ディスコ堂 by mrkick

音楽に貴賎なし ―Discoの考察とCD批評

70年代後半

テリー・デサリオ (Teri Desario)

Teri Desario最近、日韓企業を比較する雑誌企画の取材をやりまして、そこで改めて感じたのが日本の巨大メーカーの低落ぶり。周知の通り、ソニーやパナソニック、それに一時は液晶テレビで破竹の勢いだったシャープなどなど、家電業界の業績の落ち込み方は尋常ではありません。財閥寡占や格差拡大といった矛盾を抱えながらも、相変わらず快走を続ける韓国企業とは対照的でした。

変てこな形のアンテナを自作し、FMや遠距離のAM、短波放送を小学生のころから聞いていたラジオ好きの私にとっては、とりわけ戦後日本の高度成長の象徴であり、高性能トランジスタ・ラジオで名を馳せた「ソニー」の御威光はとにかく大きかった。そんな私の小型ラジオから頻繁に流れていたのは、ほかならぬ当時大流行のディスコ音楽でした。

でも、兄貴分の欧米のメーカーを脅かすほどに勢力を拡大した「メード・イン・ジャパン」も今は昔。2年前、ソニーの終戦後の歴史について調べるため本社に取材に行ったことがあるのですが、広報担当の中堅社員が「いやあ、トランジスタラジオとかウォークマンを発売したころの勢いなんて、もう夢のようですよ」なんてやや力なく語っていたのを思い出します。

もちろん、SONYのブランド力はなおあるとは思います。特に音楽業界の取材をしたときは、ある大手レコード会社の幹部社員が「アーチストのネット配信での楽曲販売やテレビ番組への出演交渉など、ソニーのマーケティングの上手さにはなかなか勝てない」などとボヤいていました。実際、「ソニー・ミュージック」所属のアーチストは今も綺羅星のごとくです。往年のテープレコーダーやラジオの生産、音楽業界進出に端を発する「エンタメ力」は相当なもの。私も携帯プレーヤーはi-Podではなくウォークマンを使っていますし、気に入っている携帯AMラジオもソニー製です。

それでも、あの右肩上がりの上気した時代の空気とは、とても比べものになりません。

1984年、ソニーのカセットテープのCMに使われたテリー・デサリオの「オーバーナイト・サクセス」(YouTube動画ご参照)。ソニーだけでなく、日本のあらゆるメーカーが最も脂が乗っていた時期に、この曲は日本で大ヒットしました。前年に公開された「フラッシュダンス」とか80年公開の「フェーム」を意識した「オーディション再現型」の構成になっていて、ブロードウェイ・スターになる夢を実現しようと奮闘する米国の若者たちの群像を描いています。

カセットテープなんて今はほとんど使われていないわけですが、79年に発売されたソニー自慢のウォークマンが世界市場を席巻していたころですので、底抜けにポジティブな展開になっております。日本企業が制作したので世界ヒットではなかったのですけど、国内のディスコではガンガンかかっていましたし、私ももちろん、即座に12インチレコードを買いにレコード店に走ったものです。

さて、このテリーさんは、実は正真正銘のディスコ畑の歌手です。1951年にマイアミで生まれた彼女は、10代のころにはフォークやジャズに熱中。地元のクラブを中心に歌っている時に、たまたま知人から評判を聞いたビージーズのバリー・ギブに見出され、ディスコレーベルとして勢力を伸ばし続けていたレーベル「カサブランカ」よりレコードデビューを果たしたラッキーガールです。

78年発売の初のアルバム「プレジャー・トレイン(Pleasure Train)」(写真)からは、プロデュースしたバリーさんがバックボーカルで参加したAint Nothing Gonna Keep Me From You」が米ビルボード一般チャートで43位に入り、ディスコでもヒット。邦題は「夢見る乙女」ということで、いきなり脱力するわけですが、彼女の澄んだ高音が全編にわたって横溢していて、かつビージーズっぽさもしっかり感じさせてけっこう良い曲です。ここで彼女は、ひとまず「ディスコ歌手」としての礎を築いたのです。

翌79年、同じアルバムからのシングルカット「The Stuff Dreams Are Made Of」も米ディスコチャートで41位まで上昇し、まずまずのヒットとなります。同年後半には2枚目のアルバム「Midnight Madness」を発売し、その中からはマイアミの学生時代の級友で、K.C. & The Sunshine Bandのリーダーであるハリー・ウェイン・ケーシーとのデュエットによるバラード「Yes, I'm Ready」が、米一般チャートで2位まで上がる大ヒットを記録しました。

80年代になると、やはりディスコブームが下火になったことで活躍の場が狭まり、カサブランカとの関係もこじれてきます。80年にはポップ/ロック色を強めた3枚目のアルバム「Caught」を発売するも、ほとんど売れずじまいでした。

4枚目のアルバム「Relationships(関係)」はなんと、録音を終えていたのに発売中止となり、カサブランカとの“関係”も契約解除により途切れてしまったのです。今年発売された「Caught」の再発CDのライナーノーツにはテリーさんのコメントも載っているのですが、「(契約解除には)すごく落ち込んだ。たった18ヶ月間で、ヒット歌手から契約解除に至ったんだから。
私のマネジャーのプロモートが上手じゃなかったの。やっぱり歌手は、周囲に信頼できるスタッフがいないとダメね。そして、強固なファン層を持っていないと、うまくいかない」などと振り返っています。

