ディスコ堂 by mrkick

音楽に貴賎なし ―Discoの考察とCD批評

ニューヨーク

シンディ・ローパー (Cyndy Lauper)

Cyndi Lauper鳩が豆鉄砲を食ったようになった――。ある人は息を潜めてそう感想を漏らしたという。1983年10月、妖艶ダンス歌姫、マドンナの台頭によって息を吹き返した米国ディスコ界は、また新たな刺客を迎えようとしていた。ときあたかも、ニューヨーク発ソウル行き大韓航空のボーイング747ジャンボ機が、サハリン沖上空でソ連戦闘機のミサイル攻撃を受けて墜落、乗員29人と乗客240人全員が死亡した事件があったちょうどひと月後のことである。

米ソ冷戦がなお世界を暗く覆う中、発売されたアルバムは「She's So Unusual」(和訳:彼女はまったくもって変人です。写真)。1953年、ニューヨークに生まれたシンディ・ローパーのデビュー作である。齢三十を超えたばかりの遅咲きポップ歌手だが、ド派手な衣装とメイク、それにちょいと違和感が残るブルージーで高音基調の歌声から繰り出すダンスチューンは、世の若人たちの鬱憤を吹き飛ばすかのごとく、ディスコフロアを席巻したのだから侮れない。

この10曲入りアルバムからは、なんと5曲までもが全米でチャートインした。最初のシングルカット「Girls Just Want To Have Fun」(邦題:ハイスクールはダンステリア、米一般チャート2位、米ディスコチャート1位)は、もう天にも舞い上がるがごとく弾けまくり、踊る者の心を捉えて離さない。私自身、ディスコで初めて聞いた瞬間に、「こんなイカれた曲がまだこの世に存在したのか!」と感動にむせび、不覚にも踊りながら流れる涙が止まらなかった。

その徹底したイカれぶりは当時、圧倒的な勢いでお茶の間に浸透していった音楽番組MTVのPV(プロモーションビデオ)でも確認することができる。まず冒頭、イントロに合わせてシンディが、画面右から「ツツツー」と瞬間移動よろしく滑ってくる場面が印象的だ。そして、主人公の少女役であるシンディの「Have Fun」ぶりは、ラストに向けて加速度的に高まっていく。このビデオには、冒頭から後半まで本物の母親(カトリーヌ・ローパー)が「母親役」で出演していて、我が子の常軌を逸した行動にリアルにあきれる様子も見て取れる。

ほかにも、このアルバムからは「She Bop」(米一般3位、ディスコ10位)というダンスヒットが生まれた。これまた人を食った奇天烈路線を地で行く弾けぶり。とりわけ80年代を代表するディスコリミキサーだったアーサー・ベーカーによる「スペシャル・ダンス・ミックス」は、ディレイやサンプリングなどのエフェクトを駆使しており、踊る者の脳天を揺さぶるような衝撃を与えたものだった。

ただ、彼女は“ディスコ道”にのみ邁進したわけではなかった。実は、意外にもしっぽりバラードなどスロー系が得意なのだ。デビュー作収録の「Time After Time」(米一般1位)と「All Through The Night」(同5位)、それに2作目アルバム「True Colors」の同名曲シングル(86年、同1位)といった珠玉の名曲を数多く送り出しているのである。映画「グーニーズ」の主題歌として知られる「Goony Is Good Enough」(85年、同10位)とか、ブルースロックの雰囲気漂う「Money Changes Everything」(84年、同27位)や「I Drove All Night」(89年、同6位)など、毛色の違う作品もある。

こうした「清濁併せ呑む」姿勢こそが、彼女の真骨頂といってよいだろう。聴いているこちらは、はっちゃけディスコの後にいきなり美メロのバラードが耳に飛び込んでくると、ぽかん顔で目は点になる。けれども、得も言われぬ清涼感が次第に体を包みこむのである。

彼女は幼少時に絵と音楽に目覚め、10代前半にはギターを手に自作の曲を作るなどの活動を始めた。両親が早くに離婚するなど家庭環境は複雑だったが、特に絵は高く評価され、著名な美術系学校に進学したほどだった。ところが、とにかく子供のころから過激な衣装と奇抜なメイクが好きで、周囲からは白眼視されていた。学校は中退してしまい、しばらく愛犬と家出をして、カナダ方面を放浪していた時期もある。強過ぎる個性を持て余し、「アメリカ版尾崎豊」の風情をも帯びながら、自由な表現を求める日々が続いた。

