ディスコ堂 by mrkick

音楽に貴賎なし ―Discoの考察とCD批評

フリースタイル

ザ・フラーツ (The Flirts)

The Flirts久しぶりに"シンセサイザーたっぷり"系ディスコを取り上げましょう。ご存知ボビー・オーランド(ボビー・オー)がプロデュースした"秘蔵っ子"で、こてこてハイエナジー・ディスコの女性3人組「フラーツ」であります。

この人たちは80年代初頭、ニューヨークで結成されました。単純にボビーOがNY在住だったからですが、欧州や米西海岸で人気だったハイエナジー系にしては珍しいことです。「NY発ハイエナジー」であることから、ディスコブーム後のアメリカの代表的なダンスミュージックであるフリースタイルの要素も取り入れられています。

発売した新作アルバムは、ディスコアーチストとしては多く計5枚。女性3人組ディスコということで察しがつくように、歌詞も容姿もセクシー路線なわけですが、メンバーはころころ変わりました。どちらかというと、本国アメリカよりもヨーロッパでの人気が高かった人たちです。

代表曲は、82年のデビューアルバム「10¢ A Dance」(テンセント・ア・ダンス)からのシングルカット曲「Passion」(82年、全米ディスコ21位)のほか、同時期のハイエナジー&イタロヒット「Slice Me Nice」(Fancy)に似た、というかあからさまにパクったとされる(もともとボビーOはちょいパクリの名手)「Helpless」(84年、同12位)、「You & Me」(同1位)、「New Toy」(同5位)、「Danger」(83年)あたりです。若きニコラス・ケイジが出演した青春映画「ヴァレー・ガール」(83年)にも使われた「Jukebox」(82年、同28位)というのもありました。

異色なところでは、83年発売のアルバム「Born To Flirt」に入っている「Oriental Boy」というのがあります。直訳すると「東洋の男の子」ですが、歌詞に「スシ」「ソニー」「トヨタ」「サヨナラ」などの日本語が次々出てくるため、対象はモロ日本人だとわかります。内容は「すしバーで出会った東洋人に恋したけど結局フラれちゃったよ〜ん」と嘆く米国人女性の恋物語ですが、これってかつて紹介したアネカの「ジャパニーズ・ボーイ」とおんなじ展開です(トホホ)。

私自身は、中でもパッション、ヘルプレス、ユー・アンド・ミーを当時のディスコで耳にしました。好きなボビーO作品ということで、もう手放しに興奮し、フロアを駆けずり回って踊りまくった記憶があります。特にユー・アンド・ミーのイントロは、マドンナの「イントゥー・ザ・グルーブ」を彷彿させるカッコよさです(ていうか、これもちょいパクった?)。

ボビーOは多作のプロデューサーとして知られ、ピーク時の80年代前半には年間数百枚の12インチをプロデュースしたと言われています。「作品1曲をミリオンセラーにするより、200曲を5000枚ずつ売る方が好きだ」という本人の有名な言葉があり、実際にその通りの活動ぶりでした。もの凄くたくさんのアーチストを手がけているわけですが、このフラーツは「Shoot Your Shot」などのヒットで知られるディバインと並んで、長く深く付き合ったアーチストでした。

その期間は、82年のデビュー時から、ボビー自身がサンプリングなどの新しくて手間要らずの打ち込み音楽に嫌気がさし、音楽活動と距離を置くようになった92年ごろまでです。フラーツはドラムマシーン&シンセサイザー満載の典型的な"ボビーO"サウンドではありますけど、まだ電子音楽も素朴な時代でしたし、ギターやパーカッション(カウ・ベル)などの生音も少々入っているので、ほどよい手作り感があります。

フラーツのCDは、カナダのユニディスクレーベルから各種発売されています。どれも音質は良好で、ロングバージョンもふんだんに含まれています。上写真はその一つの「10¢ A Dance」で、「パッション」「ジュークボックス」「Calling All Boys」などが入っています。

ジェリービーン (Jellybean)

The Mexican自由な発想を基本としたアメリカ発の「フリースタイル」は、80年代初頭に登場以降、ディスコシーンにさまざまな影響を与えました。踊りもラインダンス(ステップダンス)のような形式ばったものではもちろんなく、ブレイクダンスに象徴されるようにおおらかになりまして、「オレの身体能力の限界に挑戦してやるぜ!」みたいに爆発的に派手になっていきました。

まあ、以前にも触れましたが、踊りが音楽ともども一層フリーになった分、「リズムに合わせる」という基本が、ちょいと疎かになってなっていった部分がありますが、それはご愛嬌でしょうか。

いずれにせよ、「アメリカではもうディスコの時代は終わった」というわけで、ヤケになったのかどうか、いろんな場面で既成の枠を越える現象が出てきました。「フィリーサウンド」(例:オージェイズ、MFSB)みたいな生音オーケストラのディスコは見事に駆逐され、代わってドラムマシーンやシンセサイザーの電子音満載の音楽が幅を利かせるようになります。

