ディスコ堂 by mrkick

音楽に貴賎なし ―Discoの考察とCD批評

ワイルド・チェリー (Wild Cherry)

wild cherryまたまたお久しぶりで〜す!昨日たまたま自分のこのブログを見ていたら、訪問者数の累計カウンターが「555555」の5並びになって腰を抜かしました。思わずスクショです(下写真)。なんとなく得した気分になって参りましたので、今回は渾身の力を込めて「ワイルド・チェリー」を取り上げてみましょう!

ご存知、「Play That Funky Music(プレイ・ザット・ファンキー・ミュージック)」(1976年、米ビルボード・ポップチャート1位、R&Bチャート1位、ディスコ12位)で一世を風靡したナウでイカした白人5人組バンド。この曲は、初っ端から繰り出されるパンチの効いたギターリフが、音楽史上に輝くほどに印象的。日本でも例えば、北海道が生んだド迫力ボイスの女性ボーカリスト大黒摩季さんの90年代の大ヒット曲「別れましょう私から消えましょうあなたから」(タイトルやたら長い)のイントロでも、ちょいとパクった感じで使われています。

バンド自体は1970年、アメリカの中西部と呼ばれる地域のオハイオ州出身のミュージシャンRob Parissi(ロブ・パラッシ)さんが、地元の仲間を集めて結成。All Music Guide系サイトなどによると、バンド名は、ロブさんが体調を崩した時になめていたという、アメリカで今も発売されている咳止めドロップの「Wild Cherry」に由来します。

彼らはオハイオ州に隣接するペンシルバニア州のピッツバーグを拠点にライブ活動を展開。これが評判を呼び、間もなくレコードデビューも果たしますが、あまり売れませんでした。そこで、アメリカ有数の工場地帯で労働者としての黒人居住者も多い地元での知名度を上げるべく、オハイオ州が本場でもあるファンクミュージックとロックを融合させたような曲「Play That Funky…」を制作して発表すると、瞬く間にヒットチャートを駆け上ったのです。

この曲は当時、全米で燎原の火のごとく広まっていたディスコブームにも完璧に乗っかっていました。何しろ、歌詞の前半に「俺はロックンロールをガンガン歌うシンガーだったんだが、何もかもがイヤになった時があった。試しにディスコを覗いてみたら、みんな踊りまくってノリノリだった。そしたら誰かが俺の方を振り向いて『あのファンキーな音楽をプレイしてくれ!』って叫んだのさ」といった具合に、「ワイルド・チェリー様ご一行、ディスコへの旅立ち」がしっかりと歌われているのです!

「Play That…」が入った9曲入りデビューアルバム「Wild Cherry」(上写真)も、当然ながら大ヒット。ウィルソン・ピケットのカバー「wild cherry 99 1/2」、「Don't Go Near The Water」、コモドアーズのカバー「I Feel Satisfied」などなど、似たような感じのもろファンキーなダンス曲が目白押しです。モータウンやアトランティックといった黒人音楽レーベルの影響を濃厚に映し出しています。

すっかり気をよくした5人は、その後も次々とアルバムを発表します。…でも、これがどうしても売れませんでした。79年に出した4枚目のアルバム「
Only The Wild Survive」を最後に、あえなく解散。どれもファンキー・ロック路線を踏襲しており、ディスコ好きにはなかなかの佳作だと思うのですけど、やはり「Play That...」のインパクトが強すぎて、それを超えるモノが発表できなかったというわけです。せっかくディスコに開眼して世に出てきたのに、ブームが下火になったのと軌を一にして終焉を迎えてしまったのでした。

彼らは「あの曲」によって正真正銘の一発屋となりました。とはいえ、そんな“奇跡の1曲”があったからこそ、末永く記憶されるバンドになれたのも確かです。デビューアルバムはCD化もされていて普通に入手できます。でも…ほかの3枚は中古LPしかなく、これからも末永くCD化されることはないでしょう(トホホ)。

