ディスコ堂 by mrkick

音楽に貴賎なし ―Discoの考察とCD批評

特別番外編

5メートル四方のアナキズム ――ディスコDJ「ハマちゃん」の追想

ハマさん2七色のカクテル光線が飛び交うディスコのフロア。大音響の洪水が巨大なスピーカーから流れ出し、振動が内臓の奥深くを揺さぶるかのようだ。天空から見下ろすのは、ありがたきミラーボールの御神体。ふと足元を見やると、ドライアイスのスモークがふわふわと忍び寄ってきた。ここは桃源郷か、はたまた闇の魔界への入り口か……。と、そこに、耳元で囁くような滑らかなアナウンスがどこからか流れてきた。

「夜のにおいが大好き 大人の香りがするから ゼノンのあるマチが大好き あなたがそこでDJをしているから ……さあ、次にお届けするのは、そんなロマンチックなあなたにぴったりな哀愁ハイエナジーのこの曲です……」

曲の合間に曲紹介の「しゃべり(トーク)」を入れたDJスタイルは、いまのクラブにはない、ディスコならではの演出だった。現在よりもはるかに若者の心を捉えていたラジオのディスクジョッキー(DJ)のスタイルを踏襲したものともいえる。フロアを埋め尽くした客はみな、前口上とともに流れてくるヒット曲の数々に酔いしれ、時が経つのを忘れて闇夜の舞踊に興じたのである。

そんな「しゃべり(トーク)DJ」の代表格として、70-80年代の夜の新宿・歌舞伎町で名をはせたのが「DJハマちゃん」こと浜田直樹さん(51歳、写真上下)だ。冒頭に挙げたのも、ハマちゃんが実際に使っていたアナウンスの一例である。季節はずれの肌寒さを感じさせる4月下旬、ご当地新宿の喫茶店で会ったハマちゃんは、このアナウンスにまつわるこんなエピソードを私に明かしてくれた。

「実は、この言葉は、ファンからもらった手紙に書いてあったんです。ある女の子が、『ハマちゃん、これ食べてね』って差し入れの弁当を持ってきたのですが、一緒に入っていた手紙に自作の詩が添えられていたんですよ。まあ、あのころのDJはモテましたから……1日に5個ぐらい差し入れの弁当をもらって、スタッフに分けていたほどでしたからね」

普通の状態で聞けば照れくさいほどのいわば“歯の浮くような”詩ではある。が、心の壁を取り払う解放空間のディスコであればこそ、高揚した者たちの胸に素直に響くのだ。 憧れのDJに思いを伝えるため、懸命に言葉を紡いだこの少女にとっても、日常の生き難さや鬱憤から逃れるための、数少ない癒しの場だったに違いない。私自身も当時、その中に身を置いていた一人として、よく理解できる。それがたとえ虚しい「つかの間の夢」であり、大人たちからは禁じられた「火遊びの場」だったとしても、彼ら、彼女らにとっては、祝祭の熱狂に身を委ねる理由が確かにあった。

ハマちゃんは中学時代にディスコ音楽と出会った。高校時代には客として通いつめ、大学時代の1978年にプロDJとして働き始めた。空前の大ヒット映画「サタデー・ナイトフィーバー」が火付け役となり、世界中でディスコ音楽が鳴り響いていたころだ。赤坂、六本木、渋谷、新宿……。東京のディスコの“主戦場”で、先輩DJにしごかれながら腕を磨き、1982年6月に新宿・歌舞伎町にあった大規模店「ゼノン」にDJとして入り、間もなく数人の後輩を抱えるチーフDJとなった。

「僕がDJになったころはブームがピークでしたから、フロアが連日満杯でした。従来の黒人ソウル系に加えて、ビージーズやキッスのような白人ミュージシャンもブームに乗っかり、ディスコの曲を次々と出すようになっていました。でも、80年代初頭までは、やはりアース・ウィンド・アンド・ファイアー、ピーチェス・アンド・ハーブ、エドウィンスター、リック・ジェームス、それに『ヤングマン』のビレッジ・ピープルなど、黒人ミュージシャンの曲をかけることが多かった。ジョージ・ベンソンのようなサーファーが好む曲も流行っていましたね」

だが、ゼノンに入ったのは、折りしも歌舞伎町が強烈な“逆風”に晒されていた時期だった。1982年6月、中学生の少女がディスコの帰りに何者かに殺害されたいわゆる「新宿ディスコ殺人事件」(1997年時効成立)が発生した。深夜営業の禁止、未成年者の入店規制などの取締りが強化され、新宿ディスコの灯火は消えたかのように思えた。ところが……。

