The Richie Family
ディスコヒット曲のメドレー「ディスコは恋の合言葉(The Best Disco In Town)」(76年、全米ディスコチャート1位)で有名なリッチー・ファミリーは、もともと米フィラデルフィアの高校の合唱クラブ仲間だったグエン・オリバーとカサンドラ・ウーテン、それに後から加わったシェリル・ジャックスの女性3人がメンバー。最初はモータウンのシュープリームスやパティー・ラベルのいたラベルの「もろディスコ版」のような感じで売り出し、時流に完璧に乗ってヒット曲を連発しました。

仕掛人はプロデューサーのリッチー・モールなる人物で、名前もそこからとっています。彼がフィラデルフィア・サウンドの発信源であるシグマ・スタジオで録音した「ブラジル」というインスト曲が75年、ディスコとチャートで7週連続1位となる大ヒットを記録。ツアーを行うために急遽、ボーカリストとしてグエンら3人を抜擢したのが結成のきっかけでした。

プロデュースには、リッチーのほかに、後にビレッジ・ピープルを手がけるジャック・モラーリも加わっていました。このため、特に「合言葉」を含む前期の作品については、ビレッジ・ピープル的な「大げさミュージカル」な曲調が目立ちますが、上げ潮のディスコの波に乗り、「アラビアン・ナイツ」(76年)、「ライフ・イズ・ミュージック」(77年)といったヒットを連発するようになりました。

ところが、77年に出した4枚目のアルバム「アフリカン・クイーンズ」を最後に、メンバーが3人とも変わりました。このころ、仕掛け人のリッチーも“追放”された格好となり、カサブランカ・レコードの中心人物でもあるジャックが、主導権を握るようになりました。

これに合わせた形で、ボーカルがベラ・ブラウン、ジャッキー・スミス、ドディー・ドラハーという同じような声質の女性3人に交代になったのでした。このあたりはいかにも、「ボーカルよりもまず踊れる曲づくり」という、70年代ディスコならではの流れですね。

その後も、とりあえず「アメリカン・ジェネレーション」(78年)とか「プット・ユア・フィート・トゥ・ザ・ビート」(79年)といった中ヒットを出しています。

このアーチストの転機は、やはり米国のディスコブームが終わった80年に訪れました。カサブランカが制作し、「最悪」と酷評されたかの大失敗映画「キャント・ストップ・ザ・ミュージック」のサントラに参加して以降、下降線をたどるのでありました。

ただし、このサントラに収録された「ギブ・ミー・ア・ブレイク」(80年、ディスコチャート25位)は、ボーカルに迫力があって非常によい曲です。新メンバーたちの声なのですけど、高音が伸びやかでなかなか上手い。曲調も凡百のディスコと違って「四つ打ち」の平板さが微塵もありません(断定)。サントラで“主役”のはずのビレッジ・ピープル「キャント・ストップ・ザ・ミュージック」よりも、存在感があるほどであります。それでも、セールス的にはさっぱりでした。

さらに82年には、「ピーター・ジャック・バンド」のジャック・フレッド・ぺトラスがプロデュースし、アルバム「I'll Do My Best」を今度はRCAレーベルからリリース。同じころにフレッドがプロデュースした、「パラダイス」などのヒットでおなじみの「Change」ばりに、めちゃめちゃイタリアン・ファンクな魅力を発揮しますが、これもいま一つの売上げ。完全に過去のグループとなりました。

こう見ていくと、機を見るに敏なレコード業界やプロデューサーたちに食いものにされ、あえなく捨て去られた感のあるリッチー・ファミリー。つまり、とてもディスコらしいグループだったとはいえるでしょう。何の因果か、ジャックは91年にエイズのため45歳で、フレッドも86年にトラブルに巻き込まれ銃撃されて37歳で、それぞれ短い生涯を終えています。

リッチー・ファミリーの再発CDは2種類。米国ホット・プロダクションズ(写真)と、カナダのユニディスクからベスト盤がでています。どちらも内容にさほど違いはありませんが、ユニディスク盤の方が音質がやや良く、「ギブ・ミー…」がロングバージョンで入っているのでオトクでしょう。