ディスコ堂 by mrkick

音楽に貴賎なし ―Discoの考察とCD批評

ドナ・サマー

キャプテン・アンド・テニール (Captain & Tennille)

Captain and Tennilleいやあお久しぶりで〜す。今回は、これまで何度となく取り上げてきた「ディスコで復活狙い」のパターンを再び。楽器もやるけどダ・カーポやチェリッシュみたいな米国の仲良し夫婦ポップデュオ「キャプテン・アンド・テニール」を紹介しておきましょう。

1942年生まれのDaryl Dragon(ダリル・ドラゴン。ニックネームは「キャプテン」)、40年生まれのToni Tennille(トニー・テニール)の夫婦2人ともに、1970年代前半にはビーチ・ボーイズのキーボード担当のバックミュージシャンでした。

結婚したのは1975年で、その年にデュオとして初のアルバム「 Love Will Keep Us Together」(邦題・「愛ある限り」)をA&Mレコードからリリース。シングルカットされたニール・セダカの曲のカバーで軽快極まるアルバムタイトル曲が、いきなり全米ビルボード一般チャート1位に輝きました!

その後毎年、A&Mからアルバムを発表し、ジャングル風のイントロからいきなり弾むように展開する爽やか系「Lonly Night (Angel Face)」(全米一般チャート3位)などのヒットを連発しましたが、78年に出した4枚目「Dream」があまり売れず、A&Mとの契約は解除になってしまいました。

そこに目を付けたのが、ドナ・サマービレッジ・ピープルが在籍していた「ディスコの殿堂」カサブランカ・レコードの社長、ニール・ボガートです。2人を説得して移籍させて、アルバム「Make Your Move」(写真、YouTubeで視聴可)をリリースしました。このアルバムからはしっぽりバラードの「Do That To Me One More Time」がなんと全米一般チャート1位となり、再びトップスターの座に返り咲くことになったのです。

このアルバムは夫ダリルがプロデュース。「Do That…」などのバラード数曲をのぞくと、けっこうなディスコ路線(カサブランカだから当たり前)です。特にA面4曲目「How Can You Be So Cold」は、もう最初からどんどこ四つ打ちディスコビートが炸裂し、そこにトニーのややハスキーなアルト&メゾソプラノの歌声が伸びやかに躍動するパターン。中盤ではディスコDJが次の曲と繋ぎやすいように長めの間奏(ブレイク)が入ってきて、印象的なベースラインやホーンセクションが織り込まれています。

B面2曲目「Happy Together」も正統派ディスコのノリを踏襲しています。やはり60年代に活躍した米国のロックバンド「ザ・タートルズ」の代表曲のカバーなのですが、途中でシタールの音色や馬の足音が入ってくるなど、珍妙なオリエンタル感覚で攻め立てています。

2005年に米ユニバーサル・ミュージックから発売された「Make Your Move」の再発CDのライナーノーツには、トニー自身が寄稿しているのですが、このアルバムについて「ダリルの一風変った解釈が詰まっている『中東の砂漠風ディスコ』なのよ」と説明しています。まあヒットしたのはバラードの「Do That…」だったわけですけど、かつてはポップスで一世を風靡したこの人たちにも、立派に「ディスコ期」があったわけです。

この後、2人は80年にカサブランカからもう1枚、アルバムを出しますが、これは不発に終わり、音楽業界の表舞台からは遠ざかっていきます。今は2人とも70代半ばになりますが、つい2年前に離婚しており、それぞれ米国内で静かに余生を過ごしているようです。

THPオーケストラ (THP Orchestra)

THPいやあ再び秋も深まってまいりました。本日は日本の“元祖DJ”一遍上人(以前の投稿ご参照)ゆかりの遊行寺(神奈川県藤沢市)を久しぶりに訪れ、700年前の大解放ディスコである踊り念仏の国宝絵巻を特別展でとくと拝見してテンションも高まって参りましたので、どど〜んと心拍数上がりまくりの「必殺攻め攻めディスコ」を紹介いたしましょう。

