ディスコ堂 by mrkick

音楽に貴賎なし ―Discoの考察とCD批評

70年代後半

パーシー・フェイス (Percy Faith)

Percy Faith ‎– Disco Partyまたまたお久しぶりで〜す! ......というわけで、ディスコ化したイージーリスニング特集の第2弾、今回はカナダやアメリカを舞台に第二次世界大戦前から大活躍したパーシー・フェイスと参りましょう!

やはりこの人も前回のポール・モーリアさん同様、今のような猛暑の日々にはぴったりの爽やか涼風路線を突っ走っているわけですけど、生まれはなんと日露戦争から3年後の1908年!ですので、17歳年下のモーリアさんよりさらに先を突っ走っていたオーケストラ・マスターとなります。

カナダのトロント出身。子供のころからピアノやバイオリンをたしなみ、地元の無声映画館で演奏するなどしていたのですが、18歳のときに火事で手に重い火傷を負い、演奏者としての道を断念するという不運に見舞われました。

その後、指揮者やアレンジャーとして生きることを選び、これが大成功。早くも20代半ばには、カナダでも勃興してきたラジオ放送局で、自らが率いるオーケストラが演奏する音楽番組を持つようになり、大人気となったのです。すぐにアメリカの放送局からも目を付けられ、パーシーさんはアメリカへの移住を決意。そこでも音楽ディレクターとしてラジオシリーズ番組を担当することになりました。

50年代になると、トニー・ベネットやジョニー・マティスといったスター歌手のレコーディングでアレンジャーを務めつつ、自分のオーケストラのレコード制作も本格化。「デリカード」(1952年)、「ムーラン・ルージュの歌」(1955年)といったインストゥルメンタルのヒット曲を世に送り出し、60年にはビルボードの総合チャートで9週連続1位を記録した代表曲「夏の日の恋」を発売しました。

その後はロック、ポップス時代の到来もあって大ヒットは生まれませんでしたが、映画やミュージカル、テレビドラマ向けにムーディー極まりない音楽をコツコツと作り続け、各方面から引っ張りだこの人気音楽家としての地位を保ちました。

ディスコが世界で定着し始めた1970年代半ば、パーシーさんはディスコアレンジの曲を立て続けに録音しました。75年に「Disco Party」というあからさまなタイトルのアルバムを発表、さらに「夏の日の恋」のディスコバージョンのシングル「夏の日の恋 76'」も発売したのです。

このころのパーシーさんの楽曲は、それまでのムーディーさとは打って変わり、ぶいぶいベースやどんどこドラム、うねうねワウ・ギターが駆け巡るファンキーなナンバーや、快活な女性コーラス、ストリングス、フルートが前面に押し出された正統的オーケストラディスコが目白押しです。

「Disco Party」は、随所にアナログシンセサイザーや電子オルガンなどの電子音も聞こえてくるし、ストリングス、ホーンセクションとの豪快な絡み具合が聞き所です。ポール・モーリアの「手品の曲」としても有名な「El Bimbo」のやけに壮大なディスコバージョンのほか、ゲイリー・トムズ・エンパイアの「Blow Your Whistle」や「剣の舞」などの飛び切りダンサブルなディスコアレンジが楽しめます。

パーシーさんはこの一連のディスコを録音したすぐ後の76年2月、がんのため67歳でこの世を去ってしまいました。長いキャリアと人生の終盤に訪れたディスコブームに、音楽家としてきちんと足跡を残した点は(ディスコ堂的には)高く評価されるべきだと思っております。

「Disco Party」の入ったCDには、上写真の米国盤「Percy Faith and His Orchestra Country Bouquet / Disco Party」(Sony Music)というのがあります。「夏の日の恋 76'」についても、同じ米ソニー盤で「Chinatown Featuring The Entertainer / Summer Place '76」というのがあり(下写真)、これらCD2枚があればパーシーさんのディスコものはほぼ網羅できます。

次回も折をみて突然、更新いたします。
Percy Faith Summer Place 76

ポール・モーリア (Paul Mauriat)

Paul Mauriat最近の週末、近所のホームセンターに買い物に訪れたところ、店内では涼風のようなイージーリスニング音楽がそよそよと流れていました。曲名は「恋はみずいろ」(Love Is Blue)。さわやかさにかけては他の追随を許さない「イージーリスニング界の巨匠」、ポール・モーリアさんの代表曲のひとつでして、1968年には、米ビルボード総合チャートでなんと5週連続で1位を獲得しています。

レストラン、喫茶店、温泉ホテルのロビー、デパートの家具売り場、郊外型大型店の台所用品売り場、歯科医院の待合室…。とにかく、ボーカルなしのイージーリスニングは、耳に心地よく馴染むお手軽さ、お気楽さこそが命。気持ちがすっかり落ち着き、心穏やかにお食事やお買い物、そして治療に専念できるというものです。

この癒しのイージーリスニングですが、実は私がホームセンターで聞いたのは、68年のオリジナルとはちょいとアレンジが違う「恋はみずいろ '77」(Love Is Still Blue)というディスコバージョンでした。発売は大ディスコブームが間近に迫っていた1976年。確かに、さわやか路線は頑なに維持しつつも、振幅の大きいベースライン、躍動するホーンセクションとストリングス、パーカッションがまさに「ザ・オーケストラディスコ」の真髄を見せ付けております。

もちろん、後に雨あられのように容赦なく降り注ぐ16ビートの重量級ドンドコ路線ディスコとは一線を画していますが、ソウル界のフィリーサウンドやバリー・ホワイトのオーケストラディスコのような安定したダンサブル感も醸しておりまして、イージーリスニングとディスコとの意外な親和性を見る思いです(さわやか過ぎて激踊りには向かないにせよ)。

モーリアさんは1925年フランス生まれ。音楽好きの父親の影響を受け、幼いころからピアノやオルガンの演奏に没頭。やがて当時流行のジャズやポピュラーミュージックに傾倒し、自らダンスバンドを組んでヨーロッパ中を演奏して回るなどして活動を本格化させ、主に音楽制作の分野で活躍するようになります。

