ディスコ堂 by mrkick

音楽に貴賎なし ―Discoの考察とCD批評

ヴィレッジ・ピープル

カサブランカ・レコードの真実 (「And Party Every Day」書評)

CasablancaBook「カサブランカ・レコードは、当たって砕けろ精神と自己中心主義を地でゆく『1970年代』そのものだった。私たちは創立からたった5年の間に、従業員を4人から175人に、所属アーチストを1組から140組以上にまでそれぞれ増やし、アカデミー賞の受賞、映画部門の設立まで実現したのだ」

冒頭にこんな一節が登場するのが、ラリー・ハリス(Larry Harris)が著した「And Party Every Day」です。米国が生んだ空前絶後のディスコレーベル「カサブランカ・レコード」の副社長だった人物。カサブランカ創業社長のニール・ボガート(Neil Bogart)の従兄弟であり、草創期からの片腕でもありました。そんなインサイダーの彼が、1973年の設立前後からの「カサブランカディスコ伝説」を振り返っている内容です。

「ディスコ=軽くてダサい」が定着し過ぎている日本では、資料価値のあるディスコのまともな解説書がほぼ皆無なので、私は洋書でよくディスコ関連の本を読むのですが、この書は出色だと思いました。さすがにディスコの本場欧米発の本ではあります。もちろん、エンターテインメント業界(しかもディスコ)の回顧録だけに、自嘲気味のユーモアや「浮かれた時代」への皮肉な描写もたっぷり含まれていて面白いのですけど、本質的には真面目で事実に忠実なドキュメントである点が高評価です。

登場人物の主役は、やはりディスコが生んだ最大の名物男の奇才ニールです。もともと小ヒットも持つポップス歌手だった彼は、ブッダ・レコード(Buddah Records)幹部を経て独立し、同じブッダでプロモーションを担当していたラリーらとともにカサブランカ・レコードを創立。ロサンゼルスを拠点とし、キッス(Kiss)を最初の所属アーチストとして育てました。その後ブームになる前のディスコに注目し、ドナ・サマービレッジ・ピープルパーラメントなどのヒッ・トメーカーを世に送り出し、「70年代に最も成功したレコード会社」といわれるようになりました。

ラリーによると、ニールはとにかく破天荒な性格でした。楽曲制作からプロモーションまでなんでもこなし、まだMTV(音楽専門テレビ)がない時代にアーチストのプロモーションビデオを撮ってラジオ局やテレビ局にどんどん売り込みました。音楽業界の大きなパーティーがあると必ず顔を出していたほか、自分でも大規模なイベントを次々と打ち出し、PRに余念がありません。カサブランカのディスコ(特にドナ・サマーの曲)をヒットさせるべく、当ブログでも紹介したことがある「サンク・ゴッド・イッツ・フライデー」という映画まで作りました。

それに資金が足りなくなるとラスベガスのカジノに行って大金を調達してきたり、売上げが伸びてくるとコネで入社させた親族全員に高級メルセデス・ベンツを贈ったり、売り出そうとする曲を1台250キロもある事務所の巨大スピーカーから突然、大音量で鳴らして社員の反応を確かめたりと、やることがキッスの舞台装置や衣装並みに派手だったのです。

さらにラリーは、当時の音楽業界の悪習だった「Payola=ペイオーラ」と呼ばれたラジオ局DJへの賄賂の実態(曲をかけて宣伝してもらうためにカネを払う)や、契約や金銭にまつわる「トラブル封じ」のために「マフィアに近い人物」を利用したこと、それに従業員、アーチストたちにとって日常茶飯事だったコカインなどのドラッグについても詳細に記しています。しかも、登場人物はほとんどが実名です。日本の「元レコード会社幹部」で、ここまで語れる人などいるでしょうか。

とりわけ興味を引かれたのは、「ビルボード・ヒットチャートの操作」についての回想です。本著にはこんなくだりが見えます。

「ビル・ワードローはディスコを愛し、私たちディスコ業界の一員になりたがっていた。(略)私たちは彼との関係を最大限に利用した。結果的に、私は彼の事務所に出入りできるようになっていた。あるアーチストのアルバムに相応しいチャート順位を告げると、驚くなかれ、その通りの順位を獲得できたのだ。(略)例えば1977年には、キッスの4枚のアルバムを同時にチャートインさせることができた。このうち2枚しか、セールス的にチャートインに適った数字はとれていなかったのだが…」

