ディスコ堂 by mrkick

音楽に貴賎なし ―Discoの考察とCD批評

カサブランカ

プラティパス (Plyatypus)

Platypus「理想の世界では、才能あるミュージシャンや歌手たちは、必ず成功してぜいたくな生活ができるだろう。だが、私たちは理想の世界には住んでいない。1970年代後半にも、無数の有能なバンドが、人知れず埋もれていった。このバンドもその一つだ」――世界的権威のある音楽解説本「All Music Guide(オール・ミュージック・ガイド)」で、こんな風に紹介されている黒人バンド「プラティパス(Platypus)」。今回は、前回に引き続き「無名だけど捨てがたい」シリーズのディスコグループとして取り上げたいと存じます。

オハイオ・プレイヤーズダズ・バンド、レイクサイド等を生んだファンクの本場である米オハイオ州のデイトン出身のメンバーたちが、1970年代前半、同じメンバーによる前身バンド「Four Korners(フォーコーナーズ)」を改名して誕生。ファンクをベースにして、ソフトなR&B、「イエス」のようなプログレッシブロック、そしてディスコサウンドを融合させた音作りに励み、ライブ公演をしに行った日本の大阪でたまたま知り合ったというロバータ・フラックのセッションミュージシャンなどの下積みを経て、1979年にようやく写真のデビューアルバム「Platypus」をにぎにぎしく発売しました。

発売レーベルは、ディスコ堂ではしょっちゅう登場する「ディスコの殿堂」のカサブランカ。もろディスコを意識したグループであることがあっさり判明してしまうわけですけど、発売時期が1979年8月というのが運の尽きでした。というのも、このちょうど1カ月前、以前に書いた「ディスコださいぞ!運動」がアメリカで不気味に沸き起こり、「もうディスコって終わりじゃねえのか?」と、折り目正しいディスコフリークたちの間に動揺が走っていたからであります。 

プラティパスとは、オーストラリアに棲む「カモノハシ」の英名に由来します。哺乳類なのに卵を産んで育てるという世にも不思議な珍獣ですが、「遅れてきたディスコ野郎」プラティパスも、せっかく苦心して出したレコードがさっぱり売れず、翌年にひっそりとやっつけ仕事のアルバムをもう1枚出した後、文字通りレアで珍なる存在になってしまったのでした。

ところが、そんな珍盤が昨年、英BBRレーベルからCD化されたのには度肝を抜かれました。私自身、インパクトの強い名前で、しかもカサブランカの所属でしたので知っているグループではありましたが、まさかCDになるとは…。

で、これを実際に通して聴いてみると、意外というか案の定というか、聴いてるこちらが赤面するほどにディスコのりで素晴らしい。まずシングルカットされた1曲目「Dancing In The Moonlight」では、随所であのディスコの象徴「シンドラム」がポンポコポン!と躍動し、お約束のバイオリンで色取りを沿えつつ、忘れたころに「キンコンカーン!♪」と、「のど自慢」さながらのおとぼけチャイムが鳴り響く有様。2曲目「Street Babies」は、重量ファンク風で踊り心をあからさまにくすぐりますし、3曲目「Love The Way You Funk」も、同じオハイオ州のファンクグループ「ヒートウェーブ」の「グルーブライン」みたいな正統派ファンクディスコでして、やっぱり踊らずにはいられません。

圧巻は5曲目「Dance If You Can」(和訳:踊れるもんなら踊ってみな)。一般的なファンクディスコを基調としながらも、ときに少々変則的なビート進行が、「おやおやおや?」とダンサブル野郎&女性陣たちに期待感を呼び起こします。さらに凄いのは、後半のブレイク部分に突如として展開する「口笛」。私は以前、口笛の世界チャンピオンの女性に取材したことがあるのですが、「それを上回るのでは?」と思わせるほどの変幻自在、音程の正確無比ぶりでして、フルートの類の楽器とかウグイスなどと聴き間違うほどの完成度なのです。ライナーノーツに登場するリードボーカルのアーサー・ストークス(Arthur Stokes)によると、口笛を披露しているのはジョン・ビショップ(John Bishop)という無名のアーチストとのことですが、必聴と思います。

