ディスコ堂 by mrkick

音楽に貴賎なし ―Discoの考察とCD批評

シック

チェンジ (Change)

Change1980年代に登場した「チェンジ」は、茶化すことなどとてもできない正統派R&Bディスコグループ。押しも押されぬ「うた職人」ルーサー・ヴァンドロスの小粋でメロウなボーカルには、誰もがうっとりすることうけあいです。

1970年代後半にディスコヒットを数多く飛ばしたイタリア人の「ディスコ仕掛け人」であるジャックス・フレッド・ぺトラス(Jacques Fred Petrus)が結成させた、イタリア系グループです。自らプロデューサーとなり、相棒のイタリア人作曲家マウロ・マラバシ(Mauro Malavasi)とともに1980年にデビューアルバム「The Glow Of Love」(左写真)を制作。ソロとして売り出す前のルーサーさんがいずれもリードボーカルの表題曲シングルと「踊りにくくて繋ぎにくい」シャッフルビートの「Searching」、それにコーラス中心の「A Lover's Holiday」は、全米ビルボードディスコチャートで1位に輝きました。

大成功したこのデビューアルバムには、私の一番のお気に入りのAngel In My Pocketという小気味よいアップテンポ・ディスコも入っています。ここではなんと「ディスコディーバ」ジョセリン・ブラウンさんがリードボーカル。いつもながら伸びのあるボーカルはもちろんのこと、イントロからの「ビロン!」と跳ね上げるベースライン、それにタイミングよく入ってくる格調高きストリングスが、忘れかけていた踊り心を否応なしにくすぐります。

翌81年には2作目「Miracles」を発表。この年、ルーサーさんはソロになって「ネバー・トゥー・マッチ」をメロメロメロウに大ヒットさせましたので、今回はバックボーカル程度。けれども、日本でもサーファーディスコとして大ヒットした「Paradise」と「Hold Tight」(ともに米ディスコ1位)は、前作のR&Bディスコの雰囲気を踏襲した佳作となっております。

このアルバム2作とも、なんだか往年のシックみたいな曲調ばかりではありますが、世界中で定着してきたシンセサイザーを本格的に導入して、もう少し音に厚みを持たせているのが特徴といえましょう。

翌82年に発表した3作目「Sharing Your Love」では、元ファットバック・バンドのボーカルで、後に「C+C Music Factory」で「ディーパー、ディーパー♪♪(ヒット作Deeper Loveより)」と雄たけびを上げるデボラ・クーパー(Deborah Cooper)らをリードボーカルに据え、「The Very Best In You」(米R&Bチャート16位、ディスコ30位)、「Hard Times」、「Oh What A Night」といったダンスチューンを小ヒットさせました。さすがに息切れしてきたようで、曲がどれも似通ってきたのは仕方ないところですね。

それでも、84年にはこれまたディスコの重要人物コンビであるジャム&ルイス(Jimmy Jam & Terry Lewis)をプロデューサーに起用。SOSバンドに代表される2人の特徴がモロに浮き出ている「Change Of Heart」は、R&Bチャートで7位まで上昇するヒットとなりました。

そして1985年、「Turn On Your Radio」を発表したのを最後に、グループは解散。翌86年には仕掛け人のジャックス・フレッドが謎の多い殺人事件で死亡(享年39)。チェンジは完全に過去の人たちになってしまったのでした。

このグループは、ジャックス・フレッドが中心だったため基本的にイタリア系といえますが、制作の多くは米国内で行われ、主に米市場で成功しています。「Walking On A Music」みたいなおバカでラテンで陽気なサウンドを源流とするイタロディスコと、シックでアーバンでニューヨーカーなR&Bサウンドが、とてもうまく融合した一例だったとはいえるでしょう。例えば、デビュー作には、「The End」というインストの不思議なシンセサイザーディスコ曲が含まれています。めちゃめちゃ浮いていて違和感があるのですけど、彼らの結成の経緯や背景を考えれば、うなずけるものがあるのです。

CDはまずまず再発されています。特に最近、発売された「The Glow Of Love / Miracles (Special Edition)」(英Harmless盤、右下写真)は、ルーサー・ヴァンドロスがいたころの全盛期のアルバム2枚全曲と12インチバージョン数曲が収録されていてお得感があると思います。

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ナイル・ロジャーズ (Nile Rodgers)

NileRodgers勢いがあるうちにどんどん進めましょう。今回は押しも押されぬ大御所ナイル・ロジャーズでありま〜す。「おしゃれフリーク」でお馴染みシックの中心人物で、黒人音楽の枠組みにとらわれないディスコ文化そのもの立役者。プロデューサーとしても超高名で、1980年代にはかのダイアナ・ロスデヴィッド・ボウイ(レッツ・ダンス)、マドンナ(ライク・ア・ヴァージン)、デュラン・デュラン、INXSといった大物たちを強力にバックアップしました。

