ディスコ堂 by mrkick

音楽に貴賎なし ―Discoの考察とCD批評

バブル

テイラー・デイン (Taylor Dayne)

Taylor Dayne徹頭徹尾、シンセサイザーがぶりぶりうなりまくっています。「うるさい」、でも「好き」、「好き」、でも「うるさい」…。私にとっては、花占いのごとき「心うらはら」な曲でした。

そんな人騒がせな曲の名は「テル・イット・トゥ・マイ・ハート(Tell It To My Heart)」(全米ディスコチャート4位、一般チャート7位)。歌い手は、これまた白人ながらソウルフルで、かつロックテイストも滲ませる炎の迫力ボイスだったテイラー・デインさんです。YouTubeのビデオをみると…いきなりコワい!。もう「リアル獅子舞」状態。なんだか油断してると一気にパクッ!と食べられちゃいそうです。

時はバブル突入期の1987年、東京は渋谷の「スパジオ」というディスコで耳にしたのが最初でした。私の中でも代表的な「百花繚乱雨あられ、心頭滅却火もまた涼し」の超絶バブルディスコとなっております。ディスコでかかる12インチバージョンでは、イントロから「シンセラッパ」のごときいかにも80年代な電子ホーンセクションが「パンパカパーン♪」とコミカルに鳴り響き、続いてお約束の「ビシッ!バシッ!」のゲートリバーブ・ドラムも加わって、もうアゲアゲ絶好調。「ワンレン ボディコン お立ち台」のフロアは満杯、みな忘我の境地でした。

テイラーさんは1962年、米ニューヨーク生まれ。本名はLeslie Wundermanといいます。地元のクラブで歌っているうちに、歌唱力を認められて歌手デビュー。1985、86年にはLes Leeという名でそれぞれ「I'm The One You Want」(ユーロビート風)、「Tell Me Can You Love Me」(フリースタイル風)という「可もなく不可もなし」なディスコ曲を発表。翌年にメジャーレーベル(Arista)に移り、「テル・イット…」を含むデビューアルバム「Tell It To My Heart」で開き直ってアマゾネスな感じへとイメージを転換し、見事ブレイクを果たしたというわけです。

このアルバムからは、「Prove Your Love」(88年、ディスコ1位、一般7位)という特大ダンスヒットも生まれました。前作と同じようなロック風味のド迫力ディスコでして、これまたよくディスコで耳にしたものです。レーガン政権の終焉(89年)、ベルリンの壁崩壊(同)、天安門事件(同)、日本の昭和の終わりとバブル崩壊(90年ごろ)などを前にした、80年代末期の世界規模の変革期を思わせるようなエネルギーの大爆発。折しも、ダンス音楽的にも、ディスコがいよいよ下火となり、ハウスやテクノなどのよりハイパーなクラブミュージックへと模様替えをする時期でもありました。

もろ“肉食系”を思わせる姿と曲の彼女ですが、この後に意外な素顔を見せました。これまでと打って変わり、ディスコのチークタイムの定番となった「I’ll Always Love You」という驚天動地のしっぽりバラードを大ヒット(88年、一般チャート3位)させたのです。さらに、「Love Will Lead You Back」(90年、一般1位)という今も語り継がれる珠玉のバラードもきちんと発表しました。

そもそも彼女は、「カントリーの女王」ドリー・パートンにも似た、中高音で圧倒的に伸びる歌声が持ち味。「アップテンポもスローもどっちもいけるじゃん!」という実力を見せつけたのです。

もちろん、彼女の基本であるダンスミュージックもコンスタントに出しています。「Dont' Rush Me」(88年、ディスコ6位、一般2位)、「With Every Beat Of My Heart」(89年、ディスコ8位、一般5位)のほか、70年代に「セクシー・ディスコチューン」のヒットを連発したバリー・ホワイトのカバーである「Can't Get Enough Of Your Love」(93年、ディスコ2位)という曲があります。2000年代に入ってからはさすがに失速しましたが、ダンス系ではこれまた「うるさい」テクノ/トランス系の「Planet Love」(2000年、ディスコチャート1位)などのヒットを出し、激動のショービジネスを粘り強く生き抜いている様子がうかがえます。

まあ、とにかくテイラーさんのほとんどのダンス曲は、私などは、今では踊らずとも聞くだけで少々疲れてしまうのですけど、その実績は認めるわけでございます。ディスコ的にはけっこう新しい時代の人ですので、再発CDやベスト盤も各種出ております。

……というわけで、「でも、久しぶりにちゃんと聞こうかな」と思って「テルイット」をYouTubeで探していたら……。こんな究極のバージョン(95年)を見つけました。私も間違って発売当時に輸入盤店でレコードを買ってしまった覚えがあります。もうバブルを通り越して世紀末です。「うるさい」どころの話じゃないですが、どういうわけか、いつ聞いても「パクッ!」っと気になる旋律ではあります。

ホイットニー・ヒューストン (Whitney Houston)

