Quincy Jones 70年代ディスコは競争激しかったんだよ。クインシー・ジョーンズは、ジャンルを超えた現代音楽屈指の天才アーチストですけど、ディスコといえば「愛のコリーダ」に尽きます。今までほとんど無視していたことが判明したので、ここら辺で紹介しておこうと思いました。

1933年シカゴ生まれで10歳のころにシアトル近郊に移住。小学校のスクールバンドであらゆる楽器をこなす主役として活躍し、やがて地元で同様に音楽活動を始めていた3歳年上のレイ・チャールズと出会い、ジャズの世界にのめりこんで生きました。その後はとんとん拍子に出世し、ジャズ界の名トランペッターおよびアレンジャーとして名を馳せることになります。

ディスコっぽくなってきたのは、1978年の「Sounds...And Stuff Like That!!」。チャカ・カーン、アシュフォード・シンプソン、パティ・オースチン、ルーサー・バンドロス、ハービー・ハンコックなどなど、「クインシー一家」と言ってもよいほど、超贅沢なメンバーが参加して制作されました。曲としては、「Stuff Like That」とか「Love, I Never Had It So Good」あたりがダンサブルなのですが、やはりまだジャズ・フュージョン色が濃い内容になっています。

彼が「いっちゃえ、いっちゃえ! ディスコ満開!」状態になったのは、79年に彼が全面プロデュースしたマイケルジャクソンの「オフ・ザ・ウォール」です。特にヒットしたのは「今夜はドント・ストップ」と「ロック・ウィズ・ユー」で、この2曲のカップリングで全米ディスコチャート2位まで上昇しました。

そして、81年、かの「愛のコリーダ(Ai No Corrida)」や、パティ・オースチンがボーカルをとった「ラズマタズ」を含む大ヒットアルバム「The Dude」(写真、アルバムとして全米ディスコチャート最高3位)を発表したわけです。

当時は、米国では既にディスコブームが終わった後でしたが、帝王クインシー・ジョーンズだけに、「ダサい」と言われずに済みました(笑)。まあ実際、かつてのドンドコディスコではなく、「都会的なダンスミュージック」といった内容だったので、さすがにうまくまとめた感じです。

愛のコリーダは、チャス・ジャンケルという人のオリジナル曲で、日本語そのものの「愛の(Ai No)」とスペイン語の「Corrida=闘牛士」の合成語です。組み合わせると「愛の闘牛士」…って、急にトホホな気分に陥ってしまいました。

しかし、この曲は日本のディスコでも大ヒットしまして、私のいた札幌では、何だか知りませんが、サビのところで、両手を使って輪を作るような変な振り付け(説明不可能)が流行っていました。

クインシーさんは翌82年、マイケルの最高傑作「スリラー」をプロデュースして大もうけ!、ということになります。彼自身の音楽人としての絶頂期は、このころだったのではないでしょうか。

ディスコ的には、それ以降はあまり見るべきものはなし(断定)。ただし、相変わらず大物アーチストを集めてジャズ/ヒップホップ風のアルバム「Back on the Block」(89年)を出してみたり、映画音楽をやってみたりと、余裕の王道人生を歩んでいます。

グラミー賞のノミネートが現在最高の76回で、うち26回受賞しています。「欲しいものは何でも手に入れた」クインシーさんですが、集中的にディスコをやったといえる80年前後の数年間は、私にとっては非常に強い印象を与え続けております。