ディスコ堂 by mrkick

音楽に貴賎なし ―Discoの考察とCD批評

Disco

マーヴィン・ゲイ (Marvin Gaye)

Marvin Gaye今回は、前回のメロウついでに、今はなきソウル界最大級の功労者マーヴィン・ゲイさんと参りましょう!

マーヴィンさんといえば、「ソウル音楽の殿堂」モータウン・レコードの主力シンガーとして1960年代から活躍し、1971年発売のアルバム「What's Going On」(写真)は、今も70年代の新時代を告げる歴史的名盤として語り継がれています。まあ、ディスコなどでは括り切れない人物であることは確かですが、このアルバムのとき既にディスコ化の兆しもみてとれます。

というのも、69年発売の「M. P. G.」までは、「ズンチャ、ズンチャ」と明瞭に刻むドライなドラムビートをひとつの特徴とする典型的な60年代のモータウン・サウンドでした。でも、このアルバムからさわやかストリングスやパーカッションを取り入れるなどして、まるでフィリーサウンドのような軽やかなダンスビートを展開し始めるのです。天下無双の3オクターブの美声を誇るソウルの帝王たる彼自身は、ディスコブームそのものに違和感を抱いていたのですけど、「歌は世につれ」です。

マービンさんは1939年、ワシントンDCの敬虔なクリスチャンの家に生まれました。なにしろ父マービン・ゲイ・シニアはキリスト教系の聖職者。でも、幼少期にその父親からひどい虐待を受け、毎日のように暴行を受けていたといいます。それが、後の彼の人生観や音楽性にも大きな影響を与えました。

まずはお約束、地元の教会で歌ったり、ピアノやドラムを演奏したり、日々の苦悩を晴らすかのように音楽に打ち込みました。デトロイトのクラブなどで歌っているうち、60年ごろにモータウンの創始者であるベリー・ゴーディに見出されてデビュー。1962年のシングル「Stubborn Kind of Fellow」が最初のヒット(米ビルボードR&Bチャート8位)となり、注目されるようになりました。

この曲は70年代後半、元フィフス・ディメンションのルー・コートニー(Lou Courtney)がボーカルを務めるBuffalo Smokeというグループによってアップテンポな軽快ディスコとしてリメイクされました。イントロ部分がまったくなく突然コーラスが展開するというDJ泣かせな曲ですが、全体的にはなかなか良いアレンジでフロアではまずまずの人気となっています。

さて、ヒットを1曲出して勢いを得たマーヴィンさんは、破竹の勢いでスターダムを駆け上ります。とりわけ60年代半ばから後半にかけては、レーベルメイトであるタミー・テレルとの男女デュオ曲「Ain't No Mountain High Enough」(67年、米R&B3位、米一般総合チャート19位)、「Ain't Nothing Like The Real Thing」(68年、R&B1位、総合8位)、「You're All I Need To Get By」(68年、R&B1位、総合7位)などが大ヒットを記録しました。

この3曲ともに、以前に紹介した「ディスコの隠れた立役者」の夫婦デュオであるアシュフォード&シンプソンが作曲しており、彼ら独特のドラマチックな高揚感のある旋律が、聴く者、踊る者を桃源郷へと誘います。ほかにも、68年には「I Heard It Through The Grapevine」(R&B1位、総合1位)が彼の生涯を通じて最大のヒットになっております。

しかし、すっかり大スターになった70年前後には、自分はバラードを中心とする正統派ソウル歌手だと思っているのに、派手な世間受けするチャートヒットばかりを望むモータウン上層部とは方向性をめぐって何かと対立するようになります。ちょうどこのころ、パートナーとして全幅の信頼を置いていたタミー・テレルが、脳腫瘍により24歳の若さで急逝しており、加えてドラッグの常習や離婚問題も抱え、精神的に追い詰められた状態になってしまいました。

そんな彼が、起死回生の一発として繰り出したのが、「What's Going On」でした。マーヴィン自身がプロデュースし、ドラッグ中毒や戦争、失業、貧困、人種差別、環境破壊といった重〜い社会問題をテーマにしたコンセプトアルバムだったため、モータウン側は「こんな理屈っぽいレコードが売れるのか?」とあまり乗り気ではなかったのですけど、結果的には特大ヒットを記録。結果を出したマーヴィンさんはこれ以降、作曲、プロデュースを含めてより自由に自分の作品を手がけられるようになったのでした。

71年といえば、泥沼化するベトナム戦争の真っ只中。戦争や権力への抵抗を熱く歌い上げる骨太ロックや反戦ソウルが全盛期だった中で、「人がいっぱい泣いて、いっぱい死んでるけど、いったい何が起きてるの?お母さん、お父さん、お兄さん」「戦争は何も解決しないよ」などと極力柔らか〜く訴えるメッセージが、かえって人々の胸に響いたのです。

このアルバムでは、アルバムタイトル曲と「What's Happening Brother」、「Right On」などが、ピアノやストリングス、パーカッションをふんだんに活用したジャズ風の立派なダンス曲になっております。70年代初頭にもかかわらず、近い将来にディスコが担うことになる脱政治なウキウキ時代を予感させる先駆的作品でもあります。

この後、73年には、71年のウィルソン・ピケットの大ヒット曲で、日本でもテレビの人気コント番組「8時だョ!全員集合」(TBS系)で使用されたあげあげダンスチューン「Don't Knock My Love」のカバーも出してヒットさせています(R&B25位)。

さらに、いよいよ到来した本格的なディスコ時代でも、パーカッシブでちょいとサイケな「I Want You」(76年、R&B1位)、彼の曲の中では最大級にファンキーディスコな「Got To Get It Up」(77年、R&B、総合、米ディスコチャートともに1位!)、それに淡々と8ビートで展開しながらも自然と腰がくねくね動き出す「A Funky Space Reincarnation」(78年、R&B23位)、シンセサイザーやラップの要素をとり入れた「Ego Tripping Out」(同17位)などのダンス系のヒットを世に送り出しました。70年前後までの全盛期ほどではないにせよ、繊細な色気たっぷりの美声は健在で、まさに「帝王」の名をほしいままにしております。

それでも、80年代以降は、さすがに失速してきたマーヴィンさん。2度目の離婚や極度のドラッグ依存、うつ疾患、10億円以上ともいわれる巨額の借金、脱税問題のほか、モータウンとの確執もピークに達し、81年に発売したアルバム「In Our Life Time」(下写真)を最後にモータウンを離れました。このアルバムも「アメリカの核戦争による世界の終わり」なんかを歌ったかなりメッセージ性が強くてスピリチュアルな作品でしたが、借金返済の目的もあって相当に世俗ディスコを意識した内容でもありました。「Praise」とか「Love Party」みたいなダンサブルな収録曲が多くて素敵でしたけど、残念ながらセールス的にはいまひとつとなっております。