Whitney Houston"She will never be forgotten as one of the greatest voices to ever grace the earth."(彼女は永遠に記憶されるだろう。世界を輝かせた最も偉大な声の持ち主として)――マライア・キャリー がツイッターに記した追悼の言葉。

11日に48歳で逝去したホイットニー・ヒューストン。でも、正直言って最近はスキャンダルにまみれた印象しかなかった。そう、ちょうどマイケル・ジャクソンがそうだったように、亡くなってから思い出したように「スーパースターだった」と称えられることには、なんだか違和感も覚える。

私がホイットニー・ヒューストンを知ったのは、浪人中の1985年初頭のことだ。受験勉強に集中するという名目で、1年間だけディスコ通いを“封印”して、実家から離れた札幌駅近くの祖母の家に寝泊まりしていた。それでも、ときどき「息抜き」と称して地元FMラジオの洋楽番組に聴き入っていた。そんなある日、耳に飛び込んできたのが、目下売り出し中のホイットニーが最初に放ったダンスヒット「Thinking About You」だった。FMのDJが「とびきり美しいメゾソプラノの声が評判の……」などと軽やかに紹介していたのを覚えている。

二浪までして(一浪目はやはりディスコ狂い)、なんとか東京の大学に入学したのが85年4月。もちろん、ディスコも大解禁スパークル状態だ。時給が比較的高く、しかも「食事2回付き」という理由で、渋谷の道玄坂にあった大衆居酒屋をバイト先にすぐ決めて、その金をどんどんレコードとディスコに注ぎ込む日々となった。

世はバブル前夜。おカネなんて相変わらずなかったのに、華やぐ世相にすっかり乗せられて、六本木や渋谷、新宿の大衆ディスコに入り浸り、朝までノリノリで恥ずかしく踊りまくった。このころのディスコはちょうど過渡期で、客層も世代交代が進んでいた。音楽的にも70年代のストリングス中心から、当時は最新鋭のシンセサイザー中心の曲調に変わっていた。「ギブ・ミー・アップ」(マイケル・フォーチュナティー)や「ビーナス」(バナナラマ)といったイタロディスコ、それにユーロビートが台頭してきたのもこのころだった。

とってもおおまかに言うと、ディスコ音楽には、ジャズ、ソウル、ファンク、ブラック・コンテンポラリーなどの「黒人系」と、ロック、ポップス、ニューウェーブ、ユーロビート、ラテンなどの「白人系」の2つの流れがある。それぞれに愛すべき特徴があり、それをこのブログでもだらだらと書いてきたのだが、要するに私はどちらも好きだった(バブルだったし)。

実は、当時の「バブルディスコ・シーン」では、70年代の大ディスコブームの反動もあり、黒人系は少々押され気味だった。少し前の投稿で紹介したシックのナイル・ロジャーズもそうだったように、70年代まで活躍したいろんな著名黒人アーチストが、80年代には方向性を見失い、ヒットが出なくなっていた。そうした状況下、まさに彗星のごとく登場したのがホイットニー・ヒューストンだったのだ。

ホイットニーは1963年、米ニュージャージー州に生まれ、幼いころからゴスペルグループの一員、さらにはモデルとして活躍した。歌の師匠でもある母親はシシー・ヒューストン(Cissy Houston)といい、ド迫力ファンキーディスコの「Think It Over」(78年、米ビルボードディスコチャート5位)のヒットで知られるプロ歌手だ。「I'll Never Fall In Love Again」(70年、ビルボード一般チャート6位)、「That's What Friends Are For」(85年、同1位、ビルボードR&Bチャート1位)などの大ヒットで知られるソウルの大御所ディオンヌ・ワーウィックは従姉(シシーの姉の子)にあたる。

音楽一家に育ったホイットニーは、比類なき声はもちろん、モデル出身ならではの美貌も売りにしていた。黒人であるホイットニーのアイドルみたいなアップ写真が載ったジャケットは、かなり新鮮だった。私は渋谷や新宿の輸入盤店で、嬉々として12インチやアルバムレコードを買い漁ったものだ。これには差別を感じさせるが、70年代までの黒人女性歌手のジャケットには、「本人の写真だと抵抗感がある」などの理由から、変てこな「似顔絵」もよく使われていたほどなのだ(例:Evlyn Thomas,Miquel Brown,そしてなんとホイットニー母Cissyも)。

ホイットニーは、ゴスぺル出身のガチンコ黒人系ディーバでありながら、ビジュアルも含めて白人たちにもアピールできる「ポップス歌手」の要素を兼ね備えていた。米国で大人気だった音楽専門番組「MTV」でも、堂々と本人が前面に現れるプロモーションビデオが盛んに流れた。マイケル・ジャクソンと同様、初めて人種を越えたファン層を獲得したのが最大の功績だったといえるのだ。