その後は信仰に目覚め、キリスト教のゴスペル音楽に傾倒。ポップス歌手としてはTVドラマの挿入歌を歌う程度となり、表舞台からは遠ざかっていきました。
なんだか前回のステイシー・ラティソウみたいな展開ですけど、彼女の場合は、この間にソニー側からのオファーを受けて「オーバーナイト・サクセス」というCM曲を1曲、録音してその名を刻んでいたわけです。

このCMが流れた翌85年、日本が欧米各国との間で取り決めた「プラザ合意」や利下げをきっかけに急激な円高が進行。金が余ってバブル経済の引き金となり、それが崩壊した90年以降には日本経済の「失われた20年」が始まりました。そう考えると、あの曲は、テリーさんにとってもソニーにとっても日本経済にとっても、まさに一夜の夢のごとく出現した「最後の輝き」だったのかもしれません。

テリーさんのCDは最近、少しずつ再発されています。「Pleasure Train」は米国のCD再発レーベルGold Legionから、「Caught」も英国のRock Candy Recordsから、それぞれリリースされています。

ジグソー (Jigsaw)

Jigsawこの人たちは、もう絶対にあの曲しか浮かびません。……いや、いくらなんでも、もう1曲ぐらいあったはずだぞ……やっぱり、残念ながらどうしても浮かびませーん。……ハイそうです、「スカイ・ハイ」。

というわけで、今回は「天下御免の一発野郎」ジグソーであります。まあ、いまさら「リング・マイベル」「ディスコ・ダック」なんかの例を出すまでもなく、ディスコってやつは一発屋を大量に生んだジャンルですので、別にどうってことはないのですが、それにしても切な過ぎる、この一発ぶりは。

この曲は1975年の発売。文字通り天にも昇るような明るさと、親しみやすいにもほどがあるポジティブ・メロディー&リズム進行を特徴としています。米ビルボード一般チャートで3位まで上昇するなど、世界的に記憶される名曲の一つとなりました。ただし、詞の内容は「どうして僕たちの愛は終わらなければならなかったのか! 君が空高く吹き飛ばしてしまったんだぞ!」といった感じで、失恋を明るく歌っているようですが。

とりわけ日本での人気は別格で、当時テレビで大人気だったプロレスラーのリング入場曲に使われたこともあります。近くのスーパーの特売セールや子供向けイベントの会場などで、誰もが一度は必ず耳にしたことがあるはずです。当然ディスコでも流行りましたが、ホントにかかっちゃったら恥ずかしくて踊れなくなることウケアイです。

さて、そんなジグソーとはどんな人々なのでしょうか。実は、60年代から80年代にかけてかなり長期間、活動した英国のグループで、デビュー当初は相当に過激なハードロックバンドでした。あまりにも売れなかったからなのか、70年代には節操なくビートルズみたいなソフトロック路線に変更。それでもあまり売れなかったけれども、ディスコっぽさを導入した75年にかろうじて「スカイハイ」をヒットさせたのでした。

それでも、よくよく聴いてみれば、他の曲もそんなに悪くはありません。リードボーカルのデス・ダイヤー(Des Dyer)を中心としたコーラスワークは美しくまとまっていてなかなか印象的ですし、演奏もアレンジもしっかりしている。随所にシンセサイザーのような新しい技術を導入するなど、工夫の跡もみられます。

例えば、ギルバート・オサリバンみたいなポップロックの「Who Do You Think You Are」とか、いかにも70年代なバラード「My Summer Song」とか、メロウソウルな雰囲気の「You Bring Out The Best In Me」(素敵なMC付きのYouTube動画でどうぞ)なんて、(ディスコではないにせよ)もっとヒットしていても不思議はないほどの佳作だと思います。でも如何せん、ハードロックからディスコ、R&Bまでがむしゃらに手出しした分、キャリアを通してのバラバラ感や個性の乏しさ、軽さはどうしても否めません。

やっぱり、すべてにおいて「天下御免のスカイハイ」の大成功が災いしたのではないでしょうか。この曲はあまりにもインパクトが強過ぎました。もう完全に「ジグソー=スカイハイ=天下御免」が成立しています。もちろん、「不発の無名」よりはずっといいわけですけどね。

ジグソーのCDは、一発屋とはいえベスト盤がいろいろ出ています(全曲スカイハイというわけではなく)。5、6年前には、日本盤で個別アルバムもいくつかCDで発売されていまして、写真はその1枚の「Pieces Of Magic (邦題:恋のマジック)」(ビクター)。「スカイハイ」の後の77年に発売されたものですが、mrkickとしては恐る恐る買ってみたわけです。知らない曲ばかりでなんだか怖かったのですけど、意外や意外、ポップあり、かなりアゲアゲなシンセサイザー・ディスコあり、ファンク風あり、バラードありと、けっこう楽しめました(やっぱりバラバラなわけだが)。

シェイラ&B.ディヴォーション (Sheila & B. Devotion)

 Devotion Spacerいやあすいませ〜ん。落下傘で降りてきちゃいました!……というわけで、今回はパラシュートに赤いコスチューム(でも目は笑っていない)、さらに周囲には謎の怪鳥プテラノドンが飛び交う意味不明なジャケットでお馴染みのシェイラさんであります。