時は1976年、ディスコブームが世界を覆いつくそうとしていたころです。カナダからTHPオーケストラなるディスコグループが現れました。英国人ミュージシャンのウィリー・モリソン(Willi Morrison)とイアン・ゲンター(Ian Guenther)のプロデュースにより、あからさまに「踊らば踊れ」のあげあげディスコを連発したのです。

デビューアルバム「Early Riser」は、タイトル自体は「早起きさん」と珍妙ですけど、アメリカの人気アクションドラマ「特別狙撃隊S.W.A.T.」のテーマ曲のディスコアレンジ「Theme From S.W.A.T.」など軽快なインストものが主に収録されており、「無難にまとめたな」感が強い。

続く77年発売の「Two Hot For Love」は、無名の女性ボーカリストであるBarbara Fry(バーバラ・フライ)を起用。以前取り上げたアレック・R・コスタンディノスとかセローンみたいなユーロディスコの影響を受けた長尺ものが注目点で、全米ディスコチャートではアルバムタイトル曲が3位まで上昇し大ヒットしました。ですが、まだまだあげあげマックスとはいかない感じで物足りなさが残ります。

78年の3枚目アルバム「Tender Is The Night」では、後に「Boys Will Be Boys」というアップリフティングな曲が全米ディスコチャートで8位(79年)を記録したダンカン・シスターズ(Duncan Sisters)がボーカルを務め、アルバムタイトル同名曲「Tender Is The Night」(米ディスコチャート14位)など、ストリングス中心のなかなかパワフルなダンスチューンを繰り出しました。それでも……やっぱり大きな特徴は見出せず、「血沸き肉踊る」ような躍動感を実現したとまでは言い難いのです。

そんなわけで、私が強烈に心ひかれる名盤とさせていただくのは、79年発売の4枚目「Good To Me」であります。もう、なんといってもボーカルが特別にユニークかつ変てこ(しかしとても上手)。ちょいとチャールストンみたいな風情も醸す歌声のジョイス・コブ(Joyce Cobb)というこれまた無名の女性なのですが、アルバムタイトル同名曲「Good To Me」(同16位)なんて、「せんっ、せいしょ〜ん(sensation)」とか、「ばん、ばあああああん(Bang Bang)」といった具合に、完全に人を食っているのか、いや実は確信犯で自らのアイデンティティーを懸命にアピールしているのか、とにかく絶対に忘れられない(忘れさせない)インパクト炸裂!「びんびろ〜ん」と繰り出される忘れ難いギターリフとの相乗効果で、虎視眈々と聴く者のダンスフロア魂をくすぐるのでした。

このアルバム全編を貫く曲調、というか節回しもそこはかとなく絶妙です。恐ろしくキャッチーな上に、よくよく聴いてみると、以前よりもドラムのキックが一段と強くなり、同年発売のドナ・サマーホット・スタッフ」並みにロックディスコ化しております。それにあの唯一無二のボーカルが乗っかってくるわけですから、(やや面食らいながらも)フロアに突進するしかないでしょう。これではかの一遍さんも、700年の時空を超え、ご自慢の鐘を鳴らしながら一緒に踊り狂わずにはいられますまい。

このアルバムではもう一つ、「Dancin' Forever」という曲もなんだか素晴らしい。「ビーウィズユー♪」「ダンシ〜ン♪」と連呼するコーラス部分では、「デン、デン、デン、デン…」と律儀に進行する四つ打ちドラムに合わせて、思わず両腕を前後に元気よく振って前進したくなる衝動に駆られる「早足の行進曲」とでも言える代物です。ディスコものだけでも1万枚・5万曲を超すCDやレコードを聴いてきたわけですけど、こんな曲、ほかにはあんまり見当たりません。

以上4枚のアルバムともに「モリソン&ゲンター」のコンビで作られたのですが、この辺で彼らの不思議なディスコワールドも終焉を迎えます。80年に入ってディスコブームが下火となり、レコード会社が倒産するなどして低迷し、表舞台からは消え去ってしまうのです。モリソンさんの方は、バブル期の1986年にもろデッド・オア・アライブを意識した「Pistol In My Pocket 」(Lana Pellay)なる曲を少しヒットさせました。私もこの曲は新宿や渋谷のディスコでかなり耳にしましたが、やっぱりこの人は「オーケストラ」というぐらいですから70年代の人なわけです。