1963年には、リトル・ペギー・マーチがアメリカで大ヒットさせた「I Will Follow Him」を作曲し、注目されました。この曲は後の80年代、クラウディア・バリーやオランダの女性アイドルグループLuv'のメンバーだったJoseがカバーしてディスコでヒットさせています。特にクラウディアのバージョンは、私もよくディスコでも聞いたものです。

68年に「恋はみずいろ」をヒットさせたモーリアさんは70年代以降、イージーリスニング界のスターとして世界中で人気となりました。映画音楽や当時のヒット曲を清涼感あふれるオーケストラ曲として盛んにリメイクし、どんどんアルバムを発売。日本にも何度もツアーに訪れて、コーヒーやワインのテレビCMに出演するほどの人気者となりました。

結局、アメリカでのチャートヒットは「恋はみずいろ」のみでしたが、70年代半ばから後半にかけては、積極的にブームに乗ろうとディスコリメイクも次々発表。中でも、1975年発売のアルバム「Have You Never Been Mellow」に収録されている「El Bimbo」(邦題・オリーブの首飾り)はマジックショーのBGMとしてもお馴染みですが、万が一ディスコフロアでこれがかかったら、突然シルクハットから「ポン!」と白鳩が飛び出してくるような驚きと困惑の空気が流れ、思わず腰が引けてくること必至です。

ただ、この曲は、Bimbo Jetというディスコアーチストも、前年の1974年にダンス曲としてヒットさせています。こっちの方は、もろディスコ用だけに、けっこうなノリで楽しめます(エンディングで「ああ貧乏〜」と空耳の嘆きも楽しめる)。

先述の「恋はみずいろ 77'」が収録されたアルバム「Love Is Still Blue」の発売は76年で、ほぼ全編“ゆるやかディスコ”で染め上げられています。「エーゲ海の真珠」(Penelope)、「シバの女王」(La Reine De Saba)などのオーケストラ・ディスコリメイクが収録されておりまして、持ち前の厚みのあるオーケストラ演奏に加え、素朴なアナログシンセサイザーの音色が彩りを添えています。

同じ76年、日本では「ラブ・イズ・スティル・ブルー〜ポール・モーリア・ディスコ・センセイション」というアルバムが国内盤として発売され、同様に「恋はみずいろ」「エーゲ海」「シバ」の3曲のディスコバージョンが収録されました。

ディスコブームが終わった80年代以降も、自分のオーケストラを率いて世界各地を飛び回り続けたモーリアさん。2005年に81歳で亡くなってしまいましたが、とりわけ日本では、50代以上であれば知らない人がいないほどの音楽界の大立者。時には心穏やかにワインやコーヒーを口にしながら、まろやかディスコを堪能するのもオツなものです。

モーリアさんのCDはベスト盤を中心に大量に出回っているのものの、ディスコバージョンが入っているものはあまりありません。上写真は、彼が長く所属したレーベルであるPHILIPS社のベスト盤のひとつ「Les Chansons d'amour 1967-1986」(発売元・日本フォノグラム)で、「エーゲ海の真珠」の76年ディスコバージョンが収められています。下写真は、2003年にフランスで発売されたベスト盤「Best Of Paul Mauriat」で、「エーゲ海の真珠」などの80年代ユーロビート風のディスコアレンジのバージョンが入っています。

Paul Mauriat 2

ジョー・サイモン (Joe Simon)

Joe Simonかれこれ13年目を迎え、もはや風前の灯の当ブログではありますが、今回もまた涙をこらえて元気よく、1960年代から70年代にかけてメロメロメロウな風を吹かせまくったソウルバラードの伝道師、ジョー・サイモンさんと参りましょう!

さて、1943年、アメリカ南部ルイジアナ州で生まれたジョーさんですが、他の多くの黒人歌手同様、地元の黒人教会でゴスペルを歌いながら、歌手の道を志します。50年代後半に家族でカリフォルニア州に移住した後、63年に「Let's Do It Over」というバラードを発表。それが米ビルボードR&Bチャート13位に入るヒットとなり、早くも頭角を現しました。

当時まだ20歳そこそこなのに、中年のおじさんみたいな大人っぽい太い声質で、そんなギャップも魅力のひとつでした。ここに彼は、歌声一本で激動のショービジネスを渡り歩く一人前の歌い手の仲間入りを果たしたのです。

その後もR&Bチャートをにぎわす曲を発表し続け、69年には「Choking Wild」がついに同チャートで1位に輝きます(一般総合チャートでも13位)。「Farther On Down The Road」(70年、R&B7位)、「Your Time To Cry」(70年、R&B3位)、「Drowning In The Sea Of Love」(71年、R&B3位、総合11位)、「Power Of Love」(72年、R&B1位、総合11位)などなど、メロウ系のソウルヒットを飛ばし続けました。

ここで注目したいのは、後半の2曲「Drowning In…」と「Power Of...」です。いずれも、このブログでは何度も登場した「フィリー・サウンドの立役者」であるギャンブル&ハフのチームがプロデュースしているのです!大成功したメロウな展開に身を委ねつつも、ジョーさんは秘かに「ザ・ダンサブル路線」を模索していたわけです。

70年代半ばに入っても勢いは止まらず、75年に発表したアルバム「Get Down」からのシングルカットで、ジョーさんにとって3曲目のR&Bチャート1位曲となった「Get Down Get Down (Get On The Floor)」を世に送り出します。この曲は一般総合チャートでも8位まで上昇し、彼の最大のヒット曲になったのでした。

このアルバムなんかはもう、「Get Down(さあ踊れ)」「Get On The Floor(フロアに飛び出して踊ろう!)」のフレーズからも分かるとおり、ほぼ全編を通してひたひたと押し寄せる大ディスコブームを掛け値なしに意識した内容となっております。初期アナログシンセサイザーのうにょうにょ音とか手拍子なんかもふんだんに盛り込まれており、なかなかどうして汗だくで踊れます。

このころのジョーさんは、長年ならしてきた甘い歌声をうま〜くダンスビートに乗っけておりまして、ディスコの深夜帯なんかにぴったりです。同じようにスイートボイスながらもディスコ寄りになってきた70年代中期の元テンプテーションズのエディ・ケンドリックス( 「Girl You Need A Change Of Mind」など)やマービン・ゲイ(「I Want You」など)に勝るとも劣らない、ボーカル力をいかんなく発揮したスムーズディスコの真髄を見せ付けたのでした。

