ディスコ堂 by mrkick

音楽に貴賎なし ―Discoの考察とCD批評

モータウン

マーヴィン・ゲイ (Marvin Gaye)

Marvin Gaye今回は、前回のメロウついでに、今はなきソウル界最大級の功労者マーヴィン・ゲイさんと参りましょう!

マーヴィンさんといえば、「ソウル音楽の殿堂」モータウン・レコードの主力シンガーとして1960年代から活躍し、1971年発売のアルバム「What's Going On」(写真)は、今も70年代の新時代を告げる歴史的名盤として語り継がれています。まあ、ディスコなどでは括り切れない人物であることは確かですが、このアルバムのとき既にディスコ化の兆しもみてとれます。

というのも、69年発売の「M. P. G.」までは、「ズンチャ、ズンチャ」と明瞭に刻むドライなドラムビートをひとつの特徴とする典型的な60年代のモータウン・サウンドでした。でも、このアルバムからさわやかストリングスやパーカッションを取り入れるなどして、まるでフィリーサウンドのような軽やかなダンスビートを展開し始めるのです。天下無双の3オクターブの美声を誇るソウルの帝王たる彼自身は、ディスコブームそのものに違和感を抱いていたのですけど、「歌は世につれ」です。

マービンさんは1939年、ワシントンDCの敬虔なクリスチャンの家に生まれました。なにしろ父マービン・ゲイ・シニアはキリスト教系の聖職者。でも、幼少期にその父親からひどい虐待を受け、毎日のように暴行を受けていたといいます。それが、後の彼の人生観や音楽性にも大きな影響を与えました。

まずはお約束、地元の教会で歌ったり、ピアノやドラムを演奏したり、日々の苦悩を晴らすかのように音楽に打ち込みました。デトロイトのクラブなどで歌っているうち、60年ごろにモータウンの創始者であるベリー・ゴーディに見出されてデビュー。1962年のシングル「Stubborn Kind of Fellow」が最初のヒット(米ビルボードR&Bチャート8位)となり、注目されるようになりました。

この曲は70年代後半、元フィフス・ディメンションのルー・コートニー(Lou Courtney)がボーカルを務めるBuffalo Smokeというグループによってアップテンポな軽快ディスコとしてリメイクされました。イントロ部分がまったくなく突然コーラスが展開するというDJ泣かせな曲ですが、全体的にはなかなか良いアレンジでフロアではまずまずの人気となっています。

さて、ヒットを1曲出して勢いを得たマーヴィンさんは、破竹の勢いでスターダムを駆け上ります。とりわけ60年代半ばから後半にかけては、レーベルメイトであるタミー・テレルとの男女デュオ曲「Ain't No Mountain High Enough」(67年、米R&B3位、米一般総合チャート19位)、「Ain't Nothing Like The Real Thing」(68年、R&B1位、総合8位)、「You're All I Need To Get By」(68年、R&B1位、総合7位)などが大ヒットを記録しました。

この3曲ともに、以前に紹介した「ディスコの隠れた立役者」の夫婦デュオであるアシュフォード&シンプソンが作曲しており、彼ら独特のドラマチックな高揚感のある旋律が、聴く者、踊る者を桃源郷へと誘います。ほかにも、68年には「I Heard It Through The Grapevine」(R&B1位、総合1位)が彼の生涯を通じて最大のヒットになっております。

しかし、すっかり大スターになった70年前後には、自分はバラードを中心とする正統派ソウル歌手だと思っているのに、派手な世間受けするチャートヒットばかりを望むモータウン上層部とは方向性をめぐって何かと対立するようになります。ちょうどこのころ、パートナーとして全幅の信頼を置いていたタミー・テレルが、脳腫瘍により24歳の若さで急逝しており、加えてドラッグの常習や離婚問題も抱え、精神的に追い詰められた状態になってしまいました。

そんな彼が、起死回生の一発として繰り出したのが、「What's Going On」でした。マーヴィン自身がプロデュースし、ドラッグ中毒や戦争、失業、貧困、人種差別、環境破壊といった重〜い社会問題をテーマにしたコンセプトアルバムだったため、モータウン側は「こんな理屈っぽいレコードが売れるのか?」とあまり乗り気ではなかったのですけど、結果的には特大ヒットを記録。結果を出したマーヴィンさんはこれ以降、作曲、プロデュースを含めてより自由に自分の作品を手がけられるようになったのでした。

71年といえば、泥沼化するベトナム戦争の真っ只中。戦争や権力への抵抗を熱く歌い上げる骨太ロックや反戦ソウルが全盛期だった中で、「人がいっぱい泣いて、いっぱい死んでるけど、いったい何が起きてるの?お母さん、お父さん、お兄さん」「戦争は何も解決しないよ」などと極力柔らか〜く訴えるメッセージが、かえって人々の胸に響いたのです。

このアルバムでは、アルバムタイトル曲と「What's Happening Brother」、「Right On」などが、ピアノやストリングス、パーカッションをふんだんに活用したジャズ風の立派なダンス曲になっております。70年代初頭にもかかわらず、近い将来にディスコが担うことになる脱政治なウキウキ時代を予感させる先駆的作品でもあります。

この後、73年には、71年のウィルソン・ピケットの大ヒット曲で、日本でもテレビの人気コント番組「8時だョ!全員集合」(TBS系)で使用されたあげあげダンスチューン「Don't Knock My Love」のカバーも出してヒットさせています(R&B25位)。

さらに、いよいよ到来した本格的なディスコ時代でも、パーカッシブでちょいとサイケな「I Want You」(76年、R&B1位)、彼の曲の中では最大級にファンキーディスコな「Got To Get It Up」(77年、R&B、総合、米ディスコチャートともに1位!)、それに淡々と8ビートで展開しながらも自然と腰がくねくね動き出す「A Funky Space Reincarnation」(78年、R&B23位)、シンセサイザーやラップの要素をとり入れた「Ego Tripping Out」(同17位)などのダンス系のヒットを世に送り出しました。70年前後までの全盛期ほどではないにせよ、繊細な色気たっぷりの美声は健在で、まさに「帝王」の名をほしいままにしております。

それでも、80年代以降は、さすがに失速してきたマーヴィンさん。2度目の離婚や極度のドラッグ依存、うつ疾患、10億円以上ともいわれる巨額の借金、脱税問題のほか、モータウンとの確執もピークに達し、81年に発売したアルバム「In Our Life Time」(下写真)を最後にモータウンを離れました。このアルバムも「アメリカの核戦争による世界の終わり」なんかを歌ったかなりメッセージ性が強くてスピリチュアルな作品でしたが、借金返済の目的もあって相当に世俗ディスコを意識した内容でもありました。「Praise」とか「Love Party」みたいなダンサブルな収録曲が多くて素敵でしたけど、残念ながらセールス的にはいまひとつとなっております。