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キャプテン・アンド・テニール (Captain & Tennille)

Captain and Tennilleいやあお久しぶりで〜す。今回は、これまで何度となく取り上げてきた「ディスコで復活狙い」のパターンを再び。楽器もやるけどダ・カーポやチェリッシュみたいな米国の仲良し夫婦ポップデュオ「キャプテン・アンド・テニール」を紹介しておきましょう。

1942年生まれのDaryl Dragon(ダリル・ドラゴン。ニックネームは「キャプテン」)、40年生まれのToni Tennille(トニー・テニール)の夫婦2人ともに、1970年代前半にはビーチ・ボーイズのキーボード担当のバックミュージシャンでした。

結婚したのは1975年で、その年にデュオとして初のアルバム「 Love Will Keep Us Together」(邦題・「愛ある限り」)をA&Mレコードからリリース。シングルカットされたニール・セダカの曲のカバーで軽快極まるアルバムタイトル曲が、いきなり全米ビルボード一般チャート1位に輝きました!

その後毎年、A&Mからアルバムを発表し、ジャングル風のイントロからいきなり弾むように展開する爽やか系「Lonly Night (Angel Face)」(全米一般チャート3位)などのヒットを連発しましたが、78年に出した4枚目「Dream」があまり売れず、A&Mとの契約は解除になってしまいました。

そこに目を付けたのが、ドナ・サマービレッジ・ピープルが在籍していた「ディスコの殿堂」カサブランカ・レコードの社長、ニール・ボガートです。2人を説得して移籍させて、アルバム「Make Your Move」(写真、YouTubeで視聴可)をリリースしました。このアルバムからはしっぽりバラードの「Do That To Me One More Time」がなんと全米一般チャート1位となり、再びトップスターの座に返り咲くことになったのです。

このアルバムは夫ダリルがプロデュース。「Do That…」などのバラード数曲をのぞくと、けっこうなディスコ路線(カサブランカだから当たり前)です。特にA面4曲目「How Can You Be So Cold」は、もう最初からどんどこ四つ打ちディスコビートが炸裂し、そこにトニーのややハスキーなアルト&メゾソプラノの歌声が伸びやかに躍動するパターン。中盤ではディスコDJが次の曲と繋ぎやすいように長めの間奏(ブレイク)が入ってきて、印象的なベースラインやホーンセクションが織り込まれています。

B面2曲目「Happy Together」も正統派ディスコのノリを踏襲しています。やはり60年代に活躍した米国のロックバンド「ザ・タートルズ」の代表曲のカバーなのですが、途中でシタールの音色や馬の足音が入ってくるなど、珍妙なオリエンタル感覚で攻め立てています。

2005年に米ユニバーサル・ミュージックから発売された「Make Your Move」の再発CDのライナーノーツには、トニー自身が寄稿しているのですが、このアルバムについて「ダリルの一風変った解釈が詰まっている『中東の砂漠風ディスコ』なのよ」と説明しています。まあヒットしたのはバラードの「Do That…」だったわけですけど、かつてはポップスで一世を風靡したこの人たちにも、立派に「ディスコ期」があったわけです。

この後、2人は80年にカサブランカからもう1枚、アルバムを出しますが、これは不発に終わり、音楽業界の表舞台からは遠ざかっていきます。今は2人とも70代半ばになりますが、つい2年前に離婚しており、それぞれ米国内で静かに余生を過ごしているようです。

ミスティック・マーリン (Mystic Merlin)

Mystic Merlinさて今回、もはやクリスマス時期だけに今年最後になりそうな投稿の主役となりますのは、とびきりユニークで心底脱力することウケアイの「魔術ディスコ」で〜す!