私が80年代後半の日本のバブルディスコでとにかくよく耳にしたのが、デビューアルバム「Whitney Houston」(写真)に収録されている、ナーラダ・マイケル・ウォルデンがプロデュースした「How Will I Know(恋は手さぐり)」(86年、ビルボード一般1位、R&B1位、ディスコチャート3位)だ。「イントロから桜満開!」てな調子で、圧倒的に明るい曲調と底抜けに伸びやかな歌声は、まさに「ウキウキ我が世の春時代」の到来を全身で実感させたものだ。

このアルバムは特大ヒット「Saveing All My Love For You」などのバラードも出色だが、ディスコの立役者が数多く参加していて、前述の「Thinking About You」は元BTエクスプレスのカシーフがプロデュースしているし、「マイケル兄」のジャーメイン・ジャクソンも3曲、プロデュースしている。

続くセカンドアルバム「Whitney」(87年)ともなると、バブル全開の日本のディスコでも完全に主役状態となった。「I Wanna Dance With Somebody」、「Love Will Save The Day」といった彼女のアゲアゲな曲がかかると、「百花繚乱雨あられ、盛者必衰会者定離」(バブルだけに意味不明)状態となり、フロアは(私も含めて)踊る阿呆の老若男女で埋め尽くされたのである。

史上最高の7曲連続の全米一般チャート1位、6回のグラミー賞受賞など、輝かしい実績を残したホイットニー。確かにマライア・キャリーが言うとおり、「永遠に記憶される」ほどの歌姫だったが、そのマライア自身が「新しい歌姫」として登場した90年代初頭には、既に陰りが見えていた。

折しも、かつて黒人少年アイドルグループ「ニュー・エディション」の中心ボーカルとして「ミスター・テレフォンマン」などの可愛らしい曲を歌っていたにもかかわらず、ワイルドにドラッグ依存になっていったボビー・ブラウンとの92年の結婚も、彼女にとっては悪い意味で転機となった。

同じ92年に公開された映画「ボディガード」主題歌の「I'll Always Love You」は、スーパーヒットにはなった。この映画は白人男性と黒人女性スターのロマンスがモチーフになっているだけに、彼女を象徴してもいる。だが、この直後からドラッグ依存や数々の奇行が目立ち始め、やがて声質までもが極端に衰えていく。破滅ぶりが際立っていくのだ。

90年代初頭といえば、ちょうど日本のバブルが弾けてしまった時期にあたる。金融破綻だ就職氷河期だなどと、平成日本は落ち込む一方となっていった。大衆ディスコのバブルもはかなく消え去り、ダンス音楽シーンも私がついていけないほどに細分化、ハイパー電子音楽化が加速していったのだ。

確かに、彼女はダイアナ・ロスアレサ・フランクリンでも成し得なかったこと、つまり人種の壁を初めて突破した偉大なディーバに違いなかった。しかし、最盛期は85年以降のわずか数年間。その間に世界の頂点を極めたものの、うまく下山できなかった。どうにも私にとって“ホイットニー・ヒューストン”は、“哀しきバブル”と二重写しになるのだ。爆発的な膨張感と、宴のあとのほろ苦さ。それでも、私はだからこそ、刹那に生きる人間の深みと凄味を感じてしまうのである。

マイケル・フォーチュナティ (Michael Fortunati)

マイケル・フォーチュナティイタロディスコとはいいながら本国では相手にされず、日本バブルディスコの象徴になってしまった「ギブ・ミー・アップ」(1986年)。肩掛けキーボードがトレードマークだったマイケル・フォーチュナティさんは、いまどこでなにをやっているのでしょう。

――そんな思いにかれられる切ない彼なのですが、とにかく日本でのみ売れたといっても過言ではないので、海外サイトや各種ディスコ資料を調べても、あまりデータがありません。ベルギーなど欧州の一部ではヒットしたとされていますけど、Youtubeとか見ても、外国人からの書き込みがとても少ないので、やはりマイナーだったと思われます。

日本では歌謡番組に出演するなど、一時期は相当な知名度を誇っていました。ディスコで流行っていたものですから、私もギミーアップと次にリリースした中ヒット「イン・トゥー・ザ・ナイト」(87年)のレコードだけは買いました。あとは「ハレルヤ」とか「レット・ミー・ダウン」などのシングル曲がありますけど、徹底した「二番煎じ型」ですので、ホントどれも似た感じです(トホホ)。

そのころ私は上京したばかりで、六本木、新宿、渋谷と、勇んで出かけたどの店でも大人気だったのを覚えています。まあ、マハラジャの経営者だった成田勝氏がなぜか当時、「イントゥーザナイト」の方のカバー・レコードを発売していますから、「マイケル・フォーチュナティといえばマハラジャ」というイメージもありますね。

彼の曲の曲調は「派手めのイタロ」といった感じでしょうか。80年代後半に定着し、在来ディスコを駆逐していったハウスミュージックやイタロハウスやハイパーユーロビートのノリも含まれていますので、今思えば、ギミーアップあたりはディスコ終焉に向けた序曲だったのかもしれません。