このグループの難点を強いて言えば、「ディスコ盛り上げ隊」の定石であるラッパなどのホーンセクションが不在なことくらい。それでも、疾走感あふれるほかの楽器パートや、「ニャオニャオ♪」とねっとり粘りつく印象的なボーカル等々が、きっちりと補完していると思います。

ことほど左様に、ディスコ・パラダイスなアルバムがCDで再発になったのは、ディスコ堂的にはべらぼうにおめでたい、と一人ほくそ笑んでいます。このCDには、「Dancing In The Moonlight」の12インチバージョンほかのボーナストラックも入っています。まだアマゾンやHMVなどでは販売中ですので、完全にレア化して忘却の彼方に遠ざかってしまう前に、珍獣カモノハシの渾身の一枚、一聴してみるのも一興かと存じます。

キッス (Kiss)

Kiss「ディスコ節目の79年」は、線香花火の最後の輝きのごとく、妖しく激しく燃え上がりました。特に上半期は絶好調です。この年のビルボード一般チャートの1位獲得曲を見ても、シック(おしゃれフリーク)を皮切りに、ロッド・スチュアート(アイム・セクシー)、グロリア・ゲイナー(恋のサバイバル)、ビージーズ(哀愁のトラジディー)、ドゥービー・ブラザーズ(ホワット・ア・フール・ビリーブス)、エイミー・スチュアート(ノック・オン・ウッド)、ブロンディー(ハート・オブ・グラス)、ドナサマー(ホット・スタッフ)などなど、6月ごろまではもう90%以上がディスコ(ディスコ系)といった状況でした。「ディスコフォーエバー!!!」と叫びたくなるような、そうそうたる顔ぶれであります。

ところが、そんな雰囲気を一変させたのが7月12日、シカゴの大リーグ球場で開かれた有名な「ださいぞディスコ!(Disco Sucks!)」イベントでした(YouTube参照)。音頭をとったのは、地元の人気ラジオDJの白人スティーブ・ダール(Steve Dahl)。ラジオで「今度のダブルヘッダーの試合の合間に、要らないディスコのレコードをみんなでぶち壊そう!」と訴えたところ、実際にリスナーたちがレコードを持って球場に大挙集まり、球場内でレコードを壊すにとどまらず、レコードを投げ飛ばすなどの危険な状況に。フィールドにも観客がどっとあふれて騒ぎだし、第二試合が中止になるほどの暴動になったのでした。

実はスティーブ氏は数ヶ月前、自らが愛するロックから、ディスコ中心に番組改編した地元の別のラジオ局をクビになっており、ディスコには"恨み骨髄"でした。暴動事件の後、ついでに「アイム・セクシー」のパロディー曲で、ディスコをとことん皮肉った「Do You Think I'm Disco?」までリリースし、ビルボード一般チャート58位まで上昇しました。個人的な恨みが発端だったわけですが、全米でけっこう支持する声もあったりして、ディスコブームに一気に暗雲が立ち込めたのです。

79年後半以降も、ビルボードのディスコチャートはもちろん続いたわけですけど、最も権威のある一般チャート(ポップチャート)では、典型的ディスコの影がとたんに薄くなりました。境になったのは、8月後半に6週連続1位を獲得した、正統派ロックの特大ヒット「マイ・シャローナ」(ナック)といわれています(ディスコでもかかったが)。その後、イーグルスとかスティックスといったロックバンド、ルパートホルムズ、ハーブ・アルバートなどのポップ・ロック、AOR系が息を吹き返しました。

「ださださディスコ」運動の背景には、ドラッグや性の乱れといったディスコ特有の放蕩主義、それに「貧乏人は出てけ!」的なセレブディスコ「スタジオ54」(以前の投稿参照)に代表される「エリート主義」「ナルシシズム」(俺ってイケてるぜ)への嫌悪もありました。しかし、それよりも、急速に世界を席巻したディスコ文化の中心を担った黒人やゲイへの反感、嫉妬が確実にあったといわれます。そこまでムキになって反発するとは正直、「ちっちゃいなあ……トホホ」とも思うのですけど、なかなか日本人には理解しがたい超多様社会の現実と不条理に起因する部分も大きいのでしょう。