デビューアルバムの発売が1980年ということですので、ディスコ的にはかなり「遅れてきた感」があるグループではあるものの、マジカルパワーで大奮闘しました。その名も「Mystic Merlin=ミスティック・マーリン」(直訳・神秘の魔術師)。「どんだけ神秘的なのかな?」と逆にそわそわしてきますが、何のことはない、ライブで演奏しながら「奇術」を披露していたファンクバンドなのであります。

…って、「いや待てよ? そんなグループ、いったい成立するのか?」との疑問が沸くのも自然なことでしょう。演奏して歌うだけでも大変なのに、加えて愉快な手品(奇術)を器用に披露するなど、常人のなせる技ではございません。でも実際、「アラジンと魔法のランプ」みたいな格好をして、コーラスの女性がやおら宙に浮き始めたり、気が付いたらメンバーが空中で真横になって楽器を弾いていたり、サックスの開口部(ベル)から突然もくもくと白煙を噴出させたりと、やたらと観客の度肝を抜く仕掛けがライブの呼び物になっていた人々なのでした。

1970年代後半、アメリカ・ニューヨークで結成されたこの魔術師バンドは、リードボーカルのキース・ゴンザレス(Keith Gonzales)、ベースのクライド・ブラード(Clyde Bullard)、ギターのジェリー・アンダーソン(Jerry Anderson)らが主要メンバーです。

中でもジェリーさんは、子供のころからマジックが大好き。地元ニューヨークでよく知られた手品ショップに通い詰め、有名マジシャンを育てたこともある店長は、「こいつは見込みがある」と空中浮揚、「ドロン!」といきなり姿を消す“雲隠れの術”、催眠術といった大技を無報酬で次々と仕込んでくれたのでした。

ここでジェリーさんは、そのままプロを目指せばよいものを、もう一つの夢であるミュージシャンへの道を追い求め始めます。こちらも結構な腕前だったようで、70年代前半にはブロードウェイの人気ミュージカルの楽団などでベース奏者として活躍するようになりました。このころにキースらに出会い、ファンクバンドを結成して音楽活動を本格化させたのです。

ところが、なかなか芽が出ない日々。野心に燃えるジェリーさんは、あるアイデアをメンバーたちに打診します。「同じようなグループがたくさんある中で、俺たちは目立たないといけない。俺が一から教えるから、みんなでマジックをやりながら演奏しようじゃないか!」。メンバーたちは目を白黒させましたが、最終的には賛同を得ることができました。ここに、世にも不思議な奇術ディスコ系バンドが誕生したのです。つまり、音楽一本で勝負することにどうにも自信が持てなかったために、奇策によって人々の気を引こうと目論んだのでした。

結果は……残念ながら今ひとつでした。イギリスなど欧州では「キワモノ」扱いされてテレビで人気を博し、少々ヒットも飛ばしましたけど、本国では全米R&Bチャートの下位に「Got To Make It Better」(81年、82位)と「Sixty Thrills A Minute」(同、76位)が入った程度。マジック(Magic)とミュージック(Music)の融合(本人たちはMugicと呼んでいた)という、非常にディスコ的で面白い発想ではありましたが、ブームが過ぎていたこともあって、聴衆(や踊る阿呆)の心をつかむには至らなかったのです。けだし、二兎追うものは一兎も得ず、なのでありました。

いちおうは大手キャピトル・レコードとの契約にこぎつけ、80年のデビューアルバムに続き、81年の2枚目アルバムを発表するもセールス的に不発に終わり、82年に最後となる3枚目「Full Moon」をリリース。ここでなんと、同じキャピトルのレーベルメイトで、80年代半ばから甘〜い歌声でR&Bヒットを大連発することになるフレディー・ジャクソンが、結成時からの主軸シンガーだったキースの脱退に伴ってリードボーカルに。シングルカットされた「Mr. Magician」を聴いても明らかなように、確かにボーカルはぐ〜んと引き締まりましたけど、どうもセールス的には波に乗れなかったのでした。