THPはディスコ的には比較的重要なアーチストにもかかわらず、長くCD化はされていませんでした。2年前にようやく、英Harmless社から全4枚がどど〜んと再発(上写真はその1つで2枚組)となり、しかも思ったより音質もよいため、ディスコ好きには大変喜ばれております。

ロバータ・ケリー (Roberta Kelly)

Roberta Kellyドナサマー追悼で3年ぶりに踊りに行ったら腰をやられて1日寝込みました……というわけで、老体にムチ打って今回ご紹介するのは、ドナさまにはかないませんけど、しかしドナさまとも濃密に絡み合いながら、ディスコ史にしっかりその名を刻んだロバータ・ケリーさんで〜す!(カラ元気)

え〜と、このジャケット(左写真)からまずはスタートです。どうです? もうすっかりアフロな笑顔が弾けてるでしょう? それもそのはず、ロバータさんは、ディスコ黎明期の70年代前半には既にディスコ界にちょろりと顔を出し、かの「ミュンヘン・ディスコ」の先鞭をつけた偉人なのでありました。

1942年、米ロサンゼルス生まれ。幼少時にゴスペル音楽で喉を鍛え上げ、地元でソウルグループのリードボーカルを務めるなどの活動を始めました。米モータウンレコードの関係者から評価され、デビュー寸前までいったこともあります。それでも、やはり芽が出なかったので、70年代初頭、30歳ごろになって一念発起、ドイツに旅立ちます。

そのころのドイツ(旧西ドイツ)は、72年のミュンヘン五輪に向けてエンターテインメント界も各種イベントを計画するなどして、明るく盛り上がろうとしていました。「ナチスの悪夢」から逃れ、新しいドイツを築こうと懸命だったのです。つまり、ドナ・サマーと同様にロバータさんも、“オリンピック祭り”に加わってチャンスをうかがおうと考えたのです。

現地でロバータさんは、「フライ・ロビン・フライ」を後に大ヒットさせるシルバー・コンベンションの歌手ペニー・マクリーン、さらに68年にミュージカル出演のために訪独して下積み時代を送っていたドナ・サマーとも知り合うことになります。ドナとは、同じアフリカ系米国人の修行中の歌手として、すぐに意気投合しました。ここで、大物プロデューサーであるジョルジオ・モロダーとその相棒ピート・ベロッテとの繋がりも生まれたのでした。

ロバータさんはまず、74年にジョルジオらのプロデュースで「Kung Fu's Back Again」というトホホなカンフーものディスコでデビューしたもののあまり売れず、75年の「フライ・ロビン・フライ」のボーカルの一人として参加します。これは大ヒットしたものの、レコードのクレジットには彼女の名前が記されないという残念な結果に終わりました(特に黒人女性歌手にはよくあることだったのだが)。

転機が訪れたのは30代も半ばになった76年のことでした。同様にジョルジオ&ピートが手掛けた「Trouble Maker」がようやく欧米で大ヒット(米ディスコチャート1位)。続く「Zodiacs(邦題:恋の星占い)」も世界中のディスコで人気となりました。

このころには、「ジョルジオ繋がり」でドナ・サマーとともに米カサブランカ・レコードに移り、いよいよメジャー化するかと思われました。親友のドナが猛烈な勢いでスターダムにのし上がる中、78年に満を持して、ゴスペル曲で構成された珍しいディスコアルバム「Gettin' The Spirit」を発表したものの……不発に終わりましたとさ。残念!