この翌82年、移籍先のCBSからアルバム「Midnight Love」をリリースし、これが久々の特大ヒットを記録。中でも、日本製リズムマシンの名機TR-808を駆使したシングルカット曲「Sexial Healing」は、R&Bチャート1位、総合チャート3位、ディスコチャート12位まで上昇し、80年代のR&B界を代表する一曲となりました。さすがの天才、ここで人生の再逆転です。…けれどもまた好事魔多し、2年後の84年4月1日、かねてより不仲だった父親と口論の末、なんと銃殺されるという悲劇に見舞われてしまうのです。まだ44歳でした。

ダンスフロアに鳴り響くディスコ音楽では、「ボディー・アンド・ソウル」(身も心も)という心身二元論が歌詞などによく用いられますが、むしろ心身合一こそがディスコの真骨頂。フロアで踊りまくって汗だくになって、「あれ、どっちが体でどっちが心だっけ?」というぐらいに倒錯してこそ、多幸多福な感覚を覚えます。「心が躍る」とはまさにこのことでしょう。ステージ上での貫禄たっぷりのエンターテイナーぶりとは裏腹に、心身が乖離したかのような破滅的な日常を歩んでしまったマーヴィンさんですが、それはもうディスコな生き様そのものだったといえます。

CDはベスト盤はもちろん、アルバムもさすがにほぼ全部が再発できちんと出ています。ディスコ的には、「What's Going On」の次に「In Our Lifetime」、「Hear My Dear」、「I Want You」へと進み、最後に「Midnight Love」で締めくくると、ディスコなマーヴィンさんが少しずつ見えてきます。ほとほと音楽家ってうらやましいですね。蓋し、「身は滅んでも、魂は生き続ける」(やっぱり心身二元論)。

Marvin Gaye_In Our Lifetime

ジョー・サイモン (Joe Simon)

Joe Simonかれこれ13年目を迎え、もはや風前の灯の当ブログではありますが、今回もまた涙をこらえて元気よく、1960年代から70年代にかけてメロメロメロウな風を吹かせまくったソウルバラードの伝道師、ジョー・サイモンさんと参りましょう!

さて、1943年、アメリカ南部ルイジアナ州で生まれたジョーさんですが、他の多くの黒人歌手同様、地元の黒人教会でゴスペルを歌いながら、歌手の道を志します。50年代後半に家族でカリフォルニア州に移住した後、63年に「Let's Do It Over」というバラードを発表。それが米ビルボードR&Bチャート13位に入るヒットとなり、早くも頭角を現しました。

当時まだ20歳そこそこなのに、中年のおじさんみたいな大人っぽい太い声質で、そんなギャップも魅力のひとつでした。ここに彼は、歌声一本で激動のショービジネスを渡り歩く一人前の歌い手の仲間入りを果たしたのです。

その後もR&Bチャートをにぎわす曲を発表し続け、69年には「Choking Wild」がついに同チャートで1位に輝きます(一般総合チャートでも13位)。「Farther On Down The Road」(70年、R&B7位)、「Your Time To Cry」(70年、R&B3位)、「Drowning In The Sea Of Love」(71年、R&B3位、総合11位)、「Power Of Love」(72年、R&B1位、総合11位)などなど、メロウ系のソウルヒットを飛ばし続けました。

ここで注目したいのは、後半の2曲「Drowning In…」と「Power Of...」です。いずれも、このブログでは何度も登場した「フィリー・サウンドの立役者」であるギャンブル&ハフのチームがプロデュースしているのです!大成功したメロウな展開に身を委ねつつも、ジョーさんは秘かに「ザ・ダンサブル路線」を模索していたわけです。

70年代半ばに入っても勢いは止まらず、75年に発表したアルバム「Get Down」からのシングルカットで、ジョーさんにとって3曲目のR&Bチャート1位曲となった「Get Down Get Down (Get On The Floor)」を世に送り出します。この曲は一般総合チャートでも8位まで上昇し、彼の最大のヒット曲になったのでした。

このアルバムなんかはもう、「Get Down(さあ踊れ)」「Get On The Floor(フロアに飛び出して踊ろう!)」のフレーズからも分かるとおり、ほぼ全編を通してひたひたと押し寄せる大ディスコブームを掛け値なしに意識した内容となっております。初期アナログシンセサイザーのうにょうにょ音とか手拍子なんかもふんだんに盛り込まれており、なかなかどうして汗だくで踊れます。

このころのジョーさんは、長年ならしてきた甘い歌声をうま〜くダンスビートに乗っけておりまして、ディスコの深夜帯なんかにぴったりです。同じようにスイートボイスながらもディスコ寄りになってきた70年代中期の元テンプテーションズのエディ・ケンドリックス( 「Girl You Need A Change Of Mind」など)やマービン・ゲイ(「I Want You」など)に勝るとも劣らない、ボーカル力をいかんなく発揮したスムーズディスコの真髄を見せ付けたのでした。

しかし、70年代も後半になると、セールス的には急激に落ち込んでしまい、チャートの上位に入る曲は皆無となります。前々回投稿の「シャイ・ライツ」でも触れましたが、時代が変わり、主力の黒人リスナーの嗜好が「もっと愉快なダンサブル上等にしろ!」の方向へと変化したことと、ミュージシャンのみんながディスコに便乗しようとして過当競争状態になったことが背景にあります。

そこで、「何とかしなければ」と起死回生の一打として打ち出したのが、何を隠そう確信犯の「ザ・昇天いけいけディスコ路線」の加速でした。安易といえば安易ですが、あれほどまでにメロメロメロウだった天下無敵のソウルフル男が、いよいよ出血全開大放出状態になったブームに乗り遅れまいと、開き直って軽快極まるダンスナンバーを連発したのです。

このころになると、「お〜ハニー〜、べいび〜」と惜しげもなく連呼しまくる仰天のダンシングせくすぃー路線まっしぐら!78年発表のアルバム「Love Vibrations」からは、まったり哀愁メロディーが逆に踊り心をくすぐる「Love Vibration」、お約束の「びょんびょん」シンセサイザー音も嬉しい「Going Through These Changes」といった重いドラムビートを特徴とするメロディアスなダンスナンバーをあれよと言う間に繰り出しました。