彼の音楽界における功績は言うまでもありません。このブログでもシックは早い段階で取り上げています。でも、私が今回再び光を当てようとしたのは、最近読了した彼の自叙伝「Le Freak: Upside Down Story of Family, Disco and Destiny」(下写真、邦題にしたら「おしゃれフリーク秘話:家族、ディスコ、運命の波乱万丈」みたいな感じ)に触発されたのみならず、ソロ・アーチストとしてのナイル・ロジャースにちょっと注目したかったからなのです。

アメリカでディスコが衰退した1980年を境にシックの人気も低落すると、彼はダイアナロスのアルバム「アップサイド・ダウン」をプロデュースして大成功を収めます。続けてデビッド・ボウイなどから次々とオファーが来るわけですが、「俺もここらで自分自身の音楽を追及したいぜ」とばかりに、並行して83、85年に2枚のソロアルバムを出しました。

1枚目の「Adventures In The Land Of The Good Groove」は、ディスコ期ほどの派手さはないものの、ナイル自身が奏でるシック伝統のカッティングギターと、セッションに参加しているシックの相棒バーナード・エドワーズの正確無比なベースが小気味よく決まっていて、心地よく耳に馴染みます。

シングルカットされた「Yum Yum」(Fatbackの曲とは関係ない)は、イントロからドラムボックスが「ズンタ、ズンタ♪」と入ってきて、ラップ風のボーカルが重なってくるパターン。「さすがは試合巧者ナイル!」と叫びたくなるイイ感じのダンスナンバーに仕上がっています。ほかにも、「Get Her Crazy」のように、ディスコではなかなかしっくりこないギターを「これでもか!」とリズミカルに演奏するナイルの面目躍如たる曲が目白押しです。

ところが、渾身のソロデビュー作も、セールス的にはさっぱりでした。ナイル自身、自伝の中で「ディスコブームが終わり、グループとしてもソロとしても売れずに苦しかった」などと述懐しています。

…しかしまあ、アルバム自体は駄作ではなかったと思います。何しろ、プロデューサー業ではたんまりと儲けていたわけですしね。自伝でも、ダイアナ・ロス作品のプロデュースをきっかけに、破竹の勢いで大成功していった経緯を詳説しています。

問題は、ソロ2作目「B-Movie Matinee」(上写真)。全体的には、当時台頭していた「フリースタイル」の雰囲気をたっぷりと取り入れた「80年代しゃきしゃきシンセサイザー」の雨あられで、かつナイルのギターもボーカルもしっかりと絡んでいて、私としてはとても満足。けれども、1曲だけ、奇妙奇天烈摩訶不思議、実に変てこなのが混じっていて邪魔なのです。

その曲とは「Let's Go Out Tonight」(YouTubeで試聴)。若い男女が「さあ外に遊びに出かけよう!」みたいにはしゃぎ合う風情の曲です。理由は不明なのですが、曲の中でなんと日本語の「どっか遊びに行こうよ!」「遊ぼうぜ今夜」「めちゃくちゃ踊りたい」「ああ、すっごく踊りたい」「死ぬほどダンスしたい」「なんですか?」といったあほあほフレーズが大量に出てくるのです。なんだか、渋谷や六本木の街角で外国人が日本人女性を必死にナンパしているようなお間抜け感が漂います。

私はこのアルバムを仕事をしながら途中まで気持ちよく聴いていたのに、4曲目の「Let's Go Out…」が入った途端、椅子から転げ落ちそうになりました。「ああ、やっちゃったよ、天下のナイル…」。死ぬほど残念な思いに駆られたのは言うまでもありません。

歌詞に日本語が入っている洋物ディスコといえばテイスト・オブ・ハニー「サヨナラ」、ディスコでよく耳にしたロックのスティックス「ミスター・ロボット」、テクノディスコのクラフトワーク「電卓」あたりが思い浮かびます。それにしても、「Let's Go Out…」はホント連呼していますので、エキゾチックに聞こえる外国人ならまだしも、日本人としてはかなりトホホな感じになってしまうのですね。

この「Let's Go Out…」ですが、実はソロとしてはぱっとしなかったナイルにとっては唯一、チャートイン(全米R&Bチャート35位、ディスコチャート38位)した曲です。こりゃまた皮肉なことです。

自叙伝については、複雑な家庭環境と黒人差別、ブラックパンサー運動(反差別運動)への参加、ドラッグと酒に溺れた生活ぶり、マドンナと仕事した際の印象、デヴィッド・ボウイとの感情の擦れ違いなどなど、プライベートな話も含めて赤裸々に語っております。音楽では天才ぶりを発揮しつつも、60-70年代を生きたほかの黒人と同様の苦悩も経験していたようです。