その後、二度と表舞台には出てこなくなってしまったロバータさん。とはいえ、前述の「Kung Fu's…」は、おとぼけサウンドとはいえ、ジョルジオによるプレミア付き初期ディスコではあります。五輪後の本格的なドイツの経済成長と軌を一にして登場した、バカラ、ジンギスカン、ボニーM、アラベスクといった底抜けに明るいミュンヘン・ディスコの礎をジョルジオ、ピート、ドナらとともに築いたのは確かなのです。

CDについては2-3年前、再発レーベル「Gold Legion」から2枚発売されました。代表曲「Touble Maker」や、雰囲気のいいミデアムテンポのリメイクダンス曲「Love Power」が入ったアルバム「Trouble Maker」、それと「Zodiac」やノリの良い「Love Sign」が入った“アフロな占い歌謡アルバム”「Zodiac Lady」(上写真)であります。

2枚のうち、「Trouble Maker」には詳細なライナーノーツ(英文)がついており、在りし日のドナ・サマーやジョルジオ・モロダーのコメントも載っていてとても貴重です。ドナさまは70年代初頭のミュンヘン暮らしを振り返り、ロバータについて「彼女とその母親は、私の娘ミミの子守りをよくしてくれたわ。あれ以来、私たちはずっと友達なのよ」などと語っています。

一方、ジョルジオさんは「ロバータもドナも、あるアメリカのアーチストのデモ音源を制作するために起用した。2人とも素晴らしい声の持ち主だったから、別々に歌手として売り出したかったんだ」と語っています。

70年代半ばの同時期、ドナさんには音楽史に残るほどに実験的な「Love To Love You Baby」や元祖テクノディスコ「I Feel Love」を手掛けて大成功を収めたのに対し、ロバータさんには「二番煎じっぽいカンフーもの」とか脱力の「占いもの」だったとは…。そこが運命の分かれ道でした。厳しいぜよ、ジョルジオ(いきなり土佐弁)…と、ここはしんみり訴えておきましょう。

カサブランカ・レコードの真実 (「And Party Every Day」書評)

CasablancaBook「カサブランカ・レコードは、当たって砕けろ精神と自己中心主義を地でゆく『1970年代』そのものだった。私たちは創立からたった5年の間に、従業員を4人から175人に、所属アーチストを1組から140組以上にまでそれぞれ増やし、アカデミー賞の受賞、映画部門の設立まで実現したのだ」

冒頭にこんな一節が登場するのが、ラリー・ハリス(Larry Harris)が著した「And Party Every Day」です。米国が生んだ空前絶後のディスコレーベル「カサブランカ・レコード」の副社長だった人物。カサブランカ創業社長のニール・ボガート(Neil Bogart)の従兄弟であり、草創期からの片腕でもありました。そんなインサイダーの彼が、1973年の設立前後からの「カサブランカディスコ伝説」を振り返っている内容です。

「ディスコ=軽くてダサい」が定着し過ぎている日本では、資料価値のあるディスコのまともな解説書がほぼ皆無なので、私は洋書でよくディスコ関連の本を読むのですが、この書は出色だと思いました。さすがにディスコの本場欧米発の本ではあります。もちろん、エンターテインメント業界(しかもディスコ)の回顧録だけに、自嘲気味のユーモアや「浮かれた時代」への皮肉な描写もたっぷり含まれていて面白いのですけど、本質的には真面目で事実に忠実なドキュメントである点が高評価です。

登場人物の主役は、やはりディスコが生んだ最大の名物男の奇才ニールです。もともと小ヒットも持つポップス歌手だった彼は、ブッダ・レコード(Buddah Records)幹部を経て独立し、同じブッダでプロモーションを担当していたラリーらとともにカサブランカ・レコードを創立。ロサンゼルスを拠点とし、キッス(Kiss)を最初の所属アーチストとして育てました。その後ブームになる前のディスコに注目し、ドナ・サマービレッジ・ピープルパーラメントなどのヒッ・トメーカーを世に送り出し、「70年代に最も成功したレコード会社」といわれるようになりました。

ラリーによると、ニールはとにかく破天荒な性格でした。楽曲制作からプロモーションまでなんでもこなし、まだMTV(音楽専門テレビ)がない時代にアーチストのプロモーションビデオを撮ってラジオ局やテレビ局にどんどん売り込みました。音楽業界の大きなパーティーがあると必ず顔を出していたほか、自分でも大規模なイベントを次々と打ち出し、PRに余念がありません。カサブランカのディスコ(特にドナ・サマーの曲)をヒットさせるべく、当ブログでも紹介したことがある「サンク・ゴッド・イッツ・フライデー」という映画まで作りました。