「深夜営業はなくなりましたが、客の入りは相変わらずよかったんですよ。事件の悪夢を凌ぐほど、“踊り場”ディスコの人気はなお高かったということです。週末は超満員で、1日2千人から3千人は入っていましたからね。ディスコ音楽についても、ちょうど新しい風が吹き込んできた時期だったんです。大スターになったデュラン・デュランなどのイギリスのニューウェーブもそうです」

けれども、一番“潮目が変わった”と感じたのは、81年に発売され、徐々に世界中のディスコで定着し、日本でも後にロングランヒットとなっていった「君の瞳に恋してる」の登場だった。いわずと知れたこのボーイズ・タウン・ギャングの名曲がフロアで大ウケしたこの時期、ハマちゃんは先輩から教わった「しゃべり型」DJにも磨きをかけた。

「六本木は『曲のつなぎ方』、新宿は『しゃべり』で客をひきつける文化があったように思います。とにかく『エー』というつなぎ言葉を入れないでよどみなくしゃべる。ここに一番、注意を払っていました。たとえば、30分間普通に曲をつないで、『一押し』の1曲をしゃべりで紹介して、その後は少しゆっくりした曲でトーンダウンさせて……といった具合にプレイしていって、とにかく客を飽きさせないように工夫していましたね」

当時の曲は、後のハウスやテクノといったビート重視かつ単調な曲調と違って、Aメロ、Bメロ、そしてコーラスと、曲全体の抑揚やメロディーラインがはっきりしていた。それだけに、ボーカルが入るまでのイントロの段階で雰囲気を盛り上げる「しゃべり」は、抜群の効果を発揮した。とりわけ、「君の瞳」に代表されるハイエナジー、さらにその発展形としてのユーロビートは、「哀愁ディスコ」ともいわれるほどドラマチックに展開するのが特徴だったから、なおさら劇場効果を呼び起こすことができた。

80年代後半に入ると、円高や低金利を背景にバブル経済に突入し、いよいよ「バブルディスコ」の絶頂期となる。もちろんDJハマちゃんもエンジン全開である。このころにはゼノンのほか、六本木にあった有名店「リージェンシー」などでもチーフDJとしてプレイするようになった。流行の最先端の遊び場で、毎日何十枚ものレコードに針を落としていく中で、ディスコの国内盤を発売する音楽レーベルのスタッフとのパイプも太くなっていった。

「何しろ毎月、300枚以上ものレコードが店に届いていましたからね。その多くは、レコード会社のプロモーターから『この曲をかけてほしい』と届けてきたレコードです。ほかに1店あたり毎月約8万円分、近くの輸入盤店で買い付けていました」

国内の最新ヒットの動向を左右するほどの音楽発信源として、ディスコのDJが相当な影響力を持っていたことがよくわかる。実際、ハマちゃんは当時、「ギブ・ミー・アップ」で知られるマイケル・フォーチュナティーやジェリービーンなど、数十枚のディスコヒットの7インチシングルやLPレコードのライナーノーツも書いている。 バブル時代の光景といえば「お立ち台、ワンレン、ボディコン」が連想されるほど、ディスコとバブルは密接不可分な関係だった。いわば老若男女、日本人も外国人もともに踊り狂う「5メートル四方のアナキズム」を実現したフロアとは、浮かれ気分の若者にとっては最高の舞台でもあったのだ。

けれども、だからこそ、ディスコにはいつも光と闇が交差した。酒、暴力、男女の歪んだ出会い、ドラッグ……。究極の「自由空間」は、同時に異常なまでの「放蕩空間」と紙一重だったから、古来からの祭りがそうであるように、いつだって狂気を孕んでいた。もちろん、DJたちにとっても誘惑は多かった。

「中には女や酒に溺れて身を持ち崩すDJ仲間がいたことも確かです。私はお酒は飲めず、性格も真面目な方だったので、ほとんど遊びはやりませんでした。とにかくDJをやること自体が好きでしょうがなかったから、いつも『明日はこの曲を中心にかけよう』とか、そんなことばかり考えていました。その分、店のオーナーからは信頼されていたとは思いますがね」 と笑顔を見せるハマちゃんだが、それでも、いかにも「ザ・歌舞伎町」な恐ろしい体験もしたそうだ。

「80年代半ばごろ、歌舞伎町の喫茶店に入ろうとしたら、少し派手な格好をしていたからでしょうか、若いチンピラに『チャラチャラしてんじゃねえよ。何だおめえは』って凄まれました。『ディスコのDJやってます』と答えたら、いきなり態度がかわっちゃって、ひるんだ表情を見せたんです。地元の店のDJと問題を起こしちゃまずいと思ったんでしょうね」