79年のアルバム「Happy Birthday, Baby」では、テンポ数も音数も上がり、ついでに心拍数もハッピー度数も大幅アップ!ついでにレコードジャケットも、お誕生祝いのケーキにかぶりつくおとぼけジョーさんの無邪気な姿全開です。特に、「ぽんぽこぽ〜ん」のシンセドラムを駆使したどんどこ路線の名曲「I Wanna Taste Your Love」、臆することなく「ハッピーバースデー!」と連呼してやまないアルバムタイトル曲、正統派四つ打ちディスコのグルーブ感あふれる「You Gotta Treat Me Right」、恐ろしくアップテンポでついていくだけで心臓破りな「Make Every Moment Count」などが、ディスコフロアではけっこうな人気となりました。...でも、残念ながらヒットチャートをにぎわすまでには至らなかったのです…(トホホ)。

疾風怒濤のショービジネスで一時代を築いた正統派ソウル伝道師のジョーさん。80年代以降は音楽業界の一線からは距離を置き、自らのルーツに立ち戻り、文字通りキリスト教の博愛を説く伝道師(evangelist)として再出発しました。80年代の鋭角的なシンセサイザーの音色に乗せた彼の歌声も聴きたかった気もしますけど、あの「ハッピーバースデー!」で浮世のお仕事はもう十分にやり尽くしたということなのでしょう。

CDですが、ディスコ好きにはありがたいことに、70年代後半の「Love Vibrations」と「Happy Birthday, Baby」が、CD1枚にカップリングされた「2 in 1」形式で再発されていますので、まずはお勧めです(写真)。華麗なるディスコ化の嚆矢となったヒットアルバム「Get Down」の再発CDも、手ごろな価格で入手可能となっております。

レイフ・ギャレット (Leif Garret)

Leif Garret1さて、今回はアメリカが生んだ「少年アイドルディスコ」の代表選手レイフ・ギャレットです。1970年代半ばに突如として子役スターになり、あっという間に転落していったというまさに「ディスコな人生」を歩んでおります。

レイフさんは1961年米カリフォルニア州生まれ。幼少時から子役として映画やテレビに出演し、70年代に甘いマスクのティーン・アイドルとして人気が急上昇。1976年には名門アトランティック・レコードと契約し、歌手としてアルバムを出すようになります。

最初はビーチ・ボーイズの「サーフィンUSA」をはじめとする50〜60年代のサーフ音楽などのカバー曲が多かったのですが、70年代後半に入ると完全にディスコに開眼。78年に発売したアルバム「Feel The Need」に入っている「I Was Made for Dancin'」(邦題「ダンスに夢中」)が、全米ポップチャート(総合チャート)で10位となり、最高潮を迎えます。さらに同アルバムのタイトル曲(デトロイト・エメラルズの72年のヒットのカバー)も同57位と、まずまずの結果を残しました。

人気は海を越え、日本や欧州にも到達しました。特にシングルの「Feel The Need」のB面に収録されていた軽快ナンバーの「New York City Nights」は、1980年に田原俊彦がカバーして「哀愁でいと」の邦題で発売され、大ヒットさせております。

けれども、もともと歌がうまいわけではないこの人の歌手生命は、いかにも短かった。歌手として売れ始めたころにドラッグや酒に手を出し、典型的なアイドル転落プロセスを歩むことになります。17歳だった79年には飲酒運転で事故を起こし、同乗して重傷を負い、半身不随の身になった友人から提訴され、巨額の賠償金を支払うはめになってしまいました。

81年には、日本の作曲家、都倉俊一氏らのプロデュースによりアルバム「My Movie of You」を発売しますが、まったく勢いはなく、それ以降は音楽活動からは遠ざかってしまいました。俳優活動の方も、83年公開の大ヒット青春映画「アウトサイダー」に出演した程度で、やはり凋落の一途をたどります。何しろ大きな原因がドラッグ中毒だったので、立ち直るまでには非常に時間がかかってしまうことになりました。蓋し過剰こそディスコの生命、但し過剰な人生には代償が伴うものなのです。

ようやく90年代に入り、アメリカの「あの人は今」的なテレビ番組に出演したり、音楽活動も少しずつ再開したりするようになったものの、もう完全に「過去の人」です。

個人的には、「I Was Made for Dancin'」と「New York City Nights」はなかなに出来のよいアゲアゲ絶好調ディスコだと感じておりまして、12インチのロングバージョンなんかも昔に買った覚えがあります。しかし、ディスコのコンピレーションなんかでもほとんど無視されており、悲しい限りです。

というわけで、この人のCDはかなり絶望的なのですけど唯一、ベスト盤「The Leif Garrett Collection」(上写真)が主なヒット曲を網羅していて充実しています。例えば、前記「I Was Made...」と「New York...」以外では7曲目「You Had To Go And Change」、9曲目「Runaway Rita」なども米西海岸風の気分爽快なロックディスコが炸裂しておりまして、ベイ・シティ・ローラーズあたりと繋げてかけると思わぬ狂喜乱舞になりそうです。

ザ・シャイ・ライツ (The Chi-Lites)

Chi Lites最近なんだか説明くさい内容の投稿が増えているなとは薄々気付いておりまして、手詰まり状態ゆえの「やっつけ」感丸出しではあるものの、「ええい!ままよ!」とばかりに気を取り直し、今回は米イリノイ州はシカゴが生んだソウルボーカル・グループ界の重鎮、シャイ・ライツと参りましょう!

というわけでシャイ・ライツは、1950年代後半から現在まで活動しているという恐ろしく息の長いグループ。当初はHi-Lites(ハイ・ライツ)というグループ名だったのですが、1964年にメンバー達の地元であるシカゴ(Chicago)のスペルの「C」を加えてChi-Litesと改名し、現在に至っております。

中心人物は、なんといってもメロメロメロウな極上スウィート・ボイスが売り物のユージン・レコード(Eugene Record)さんです。リードボーカルのみならず、作曲もプロデュースもこの人が主に担当しておりました。所属レーベルは1916年創業の老舗ブランズウィック(Brunswick)。シカゴ発とはいいつつも、ストリングスを多用した流麗なダンスミュージックで知られるフィリーサウンドのような甘〜い楽曲を続々と世に送り出しております。

最初はなかなか芽が出なかったシャイ・ライツ様御一行ですが、69年になってミデアムスローなダンスナンバー「Give It Away」が米R&Bチャート上位(10位)に食い込み、徐々に存在感を増していきます。70年には、ビヨンセの2003年の大ヒット曲「Crazy In Love」でイントロ部分が豪快にサンプリングされた「Are You My Woman? (Tell Me So)」が、同8位まで上昇しています。