しかし、70年代も後半になると、セールス的には急激に落ち込んでしまい、チャートの上位に入る曲は皆無となります。前々回投稿の「シャイ・ライツ」でも触れましたが、時代が変わり、主力の黒人リスナーの嗜好が「もっと愉快なダンサブル上等にしろ!」の方向へと変化したことと、ミュージシャンのみんながディスコに便乗しようとして過当競争状態になったことが背景にあります。

そこで、「何とかしなければ」と起死回生の一打として打ち出したのが、何を隠そう確信犯の「ザ・昇天いけいけディスコ路線」の加速でした。安易といえば安易ですが、あれほどまでにメロメロメロウだった天下無敵のソウルフル男が、いよいよ出血全開大放出状態になったブームに乗り遅れまいと、開き直って軽快極まるダンスナンバーを連発したのです。

このころになると、「お〜ハニー〜、べいび〜」と惜しげもなく連呼しまくる仰天のダンシングせくすぃー路線まっしぐら!78年発表のアルバム「Love Vibrations」からは、まったり哀愁メロディーが逆に踊り心をくすぐる「Love Vibration」、お約束の「びょんびょん」シンセサイザー音も嬉しい「Going Through These Changes」といった重いドラムビートを特徴とするメロディアスなダンスナンバーをあれよと言う間に繰り出しました。

79年のアルバム「Happy Birthday, Baby」では、テンポ数も音数も上がり、ついでに心拍数もハッピー度数も大幅アップ!ついでにレコードジャケットも、お誕生祝いのケーキにかぶりつくおとぼけジョーさんの無邪気な姿全開です。特に、「ぽんぽこぽ〜ん」のシンセドラムを駆使したどんどこ路線の名曲「I Wanna Taste Your Love」、臆することなく「ハッピーバースデー!」と連呼してやまないアルバムタイトル曲、正統派四つ打ちディスコのグルーブ感あふれる「You Gotta Treat Me Right」、恐ろしくアップテンポでついていくだけで心臓破りな「Make Every Moment Count」などが、ディスコフロアではけっこうな人気となりました。...でも、残念ながらヒットチャートをにぎわすまでには至らなかったのです…(トホホ)。

疾風怒濤のショービジネスで一時代を築いた正統派ソウル伝道師のジョーさん。80年代以降は音楽業界の一線からは距離を置き、自らのルーツに立ち戻り、文字通りキリスト教の博愛を説く伝道師(evangelist)として再出発しました。80年代の鋭角的なシンセサイザーの音色に乗せた彼の歌声も聴きたかった気もしますけど、あの「ハッピーバースデー!」で浮世のお仕事はもう十分にやり尽くしたということなのでしょう。

CDですが、ディスコ好きにはありがたいことに、70年代後半の「Love Vibrations」と「Happy Birthday, Baby」が、CD1枚にカップリングされた「2 in 1」形式で再発されていますので、まずはお勧めです(写真)。華麗なるディスコ化の嚆矢となったヒットアルバム「Get Down」の再発CDも、手ごろな価格で入手可能となっております。

レイフ・ギャレット (Leif Garret)

Leif Garret1さて、今回はアメリカが生んだ「少年アイドルディスコ」の代表選手レイフ・ギャレットです。1970年代半ばに突如として子役スターになり、あっという間に転落していったというまさに「ディスコな人生」を歩んでおります。

レイフさんは1961年米カリフォルニア州生まれ。幼少時から子役として映画やテレビに出演し、70年代に甘いマスクのティーン・アイドルとして人気が急上昇。1976年には名門アトランティック・レコードと契約し、歌手としてアルバムを出すようになります。

最初はビーチ・ボーイズの「サーフィンUSA」をはじめとする50〜60年代のサーフ音楽などのカバー曲が多かったのですが、70年代後半に入ると完全にディスコに開眼。78年に発売したアルバム「Feel The Need」に入っている「I Was Made for Dancin'」(邦題「ダンスに夢中」)が、全米ポップチャート(総合チャート)で10位となり、最高潮を迎えます。さらに同アルバムのタイトル曲(デトロイト・エメラルズの72年のヒットのカバー)も同57位と、まずまずの結果を残しました。

人気は海を越え、日本や欧州にも到達しました。特にシングルの「Feel The Need」のB面に収録されていた軽快ナンバーの「New York City Nights」は、1980年に田原俊彦がカバーして「哀愁でいと」の邦題で発売され、大ヒットさせております。

けれども、もともと歌がうまいわけではないこの人の歌手生命は、いかにも短かった。歌手として売れ始めたころにドラッグや酒に手を出し、典型的なアイドル転落プロセスを歩むことになります。17歳だった79年には飲酒運転で事故を起こし、同乗して重傷を負い、半身不随の身になった友人から提訴され、巨額の賠償金を支払うはめになってしまいました。

81年には、日本の作曲家、都倉俊一氏らのプロデュースによりアルバム「My Movie of You」を発売しますが、まったく勢いはなく、それ以降は音楽活動からは遠ざかってしまいました。俳優活動の方も、83年公開の大ヒット青春映画「アウトサイダー」に出演した程度で、やはり凋落の一途をたどります。何しろ大きな原因がドラッグ中毒だったので、立ち直るまでには非常に時間がかかってしまうことになりました。蓋し過剰こそディスコの生命、但し過剰な人生には代償が伴うものなのです。

ようやく90年代に入り、アメリカの「あの人は今」的なテレビ番組に出演したり、音楽活動も少しずつ再開したりするようになったものの、もう完全に「過去の人」です。

個人的には、「I Was Made for Dancin'」と「New York City Nights」はなかなに出来のよいアゲアゲ絶好調ディスコだと感じておりまして、12インチのロングバージョンなんかも昔に買った覚えがあります。しかし、ディスコのコンピレーションなんかでもほとんど無視されており、悲しい限りです。

というわけで、この人のCDはかなり絶望的なのですけど唯一、ベスト盤「The Leif Garrett Collection」(上写真)が主なヒット曲を網羅していて充実しています。例えば、前記「I Was Made...」と「New York...」以外では7曲目「You Had To Go And Change」、9曲目「Runaway Rita」なども米西海岸風の気分爽快なロックディスコが炸裂しておりまして、ベイ・シティ・ローラーズあたりと繋げてかけると思わぬ狂喜乱舞になりそうです。

ザ・シャイ・ライツ (The Chi-Lites)

Chi Lites最近なんだか説明くさい内容の投稿が増えているなとは薄々気付いておりまして、手詰まり状態ゆえの「やっつけ」感丸出しではあるものの、「ええい!ままよ!」とばかりに気を取り直し、今回は米イリノイ州はシカゴが生んだソウルボーカル・グループ界の重鎮、シャイ・ライツと参りましょう!