20歳を過ぎたころには、ニューヨークに戻って音楽に没頭。あらゆるアルバイトをして糊口をしのぎながら、地元ロックグループのボーカルなどとして活動した。20代後半になって、個性的な歌声と風貌がようやくメジャーレーベルの目に留まり、鮮烈デビューへと至ったわけだ。晴れてスター歌手の仲間入りを果たし、その絶頂期に参加した85年のあの「We Are The World」でも、サビ直前のブリッジ部分のおいしいパートを担当して好印象を残している。

一時はライバルとも目されたマドンナの音楽には、プロデューサーら制作者側によって「作られた感」が残る。一方、シンディには自作の曲も多く、“一本独鈷”で自ら切り開いてきたいぶし銀の世界観が感じられる。多彩にして繊細。まさに苦労人だからこそ醸すことができる奥行きと味わいを感じさせるのだ。90年代には御多分に漏れず失速してしまったが、80年代を代表する天才異色歌手としての座は、いまも揺らぐ気配がない。

ザ・フラーツ (The Flirts)

The Flirts久しぶりに"シンセサイザーたっぷり"系ディスコを取り上げましょう。ご存知ボビー・オーランド(ボビー・オー)がプロデュースした"秘蔵っ子"で、こてこてハイエナジー・ディスコの女性3人組「フラーツ」であります。

この人たちは80年代初頭、ニューヨークで結成されました。単純にボビーOがNY在住だったからですが、欧州や米西海岸で人気だったハイエナジー系にしては珍しいことです。「NY発ハイエナジー」であることから、ディスコブーム後のアメリカの代表的なダンスミュージックであるフリースタイルの要素も取り入れられています。

発売した新作アルバムは、ディスコアーチストとしては多く計5枚。女性3人組ディスコということで察しがつくように、歌詞も容姿もセクシー路線なわけですが、メンバーはころころ変わりました。どちらかというと、本国アメリカよりもヨーロッパでの人気が高かった人たちです。

代表曲は、82年のデビューアルバム「10¢ A Dance」(テンセント・ア・ダンス)からのシングルカット曲「Passion」(82年、全米ディスコ21位)のほか、同時期のハイエナジー&イタロヒット「Slice Me Nice」(Fancy)に似た、というかあからさまにパクったとされる(もともとボビーOはちょいパクリの名手)「Helpless」(84年、同12位)、「You & Me」(同1位)、「New Toy」(同5位)、「Danger」(83年)あたりです。若きニコラス・ケイジが出演した青春映画「ヴァレー・ガール」(83年)にも使われた「Jukebox」(82年、同28位)というのもありました。

異色なところでは、83年発売のアルバム「Born To Flirt」に入っている「Oriental Boy」というのがあります。直訳すると「東洋の男の子」ですが、歌詞に「スシ」「ソニー」「トヨタ」「サヨナラ」などの日本語が次々出てくるため、対象はモロ日本人だとわかります。内容は「すしバーで出会った東洋人に恋したけど結局フラれちゃったよ〜ん」と嘆く米国人女性の恋物語ですが、これってかつて紹介したアネカの「ジャパニーズ・ボーイ」とおんなじ展開です(トホホ)。

私自身は、中でもパッション、ヘルプレス、ユー・アンド・ミーを当時のディスコで耳にしました。好きなボビーO作品ということで、もう手放しに興奮し、フロアを駆けずり回って踊りまくった記憶があります。特にユー・アンド・ミーのイントロは、マドンナの「イントゥー・ザ・グルーブ」を彷彿させるカッコよさです(ていうか、これもちょいパクった?)。

ボビーOは多作のプロデューサーとして知られ、ピーク時の80年代前半には年間数百枚の12インチをプロデュースしたと言われています。「作品1曲をミリオンセラーにするより、200曲を5000枚ずつ売る方が好きだ」という本人の有名な言葉があり、実際にその通りの活動ぶりでした。もの凄くたくさんのアーチストを手がけているわけですが、このフラーツは「Shoot Your Shot」などのヒットで知られるディバインと並んで、長く深く付き合ったアーチストでした。

