Whitney Houston"She will never be forgotten as one of the greatest voices to ever grace the earth."(彼女は永遠に記憶されるだろう。世界を輝かせた最も偉大な声の持ち主として)――マライア・キャリー がツイッターに記した追悼の言葉。

11日に48歳で逝去したホイットニー・ヒューストン。でも、正直言って最近はスキャンダルにまみれた印象しかなかった。そう、ちょうどマイケル・ジャクソンがそうだったように、亡くなってから思い出したように「スーパースターだった」と称えられることには、なんだか違和感も覚える。

私がホイットニー・ヒューストンを知ったのは、浪人中の1985年初頭のことだ。受験勉強に集中するという名目で、1年間だけディスコ通いを“封印”して、実家から離れた札幌駅近くの祖母の家に寝泊まりしていた。それでも、ときどき「息抜き」と称して地元FMラジオの洋楽番組に聴き入っていた。そんなある日、耳に飛び込んできたのが、目下売り出し中のホイットニーが最初に放ったダンスヒット「Thinking About You」だった。FMのDJが「とびきり美しいメゾソプラノの声が評判の……」などと軽やかに紹介していたのを覚えている。

二浪までして(一浪目はやはりディスコ狂い)、なんとか東京の大学に入学したのが85年4月。もちろん、ディスコも大解禁スパークル状態だ。時給が比較的高く、しかも「食事2回付き」という理由で、渋谷の道玄坂にあった大衆居酒屋をバイト先にすぐ決めて、その金をどんどんレコードとディスコに注ぎ込む日々となった。

世はバブル前夜。おカネなんて相変わらずなかったのに、華やぐ世相にすっかり乗せられて、六本木や渋谷、新宿の大衆ディスコに入り浸り、朝までノリノリで恥ずかしく踊りまくった。このころのディスコはちょうど過渡期で、客層も世代交代が進んでいた。音楽的にも70年代のストリングス中心から、当時は最新鋭のシンセサイザー中心の曲調に変わっていた。「ギブ・ミー・アップ」(マイケル・フォーチュナティー)や「ビーナス」(バナナラマ)といったイタロディスコ、それにユーロビートが台頭してきたのもこのころだった。

とってもおおまかに言うと、ディスコ音楽には、ジャズ、ソウル、ファンク、ブラック・コンテンポラリーなどの「黒人系」と、ロック、ポップス、ニューウェーブ、ユーロビート、ラテンなどの「白人系」の2つの流れがある。それぞれに愛すべき特徴があり、それをこのブログでもだらだらと書いてきたのだが、要するに私はどちらも好きだった(バブルだったし)。

実は、当時の「バブルディスコ・シーン」では、70年代の大ディスコブームの反動もあり、黒人系は少々押され気味だった。少し前の投稿で紹介したシックのナイル・ロジャーズもそうだったように、70年代まで活躍したいろんな著名黒人アーチストが、80年代には方向性を見失い、ヒットが出なくなっていた。そうした状況下、まさに彗星のごとく登場したのがホイットニー・ヒューストンだったのだ。

ホイットニーは1963年、米ニュージャージー州に生まれ、幼いころからゴスペルグループの一員、さらにはモデルとして活躍した。歌の師匠でもある母親はシシー・ヒューストン(Cissy Houston)といい、ド迫力ファンキーディスコの「Think It Over」(78年、米ビルボードディスコチャート5位)のヒットで知られるプロ歌手だ。「I'll Never Fall In Love Again」(70年、ビルボード一般チャート6位)、「That's What Friends Are For」(85年、同1位、ビルボードR&Bチャート1位)などの大ヒットで知られるソウルの大御所ディオンヌ・ワーウィックは従姉(シシーの姉の子)にあたる。