というわけでシャイ・ライツは、1950年代後半から現在まで活動しているという恐ろしく息の長いグループ。当初はHi-Lites(ハイ・ライツ)というグループ名だったのですが、1964年にメンバー達の地元であるシカゴ(Chicago)のスペルの「C」を加えてChi-Litesと改名し、現在に至っております。

中心人物は、なんといってもメロメロメロウな極上スウィート・ボイスが売り物のユージン・レコード(Eugene Record)さんです。リードボーカルのみならず、作曲もプロデュースもこの人が主に担当しておりました。所属レーベルは1916年創業の老舗ブランズウィック(Brunswick)。シカゴ発とはいいつつも、ストリングスを多用した流麗なダンスミュージックで知られるフィリーサウンドのような甘〜い楽曲を続々と世に送り出しております。

最初はなかなか芽が出なかったシャイ・ライツ様御一行ですが、69年になってミデアムスローなダンスナンバー「Give It Away」が米R&Bチャート上位(10位)に食い込み、徐々に存在感を増していきます。70年には、ビヨンセの2003年の大ヒット曲「Crazy In Love」でイントロ部分が豪快にサンプリングされた「Are You My Woman? (Tell Me So)」が、同8位まで上昇しています。

翌71年には、「Give More Power To The People」が同4位まで上昇。以前に紹介したエドウィン・スターの骨太反戦歌「War」とか、アイズレー・ブラザーズの「ファイト・ザ・パワー」などと同時代のプロテストソングで、反貧困や反差別を高らかに歌い上げており、普段はメロウな彼らの男気ある一面を見せております。

シャイ・ライツがピークを迎えるのはこの直後のこと。4人の美声が織りなすハーモニーが万人を夢心地へといざなう「Have You Seen Her」(71年)、そして誰もが一度は耳にしたことがあろう「Oh Girl」(72年)が、いずれもR&Bチャートで1位を獲得したのでした!特に「Oh Girl」は、全米総合チャート(ポップチャート)でも1位に輝く特大ヒットとなりました(ちなみに松山千春の「恋」にチョイ似)。前者「Have You Seen...」も、ポップチャートで3位に入っております。

こうして彼らはスィートソウルの覇者となったわけですけど、ピークを過ぎてセールスも落ちてきた70年代半ば以降は、やはり爆発的に台頭する“ザ・ディスコ”の要素を少々取り入れるようになります。中でも、1977年発表の底抜けに陽気なジャケットのアルバム「The Fantastic Chi-Lites」(上写真)では、ダイアナ・ロスLove Hangover」ばりに曲の途中からあれよと言う間にテンポが急上昇して煽りまくる「My First Mistake」が、ダンスフロアでなかなかの人気となりました(チャートは振るわなかったが)。

このころ“看板役者”ユージン・レコードはソロ活動を本格化させ、アルバムも何枚か発表。特にシングルで発売された「Magnetism」(79年)は、身震いするほど軽快なデンサブル全開チューン。ときどき「ぼよよよ〜ん」とおもちゃみたいなおとぼけ電子音も入ってきて、なかなかに洒落の利いた内容になっております。

シャイ・ライツは正真正銘のボーカル・グループですが、実は70年代後半のディスコ・ブームの到来以降、ソウル界では彼らのようなボーカル・グループが総じて失速し、代わってダズ・バンドとかコン・ファンク・シャンバーケイズといったバンドが勢いを増すようになりました。

そうしたバンドは、80年代に入るとシンセサイザーを多用した重量級ファンクを好んで演奏するようになり、それが後のヒップ・ホップの隆盛のひとつのきっかけになったわけですが、逆に70年代前半まであれだけ流行した小じゃれた男性ボーカル・グループは、飽きられてしまったのか、はたまた人件費のかかるバックバンド(オーケストラ)付きの構成が制作・興行サイドに敬遠されてしまったのか、あまり評価されなくなっていったのでした。

それでも、シャイ・ライツは試行錯誤を続けながらアルバムを発表し続けました。ディスコブームが終焉した後の83年には、「Bottom’s Up」がR&Bチャート7位(米ディスコチャート47位)まで上昇し、久しぶりのヒットとなりました。浜辺で地引網を引くような「よっこらしょ、どっこいしょ」リズムを前面に押し出しつつ、ギャップ・バンドみたいな“ぶいぶいシンセ”を駆使したミディアムテンポの佳作となっております。

個人的には、81年発売のアルバム「Me and You」に収録の「Try My Side Of Love」が秀逸だと思っております。彼ら独特のドゥーワップ調のボーカルワークと、少々カリプソな雰囲気を醸す南洋性の旋律がうまく調和しており、これがフロアでかかれば、ゆらゆらとコンブのように心地よく踊れそうです。

80年代後半以降は、セールス的に下降線をたどってしまったシャイ・ライツ。2005年には中心人物のユージン・レコードが64歳で死去し、「もうこれまでか」と思われましたが、草創期から在籍するMarshall Thompsonら残りのメンバーが踏ん張って現在もライブなどの活動を続けています。結果として、メンバー交代を経ながらも、半世紀以上前の1950年代からのソウル音楽界の生き証人のような存在となっているわけです。