シェイラさん(本名:Anny Chancel)は1945年フランス生まれ。実は以前に紹介したフランス・ギャル、シルビー・バルタンと同様、60年代にはフランス発の少女ポップス音楽である「イェイ・イェイ(ye-ye)」のトップスターとして鳴らしました。70年代後半には、男性ダンサーをくっつけて「シェイラ&B.ディヴォーション」というグループ名となり、ディスコスターとして活躍しています。

「イェイ・イェイ」の歌手たちは、英語で言う「ガール・ネクスト・ドア」(隣のお嬢さん)的な身近な存在であり、昔のアメリカで言えばオリビア・ニュートン・ジョン、日本で言ったら松田聖子なんかのアイドルに近い。女性アイドルには大きく「セクシー系」と「非セクシー系」があるといえますが、シェイラさんは後者の方で、「あらシェイラさん?こんにちは」とあいさつすれば、「こんにちわ〜!」と明るい笑顔で返ってきそうなところが魅力でした。確かに、隣に住む“セクシー系の権化”マリリン・モンローやマドンナやビヨンセに「あらあらこんにちは!」なんて声を掛けても、貫録たっぷりにシカトされそうです。

そんな親しみ安さ抜群のシェイラさんの人気も、70年代にイェイ・イェイ・ムーブメントが終わると陰りを見せました。そこですかさず目を付けたのが、大流行し始めていたディスコ。もともとアイドルとディスコの親和性は高いので、いくつかのヒットを飛ばすことができたわけです。

「ディボーション」としての最初のアルバム「Singin' In The Rain」(77年)からは、タイトル曲が欧米でヒット(米ビルボードディスコチャート30位)。2枚目の“意味不明ジャケット”の「King Of The World」(80年、写真)からは、「Spacer」という曲がヒット(同44位)しました。特に2枚目はナイル・ロジャーズとバーナード・エドワーズがプロデュースしており、「Spacer」を聴くと、イントロのピアノソロが非常に印象的である上、いかにも彼ららしい流麗なメロディーやギター&ベースリフが展開していて秀逸です。ただし、シェイラさんの歌声は今一つなので覚悟する必要がありますが。

2枚のアルバムの発売以降は、ディスコブームが終わったこともあり、人気がパラシュートのように急下降してしまったのは残念なところ。でも、数あるフレンチディスコの代表例として、疾風怒濤のディスコ界に一定の貢献を果たしたといえます。CDは、2枚のアルバムの再発、それにベスト盤が欧州ワーナーミュージックから出ています。

ロバータ・ケリー (Roberta Kelly)

Roberta Kellyドナサマー追悼で3年ぶりに踊りに行ったら腰をやられて1日寝込みました……というわけで、老体にムチ打って今回ご紹介するのは、ドナさまにはかないませんけど、しかしドナさまとも濃密に絡み合いながら、ディスコ史にしっかりその名を刻んだロバータ・ケリーさんで〜す!(カラ元気)

え〜と、このジャケット(左写真)からまずはスタートです。どうです? もうすっかりアフロな笑顔が弾けてるでしょう? それもそのはず、ロバータさんは、ディスコ黎明期の70年代前半には既にディスコ界にちょろりと顔を出し、かの「ミュンヘン・ディスコ」の先鞭をつけた偉人なのでありました。

1942年、米ロサンゼルス生まれ。幼少時にゴスペル音楽で喉を鍛え上げ、地元でソウルグループのリードボーカルを務めるなどの活動を始めました。米モータウンレコードの関係者から評価され、デビュー寸前までいったこともあります。それでも、やはり芽が出なかったので、70年代初頭、30歳ごろになって一念発起、ドイツに旅立ちます。

そのころのドイツ(旧西ドイツ)は、72年のミュンヘン五輪に向けてエンターテインメント界も各種イベントを計画するなどして、明るく盛り上がろうとしていました。「ナチスの悪夢」から逃れ、新しいドイツを築こうと懸命だったのです。つまり、ドナ・サマーと同様にロバータさんも、“オリンピック祭り”に加わってチャンスをうかがおうと考えたのです。

現地でロバータさんは、「フライ・ロビン・フライ」を後に大ヒットさせるシルバー・コンベンションの歌手ペニー・マクリーン、さらに68年にミュージカル出演のために訪独して下積み時代を送っていたドナ・サマーとも知り合うことになります。ドナとは、同じアフリカ系米国人の修行中の歌手として、すぐに意気投合しました。ここで、大物プロデューサーであるジョルジオ・モロダーとその相棒ピート・ベロッテとの繋がりも生まれたのでした。

ロバータさんはまず、74年にジョルジオらのプロデュースで「Kung Fu's Back Again」というトホホなカンフーものディスコでデビューしたもののあまり売れず、75年の「フライ・ロビン・フライ」のボーカルの一人として参加します。これは大ヒットしたものの、レコードのクレジットには彼女の名前が記されないという残念な結果に終わりました(特に黒人女性歌手にはよくあることだったのだが)。

転機が訪れたのは30代も半ばになった76年のことでした。同様にジョルジオ&ピートが手掛けた「Trouble Maker」がようやく欧米で大ヒット(米ディスコチャート1位)。続く「Zodiacs(邦題:恋の星占い)」も世界中のディスコで人気となりました。

このころには、「ジョルジオ繋がり」でドナ・サマーとともに米カサブランカ・レコードに移り、いよいよメジャー化するかと思われました。親友のドナが猛烈な勢いでスターダムにのし上がる中、78年に満を持して、ゴスペル曲で構成された珍しいディスコアルバム「Gettin' The Spirit」を発表したものの……不発に終わりましたとさ。残念!