その期間は、82年のデビュー時から、ボビー自身がサンプリングなどの新しくて手間要らずの打ち込み音楽に嫌気がさし、音楽活動と距離を置くようになった92年ごろまでです。フラーツはドラムマシーン&シンセサイザー満載の典型的な"ボビーO"サウンドではありますけど、まだ電子音楽も素朴な時代でしたし、ギターやパーカッション(カウ・ベル)などの生音も少々入っているので、ほどよい手作り感があります。

フラーツのCDは、カナダのユニディスクレーベルから各種発売されています。どれも音質は良好で、ロングバージョンもふんだんに含まれています。上写真はその一つの「10¢ A Dance」で、「パッション」「ジュークボックス」「Calling All Boys」などが入っています。

ジョー・トーマス (Joe Thomas)

Joe Thomas 2ちょっと時間が空いたのでサクサクっと次のアーチストを紹介いたします。その名はジャズ畑のフルート奏者ジョー・トーマス……「ってディスコじゃないよん!」と突っ込まれそうですが、彼が70年代後半に出した何枚かのアルバムは、ディスコテイストたっぷりです。以前紹介したディスコ「スーパーマン」で知られるジャズフルート奏者ハービー・マンと似たパターンですね。

このところゲイのお話が多いわけですけど(私はストレート)、これまで何度も説明したように、ディスコのブログですから仕方ありません。「じゃあ、またゲイ?」ということもアリでしょうけど、今回はどちらかというと「男と女……めくるめく夜の世界へようこそ」シリーズです。ううん、これもディスコのブログですから、ある意味仕方ありません。ディスコとは、非日常の熱狂と祝祭の「ほら穴」ですから、世界ディスコ史的には、ドラッグやらセックスやら、多かれ少なかれ入り込んでくる余地があるのですね。

さて、ジョーさんの最大の代表曲は「Plato's Retreat」(訳は「プラトンの隠れ家」、78年、全米ディスコチャート11位)であります。この曲はなんと、70年代後半、ニューヨークの「秘密の社交場=セックスクラブ(男女用)」として知られた、伝説のナイトクラブ兼ディスコの名前をそのまま曲名にした異色作なのです。その店はもちろん個室付きで、サウナも温水プールもあったという豪華施設でした。先日、その店のコマーシャル映像をYouTubeで見つけましたので、まずは張っておきます。



まったく、我ながらよく見つけたわ。呆れます。でも、当時のニューヨークの風俗を知る貴重な映像とはいえましょう。「当店はあなたの(○○の)望みをかなえます」「自由な考えを持った大人たちの楽しい社交場です」などと、劣情(トホホ)をあおるフレーズがどんどん出てきます。合間にディスコフロアのシーンも挟まっていますね。

この店をそのまま曲名にしたジョーさんの曲も、そのまんま「劣情あおり系」です。歌詞も「プラトーズ・リトリートで変なコトいっぱいしよう、イエイ!」「上着をはだけて、さあブイブイ体を動かそう」なんて感じでアホエッチに明るい。でも、歌詞はともかく、曲自体はバランスが取れていて非常に優れたディスコだと思います。「Souvenir」などで有名なヴォヤージみたいな、ノリノリでイケイケな感じがにじんでいます。

アメリカの70年代後半は、まあそんな時代だったわけです。「こりゃあレーガン政権の保守反動の時代にもなるわな」と感慨も覚えますな。実際、80年代に入った途端、とりわけエイズ禍により「フリーセックス」というわけにはいかなくなり、店の評判もガタ落ち。この店に通った多くの男女が、エイズで亡くなったといわれています。そして85年、NY市当局の命令により閉店に追い込まれました。

日本では、最終的に90年前後のバブル期まで、ディスコの時代は続いたわけですが、ここまでキワどい店があったとは聞きませんね。もの凄くアンダーグラウンドな店はあったはずですけど、もっと健全だったと思いますよ。

ジョーさんの方はといえば、やはり「完全ディスコ化」が災いしたのか、80年代に入ると落ち目になりました。ジャズ奏者としても“色”がついてしまい、もはや堅気の世界に戻ることはできなかったようです。トホホ。