翌71年には、「Give More Power To The People」が同4位まで上昇。以前に紹介したエドウィン・スターの骨太反戦歌「War」とか、アイズレー・ブラザーズの「ファイト・ザ・パワー」などと同時代のプロテストソングで、反貧困や反差別を高らかに歌い上げており、普段はメロウな彼らの男気ある一面を見せております。

シャイ・ライツがピークを迎えるのはこの直後のこと。4人の美声が織りなすハーモニーが万人を夢心地へといざなう「Have You Seen Her」(71年)、そして誰もが一度は耳にしたことがあろう「Oh Girl」(72年)が、いずれもR&Bチャートで1位を獲得したのでした!特に「Oh Girl」は、全米総合チャート(ポップチャート)でも1位に輝く特大ヒットとなりました(ちなみに松山千春の「恋」にチョイ似)。前者「Have You Seen...」も、ポップチャートで3位に入っております。

こうして彼らはスィートソウルの覇者となったわけですけど、ピークを過ぎてセールスも落ちてきた70年代半ば以降は、やはり爆発的に台頭する“ザ・ディスコ”の要素を少々取り入れるようになります。中でも、1977年発表の底抜けに陽気なジャケットのアルバム「The Fantastic Chi-Lites」(上写真)では、ダイアナ・ロスLove Hangover」ばりに曲の途中からあれよと言う間にテンポが急上昇して煽りまくる「My First Mistake」が、ダンスフロアでなかなかの人気となりました(チャートは振るわなかったが)。

このころ“看板役者”ユージン・レコードはソロ活動を本格化させ、アルバムも何枚か発表。特にシングルで発売された「Magnetism」(79年)は、身震いするほど軽快なデンサブル全開チューン。ときどき「ぼよよよ〜ん」とおもちゃみたいなおとぼけ電子音も入ってきて、なかなかに洒落の利いた内容になっております。

シャイ・ライツは正真正銘のボーカル・グループですが、実は70年代後半のディスコ・ブームの到来以降、ソウル界では彼らのようなボーカル・グループが総じて失速し、代わってダズ・バンドとかコン・ファンク・シャンバーケイズといったバンドが勢いを増すようになりました。

そうしたバンドは、80年代に入るとシンセサイザーを多用した重量級ファンクを好んで演奏するようになり、それが後のヒップ・ホップの隆盛のひとつのきっかけになったわけですが、逆に70年代前半まであれだけ流行した小じゃれた男性ボーカル・グループは、飽きられてしまったのか、はたまた人件費のかかるバックバンド(オーケストラ)付きの構成が制作・興行サイドに敬遠されてしまったのか、あまり評価されなくなっていったのでした。

それでも、シャイ・ライツは試行錯誤を続けながらアルバムを発表し続けました。ディスコブームが終焉した後の83年には、「Bottom’s Up」がR&Bチャート7位(米ディスコチャート47位)まで上昇し、久しぶりのヒットとなりました。浜辺で地引網を引くような「よっこらしょ、どっこいしょ」リズムを前面に押し出しつつ、ギャップ・バンドみたいな“ぶいぶいシンセ”を駆使したミディアムテンポの佳作となっております。

個人的には、81年発売のアルバム「Me and You」に収録の「Try My Side Of Love」が秀逸だと思っております。彼ら独特のドゥーワップ調のボーカルワークと、少々カリプソな雰囲気を醸す南洋性の旋律がうまく調和しており、これがフロアでかかれば、ゆらゆらとコンブのように心地よく踊れそうです。

80年代後半以降は、セールス的に下降線をたどってしまったシャイ・ライツ。2005年には中心人物のユージン・レコードが64歳で死去し、「もうこれまでか」と思われましたが、草創期から在籍するMarshall Thompsonら残りのメンバーが踏ん張って現在もライブなどの活動を続けています。結果として、メンバー交代を経ながらも、半世紀以上前の1950年代からのソウル音楽界の生き証人のような存在となっているわけです。

CDについては、70〜80年代に発売されたアルバムを中心にまずまず再発されています。ユージン・ワイルドのソロアルバムもここ数年でいくつか発売となっており、とりわけ英Expansion Recordsの「Welcome To My Fantasy」(79年)の再発CD(下写真)には、貴重な欣喜雀躍ディスコ「Magnetism」の7分バージョンや、ゴージャスでダンサブル上等なメドレー曲(「I Don't Mind/Take Everything」)もボーナストラックとして入っていて楽しめます。
Eugine Wild

ザ・タイム (The Time)

The Timeここ東京は好天の日曜日となりましたが、今回は1980年代に活躍したプリンスファミリーのコミカルなファンク・バンド「ザ・タイム」と参りま〜す。

このバンドの起源は、1975年に米ミネアポリスで結成された「Flyte Tyme(フライト・タイム)」。リードボーカルは後にリップスに移って「ファンキータウン」(1980年、米ビルボード一般総合1位、米R&Bチャート2位、米ディスコチャート1位)という大ヒットを飛ばしたChynthia Johnson(シンシア・ジョンソン)が担当し、他にも 1980年代半ばからSOSバンドジャネット・ジャクソンのプロデュースで名を馳せることになるJimmy Jam(ジミー・ジャム、キーボード)やTerry Lewis(テリー・ルイス、ベース)も参加していました。

才人を集めつつもあまり売れなかったFlyte Tymeは、1981年、同じミネアポリスで既に頭角を現していたかのプリンスの指揮の下、ザ・タイムとして再出発。プリンスはリップスに移ったシンシアの替わりに、高校時代からのバンド・メイトであるモリス・デイをボーカルとして加え、音楽的にも自らの得意とするロックテイスト濃厚なシンセ・ファンク路線へと移行させました。これが奏功し、80年代を通してなかなかの存在感を発揮する異色ファンクバンドとして成長を遂げることになったのです。

ただ、81年に発表したタイムのファースト・アルバム「Time」は、名目上はジミー・ジャムやテリー・ルイスらメンバーの演奏となっているものの、実際はプリンスがモリスのボーカルを除くすべてのパートを演奏して制作されました。

あまりにも大きな影響力を発揮する天才プリンスと、袖にされがちなタイムの各メンバーとの確執も絶えませんでしたが、プリンスがソロアーチストとして忙しく活動するようになった82年に発表した2枚目「What Time Is It?」以降は、(プリンスの影響は依然大きいにせよ)バンド本来の独自性を見せるようになっていきます。

タイムの特徴は、なんといっても「80年代のディスコ伝道師」モリス・デイのチャップリンみたいなおどけた風貌とパフォーマンス、それにときどき「ウホホホホ!」と熱帯雨林の鳥類のような雄叫びまでをも交える個性的なボーカルワークにあります。1982年の「777-9311」(R&B2位、ディスコ47位)、「The Walk」(同24位、ディスコ47位)、84年の「Ice Cream Castles」(同11位、同70位)、Jungle Love(同6位、同9位)、85年の「The Bird」(同33位、同6位)など、ディスコでも人気を博した曲が数多くあります。