もちろん、これはあくまでもアメリカの話でして、ヨーロッパのディスコブームには直接、影響を与えませんでした。アメリカの文化(政治も)の影響が大きい日本では、同調して「やっぱりディスコはもうダサいのでは?」というそわそわした気分が少々蔓延したものの、80年代、さらには一部的に(ジュリアナ東京とかで)90年代初頭までディスコが生き続けたのは周知のとおりです。それでも、世界の大衆音楽の中心は今も昔もアメリカですから、「ディスコ」という言葉自体、少〜しずつ勢いを失っていった事実は否めません。

さて、79年の特に前半までは、「猫も杓子もディスコだよん」といった異常な状況でしたので、前述のロッド・スチュアートさんだってアイムセクシーなるディスコを華麗に披露し、さらに皮肉られたのですが、もう一丁、キッスの「ラビン・ユー・ベイビー 」(全米一般11位、ディスコチャート37位)などいかがでしょうか。

いやあ、唐突で申し訳ありません。しかも、キッスのようなハードロックは門外漢ですので、詳しく語る気はハナからありません。けれども、あのキッスがディスコをやったことは紛れもない事実です。

カサブランカという「もろディスコ」なレーベルにいたことも幸い(災い)したのでしょう(以前の投稿参照)、彼らは79年の前半、結果的には炎の激烈ロック「デトロイト・ロックシティー」(76年)と並ぶ代表曲として、ドンドコ・ディスコの名曲「ラビニューベイベー」をひそかに世に送り出していたのです。

改めて聴いてみると、トレードマークの奇天烈メイクもさることながら、ポール・スタンリーの美声ボーカルは伸びがあり、けっこうディスコ向きだと思います。むしろ、凡百のディスコのボーカリストよりしっくりくるくらい(笑)。ただし、ディスコとは今ひとつ相性が良くないエレキギターを前面に出していて、そこに「俺たちはロッカーだぜ」感を盛り込んでいるわけですが(あたり前)。

写真はその「ラビニュー」が収録されたLP「Dynasty」。邦題は「地獄からの脱出」と気合入ってます。CD化もされています。このアルバムからは、ラビニューと「ダーティー・リヴィン」がロングバージョンの12インチとしても発売されています。どちらも名ディスコ・リミキサーの故ジム・バージェス(Jim Burgess)がミックスを担当していますので、ディスコ好きなら12インチを確保したいところですかね。

本日はホントの節目の大晦日。来年一発目は、少し気軽な80年代ものといきたいところです(未定)。

シェール (Cher)

Cherまずは左の写真を見ていただきたい。「おーっ せくすぃ!!」と思った方はまずは正解。79年発売のシェールのアルバム「Take Me Home」はもろジャケットで売ろうとして、ホントに売れました。シングルカットされたアルバム同名曲は、全米一般チャート8位まで上昇。60年代からヒットチャートの常連だった彼女は、5年ぶりにベスト10に返り咲いたのであります。ディスコチャートでも2位まで上昇しました。

彼女は当時33歳……にしてはプロポーションが保たれているとは思うのですが、それはともかく、このジャケットはディスコ、しかも発売元カサブランカ・レーベルならではのド派手さです。コンセプトは「バイキングのクイーン」だそうです(涙)。バイキングの本場の北欧だったら、冬場にこの格好だと風邪ひきます。

でもまあ、(性の)解放音楽でもあるディスコは、「エロエロ大合戦」の戦場でもありますから、この程度ではまだたいしたことナシ。“エロジャケ”ということでいえば、Love & Kisses、Passion、Cerrone、Kelly Marrie、Spaceなどなど、枚挙にいとまがありません。今回はうち1枚だけ、わりとポエジーで、18歳未満でもOKなやつを紹介しておきます(下写真。ぜんぜんOKじゃないが)。