その後、二度と表舞台には出てこなくなってしまったロバータさん。とはいえ、前述の「Kung Fu's…」は、おとぼけサウンドとはいえ、ジョルジオによるプレミア付き初期ディスコではあります。五輪後の本格的なドイツの経済成長と軌を一にして登場した、バカラ、ジンギスカン、ボニーM、アラベスクといった底抜けに明るいミュンヘン・ディスコの礎をジョルジオ、ピート、ドナらとともに築いたのは確かなのです。

CDについては2-3年前、再発レーベル「Gold Legion」から2枚発売されました。代表曲「Touble Maker」や、雰囲気のいいミデアムテンポのリメイクダンス曲「Love Power」が入ったアルバム「Trouble Maker」、それと「Zodiac」やノリの良い「Love Sign」が入った“アフロな占い歌謡アルバム”「Zodiac Lady」(上写真)であります。

2枚のうち、「Trouble Maker」には詳細なライナーノーツ(英文)がついており、在りし日のドナ・サマーやジョルジオ・モロダーのコメントも載っていてとても貴重です。ドナさまは70年代初頭のミュンヘン暮らしを振り返り、ロバータについて「彼女とその母親は、私の娘ミミの子守りをよくしてくれたわ。あれ以来、私たちはずっと友達なのよ」などと語っています。

一方、ジョルジオさんは「ロバータもドナも、あるアメリカのアーチストのデモ音源を制作するために起用した。2人とも素晴らしい声の持ち主だったから、別々に歌手として売り出したかったんだ」と語っています。

70年代半ばの同時期、ドナさんには音楽史に残るほどに実験的な「Love To Love You Baby」や元祖テクノディスコ「I Feel Love」を手掛けて大成功を収めたのに対し、ロバータさんには「二番煎じっぽいカンフーもの」とか脱力の「占いもの」だったとは…。そこが運命の分かれ道でした。厳しいぜよ、ジョルジオ(いきなり土佐弁)…と、ここはしんみり訴えておきましょう。

タタ・ベガ (Tata Vega)

Tata Vegaタタ・ベガさんはゴスペルシンガーとして鳴らした実力派。スティービー・ワンダー、チャカ・カーン、パティ・ラベル、マイケル・ジャクソン、そしてマドンナと、さまざまなビッグアーチストのバックボーカルとしても活躍した人でした。

1951年、米ニューヨーク生まれ。10代前半にミュージカルに出演してプロ活動を始め、歌唱力の高い歌手として頭角を現しました。モータウンとの契約を果たし、本人名義のアルバムも、「Full Speed Ahead」(76年)、「Totally Tata」(77年、写真)など、ディスコ全盛期の70年代後半を中心に何枚か出しています。

中でも出色なのは、ディスコブームが最高潮に達した79年に発売したアルバム「Try My Love」。全編にわたって底抜けに明るいダンスナンバーがちりばめられています。特に「I Just Keep Thinking About You」なんて、「これがゴスペル歌手のやることか!?」というくらいに歌謡曲チック。しかし、だからこそ、私にとっては一番のお気に入りのアホアホ系ディスコとなっております。

このアルバムからは、「Come And Try My Love」、「Gonna Do My Best To Love You」といったゴキゲンナンバーもあって、ディスコ好きにはたまらない感じです。しかし、「Get It Up For Love」を聴いてみると……アレ? なんだか自らバックボーカルでバックアップしているはずのチャカ・カーンみたい。まあ、メロディーラインが洗練されていてよい曲なのですが、残念ながら個性の乏しさがなんとなく滲み出てしまうのです。

私としては、あの風貌ならば(失礼)、もう少しウェザー・ガールズとか、バックボーカルを務めたパティ・ラベルみたいに「ザ・ディスコディーバ」としてどしどし弾けて欲しかったのですが、そうは問屋が卸しませんでした。正統派よろしく、98年には「Now I See」なる真面目なゴスペルアルバムまで発売してしまいましたからね。まあ致し方ありません。

はっきりいってマイナー歌手で終わってしまった「歌の上手い歌手」タタさん。この辺の「売れる、売れない」は誰にもわからない紙一重の差なのでなんとも説明しようがありませんが、ディスコ界ではそこそこの実績をアピールできたのだと考えております。私のFacebookの「友達リクエスト」(笑)にも、快くメッセージ付きで承諾してくれましたしね。これからも陰ながら応援しようと思っております。

CDは写真の「Tatally Vega」とデビュー作「Full Speed Ahead」が最近、発売されました。けれども、ディスコ好きとしては出色の「Try My Love」と「Givin' All My Love」(80年)という「もろディスコアルバム」のCD化が望ましい。首を長くして待つことに致しましょう。ぴょん!

