再発となりました(写真上)。日本でかつて発売されたCDと同様、12インチバージョンがふんだんに収録されているのが非常にありがたいところです。私もディスコでよく聞いた「I Can't Let You Go」のロングバージョンが入っていないのが惜しいのですが、近年まれに見るディスコ系の“珍盤発掘”CDとなっております。

このCDの特徴として、英文ながらライナーノーツが充実している点が挙げられます。字がものすご〜く細かくて、乱視がひどくなってきた私などは虫眼鏡がないと読めないほどなのですが、ヘイウッド本人や関係者のインタビューが豊富に入っていて、本格的なノンフィクションの構成でとても読み応えがありました。

ヘイウッドはなかなか気骨ある女性だったらしく、ライナーノーツには、「ヘイウッドは子供のころ、学校の合唱団員として英国のテレビに出る機会があったが、自分だけ黒人だったので番組プロデューサーから出演を辞退するように説得された。しかし、気丈な彼女は堂々と出演した」といった記述が見えます。

さらに、ヘイウッド自身が「10代の下積みのころ、ダンサーの仕事があるというのでイタリアにいったら、ほとんど裸で、乳首に花だけをあしらってステージで踊るような内容だったの。私頭にきて、即座に断ってイギリスに帰ってきたわ」とコメントしています。

1983年、ディスコでも人気があったブラマンジェというニューウェーブ系アーチストのシングルヒット「Waves」のプロモーションビデオに出演した際のエピソードについても「私の役は『人魚』だったのよ。実際に海に行ってね。なんと真冬の1月に!。おかげでウィスキーをたっぷり飲まないとやってられなかったわ」と熱〜く証言してます。

実際にそのYouTubeビデオがありますので以下、張っておきましょう。たぶん途中で出てくる3人(頭?)の人魚のうち、左端ではないかと推測されます。……にしても、そこまで根性をむきだしにした苦労人であったならば、歌手としてちゃんと活躍させてあげたかった気もいたします。

フィンツィ・コンティーニ (Finzy Contini)

Finzy Contini疾風怒濤のマイケルさんに続きましてはフィンツィ・コンティーニ。代表曲のラテンフレーバー・ディスコ「チャチャチャ」は、例によって日本でも石井明美がカバーして大ヒット、その曲を主題歌としたドラマ「男女七人夏物語」も大ヒット……というわけで、そろそろ私の中のバブルも弾けそうです。

とはいっても、この曲の発売は1985年ですから、正確にはバブルのごく初期にあたるのですけど、80s後半のノリを濃厚に映し出す作品として記憶に刻み込まれております。

イタリア出身の女性ボーカリスト「クラウディア」を中心とした女1人男2人のグループ(貴重なYoutube映像)。それに、プロデューサーは「Disco Band」などのヒットで知られるScotchを手がけたDavid Zambelliらが担当していますから、大きなカテゴリーからみればイタロディスコに含まれます。

それでも、テンポがゆるめの曲が多いながらも、中身はもうバブル期特有の純粋ユーロビートでした。当時のディスコでは結構しつこく流れていましたから、私もそんなフロアで“バブルに踊らされた”一人といえますね(笑)。

チャチャチャについては、フランスでも「Key Largo」というアーチストが同時期にリリースして、競作となっています。こちらのバージョンも日本のディスコで流れていました。

チャチャチャの後は、「Ou-La-La」、「Clap Your Hands」など、チャチャチャと似た感じラテンものイタロの12インチをいくつかリリースしています。

80年代末期には曲調が少し変わり、バナナラマや初期カイリー・ミノーグやソニアなどを手がけたプロデューサーチームのストック・エイトケン・ウォーターマン(SAW)風の「In The Name Of Love」をリリース。日本ではかなりの人気で、バブル崩壊前夜、やたらとハイパーになっていくユーロビートを象徴するようなヒット曲になりました。90年代半ば以降は、表舞台から消え去ったようです。

写真のCDは、87年に日本のキングレコードから発売されたファーストアルバム「チャチャチャ」。初期作品集ですので、すべてラテン調でまとめられていますが、チャチャチャ、それに小ヒットのOu-La-La以外にはあまり見るべきものがありません。私もこれを書くにあたって、約20年ぶりに聴いた次第です。

マイケル・フォーチュナティ (Michael Fortunati)

マイケル・フォーチュナティイタロディスコとはいいながら本国では相手にされず、日本バブルディスコの象徴になってしまった「ギブ・ミー・アップ」(1986年)。肩掛けキーボードがトレードマークだったマイケル・フォーチュナティさんは、いまどこでなにをやっているのでしょう。