すかさず、傍らにいた“兄貴分”らしい男が「おわびをさせてほしい」と丁寧に謝ってきた。近くの高級焼肉店に招待したいという。ここで断るとまた面倒なことになると思い、黙ってついていった。

「そうしたら店に入って席に着くなり、その男が、料理の名前が並んだメニューの右上から左下の隅まで指ですーっとなぞって、『これ全部くれ』って店員に注文したんですよ」 。 テーブルに届けられた大量の肉と野菜。「こりゃ食いきれない」と大いにひるんだものの、必死になって箸を運び、なんとか平らげることができた。……だが、これで終わりではなかった。帰り際、「DJさん、タクシー代です」とお金を渡された。その額がなんと10万円だったという。

「2、3千円で到着できるような場所に住んでいたから、これまた『困ったな』と思いました。でも、とりあえず受け取ったんです。そう、ここで断わってはいけないんです。渡世人の彼らのプライドを傷つけることになるので、かえってまずいんですね」

彼らの本当の意図はうかがい知れないにしても、一般の人間からすれば馬鹿馬鹿しいほどの見栄の張りようだ。けれども、こんな滑稽な出来事が実際に起きるのも、虚実がないまぜになった日本一の歓楽街「歌舞伎町」であるが故なのだろう。地元で巨額の金を稼いでいた人気店のDJとは当時、それほど一目置かれていた存在だった、ともいえるのだ。

しかし、酔狂の宴は永遠には続かなかった。90年代初頭、バブル経済が崩壊するとともにディスコも衰退し、間もなくうたかたのように消えていった。ハマちゃんも90年代の後半以降は、レコード会社で制作者として勤務するなど、別の道を歩んでいった。ほかのディスコDJたちの多くも、クラブの台頭とともに一線を退いていった。

なにしろ「バブル=泡」なのだ。鎌倉時代の随筆家、鴨長明が無常観を綴った「方丈記」の冒頭にも「川の水面に浮かぶうたかた(泡)は、消えては生まれ、生まれては消え、とどまるところがない……」とある。投機に浮かれた不動産業者も株のブローカーも、そして好景気を歓迎した普通の人々も、こぞって“幻”に踊らされていたのだから、ディスコだけをあげつらってもしかたあるまい。

それでもハマちゃんは、ディスコ世代のDJとしての情熱が冷めたわけではなかった。今だって、本業のレコード・CD販売業の傍ら、都内のダンスクラシックやディスコのイベントに呼ばれ、熟成した「しゃべりDJ」を披露することも少なくない。こつこつと集めたレコード、CDも今なお計1万枚以上、所有しているという。

ディスコってなんだったんだろう――。残り少なくなったコーヒーを口にしながら、ハマちゃんはあの時代を振り返ってこう話した。

「みんなにとっての自己表現の場、だったのかな。ファッションだったり、ダンスだったりと、方法は様々だけれど、とにかくいろんな人が集まる流行の空間で、自分たちの存在をアピールする格好の場だったのだと思います。ディスコはあくまでも踊る客が主役ですからね。DJはそれに応えながら『こんな曲があるよ』と即興で紹介していく。『コール・アンド・レスポンス』(呼びかけと反応)の世界なんです。あれだけ世代を超えて人々を引き寄せた遊び場は、ディスコ以外にはないでしょう」

娯楽や趣味、そして社会そのものがますます個別化し、多様化、断片化している今、もう二度と同じような共有空間は立ち現れないかもしれない。けれども、ディスコは死んではいない。踊り場が「クラブ」と名を変えて生きながらえているように、音楽に身をゆだねて体を動かす人々の欲求は、これからも変わることはないからだ。クラブのルーツとして、さらには唯一、世界を同時に熱狂させたダンス音楽として、ディスコはいつまでも記憶されるはずだ。

だからこそ私自身、「楽し過ぎた」あの時代を生きた客の一人として、単なるノスタルジーではなく、リアルに幻影を追い続けられているのかもしれない。あのときの名DJが、なお現役で活躍している事実こそが、それを証明してくれるのである。
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ディスコ、ドラッグ、サイバー・ノリP (Disco, Drugs, Cyber Nori-P )

Studio 54「サイバー・ノリPがバキバキ、キメキメDJプレイ!」ってな字幕や見出しが踊っています。テレビのニュースやワイドショーでは、薬物犯罪容疑者となった“ノリノリのりピー”の熱狂DJぶりを映し出すVTRが定番になってしまいました。起訴、不起訴、公判、判決、芸能界復帰…などなど、呼称が「容疑者」から「被告」に変わろうと変わるまいと、これからも節目をにらみながらのネガティブな酒井法子報道は続いていくことでしょう。