テレックス (Telex)

Telex2に・じ・い・ろのラブビーム!♪――というわけで、今回は久しぶりにテクノのりで。30年以上も昔なのに、なんだかPerfumeを彷彿させる音が気になる、ベルギーが生んだ異色のテクノディスコ・グループ「テレックス」であります。

彼らは男性3人組。1978年の結成当初から、テクノポップとユーロディスコを融合させたようなユニークな実験音楽を発表したことで注目され、クラフトワーク、YMOディーボMジョルジオ・モロダーセローンDee D. ジャクソン、 スパークスなどと同様、後のハウスやテクノといったシンセサイザー中心のディスコ音楽の礎を築きました。テクノ音楽が一気にメジャー化する前の70年代か ら活躍していたというのがポイント。ディスコファンやクラブDJに限らず、今も世界中でカルト的な人気を保っている人々です。

代表曲はなんといってもMoskow Discow(79年、米ディスコチャート36位)。モーグなどのアナログシンセサイザーを駆使しつつ、列車の効果音を織り込んでディスコ調に仕上げた面白い作品ですが……実際はこれを聞いても私はそれほど踊る気にはなれません(当時の日本のディスコでは聞いたことないし)。当時のニューウェーブ音楽にありがちな、なんだか無機質で暗い印象です。

彼らには1980年、アバやトミー・シーバックなどの陽気なディスコ系アーチストが多く出場した欧州の「歌の祭典」ユーロヴィジョンに出場した過去も持ちます。出場曲はおとぼけサウンドのもろ「ユーロヴィジョン(Eurovision)」。出場したくて出場したであろうに、ポップで軽〜い歌の祭典をからかったような内容になっています。ただし、「Moskow」よりは少々アホアホな明るさを醸していてディスコ的です。

ほかにも、「Twist A Saint Tropez」(80年、同45位)、「Peanuts」(88年、同45位)などのテクノディスコな曲がありますが、どれもやっぱり変てこな感じです。

海外の音楽サイトに最近、載ったメンバーの一人、 Michel Moersのインタビュー記事(「Elektro Diskow」)によると、Michelは彼ら独特の皮肉やユーモアについて、「ベルギーは地理的に欧州の中心に位置し、歴史的にはいろいろな国から侵略を受けてきた。だからベルギー人はもともと超現実的で、生き残るために他人に冷淡な態度をとる必要があった。そんな風土に子供のころから影響を受けてきたのだと思う」と説明しています。

Michelはディスコについて、「もともとディスコの持つグルーブ感が好きで、自分たちの音楽に取り入れるようになった。実は昔の電子楽器は、電流が不安定だったり、シーケンサーが不正確だったりして、サックスやギターと同様の人間くささがあった。だからかえってグルーブ感があった」としています。このあたりは、私も納得する説明ですね。80年代中ごろまでのシンセサイザーは、どことなく温かみを感じたものです。その後の技術進歩を背景に、90年前後からは急速にシャキシャキと鋭角的で乾燥した音になっていきました。

さらにMichelは、最近のダンスミュージックについて、「どれも同じように聞こえてしまう。電子音楽の技術が進歩して音作りが簡便になったことで、『カット&ペースト』で作った『クローン』のような曲になってしまっている」などとけっこう厳しい見方。う〜ん、いや、これにも私はおおむね同感であります。とはいえ、たとえば前述のPerfumeなどは、70-80年代のレトロテクノのノリがあることに加えて、メロディーに日本民謡のようなトロリとした哀感を感じることもあり、嫌いではないわけですけどね。

テレックスはここ20年ほど、あまり活発に活動していません。6年前に新譜を出した程度です。カルト的人気のわりにはベスト盤CDもあまり出回っていませんが、写真の“おさかなベスト”(ベルギーEMI盤)は、「Moskow」「Eurovision」などのヒット曲が網羅的におさめられている上に、比較的入手も容易です。

ギブソン・ブラザーズ (Gibson Brothers)

Gibson Btos本日は「困ったときのギブソン・ブラザース」…であります。この人たちの曲は、どれも無難に躍らせる快活さが売り物。陽気なラテンフレーバーたっぷりのいかにもディスコな面々です。

彼らクリス、アレックス、パトリックの仲良し3人兄弟は、カリブ海の西インド諸島出身。後にフランスに移住して1976年に「Come To America」でデビューし、折からの世界的ディスコブームの追い風に乗り、最初から本国をはじめ欧州各国で人気を集めました。

代表曲はなんといっても「Cuba」(79年、米ビルボードディスコチャート9位)であります。もろサルサ風のノりにユーロディスコ風味を少々味付けした風情で、世のディスコフリークたちを南洋性の愛と熱狂の渦に巻き込んだものでした。

ほかにも、ヴィレッジ・ピープルにも似た「Que Sera Mi Bida(ケ・セラ・ミ・ビダ)」(80年、同8位)とか、「Better Do It Salsa」(78年)、「Laten America」(80年)といった同系統のラテンディスコの佳品があります。いずれも縦横無尽に跳ね回るピアノやパーカッションやサンバホイッスルが気分を豪快に盛り上げてくれますので、ちょっと仕事の悩みやストレスを抱えているような人々にはもってこいの「すべてを忘れてバカ騒ぎ!」系の能天気ディスコです。

個人的には、リードボーカルのクリスの「ハスキー度」がやたら高くてうるさ過ぎかもなあ…と思いました。なんか昔紹介したカナダ発ハイエナジーの「ライム」みたいな感じ。渋いブルースのような驚くべき声をしているので、ミスマッチ感覚を楽しむほかないのかもしれません。それでも、とにかく全身全霊、汗だくになりながら体を張って一生懸命演奏している雰囲気なので、「憎めないフレンチディスコ野郎」だとの印象です。

このブラザーのピークは80年前後だったのですが、とりわけ日本では、83年発売のおとぼけチューン「My Heart’s Beating Wild(邦題:恋のチック・タック)」がカルト的人気でした。