ジョーさんには、ほかにも「Make Your Move」とか、「Polarizer」、「Get On Track」などのディスコ系の佳曲があります。ただ、マイナーなだけに、CDははっきり言ってヨイものが少ない。上写真の米LRC盤のベスト盤が、「Plato's」が収録されている上に、全体的にファンキーな選曲でおススメです。

Tom Moulton (トム・モールトン)

トム・モールトンアメリカのディスコミュージックは1970年代初頭、ニューヨークで始まりました。ファイヤー・アイランドと呼ばれる地区で、裕福だったり容姿端麗だったりする“一流のゲイたち”が密かに集まる踊り場が誕生したのがきっかけといわれています。

そんな踊り場に出入りしていた客の中に、後に音楽ビジネスに革命を起こす“美形”の青年がいました。ディスコミックスの元祖と呼ばれているトム・モールトンです。

1940年に生まれたトムは、保守的な家庭に生まれたキリスト教徒の白人でありながら、高校生のころから黒人音楽に魅了されました。学校でダンスパーティーを開いて停学になったこともあります。10代でレコード店に勤め始め、その後ジュークボックス会社勤務などを経て、本格的に音楽ビジネスに入ります。美貌を生かしてモデルをやっていたこともありました。

ダンスミュージック好きだった彼は、当時のさまざまな流行音楽に触れるにつれて、「シングル盤のバージョンでは短すぎる」と感じるようになり、粗末な機械を使ってロングバージョンのテープを作るようになりました。

やがてディスコが世に知られるようになると、トムには俄然、仕事の依頼が増すようになりました。ミュージシャンたちがこぞって、ディスコDJが好むようなロングバージョンを作るようになったからです。

主な舞台になったのは、ハロルド・メルヴィン・アンド・ザ・ブルーノーツやオー・ジェイズたちが多くのディスコ音楽を送り出したフィラデルフィア・インターナショナル・レコードのシグマ・サウンド・スタジオでした。後にはサルソウルなどでも12インチサウンドを作り出しています。

トムのミックスは「トム・モールトン・ミックス」と呼ばれるほど評判となります。グロリアゲイナー、B.T.エクスプレス、MFSB、グレース・ジョーンズなどなど、無数のディスコ系ミュージシャンのミックスを手がけていました。70年代中盤になると、ディスコ「パラダイス・ガラージ」のラリー・レヴァン、「ザ・ロフト」のデビッド・マンキューソら、著名なディスコDJとの交流も深めていきました。

ディスコ史の重要人物であり、現在のクラブコシーンを語る上でも欠かせないトム・モールトン。しかし、自分の名前でレコードを出すことは好まず、ヒットを生み出す「ソングドクター」と呼ばれるほど裏方に徹したミキサーでした。それでもようやく最近、ロンドンの再発レーベルからリリースとなったのが写真の2枚組CDです。

選曲は、私がディスコを聴き始める直前のころの70年代中・後期が中心。元テンプテーションズのエディ・ケンリックスやグレース・ジョーンズ、アイザック・ヘイズなどの曲が収録されています。

黒人ソウル系の古めのディスコが多いようですが、何しろ「トム・モールトン・ミックス」の貴重バージョンばかりですから、充実したラインアップ。こだわりある「正統派ソウルファン」の耳にも十分、耐えられるのではないでしょうか。

ただ、音は「あまりよくない」とはっきり申し上げておきます。聴いていてすぐ判明するのですが、レコードからの「直」録音ばかり。マスターテープはもう残ってないのかもしれませんけど、残念なことです。

プロフィール

mrkick (Mr. Kick)

「ディスコのことならディスコ堂」----本名・菊地正憲。何かと誤解されるディスコを擁護し、「実は解放と融合の象徴だった」と小さく訴える孤高のディスコ研究家。1965年北海道生まれのバブル世代。本業は雑誌、論壇誌、経済誌などに執筆する元新聞記者のジャーナリスト/ライター/翻訳家。もはや踊る機会はなくなったが、CD&レコードの収集だけは37年前から地味〜に続行中。アドレスは↓
mrkick2000@gmail.com

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*最近多忙のため、曲名質問には基本的にお答えできません。悪しからずご了承ください。
*「ディスコ堂」の記事等の著作権はすべて作者mrkick(菊地正憲)に帰属します。

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