あの映像で流れているのは、「サイバー(電脳)」というぐらいですからまさに「恍惚」トランス系音楽でして、1980年代までのディスコをルーツとする今風のクラブを彷彿させるものであります。あの映像からは判断しかねますが、もしそんな超ノリノリ・ハイパー音楽にドラッグが乗っかっていたとすれば、もう怖いものなしの強烈な超越感が訪れることになります。

そういえば彼女は、サーファーでもあったわけで。その昔、死神のように襲ってくる大波の恐怖を「のり越える」ため、世界の若者サーファーがこぞってドラッグに手を出した経緯も思い出します。

でも、犯罪は犯罪。一線をホントに「越えて」しまったらバッキバキにアウト!です。ディスコ的な放蕩主義とフリーセックスの一つの結果として80年代に広がり始めたエイズ禍や、バブル絶頂期の日本のディスコブームに冷水を浴びせかけた1988年の「六本木トゥーリア死傷事故」同様にしゃれになりません。人間、ハメを外すのも楽しいひと時ですけど、世の中にはやはり常識があり、物事にはどうしても限度があるのです。

このブログで何度か触れたように、私の好きな戦前のアナキスト大杉栄の言葉「勝手に踊って、ひとりでに調和する」(「新秩序の創造」)状態、さらには鎌倉仏教の“元祖DJ”一遍上人の「衆生往生を願う踊念仏で神々と戯れる」状態こそが、理想的アナキズムを体現した「解放と融合の象徴」であるディスコ(クラブ)の真骨頂です。境界の見極めは非常に難しいとはいえ、実際に事件・事故というおかしな不調和が起きてしまったらどうでしょう。一気に祝祭の集団熱狂も冷めてしまい、しらけてしまうだけですね。2001年の明石の花火大会事故は一例ですし、過激化した数年前の浅草・三社祭とか青森・ねぶた祭も危ういところでした。

……とは言っても、従来やはり踊り場とドラッグが隣り合わせだったことは確かでした。刹那的快楽の負の側面があった事実は否めません。ニューヨークに実在した有名ディスコ「54」(上写真)を題材にした映画「54(フィフティーフォー)」に描かれているように、70年代半ばからのディスコブーム期には、とりわけアメリカで、マフィア絡みのドラッグ使用・売買の現場としてディスコが定着していました。

なんと一部の英和辞典にも載っている「プラトンの隠れ家」(Plato's Retreat。同名の名曲ディスコも存在。過去投稿参考)は当時、ニューヨークにある会員制ディスコ兼ドラッグ&セックスクラブとして有名でした。

このころに頻繁に使われたドラッグを意味する英語スラングには、DISCOの文字を使ったものがいくつもありました。中に「Disco Biscuit(ディスコ・ビスケット)」というのがあり、これは実は、のりピーと同時期に薬物犯罪容疑で逮捕された押尾学が使用したとされる「MDMA(合成麻薬)」を意味します。それに実際、ちょっと前に紹介した「ALL Night Thing」もそうだといわれていますが、ドラッグの陶酔感を歌詞と音で表現したディスコ曲自体が数多く存在したのです。

アメリカでは60年代半ばから差別撤廃運動が起こり、ベトナム戦争の長期化や超保守のニクソン大統領のウォーターゲートスキャンダル(1972年)などへの若者の反動として、ドラッグや反体制運動を含めたヒッピームーブメントが拡大していました。そんな自由崇拝の風潮の流れを受けて、いわば「ポストヒッピー!」の行く先として「ディスコ」があったわけです。

私がディスコに行き始めた80年前後の日本では、東京など大都会を除けば、まだドラッグ問題は「やくざマター」の範疇でした。私がいた札幌のディスコの周辺には、酒やタバコやケンカやシンナーといった「不良の真似事」をする連中はいましたが、さすがにドラッグの話はあまり聞きませんでした。

ただし、シンナーについては、けっこう常習者がいましたね。自身の体験でいえば、20歳ぐらいのころ、あるディスコの大会で年齢を詐称して「ディスコクイーン」(トホホ)になった16歳の無職少女と知り合ったことがあるのですけど、車に乗せてドライブ中、「アンパンやるわ」なんて言いながらいきなりビニール袋をバッグから取り出し、あどけない顔でシンナーを吸引し始めたときにはドン引きでした。