この翌82年、移籍先のCBSからアルバム「Midnight Love」をリリースし、これが久々の特大ヒットを記録。中でも、日本製リズムマシンの名機TR-808を駆使したシングルカット曲「Sexial Healing」は、R&Bチャート1位、総合チャート3位、ディスコチャート12位まで上昇し、80年代のR&B界を代表する一曲となりました。さすがの天才、ここで人生の再逆転です。…けれどもまた好事魔多し、2年後の84年4月1日、かねてより不仲だった父親と口論の末、なんと銃殺されるという悲劇に見舞われてしまうのです。まだ44歳でした。

ダンスフロアに鳴り響くディスコ音楽では、「ボディー・アンド・ソウル」(身も心も)という心身二元論が歌詞などによく用いられますが、むしろ心身合一こそがディスコの真骨頂。フロアで踊りまくって汗だくになって、「あれ、どっちが体でどっちが心だっけ?」というぐらいに倒錯してこそ、多幸多福な感覚を覚えます。「心が躍る」とはまさにこのことでしょう。ステージ上での貫禄たっぷりのエンターテイナーぶりとは裏腹に、心身が乖離したかのような破滅的な日常を歩んでしまったマーヴィンさんですが、それはもうディスコな生き様そのものだったといえます。

CDはベスト盤はもちろん、アルバムもさすがにほぼ全部が再発できちんと出ています。ディスコ的には、「What's Going On」の次に「In Our Lifetime」、「Hear My Dear」、「I Want You」へと進み、最後に「Midnight Love」で締めくくると、ディスコなマーヴィンさんが少しずつ見えてきます。ほとほと音楽家ってうらやましいですね。蓋し、「身は滅んでも、魂は生き続ける」(やっぱり心身二元論)。

Marvin Gaye_In Our Lifetime

スティービー・ワンダー (Stevie Wonder)

Stevie Wander今回はやぶから棒にスティービー・ワンダー! 前回登場のスターズオン45にも真似されるぐらいですから、芸歴は長く知名度抜群。ヒット曲はべらぼうな数です。

スティービーは1950年、米ミシガン州に生まれ、間もなくデトロイトに移りました。未熟児で誕生したことが原因で盲目となりましたが、幼少期に音楽に目覚め、黒人教会のゴスペルコーラス隊に参加します。9歳までにはピアノ、ドラム、ハーモニカを習得。もちろん歌もお上手。視覚を補って余りある天才少年ぶりを発揮します。

11歳のとき、地元デトロイトに誕生したばかりのモータウン・レコードの関係者に発掘され、すぐにデビュー。「リトル・スティービー・ワンダー」と銘打って大々的に売り出され、63年、尊敬するレイ・チャールズやサム・クックを意識したダンスナンバー「フィンガーチップス(Fingertips)」が米ビルボードチャートのポップ、R&B部門で堂々1位を獲得。これをスタート地点として、60年代から2000年代に至るまでヒットを量産し続けています。

そんなわけで、ソウル界ではトップクラスの大御所になるわけですが、ディスコへの貢献度も絶大でした。実は、彼はピアノからドラム、ベース、ギター、ハーモニカまでこなすマルチインストゥルメンタリスト(多楽器奏者)だった上に、以前に紹介したジャズ畑のハービー・ハンコックと同様、いやそれ以上にシンセサイザーに代表される新技術の導入に積極的な先駆者でした。「新しもの好き」の本領を発揮し、ブームが来る前に「ディスコっぽい曲」も発表していたのです。

まず、1966年には、誰でも耳にしたことがあるであろう「アップタイト」という曲が大ヒット(ビルボード一般3位、R&B1位)。これは完全にダンスフロアを意識した曲調で、あのモータウン独特の跳ね上がるようなドラムビートが特徴になっています。同じ時期にヒットしたマーサ・アンド・ザ・バンデラス「ダンシング・イン・ザ・ストリート」(64年、ビルボード一般2位)などと並び立つ「モータウン・ダンスビート」の代表曲といえます。後の時代には、ワム「フリーダム」やバネッサ・パラディス「ビー・マイ・ベイビー」などでもみられたビート展開ですね。

70年代に入ると、音楽会社側からの提供ではなく、自分自身で手がけた曲が多くなり、キャリアとしてもピーク期を迎えます。後に「君の瞳に恋してる」で知られるボーイズ・タウン・ギャングもリメイクした「Signed, Sealed, Delivered I'm Yours(邦題:涙をとどけて)」がビルボードR&Bチャート1位に輝く大ヒットを記録したのに続き、72年にはアルバム「Talking Book」の収録曲「迷信(Superstition)」が、ビルボード一般、R&Bチャートでともに1位を獲得しました。

特に「迷信」は、いくつかのリズムを混合した「ポリリズム」と呼ばれる複雑な曲調がベースになっており、まだ目新しかった電気キーボードのクラビネットの音色がぴょんぴょん飛び回る、まさに時代を画する一作。欧米を中心に芽吹いてきたディスコのフロアにも新風を吹き込んだのでした。

さらに、1974年に発表した大ヒットアルバム「Fullfillingness’ First Finale(ファースト・フィナーレ)」では、ジャクソン・ファイブポール・アンカ、それに当ブログでも紹介済みのミニー・リパートンデニース・ウィリアムスという「超絶高音系」の二大ソウル女性歌手が参加するという豪華ぶり。まだ20代半ばだというのに、既に大御所の貫禄を醸しています。

「Fullfilingness'…」の後、2年間の準備期間を経て、1976年に発表した2枚組アルバム「Songs In The Key Of Life(キー・オブ・ライフ=写真)」はもう、無敵の“良曲百貨店”状態。最高傑作といってよいと思います。デューク・エリントンに捧げた「Sir Duke(愛するデューク)」(一般1位、R&B1位、ディスコ2位)、わが愛娘に捧げた「Isn't She Lovely(可愛いアイシャ)」(ディスコ2位)、自らの幼少期を振り返った「I Wish(回想)」(一般1位、R&B1位、ディスコ2位)、いま聴いてもめちゃくちゃ盛り上がってみんな踊り出すこと必定の「Another Star(アナザー・スター)」(一般32位、R&B18位、ディスコ2位)といった具合に、どれもフロアキラーになりうる名曲ばかりです。

この後、ディスコブーム真っ只中の79年には「Journey Through The Secret Life Of Plants(シークレットライフ)」という一風変わった2枚組アルバムを発表。もともとドキュメンタリー映画のサントラに使う予定で制作されたこともあり、インストィルメンタル曲が中心で、なんだかコワくて奇妙な雰囲気です。

それでも、例えば1枚目B面収録のエレクトロディスコ「Race Babbling」などは、ミニマルでスペーシーでハウス音楽的な面白さがあると思います(ちょっと入ってるスティービーのボコーダーの声がハービー・ハンコックみたいだが)。2枚目B面「A Seed's A Star And Tree Medley」もディスコ系。それと、1枚目A面には、「Ai No Sono」という日本人の子供たちが合唱で参加している変てこな曲も入っています。