それに資金が足りなくなるとラスベガスのカジノに行って大金を調達してきたり、売上げが伸びてくるとコネで入社させた親族全員に高級メルセデス・ベンツを贈ったり、売り出そうとする曲を1台250キロもある事務所の巨大スピーカーから突然、大音量で鳴らして社員の反応を確かめたりと、やることがキッスの舞台装置や衣装並みに派手だったのです。

さらにラリーは、当時の音楽業界の悪習だった「Payola=ペイオーラ」と呼ばれたラジオ局DJへの賄賂の実態(曲をかけて宣伝してもらうためにカネを払う)や、契約や金銭にまつわる「トラブル封じ」のために「マフィアに近い人物」を利用したこと、それに従業員、アーチストたちにとって日常茶飯事だったコカインなどのドラッグについても詳細に記しています。しかも、登場人物はほとんどが実名です。日本の「元レコード会社幹部」で、ここまで語れる人などいるでしょうか。

とりわけ興味を引かれたのは、「ビルボード・ヒットチャートの操作」についての回想です。本著にはこんなくだりが見えます。

「ビル・ワードローはディスコを愛し、私たちディスコ業界の一員になりたがっていた。(略)私たちは彼との関係を最大限に利用した。結果的に、私は彼の事務所に出入りできるようになっていた。あるアーチストのアルバムに相応しいチャート順位を告げると、驚くなかれ、その通りの順位を獲得できたのだ。(略)例えば1977年には、キッスの4枚のアルバムを同時にチャートインさせることができた。このうち2枚しか、セールス的にチャートインに適った数字はとれていなかったのだが…」

「ビル・ワードロー」は、当時のビルボード社チャート担当部門トップのBill Wardlowです。どうやら本当にディスコ好きだったらしく、著者はカサブランカと密接な関係にあったニューヨークの有名ディスコ「スタジオ54」に招待して遊ばせるなどして、機嫌をとっていたことを明かしています。日本の「オリコン」も古くからそういわれていますが、ビルボードチャートがどれだけシングル、アルバムの売上げに影響を与えていたかが浮き彫りになるのです。少なくとも、ビルボードがより公正な科学的データ方式である「ビルボード・ブロードキャスト・データ・システム(BDS)」を取り入れた1992年までは、けっこういい加減なチャートだったことを匂わせています。

この書には、日本に関する記述も見えます。1977年2月、キッスに続いて売り出した“ビジュアル系ロックバンド”エンゼル(Angel)の担当者が、「『まだ彼らはそこまでビッグになっていない』というあらゆる関係者のアドバイスに反して」日本公演を敢行したものの、結果は最悪(disaster)でした。観客数はまずまずだったものの、メンバーが偶然起こした行動が、日本側プロモーターと一部観客の怒りを買ってしまったというのです。

その行動とは、来日中のプロモーション写真撮影の際、「何か神聖なる構造物の上によじ登った」行為だといいます。右翼が神聖視する神社とか偉人の墓とかのことでしょうか??このあたりの詳細は謎ですが、とにかくこれが引き金となり、プロモーター(本著では「裏社会に関係する人物らしい」とある)との契約もこじれて、大事なエンゼルのハデハデ舞台装置も持ち去られたとのことです。後にカサブランカ幹部が日本側の「ある大物」と交渉した結果、舞台装置は戻ってきたそうですが、プロモーターが「エンゼルのメンバーが帰米する際に使ってほしい」と用意した日本航空チケット用の小切手が不渡りになるなど、「彼らの最初で最後の海外ツアー」は散々だったようです。