……でもまあ、そんな感じで、覚せい剤や麻薬や大麻については、ほぼ「超やばいヤクザ」の世界の話だったのに、次第に普通の人々の間に蔓延していったようで恐ろしい限りです。近年はディスコブーム期のアメリカと同じように、日本のクラブを始めとする盛り場周辺にも、ドラッグの影がちらつくようになってしまったのです。

再び私自身の経験を話せば、北海道で新聞記者をやっていた10年ほど前、地方都市の繁華街にある馴染みの普通のバーで、美しい女性客(クラバーでもあった)の一人が、いきなり気軽に「ガンジャ(大麻)やりませんか?」と、タバコのようなものを差し出してきて、腰を抜かしたことがありました。唯一、私の素性を知っていた若い店長は真っ青でした。わざわざ通報するようなことはしませんでしたが、やはりこうした常習者がよく出入りしていたようです。その数カ月後、地元警察がその店長ら数人を大麻取締法違反容疑で逮捕。たまたま警察担当記者だった私は、沈痛な面持ちで、顔見知りの店長の逮捕記事を書くことになったのでした。

もともと、北海道は大麻の自生地としてもよく知られています。フライフィッシングも趣味だった私は、休日に渓流でイワナやヤマメを追っかけている最中、何度も大麻と思われる植物を目にしたものです。保健所や自治体が懸命に刈り取るのですが、採集しに来る悪い輩も少なくなく、事実、「○○山付近に自生する大麻を吸引した疑いで逮捕」という記事も書いたことがあります。

世にますますはびこる大麻に薬物――。けれども、ディスコ/クラブという空間もディスコ/クラブ音楽も、それにサーフィンだって、決してそれ自体が悪いわけではありません。ディスコは「踊って楽しむ場所と音楽」という意味では、逆に、健全に精紳を高揚させて神々と交信(!)できる奇跡的な存在だったに違いないのです。

偶然にも本日8月15日は、日本にとって64回目の終戦記念日であるとともに、戦勝国アメリカにとっては1969年にニューヨーク州で開かれた空前絶後のロック祭「ウッドストック」の40周年記念日でもあります。このヒッピー期を象徴する若者の熱狂の宴では、ドラッグ中毒だったといわれるジャニス・ジョプリンやジミ・ヘンドリックスらが、“教祖様”よろしく降臨して「サイケデリック(幻覚的)ロック」を崇高に歌い奏で、同じようにドラッグ経験者も多かった大勢の聴衆の精神を高揚させたはずです。

そう、ディスコもロックも、サイケなレゲエもヒップホップも、それに「コカイン」を歌ったエリック・クラプトンも、だからといって悪者ではないことは明らかです。ドラッグ漬けのジャニスもジミヘンも、早過ぎる死をもって破滅的にケリをつけた感がある特別な天才ですし、そもそも彼らの生んだ音楽は、「ドラッグ中毒者」とは切り離して考えるべき「芸術作品」です。

何しろドラッグは、南米先住民の風習や「アヘン戦争」の例を持ち出すまでもなく、古今東西、人類の身近にあったわけですから、音楽だけをあげつらっても仕方がありません。「サイバー・ノリP」のキメキメ映像をみて、「いやあトランスってドラッグ音楽なんだね」などと安易に決め付けるのは禁物であります。要はディスコやクラブに行く人、サーフィンする人などそれぞれの個人的資質の問題です。

精紳的な生物である人間は、どうしても超越願望を抱いてしまいがちですが、違法行為にのめりこんでは絶対にしゃれになりませんから、あくまでも順法精紳で困難やストレスを「乗り越えたい」ものです。ディスコやクラブやパーティーや祭で、ほどほどに酒を飲んで踊る程度で陶酔感を得る方がずっと平和ですね……と断言しておきましょう。

というわけで、最後に、ドラッグをモチーフにしたことで知られる“作品としてのドラッグ系ディスコ”を5曲ほどYouTubeから紹介しておきましょう。1曲目は、ジョルジオ・モロダーが音楽を担当した映画「スカー・フェイス」の挿入歌でして、私にとっても懐かしい限り。2曲目は70年代らしいシブーい幻覚系ソウルディスコ。3曲目もきわどい歌詞ですが、“検閲”に触れぬよう見事にかわしています。4曲目は大ヒットした70年代ディスコの名曲。人種差別への皮肉や家族の転落劇を題材にした非常に奥深い内容の歌詞ですが、後に物議を醸し、ラジオ向けに「薬物」や「大麻」と歌う部分が削除・変更されてしまったといういわくつきの曲です。5曲目は以前にも紹介したレイド・バックで、異色の北欧発ニューウェーブ系となっております。