「ビル・ワードロー」は、当時のビルボード社チャート担当部門トップのBill Wardlowです。どうやら本当にディスコ好きだったらしく、著者はカサブランカと密接な関係にあったニューヨークの有名ディスコ「スタジオ54」に招待して遊ばせるなどして、機嫌をとっていたことを明かしています。日本の「オリコン」も古くからそういわれていますが、ビルボードチャートがどれだけシングル、アルバムの売上げに影響を与えていたかが浮き彫りになるのです。少なくとも、ビルボードがより公正な科学的データ方式である「ビルボード・ブロードキャスト・データ・システム(BDS)」を取り入れた1992年までは、けっこういい加減なチャートだったことを匂わせています。

この書には、日本に関する記述も見えます。1977年2月、キッスに続いて売り出した“ビジュアル系ロックバンド”エンゼル(Angel)の担当者が、「『まだ彼らはそこまでビッグになっていない』というあらゆる関係者のアドバイスに反して」日本公演を敢行したものの、結果は最悪(disaster)でした。観客数はまずまずだったものの、メンバーが偶然起こした行動が、日本側プロモーターと一部観客の怒りを買ってしまったというのです。

その行動とは、来日中のプロモーション写真撮影の際、「何か神聖なる構造物の上によじ登った」行為だといいます。右翼が神聖視する神社とか偉人の墓とかのことでしょうか??このあたりの詳細は謎ですが、とにかくこれが引き金となり、プロモーター(本著では「裏社会に関係する人物らしい」とある)との契約もこじれて、大事なエンゼルのハデハデ舞台装置も持ち去られたとのことです。後にカサブランカ幹部が日本側の「ある大物」と交渉した結果、舞台装置は戻ってきたそうですが、プロモーターが「エンゼルのメンバーが帰米する際に使ってほしい」と用意した日本航空チケット用の小切手が不渡りになるなど、「彼らの最初で最後の海外ツアー」は散々だったようです。

私はたまたま2週間ほど前、「日本ディスコの立役者」でもある歌手西城秀樹さんにインタビュー取材する機会があったのですが、元ミュージシャンのマネジャー氏がエンゼルのファンでもあったそうで、日本公演があったことや、具体的にメンバーの名前まで覚えていて驚きました。「でも、カサブランカといえばディスコ。ビレッジ・ピープルが来日して西城と面会したときに、例の『Y、M、C、A』の振り付けを教えたら、『それいいねえ。俺たちも使おう』なんてメンバーが言っていたのを思い出します」とも話していました。確かに、ちょうどこのころは、日本、そして欧州でも大ディスコブームが沸き起こっていました。

そんなディスコの「象徴」カサブランカは、米国でディスコブームが頂点に達した1978年に単体で売上高1億ドルを超し、系列グループである「ポリグラム・グループ」を「コロムビア・グループ」に次ぐ世界第2位のレーベル勢力に押し上げる原動力となりました。ビルボードチャートでも、(操作の甲斐あって?)ドナサマーやらビレッジピープルやらがどんどんトップ10に入った時代でした。

でも、楽しい宴は長くは続きません。70年代末になると、やたらと過剰でバブルなディスコブームにも陰りが見えてきました。キッスなど主力アーチストのレコード売上げも思ったように伸びなくなり、大規模な従業員のリストラを断行したほか、ポリグラムとの関係にひびが入るなどの変調をきたしてきたのです。頼みの「ビルボードのチャート操作」も、ライバルのRSOレコード(ビージーズが所属)が大ヒット映画「サタデー・ナイト・フィーバー」系の楽曲で同じようにビルに取り入るようになって以降、既にうまくいかなくなっていました。

やがてラリーは、幼少時から仲がよかった親類であり、長年の同志でもあるニールの経営方針自体に疑問を抱くようになります。かつて驚嘆したような、ニールのアーチストの才能を見分ける天才的眼力や商才も衰えたと考えるようになり、79年の夏、カサブランカから身を引くことを決めたのでした。ニールはその後も新レーベルを立ち上げるなどの活動を続けましたが、82年にがんで死去。39歳の若さでした。