――そんな思いにかれられる切ない彼なのですが、とにかく日本でのみ売れたといっても過言ではないので、海外サイトや各種ディスコ資料を調べても、あまりデータがありません。ベルギーなど欧州の一部ではヒットしたとされていますけど、Youtubeとか見ても、外国人からの書き込みがとても少ないので、やはりマイナーだったと思われます。

日本では歌謡番組に出演するなど、一時期は相当な知名度を誇っていました。ディスコで流行っていたものですから、私もギミーアップと次にリリースした中ヒット「イン・トゥー・ザ・ナイト」(87年)のレコードだけは買いました。あとは「ハレルヤ」とか「レット・ミー・ダウン」などのシングル曲がありますけど、徹底した「二番煎じ型」ですので、ホントどれも似た感じです(トホホ)。

そのころ私は上京したばかりで、六本木、新宿、渋谷と、勇んで出かけたどの店でも大人気だったのを覚えています。まあ、マハラジャの経営者だった成田勝氏がなぜか当時、「イントゥーザナイト」の方のカバー・レコードを発売していますから、「マイケル・フォーチュナティといえばマハラジャ」というイメージもありますね。

彼の曲の曲調は「派手めのイタロ」といった感じでしょうか。80年代後半に定着し、在来ディスコを駆逐していったハウスミュージックやイタロハウスやハイパーユーロビートのノリも含まれていますので、今思えば、ギミーアップあたりはディスコ終焉に向けた序曲だったのかもしれません。

ギミーアップは、同時期に出たバナナラマの「I Heard A Rumor」と酷似していることで話題になりました。日本では、メロディーラインが哀愁系でなかなかの名曲だった「I Don't Know」のヒットがあるアイドルデュオのBabeなどがカバーしており、かなりの売れ行きを示しました。

そもそも日本の歌謡曲は当時、イタロサウンドにずいぶんと影響を受けていました。中山美穂、浅香唯、本田美奈子、工藤静香、Wink……。アイドルが歌うダンス系の曲はおしなべて、イタロ風もしくはユーロビート風のシンセサイザーの打ち込み音がばっしばし入っていたものです。

玄人はだしの音楽ファンにはてんで相手にされないマイケルさん。頼みの日本での人気も、90年ごろからは急下降。それでも、ギミーアップのおかげで、日本ディスコ史には確実に足跡を残しましたね。バブル狂乱期、私もけっこう喜んで踊っておりましたし、お世話になった一曲ということにはなるでしょう。「頑張れマイケル!!」とまずは声援を送っておきます。

CDについては、日本盤のベストがいくつか出ています。写真は2002年発売のEMI盤。ギミーアップとイントゥーザナイトの「ニューバージョン」もおまけとして入っているところが、過去の栄光にしがみつく痛々しさをほんのりと醸しているかのようですが。

ファルコ (Falco)

Falco80年代半ば以降、珍しいオーストリア出身の世界的ポピュラーヒット歌手として名を上げたのがファルコ。代表曲「ロック・ミー・アマデウス」(86年、全米一般チャート1位、全米ディスコチャート4位)は、ずいぶんとディスコで耳にしたものでした。

1957年ウィーンに生まれ、地元の音楽院を中退してミュージシャンの道に。最初はパンク・ロックを演奏していたのですが、後にポップな感じの曲を作るようになりました。本名はJohann Hölzel(ヨハン・ヘルツェル)で、ファルコという名は、70年代に活躍した東ドイツの著名スキージャンパーの“ファルコ”選手からとったといわれています(理由は不明)。

彼はまず82年に「Der Kommissar」を本国で大ヒットさせました。ドイツ語のラップ風の曲で、米国でも同時期、アフター・ザ・ファイヤーという英国のグループによる英語リメイク版が大ヒット(全米一般5位)しています。私もこの英語版は、札幌のディスコでよく聞きましたね。

ファルコさんはその後も、「Maschine Brennt/On The Run」(83年、ディスコ9位)、「Junge Roemer」(84年、同52位)といったダンス曲をヒットさせております。

「アマデウス」という題名は、当時流行った映画「アマデウス」に由来するとされています。とにかくDer Kommissar以上にドイツ語のラップが特徴的です。ウィーンらしいクラシック音楽調のメロディーも入ってきます。バイオリンの音が、絶妙なタイミングで優雅に流れてきたりしてですね。その斬新さがあればこそ、外国語音楽に厳しい米国でも受けいれられ、頂点にまで上り詰めたわけです。何しろドイツ語曲が全米ビルボードチャートで1位になったのは、後にも先にもこの曲しかありません。非常に凝った作りの12インチバージョン(Salieri Version)では、ユニークなシンセサイザーのディレイなどのエフェクト音も随所にちりばめられています。