私はたまたま2週間ほど前、「日本ディスコの立役者」でもある歌手西城秀樹さんにインタビュー取材する機会があったのですが、元ミュージシャンのマネジャー氏がエンゼルのファンでもあったそうで、日本公演があったことや、具体的にメンバーの名前まで覚えていて驚きました。「でも、カサブランカといえばディスコ。ビレッジ・ピープルが来日して西城と面会したときに、例の『Y、M、C、A』の振り付けを教えたら、『それいいねえ。俺たちも使おう』なんてメンバーが言っていたのを思い出します」とも話していました。確かに、ちょうどこのころは、日本、そして欧州でも大ディスコブームが沸き起こっていました。

そんなディスコの「象徴」カサブランカは、米国でディスコブームが頂点に達した1978年に単体で売上高1億ドルを超し、系列グループである「ポリグラム・グループ」を「コロムビア・グループ」に次ぐ世界第2位のレーベル勢力に押し上げる原動力となりました。ビルボードチャートでも、(操作の甲斐あって?)ドナサマーやらビレッジピープルやらがどんどんトップ10に入った時代でした。

でも、楽しい宴は長くは続きません。70年代末になると、やたらと過剰でバブルなディスコブームにも陰りが見えてきました。キッスなど主力アーチストのレコード売上げも思ったように伸びなくなり、大規模な従業員のリストラを断行したほか、ポリグラムとの関係にひびが入るなどの変調をきたしてきたのです。頼みの「ビルボードのチャート操作」も、ライバルのRSOレコード(ビージーズが所属)が大ヒット映画「サタデー・ナイト・フィーバー」系の楽曲で同じようにビルに取り入るようになって以降、既にうまくいかなくなっていました。

やがてラリーは、幼少時から仲がよかった親類であり、長年の同志でもあるニールの経営方針自体に疑問を抱くようになります。かつて驚嘆したような、ニールのアーチストの才能を見分ける天才的眼力や商才も衰えたと考えるようになり、79年の夏、カサブランカから身を引くことを決めたのでした。ニールはその後も新レーベルを立ち上げるなどの活動を続けましたが、82年にがんで死去。39歳の若さでした。

ニールも著者もカサブランカも、70年代のアメリカを生きた典型的な存在だったといえるでしょう。黒人解放運動、ベトナム戦争、石油危機、ニクソン大統領辞任といった激動の政治の季節を経て、「ええじゃないか」的な放蕩主義、刹那主義が社会全体を覆うようになったわけです。それは自由や欲望を歌や踊りでおおらかに表現する音楽文化、つまりディスコを生みました。そしてディスコは、閉塞感を募らせる世界中の人々にとっても、理屈抜きで素直に魂に響いたからこそ、空前絶後のブームになったのだと思います。

けれども、「諸行無常」というわけで、「祭りの時代」もまた、ご他聞に漏れず限度を越して消耗し、はかなく終わりを告げたのでした。愚かさゆえに愛おしい、そんな人間くさい音楽がまさに「ディスコ」だったといえるのではないでしょうか。

Barbra Streisand (バーブラ・ストライザンド)

Barbra Streisandベット・ミドラーが出てきたら、この人を無視するわけにはいきません。意外なディスコディーバ、バーブラ・ストライザンドであります。

1942年NYブルックリン、ユダヤ系の家庭に生まれました。最近はさすがにご無沙汰ですけど、70〜80年代はミュージカル、さらには映画の大スターとして名を馳せました。「追憶」とか「スター誕生」とか「ファニー・レディー」とか、出演した名画は数知れず。特別な美人ではありません。本人も容姿コンプレックスがあったといわれています。でも、演技が正当に評価される点は、ハリウッドならでは。誰もが知っている名優です。

もともと舞台畑だけに、歌も非常に上手い。70年代後半にはディスコでも大活躍でした。写真のCD「メーン・イベント」(79年)は、ライアン・オニールとの共演の同名映画のサントラであります。時代が時代だけに、アルバムを通してビートがディスコ調。特に同名シングル「メーン・イベント」は、バーブラさんの明るくて張りのある声が思い切り楽しめる佳曲でありますな。全米ディスコチャートでは13位まで上昇しました。

彼女の場合、ほかにもう一曲、ディスコの名曲「ノー・モア・ティアーズ」(79年、ディスコチャート4週連続1位)というのがありますね。ご存知、ドナ・サマーとのデュエット。私がディスコに通っていた80年代前半にも、ピークタイムにエンジン全開でかかっていました。まったく古さを感じさせず、盛り上がりましたなあ〜。