ニールも著者もカサブランカも、70年代のアメリカを生きた典型的な存在だったといえるでしょう。黒人解放運動、ベトナム戦争、石油危機、ニクソン大統領辞任といった激動の政治の季節を経て、「ええじゃないか」的な放蕩主義、刹那主義が社会全体を覆うようになったわけです。それは自由や欲望を歌や踊りでおおらかに表現する音楽文化、つまりディスコを生みました。そしてディスコは、閉塞感を募らせる世界中の人々にとっても、理屈抜きで素直に魂に響いたからこそ、空前絶後のブームになったのだと思います。

けれども、「諸行無常」というわけで、「祭りの時代」もまた、ご他聞に漏れず限度を越して消耗し、はかなく終わりを告げたのでした。愚かさゆえに愛おしい、そんな人間くさい音楽がまさに「ディスコ」だったといえるのではないでしょうか。

ギブソン・ブラザーズ (Gibson Brothers)

Gibson Btos本日は「困ったときのギブソン・ブラザース」…であります。この人たちの曲は、どれも無難に躍らせる快活さが売り物。陽気なラテンフレーバーたっぷりのいかにもディスコな面々です。

彼らクリス、アレックス、パトリックの仲良し3人兄弟は、カリブ海の西インド諸島出身。後にフランスに移住して1976年に「Come To America」でデビューし、折からの世界的ディスコブームの追い風に乗り、最初から本国をはじめ欧州各国で人気を集めました。

代表曲はなんといっても「Cuba」(79年、米ビルボードディスコチャート9位)であります。もろサルサ風のノりにユーロディスコ風味を少々味付けした風情で、世のディスコフリークたちを南洋性の愛と熱狂の渦に巻き込んだものでした。

ほかにも、ヴィレッジ・ピープルにも似た「Que Sera Mi Bida(ケ・セラ・ミ・ビダ)」(80年、同8位)とか、「Better Do It Salsa」(78年)、「Laten America」(80年)といった同系統のラテンディスコの佳品があります。いずれも縦横無尽に跳ね回るピアノやパーカッションやサンバホイッスルが気分を豪快に盛り上げてくれますので、ちょっと仕事の悩みやストレスを抱えているような人々にはもってこいの「すべてを忘れてバカ騒ぎ!」系の能天気ディスコです。

個人的には、リードボーカルのクリスの「ハスキー度」がやたら高くてうるさ過ぎかもなあ…と思いました。なんか昔紹介したカナダ発ハイエナジーの「ライム」みたいな感じ。渋いブルースのような驚くべき声をしているので、ミスマッチ感覚を楽しむほかないのかもしれません。それでも、とにかく全身全霊、汗だくになりながら体を張って一生懸命演奏している雰囲気なので、「憎めないフレンチディスコ野郎」だとの印象です。

このブラザーのピークは80年前後だったのですが、とりわけ日本では、83年発売のおとぼけチューン「My Heart’s Beating Wild(邦題:恋のチック・タック)」がカルト的人気でした。

私も、当時行っていた札幌のディスコで、イントロの「ぽんぽこぽんのぽんぽんぽん〜♪」という人を食ったようなお気楽シンセサイザーの音色が流れた途端、「ドリンク休憩中」のお客さんたちが、「来ました、来ました、来ましたヨ♪」ってな調子でやおらフロアに集まってきたのを目撃しています。サビの「俺様の心臓が激しく高鳴るぜ(My Heart’s Beating Wild)、チック、タック、チック、タック(Tic Tac Tic Tac)♪」と歌っている部分では、お約束の振り付けダンスもありました。

CDはあまりいいのがないのですが、写真の米ホット・プロダクション(Hot Productions)盤のベストが一番網羅的でしっかりした内容と思われます。上記「Come To America」、「Cuba」、「Que Sera Mi Vida」、「恋のチック・タック」などのロングバージョンも収録されています。まあ、相当に「過去の人」ではありますけれど、彼らの公式HPを見ると、今でも欧州を中心にライブなどを精力的にこなしているご様子で嬉しい限りですな。
プロフィール

mrkick (Mr. Kick)

「ディスコのことならディスコ堂」----本名・菊地正憲。何かと誤解されるディスコを擁護し、「実は解放と融合の象徴だった」と小さく訴える孤高のディスコ研究家。1965年北海道生まれのバブル世代。本業は雑誌、論壇誌、経済誌などに執筆する元新聞記者のジャーナリスト/ライター/翻訳家。もはや踊る機会はなくなったが、CD&レコードの収集だけは37年前から地味〜に続行中。アドレスは↓
mrkick2000@gmail.com

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