私も、当時行っていた札幌のディスコで、イントロの「ぽんぽこぽんのぽんぽんぽん〜♪」という人を食ったようなお気楽シンセサイザーの音色が流れた途端、「ドリンク休憩中」のお客さんたちが、「来ました、来ました、来ましたヨ♪」ってな調子でやおらフロアに集まってきたのを目撃しています。サビの「俺様の心臓が激しく高鳴るぜ(My Heart’s Beating Wild)、チック、タック、チック、タック(Tic Tac Tic Tac)♪」と歌っている部分では、お約束の振り付けダンスもありました。

CDはあまりいいのがないのですが、写真の米ホット・プロダクション(Hot Productions)盤のベストが一番網羅的でしっかりした内容と思われます。上記「Come To America」、「Cuba」、「Que Sera Mi Vida」、「恋のチック・タック」などのロングバージョンも収録されています。まあ、相当に「過去の人」ではありますけれど、彼らの公式HPを見ると、今でも欧州を中心にライブなどを精力的にこなしているご様子で嬉しい限りですな。

シェリル・リン (Cheryl Lynn)

Cheryl Lynnパティ・ラベルポインター・シスターズウェザー・ガールズロレッタ・ハロウェイジョセリン・ブラウン…。これまでに紹介してきた面々は、いずれも幼少期に歌いこんできたゴスペル・ミュージック(黒人の教会音楽)を基盤としたディスコ界の「超ダイナマイトボイス」の持ち主たちであります。そして、「あてを忘れたらいかんぜよ!」(いきなり土佐弁)と参戦しないと気が済まないのが、今回紹介するシェリル・リンさんです。

1957年、米ロサンゼルス生まれ。地元教会の少女コーラス隊で修行した後、76年に米国の“のど自慢”テレビ番組「ザ・ゴングショー」で圧倒的な歌唱力を披露して注目され、大手コロムビアレコードと契約。78年に発表したデビュー曲が「ゴット・トゥ・ビー・リアル」で、これが米R&Bチャート1位、米一般チャート12位、米ディスコチャート11位という彼女にとって最大のヒットとなったわけです。かつて取り上げた「掃除のバイトから人気歌手」パターンのイブリン・キング並みのシンデレラ・ガールぶりです。

「ゴット・トゥ・ビー・リアル」は押しも押されぬダンスクラシックスの世界的定番ですが、この人にはほかにも腹の底から歌って踊れる重量級ディスコが目白押しです。

例えば、「ゴット・トゥ…」が収められた同名デビューアルバムに入っている「スター・ラブ」なんてのは、バラード調イントロから恐る恐る入って、じらし抜いた後にいきなりアゲアゲのアップテンポに移行する「突然狂喜乱舞型」です。「うんにゃあ!、はっ!、わんにゃあ!、はっ!、にゃいにゃいにゃいにゃい!♪」と、まったく「幸せわんにゃ!、歩いてこんにゃ!♪」(「365歩のマーチ」より)でお馴染み、全盛期の水前寺清子顔負けの“ネコこぶし唱法”(ちょっと意味不明にせよ)に悩殺されることウケアイです。

私が個人的に最も好きなのは、ディスコ最盛年の79年に発表した2枚目アルバム「イン・ラブ」であります。ほぼ全編にわたって「わんにゃあ!」の煽り系ディスコであることは言うに及ばず、70-80年代の米ポップス界を代表する名プロデューサーであるデビッド・フォスターやボビー・コールドウェルなどの大物ミュージシャンを起用している贅沢盤でもあります。

当時としてはやや早めにシンセサイザーを本格導入している音作りにも、「ディスコノリ」の点から好感が持てます。特に、A面3曲目「フィール・イット」はもう、スター・ラブ以上に「にゃあにゃあにゃあ、ふう! はっ!」とジャングルで雄たけびを上げる猛獣のごときもの凄い超絶パワーですので、とりわけ私のような中年の身にとっては、これで踊るのは相当な覚悟が必要です。

彼女は80年代に入って大きく路線を転換。「わんにゃ!」のトーンを落とし、バラードを含めた「大人のR&B」歌手への道を目指し始めます。聞けばすぐ分かってしまう「レイ・パーカー節」が持ち味のレイ・パーカーJrのプロデュースによるアルバム「イン・ザ・ナイト」(81年)では、「シェイク・イット・アップ・トゥナイト」(81年、R&B5位、ディスコ5位)のような「やや激しい路線」も残してはいるものの、全体的には「イン・ザ・ナイト」みたいな「しっぽりアダルト」な曲の方が中心を担っています。

その後、「インスタント・ラブ」(82年、R&B16位)、ルーサー・バンドロスとのデュエットによるバラード「If This World Were Mine」(同年、同4位)のほか、SOSバンドなどを手がけたジミー・ジャム&テリー・ルイスのプロデュースによる「アンコール」(83年、R&B1位、ディスコ6位)と「フィデリティー」(85年、R&B25位)、さらに「If You Were Mine」(87年、同11位)といった落ち着いた雰囲気の洒落たヒット曲を80年代を通してコンスタントに繰り出しました。

ディスコ期にピークを迎えながらも、しぶとくポスト・ディスコ期を生き抜いたという点では、なかなかの試合巧者といえるシェリル・リン。その最大の要因は「無敵のゴスペル・パワー」にこそあると言えるのではないでしょうか。最初に名を挙げたパティ・ラベルやポインター・シスターズなども、同様に70年代に頭角を現し、80年代までしっかりと成功を持続しました。