バーブラさんの場合、全米ポップチャート1位を獲得した大ヒット曲は6曲もあります。バラードでいえば、「ウーマン・イン・ラブ」(80年に1位)など、私にとっても思い出の名曲であります。一般的な歌手として既に一流だけに、ディスコディーバとして挙げるのはちょっと気が引けるぐらいですが、しかし、彼女の迫力ある歌声は、華やかなフロアでこそ輝かしい。私自身、ときどき無性に聞きたくなる歌手の一人なのです。

Giorgio Moroder (ジョルジオ・モロダー)

Giorgio Moroder巨匠ジョルジオ・モロダーについては、イタロ・ディスコの創始者としても捉えたいところです。いうまでもなく、「ミュンヘンディスコ」といわれた1970年代後半のドナ・サマー(当時ドイツ在住)とのコラボレーション「ラブ・トゥ・ラブ・ユー・ベイビー」(75年)などで有名になったのですが、彼はもともと、イタリア生まれのドイツ在住イタリア人。イタリアン・ポップス業界にこそ多大な影響を与えました。

イタロ・ディスコは70年代後半、ジョルジオとジャックス・フレッド・ぺトラスの2人によって打ち立てられたといっても過言ではありません。ジョルジオはシンセサイザーを使ったディスコの「四つ打ち」のドラム&ベース・ラインの面で、フレッドはキャッチーなメロディーラインの面でそれぞれ影響を与えたわけです。

イタロ・ディスコは80年代、フレッドのプロデュースによるThe B.B. & Q Band(「オン・ザ・ビート」など)とかチェンジ(「パラダイス」など)といったファンク系のバンドも出たものの、全般的にはますますかる〜いタッチのシンセ・ディスコと化します。ディスコマジックやタイム・レコーズなどのレーベルから大量の「ほんわかタイプ」の曲が発売されるようになりました。代表的なのは「ドルチェ・ビタ」のライアン・パリスや、「オンリー・ユー」のサーベッジ(Savage)あたりでしょうか。

やがて、80年代後半からは、ユーロビートとかイタロハウスといった感じになる。デン・ハロウ(「フューチャー・ブレイン」など)とか、ガゼボ(「アイ・ライク・ショパン」など)あたりが人気を博します。日本でもエイベックスのようなレコード会社が次々と安く版権を買って、普及させていきました。

なぜ、80年以降にイタロ・ディスコが大量生産されたかというと、当時、イタリアの経済力が弱まり、通貨のリラが安く、米ドルが高くなってしまったという背景があります。音源獲得などの点で、米国からの輸入が高くつくようになったため、しかたなく自国製ディスコの製造に走ったということです。

80年代のイタリア産ディスコは、「経費を安くあげよう」がスローガン。楽器はシンセのみ、ボーカルもギャラの高いメジャーな歌手を使わず、新人ばかりを起用しました。曲がヒットして、歌手がギャラのアップを要求すると、容赦なくクビにしたそうです。そんなこともあって、例えば、デン・ハロウという人物は実際は3人いました。歌手名はある種の「ブランド名」でしかなかったのです。

ここら辺が、「ディスコは粗製乱造だ」と言われてしまうゆえんでしょう。けれども、安く作っている割には、どの曲もなかなか良いと私は思います。「おばかでチープ」はディスコ的には大歓迎。要は聴いて、踊って、楽しめればそれでよいのですから。感覚的に好きなのであれば、後は理屈は要りません。ジョルジオ・モロダーが築いたシンセ道は、母国でしっかり開花したと言わざるを得ません(断定)。

写真のCDは、ご存知ジョルジオの出世作「From Here To Eternity」。この中で展開する上質で未来的なシンセ音は、文字通りイタロ・ディスコの永遠(eternity)への道を暗示するかのようですな。現在のテクノやトランスやハウスの音に占めるシンセの比重を考えれば、なおのことでしょう(再び断定)。

CDのライナーノーツ書きました


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