上記2枚のソロアルバムはCD化されています。どこかで見つけたら、「おとぼけナイル」の少々ほろ苦い青春の一ページをめくってみるのも一興かもしれません。

ちなみに、彼は今年初め、前立腺がんにかかっていることを告白しています。自身のブログでは、闘病生活について日々つづっています。そのブログで、先日、彼が友人たちとや りとりしているコメント欄に簡単な励ましのメッセージを書いたら、間もなく「Thanks, Masa --- Nile」と返事が来たので、ちょっと感激いたしました。

NileRodgersBook

ダイアナ・ロス (Diana Ross)

Diana Ross黒人女性歌手のトップスター、ダイアナ・ロスは、マイケル・ジャクソンの長年の親友でもあったことはよく知られています。

1960年代、希代の大人気黒人コーラスグループ「シュープリームス」の事実上のリーダーとして活躍したダイアナは、60年代末にはソロ活動を本格化、同時に、同じモータウンレーベル所属のアイドルとして売り出し中だったジャクソン5を、いわば“弟分”として自分のコンサートなどで紹介しています。このころに“少年マイケル”との友情も芽生えたのでした。

70年代に入ると、ほぼ完全にソロ歌手となります。シュープリームスのほかのメンバーとの確執も深まったわけですが、セールス的にはまずは順調で、「Ain't No Mountain High Enough」(70年、ビルボード一般、R&B各1位)、「Touch Me In The Morning」(73年、一般1位、R&B5位)などのヒットを出しました。それでも、飛ぶ鳥落とす勢いだったシュープリームス時代と比べると、やや影が薄くなったとの感は否めませんでした。

そんなダイアナは1976年、「Love Hangover(ラブ・ハングオーバー=恋の二日酔い)」などのディスコソングが収録されたアルバム「Diana Ross」を発表しました。この「二日酔い」はディスコブームの時流にうまく乗っかり、全米ビルボード一般、R&B、ディスコの各チャートで1位を獲得し見事「三冠女王」を達成したのでした。

この人は美貌もウリの一つでして、女優としても実績を重ねています。ビリー・ホリデイの生涯をモチーフにした「ビリー・ホリディ物語」(72年)で主演したのは有名ですが、78年には、「オズの魔法使い」の黒人版である「The Wiz(ザ・ウィズ)」でマイケルジャクソンと夢の共演を実現しています。

この「ウィズ」は、興行的には大コケしたものの、クインシー・ジョーンズがプロデュースしたサントラはヒットしました。特に、マイケルとのデュエットである「Ease On Down The Road」は、ディスコ史に燦然と輝く名曲であります。マイケルにとっても、この映画でクインシーとの出会いを果たし、両雄の協力関係はやがて「オフ・ザ・ウォール」、続いて「スリラー」という歴史的ヒットアルバムとして結実することになります。

ダイアナは79年には、ディスコ満開のアルバム「ザ・ボス」(ディスコチャート1位)を発表。この中からはお馴染み「ザ・ボス」、「ノー・ワン・ゲッツ・ザ・プライズ」などがフロアで大人気となりました。

そして1980年には、シックのナイル・ロジャースとバーナード・エドワーズをプロデューサーに迎えて“ダメ押し”ディスコアルバム「ダイアナ」を発表。ナイル・ロジャース側とモータウンが出来栄えを巡って対立するハプニングがあったものの、収録曲の「アップサイド・ダウン」が一般、R&B、ディスコの各チャートで1位、ゲイ・ピープルの“カミング・アウト”賛歌の「アイム・カミング・アウト」が一般チャートで5位に入るなど、セールス的には大成功しました。

その後は少し勢いが衰えたダイアナさん。でも、ディスコ的には、ダリル・ホールがバック・ボーカルで参加した「Swept Away」(84年、ディスコ1位)、マイケルがバック・ボーカルで参加した「Eaten Alive」(85年、同3位)、「チェイン・リアクション」(86年、同7位)など、順調に「ディスコでも女王と言われたい」状態を持続しました。このあたりの80年代の曲は、私もディスコでずいぶんと耳にしました。とりわけSwept Away(スウェプト・アウェイ)は、アーサー・ベーカーのフリースタイルっぽいミックスが秀逸でした。

ディスコ・クイーンといえば、一般的にはドナ・サマーということになりますが、ダイアナさんは黒人歌手の「クイーン・オブ・ポップ」とさえ称されるだけあって、ディスコ系の曲でもまんべんなく名曲を世に送り出しています。そのキャリア、曲群は一度の投稿ではとても紹介しきれません。

今回のマイケルの悲報に接し、ダイアナは「突然のことであまりに悲しい。彼の家族や子供たちために祈りを捧げたい」といったコメントを発表していますが、多くを語ろうとはしていません。あまりにもショックを受けたためか、先日の追悼式にも「独りになって喪に復したい」と欠席しました。