ギミーアップは、同時期に出たバナナラマの「I Heard A Rumor」と酷似していることで話題になりました。日本では、メロディーラインが哀愁系でなかなかの名曲だった「I Don't Know」のヒットがあるアイドルデュオのBabeなどがカバーしており、かなりの売れ行きを示しました。

そもそも日本の歌謡曲は当時、イタロサウンドにずいぶんと影響を受けていました。中山美穂、浅香唯、本田美奈子、工藤静香、Wink……。アイドルが歌うダンス系の曲はおしなべて、イタロ風もしくはユーロビート風のシンセサイザーの打ち込み音がばっしばし入っていたものです。

玄人はだしの音楽ファンにはてんで相手にされないマイケルさん。頼みの日本での人気も、90年ごろからは急下降。それでも、ギミーアップのおかげで、日本ディスコ史には確実に足跡を残しましたね。バブル狂乱期、私もけっこう喜んで踊っておりましたし、お世話になった一曲ということにはなるでしょう。「頑張れマイケル!!」とまずは声援を送っておきます。

CDについては、日本盤のベストがいくつか出ています。写真は2002年発売のEMI盤。ギミーアップとイントゥーザナイトの「ニューバージョン」もおまけとして入っているところが、過去の栄光にしがみつく痛々しさをほんのりと醸しているかのようですが。

サブリナ (Sabrina) &イベント告知

Sabrinaさて、今回は「ディスコおねえさん特集」の続きでサブリナ(本名:Sabrina Salerno)です。写真はデビューアルバム「サブリナ」の日本盤CD。80年代後半、ご覧の通りバブリーな容姿で大人気だったアーチストであります。

1968年イタリア生まれ。「地元の美人コンテストで優勝→モデル→歌手」という一般的なパターンを歩んだ彼女は86年、「セクシー・ガール」という曲をリリースして注目されます。続く87年に発売した「ボーイズ」がヨーロッパを中心に世界的なディスコヒットとなったわけです。日本でもバブル・ディスコ時代を代表するアーチストに加えられますね。

ヌード姿やお色気路線のビデオクリップも話題となりました。ディスコ界では珍しくはありませんが、歌の上手い人ではまったくありませんので、最初からもろセクシー(エロ)狙いの歌手だったといえます。男子にとっては「ジャケ買い必至」といえましょうか。な〜んとお下劣!……いや、私も当時、そんな感じで12インチを買ってしまった一人であると告白いたします。

曲のスタイルは、典型的なシンセ打ち込み型のイタロディスコ(ユーロビートでも可)です。上記2曲以外にも、「ライク・ア・ヨーヨー」とか「ホット・ガール」とか「オール・オブ・ミー」などのポップナンバー、さらには「レディー・マーマレード」、「アイム・セクシー」、「マイ・シャローナ」などのリメイクものを数多くリリースし、それぞれ相当な人気を博しました。

売れっ子になったこともあり、プロデューサーやアレンジャーには、ジョルジオ・モロダーラビヨンダストック・エイトケン・ウォーターマンをはじめとするディスコ界の大御所も起用されています。

サブリナさんは歌手活動だけでなく、恵まれたルックスをフルに生かし、舞台女優やテレビタレントとしても活躍しました。日本で言えば、80年代タレントの武田久美子とか伊藤かずえに似た感じですね(特に顔)。

それでも、90年代に入ると「アーチストとしての私」に目覚めたのか、セクシーイメージを払拭しようとして事務所と対立するようになり、セールス的に低迷した時期がありました。それでも90年代後半には無事カムバックを果たし、本国では40代に突入した現在も、かなりの人気を保っているようです(セクシー路線はどうやら“遠い昔”ですが)。

CDは、デビュー当時からけっこう日本盤でも海外盤でも出ていたのですが、最近はほとんどが廃盤になっています。とはいえ、ベスト盤はドイツの「L.T. Series」などからいくつか出ておりまして、入手はそれほど難しくありません。往年のバブリーディスコを堪能したい向きには、このバブリー歌手は欠かせない存在かと思われます。

★★★ところで、今回はちょいとイベント告知を・・・・・・。本ブログのコメント投稿で毎度お世話になっておりますベテランDJ「ボビQ」さんが3月7日、東京・高円寺にてディスコイベント「幕の内ナイト」を再び開催いたします。私もちょくちょく行っておりますが、80年代のハイエナジー&ユーロビート&ニューウェーブを中心に、ロック、パンク、R&Bさらには和モノなど盛りだくさんの内容でして、文字通り“幕の内な夜”を満喫できます。その該博な音楽知識と選曲センスにはいつも感銘を受けております。東京界隈の方はぜひ! 