それはニューウェーブだったりロックだったりパンクだったりファンクだったりと、いろんな姿で飛び出してきました。とにかくシンセサイザーは「かっきり、くっきり」鋭角的にバカ正直にビートを刻みますから、踊り手としては非常に踊りやすい。DJもつなぎやすい。どんなジャンルの音楽にせよ、ドラムにこうした電子音を利用してしまうと、もう否応なしに「もしかしてディスコ?」な音になってしまうのでした。

実際、私も一生懸命、「ディスコでも踊れそうな曲はないかな」って思ってFMラジオでエアチェック(カネがないのでトホホ)するうち、あらゆるジャンルがカセットテープに録音されていることに気付き、愕然とした記憶があります。「えぇ? スティーブ・ミラー・バンドが?、クラッシュが? Jガイルズ・バンドが? トッド・ラングレンが? デビッド・ボウイが?」という具合にです。

こうした「お手軽に枠越え」現象が続出する中、ディスコのDJたちの中にも、それまでの単に「曲をかけて紹介して、つないで、踊らせる」という役割を離れようとする状況が生まれました。ディスコが衰退しつつも、なお踊りたい人はいっぱいいたわけですから、ディスコDJの需要そのものはあり続けたのですけど、それだけにとどまらなかったのです。ついに禁断の「制作者サイド」にまで進出してしまったのでありました。

その最大の例は、「パラダイス・ガラージ」の主力DJだったラリー・レバンや「スタジオ54」、「ファンハウス」の超人気DJだったジェリービーンといえましょう。特にジェリー・ビーンは、当時最先端の「フリースタイル」を踏襲したディスコリミックスを数多く手がけ、「ディスコ(ダンス)ミュージック)」という領域を飛び出し、日本で言う一般的な「洋楽ポップ界」でも大活躍でした。

何しろ、マイケル・ジャクソンからポインター・シスターズ、シーナ・イーストン、トーキング・ヘッズ、ホイットニー・ヒューストン、ボニー・タイラー(「秀逸のダンスリミックス「ヒーロー」!)に至るまで、いろんなトップ・アーチストたちの「12インチリミックス」を次々と手がけた人なのです。私自身、12インチシングルを買い始めた80年代前半、「Remix: John "Jellybean" Benitez」というクレジットを何度、目にしたか分かりません。80年代の12インチ全般にいえることですが、この人のリミックスは、最近のものとは違い、原曲を損ねない程度にうまくアレンジし、かつ踊りやすくしているところが高評価であります。

ジェリービーンの本名はJohn Benitezで、1957年生まれのプエルトリコ系アメリカ人。少年期を過ごしたニューヨークでディスコミュージックと出会い、自室で姉のレコードをかけながら、「ベッドルームDJ」に熱中するうちに、プロ入りを決意。さまざまなディスコを渡り歩き、1980年代以降にはそのセンスを買われて、レコード会社関係者やアーチストと行動するようになり、リミキサーとしての地位を不動のものとするのです。

イケメンDJでもあったジェリービーンは、ブレックファスト・クラブ(87年に「ライト・オン・トラック」がディスコで大ヒット)が80年代前半、リミックスを頼みに来た際、当時メンバーだったかのマドンナを紹介され、彼女と恋仲になったことでも知られます。ただし、後に特大スターとなったマドンナには結局、振られてしまい、自分がDJを務めるディスコで大暴れしたとのエピソードも残しています(当時の報道より)。

ジェリービーンは、他のアーチストのリミックスやプロデュースだけではなく、自分名義のアルバムやシングルもいくつか出しています。84年には、もろフリースタイルのアルバム「Wotupski!?!」を発売し、その中で「ザ・メキシカン」と「サイドウォーク・トーク」(マドンナがボーカル担当)が、全米ディスコチャートで堂々1位を獲得しています。ほかに「ザ・リアル・シング」(87年、同1位)、「Who Found Who」(87年、同3位、ボーカルはなぜかマドンナ似のElisa Fiorillo)、「ジャスト・ア・ミラージュ」(88年、同4位)「ジンゴ」(88年、同2位)なども、彼のラテンでダンサブルな個性がにじみ出ていて、とても印象深い佳曲であります。

一時代を築いた“DJミュージシャン”、ジェリービーン。……ところが、CDの再発状況は、実に心許ないのでした(しょんぼり)。1988年(!)発売の12インチ集「ロック・ザ・ハウス」(上写真)はなかなかよいのですが、代表曲の「ザ・メキシカン」が入っておらず、中途半端な印象。ほかにもいくつか出てますけれども、たいしたことなし。せめて珠玉の「Wotupski!?!」(下写真)を早くCD化してほしいと、心から願っております。