「Full Moon」のジャケット(上写真)を見れば分かるとおり、熱海あたりの温泉街にある妖しい秘宝館から飛び出してきたような出立ちには、かえって猛烈に興味をそそられます。そんな器用貧乏の感がぬぐえない涙ぐましいまでの自己アピールこそ、「目立ってナンボ」のディスコ界では特に重要だったのです。曲や歌自体は無難にダンサブルであり、演奏もしっかりしております。ファンク王国アメリカにおいては、あまりにも優れたライバルが多すぎたということでしょう。

CDについては、意外にも3枚のアルバムともに、英国の再発レーベルであるBBRから発売されています。往年のマジックを見られるわけではない(YouTubeでも見あたらない。ここでほんのちょっと確認できる程度)にせよ、なりふり構わず何とか世に出ようともがいた異形ミュージシャンたちの物語に思いを馳せつつ、聴き入ってみるのも一興かと存じます。

キャリー・ルーカス (Carrie Lucas)

Carrie Lucas今回はおもむろにキャリー・ルーカスと参りましょう。なんといっても「アイ・ガッタ・キープ・ダンシン(I Gotta Keep Dancin')」(1977年、米ディスコチャート2位、R&Bチャート44位、一般チャート64位)と「ダンス・ウィズ・ユー(Dance With You)」(79年、同6位、同27位、同70位)が代表曲。特別に歌唱力があるというわけではありませんが、モデル顔負けの180センチ近い長身と美貌を生かしつつ、勢いのあるレーベルや豪華バックミュージシャンといった周囲にも恵まれてディスコスターになりました。

米カルフォルニア州に生まれ、幼いころから歌手を目指していたキャリーさん。ですが、ベスト盤の2枚組CD「The Best Of Carrie Lucas」(写真)のライナーノーツに載っているインタビューによると、「とてつもなく内気な性格で、歌手になりたいなんて親にも言えなかった。でも、地元の合唱団や学校の合唱部に所属していて、歌うことが大好きだった。みんなに内緒でタレント事務所を訪れたことが何度かあった。面接でことごとく落とされたけど」などと語っております。

彼女はまず、地元ロサンゼルスでほかのアーチストに楽曲を提供したり、ソウル歌手D.J. ロジャーズのバックボーカルを務めたりして、徐々に認められるようになりました。間もなくロサンゼルスのディスコ系新興レーベルであるソーラー(Solar)の創業者ディック・グリフィー(Dick Griffy)に見出され、1976年に見事、のっけからホーンセクションが炸裂し、エンディングまでぐいぐいとドラマチックに展開するオーケストラディスコの真髄を見せつける「I Gotta Keep Dancin'」でレコードデビュー。その上、幸運にも大ヒットしてしまったのです。

この過程では、既にスティービーワンダーのバックバンドのキーボーディストとして活躍していた実弟のグレッグ・フィリンゲンズ(Greg Phillingens)の存在が大きく影響しました。「I Gotta...」が収録された1977年発売のデビューアルバム「Simply Carrie」では、グレッグがアレンジャーやキーボード奏者として参加しています。

「I Gotta...」のヒットで勢いに乗った彼女は、これ以降84年までに、Solarでさらに5枚のアルバムを発表。ディスコ最盛期の1979年には、3枚目のアルバム「In Danceland」の収録曲で、軽快なコーラスとギターリフの音色が印象的な「Dance With You」が再びヒット曲となり、「天空を突き抜ける長身ディスコディーバ」の称号をほしいままにしたのでした。

この間、発掘してくれたディックとは結婚まで至りました。各アルバムにはウィスパーズシャラマーのジョディー・ワトリー、レイクサイドなどの売れっ子のレーベルメイトがバックミュージシャンとして参加しており、文字通り「ソーラー総出」の贅沢極まりない応援団を背に、ディスコ街道をまい進したのであります。