詳しくは専用サイトをご参照ください↓
http://www.geocities.co.jp/makunouchi_night/

ステイシー Q (Stacey Q)

Stacey Qマドンナが圧倒的な存在感をもって登場した80年代半ば、似たような“二番煎じ”女性ポップ歌手が続々と現われました。その代表例が、今回紹介するステイシーQですね。86年に「トゥー・オブ・ハーツ(Two Of Hearts)」が全米一般チャート3位まで上昇。全米ディスコチャートでも4位になりました。

日本では80年代後半の「バブル・ディスコ」に属しますね。私はディスコでももちろん聞きましたし、テレビの深夜番組でゲストに登場して、口パクで歌っていたのも思い出しますな。

やはりマドンナ的な、甘ったれた感じのセクシーボイスがウリであります。曲調の基本はハイエナジー&ユーロビートで、当時よく使われていたマシンガン風ディレイエフェクトを使った「アアアアアアアアイニージュー♪♪」のイントロでもお馴染みでした。まあ、今聴くとそれほどインパクトを感じない曲ではありますが、事実上の一発屋の彼女にとって唯一最大のヒット曲であり、「ステイシーといえばアイニージュー」という代名詞が成立するとは言えるでしょう。

ステイシーQ(本名:Stacey Swain)は1958年カリフォルニアに生まれ、80年代初頭にインディー系のシンセポップバンドである「Q」、さらにはその改名後の「SSQ」のリードボーカルとして注目されるようになり、ソロになってヒット歌手になりました。

SSQ時代は、例えばベルリンのテリー・ナンとかミッシング・パーソンズのデイル・ボジオとかゴーゴーズのべリンダ・カーライルのような「かわいこちゃん&ポップロック・バンド」路線だったのですが、いまいち売れなかったのでマドンナ化し、まんまと成功したわけです。

マドンナ路線の女性ポップ歌手は当時、「タッチ・ミー」などで知られるサマンサ・フォックスとか、「ベイビー・ラブ」で知られるレジーナとか「キープ・ミー・ハンギング・オン」のキム・ワイルドとかがいました。日本でも本田美奈子とかレベッカなどが「和製マドンナ」なんて言われてですね。確かに曲調や声質などが、マドンナに似せたような曲や歌手が多かった時代です。

ステイシーは「アイニージュー」の後、小ヒット「We Connect」(86年、一般チャート35位)、「Don't Make A Fool Of Yourself」(88年、ディスコチャート4位)などを出して、それから失速。それでも、コンサート歌手や女優として、現在まで芸能活動はしているようです。

この人のソロ時代のCDはけっこう出ていますね。やはりソロデビューアルバム「Better Than Heaven」(写真)に尽きると思います。これに「アイニージュー」と「We Connect」が収録されています。ええと、それから、貴重なSSQ時代のYouTube映像がありましたので、以下張っておきます。



ミリー・スコット (Millie Scott)

Millie Scott今回は「黒いジャガー」から時代をぐ〜んと新しくして、久しぶりに1980年代後半の「バブルディスコ」ということで。一時期、「Prisoner Of Love」(86年、全米ディスコ13位、R&B78位)、「Every Little Bit」(87年、R&B11位)、「Automatic」(87年、R&B49位)などの中小ヒットを集中的に繰り出したミリー・スコットさんです。

私も当時、浮かれ気分の六本木などのフロアで大変よく耳にしたものです。どちらかというと正統派ソウルなタイプの人で、活躍ぶりは地味でしたが、個人的に好きで、レコードを買ってよく聴いていた記憶があります。

調べてみますと、なんと申しましょうか、“ザ・苦労人”なんですね。本名はMildred Vaney(ミルドレッド・ヴェイニー)。47年米ジョージア州生まれで、少女時代はゴスペルで鍛え上げ、デビューに至ったのは60年代です。テンプテーションズやアル・グリーンといった大物のバックコーラスを務めたほか、「The Glories」、「Quiet Elegance」という名の女性グループでもボーカルを務めるようになったのですが、さしたるヒットには恵まれませんでした。

それでも、ディスコ史的には70年代末、突然ひょこっと顔を出したのがミリーさんであります。「Hott City」と「Cut Glass」という2つのディスコグループ(実はメンバーなどが互いにかなりダブっている)の中心ボーカルでもあったのです。前者では「Ain't Love/Feelin' Love」(79年、全米ディスコ29位)が、後者では「Without Your Love](80年、同16位)が、それぞれちょっとしたディスコ曲として認知されました。特に「Without…」なんて、後にディスコリメイクされたほどでして、なかなかゴキゲンな良曲となっております。

数年間のブランクの後、彼女のピークがやってまいりました。86年にソロデビューアルバム「Love Me Right」をリリースして英米でヒットを記録。この中から表題曲と「Prisoner Of Love」、「Automatic」、「Every Little Love」の計4曲のダンスチューンを矢継ぎ早にヒットさせたのです。このとき既に40歳になっていました。

曲調はもうホント、当時流行ったまったり感のあるアーバン・ファンクです。似たようなところでは80年代半ば以降のS.O.S.バンド、ルース・エンズあたりが頭に浮かびます。バブルなディスコはもちろんですが、こじゃれたカフェバーみたいなところでも確実にかかっていました。90年代ユーロビートやハウスやテクノやニュージャック・スイングみたいにハイパーになる直前のシンセサイザーの乾いた音色が、ガラス&鏡張りで無機質な「ザ・クリスタル」店舗空間には妙にしっくりきたものです。