惜しむらくは、この「大ディスコ祭り」の期間中、リリースされたアルバムがこの1枚だけだったこと。各楽曲をじっくりと熟成して仕上げる職人肌のスティービーらしさゆえかとも思いますが、どうせならスティービー流のもっとポンポコポンな「もろディスコ」アルバムを出して欲しかった気もします。

さて、80年代に入ると、大方の予想通り、シンセサイザーが縦横無尽に駆け回る曲が目立ってきます。80年発表のアルバム「Hotter Than July(ホッター・ザン・ジュライ)」からは、「ズンチャ♪ ズンチャ♪」とのんびりレゲエ的展開の「マスター・ブラスター」(一般5位、R&B1位、ディスコ10位)がおもむろに大ヒット。また、68年に暗殺されたマーティン・ルーサー・キング牧師に捧げた収録曲「ハッピー・バースデー」が、そのまんま世界のダンスフロアの「お誕生日おめでとうアンセム」となっております。

このほか、80年代には、ディスコ的にいうと「That Girl」(82年、一般4位、R&B1位、ディスコ27位)「Do I Do」(82年、一般13位、R&B2位、米ディスコチャート1位)とか、めくるめく愛の賛歌「I Just Call To Say I Love You」(84年、一般1位、R&B1位)とか、高速テンポで目が回る「Part Time Lover」(85年、一般1位、R&B1位、ディスコ1位の3冠達成!!)とか、「Go Home」(85年、一般10位、R&B2位、ディスコ1位)、「Skeltons」(87年、一般19位、R&B1位、ディスコ20位)といった代表曲が生まれました。

特に、「I Just Call...」と「Part Time Lover」については、当時のフロアでも相当に耳にした定番曲で、セールス的にも絶好調だったわけですが、かつては濃厚に見られた政治的メッセージ性やソウル性は、かなり後退していきました。つまり、このあたりから「ゴーストバスターズ」のレイ・パーカーJrのごとく、80年代らしく商業的に「いけいけどんどん」になっていった模様です。まあ、それまでの功績を考えれば、ある程度は「やり尽くした感」が出てきても仕方がないとは思いますが。

同時代を生きたソウル界の大立者である故ジェームズ・ブラウンや故マイケル・ジャクソンと比べても、スキャンダルとは無縁で、非常に穏やかで朗らかな人格者とされるスティービーさん(昔から日本のテレビ番組にもよくニコニコ顔で出てたし。そんで10年ちょっと前には日本の缶コーヒーのCMにも出てたし)。ディスコからクラブミュージックへと移行した90年代以降も、昔ほどの勢いはないものの、コンスタントにヒットを出し続けております。幼くしてスターになったため、長〜いキャリアながらもまだ60代前半という若さでもありますので、これからもますますのご活躍を祈念いたしたく存じます。

エーディーシー・バンド (ADC Band)

ADC Band今回もまたまた黒人ファンク系で〜す!出自はなかなかゴージャスなのに、70年代ディスコブーム期にディスコ化してもさっぱり売れなかった残念さもさることながら、気を取り直して今聴いてみたら「やっぱりいいじゃん!」となってしまう麗しいグループ「ADCバンド」であります。

このバンドを下支えした人物にジョニー・メイ・マシューズ(Johnnie Mae Matthews)という女性がいます。彼女は、米アラバマ州出身の中堅ソウルシンガーだったのですが、実は1958年もの昔、アメリカで初めて黒人女性がオーナーのレコードレーベル「ノーザン・レコーディング・カンパニー」を米デトロイトで設立し、後にテンプテーションズで活躍するデビッド・ラフィンらを育成。2年後にべリー・ゴーディ(Berry Gordy)が同じデトロイトで設立した「黒人音楽の殿堂」モータウン・レーベルに対し、多大な影響と示唆を与えた偉大な人物だったのです。

そんなパワフルな先駆者だったジョニーさんは、1972年、ADCの前身であるブラック・ナスティ(Black Nasty)を結成し、これまた「70年代黒人音楽の雄」であるスタックス系のレーベルからデビューさせます。メンバーには、自分の子供2人(ArtwellとAubrey)も含まれていました。

このブラック・ナスティはアルバム1枚で終わってしまい、えもいわれぬがっかり感が残ってしまいましたが、バンド名をADCに変更した1978年、上写真のアルバム「Long Stroke」を今度はアトランティック系レーベルのコティリオン(Cotillion)から発表します。プロデュースは「デトロイトママ」ジョニーさんが自らご担当。これは時代を映して非常にディスコファンクな内容で、ずっしりキックの効いたバスドラやお約束のハンドクラップなんかも満載。ちょいとスローでいかしたディスコファンクブギーのアルバム同名曲は全米R&Bチャート6位まで上昇する大ヒットとなりました。

けれども、あれあれどうしたことでしょう、この曲以降はぱったりとヒットはナッシング。Cotillionのレーベルメイトのマス・プロダクションの全面プロデュースを得た3枚目「ルネサンス(Renaissance)」(80年)と4枚目「ブラザー・ラック(Brother Luck)」では、「In The Moonlight」とか「Hangin' Out」とか「Super Freak」みたいに、うにょうにょシンセや大重量ドラムやびろんびろんベースや哀愁漂うホーンセクションや「泣きのギター」(?)を織り交ぜつつ、かなり鋭角的なディスコファンクで押しまくったのですけど、やっぱり浮上できませんでした。

その後、ファットバックバンドのメンバーが全面的にプロデュースして5枚目「ロール・ウィズ・ザ・パンチズ(Roll With The Punches)」(下写真)を1982年にリリース。このアルバムも、アルバム同名曲や「Girls」などを含めて、さらにノリノリでダンサブルな展開を見せるものの、セールスは伸びず。これを最後に表舞台から消え去ってしまいました。まあ、ボーカルにしても曲作りにしても演奏にしても、まとまりはあって及第点はとれるにせよ、どうにも特色が薄かったのが敗因といえましょうか。

「Roll With The Punches」には、ジャケットからも分かる通り「(ボクシングなどで)攻撃をうまくかわす」「物事を柔軟に切り抜ける」といった意味があります。このアルバムのジャケット裏面には、"後見人"ジョニーママさんの「いろんな複雑な考えが頭に浮かんで、私たちはそれをうまく説明しようと努力する。でも、結果的には内面の不安や不満を上手く説明して切り抜けることができる(just roll with the punches)」といった内容のメッセージが載っています。…う〜ん、うまく切り抜けられませんでした。

ただし、私自身は、当時のディスコでも耳にしたことはありますし、その無邪気なディスコぶりがそもそも大好きでしたので、ずいぶん昔にLPを買い漁ったものでした。しかも、「CD化なんて無理だろう」とあきらめていたら、最近、ラストアルバムの「Roll With The…」が国内盤(ワーナーミュージック)で発売となって腰を抜かしました。おまけに価格1000円という熱血かつ出血ぶり。ほかのアルバムもこの際どど〜ん!とCD化してもらいたいものです。