音楽一家に育ったホイットニーは、比類なき声はもちろん、モデル出身ならではの美貌も売りにしていた。黒人であるホイットニーのアイドルみたいなアップ写真が載ったジャケットは、かなり新鮮だった。私は渋谷や新宿の輸入盤店で、嬉々として12インチやアルバムレコードを買い漁ったものだ。これには差別を感じさせるが、70年代までの黒人女性歌手のジャケットには、「本人の写真だと抵抗感がある」などの理由から、変てこな「似顔絵」もよく使われていたほどなのだ(例:Evlyn Thomas,Miquel Brown,そしてなんとホイットニー母Cissyも)。

ホイットニーは、ゴスぺル出身のガチンコ黒人系ディーバでありながら、ビジュアルも含めて白人たちにもアピールできる「ポップス歌手」の要素を兼ね備えていた。米国で大人気だった音楽専門番組「MTV」でも、堂々と本人が前面に現れるプロモーションビデオが盛んに流れた。マイケル・ジャクソンと同様、初めて人種を越えたファン層を獲得したのが最大の功績だったといえるのだ。

私が80年代後半の日本のバブルディスコでとにかくよく耳にしたのが、デビューアルバム「Whitney Houston」(写真)に収録されている、ナーラダ・マイケル・ウォルデンがプロデュースした「How Will I Know(恋は手さぐり)」(86年、ビルボード一般1位、R&B1位、ディスコチャート3位)だ。「イントロから桜満開!」てな調子で、圧倒的に明るい曲調と底抜けに伸びやかな歌声は、まさに「ウキウキ我が世の春時代」の到来を全身で実感させたものだ。

このアルバムは特大ヒット「Saveing All My Love For You」などのバラードも出色だが、ディスコの立役者が数多く参加していて、前述の「Thinking About You」は元BTエクスプレスのカシーフがプロデュースしているし、「マイケル兄」のジャーメイン・ジャクソンも3曲、プロデュースしている。

続くセカンドアルバム「Whitney」(87年)ともなると、バブル全開の日本のディスコでも完全に主役状態となった。「I Wanna Dance With Somebody」、「Love Will Save The Day」といった彼女のアゲアゲな曲がかかると、「百花繚乱雨あられ、盛者必衰会者定離」(バブルだけに意味不明)状態となり、フロアは(私も含めて)踊る阿呆の老若男女で埋め尽くされたのである。

史上最高の7曲連続の全米一般チャート1位、6回のグラミー賞受賞など、輝かしい実績を残したホイットニー。確かにマライア・キャリーが言うとおり、「永遠に記憶される」ほどの歌姫だったが、そのマライア自身が「新しい歌姫」として登場した90年代初頭には、既に陰りが見えていた。

折しも、かつて黒人少年アイドルグループ「ニュー・エディション」の中心ボーカルとして「ミスター・テレフォンマン」などの可愛らしい曲を歌っていたにもかかわらず、ワイルドにドラッグ依存になっていったボビー・ブラウンとの92年の結婚も、彼女にとっては悪い意味で転機となった。

同じ92年に公開された映画「ボディガード」主題歌の「I'll Always Love You」は、スーパーヒットにはなった。この映画は白人男性と黒人女性スターのロマンスがモチーフになっているだけに、彼女を象徴してもいる。だが、この直後からドラッグ依存や数々の奇行が目立ち始め、やがて声質までもが極端に衰えていく。破滅ぶりが際立っていくのだ。

90年代初頭といえば、ちょうど日本のバブルが弾けてしまった時期にあたる。金融破綻だ就職氷河期だなどと、平成日本は落ち込む一方となっていった。大衆ディスコのバブルもはかなく消え去り、ダンス音楽シーンも私がついていけないほどに細分化、ハイパー電子音楽化が加速していったのだ。

確かに、彼女はダイアナ・ロスアレサ・フランクリンでも成し得なかったこと、つまり人種の壁を初めて突破した偉大なディーバに違いなかった。しかし、最盛期は85年以降のわずか数年間。その間に世界の頂点を極めたものの、うまく下山できなかった。どうにも私にとって“ホイットニー・ヒューストン”は、“哀しきバブル”と二重写しになるのだ。爆発的な膨張感と、宴のあとのほろ苦さ。それでも、私はだからこそ、刹那に生きる人間の深みと凄味を感じてしまうのである。