また、モリスさんは、プリンスが84年にプロデュースした映画「パープル・レイン」にミュージシャン役で起用されており、そこでは「Jungle Love」を始めとする自分たちの曲をコミカルに披露しております。このジャングル・ラブなどは、現在のUptown Funkなどのダンスヒットで知られるBruno Marsらの音作りに色濃く反映されており、80年代の音楽がなおもしぶとく息づいていることを感じさせます。かなり以前の曲ですけど、日本では米米クラブの「コメコメウォー」(88年)もオマージュ的に似たところがあります。

Timeは90年に「Jerk Out」(総合9位、R&B1位、ディスコ6位)という素っ頓狂な“鳥の雄叫び”をちりばめた大ヒットを飛ばした後、ヒット作は出なくなりました。この曲が入った「Pandemonium」が彼らの最後のアルバムになってしまったのですが......特筆すべきは、このアルバムにはなんと「Donald Trump (Black Version)」という曲も収録されているのです。文字通り、不動産王として既に有名だったトランプ・現米大統領をテーマにしたラブ・バラードで、「君はやっぱりトランプのようなお金持ちの男がいいんだろ?」みたいな歌詞が展開しております。これも作曲はプリンスでして、彼の天才ぶりならぬ“預言者”ぶりが、こんなところにも発揮されているのでした。

そんなわけで、トランプの呪いなのかどうか、90年代以降は勢いがなくなってしまったザ・タイム。それでも、解散・再結成を繰り返しつつ、2000年代以降も命脈は繋いでいます。昨春にプリンスが亡くなったすぐ後にも、ロンドンで追悼の再結成ライブパフォーマンスを披露しています。

タイムが81〜90年に発売した計4枚のアルバムともに、きちんとCDで再発されています。写真は、「ジャングル・ラブ」や「ザ・バード」が収録された84年発売の3枚目「Ice Cream Castle」。モリスさんの80年代のソロ作品「Color of Success」と「Daydreaming」も再発されておりまして、こちらも雄叫び度はやや低いながらも、彼特有の「ねっとりボーカル」を生かした落ち着いた感じのR&Bダンス曲が楽しめます。

ジュニア (Junior)

Junior謹賀新年。お久しぶりで〜す。今回は景気よく、イギリス発ソウルの先駆者でもあるジュニアさんと参りましょう!

彼の代表曲は、何といっても1981年発売の「Mama Used To Say(ママ・ユース・トゥ・セイ)」(全米R&Bチャート2位、全米ディスコ4位、全米総合チャート30位)。特徴的なファルセット・ボイスが生かされた80年代ソウル・ディスコの傑作といわれています。

この曲は、プロモーションビデオ(PV)もチープなCG映像にあふれかえる陽気さが特徴でなかなか面白いのですが、アルバム・バージョンや12インチ・バージョンだと、イントロの最初にボンゴのリズムが忍び足で入ってきたかと思うと、途中からは「かんかんころりん、かんころりん」とおとぼけパーカッションが彩りを添えるというひねり技を展開しています。

この「かんころりん」は、ジュニアのベストアルバムCD「The Best Of Junior」(写真)によると、本人と制作スタッフが「何かインパクトのある音を加えたい」というわけで録音作業中に急きょ挿入したもの。なんと録音スタジオの近所から牛乳ビンを何本か入手し、それぞれに異なる分量の水を入れて、音色の違う「ビン打楽器」を作って即興で音を入れたのでした。

そんな人知れぬ工夫もあって、見事に世界的なヒット曲を生み出したジュニアさん。それまでは黒人ソウル音楽といえばアメリカ発がお定まりだったわけですが、イギリス人の黒人として米国市場で売れた草分けの歌手になったのでした。

彼は「ママ」以降も、「Too Late」(81年、R&Bチャート8位、ディスコ67位)、「Unison」(83年、R&B44位)などの軽快なフロア・ヒットをいくつか飛ばしました。さほど売れなかったものの、84年発売の「Somebody」も重量感のある音作りで結構なダンサブルぶりを発揮しており、実際にディスコでもよく耳にしております。87年には、少し前に紹介したキム・ワイルドとのデュエット曲のロックディスコ「Another Step Closer To You」を本国イギリスを中心に大ヒットさせました。

80年代後半以降は、アーチストとしては人気が下降し目立った活躍はできなくなりましたが、エイミー・スチュアートやマキシ・プリースト、シーナ・イーストンといった他の人気歌手に楽曲を頻繁に提供するなど、作曲家・制作者としての才能を開花させています。

ジュニアさんは1961年生まれ。本名はNorman Giscombe Jr.といいまして、そこから「ジュニア」というアーチスト名が付けられました。80年ごろには早くもプロとしての音楽活動を始めていたのですけど、その初期の81年に本名でリリースした「Get Up And Dance」という曲がありまして、これがかなりレアで良質なディスコ曲となっております。同じイギリス育ちのソウル・ディスコ歌手だったビリー・オーシャンにも似た感じ。まだ20歳そこそこだったわけですので、相当に早熟なアーチストだったといえるでしょう。

この人のCDは、「ママ」が入ったデビューアルバム「Ji
」(1982年)以外はあまり再発されていません。さほどヒット曲もないので、ディスコ時代のヒット曲が12インチバージョンも含めてほぼ網羅された上記ベスト盤(米Mercury盤)が無難かと思われます。

聖なるディスコ (Divine Disco)

_SL1200_このブログでもかつて触れましたけど、黒人教会音楽であるゴスペルは、米国を中心とする黒人ディスコアーチストにも多大な影響を与えました。ジェームズ・ブラウンアレサ・フランクリンチャカ・カーンをはじめ、奴隷制度時代から根強く残る黒人差別や、ちょうど彼らの幼少期・少年期の1960年代に高揚した黒人差別撤廃運動を直に体験し、感性豊かな音楽的素養を育んだ大物ソウルミュージシャンは数知れません。

そこで今回は、最近発売された、ゴスペルとディスコを融合させた小粋なコンピレーションCD(上写真)をひとつ、唐突に紹介してみたいと思いま〜す!題して「Divine Disco」(聖なるディスコ)。発売元は米Cultures Of Soul Records(カルチャーズ・オブ・ソウル・レコード)です。