ADC Band 2

ティーナ・マリー (Teena Marie)

Teena Marie_Lover Girl 「♪お、ば、け〜のきゅう?♪」…というわけで、今回は「オバケのQ太郎」(古い)も顔負けの変てこジャケット(左写真)でお馴染みのティーナ・マリーさんであります。

この人は、白人でありながら相当に聴かせる黒人テイストの声を売り物にしたソウル・ディーバです。前回紹介のホイットニー・ヒューストンが、黒人でありながら白人ファン層をどしどし開拓していったのとはちょうど逆ですね。

1956年米カリフォルニア州生まれ。黒人居住地区に住んだ経験があることなどから、幼少時からモータウン・レーベルを中心とする黒人音楽に関心を持ち、歌だけではなく、ギター、ベース、キーボード、コンガなどをほぼ独学で習得。ローカルバンドのリードシンガーとして、レコードアーチストのオーディションを受けながら活動するうち、「真面目なモータウンの破滅型天才」リック・ジェームズに見いだされ、79年に彼のプロデュースによるアルバム「World and Peaceful」で、念願のモータウンでのメジャーデビューを果たしました。

このアルバムのジャケットには、ティーナさんの写真は載っていません。そのパワフルかつソウルフルな声質からてっきり黒人だと思っていたリスナーも多かったことから、黒人ファン層の定着・拡大を目指すモータウンサイドが、「ミステリアスなままの方がいい」と無人の風景画みたいなジャケットデザインにしたのでした。

80年代以降も着実にレコードリリースを重ねて、「Behind The Groove」(80年、米ディスコチャート4位)、「I Need Your Lovin'」(80年、米ディスコ2位、米R&Bチャート9位)、「Square Biz」(81年、R&B3位、ディスコ12位)といったヒット曲をコンスタントに出すようになります。そして、上写真の84年の「オバQ」アルバム「Starchild」に収録されているダンス曲「Lover Girl」が全米一般チャート4位(ディスコ6位、R&B9位)まで上昇する最大のヒット曲になり、頂点を迎えました。私自身、この曲をディスコで聞いて、輸入レコード屋に買いに走った記憶があります。

さらに88年にも、日本ではバブル期のディスコ(チークタイム)やカフェバーで頻繁に耳にした珠玉バラード「Ooo La La La」がR&Bチャートで1位となり、好調ぶりを見せつけました。

80年代にブレイクした彼女ですが、実は個人的にはデビューアルバム「Wild and Peaceful」が非常に秀逸だと思っています。特に、後に恋人とも噂されたリックとのデュエットによるシングル曲「I'm A Sucker For Your Love」(米R&Bチャート8位)は、ノリの良いリズム進行、コーラスの小気味よさ、楽器パートのバランスのよいアレンジ(特に切な過ぎるサックス)など、どれをとっても「ザ・70年代黒人ディスコ」でして、私の中でもディスコチャートの総合トップ50(候補がたくさんあり過ぎて微妙だが)には入る名曲だと思います。

ティーナさんは90年代以降も何枚かアルバムを出すなど、継続して音楽活動を続けていました。けれども、2010年12月に54歳で急逝してしまいます。死因ははっきりしませんが、持病のてんかん発作に原因があったのではないかとの海外メディア報道がありました。ほかの多くのディスコ―ミュージシャンと同様、早すぎる死を迎えてしまったわけですが、多彩な才能をいかんなく発揮した生涯だったと思います。

ところで、冒頭でオバQなどととても失礼なことを言いましたけど、実物は美貌でもあったとされていますので、念のため(写真下)。CDについてはここ数年、国内外からアルバムの再発盤やベスト盤が数多く出ていて、入手も比較的容易です。
Teena Marie3

ヘブン17 (Heaven 17)

Heaven 17沈滞ムードの夏枯れ8月。第343回記念(中途半端)の今回は、起死回生を図るべくイギリスの3人組「ヘブン17」で〜す。

私にとってはまず、この人々においては「We Live So Fast」(1983年)であります。言い換えれば、「人生は短い(Life is short.)」……。なんだか沁みます、泣けます、せつな過ぎる。

がしかし、その実体は、「人生は短い。時間を無駄にするな。だから急げ、進め、行動せよ!」……そんな「窮地から一転、あおり系ディスコ」なのです。ネット社会の到来で、何事も急ぎ足になってしまった21世紀を既に暗示しているかのようです。同時期に活躍したブロンスキ・ビート(以前の投稿参照)の“お急ぎディスコ”「ヒット・ザット・パーフェクト・ビート」にも近い感じです。

この曲は、故郷札幌のディスコでよく耳にしました。文字通り、せわしないことこの上ないのですが、踊っていてたいそう楽しい曲でした。勇躍、そして欣喜雀躍。魂が天空を突き抜けます。よお〜し今宵はすべてを忘れて盛り上がるぞい! ってなわけで、この曲がかかると嬉しかった。

と、ここで冷静になって、耳を澄まして聴いてみる。すると、どうでしょう。当時としては相当に斬新で深みのあるシンセサイザーの音色、畳み掛けるビート進行、そして何よりも、バリトン系のよく通るボーカル(Glenn Gregory)&調和のとれたコーラスが、かなりの美的センスを漂わせているのが分かります。

それもそのはず、彼ら3人のうち2人までが、80年代前半に世界のヒットチャートを席巻した英シンセ・ニューウェーブの雄「ヒューマンリーグ」の出身。演奏、曲作りともに、大衆受け万全の“大ダンスポップ祭り”の系譜を受け継いでいるのでした。加えて、モータウンやアースウィンド・アンド・ファイヤーなどの黒人ダンスミュージックの要素も随所に取り入れているのが特徴です。

ただ、チャート的には、出身グループと比べると残念ながらいまひとつ。写真のアルバム「ラグジュアリー・ギャップ(Luxuary Gap)」(83年)と、そのシングルカット「Let Me Go」(米ディスコチャート4位)と「Temptation」(同34位)などが目立つ程度です。

私の好きな「Live So Fast」もこのアルバムに収録されていた曲です。つまり、ディスコ的には、このアルバム1枚あれば、まずはヘブン17を十分堪能できることになる、と思っています。まずまずメジャーな人々ですので、再発CDも輸入盤ですがちゃんと出ています(しかも安価)。

ダイアナ・ロス (Diana Ross)

Diana Ross黒人女性歌手のトップスター、ダイアナ・ロスは、マイケル・ジャクソンの長年の親友でもあったことはよく知られています。

1960年代、希代の大人気黒人コーラスグループ「シュープリームス」の事実上のリーダーとして活躍したダイアナは、60年代末にはソロ活動を本格化、同時に、同じモータウンレーベル所属のアイドルとして売り出し中だったジャクソン5を、いわば“弟分”として自分のコンサートなどで紹介しています。このころに“少年マイケル”との友情も芽生えたのでした。