CDについては、70〜80年代に発売されたアルバムを中心にまずまず再発されています。ユージン・ワイルドのソロアルバムもここ数年でいくつか発売となっており、とりわけ英Expansion Recordsの「Welcome To My Fantasy」(79年)の再発CD(下写真)には、貴重な欣喜雀躍ディスコ「Magnetism」の7分バージョンや、ゴージャスでダンサブル上等なメドレー曲(「I Don't Mind/Take Everything」)もボーナストラックとして入っていて楽しめます。
Eugine Wild

聖なるディスコ (Divine Disco)

_SL1200_このブログでもかつて触れましたけど、黒人教会音楽であるゴスペルは、米国を中心とする黒人ディスコアーチストにも多大な影響を与えました。ジェームズ・ブラウンアレサ・フランクリンチャカ・カーンをはじめ、奴隷制度時代から根強く残る黒人差別や、ちょうど彼らの幼少期・少年期の1960年代に高揚した黒人差別撤廃運動を直に体験し、感性豊かな音楽的素養を育んだ大物ソウルミュージシャンは数知れません。

そこで今回は、最近発売された、ゴスペルとディスコを融合させた小粋なコンピレーションCD(上写真)をひとつ、唐突に紹介してみたいと思いま〜す!題して「Divine Disco」(聖なるディスコ)。発売元は米Cultures Of Soul Records(カルチャーズ・オブ・ソウル・レコード)です。

タイトルだけ見るとなにやら厳かな気分になり、「こりゃ踊ってる場合じゃないかな」と姿勢を正したくもなりますが、ご安心ください。70年〜80年代の音源を中心とした神ディスコ、祈りディスコの世界が横溢しており、もう初っ端から最後まで腰をくねらせて踊り狂わずにはいられませんもの。

高揚感たっぷりのゴスペル・コーラスは、ディスコとはもともと相性よろし。あの情熱的な歌声にずしりと重い四つ打ちビートが重なれば、もう怖いものなどありません。典型的ゴスペル・ディスコとしては、80年代の著名DJラリー・レバンがよくディスコでプレイした曲で、Lamont Dozierの「Going BackTo My Roots」にも似た感じのThe Joubert Singersの「Stand On The World 」(84年)やThe New York Community Choirあたりを思い出しますけど、このコンピもなかなかにレアでスピリチュアルなダンスチューンが満載なのです。

収録されているのは米国の無名ゴスペル・アーチストばかりですが、曲のタイトルからして、「Free Spirit」(自由な精神)とか、「One More Chance, Lord」(神よもう一度チャンスを与えたまえ)などゴスペルらしさ満開。7曲目「Thank You Jesus」(Gospel Ambassadors)などは「サンキュー、キリスト!」とちょいと軽めのタイトルではあるものの、イントロからドラム音がひたすら軽快に展開するノリノリぶり。

6曲目「Jesus Is Going Away (But He's Coming Back Again)」(The Inspirational Souls)に至っては、「イエス様は行ってしまった。でも彼はまた戻ってくるんだ」と、なにかと忙しいキリストが復活して自分たちの元に帰ってくることを素直に喜び、感謝の心をダンサブルな形で捧げています。

それもその筈。当ブログではくどいほど登場してきた鎌倉時代の一遍上人の踊念仏と同様、ディスコ、つまりダンスは世界共通の祈りであり、念仏なのであります。踊念仏を源流とする盆踊りは、年に一度、先祖の霊(仏様)と交流する楽しい儀式です。神社の祭りの神楽だって、文字通り「歌って踊って神様を楽しませて、自分たちも楽しむ」ことに本来の意味があるわけです。

ですから、このCDのジャケットのように、(背景が暗いからなんだか阿鼻叫喚地獄みたいでコワいにせよ)両手を高々と掲げながら、集団で狂喜乱舞するとあら不思議、輝けるディスコ神やらディスコ仏やらが、歓喜のシャワーのごとく、諸人の頭上に分け隔てなく遠慮なしに降り注いでくるわけです。もちろん、“注ぎ口”は、天井(天空)に鎮座する「ザ・ディスコご神体」のミラーボール。頑なな心が解き放たれることウケアイです。

14曲目に入っている先述の「Thank You, Jesus」の現代リミックスも注目点です。私自身、70〜80年代当時のオリジナルディスコへの志向が強い方なので、主に90年代以降の現代風リミックスには強い関心がないのですけど、この曲については、最新デジタルの複雑な音色が極力抑えられ、アナログシンセ風イントロがどことなく最近流行の「ピコ太郎」していて微笑ましい。

世界から思わぬ注目を浴びた「アポーペン、パイナポーペン」もシンプルだからこそ印象付けられたわけで、そこに「アーメン」的な国境・言葉の壁を越えた“呪文効果”が出るのだと思わされます。

折りしも、人種差別をちらつかせて(否、あからさまに公言して)、白人至上主義と指摘されるトランプ氏が米大統領選に勝利した後、アメリカではヒスパニック系や黒人の人々への心無い発言や差別行為が既に散見されるようになっています。時代の不安を映し出しているかのようですが、そんな今こそ、解放と融合を目指すゴスペル魂の伝統に裏打ちされた「聖なるディスコ」の活躍の時ではないでしょうか!(ためらいつつも断定)

このタイムリーな企画モノCDに入っているようなゴスペル・ディスコに耳を傾け、その祈りの調べに身を任せて汗を流せば、どんよりとした曇り空のような内向き思考の憂鬱などどこふく風。みるみるうちに、負を正に転換する明日への活力がみなぎってきます。クリスマスも近づく昨今、「ラブ・アンド・ピース!」よろしく無邪気に宇宙の果てまで舞い上がるのは楽しいもの。高過ぎて手が届かないと思ったら、神様って意外に身近にいたのです。

イヴォンヌ・エリマン(Yvonne Elliman)

Yvonne少し間が空いてしまいましたが、今回は静々とハワイ生まれのディスコディーバ、イヴォンヌ・エリマンと参りま〜す!