なにしろディスコ系アルバムを短期間に6枚も出しておりますので、上記2曲以外にもけっこう踊れるナンバーがあります。ドゥーワップ調のメロディーをベースに、あろうことか途中でスタンド・バイ・ミーの旋律も入ってきて意表を突く「Street Corner Symphony」(79年)、カーリー・サイモンやリタ・クーリッジみたいなさわやかなポップス路線で執拗に攻め立てる「It's Not What You Got」(80年、米ディスコ10位、R&B74位)、シャラマーみたいないかにもSolarらしい小気味よいコーラス、メロディー、ビート展開が印象的なミディアムナンバー「Show Me Where You're Coming From」(82年、R&B23位)といった佳曲が数多くあります。

Solarの人気に陰りが見え始めた80年代半ば以降、音楽活動が休止状態となり、結婚生活と子育てに専念するようになったキャリーさん。あれだけ精力的に歌いまくっていたのに少々残念ではありましたが、CDは再発モノの多いカナダのUnidisc盤を中心にまずまず出ています。個人的には、代表作ではないものの、80年代にリリースされた「Portrait Of Carrie」と「Still In Love」の2枚のアルバムが、70年代の売れ線ドンドコディスコからシンセサイザーを取り入れた落ち着いたR&B風へと曲調がうまく移行していて気に入っております。

THPオーケストラ (THP Orchestra)

THPいやあ再び秋も深まってまいりました。本日は日本の“元祖DJ”一遍上人(以前の投稿ご参照)ゆかりの遊行寺(神奈川県藤沢市)を久しぶりに訪れ、700年前の大解放ディスコである踊り念仏の国宝絵巻を特別展でとくと拝見してテンションも高まって参りましたので、どど〜んと心拍数上がりまくりの「必殺攻め攻めディスコ」を紹介いたしましょう。

時は1976年、ディスコブームが世界を覆いつくそうとしていたころです。カナダからTHPオーケストラなるディスコグループが現れました。英国人ミュージシャンのウィリー・モリソン(Willi Morrison)とイアン・ゲンター(Ian Guenther)のプロデュースにより、あからさまに「踊らば踊れ」のあげあげディスコを連発したのです。

デビューアルバム「Early Riser」は、タイトル自体は「早起きさん」と珍妙ですけど、アメリカの人気アクションドラマ「特別狙撃隊S.W.A.T.」のテーマ曲のディスコアレンジ「Theme From S.W.A.T.」など軽快なインストものが主に収録されており、「無難にまとめたな」感が強い。

続く77年発売の「Two Hot For Love」は、無名の女性ボーカリストであるBarbara Fry(バーバラ・フライ)を起用。以前取り上げたアレック・R・コスタンディノスとかセローンみたいなユーロディスコの影響を受けた長尺ものが注目点で、全米ディスコチャートではアルバムタイトル曲が3位まで上昇し大ヒットしました。ですが、まだまだあげあげマックスとはいかない感じで物足りなさが残ります。

78年の3枚目アルバム「Tender Is The Night」では、後に「Boys Will Be Boys」というアップリフティングな曲が全米ディスコチャートで8位(79年)を記録したダンカン・シスターズ(Duncan Sisters)がボーカルを務め、アルバムタイトル同名曲「Tender Is The Night」(米ディスコチャート14位)など、ストリングス中心のなかなかパワフルなダンスチューンを繰り出しました。それでも……やっぱり大きな特徴は見出せず、「血沸き肉踊る」ような躍動感を実現したとまでは言い難いのです。

そんなわけで、私が強烈に心ひかれる名盤とさせていただくのは、79年発売の4枚目「Good To Me」であります。もう、なんといってもボーカルが特別にユニークかつ変てこ(しかしとても上手)。ちょいとチャールストンみたいな風情も醸す歌声のジョイス・コブ(Joyce Cobb)というこれまた無名の女性なのですが、アルバムタイトル同名曲「Good To Me」(同16位)なんて、「せんっ、せいしょ〜ん(sensation)」とか、「ばん、ばあああああん(Bang Bang)」といった具合に、完全に人を食っているのか、いや実は確信犯で自らのアイデンティティーを懸命にアピールしているのか、とにかく絶対に忘れられない(忘れさせない)インパクト炸裂!「びんびろ〜ん」と繰り出される忘れ難いギターリフとの相乗効果で、虎視眈々と聴く者のダンスフロア魂をくすぐるのでした。