1. Rush Rush (Debbie Harry)
*1983年。「yayo(ヘロイン)」という隠語が随所に出てくる。



2. Smokin Cheeba Cheeba (Harlem Underground Band)
*76年。Cheebaとはマリファナのこと。そのまんまのタイトル。千葉県ではない。



3. Mary Jane (Rick James)
*78年。Mary Janeとは女性名のようだがマリファナを指す。「メリージェーン愛してる!」と連呼。



4. There But For The Grace Of God Go I (Machine)
*79年。歌詞中、非行に走った自分の娘が「クスリと葉っぱにハマった (Popping Pills And Smoking Weed)」と歌う部分が、「太った上に(夜遊びで)睡眠不足に陥った (Gaining Weight And Losing Sleep)」と変更になった。



5. White Horse (Wonderland Avenue)
*2005年。Laid Backが1983年にヒットさせた同名曲のリメイク。タイトル自体がコカイン、ヘロインの隠語。クラブでもカルト的人気。

番外編―Moby Dick Records

Moby Dick Gift-2前々回に番外編をやったと思ったら、その後事態が急展開。件のMr.モビーディックからなんと“ギフト”が贈られてきたので、特別番組として紹介しておきます。

小包の内容は、私がメールで「好き!」と言っていたものばかりでした。催促したわけではないのですが……突然のことでなんだか恐縮もしております。

送られてきたのは、モビーディックのプロモ盤や初回プレス盤を中心とするレコード11枚と、CD2枚。すべてサインと解説(思い出など)入りなのが、私にとっては最高の宝なんですねぇ。

LP・12インチは、初回プレスの「An American Dream Medley」(Hot Posse)、「Disc Charge」(Boys Town Gang)、「Dance On The Groove」(Love International)、「Got You Where I Want You Babe」(Stereo Fun Inc.)などです。

レコード会社が最初に音溝の「ひな型」を作るために制作する「テスト盤」についても、「Love Pains」(Yvonne Elliman)、「Hot Leather」(The Passengers)の12インチ2枚が送られてきました。送り主いわく、「私たち幹部がマスター作りのために最終的に承認した盤なので、音質は最高によい」とのこと。飛び切り貴重なものなので、これも嬉しい限りでございます。

CDは、私の大好きなMargaret Reynoldsのアルバム。驚くことに、彼自身の手でオリジナルを作ってくれました。ヒット曲「Keep On Holding On」など8曲が収録されています。ジャケットも、曲リストが記載された裏表紙もオリジナル!「テスト盤などを基に2枚作ったが音質が微妙に違う。どちらも送っておくよ」とのことで、同じものが2枚送られてきました。

いやあ、ささやかながら「日米ディスコ交流」しております。こっちも何か送らないとなあ(プレッシャー)。その前に、今回の送料ぐらいは払っておかないと。

先方にちょっとリクエストを聞いてみたら「日本刀がいいねえ……いや冗談、冗談(笑)」とのことでした。とにかくゲイの人々は、美しいものを好みますからねえ。う〜ん、思案投げ首であります。

次回から再び平常投稿。番外編は何か変化があればお伝えいたします。Moby Dick Gift-1

ちなみに、彼が関わったモビーディックのHPの全貌が少しずつ明らかになってきましたので、紹介しておきます。英語ですが、写真だけでも楽しめま〜す。これからどんどん「発展」していくそうですのでお楽しみに。

【右写真】 到着したレコードたちを前に、満足げな表情のディスコ犬ちゃっぴ〜

番外編―Moby Dick Records

Moby Dick以前お話したMoby Dickの関係者とはその後も断続的に「文通」が続いてまして、近況や思い出話、それにいろんな写真や音源をメールで送ってきています。まあ、もともとモビーディックは好きなレーベルだったので、大概は既にレコードやCDを所有しているのですが、得がたい体験をさせてもらってます。

モビーディックの看板は何と言っても「君の瞳に恋してる」(82年)のボーイズタウン・ギャング(BTG)でした。彼にとっても、このグループは特別の存在だったようです。

先日のメールでは、こんな思い出を語っていました。

「当時、私にとっての最高のディスコは『ザ・セイント(The Saint)』(注:米ニューヨークの巨大ディスコ。写真下右)だった。豪華な照明装置付きの宇宙空間のようなインテリアで、天井が高くてスペースも広く、ホントに星空の下で踊っているようだった。ミュージシャンのプロモーションなんかで訪れたときは、夜10時から朝10時まで踊っていたものだ。