シェールは1946年、米カリフォルニア州生まれで、ネイティブアメリカン(チェロキー族)の血を引いており、母親が芸能界に身を置く人物でした。生まれてすぐに両親が離婚し、母親と2人で貧乏暮らしになったり、里子に出されたり、失語症になったりと、若いころはけっこう多難な時代をすごしました。

そんな折の16歳のとき、地元ロサンゼルスの喫茶店で、後に夫となるソニー・ボノと知り合いました。ボノは米ポップス界の名プロデューサー、フィル・スペクターとともに仕事をしていたミュージシャンだったこともあり、シェールはボノと組み、男女デュオ「ソニー&シェール」として歌手活動を開始。65年に出したシングル「I Got You Babe」が全米1位獲得の大ヒットとなり、大スターへの道を歩み始めました。

その後の人生はほぼ順風満帆。途中でソニーとは別れ、ソロになりましたが、「Gypsys, Tramps Thieves」(71年)、「Half Breed」(73年)といった全米1位の大ヒット曲をコンスタントに出していきます。その息はものすご〜く長く、98年に発売したダンス系のアルバム「ビリーヴ」は、全世界で2000万枚を売上げるという化け物ぶりを発揮しました。同名シングルも、全米一般チャートで4週連続1位、ディスコチャートでも5週連続1位となり、既に名曲を数多く歌ってきた彼女にとっても、最大のヒットとなっています。

しかし、これだけではありません。映画やテレビドラマでも大活躍し、87年には映画「月の輝く夜に(Moonstruck)」でアカデミー賞主演女優賞を獲得。歌手だけでなく、女優としても特大の成功を収めている稀有な人なので〜す。

さて、そんなシェールさんではありますが、70年代半ば、歌手としてはちょっとスランプの時期がありました。それまでのように、リリースする曲がベスト10に入らなくなったのです。従来のポップス路線からの転換をはかり、カサブランカレーべルから出したのが「Take Me Home」だったというわけです。「ひと肌脱いで、見事カムバック」といった感じだったのですね。曲の内容は「う〜〜ん、ディスコでしかないなあ」との一般の評価でしたけれども、気合勝ちだったのではないでしょうか。

カサブランカからは、「Take Me Home」と「Prisoner」(79年)の2枚のソロアルバムを出しています。どちらも「もろディスコ」!。彼女特有の少しもっさりした歌声も、ドンドコリズムに乗って全開であります。いかんせんディスコブームが終わる時期だったため、大ヒット曲は結局Take Me Homeだけでしたが、それでも、80年代にはポップ・ロック色を再び強め、スターの座を維持したのですからさすがです。

大物だけに、Take Me Home、PrisonerともにCD化もされております(オリジナルジャケで)。Believeについては、比較的最近のリリースで、しかも大量に発売されたため、中古価格は大暴落! アメリカのアマゾンでは日本円で「1円20銭」というのもありました。日本国内でも300円くらいで叩き売りです。まるでCDのワゴンセールで必ず見かける「シャンプー」「スノー」「スキャットマン・ジョン」のような扱いなのは、トホホですな。

Love & Kisses

ザ・リッチー・ファミリー (The Ritchie Family)

The Richie Family
ディスコヒット曲のメドレー「ディスコは恋の合言葉(The Best Disco In Town)」(76年、全米ディスコチャート1位)で有名なリッチー・ファミリーは、もともと米フィラデルフィアの高校の合唱クラブ仲間だったグエン・オリバーとカサンドラ・ウーテン、それに後から加わったシェリル・ジャックスの女性3人がメンバー。最初はモータウンのシュープリームスやパティー・ラベルのいたラベルの「もろディスコ版」のような感じで売り出し、時流に完璧に乗ってヒット曲を連発しました。

仕掛人はプロデューサーのリッチー・モールなる人物で、名前もそこからとっています。彼がフィラデルフィア・サウンドの発信源であるシグマ・スタジオで録音した「ブラジル」というインスト曲が75年、ディスコとチャートで7週連続1位となる大ヒットを記録。ツアーを行うために急遽、ボーカリストとしてグエンら3人を抜擢したのが結成のきっかけでした。