彼女はこの後、88年に2枚目のアルバム「I Can Make It Good For You」を出しましたが、ちょいヒット止まり。再びバックボーカル中心のいぶし銀な活動ぶりになっていきました。歌はとてもうまいのですけど、うまいだけならほかにも大勢います。例えば、同じころに売れていたホイットニー・ヒューストンやジャネット・ジャクソンやキャリン・ホワイトのように、聴いて識別できるような“個性”に乏しい印象がありますね。

さて、この人のファーストアルバムのCDは長年、レア扱いで一時は日本円で数万のバカバカしい高値をつけるほどでしたが、なぜか今年に入って日本とオランダから相次いでCDが再発されました(写真)。注意したいのは、「Prisoner・・・」の12インチバージョンなどのステキなボーナストラックが、オランダのPTG盤にしか入っていないという点。音質に差はないので(実は間違って2枚とも買ってしまってトホホ)、ここは“輸入盤に軍配”ですかな。

リック・アストリー (Rick Astley)

Rick Astley仏の面も三度……というわけで、「80年代後半・怒涛のユーロビートシリーズ」の最後を飾るのはリック・アストリー。ソウルフルな声の持ち主でありながら、見た目は単なる「英国のお坊ちゃまシンガー」であります。

もういきなり「日本盤」であることがバレバレな左写真は、むか〜しから売っているにも関わらず(89年発売)、今もTSUTAYAなどのバーゲンセールで500円程度で普通に見かける不思議ちゃんCD「12インチコレクション(5曲入り)」であります。つまり、それだけ当時は人気だったため、大量にプレスされた証だというわけですね。プレミアはまったくありません。

ただし、中身については、「必要十分の名盤」と私などは言い切ってしまいます。まず、リックさんを聴くのであれば、12インチである方が良い。そして、そんなにたくさん名曲がないから5曲入りで十分――ということです。

収録曲は、「ネバー・ゴナ・ギブ・ユー・アップ」「トゥゲザー・フォーエバー」「テイク・ミー・トゥー・ユア・ハート」「ダンス・ウィズ・ミー」「ストロング・ストロング・マン」。最初の2曲(両方とも全米ポップチャート、ディスコチャート、英国チャートいずれも1位)だけでもありがたいのに、3曲もプラスされているのです。

あえていえば、「When You Need Somebody」あたりが入っていればパーフェクトだったのでしょうが、まあ我慢の範囲であります。

プロデュースは、またもやストック・エイトケン・ウォーターマン(SAW)でありまして、曲調が「いかにも」というのは周知の事実。5曲とはいえ、続けて聴くと飽きます(断定)。でも、声はやっぱりいいのかなあ、と思います。全盛期バブルディスコの「フロア炸裂」の思い出もよみがえりますしね。女性ボーカル優勢のユーロビート(後期ハイエナジー)界にあって、ここまで男性ボーカルで高い位置を占めることができたのは特筆すべきことです。

リックさんは、90年代以降はSAWから離れ、自らの原点であるソウルな路線(もともとクラブのソウルバンドシンガーだった)で自立の道を模索しますが、あまりうまくいきませんでした。盛者必衰の理であります。それでも、2曲も超特大ヒットを飛ばしたのだからよしとしましょう。少なくとも“一発屋”ではないわけです。

サマンサ・ジルズ (Samantha Gilles)

サマンサ・ジルズ「円高でお金持ちだよん」――ということで日本が有頂天になっていた80年代後半、ディスコは“マハラジャ旋風”に代表される第2次黄金期を迎えていた。「さあジャパンマネーでお買い物だよん!」というわけで、レコード関係者たちは、ハワイの不動産ブームをよそに、ヨーロッパの音楽著作権を買いあさっていたという。

最大の標的は、ものすごーく不況に陥って通貨リラが暴落していたイタリアやスペインなどの「ユーロビートの本場」の国々だった。「ユー、アー、プレ〜イボーイ♪」「アイライクショパン〜♪」などと聴けば、ピンとくる40前後の人々も多いであろう。

ちょっと地味だけど、ベルギー出身のサマンサ・ジルズも、そんな感じで日本に「安く輸入」された一人だった。ベルギーといえば、70年代後半の「ディスコ第一期黄金時代」には、「サンチャゴ・ラバー」でお馴染み(?)のエミリー・スターという「アイドル的ディスコちゃん」が人気を博したが、それ以来ということになる。

サマンサもまさに「ちゃん」付けが似合うような、美少女アイドル系だった。何しろ1984年に「フィール・イット(Let Me Feel it)」でデビューした当時は12歳。「英国ハイエナジー・ディスコチャート」で上位にランクインするなど、まずは欧州で人気に火がついたが、即座に日本にも飛び火したのである。