そんなセイントで、ボーイズタウン・ギャングの新曲『君の瞳に恋してる』とその曲が入った新譜『ディスク・チャージ』の最初のお披露目をしてもらったんだ。モビーディックを高く評価していた、ロイ・トードという人気DJがアレンジしてくれた。彼はこの曲をかけて紹介してくれた後、なんと2時間も『モビーディック特集』をやってくれた。お客もノリノリだった。あのときの感激は忘れられない」

米国のディスコ解説書「Saturday Night Forever」などによると、セイントは、80年代前半の有名なゲイ系ディスコ。Orgy(いかがわしい乱痴気騒ぎ)もアリの、かなりアヤシイ“別室”もあったそうです。ただ、レコード会社にとっては、人気ディスコでレコードをかけてもらうことは、セールスにつながる大事なチャンスでした。特にBTGのようなハイエナジーの曲であれば、米国内最高級のゲイ系ディスコで人気が出れば、ヒットチャート入りに限りなく近づく、というわけです。

さらに、別のメールでは、こんな話もしていました。

「『君の瞳…』が収録された『ディスクチャージ』の評判は上々で、すぐ『スタジオ54』でも紹介してもらえることになった。今度はグループそのものを出演させて、『君の瞳…』を歌わせたんだ。客の反応は上々だった。終わった後、すぐ別のプロモーション用のステージに立つ予定があったので、彼らは飛行機でニューヨークを出発し、アトランタに向かったんだ。

ところが翌日、スタジオ54の幹部から私に突然電話がかかってきて、『店の会議の結果、全員一致でもう一度ボーイズタウン・ギャングを出演させることが決まった。あまりにも客の受けがよくてねえ。うちのライブショーとしては、これまでにないほどの最高の反響だった。客から『また観たい』ってリクエストが続々と来てるんだよ。今夜は特に有名人が集まる。費用は全部こっちで持つから、ぜひ主役として出演してほしい』っていうんだ。

あのスタジオ54からのたっての申し出だから、こちらとしても願ってもないことだ。しかも『主役』の特別ステージ(command performance)だという。でも、『今夜』というのは困った。メンバーはもうアトランタに向けて出発してしまっている。引き返して夜中のショーに出るにしても、サウンドチェックを含めてあと少なくとも7時間はかかる。私はスタジオ54の幹部に『スケジュール的にはほとんど無理だが、後は彼らの意志に任せる』と言って、電話を切った。

メンバーに連絡を取ると、『どうしても出たい』と言った。私は慌ててスケジュールを組み直して、なんとか夜中のステージに間に合わせた。……その夜、ボーイズタウン・ギャングは、スタジオ54で異例の連日出演を果たした。夢のようだった。ステージの周りは、超満員のお客で埋め尽くされていたよ」

う〜ん。あのスタジオ54でも人気が出たんですな。アメリカではもうディスコは下火になっていたころですが、それでも私などにとっては、大変にわくわくするエピソードでした。

前回の「番外編」投稿で触れたように、このモビーディック元関係者は、非常に深刻な過去を背負っています。でも、同時に、自分たちが築いた会社をものすごく誇りにも思っている。メールのやり取りをする中で、それがよく伝わってくるのです。

この人、当然ながらゲイなのですけど、24年間続いているパートナーがいます。モビーディック時代にディスコで知り合ったそうです。サンフランシスコでは指折りのシェフだそうで、9年前に日本の高級ホテルから、かなりの高給で誘いもあったそうです(“パートナー”との別離や、日本語が話せないことが心配で断念したそうですが)。

この幹部自身は、今は音楽業界にはおらず、特許ビジネスなどの複数の仕事をしています。相当に多忙なようで、メールが突然、何週間も来なくなることがあります。

「まず私の過去を知ってもらって、あとは楽しく話をしよう」と言っていたとおり、最近はずいぶんと明るい感じで情報交換をしています。根はけっこう駄洒落とかが好きな面白い人だということが、明らかになってきました。昔から日本史や日本刀芸術に特別な興味があるそうで、「最近の一番のお気に入りの映画はラスト・サムライだ」と言ってました。

まあ、「何で私なんかにそこまで気を許すの?」という思いもありますが、日本にレトロなモビーディックファンが存在していたことが、よほど嬉しかったのでしょうか。下手くそですが、「英語を覚えておいてよかったな」とも感じております。

というわけで、写真上は、モビーディック盤の数少ないCDの一つ「ザ・ベスト・オブ・モビー・ディック・レコーズ」。ホット・プロダクションズという米フロリダのディスコ再発レーベルからの発売ですが、音質が今ひとつな上、12インチバージョンの最後の方がことごとくフェードアウトされております。