70年代に入ると、ほぼ完全にソロ歌手となります。シュープリームスのほかのメンバーとの確執も深まったわけですが、セールス的にはまずは順調で、「Ain't No Mountain High Enough」(70年、ビルボード一般、R&B各1位)、「Touch Me In The Morning」(73年、一般1位、R&B5位)などのヒットを出しました。それでも、飛ぶ鳥落とす勢いだったシュープリームス時代と比べると、やや影が薄くなったとの感は否めませんでした。

そんなダイアナは1976年、「Love Hangover(ラブ・ハングオーバー=恋の二日酔い)」などのディスコソングが収録されたアルバム「Diana Ross」を発表しました。この「二日酔い」はディスコブームの時流にうまく乗っかり、全米ビルボード一般、R&B、ディスコの各チャートで1位を獲得し見事「三冠女王」を達成したのでした。

この人は美貌もウリの一つでして、女優としても実績を重ねています。ビリー・ホリデイの生涯をモチーフにした「ビリー・ホリディ物語」(72年)で主演したのは有名ですが、78年には、「オズの魔法使い」の黒人版である「The Wiz(ザ・ウィズ)」でマイケルジャクソンと夢の共演を実現しています。

この「ウィズ」は、興行的には大コケしたものの、クインシー・ジョーンズがプロデュースしたサントラはヒットしました。特に、マイケルとのデュエットである「Ease On Down The Road」は、ディスコ史に燦然と輝く名曲であります。マイケルにとっても、この映画でクインシーとの出会いを果たし、両雄の協力関係はやがて「オフ・ザ・ウォール」、続いて「スリラー」という歴史的ヒットアルバムとして結実することになります。

ダイアナは79年には、ディスコ満開のアルバム「ザ・ボス」(ディスコチャート1位)を発表。この中からはお馴染み「ザ・ボス」、「ノー・ワン・ゲッツ・ザ・プライズ」などがフロアで大人気となりました。

そして1980年には、シックのナイル・ロジャースとバーナード・エドワーズをプロデューサーに迎えて“ダメ押し”ディスコアルバム「ダイアナ」を発表。ナイル・ロジャース側とモータウンが出来栄えを巡って対立するハプニングがあったものの、収録曲の「アップサイド・ダウン」が一般、R&B、ディスコの各チャートで1位、ゲイ・ピープルの“カミング・アウト”賛歌の「アイム・カミング・アウト」が一般チャートで5位に入るなど、セールス的には大成功しました。

その後は少し勢いが衰えたダイアナさん。でも、ディスコ的には、ダリル・ホールがバック・ボーカルで参加した「Swept Away」(84年、ディスコ1位)、マイケルがバック・ボーカルで参加した「Eaten Alive」(85年、同3位)、「チェイン・リアクション」(86年、同7位)など、順調に「ディスコでも女王と言われたい」状態を持続しました。このあたりの80年代の曲は、私もディスコでずいぶんと耳にしました。とりわけSwept Away(スウェプト・アウェイ)は、アーサー・ベーカーのフリースタイルっぽいミックスが秀逸でした。

ディスコ・クイーンといえば、一般的にはドナ・サマーということになりますが、ダイアナさんは黒人歌手の「クイーン・オブ・ポップ」とさえ称されるだけあって、ディスコ系の曲でもまんべんなく名曲を世に送り出しています。そのキャリア、曲群は一度の投稿ではとても紹介しきれません。

今回のマイケルの悲報に接し、ダイアナは「突然のことであまりに悲しい。彼の家族や子供たちために祈りを捧げたい」といったコメントを発表していますが、多くを語ろうとはしていません。あまりにもショックを受けたためか、先日の追悼式にも「独りになって喪に復したい」と欠席しました。

実は、ダイアナ自身も、シュープリームス時代の仲間との仲たがいだけでなく、私生活で結婚、離婚を繰り返したり、5人の子のうちの1人が、モータウン創始者のベリー・ゴーディーとの間にできた子であることが後にバレたり、けっこうセレブ特有の波乱の人生を歩んでいます。

マイケルとは60年代後半の出会いの後、ずっと公私ともに友人としての付き合いがあったようです。スーパースター同士、周囲になかなか明かせぬ孤独感を互いに理解し合っていたのかもしれません。最近、やたらとCD/DVD店で見かけるUSAフォー・アフリカの「ウイ・アー・ザ・ワールド」(85年に大ヒットしたチャリティー曲)でも、マイケルとダイアナが、仲良く同じパートを掛け合いで歌っていてなんだか象徴的です。

写真上のCDは、ディスコ系アルバムとしての代表格「ザ・ボス」。1999年にモータウンで発売された盤で、「ザ・ボス」の12インチバージョンが収録されています。写真下のCD「ダイアナ」は、「ラブ・ハングオーバー」「シュープリームス・メドレー」をはじめ、相当に貴重な12インチバージョンが収録されたデラックス盤です。「ディスコのダイアナ・ロス」を知るには、このあたりが基本になるかと思います。

Diana

続マイケル・ジャクソン追悼 ――ジャクソンズ (The Jacksons)     *7/9動画追加

Jacksons予想されたとはいえ、連日のマイケル報道の過熱ぶりには驚かされます。あらためて偉大さを感じざるを得ません。・・・・・・というわけで、今回も取り急ぎ「最後の世界的スーパースター」マイケル関連で「ジャクソンズ」です。

ジャクソン5が、「契約金が安すぎる」ことなどを主な理由として、6年間在籍したモータウンからCBS(現在のエピックの前身)に移籍したのは1975年のことでした。モータウンとの間で訴訟沙汰となり、移籍のための和解条件としてグループ名が使えなくなってしまい、ジャクソンズへの改名を余儀なくされたのです。

ジャクソン5を構成していた兄弟で一人だけ、モータウンのベリー・ゴーディー社長の娘と結婚していたジャーメイン・ジャクソンだけが移籍せずにソロとして残留し、末弟のランディーと交代しました。この移籍騒動により、モータウンはドル箱スターを失い、その栄華にも陰りが見えるようになります。

このころはジャクソン5のセールス自体、低迷し始めていたのですが、「災い転じて福となす」ということで、ここで神風が吹いたのです。ご存知「ディスコブーム」であります。

ソウル・グループとして出発したとはいえ、マイケル少年を中心にもともとダンスミュージックを得意としていたジャクソン兄弟は、75年、、モータウン時代の最後のアルバムとなった「Moving Violation」を発表しました。もろにディスコを意識した内容で、この中からは「四つ打ち」の隠れた名曲「Foever Came Today」が全米ディスコ・チャートで4週間1位となる大ヒットとなりました。