プロデュースには、リッチーのほかに、後にビレッジ・ピープルを手がけるジャック・モラーリも加わっていました。このため、特に「合言葉」を含む前期の作品については、ビレッジ・ピープル的な「大げさミュージカル」な曲調が目立ちますが、上げ潮のディスコの波に乗り、「アラビアン・ナイツ」(76年)、「ライフ・イズ・ミュージック」(77年)といったヒットを連発するようになりました。

ところが、77年に出した4枚目のアルバム「アフリカン・クイーンズ」を最後に、メンバーが3人とも変わりました。このころ、仕掛け人のリッチーも“追放”された格好となり、カサブランカ・レコードの中心人物でもあるジャックが、主導権を握るようになりました。

これに合わせた形で、ボーカルがベラ・ブラウン、ジャッキー・スミス、ドディー・ドラハーという同じような声質の女性3人に交代になったのでした。このあたりはいかにも、「ボーカルよりもまず踊れる曲づくり」という、70年代ディスコならではの流れですね。

その後も、とりあえず「アメリカン・ジェネレーション」(78年)とか「プット・ユア・フィート・トゥ・ザ・ビート」(79年)といった中ヒットを出しています。

このアーチストの転機は、やはり米国のディスコブームが終わった80年に訪れました。カサブランカが制作し、「最悪」と酷評されたかの大失敗映画「キャント・ストップ・ザ・ミュージック」のサントラに参加して以降、下降線をたどるのでありました。

ただし、このサントラに収録された「ギブ・ミー・ア・ブレイク」(80年、ディスコチャート25位)は、ボーカルに迫力があって非常によい曲です。新メンバーたちの声なのですけど、高音が伸びやかでなかなか上手い。曲調も凡百のディスコと違って「四つ打ち」の平板さが微塵もありません(断定)。サントラで“主役”のはずのビレッジ・ピープル「キャント・ストップ・ザ・ミュージック」よりも、存在感があるほどであります。それでも、セールス的にはさっぱりでした。

さらに82年には、「ピーター・ジャック・バンド」のジャック・フレッド・ぺトラスがプロデュースし、アルバム「I'll Do My Best」を今度はRCAレーベルからリリース。同じころにフレッドがプロデュースした、「パラダイス」などのヒットでおなじみの「Change」ばりに、めちゃめちゃイタリアン・ファンクな魅力を発揮しますが、これもいま一つの売上げ。完全に過去のグループとなりました。

こう見ていくと、機を見るに敏なレコード業界やプロデューサーたちに食いものにされ、あえなく捨て去られた感のあるリッチー・ファミリー。つまり、とてもディスコらしいグループだったとはいえるでしょう。何の因果か、ジャックは91年にエイズのため45歳で、フレッドも86年にトラブルに巻き込まれ銃撃されて37歳で、それぞれ短い生涯を終えています。

リッチー・ファミリーの再発CDは2種類。米国ホット・プロダクションズ(写真)と、カナダのユニディスクからベスト盤がでています。どちらも内容にさほど違いはありませんが、ユニディスク盤の方が音質がやや良く、「ギブ・ミー…」がロングバージョンで入っているのでオトクでしょう。
プロフィール

mrkick (Mr. Kick)

「ディスコのことならディスコ堂」----本名・菊地正憲。何かと誤解されるディスコを擁護し、「実は解放と融合の象徴だった」と小さく訴える孤高のディスコ研究家。1965年北海道生まれのバブル世代。本業は雑誌、論壇誌、経済誌などに執筆する元新聞記者のジャーナリスト/ライター/翻訳家。もはや踊る機会はなくなったが、CD&レコードの収集だけは37年前から地味〜に続行中。アドレスは↓
mrkick2000@gmail.com

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*最近多忙のため、曲名質問には基本的にお答えできません。悪しからずご了承ください。
*「ディスコ堂」の記事等の著作権はすべて作者mrkick(菊地正憲)に帰属します。

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