ハワイ出身の有名人といえばオバマ大統領と早見優ですが、ハワイの地元紙ホノルル・アドバタイザーの記事などによると、1951年に生まれたイヴォンヌさんは、なんと日本人の母、白人の父を持つ日系アメリカ人で顔立ちは実にアジアン。幼いころに音楽に目覚め、ピアノやウクレレを練習し、高校時代にはバンドを組んでライブ活動を始めました。

そんなある日、音楽の先生に「お前はやればできるから、イギリスで修行しろ!」と促されて高校卒業後に渡英。音楽業界の代理人を通して、ロンドンで高名なミュージカル音楽プロデューサーであるアンドルー・ロイド・ウェバーを紹介されました。

そこで彼の不朽の名作「ジーザス・クライスト・スーパースター」のロックオペラと映画でマグダラのマリア役を務めるというチャンスに恵まれ、飛躍的に知名度がアップ。同時にロック界の英雄エリック・クラプトンのバックボーカルにも抜擢され、彼の大ヒット曲「I Shot The Sherif」(74年、米ビルボード一般総合チャート1位)でもその歌唱力をいかんなく発揮したのでした。

彼女はソロアーチストとしても、71年に「ジーザス…」の挿入歌バラード「I Don't Know How To Love Me」が全米一般総合チャート(ポップチャート)28位まで上昇したほか、76年にビージーズが作曲したしっぽりスローテンポのポップバラード「Love Me」が同14位に、77年に似た感じのスローテンポ「Hello Stranger」が同15位にそれぞれチャートインするなど、順調にスター街道を突き進んで言ったのでした。恐ろしいほどのとんとん拍子ぶりです。

そして1978年、運命の時が訪れます。当時の夫ビル・オークス(Bill Oakes)が社長を務めるRSOレコードが、完全無欠のディスコサントラ「サタデーナイト・フィーバー」を発売。その中で再びビージーズの作品「If I Can't Have You」を歌い見事、米ビルボード・ポップチャートで1位を獲得したのでした!マイケル・ジャクソン「スリラー」の6,500万枚に次ぐ世界2位の4,000万枚も売れたというこのお化けアルバムからは、計7枚のシングルカット曲が1位になっていますが、堂々とその一角を占めることになったのです。

翌1979年には、同じRSOからアルバム「Yvonne」を発表。A面1曲目に収録のディスコ曲「Love Pains」(総合34位、米ディスコチャート75位)がまずまずのヒットとなりました。「デケデケ」シンセサイザーのベース音と朝の陽射しのように柔らかなストリングスの音色がうまくマッチしたこの曲は、RSOが12インチを制作したほか、82年には米西海岸のディスコ専門レーベル「モビーディック」がリミックスを手がけており、ディスコフロアでは「If Can't Have…」に匹敵するほどの人気となりました。

モビーディック盤については、私がかつて紹介したように、レーベルの元関係者からテスト盤をいただくという僥倖に恵まれましたので、個人的にも特に印象深いレコードとなっております。

超大物プロデューサーやエリック・クラプトンとの出会い、大手レコード会社の社長とのセレブな結婚生活といった多くの幸運もあり、女優・歌手としてスターダムにのし上がったイヴォンヌさん。しかし、社長とはその後離婚。2人目の音楽家の夫とは2人の子供に恵まれましたが、やはり別れて子供をつれてハワイに戻ってきました。80年代以降は音楽活動からも遠ざかってしまいました。2000年代に入ってようやく活動を再開し、新作アルバムを発表するなどしているものの、もう「過去の人」との印象はぬぐえません。

CDはベスト盤が中心でしたが、今年になって、ディスコ期の2枚のアルバムをボーナストラック付きで収録した「Night Flight / Yvonne」が2枚組CDとして発売されております(上写真)。「If I Can't」のディスコバージョンやLove Painsの12インバージョンが入っており、音質もまずまずです。

このCDのライナーノーツには彼女のインタビューが載っており、「本当はクラプトンと一緒に仕事をしていた時のように、もっとロックを歌いたかったが、制作サイドから機会を与えられなかった」「2度目の夫は外で音楽活動させてくれず、結局は家庭に収まってしまった」などと語っています。スターにはなったものの、心底音楽に没入できなかった部分があったのかもしれません。だからこそ、20年以上ものブランクが生まれたということでしょう。

そんな背景にも思いを馳せながら、晩秋の夜長、ディスコからバラードまで幅広く歌い上げるアジアンな彼女の歌声を今一度、堪能してみるのも一興ではないでしょうか。

ヴォヤージ (Voyage)

Voyageさて、あれだけ騒々しかった近所のセミの声が聞こえなくなり、代わってコオロギが俄然張り切って夜長の主役の座についております。儚さひとしお季節の変わり目、テンション高めの今回は、フランスが生んだ爽やか過ぎる「幸せ独り占めディスコ」、ヴォヤージと参りましょう!

英語で「旅」の意味を持つヴォヤージ(Voyage)は、1970年代後半から80年代前半にかけて活躍した腕利きの裏方ミュージシャンたちで編成されたディスコ専門グループで、4人のフランス人男性(Marc Chantereau、Pierre-Alain Dahan、Sauveur Mallia、Andre Slim Pezin)が中心となって結成しました。

特に77年発売の彼らのデビューアルバム「Voyage」(米ビルボード・ディスコチャート1位)はあからさまなコンセプトアルバムとなっており、ボーカルを最小限に抑えたノンストップの正統派インストゥルメンタル・ディスコ。A面1曲目の「From East To West」(同チャート1位、米R&Bチャート85位)で飛行機に乗って東から西へと旅立ち、途中アフリカ(同2曲目「Point Zero」)、アジア(同3曲目「Orient Express」)、欧州(B面1曲目「Scotch Machine」)、南米(同3曲目「Latin Odyssey」)を経由して、気がつけばアメリカ(同4曲目「Lady America」)に無事到着しています。

なんと「計30分ちょっとで踊りながらまんまと世界一周」を果たすという、世界を股にかける「007」のジェームズ・ボンド顔負けのお手軽「空の旅ディスコ」なのでした。これを「30分間の贅沢&愉悦」と言わずして何と申しましょうか!それぞれの曲の調子も、案の定空港ラウンジ音楽な感覚をふんだんに盛り込みつつも、サンバのラテン風あり、シタール使いのオリエンタル風あり、素朴なパーカッション炸裂のアフリカ・ジャングル風ありと、世界一周だけあって飛切り(忙しなくも)ゴージャスな趣向となっております。アルバムのジャケットは「宇宙から見た地球の写真」のデザインとなっており、もう確信犯そのものです。