私は上記「ハイナジー・チャート」で初めて目にして、さっそく英レコード・シャック盤の「フィール・イット」の12インチを買ってみたのだが、最初に聴いた印象は「まあまあ」。でも、B面に、少し面白いアレンジのリミックスが入っていたのを記憶している(今は部屋の片隅に埋もれていて捜索不可能)。

サマンサはその後、「Music Is My Thing(ミュージックがすべて)」(86年)、「Hold Me」(87年)、「One Way Ticket To Heaven(天国への片道切符)」(88年)、「S.T.O.P.」(同)といった、哀愁路線のハイエナジーヒットを立て続けに飛ばしていった。ヨーロッパでの低落気味のセールスをよそに、日本では大いにもてはやされ、その勢いは90年代初頭の「ジュリアナ東京」なんかの時代まで続いた。もはやサマンサに怖いものはない……。

ところが、それから間もなく彼女は、忽然と姿を消すのである。90年代半ばごろまでは、日本で細々と、ありがちな「大人のサマンサ」路線のアルバムをエイベックスから出していたのだけれど、96年発売の「デスティニー」を最後に、ぱったりと音沙汰がなくなってしまったのだ。理由は、単に「売れなくなった」ということなのだが、日本における「バブルディスコの終焉」とも、濃厚に重なり合っていることは確かだろう。

あっさりと日本にも捨てられ、忘却の彼方へと追いやられてしまったサマンサ。けれども、ハイエナジー(ユーロビート)の一つの象徴として、日本ディスコ史にしっかりと足跡を残していったという事実は消えない。今も故郷ベルギーの港湾都市アントワープあたりで、トレードマークのブロンド髪をはためかせながら、元気に暮らしていることを祈るばかりである。

ちなみに、「ミュージックがすべて」は、4年前に日本の子供アイドルグループ「dream」がリメイクしてヒットさせている。私は何だか懐かしくて、近所のCD店で思わず買ってしまったのだった(トホホ)。

写真のCDは、1988年に発売された日本盤ベスト。「ミュージックがすべて」「ホールド・ミー」「天国への片道切符」が、いずれもロングバージョンで収録されているのがうれしい。ただ、ジャケットの少しはにかんだ表情のサマンサが、妙に哀しみを誘うのである。

デッド・オア・アライブ (Dead Or Alive)

Dead Or Alive「こんな曲がついに出たか!」。デッド・オア・アライブ(DOA)をディスコで初めて聞いたときの身震いする感覚。ハイエナジー系のうねうねシンセ・サウンドの一つの到達点であり、あまりにイケイケで吐きそうなほどでした。

1983年、当時の地元札幌のディスコ「釈迦曼陀羅」で耳にしたのは、「What I Want」という曲でした。最高潮に盛り上がったときにいきなりかかり、何だか分からないままに、フロアに飛んでいったのを記憶しています。すぐに客で満杯になり、地響きが鳴り響くような状況になりました。ボーカルのピート・バーンズの野太い声が、いまも鼓膜の奥によみがえってきます。

DOAは1979年、同性愛風の派手派手コスチュームに身を固めたピートを中心に結成された、「ナイトメアーズ・イン・ワックス」という新手の英国ニューウェーブ・グループが前身。翌80年には、やはりピートを前面に出したDOAに改称し、現在にまで至っています。私が聞き始めたころには、既に結成から3年も経っていたというわけです。

私は当時、What I Wantが入ったデビューアルバム「Sophisticated Boom Boom」(84年発売)のピートの姿(左写真)などを見て、同じころに流行ったカルチャークラブのボーイ・ジョージの真似だ、と即座に感じました。同様の女装ゲイっぽいキャラのマイナーアーチストは、(ディバインのような奇天烈なやつも含めて)ほかにもたくさんいましたし。

けれども、カルチャークラブの結成は81年ですから、「ゲイコスチューム路線」という意味でも、DOAの方が少し先を行っていたようです(ただし、ピートとボーイは、互いに「あっちが真似した」と争い続けています。つまり仲が悪い)。

まあ、ルックスはともかく、デビューアルバムの曲はどれも秀逸だったものです。A面収録のKCの「ザッツ・ア・ウェイ」のリメイクなんかも、非常にソリッドかつトリッキーなシンセ使いに、ピートのあの「オペラでもやっていたのか?」と思わせる豊かな声量の歌声が、うま〜く調和しております。

85年に出した2枚目アルバム「ユースクエイク(Youthquake)」あたりから、セールスのピークを迎えます。プロデュースはお約束のストック・エイトケン・ウォーターマン(SAW)。「ユー・スピン・ミーラウンド」(英国チャート1位、全米ディスコチャート4位)のほか、「ラバー・カム・バック・トゥー・ミー」、「マイ・ハーツ・ゴーズ・バング」が収録され、このどれがかかっても、フロアは「どっか〜ん、どっか〜ん」の大花火大会でした。

86年発売の3枚目「Mad, Bad, and Dangerous to Know」も売れ行き好調。「ブランド・ニュー・ラバー」(全米ディスコチャート1位)、「サムシング・イン・マイ・ハウス」(同3位)はまたまた、ディスコフロアを激しくにぎわせました。