このアルバム全編を貫く曲調、というか節回しもそこはかとなく絶妙です。恐ろしくキャッチーな上に、よくよく聴いてみると、以前よりもドラムのキックが一段と強くなり、同年発売のドナ・サマーホット・スタッフ」並みにロックディスコ化しております。それにあの唯一無二のボーカルが乗っかってくるわけですから、(やや面食らいながらも)フロアに突進するしかないでしょう。これではかの一遍さんも、700年の時空を超え、ご自慢の鐘を鳴らしながら一緒に踊り狂わずにはいられますまい。

このアルバムではもう一つ、「Dancin' Forever」という曲もなんだか素晴らしい。「ビーウィズユー♪」「ダンシ〜ン♪」と連呼するコーラス部分では、「デン、デン、デン、デン…」と律儀に進行する四つ打ちドラムに合わせて、思わず両腕を前後に元気よく振って前進したくなる衝動に駆られる「早足の行進曲」とでも言える代物です。ディスコものだけでも1万枚・5万曲を超すCDやレコードを聴いてきたわけですけど、こんな曲、ほかにはあんまり見当たりません。

以上4枚のアルバムともに「モリソン&ゲンター」のコンビで作られたのですが、この辺で彼らの不思議なディスコワールドも終焉を迎えます。80年に入ってディスコブームが下火となり、レコード会社が倒産するなどして低迷し、表舞台からは消え去ってしまうのです。モリソンさんの方は、バブル期の1986年にもろデッド・オア・アライブを意識した「Pistol In My Pocket 」(Lana Pellay)なる曲を少しヒットさせました。私もこの曲は新宿や渋谷のディスコでかなり耳にしましたが、やっぱりこの人は「オーケストラ」というぐらいですから70年代の人なわけです。

THPはディスコ的には比較的重要なアーチストにもかかわらず、長くCD化はされていませんでした。2年前にようやく、英Harmless社から全4枚がどど〜んと再発(上写真はその1つで2枚組)となり、しかも思ったより音質もよいため、ディスコ好きには大変喜ばれております。

セルジオ・メンデス (Sergio Mendes)

Sergio Mendes Olympia5年後に控える東京五輪の話題が今、良くも悪くも沸騰中ですが、今回はそんな時勢に確信犯で乗っかっりつつ、「大オリンピック・ディスコ祭り」と参りましょう!

血沸き肉躍るスポーツの祭典ということですので、情熱のダンスで踊り狂うディスコとの相性は元来よいもの。まずはディスコが欧米を中心に認知されはじめる1972年には、東西冷戦期の西ドイツで、あの忌まわしいナチス政権下のベルリン五輪(1936年)以来初となる“冷戦だけど表向き平和で〜す”のミュンヘン五輪が開かれ、それを契機にエンタメ・音楽業界が一気に盛り上がり、そのひとつの成果としてドナ・サマーボニーMロバータ・ケリーらが輩出した「ミュンヘン・ディスコ」シーンを生み出しました。

続く1976年のカナダのモントリオール五輪のころには、いよいよディスコ・ブームに火が付きます。当時のモントリオール五輪公式報告書(106ページ)などによると、選手村の近くのビルにも「おもてなし施設」として映画館やブティックとともにディスコが作られ、選手たちは夜な夜な歓喜の舞踏に興じたといいます。モントリオールのあるケベック州はもともとカナダの中でもとりわけフランス系移民の末裔が多く、第一言語がフランス語であるほどですので、ディスコの語源の仏語Discotheque(ディスコテーク)よろしく、「カナダ産ディスコ」が次々と弾け出しました。