その後、ランディーを迎えての「ジャクソンズ」になってからもディスコ路線を軽やかに継続。五人のコーラスが美しく印象的で、リードボーカルのマイケルが「ディスコ〜♪ディスコ〜♪」と連呼する「Blame It On The Boogie」(79年、ディスコチャート20位)、「Shake Your Body」(同、同)などのディスコもののシングル、アルバムを数多くリリースしました。

彼らの偉いところは、アメリカでディスコブームが去った後にもディスコを見捨てなかったことです。80年には「Can You Feel It」、「Walk Right Now」、「Lovely One」というダンサブルな名曲3曲が収録されたアルバム「Triumph」を発表し、再び全米ディスコチャート1位を獲得したのでした。

さらに84年には、「もう一丁ディスコだよん!」というわけでアルバム「Torture」を発表。この中からは、ソロで大ブレイクを果たしたマイケルが、あのミック・ジャガーと絶妙なデュエットを披露する「State Of Shock」が全米一般チャート3位、R&B4位、ディスコ3位という大ヒットを記録しています。さらにアルバム同名曲「Torture」(ディスコ9位)と、「Body」(同73位)もディスコで人気を博しました。

いやあ、このあたりの曲は、当時の日本のディスコでももう定番ど真ん中! しかも、「ジャクソンズ」名義とはいっても、主役はやはりマイケルでした。80年代は、彼にとってはキャリアのピークでして、もう八面六臂の活躍です。台頭著しかったMTVで流れたPV映像を見ても分かるとおり、歌声、ダンス、スタイルともに最も美しく、完成度が高かった時期だと思いますね。

90年代以降は、マイケルの人気も徐々に下降線を辿り、同時にジャクソンズも影が薄くなりました。それでも、少し前の「80年代ブーム」にも見られたように、音楽の流行は繰り返されます。そのたびに、真っ先に思い出される名R&Bグループの一つとはなったわけです。

こう考えると、マイケルって天才だから「まっとうな青少年期」がなかったようですね。幼少時から常に兄達以上、大人以上に働いているような・・・・・・。契約上のトラブルだけではなく、父親との確執もあったみたいですしね。

まだ10歳そこそこでのデビューでしたから、真剣に「プロの歌手になりたい」と志していたわけでもなかったと思います。「どうしてもスターになりたい」と強い意志を持ち、名門大学を中退してまで田舎からニューヨークに移り住み、ヌード撮影やディスコミュージシャンのバックボーカルなどの下積みを経て、ようやく大スターの座を掴んだマドンナとの対照が際立ちます。

だからこそ人生の後半、なくしたものを探しに行くかのように、子供だけが理解できるようなネバーランド的ファンタジーの世界に救いを求めたのかもしれません。なんだか気の毒でもあります。あらためて「人の幸せって一体・・・・・・」と感慨ひとしおであります。

さて、ジャクソンズのCDですが・・・・・・おめでとうございます! 現在の盤権を持つソニーが近く「Triumph」(トライアンフ)、「Torture」(トーチャー)などの紙ジャケット盤を一斉に発売します。ちょっとノスタルジックにレコードの雰囲気を味わい人には、これもいいかもしれません。

しか〜し!、私が最もお薦めしたいのは、まずは上写真の「Original Album Classics」という、同じソニーBMGが昨年発売した輸入盤であります。ジャクソンズのアルバム5枚が入った豪華ボックスセットで、海外アマゾンなどを利用すれば(それがちょっと面倒だが)、送料込みで2000円程度で購入可能なんですねえ。ものすごくお得であります。

さらに、20年前に日本で発売された「ベスト・リミックス」(下写真)も超おすすめです。「Shake Your Body」とか「Blame It On The Boogie」、「Torture」などの当時のディスコバージョンが6曲、収録されています。「CDなんだから、どうせならもう2〜3曲収録してほしかったにゃあ」と言いたいところですが、どれもCDとしてはかなり貴重なバージョンとなっております。いまなら国内アマゾンのサイトや中古品店で、1000円前後で購入できるようです。

Jacksons Best Remix








*7/9追記

「ないだろう」と思っていたジャクソンズ(ジャクソン5)のディスコ関連の動画を2つ、Youtubeで見つけたので追加しておきます。最初は1974年の「Dancing Machine」で、マイケルが創始者とも言われる「ロボットダンス」部分が、「ピコピコピコ」というおトボケ電子音とともに入ってくる貴重なライブ映像です。もう一つは、テンプテーションズのヒットをダンサブルにリメイクした「Hum Along And Dance」(73年)で、これもライブ映像としては珍しいものです。



マイケル・ジャクソン追悼 ――ジャクソン・ファイブ (Jackson 5)

Jackson 5最近の東京地方、やけに湿度が増してきております。ふうぅ暑い暑い・・・・・・というわけで、「希代のスーパースター」マイケル・ジャクソンの謎の急死については、ディスコ堂としても語っておかなければなりません。なにしろ私自身、ディスコに通った時代には聴きまくっていましたし、彼の踊りをフロアで真似てみたことも多々あったわけですから(そもそも手足が短くて真似にならなかったが)。ホントお世話になりました。

死の本当の理由などもちろん分かりません。警察の捜査が進んでも、表面的なことしか判明しないのではないでしょうか。でも、彼の過去の夥しい整形疑惑や「小児愛者だった」「薬漬けだった。それに借金漬けだった」といった報道を見ていくと、やはり音楽や映画の世界的大スターの死によくみられるある種の「自殺っぽさ」を感じざるを得ないですね。

当ブログでは3年前にマイケルを取り上げた際、同じ50代前半で死んだ石原裕次郎を引き合いに、奇行癖のある彼について少し書き綴ったことがありましたが、そんな破滅型の人生こそが、彼の寿命を縮めたといっていいと思います。

マイケルはもう、カッコ付きの「マイケル・ジャクソン」として世界ブランド化されていました。今回の報道で「マイケル・ジャクソン・ジャパン株式会社」なる会社が日本にあることを知り、「そのまんまじゃん!」と驚嘆しつつも、後になって「なるほどな」と妙に納得したものです。もはや生身の人間を越えた「私人兼法人」のような存在。これでは、本当の自分が自分自身の虚像に押しつぶされ、アイデンティティーを見失ってしまうでしょう。

「マイケル・ジャクソン」の礎はいうまでもなく、実の兄弟たちと結成した「ジャクソン5」(上写真はCD「The Ultimate Collection」)にあります。「黒人音楽の砦」モータウン・レーベルのニューフェイスとして1969年、鳴り物入りでデビューしたマイケルたちは、デビュー曲「I Want You Back」から4曲続けて米ビルボード・ポップチャート1位を獲得するなど、驚異的な人気を示しました。

ジャクソン5のメジャーデビューに向けて、モータウンは、マイケルの年齢を偽って3歳減らして8歳にして「あどけなさ」を強調したり、アカの他人の黒人ミュージシャンをバンド・メンバーに加えて「ジャクソン兄弟のいとこで〜す♪」と紹介したりして、マーケティングに腐心しました。結果的に、黒人としては初めて「一般白人にも受けいれられるアイドル」となったわけですが、このころには既に、「マイケル」の虚像人生は始まっていたともいえます。