Jellybean

フリーズ (Freeez)

John Roccaアメリカでは、1980年を境にディスコが「ダサダサ」ということになって衰えたのですが、その音楽遺伝子は脈々と受け継がれていきました。その代表例が俗に「フリースタイル(Freestyle)」と呼ばれたアメリカ発ダンスミュージックです。有名ディスコが次々と閉店を余儀なくされる中、なおも世間の目をはばかりながら営業していたディスコたちは、このジャンルの曲の登場により一命を取りとめた、といっても大げさではありません。

フリースタイルはニューヨークとフロリダが発信源。その三要素は、大きく言って「電子音」「シンコペーション」「ラテン風リズム」でして、文字通り自由な発想の曲作りを持ち味としています。とりわけお馴染みのローランドTR-808のドラムマシーンが紡ぎ出す「ピコポコ、ポンポコポン♪」の音色が特徴的ですね。「シンコペーション」とは、曲を実際に聴くと分かりますが、バックビート(裏拍)を強調し、テンポ展開を微妙にずらした複雑なビート&リズムのことで、生ドラムや生ベースではなかなかうまく表現できないとされています。

フリースタイルの初のヒットはマン・パリッシュの「ヒップ・ホップ・ビー・ボップ」(1982年、全米ディスコチャート4位)とされており、以後、大量のアーチストたちがさまざまなヒット曲を飛ばし、80年代後半までブームといえる状況が続きました。アーチストはやはりイタリア系やヒスパニック系が中心で、それに黒人ミュージシャン、英国テクノポップグループも加わるといった格好でした。レーベルはStreetWiseやEmergencyなどが有名です。マイノリティーが作り出した文化であり、現在に通じるヒップ・ホップの源流でもあります。

代表的なアーチストは……といっても、恐ろしいほどたくさんいます。Lisa Lisa and Cult Jam、TKA、C-Bank、Planet Patrol、Tina-B、Expose、Shannon、Information Society、Cover Girls、Jellybean、Arthur Bakerあたりをひとまず挙げておきます。

これらのアーチストの曲は、どれも当時、流行だったブレイクダンスにぴったりな曲ばかりです。特にポッピングとかエレクトリックブーガルー(エレクトリックブギー)みたいな、「カクカク、カキカキ、痛えっ!(関節がはずれる音)」のロボットダンスな踊り手に人気でした。フリースタイルの曲が満載のダンス映画「ビート・ストリート」なんて映画が公開されたのもこのころです。

フリースタイルのアーチストはいずれ少しずつ紹介していくつもりですが、今回は私の思い入れ優先でフリーズ(Freeez)にしたいと存じます。代表曲「I.O.U.」(83年、ディスコチャート1位)は当時、軽く1万回ぐらい聴きましたし(うそ)、ディスコでも「もう勘弁してください」というぐらいかかっていました。

歌っているのは中心メンバーのジョン・ロッカ(John Rocca)で、「ホントに男なの?」というぐらい、ものすご〜く高い声です。イギリスのグループで異色ではありますが、I.O.U.のリズム展開はフリースタイルそのもの。シンセサイザーでがんがん押していくタイプ……というか、ボーカル以外はシンセサイザーの音しか聞こえてきませんが、そこがまたよかったのですね。8分近くある12インチバージョンというのもありました。

フリーズはI.O.U.。の後、「ポップ・ゴーズ・マイラブ」(83年、ディスコ5位)がかなりのヒットになりましたけど、後はふるいませんでした。

ジョン・ロッカだけはソロでしばらく活躍を続け、84年に「I Want It To Be Real」、93年に「Shine」がそれぞれディスコチャート1位に輝いています。特に前者は、フリースタイルの名曲の一つだと私は思います。ほかにも「Once Upon A Time」(84年、ディスコ72位)という、世界中のDJから高い評価を得ているディープな佳曲もありますね。

Freeez、ジョン・ロッカともに、CDは基本的にありません(きっぱり)。I.O.U.だけはいろんなコンピにやたらと収録されていますが。上写真は、音質に難があったり、そもそもCD-R(!)だったりする米Hot Productions盤のジョン・ロッカのベストです。内容も、「I Want It To Be Real」がオリジナルではなく、リミックスしか入っていないなど今ひとつ。これでさえ、今ではレア盤になってます。

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プロフィール

mrkick (Mr. Kick)

「ディスコのことならディスコ堂」----本名・菊地正憲。何かと誤解されるディスコを擁護し、「実は解放と融合の象徴だった」と小さく訴える孤高のディスコ研究家。1965年北海道生まれのバブル世代。本業は雑誌、論壇誌、経済誌などに執筆する元新聞記者のジャーナリスト/ライター/翻訳家。もはや踊る機会はなくなったが、CD&レコードの収集だけは37年前から地味〜に続行中。アドレスは↓
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