演奏も、もともとジャズやフレンチポップの分野で長年にわたり大物ミュージシャンとコラボレーションするなど、しっかりと経験を積んだ手練(てだれ)ぞろいだけにしっかりしております。アルバムを通して聴いていると、飛行機だけではなく、大地をぐんぐん駆け抜ける東海道新幹線「のぞみ号」か、はたまたサバンナを軽快に疾走する最速チーターか、という具合にあらゆる「速いもの」を想像してしまいます。全盛期を迎えていた70年代大仰ディスコの真髄を見る思いであります。

彼らの高速「旅ディスコ」路線は、翌78年に発売された2作目アルバムにも引き継がれました。タイトルも「Fly Away」(米ディスコ1位)とまたもや確信犯です。収録曲の曲調はデビュー作と似ており、アジア風やらアフリカ風やらポリネシアン風やらとやはり多国籍。中でも主軸のA面1曲目「Souvenirs」(スーベニア=旅のおみやげ。邦題は「恋のスーヴェニア」。米ビルボードディスコチャート1位、米R&B73位、米一般総合チャート41位)では、ボーカルとして加わったイギリス人女性(Sylvia Mason)が、駅弁売りのお兄さんのように「すべに〜〜〜あ♪(おみやげ〜〜〜♪)」と豪快に雄叫びを上げていて微笑ましい限りであります。

さあ、ディスコブームの波に乗り、2作続けて世界中で大ヒットを記録した「ユーロディスコの雄」ヴォヤージですが、80年代に入ってからはどうだったのでしょう。彼らは節目の80年を境に、「もうディスコは飽きた」と思ったのか、もしくは「もうブームは終わった」と見切ったのか、ちょっと渋めのファンキー&ロック路線へと大きく舵を切りました。

80年発売の3作目「Voyage 3」では、一変して男性ボーカルを中心に据えた「I Love You Dancer」(米ディスコチャート17位)、「I Don't Want To Fall In Love」などのディスコ曲が収録されていますが、どうにも地味な印象はぬぐえません。それぞれの曲自体は悪くないのですけど、「やっぱディスコのボーカルは女性の方が有利だなあ」と思わせる内容になってしまいました。ディスコブームの退潮とも相まって、セールスも一気に落ち込んだのです。

そんなわけで、82年発売の4作目「One Step Higher」では、シンセサイザーを多用したややライトなディスコ路線を復活させましたが、時既に遅し。これが最後のアルバムとなってしまいました。以前に当ブログで紹介したAlec R. CostandinosCerroneらと並ぶ「フランス発人気ディスコ」の代表格だったヴォヤージも、ついにここで刀折れ矢尽きる状態となり、文字通り時代の彼方へと「ボン・ヴォヤージ!」(Bon Voyage=行ってらっしゃい!)してしまったのでした。

ただし、この最終作のA面1曲目に収録されたシングルカット曲の「Let's Get Started」については、再び高揚感のある女性ボーカルとコーラスをフィーチャーし、とってもハッピー・ゴー・ラッキー(楽天的)で爽快感たっぷり。ヴォヤージの真骨頂であるラウンジ風旅ディスコを見事に復活させており、彼らの短いながらも充実した旅(何しろ世界一周)の最終章にふさわしい名曲だと思います。当時のディスコでも聞いたことがありますが、これがかかると一気に場が華やぐ感じです。この数年後のバブル末期(89年)にディスコでよく聞いたスウィングアウト・シスターの「You On My Mind」にも似た雰囲気。私自身、NHK-FMの人気番組「クロスオーバー・イレブン」などで必死になってカセットデッキにエアチェック録音したものでした。

そんな有終の美を飾ったヴォヤージのアルバムは4年ほど前、英Harmless Recordsのディスコ復刻CDシリーズ「Disco Recharge」で4枚とも再発されました。それぞれ2枚組で、12インチバージョンも豊富に収録されていてかなり楽しめます。代表曲をコンパクトに堪能したいという向きには、カナダUnidiscのベスト盤「The Best Of Voyage」(写真)もあります。このCDのブックレットの表紙では、左に「Voyage」、中央に「One Step Higher」、右に「Fly Away」のLPのジャケット写真があしらわれています。

スパークス (Sparks)

Sparks_Newいやあ気がつけば、夏もすっかり終わってました!……というわけで今回は、火花飛び散るド迫力のディスコ伝道師、スパークスと参りましょう。

スパークスは、米ロサンゼルス出身のRon Mael(ロン・メイル)とRussell Mael(ラッセル・メイル)兄弟が中心になって1960年代後半に結成した「Halfnelson」が前身。2人は当時のアメリカ西海岸で盛んに流れていたフォークソングやプロテストソングに「あまりに理屈っぽい!」と嫌気が差し、ザ・フーやピンク・フロイドといったイギリスのモッズ、プログレッシブロック、グラムロック、アートロックに傾倒していきました。71年に「スパークス」と改名し、英国を中心に売り込みを開始。現地でトップ10ヒットを放つなど人気を不動のものとします。

アメリカの音楽業界で60年代と80年代に「ブリティッシュ・インベージョン」(英国の来襲)という言葉が使われたように、アメリカで人気を高めた英国人ミュージシャンは星の数ほどいます。でも、米国人なのに英国の音楽に心底惚れ込み、英国に出かけていってそこでまず火がついてしまったユニークな米国人ニューウェーブバンドになったわけです。

スパークスは、高音ボイスと派手な動きでステージを駆け回る弟ラッセルが前面に出て、その傍らで兄ロンが極端な無表情でキーボードを弾き続けるという摩訶不思議な「陰と陽」の設定。音楽的にはやはりプログレかつグラムロックな内容で、70年代半ばまでは「This Town Ain't Big Enough For Both Of Us」(74年)などの一風変わったロック系の大ヒットを英国で連発していたのですが、70年代後半には早くも息切れしたのか、人気が下降線になりました。そこで目を付けたのが、当時世界中を席巻していた「ディスコ」だったのです!(安易だけど)