実は、ダイアナ自身も、シュープリームス時代の仲間との仲たがいだけでなく、私生活で結婚、離婚を繰り返したり、5人の子のうちの1人が、モータウン創始者のベリー・ゴーディーとの間にできた子であることが後にバレたり、けっこうセレブ特有の波乱の人生を歩んでいます。

マイケルとは60年代後半の出会いの後、ずっと公私ともに友人としての付き合いがあったようです。スーパースター同士、周囲になかなか明かせぬ孤独感を互いに理解し合っていたのかもしれません。最近、やたらとCD/DVD店で見かけるUSAフォー・アフリカの「ウイ・アー・ザ・ワールド」(85年に大ヒットしたチャリティー曲)でも、マイケルとダイアナが、仲良く同じパートを掛け合いで歌っていてなんだか象徴的です。

写真上のCDは、ディスコ系アルバムとしての代表格「ザ・ボス」。1999年にモータウンで発売された盤で、「ザ・ボス」の12インチバージョンが収録されています。写真下のCD「ダイアナ」は、「ラブ・ハングオーバー」「シュープリームス・メドレー」をはじめ、相当に貴重な12インチバージョンが収録されたデラックス盤です。「ディスコのダイアナ・ロス」を知るには、このあたりが基本になるかと思います。

Diana

シスター・スレッジ (Sister Sledge)

Sister Sledge「シスター・スレッジ」は米フィラデルフィア出身の仲良し4人姉妹。1971年にデビューし、マイナーヒットをいくつか出した後、1979年に大転機が訪れます。シックのナイル・ロジャースとバーナード・エドワーズのプロデュースによる「ウィ・アー・ファミリー」がメガヒット(全米ディスコ、R&Bチャート各1位、一般チャート2位)し、代表的ディスコグループとして定着したのでした。

あまりにも有名すぎる「ウィ・アー…」は、同名アルバムの一曲。「ヒー・イズ・ザ・グレイテスト・ダンサー」、「ロスト・イン・ミュージック」、「シンキング・オブ・ユー」といった他のアルバム収録曲も、ディスコの定番であります。もちろんCD化(写真上)もされておりまして、ディスコ好きにとってはお得な必須盤となっています。

デビューから8年間はさほど売れていなかったわけですから、「ディスコで突然ブレイク」型の典型アーチストといえるでしょう。飛ぶ鳥落とす勢いだった“シックの2大巨頭”がプロデュースを担当してくれたことが幸いしたとしかいいようがありません。

ただ、「シックの姉妹グループ」としての扱いになってしまったのは確かで、ほかの人のプロデュース作品は概ね売れていません。「ほかの人」といっても、ジョージ・デュークだったり、ナーラダ・マイケル・ウォルデンだったりと、超メジャーな人々でして、曲自体は良いものがたくさんあるわけです。やはり「シックあってのシスタースレッジだった」ということなのでしょう。

さて、彼女たちを支えたシック作品の中で、私がもっとも気に入っているのは1985年発売のアルバム「When The Boys Meet The Girls」(写真下)です。「ウィ・アー…」と同様、シック特有のストリングス中心のやや軽い音調なのですが、全体的におどけたような明るいメロディーが展開し、それに乗せた彼女たちの健康的で弾むようなボーカルがかなり効いています。

このアルバムの中では当時、アルバム同名曲と「フランキー」という曲がディスコで流れました。「When The…」については、私も12インチを買いまして、相当に聴きこんだ覚えがあります。ただし、ナイルさんのカッティング・ギターは「さすがのリズム感!」と思わせるものの、ドラムの低音が薄っぺらいため、踊りには向いているとは思いませんでした。

シスター・スレッジは1990年代に入っても元気に活動を続けました。特にイギリスでは本国以上に人気で、「ウィ・アー…」や「ロスト・イン・ミュージック」などのかつてのヒット曲のリメイクも盛んに制作されています。それでも、「栄光の79年」の印象があまりにも強いため、80年代以降はどうしても「消化試合」といった感が強いグループです。

一応メジャーなので、出したアルバムはことごとくCD化されています。いずれも入手は容易な部類です。

sister sledge
プロフィール

mrkick (Mr. Kick)

「ディスコのことならディスコ堂」----本名・菊地正憲。何かと誤解されるディスコを擁護し、「実は解放と融合の象徴だった」と小さく訴える孤高のディスコ研究家。1965年北海道生まれのバブル世代。本業は雑誌、論壇誌、経済誌などに執筆する元新聞記者のジャーナリスト/ライター/翻訳家。もはや踊る機会はなくなったが、CD&レコードの収集だけは37年前から地味〜に続行中。アドレスは↓
mrkick2000@gmail.com

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