タイトルだけ見るとなにやら厳かな気分になり、「こりゃ踊ってる場合じゃないかな」と姿勢を正したくもなりますが、ご安心ください。70年〜80年代の音源を中心とした神ディスコ、祈りディスコの世界が横溢しており、もう初っ端から最後まで腰をくねらせて踊り狂わずにはいられませんもの。

高揚感たっぷりのゴスペル・コーラスは、ディスコとはもともと相性よろし。あの情熱的な歌声にずしりと重い四つ打ちビートが重なれば、もう怖いものなどありません。典型的ゴスペル・ディスコとしては、80年代の著名DJラリー・レバンがよくディスコでプレイした曲で、Lamont Dozierの「Going BackTo My Roots」にも似た感じのThe Joubert Singersの「Stand On The World 」(84年)あたりを思い出しますけど、このコンピもなかなかにレアでスピリチュアルなダンスチューンが満載なのです。

収録されているのは米国の無名ゴスペル・アーチストばかりですが、曲のタイトルからして、「Free Spirit」(自由な精神)とか、「One More Chance, Lord」(神よもう一度チャンスを与えたまえ)などゴスペルらしさ満開。7曲目「Thank You Jesus」(Gospel Ambassadors)などは「サンキュー、キリスト!」とちょいと軽めのタイトルではあるものの、イントロからドラム音がひたすら軽快に展開するノリノリぶり。

6曲目「Jesus Is Going Away (But He's Coming Back Again)」(The Inspirational Souls)に至っては、「イエス様は行ってしまった。でも彼はまた戻ってくるんだ」と、なにかと忙しいキリストが復活して自分たちの元に帰ってくることを素直に喜び、感謝の心をダンサブルな形で捧げています。

それもその筈。当ブログではくどいほど登場してきた鎌倉時代の一遍上人の踊念仏と同様、ディスコ、つまりダンスは世界共通の祈りであり、念仏なのであります。踊念仏を源流とする盆踊りは、年に一度、先祖の霊(仏様)と交流する楽しい儀式です。神社の祭りの神楽だって、文字通り「歌って踊って神様を楽しませて、自分たちも楽しむ」ことに本来の意味があるわけです。

ですから、このCDのジャケットのように、(背景が暗いからなんだか阿鼻叫喚地獄みたいでコワいにせよ)両手を高々と掲げながら、集団で狂喜乱舞するとあら不思議、輝けるディスコ神やらディスコ仏やらが、歓喜のシャワーのごとく、諸人の頭上に分け隔てなく遠慮なしに降り注いでくるわけです。もちろん、“注ぎ口”は、天井(天空)に鎮座する「ザ・ディスコご神体」のミラーボール。頑なな心が解き放たれることウケアイです。

14曲目に入っている先述の「Thank You, Jesus」の現代リミックスも注目点です。私自身、70〜80年代当時のオリジナルディスコへの志向が強い方なので、主に90年代以降の現代風リミックスには強い関心がないのですけど、この曲については、最新デジタルの複雑な音色が極力抑えられ、アナログシンセ風イントロがどことなく最近流行の「ピコ太郎」していて微笑ましい。

世界から思わぬ注目を浴びた「アポーペン、パイナポーペン」もシンプルだからこそ印象付けられたわけで、そこに「アーメン」的な国境・言葉の壁を越えた“呪文効果”が出るのだと思わされます。

折りしも、人種差別をちらつかせて(否、あからさまに公言して)、白人至上主義と指摘されるトランプ氏が米大統領選に勝利した後、アメリカではヒスパニック系や黒人の人々への心無い発言や差別行為が既に散見されるようになっています。時代の不安を映し出しているかのようですが、そんな今こそ、解放と融合を目指すゴスペル魂の伝統に裏打ちされた「聖なるディスコ」の活躍の時ではないでしょうか!(ためらいつつも断定)

このタイムリーな企画モノCDに入っているようなゴスペル・ディスコに耳を傾け、その祈りの調べに身を任せて汗を流せば、どんよりとした曇り空のような内向き思考の憂鬱などどこふく風。みるみるうちに、負を正に転換する明日への活力がみなぎってきます。クリスマスも近づく昨今、「ラブ・アンド・ピース!」よろしく無邪気に宇宙の果てまで舞い上がるのは楽しいもの。高過ぎて手が届かないと思ったら、神様って意外に身近にいたのです。

イヴォンヌ・エリマン(Yvonne Elliman)

Yvonne少し間が空いてしまいましたが、今回は静々とハワイ生まれのディスコディーバ、イヴォンヌ・エリマンと参りま〜す!

ハワイ出身の有名人といえばオバマ大統領と早見優ですが、ハワイの地元紙ホノルル・アドバタイザーの記事などによると、1951年に生まれたイヴォンヌさんは、なんと日本人の母、白人の父を持つ日系アメリカ人で顔立ちは実にアジアン。幼いころに音楽に目覚め、ピアノやウクレレを練習し、高校時代にはバンドを組んでライブ活動を始めました。

そんなある日、音楽の先生に「お前はやればできるから、イギリスで修行しろ!」と促されて高校卒業後に渡英。音楽業界の代理人を通して、ロンドンで高名なミュージカル音楽プロデューサーであるアンドルー・ロイド・ウェバーを紹介されました。

そこで彼の不朽の名作「ジーザス・クライスト・スーパースター」のロックオペラと映画でマグダラのマリア役を務めるというチャンスに恵まれ、飛躍的に知名度がアップ。同時にロック界の英雄エリック・クラプトンのバックボーカルにも抜擢され、彼の大ヒット曲「I Shot The Sherif」(74年、米ビルボード一般総合チャート1位)でもその歌唱力をいかんなく発揮したのでした。

彼女はソロアーチストとしても、71年に「ジーザス…」の挿入歌バラード「I Don't Know How To Love Me」が全米一般総合チャート(ポップチャート)28位まで上昇したほか、76年にビージーズが作曲したしっぽりスローテンポのポップバラード「Love Me」が同14位に、77年に似た感じのスローテンポ「Hello Stranger」が同15位にそれぞれチャートインするなど、順調にスター街道を突き進んで言ったのでした。恐ろしいほどのとんとん拍子ぶりです。

そして1978年、運命の時が訪れます。当時の夫ビル・オークス(Bill Oakes)が社長を務めるRSOレコードが、完全無欠のディスコサントラ「サタデーナイト・フィーバー」を発売。その中で再びビージーズの作品「If I Can't Have You」を歌い見事、米ビルボード・ポップチャートで1位を獲得したのでした!マイケル・ジャクソン「スリラー」の6,500万枚に次ぐ世界2位の4,000万枚も売れたというこのお化けアルバムからは、計7枚のシングルカット曲が1位になっていますが、堂々とその一角を占めることになったのです。