彼らはここでなんと、いきなり「ディスコ百獣の王」の名を欲しいままにしたイタリア人音楽家ジョルジオ・モロダーさんにプロデュースを依頼。太っ腹のジョルジオさんは二つ返事で承諾し、ドナ・サマー顔負けの「ビロビロデケデケ」シンセサイザーを駆使したアルバム「No.1 In Heaven」(上写真)を制作し見事、英国チャートでのトップ10入りを再び果たすことになったのでした。

このアルバムで2人は、「Beat The Clock」(79年、英レコードリテーラー・ミュージックウィーク誌チャート9位)、「The Number One Song In Heaven」(同、同12位)、それに「Tryouts For The Human Race」(同、同5位)というディスコ曲を連打したわけです。いずれも弟ラッセルのひょろひょろした高音と幻惑の宇宙的シンセサイザーが妙に調和し、それを正確無比の生ドラムが律儀に下支えしている感じ。独特のクラシカルなメロディーラインもどこか哀愁を帯びていて、心地よく踊りの境地へと誘い込みます。しかも、これらの12インチシングルでは赤とか青の様々な色付きレコードやピクチャーレコードも数多く発売され、もう「ディスコ全開でスタンバってま〜す!」状態なのでした。

ラッセル&ロンは、このアルバムを契機にシンセ街道をばく進。80年代全体にわたってほぼ毎年、ダンス系アルバムを世に送り出しました。特に83年に発売したアルバム「In Outer Space」からは、ゴーゴーズのギタリストであるジェーン・ウィードリン(Jane Wiedlin)とのデュエット曲「Cool Places」、が米ビルボード総合一般チャートで49位、同ディスコチャートで13位まで上昇するヒットとなり、逆輸入的な形で故郷に錦を飾ることにもまんまと成功したのです。私もこの曲は当時ディスコで耳にしましたが、イントロから「デデデデ…」と野太いシンセ音が小気味よく展開し、のっけから踊り心がくすぐられたものでした(テンポやたら速いけど)。

さて、この兄弟は80年代までの勢いはないにせよ、今もその唯一無二のロックディスコぶりは健在。90年代以降もコンスタントに新作を発表したり、世界中をツアーで回ったりして、元気に活躍を続けております。かれこれ半世紀もの息の長〜いキャリアを支えてきたのも、実は70年代末の捨て身の「ディスコ開眼」であったにちがいないのであります。

スパークスのCDは、キャリアが長いだけにたくさん出ていますが、ディスコ好きとしてはどうしても欠かせない「No.1 In Heaven」のほか、80年前後の12インチバージョンを集めた2枚組「Sparks Real Extended」(英Repertoire Records、下写真)がダンサブル爆発の好盤となっております。

Sparks Real




リキッド・ゴールド (Liquid Gold)

Liquid Gold Pic今回も正統派ディスコ、リキッド・ゴールドと参りましょう。イギリスの男3人・女1人のグループで、80年前後に少々派手なディスコ曲を世に送り出しました。

主なヒット曲は、最も売れた「My Baby's Baby」(79年、米一般総合チャート45位、米ディスコチャート5位)に始まり、さびのメロディーラインが哀愁帯びて泣きたくなる「Dance Yourself Dizzy」(同、米ディスコ26位)、ややミデアムスローな「What's She Got」」(83年、米総合86位、米ディスコ23位)、けっこう渋めのギターリフが五臓六腑に染み渡る「Substitute」、「パニックになるな!」と言われながらも思わずパニくってフロアに駆け込んでしまうお馴染みアゲアゲ「Don't Panic」が"黄金クインテット"。本国を中心に大人気だった彼らですが、アメリカの一般チャートにも食い込んだのは立派です。

日本では、とりわけ「Dandce Yousellf...」(邦題:今宵ダンスで)と「Don't...」(同:ドント・パニック)の2曲がフロアの人気をさらいました。特に「今宵ダンスで」なんてのは、なかなかシャレオツなネーミングだと思いますよ。「ええ本日はお日柄も良く……皆様ようこそお越しくださいました……では、今宵はひとつダンスということで…」みたいな感じで、きちんと段取りを踏む和の奥ゆかしさを感じさせますね。こちらも襟を正して、「ああ左様でございますか、では踊ることと致しましょう」という気になります。結婚式の2次会のパーティーなんかにぴったりだと個人的には思っております。

このグループの結成は1977年で、中心メンバーは声量たっぷり女性ボーカルのエリー・ホープ(Ellie Hope)とレイ・ノット(Ray Knott)。2人とも70年代前半、「The Mexican」というヒットを飛ばしたイギリスのベーブルース(Babe Ruth)というロックグループの元メンバーでした。

ちなみにこのメキシカンという曲は、現代のダンスフロアにも十分通用するノリノリ西部劇なナンバーでして、ジャニス・ジョプリンばりの迫力ボイスをきかせていたJenny Haan(ジェニー・ハーン)なる女性がメインボーカル。80年代にはジェリービーンが彼女本人をボーカルに起用して、ローランド系アナログ・ドラムマシーンを駆使したフリースタイルのディスコ曲にリメイクし、大ヒットさせています。

実は、リキッド・ゴールドが残したアルバムは、「My Baby's Baby」、「Dance Yourself Dizzy」などが入った79年発売の「Liquid Gold」(上写真)のみ。とにかくジャケットは金ピカでインパクト大。でも、いくら「リキッドゴールド」(彩色用の光沢金)だからといっても、デスマスクみたいな不気味さの方がかえって際立ちます。私も真夜中なんかにレコード棚からこれを引っ張り出すと、背筋がぞっとして踊る気力を失ってしまうわけです。

結成から7年後の1984年、メンバーが1人抜け、2人抜けした結果、あえなく解散した「光沢金」。それでも、イギリスでは珍しいド真ん中の「メロディー明快、ジャケットも明快」のユーロディスコ系のグループとして、今も一度(ひとたび)かかれば踊る者を興奮のるつぼへと引きずり込む魔力に満ちております。アルバムの正式な再発CDは未だ出ていないものの、以前紹介した「Disco Discharge」シリーズや日本国内盤の「懐かしのディスコフィーバー!」的な各種ディスコ・コンピレーションには、主なヒット曲が収録されております。
CDのライナーノーツ書きました(自己宣伝)


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