70年代半ばにジャクソン5は、セールスが落ちたことに加えて、モータウンとの間で契約について争いが生じたため、別のレーベルに移籍。グループ名も「ザ・ジャクソンズ」に変えました。

マイケルは70年代後半にはソロ活動を本格化。折りしもディスコ・ブームが絶頂期を迎えたころです。ダンスの上手いマイケルは、クインシー・ジョーンズという敏腕プロデューサーを味方につけ、アルバム「オフ・ザ・ウォール」(79年)で「歌って踊れる大スター」としての地位を不動のものとしました。

このアルバムからは、レコードA面1、2曲目の「Don't Stop 'Til You Get Enough」(今夜はドント・ストップ)と「Rock With You」(ロック・ウィズ・ユー)がビルボード・ディスコチャート2位まで上昇しています。

さらに82年の「スリラー」で、「マイケル・ブランド」を確立するわけですね。ディスコ的には、このころのポール・マッカートニーとのデュエット「Say Say Say」(83年、ディスコチャート2位)も印象深い。当時の地元・札幌のディスコでよくかかっていて、DJボックスの傍らに、二人が並んで写っている写真が載った青いジャケットが置かれていたのを、今でも鮮明に思い出します。

一方で、「Black 0r White」(91年、ディスコチャート2位)などでは、やや過激な反人種差別メッセンジャーぶりも披露しました。巨額のカネが動く音楽ビジネスに幼いころから身を置く中で、相変らずの白人優位社会への怒りやコンプレックスを増幅させていったフシもあります。だからこそ努力を重ねて、人種やジャンルの垣根を越えた「キング・オブ・ポップ」と呼ばれるまでになったのかもしれせん。

その文脈の中に、「整形疑惑」や「奇行」があったのでしょうか。思えば、「Black 0r White」のあたりから、彼の“不思議ちゃん”ぶりがどんどんエスカレートしていきましたからねえ・・・・・・。彼はあまりマスコミに本音を語らない人でしたから、誤解や根拠のない憶測も生じやすかったのだとみられます。いずれにしても、彼が伝説になってしまった今、このあたりの謎も、解かれることは永遠になくなってしまいました。

――まあ、彼の歌やダンスの才能は誰もが認めるところですし、スターになった最大の要因は「実力」であったことはいうまでもありません。私も文句なしに大好きな歌手でした。マイケルは孤独で繊細で、そして飛び切りカッコいい「ディスコのスター」でもあったのです。

日本人の私としては、時宗・一遍さんの「おどり念仏」よろしく、マイケルの曲で激しく踊って供養してあげたいところです。来週あたり、筋肉痛必至でどこかの「ダンクラ・イベント」に顔を出しましょうかな(かなりトホホ)。

最後に、Youtubeで見つけたマイケル少年のダンス映像を以下、貼り付けておきます。ジャクソン5時代の動画でして、ロッキング・ダンスにロボットダンスを組み合わせた「極めて華麗なるダンス」を披露しています。ほかのメンバーも上手なのですが(番組ホストらしきおじさんは除く)、彼のリズム感や切れ味はダントツです。マイケルの早熟かつ圧倒的に非凡な才能の原点をここに見ることができるでしょう。

ラモント・ドジャー (Lamont Dozier)

Lamont Dozier「靴をしっかり履きなおして、自分の原点に帰ろう。生まれた故郷に、偉大なる大地に」――。そんな歌詞で始まるダンスチューン「ゴーイング・バック・トゥ・マイ・ルーツ」が1977年、アメリカで発表されました。全米ディスコチャートは最高35位とまずまずのヒットにとどまったのですが、その後、何度もリメイクされその都度、フロアで人気を博す隠れた“ディスコの名曲”となりました。

作曲し、歌ったのはラモント・ドジャー(41年生まれ)。60年代から70年代にかけてにモータウン・レーベルを支えた伝説の超大物プロデューサー・チーム「ホーランド・ドジャー・ホーランド」の中心人物として活躍し、シュープリームス、フォートップス、マービン・ゲイ、アイズレー・ブラザーズなど名だたるアーチストたちに楽曲を提供しています。

70年代初頭からは、彼自身のアルバムを数多く発表するようになりました。「Out Here On My Own」(73年)、「Black Bach」(74年)などのヒット作に続き、77年に「ゴーイング…」が収録された「Peddlin' Music On The Side」が世に出ています。

「Peddlin'…」は、時代が時代だけにディスコ風味がたっぷりです。でも、そこはモータウン保守本流のプライドか、丁寧で重厚なアレンジが施されたメロディーに、ドジャーのソウルフルな歌声が絶妙に絡んでくるような、味わい深い内容になっています。

10分近くある代表曲「ゴーイング・・・」は、文字通り「黒人としてのルーツに戻ろう」と訴えた曲ですが、イントロの一発目から聞こえてくるピアノソロがとにかく素晴らしい。奏者はかのクルセイダーズのジョーサンプル。ジャズ・フュージョン風に立ち上がり、ギター、ドラム、パーカッション、さらにはドジャーの野太い声が畳みかけるように重なり合います。このピアノを基調とした展開は、後のハウスミュージックの一つの源流となったとさえ言われています。随所に、アフリカ部族の祈りの儀式を思わせる、崇高な響きの女性コーラスも絡んできます。聴く者、踊る者は皆、アフリカという懐かしき大地に、引き寄せられていくかのようです。

その壮大なメロディーと歌詞は、奴隷制度と差別の歴史が長かった本国米国はもちろん、世界中の多くの黒人たちの記憶に焼き付けられました。例えば当時、アパルトヘイト(人種隔離)政策の下で黒人が公然と差別されていた南アフリカでは、アルバム・チャートで3カ月間、1位を続ける大ヒットを記録しました。

「人間のルーツについて語っていると、何だか今の俺の魂は、衰えていると実感する。いまこそ魂(Soul)を再充電するときだ」――。政治的なメッセージをも歌詞に秘めたこの曲は、ほかの黒人アーチストによるリメイクを促しました。80年代初頭、フォーク&ブルースギターのベテランアーチストであるリッチー・ヘブンズ、そして「Native New Yorker」のディスコヒットで知られるオデッセイが相次いで発表し、いずれもフロアで人気を博しました。特に、リッチー・ヘブンズのリメイクは、BPMを上げてよりダイナミックかつダンサブルに仕上がっており、今でもクラブ・クラシックの一つに数えられますー―。

さて、ドジャーさんはこの後も、ディスコブーム真っ只中の79年に「Bittersweet」というディスコ系のアルバムを出し、さらに80年代に入っても何枚かのR&B系の佳作を発表しています。けれども「Peddling'・・・」ほどのインパクトを感じません。セールス的にも低迷していくようになります。やはり「ソロのラモント・ドジャーといえばゴーイング・バック・トゥー・マイ・ルーツに限る」ということで私は納得しています(半ば強引)。