翌1979年には、同じRSOからアルバム「Yvonne」を発表。A面1曲目に収録のディスコ曲「Love Pains」(総合34位、米ディスコチャート75位)がまずまずのヒットとなりました。「デケデケ」シンセサイザーのベース音と朝の陽射しのように柔らかなストリングスの音色がうまくマッチしたこの曲は、RSOが12インチを制作したほか、82年には米西海岸のディスコ専門レーベル「モビーディック」がリミックスを手がけており、ディスコフロアでは「If Can't Have…」に匹敵するほどの人気となりました。

モビーディック盤については、私がかつて紹介したように、レーベルの元関係者からテスト盤をいただくという僥倖に恵まれましたので、個人的にも特に印象深いレコードとなっております。

超大物プロデューサーやエリック・クラプトンとの出会い、大手レコード会社の社長とのセレブな結婚生活といった多くの幸運もあり、女優・歌手としてスターダムにのし上がったイヴォンヌさん。しかし、社長とはその後離婚。2人目の音楽家の夫とは2人の子供に恵まれましたが、やはり別れて子供をつれてハワイに戻ってきました。80年代以降は音楽活動からも遠ざかってしまいました。2000年代に入ってようやく活動を再開し、新作アルバムを発表するなどしているものの、もう「過去の人」との印象はぬぐえません。

CDはベスト盤が中心でしたが、今年になって、ディスコ期の2枚のアルバムをボーナストラック付きで収録した「Night Flight / Yvonne」が2枚組CDとして発売されております(上写真)。「If I Can't」のディスコバージョンやLove Painsの12インバージョンが入っており、音質もまずまずです。

このCDのライナーノーツには彼女のインタビューが載っており、「本当はクラプトンと一緒に仕事をしていた時のように、もっとロックを歌いたかったが、制作サイドから機会を与えられなかった」「2度目の夫は外で音楽活動させてくれず、結局は家庭に収まってしまった」などと語っています。スターにはなったものの、心底音楽に没入できなかった部分があったのかもしれません。だからこそ、20年以上ものブランクが生まれたということでしょう。

そんな背景にも思いを馳せながら、晩秋の夜長、ディスコからバラードまで幅広く歌い上げるアジアンな彼女の歌声を今一度、堪能してみるのも一興ではないでしょうか。

ヴォヤージ (Voyage)

Voyageさて、あれだけ騒々しかった近所のセミの声が聞こえなくなり、代わってコオロギが俄然張り切って夜長の主役の座についております。儚さひとしお季節の変わり目、テンション高めの今回は、フランスが生んだ爽やか過ぎる「幸せ独り占めディスコ」、ヴォヤージと参りましょう!

英語で「旅」の意味を持つヴォヤージ(Voyage)は、1970年代後半から80年代前半にかけて活躍した腕利きの裏方ミュージシャンたちで編成されたディスコ専門グループで、4人のフランス人男性(Marc Chantereau、Pierre-Alain Dahan、Sauveur Mallia、Andre Slim Pezin)が中心となって結成しました。

特に77年発売の彼らのデビューアルバム「Voyage」(米ビルボード・ディスコチャート1位)はあからさまなコンセプトアルバムとなっており、ボーカルを最小限に抑えたノンストップの正統派インストゥルメンタル・ディスコ。A面1曲目の「From East To West」(同チャート1位、米R&Bチャート85位)で飛行機に乗って東から西へと旅立ち、途中アフリカ(同2曲目「Point Zero」)、アジア(同3曲目「Orient Express」)、欧州(B面1曲目「Scotch Machine」)、南米(同3曲目「Latin Odyssey」)を経由して、気がつけばアメリカ(同4曲目「Lady America」)に無事到着しています。

なんと「計30分ちょっとで踊りながらまんまと世界一周」を果たすという、世界を股にかける「007」のジェームズ・ボンド顔負けのお手軽「空の旅ディスコ」なのでした。これを「30分間の贅沢&愉悦」と言わずして何と申しましょうか!それぞれの曲の調子も、案の定空港ラウンジ音楽な感覚をふんだんに盛り込みつつも、サンバのラテン風あり、シタール使いのオリエンタル風あり、素朴なパーカッション炸裂のアフリカ・ジャングル風ありと、世界一周だけあって飛切り(忙しなくも)ゴージャスな趣向となっております。アルバムのジャケットは「宇宙から見た地球の写真」のデザインとなっており、もう確信犯そのものです。

演奏も、もともとジャズやフレンチポップの分野で長年にわたり大物ミュージシャンとコラボレーションするなど、しっかりと経験を積んだ手練(てだれ)ぞろいだけにしっかりしております。アルバムを通して聴いていると、飛行機だけではなく、大地をぐんぐん駆け抜ける東海道新幹線「のぞみ号」か、はたまたサバンナを軽快に疾走する最速チーターか、という具合にあらゆる「速いもの」を想像してしまいます。全盛期を迎えていた70年代大仰ディスコの真髄を見る思いであります。

彼らの高速「旅ディスコ」路線は、翌78年に発売された2作目アルバムにも引き継がれました。タイトルも「Fly Away」(米ディスコ1位)とまたもや確信犯です。収録曲の曲調はデビュー作と似ており、アジア風やらアフリカ風やらポリネシアン風やらとやはり多国籍。中でも主軸のA面1曲目「Souvenirs」(スーベニア=旅のおみやげ。邦題は「恋のスーヴェニア」。米ビルボードディスコチャート1位、米R&B73位、米一般総合チャート41位)では、ボーカルとして加わったイギリス人女性(Sylvia Mason)が、駅弁売りのお兄さんのように「すべに〜〜〜あ♪(おみやげ〜〜〜♪)」と豪快に雄叫びを上げていて微笑ましい限りであります。

さあ、ディスコブームの波に乗り、2作続けて世界中で大ヒットを記録した「ユーロディスコの雄」ヴォヤージですが、80年代に入ってからはどうだったのでしょう。彼らは節目の80年を境に、「もうディスコは飽きた」と思ったのか、もしくは「もうブームは終わった」と見切ったのか、ちょっと渋めのファンキー&ロック路線へと大きく舵を切りました。

80年発売の3作目「Voyage 3」では、一変して男性ボーカルを中心に据えた「I Love You Dancer」(米ディスコチャート17位)、「I Don't Want To Fall In Love」などのディスコ曲が収録されていますが、どうにも地味な印象はぬぐえません。それぞれの曲自体は悪くないのですけど、「やっぱディスコのボーカルは女性の方が有利だなあ」と思わせる内容になってしまいました。ディスコブームの退潮とも相まって、セールスも一気に落ち込んだのです。