日本では、この後もヒット街道ばく進。バブル景気にもろに乗っかって、全国各地のディスコは皆、DOAモノで本当にむせ返るほどだったのですが、米国や本国英国では徐々に失速します。もともと変人扱いのピート・バーンズは、やれ「整形手術で唇が変になった」とか(事実らしい)、同棲相手の男と大喧嘩して警察沙汰になったとか(これも事実らしい)、とりわけゴシップで世間を騒がせる存在になっていったのです。

私自身もこのころから、DOAには正直、「そろそろマンネリかな??」と飽き始めてきました。90年代以降は、少し曲のトーンをソフト路線へと変えたようですが、ほとんど聴いていません。

ここで意外な事実。実は、ピートさんは80年代前半から普通に結婚していて、昨年離婚したばかりだというのです。でも、男性とも同棲しているわけですから、「バイセクシャル」ということになります。(まあ、そんなことはどうでもいいのですが)。

ほとんどのアルバムがCD化されていますが、写真のデビューアルバムは最近は希少価値大。2年ほど前には、待望の12インチ集CDが計画されたにもかかわらず、発売直前でなぜかお蔵入りになっています。「2003年●●ミックス」のようなセルフリメイクが非常に多いアーチストですので、今後、再び12インチ集を編集するのであれば、オリジナルバージョンをそろえてほしいものです。

追記*この投稿の4カ月後、待望のデビューアルバムのCDが発売されました。しかも12インチバージョンのボーナストラック入り! けっこうなことでございます。

バナナラマ (Bananarama)

バナナラマSAWの代表選手「バナナラマ」は、1981年にカレン、サラ、シボーンの女友達同士で結成した英国の3人組でした。後にシボーンが結婚して抜けたものの、今も2人組で活躍中の大ベテラン。世界で最もチャート入りを果たした女性ボーカルグループとして、ギネスブックに載ったほどであります。

SAWがプロデュースし始めたのは1986年のこと。バナナラマ側が、彼らがプロデュースしたデッド・オア・アライブの曲を聴いて気に入り、制作を依頼したという経緯があります。同年に出たお馴染みの「ビーナス」は、いきなり全米1位を記録する特大ヒットとなり、世界中のディスコで定番化したというわけです。

「打ち出の小槌」SAWの力を得たバナナラマは、ビーナス以外にも「モア・ザン・フィジカル」「アイ・ハード・ア・ルーマー」「ラブ・イン・ザ・ファースト・ディグリー(第一級恋愛罪)」などなど、バブル景気真っ盛りの80年代後半を彩るダンスコヒットを連発しました。言うまでもなく、ディスコフロアでは「耳にタコ、靴ずれでかかとにもタコ」状態でしたね。

特に「アイ・ハード…」は、マイケル・フォーチュナティーのあの「ギブ・ミー・アップ」にそっくりだと話題になりました。実際はどっちが真似をしたのかよく分からないのですが、確かに当時は、ちょっとはオーケストラな雰囲気を持っていたハイエナジー系が、「もろ打ち込み」のユーロビートに変貌し、似通った曲が量産されてきた時代でもありました。

まあこのあたりは、賛否が分かれるところでしょうが、80年代後半という時代性を考えれば、「おバカの頂点」という意味で、私はぎりぎり好きな部類に入ります。

というわけで、バナナラマにとっての絶頂期は80年代後半ですけれども、私としては結成直後の曲に注目したいところ。このころは、元スペシャルズのメンバーで結成された「ファン・ボーイ・スリー」の協力により制作された曲が多い。つまり、スカロックなテイストがにじんでいるのです。

「リアリ・セイイング・サムシング」「シャイ・ボーイ」「クルエル・サマー」といったあたりがこのころの代表作。とりわけ「クルエル」は、83年に全米ポップチャート9位、全米ディスコチャート11位までそれぞれ上昇する中ヒットになっています。当時のジャケットやPVをみると、まだいかにも“おてんば少女”のアイドルという感じです。でも、曲にはユーロっぽい軽さはなく、逆にこのころの方が大人っぽさを感じさせます。

もともとバナナラマはボーカルに特徴がありまして、3人がパート別に分かれてハモるのではなく、一斉に同じ調子で歌う方法をとっていたことで知られています。初期のレコーディング時には、1本のマイクを3人で一緒に使うこともありました。それで、なんだか合唱団のような独特のボーカルが展開されているというわけです。

写真のCDは、少し前に発売された12インチコレクション。12曲入りなので、26年ものキャリアからして網羅的にはなりえないものの、クルエル・サマーやシャイ・ボーイのロングバージョンが入っているのが嬉しいところ。クルエルはオリジナルの12インチとは内容が違っていまして、しかしなかなかカッコよいです。ホット・トラックスあたりのDJミックスが収録されているのだと思います。
CDのライナーノーツ書きました(広告)


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