日本のディスコでも大流行したこのアマデウス。・・・ですが、テンポがとっても遅く、フロアで踊っていてもビロ〜ンと間延びするばかりで、なかなか馴染めなかったのを覚えています。曲自体の面白さは認めますけどね。BPMは100あるかないかで、120〜130が一般的だった当時のダンスミュージックの相場からすれば、純粋な「ディスコ」というくくりに入れるのは、ちょっと難しいかもしれません。

アマデウスの後には「Vienna Calling」というアップテンポのダンス曲を発表(こちらは踊りやすい)。さらに強姦や殺人の狂気をテーマにしていると物議を醸したバラード「Jeanny」などの中ヒットを欧州中心に飛ばしましたが、90年代になるとほとんど音沙汰ナシ。今でもほぼ「アマデウス」の一発屋として語り継がれている歌手であります。

彼の最期はあっけないものでした。音楽活動が低迷していた1998年、ドミニカ共和国で自分の車を運転中、バスと衝突する事故に遭い40歳で急死しています。

CDはベスト盤を中心にいくつか出ています。写真は一般的な独Ariola Expressのベスト盤。アマデウスの12インチバージョンがフルに入っていないのが残念ですが、ヒット曲が網羅的に並んでおりまあまあの出来であります。

デヴィッド・ライム (David Lyme)

David Lyme-280年代後半のユーロビート(イタロディスコ)の雄デヴィッド・ライム(本名:Jordi Cubino)は1966年生まれで、10代のころにはオペラなどの歌劇の歌手だったという経歴の持ち主です。本国スペインを拠点に、欧州向けディスコヒットを連発した時期がありました。

欧州以外では、やはりユーロビート好きの日本で人気が出ました。代表曲「プレイボーイ」の(86年)ほか、「バンビーノ」「バイ・バイ・ミ・アモール」といった「こりゃあいかにも!」の打ち込みメロディーは、バブル真っ盛りのディスコにて、ホントにうんざりするほどよく耳にしたものです。

・・・・・・いや、私もけっこう好きになりまして、ディスコで聞いた後にすぐ、プレイボーイのビリヤードジャケットの12インチレコード(上写真)を買いに行ったものです。

同時期に流行った同じユーロビートのマイケル・フォーチュナティやポール・レカキスやケン・ラズロなどと比べると、やや抑制的で大人びた雰囲気の曲が多かったデヴィッドさんですが、とりわけ個性的というほどでもなく、さほど強く印象付けられたアーチストではありません。まあ目立った曲は上記3曲のほか「I Don't Wanna Lose You」など2〜3曲でしょうか。特にプレイボーイが特別にしつこくかかっていた記憶があります。

日本で人気があっただけに、CDはもう80年代後半、デビューアルバムの「Like A Star(邦題:プレイボーイ)」が日本フォノグラムから発売されています(下写真)。2枚目の「Lady」も90年、日本盤(エイベックス)が発売されましたが、曲群自体は無難で悪くはないものの、ほとんど無視された状態となりました。いずれも今では廃盤ですので、かなりのレアものになっているようです。まあ、日本のバブル期と重ね合わせるように、あくまでも80年代後半に集中的に活躍した人といえます。

ご覧の通りイケメンでしたので、モデルとしても活躍していたデヴィッドさん。ですが、とにかくユーロディスコの人ですので、大市場アメリカではまったく売れませんでした。

欧米ディスコの清濁併せ呑むフロア文化をはぐくんできた日本については、ユーロビートのような欧州型ヒットも、初期のハウスやヒップホップ、ニュー・ジャック・スイングといった米国型ヒットも平等に楽しんでいました。デビッド・ライムもランDMCもボビー・ブラウンもMCハマーも、なんでもありです。マハラジャやエリアのフロアを賑わせた“ボディコン・ワンレン・太眉”女(例:石原真理子)も、“鋭角的DCブランド・スーツ”男(例:玉置浩二)も、欧米のおいしいところをたっぷりと味わっていたわけです。

90年代以降、デヴィッドさんは完全に表舞台を去ったわけではなく、主に欧州のポピュラー音楽の作曲家として安定的な地位を築いたようです。ということであれば(?)、後世に業績を伝えるCD再発という点でも、せめてベスト盤ぐらい安定的にプレスされるべきだと私は思っております。

David Lyme
CDのライナーノーツ書きました(広告)


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