代表例としてはジノ・ソッチョ、THPオーケストラ、クラウディア・バリーフランス・ジョリライムトランスXといったところで、いずれ劣らぬアゲアゲ・ダンサンサブルな良曲を数多く世に送り出しました。カナダは音楽大国というわけではないのに、五輪効果を背景に、ディスコ界ではけっこうな存在感を示すことになったのです。つい4年前には、ディスコのメッカとなったモントリオールを舞台にしたカナダ映画(「Funkytown」)も公開されております。

問題は次の1980年開催のモスクワ五輪。78年のソ連によるアフガン侵攻の影響で、日米欧を含めた西側諸国が相次いで参加ボイコットを決定し、なんとも締まらない大会になってしまったのです。せっかくおバカさん満開の大ディスコブーム真っ只中だというのに、これだと盛り上がるはずもなく、五輪を当て込んでリリースされたジンギスカンの「目指せモスクワ」などは、(人気はそれなりにあったが)まったく皮肉なトホホ・ディスコと化してしまったのです。

日本における第1次ディスコブーム(1970年代後期)と第2次ディスコブーム(1980年代後半からのバブル期)の狭間の84年には、ロサンゼルス五輪が開かれます。もちろん、日本を始め西側諸国はこぞって参加したものの、ソ連など東側諸国が報復とばかりにボイコット。これまた「盛り下がり五輪」となってしまいました。その結果、有力選手の多くが不参加だった1980、84年のメダルの価値も、否応なしに下がってしまっております(再び「スポーツへの政治介入ってホント嫌ですね」のトホホ)。

さて、ここでようやく今回の主役の登場です。ロス五輪については、個人的に「大ディスコ・マイブーム期」の只中でしたので、印象深い「ザ・五輪ディスコ」として「オリンピア」(1984年、米ビルボード一般チャート58位)をひとつ、紹介しておきましょう。

歌うのはブラジルが生んだボサノバ・ジャズの帝王セルジオ・メンデスさん。古くは、今なおカバーされ、愛され続けるボサノバダンスの名曲「Mas Que Nada(マシュ・ケ・ナダ)」(1966年、同47位)を発表し、ディスコブーム期にも、Sergio Mendes & The New Brasil '77名義で「The Real Thing」(1977年)、Sergio Mendes Brazill '88の名義で「I'll Tell You」(1979年、米ビルボード・ディスコチャート9位)、「Magic Lady」といった彼ならではの果てしなくメロウ&グルービーなダンス曲をリリースしていますが、ボイコット問題がくすぶるロス五輪に合わせてリリースした「オリンピア」は、一念発起して流行りのAORをゴージャスにダンスチューン化したような内容。以前に紹介したテリー・デサリオの「オーバーナイト・サクセス」にも似た雰囲気で、80年代シンセの硬質な音色もキンキン(しかしどこか心地よく)鳴り響いておりまして、当時はディスコでもよく耳にしました。ただし、題名が題名だけに、ちょいと豪快で大げさな感じです。

セルメンさんは、「オリンピア」を収録したアルバム「Confetti」(写真)の発売の1年前、「Sergio Mendes」という同じようなAOR/ダンス系のアルバムを出し、その中の「Never Gonna Let You Go」というバラードを久しぶりに大ヒット(ビルボード一般チャート4位)させておりますので、気を良くして「五輪に便乗しちゃうぞ!」と、渾身の昇天ダンスチューンに挑戦してみたのかもしれません。

その後、88年のソウル五輪、92年のバルセロナ五輪のころには、音楽シーンにおけるディスコの存在感そのものが徐々に薄くなっていったわけですが、例えば冬のトリノ五輪(2006年)では、開幕セレモニーで懐かしのディスコ曲が大量に流れて(私的には)話題を呼びました。盛り上げ要素抜群のディスコは、やはり各種お祭りのBGMとして使いやすい音楽なのだと思います。