そんなわけで、82年発売の4作目「One Step Higher」では、シンセサイザーを多用したややライトなディスコ路線を復活させましたが、時既に遅し。これが最後のアルバムとなってしまいました。以前に当ブログで紹介したAlec R. CostandinosCerroneらと並ぶ「フランス発人気ディスコ」の代表格だったヴォヤージも、ついにここで刀折れ矢尽きる状態となり、文字通り時代の彼方へと「ボン・ヴォヤージ!」(Bon Voyage=行ってらっしゃい!)してしまったのでした。

ただし、この最終作のA面1曲目に収録されたシングルカット曲の「Let's Get Started」については、再び高揚感のある女性ボーカルとコーラスをフィーチャーし、とってもハッピー・ゴー・ラッキー(楽天的)で爽快感たっぷり。ヴォヤージの真骨頂であるラウンジ風旅ディスコを見事に復活させており、彼らの短いながらも充実した旅(何しろ世界一周)の最終章にふさわしい名曲だと思います。当時のディスコでも聞いたことがありますが、これがかかると一気に場が華やぐ感じです。この数年後のバブル末期(89年)にディスコでよく聞いたスウィングアウト・シスターの「You On My Mind」にも似た雰囲気。私自身、NHK-FMの人気番組「クロスオーバー・イレブン」などで必死になってカセットデッキにエアチェック録音したものでした。

そんな有終の美を飾ったヴォヤージのアルバムは4年ほど前、英Harmless Recordsのディスコ復刻CDシリーズ「Disco Recharge」で4枚とも再発されました。それぞれ2枚組で、12インチバージョンも豊富に収録されていてかなり楽しめます。代表曲をコンパクトに堪能したいという向きには、カナダUnidiscのベスト盤「The Best Of Voyage」(写真)もあります。このCDのブックレットの表紙では、左に「Voyage」、中央に「One Step Higher」、右に「Fly Away」のLPのジャケット写真があしらわれています。

スパークス (Sparks)

Sparks_Newいやあ気がつけば、夏もすっかり終わってました!……というわけで今回は、火花飛び散るド迫力のディスコ伝道師、スパークスと参りましょう。

スパークスは、米ロサンゼルス出身のRon Mael(ロン・メイル)とRussell Mael(ラッセル・メイル)兄弟が中心になって1960年代後半に結成した「Halfnelson」が前身。2人は当時のアメリカ西海岸で盛んに流れていたフォークソングやプロテストソングに「あまりに理屈っぽい!」と嫌気が差し、ザ・フーやピンク・フロイドといったイギリスのモッズ、プログレッシブロック、グラムロック、アートロックに傾倒していきました。71年に「スパークス」と改名し、英国を中心に売り込みを開始。現地でトップ10ヒットを放つなど人気を不動のものとします。

アメリカの音楽業界で60年代と80年代に「ブリティッシュ・インベージョン」(英国の来襲)という言葉が使われたように、アメリカで人気を高めた英国人ミュージシャンは星の数ほどいます。でも、米国人なのに英国の音楽に心底惚れ込み、英国に出かけていってそこでまず火がついてしまったユニークな米国人ニューウェーブバンドになったわけです。

スパークスは、高音ボイスと派手な動きでステージを駆け回る弟ラッセルが前面に出て、その傍らで兄ロンが極端な無表情でキーボードを弾き続けるという摩訶不思議な「陰と陽」の設定。音楽的にはやはりプログレかつグラムロックな内容で、70年代半ばまでは「This Town Ain't Big Enough For Both Of Us」(74年)などの一風変わったロック系の大ヒットを英国で連発していたのですが、70年代後半には早くも息切れしたのか、人気が下降線になりました。そこで目を付けたのが、当時世界中を席巻していた「ディスコ」だったのです!(安易だけど)

彼らはここでなんと、いきなり「ディスコ百獣の王」の名を欲しいままにしたイタリア人音楽家ジョルジオ・モロダーさんにプロデュースを依頼。太っ腹のジョルジオさんは二つ返事で承諾し、ドナ・サマー顔負けの「ビロビロデケデケ」シンセサイザーを駆使したアルバム「No.1 In Heaven」(上写真)を制作し見事、英国チャートでのトップ10入りを再び果たすことになったのでした。

このアルバムで2人は、「Beat The Clock」(79年、英レコードリテーラー・ミュージックウィーク誌チャート9位)、「The Number One Song In Heaven」(同、同12位)、それに「Tryouts For The Human Race」(同、同5位)というディスコ曲を連打したわけです。いずれも弟ラッセルのひょろひょろした高音と幻惑の宇宙的シンセサイザーが妙に調和し、それを正確無比の生ドラムが律儀に下支えしている感じ。独特のクラシカルなメロディーラインもどこか哀愁を帯びていて、心地よく踊りの境地へと誘い込みます。しかも、これらの12インチシングルでは赤とか青の様々な色付きレコードやピクチャーレコードも数多く発売され、もう「ディスコ全開でスタンバってま〜す!」状態なのでした。

ラッセル&ロンは、このアルバムを契機にシンセ街道をばく進。80年代全体にわたってほぼ毎年、ダンス系アルバムを世に送り出しました。特に83年に発売したアルバム「In Outer Space」からは、ゴーゴーズのギタリストであるジェーン・ウィードリン(Jane Wiedlin)とのデュエット曲「Cool Places」、が米ビルボード総合一般チャートで49位、同ディスコチャートで13位まで上昇するヒットとなり、逆輸入的な形で故郷に錦を飾ることにもまんまと成功したのです。私もこの曲は当時ディスコで耳にしましたが、イントロから「デデデデ…」と野太いシンセ音が小気味よく展開し、のっけから踊り心がくすぐられたものでした(テンポやたら速いけど)。

さて、この兄弟は80年代までの勢いはないにせよ、今もその唯一無二のロックディスコぶりは健在。90年代以降もコンスタントに新作を発表したり、世界中をツアーで回ったりして、元気に活躍を続けております。かれこれ半世紀もの息の長〜いキャリアを支えてきたのも、実は70年代末の捨て身の「ディスコ開眼」であったにちがいないのであります。

スパークスのCDは、キャリアが長いだけにたくさん出ていますが、ディスコ好きとしてはどうしても欠かせない「No.1 In Heaven」のほか、80年前後の12インチバージョンを集めた2枚組「Sparks Real Extended」(英Repertoire Records、下写真)がダンサブル爆発の好盤となっております。

Sparks Real




CDのライナーノーツ書きました


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キーワードは意外に「ディスコ」。
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