残念ですけど、BTGやLisa以外のマイナーどころのアーチストの曲がCDで聴きたければ、今のところこれ位しかありません。LoverdeとかStereo Fun Inc.といったほかのCDでは聴けないアーチストが多く入っていて、選曲はかなりよいと思います。

ちなみに、件の元関係者によると、「ボーイズタウン・ギャング」の名は、かつてロサンゼルスのハリウッド付近にあったゲイ居住地区の通称「ボーイズタウン」に由来するのだそうです。「これって意外に聞かれたことがないんだ。お前にだけ教えてあげるよ」なんて言ってましたが、確かに私は知りませんでした。

下のイメージはいずれもその元関係者が送ってくれたものです(右写真はクリックで拡大)。

セイントモビーディックロゴ

番外編―Moby Dick Records

番外編―Moby Dick Recordsちょうど100回目の投稿です。今回は予定を変更して(予定などないが)、最近のちょっとしたエピソードについて、少し真面目に語りたいと思います。

私はときどき、海外のディスコサイトなどにレコードやCDの批評を英語で投稿して暇つぶしをするのですが、先日、そうしたサイトの閲覧者から突然、一通のメールが届きました。要旨は以下の通りです。

「あなたの批評(レビュー)を読んでメールしてみました。実は私は、80年代にディスコレーベルの幹部だった者です。よかったら少しお話をしませんか」

そのレーベルとは、Moby Dick(モビー・ディック)。以前にもこのブログで紹介したことがありますが、あの「君の瞳に恋してる」のボーイズ・タウン・ギャング(B.T.G.=写真=)や「ロケット・トゥ・ユア・ハート」のリサといった売れっ子ハイエナジー・ミュージシャンを生んだ米サンフランシスコのレーベルです。

もちろん、私は「本当かなあ?」と半信半疑でしたが、何度かメールをやり取りするうちに、情報が非常に具体的な点などから、本物の関係者だと確信するようになりました。こちらがプライバシーに関わることを教えると、先方も「当事者しか知りえないような事実」を伝えてきます。名前は伏せますが、先方の米国人男性は、私に信頼を寄せるようになっていました。

そしてある日、本人の近影写真や十字架の写真などとともに、こんなメールが届いたのです。

「あなたは知っているかも知れませんが、モビー・ディックは1981年、ディスコを愛するゲイ仲間で立ち上げたレコード会社でした。数々のヒット曲に恵まれ、米タイム誌のようなメジャー雑誌にも紹介された。でも、たった4年間しか続きませんでした。エイズが原因です。20人近くいた私たちの仲間のうち、私と別の何人かを残してすべて、エイズで亡くなってしまったのです。その中にはボーイズ・タウン・ギャングのトミー(Tom Morleyのこと)、それにパトリック・カウリーもいました」

さらに、メールは続きます。

「…エイズは、当時はまだ未知の病気で偏見も強く、私たちはとてもつらい時期を迎えました。モビー・ディックはその短い歴史を閉じるしかありませんでした。私たちはよく、毎週土曜日にディスコに行くことを(合言葉として)『教会に行こう!』などとはしゃいで言い合っていましたが、結末として、『2つ目の教会』がすぐ近くに待ちうけているとは、まったく予想もしていませんでした。あなたのレビューを読んでいて『モビー・ディックのファンがまだいる。しかも遠い日本に』と感激して、打ち明けようと思ったのです」

私はその「悔恨の告白」に仰天し、言葉を失いました。と同時に、考えさせられました。日本では、ディスコとゲイとエイズは直接、結びつけて考えられることはほとんどありえません。でも、米国では、この3つは事実として、密接に関わりあっていたのです。

それでも、私にとっては、ディスコは楽しい思い出でしかなく、今だって趣味なわけです。そのことを率直に伝えると、先方は「最高に良い思い出だったというのは、私にとっても同じです。ただ、なくした仲間の記憶をずっととどめておきたいのです」と言ってきました。私は、その誠実さに何だか胸を打たれました。

その後もメールを繰り返しやり取りして、互いに当時のディスコ事情やディスコ体験を教え合っていくうちに、――先方がゲイで私がストレートという「壁」のようなものはあるにせよ――、さらに打ち解けてきました。その男性は、当時のモビー・ディックのいろんな貴重な写真(上掲写真を含む)や音源を送ってくるようにもなりました。彼が十字架のように背負っているエイズ禍のことを思うと複雑ですが、今では私にとって貴重なメール友達になっています。お礼にこちらからも何か送ってあげようと思案中です。

それにしても、不思議なことがあるものです。極端な快楽主義、刹那主義を特徴とするディスコの持つ光と影、栄光と挫折について、改めて思いをはせています。
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