米国で最も黒人解放運動が高揚したのは1960年代ですが、そのころに少女時代を過ごしたゴスペル出身歌手は、最初から気合の入り方が違う。私にとっては前々回に投稿した一遍上人の「踊念仏」とも二重映しになります。解放と救済への祈りを込めた音楽は、まさに魂の叫び。宗教特有の神秘性をもしっかりと帯びて、やはりどこまでも「わんにゃ!」と粘り強いのであります(きっぱり)。

CDは国内盤、輸入盤、それにベスト盤ともにかなり充実しています。写真は、ディスコ好きなら必ず所持していたいデビューアルバム「ゴット・トゥ・ビー・リアル」(ソニー盤)。ほかのアルバムも、国内盤でここ数年、相次いで「紙ジャケット」で発売されています。

ラ・フレーバー (La Flavour)

LaFlavour1984年ごろ、札幌のディスコでやたらと聞いた「マンドレイ(Mandolay)」(YouTubeご参考)という曲。バブル前夜の日本全国でも、サビの「マンドレ!」の部分で皆で掛け声を上げるなどの酔狂ぶりで、ディスコではかなりの人気でした。いやもちろん、私も一緒になって声を張り上げていたわけですが。

歌っていたのはハート・アタック(心臓発作)をもじったと思われるアート・アタック(Art Attack)なるグループ。この人々については、ときどき当ブログでも引き合いに出すDiscomusic.com(リンク参照)の掲示板のほか、日本以外の世界中の私の“ディスコ友達”やDJに尋ねても、答えは「曲は知っているが、アーチストはまったく知らない」とのことでした。

つまり、日本でも国外でもよくいた「曲だけ聞いて踊っておくれ!」といわんばかりの、超マイナーなディスコ・セッショングループによるハイエナジー・リメイクだったのです。このリメイクは、まさに日本のディスコでのみヒットしたのでした。

世界のディスコマニアに知られている「マンドレイ」は、ラ・フレーバーというディスコ・グループが79年末に大ヒット(米ビルボード・ディスコチャート7位)させたオリジナル曲です。哀愁調のフラメンコ風ギターやパーカッション、それにマイナー調の旋律が特徴のもろラテンフレーバー・ディスコ。この曲が収録された同名アルバム(写真)についても、当時日本でも流行っていたサンタ・エスメラルダみたいなラテンな内容になっております。

このアルバムはとってもディスコテイストで、全曲聴き通しても相当に盛り上がります。特にビルボードディスコチャートでも34位まで上昇した「To The Boys In The Band」などは、マンドレイ以上にアゲアゲな感じで好印象です。…しかし、このアルバムを最後に、表舞台からは忽然と姿を消したのでした。

彼らは70年代半ばごろ、地元米オハイオ州のマイナーレーベルでデビュー。同じレーベルの人気R&Bグループであるワイルド・チェリーに参加していたキーボード奏者(Marc Avsec)が作った「マンドレイ」がヒットし、大手MCAレコードとの契約にこぎつけました。でも、「名前を変えろ! もうディスコは古いからロックにしろ!」などと注文をつけられ、言われた通りに「Fair Warning」とバンド名を変えて同名ロックアルバム(Fair Warning)を制作したら撃沈したのです。

しかも、その中のイチオシの曲「She Don't Know Me」は、どこか別のプロデューサーに「これいいねえ。ちょうだい」ということで、まだ売り出す前の担当ロックバンドのデビューアルバムに使われてしまいました。そのバンドとはなんと、後にバカ売れするボン・ジョヴィであります。長く愛し、愛されてきた名前まで変えたのに、嗚呼哀れなり、ラ・フレーバー!。

ただ、先述のDiscomusic.comや「ラ・フレーバー公式HP」によると、彼らはその後元の「ラ・フレーバー」に名を戻し、意外な展開ですが、一時は全米各地のライブで持ち歌とともに人形を使った「マペット・ショー」(!)を披露して人気を博したようです。現在もライブハウスを中心に活躍し続けているとのことです。もちろん、キラーチューンは後にも先にも「マンドレイ」で決まりですね(一発屋にて)。

CDですが、ラ・フレーバー、「謎のアート・アタック」ともにほぼ絶望的です。ラフレーバーについては、10年ほど前に「マンドレイ」と「To The Boys...」などが入ったミニアルバムCD(米MIL盤)が発売されたのですが、いまはほとんど入手不可能です。アート・アタックのリメイクも、かつてはAvexのディスココンピレーションなんかで目にしたのですが、これまたどこで手に入るのやら。とってもマイナーですので、これからも厳しいと思われます。ただし、レコードはいずれも比較的入手が容易でございます。

ルース・チェンジ (Loose Change)

Loose Change久しぶりだよん!…というわけで、ルース・チェンジ(Loose Change)という女性3人組グループもまた、明るい曲を次々と発表していました。プロデュースはトム・モールトン、そして前回紹介したジョン・デイビスも制作に参加しています。70年代どんどこディスコの系譜を受け継ぐ、清く正しく美しい曲調が持ち味です。

女性3人組の名はレア・グウィン(Leah Gwin)、ドナ・ビーン(Donna Beene)、ベッキー・アンダーソン(Becky Anderson)で、レーベルはご存知カサブランカ。トム・モールトンは、自身の出身地でもあるニューヨークの都会的なサウンドと、カサブランカの本拠地である米西海岸ロサンゼルスの開放的な曲調を融合させたのでした。