ドジャーさんのアルバムのCD化は、ここ数年でかなり増えています。写真上は、英サンクチュアリーレーべルが2001年に発売した「Peddling'」のアルバム再発CD。もちろん、キラーチューン「ゴーイング・・・」のほかにも、“いかにもモータウン”な「Sight For Sore Eyes」やファンキー色の濃い「Break The Ice」といったダンスチューン、それに「What Am I Gonna Do 'Bout You」などのバラードがほどよく入っており、それぞれに楽しめます。

このジャケットには、「寡黙な音楽職人」といった風情のドジャーさんがいますが、よ〜く見ると、上の方には変なリンゴとかオレンジとか野菜がたくさん写っちゃってます。「Peddlin' Music On The Side」って、「街角で音楽を売る行商人」みたいな意味ですから、「あれ? もしかして『八百屋』と『音楽屋』を軽〜くかけてるのかな??」と思ってもみたのですが、どうもそう単純ではないようです。

このCDのライナーノーツで、ドジャーさんはアルバムタイトルを決めた背景についてこう話しています。「俺は若いころ、靴磨きをしたり、スーパーで働いたりしてなんとか生活していた。昼食の休憩時間に一生懸命、曲を書いていたんだ。だからほら、ジャケットには、ピアノに座る俺のすぐ隣に、野菜が並ぶ売り場が写っているだろう。あのころ、音楽をやる連中はみんな、そんな風に稼ぎながら必死に努力していたんだ」

なるほど、これはまさに「職人」の面目躍如であります。個人的な思い入れがあったのですね。「疑問のジャケット写真」といえば、79年の「Bittersweet」(「ほろ苦い味」みたいな意味)も“あれ? このウチワの人、もしかしてガッツ石松?”って感じでちょっとヘンなのですが(下写真)、これも深い意味があるのでしょう。いや、私はそう固く信じます。

Lamont Dozier2

アシュフォード・アンド・シンプソン (Ashford & Simpson)

Ashford & Simpsonモータウン出身のディスコアーチストということでは、アシュフォード・アンド・シンプソンも忘れられない人々です。R&B界全体でみても、珍しい売れ線夫婦デュオであり、作曲家としても1960年代から名曲を数多く世に送り出しました。

彼らの活躍時期は、60年代後半から73年までの「モータウン期」、73年から81年までの「ワーナー期」、82年から89年までの「キャピトル期」の大きく3つに分類されます。

もともと教会のコーラス仲間だった彼らは、60年代前半、2人で本格的な音楽活動を開始。まず66年、レイ・チャールズに「Let's Go Get Stoned」という曲を提供し、これが全米R&Bチャートで1位を獲得したことで、名前が広く知られるようになりました。このやや時代がかったシブ〜イ大ヒットを受けてモータウンと契約することになり、マービン・ゲイ&タミー・テレルの「Ain't No Mountain High Enough」(67年、同3位)、ダイアナ・ロスの「Rmember Me」(71年、同10位)などの(これまたかなりシブい)ヒット曲を作りました。

「Ain't No…」については、70年にダイアナがリメイクしてR&Bチャートで1位を獲得しています。81年にはボーイズ・タウン・ギャングが「Remember/Ain't No…」をセットでリメイクして、全米ディスコチャートで5位まで上昇しております。黒人音楽史、さらにディスコ史的に考えても、とにかく早い段階から、この夫妻は才能を開花させたわけですね。けっこう偉大です。

ところが、ニック・アシュフォードとヴァレリー・シンプソンの夫婦デュオとしての才能は、モータウンでは開花しませんでした。「アシュフォード・アンド・シンプソン」名義で出したアルバムはいずれもヒットせず、そのことがモータウンとの契約解除につながってしまいます。

73年にワーナーに移籍した彼らは、ソングライターとしてチャカーンの「I'm Every Woman」(78年、R&B1位)といった曲を提供することもやりましたが、主に夫妻名義での歌手活動に重心を移しました。このワーナー期こそ、ディスコがブームになった時期と重なっているわけで、この間に、彼らはディスコの名曲を次々と繰り出しました。

中でも、ガラージ・クラシックとしても知られる「Found A Cure」(79年、ディスコチャート1位)、「Love Don't Make It Right」(80年、同7位)、それに12インチが超レア盤で、オークションで10万円以上の値をつけるほどの「One More Try」(76年、同9位)、シルベスターのリメイク・ヒットで知られる「Over And Over」(77年)、グラディス・ナイト・アンド・ザ・ピップスのリメイクヒットで知られる「Bourgie Bourgie」(77年)、「Get Out Your Handkerchief」(80年)などが代表曲として挙げられます。

A&S夫妻の曲は、どれも歌詞のメッセージ性が高く、エレガントなメロディー・ラインが特徴。ディスコブームの真っ只中の作品も、安易なビート展開を避け、ごたついた感じにはなっていません。さすがに「ソングライティングの職人」といった風情ですね。デュエットの歌声も、渋めのファルセットのアシュフォードと、艶っぽい大人びた声のシンプソンの男女パートの個性差がうまく出ていて、なかなか堂に入っています。

ただし、私が一番好きな「Bourgie Bourgie」は、なぜかインストです(苦笑)。これは、当時2人があまりに多忙だったため、レコーディング期限までに歌詞が完成しなかったからだとされています。このため、一般的にはグラディスのリメイク(80年、R&Bチャート45位)の方が評判がよろしいようで。

さて、ワーナーからキャピトルに移った彼らは、「Street Corner」(82年、R&B9位)というまあまあのヒットを出した後、「Solid」という曲がR&Bでは1位、全米一般チャートでも12位に入るなど、彼ら名義の最大のヒットを記録しました。これはもはやディスコではなく、「ブラコン」な曲です。私も札幌のディスコで、開店直後あたりのどうでもいい時間帯に聞いた記憶がありますが、“踊りにくさ”ひとしおです。まあ、テレビのMTVでもPVをよく見ましたし、メジャーとしての地位を確保したという点では金字塔になりましたね。

やはり、この人たちの真骨頂はワーナー時代にあると思います(きっぱり)。で、今年発売された写真の2枚組米盤CD「Warner Brothers Years: Hits, Remixes, and Rarities」の1枚目は、ワーナー期の12インチのレア音源が満載で、非常によい内容になっています。音質も及第点。いくつか脱落している名曲もありますが、もともとDJ用プロモ盤が多いことなどから、ほとんど入手不可能な12インチバージョンばかりが入っています。レコードに数万円も出費するよりは、よほど合理的ではないでしょうか。

一方、2枚目の「現代リミックス」のCDの方は、トム・モールトン御大やM&Mらベテラン・ディスコミキサーが参加して、原曲を生かすように努力していますが、「やっぱりオリジナルが上」とする声も多く微妙な出来であります。
CDのライナーノーツ書きました


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