加えて、旧西ドイツ・ミュンヘン発のディスコを連発したジョルジオ・モロダーらとともに、ドナ・サマーなどへの作曲活動をしていたトール・バルダーソン(Thour Baldursson)というアーチストの協力を得ており、かつ「フィリー・ディスコ」で知られる米フィラデルフィアの「シグマ・スタジオ」で録音するという国際色豊かな徹底ぶり。そんなディスコのおいしいところばかりを結集させたアルバムの出来が悪かったら罰当たりです。

そんな彼女たちのアルバム「Loose Change」(写真)は、1979年の発売。全7曲のうちシングルカットされたのはミディアムテンポの「ストレート・フロム・ザ・ハート(Straight From The Heart)」(79年、米ディスコチャート21位)ですが、その12インチ盤のカップリングB面に収録されていた「オール・ナイ・トマン(All Night Man)」が特に秀逸です。

この曲には前述のジョン・デイビスがアレンジャーとして参加。さすがというべきか、あらゆる楽器を総動員しつつ、Bメロ(第二旋律)からコーラスにかけてどんどんドラマチックに盛り上がっていくタイプで、以前紹介したリンダ・クリフォードヴィッキー・スー・ロビンソンなどに近い曲調です。楽器だけではなく、主旋律を歌うドナ・ビーンをはじめとするボーカルもしっかりと伸びやかに歌い上げていて、踊っていても気分爽快ですね。

アルバムB面(LP)に入っている「ラブ・イズ・ジャスト・ア・ハートビート・アウェイ(Love Is Just A Heart Beat Away)」もメロディーラインがやや切なく展開しており、けっこう聴かせる名曲です。もともとアメリカで79年に公開されたB級“吸血鬼映画”「ノクターナ(Nocturna)」のサントラ(下写真)に収録された曲で、グロリア・ゲイナーが歌っていました。このグロリアバージョンはミュージカル仕立てですご〜く盛り上がるお祭りチューンとなっており、それと比べるとルースチェンジバージョンは少々おとなし過ぎだとも思います。

結局、とびっきり良い曲はオールナイトマンだけだったかもしれないルースチェンジ。実際、アルバムもこれ1枚きりで消えていきました。場当たり的でその場しのぎなディスコの宿命をいやというほど見せつけた一例ともいえるでしょう。

ところで、最近、巨体の女装ディスコクィーン「ディバイン」の元マネージャーBernard Jayが書いた伝記「Not Simply Divine」を読んだのですが、マイナーレーベルが多く、栄枯盛衰が激しいディスコ音楽業界を表現したこんなくだりが出てきます。

「ディスコで金持ちになった人間は大勢いるけれど、たいていはアーチストではない。経営力も資本力もない小規模レーベルのもとで、既に発売したレコードの売上代金が支払われていようがいまいが、要請されて新しいレコードを矢継ぎ早に出し続けること自体が大きなリスクになるのだ」

マイナーレーベルにもかかわらずディスコのヒット曲を連発しただけではなく、カルト映画の人気俳優でもあったディバインでさえ、80年代後半には人気は低落し、レコードも映画も不発続きになってしまいました。しかも、そんな最中の88年、肥満が原因とみられる心臓疾患により42歳の若さで急死してしまいました。

ともあれ、ルースチェンジもまた、ディスコ界の大物の裏方たちの協力を得て、一瞬の仄かな輝きを放ったアーチストだったとはいえましょう。とにかく代表曲の「All NIght Man」と、先ほど挙げたリンダ・クリフォードの「If My Friends Could See Me Now」、ヴィッキー・スー・ロビンソンの「Night Time Fantasy」(これも「ノクターナ」収録曲)、それにグロリアの「Love Is Just A Heart Beat...」あたりは似ているので、つなげてかけるとよく合います。どれも超アゲアゲのゴキゲンサウンドとなっておりますので、私などはフロアで続けて聴いたらヘトヘトかもしれませんがね。

ルースチェンジのCDは最近、英bbrレーベルからボーナストラック付きで発売されました。このCDのライナーノーツでは、日本語で「小銭」の意味を持つルース・チェンジの由来についてトム・モールトン自身が「誰もが身近に持っていて、しかも手に取りやすいようなものをイメージしてアーチスト名を考えた」と説明しています。「ノクターナ」の上記2曲については、これまた豪華絢爛ディスコCDシリーズ「Disco Discharge」の中の「Disco Fever USA」の巻に収録されていて貴重です。

いやあ、今宵は仕事でちょいと疲れ気味でテンションが下がり気味(トホホ)。次回はぜひ、再びディスコハイテンションな投稿を!と今から体調を整えておくことにします(例によっていつになるかはお楽しみ)。

NocturnaOSTLP
プロフィール

mrkick (Mr. Kick)

「ディスコのことならディスコ堂」----本名・菊地正憲。何かと誤解されるディスコを擁護し、「実は解放と融合の象徴だった」と小さく訴える孤高のディスコ研究家。1965年北海道生まれのバブル世代。本業は雑誌、論壇誌、経済誌などに執筆する元新聞記者のジャーナリスト/ライター/翻訳家。もはや踊る機会はなくなったが、CD&レコードの収集だけは37年前から地味〜に続行中。アドレスは↓
mrkick2000@gmail.com

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*最近多忙のため、曲名質問には基本的にお答えできません。悪しからずご了承ください。
*「ディスコ堂」の記事等の著作権はすべて作者mrkick(菊地正憲)に帰属します。

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