1964年の東京五輪では、「東京五輪音頭」なる民謡調の珍曲が巨匠・古賀政男によって作曲されております。今聴くと大いに困惑することウケアイなのですが、半世紀以上の時を超え、2回目の東京五輪ではどんな音楽が使われるのでしょうか。まあディスコじゃなくても全然かまわないのですけど、くれぐれもパクリだけは勘弁していただきたい!(ディスコ自体がパクリ要素満載なのだが)

なお、セルメンさんのディスコ感覚なアルバムのCDについては、残念ながらどれも再発されていないか、過去に出ていてもレア化し始めております。

ネイキッド・アイズ (Nakid Eyes)

Naked Eyesさて、今回は灼熱の夏を彩るニューウェーブ・シリーズ第3弾、ネイキッド・アイズと参りましょう。80年代前半、サンプリング・シンセサイザーの草分けで当時約1千万円もしたフェアライトCMIをいち早く導入し、ユニークな哀感漂う音作りにせっせと励んでいた英国の男性2人組です。

最大のヒット曲は、1982年発表の「Always Somthing There To Remind Me」(米ビルボード一般チャート8位、米ビルボード・ディスコチャート37位)。米ポップス界の巨匠バート・バカラックによる60年代の作品のカバーです。邦題は「僕はこんなに」といかにも意味不明ですが、曲調は美メロで至って真面目であり、フェアライト特有の「カン、カン、ボワ〜ン、ドッカ〜ン」という金属的かつ工場機械的な電子音が、大仰なだけにかえって日本人好みのはかなさを感じさせてくれています。

変則的高速ビートのこの曲は、「踊ってみな」と言われても、なかなかのり切れない難攻不落な展開のため、当時のディスコで聞くことはほとんどありませんでした。でも、少々控えめな曲調の次のヒット曲「プロミセス・プロミセス」(83年、一般11位、ディスコ32位)は、けっこう耳にしております。人気DJだったジェリービーンによる「ジェリービーン・ミックス」では、まだ無名歌手で、彼の恋人でもあったマドンナのささやくような美声も入っていて、二重に楽しめる内容となっています。

続くヒット曲「(What) In The Name Of Love」(84年、一般39位、ディスコ35位)は、「こんなに」と「プロミセス」を合わせたような「カン、カン、ボワ〜ンの哀愁ダンサブル」な雰囲気を漂わせており、これまたメロディーラインが美しい。フロアで激踊りを披露するわけにはいかないにしても、奥の暗がりで席に座ってドリンクでも口にしながら、手足をリズミカルに動かすには最適な内容となっています。

このデュオの構成メンバーはPete ByrneとRob Fisherで、80年代初めに2人で活動を始めて、活動を休止した84年までに2枚のアルバムを出しています。うちRobはClimie Fisherという別のデュオを結成し、「Love Changes (Everything)」(88年、一般23位、ディスコ16位)というダンスヒットを飛ばしますが、99年に病気のため39歳で早世しています。

今あらためて聴いてみますと、前回紹介したABCにも似た、80年代に大量に登場したエレポップな要素がふんだんに詰まっていることが分かります。それでも、この人たちの曲は、特にメロディーラインに個性が感じられます。短い活動期間ではありましたが、一発屋ではありませんし、ディスコ界にもポップス界にも、相応の貢献を果たしたといえましょう。

CDは、2枚のアルバムともに再発で出ております。ベスト盤もいくつかあり、写真は2002年発売の米EMI盤ベスト「Everything And More」。主なヒット曲の12インチバージョンが入っていてうんと楽しめますが、最近は希少化しているようです。

エービーシー (ABC)

ABC今年も、北国育ちにとっては酷暑がこたえる季節となりましたが、そんな逆境もどこ吹く風、今回も英国ニューウェーブなおもむきでABCと参りましょう。

1980年にマーティン・フライ(Martin Fry)らが中心となって活動を開始したグループで、シンセサイザーを駆使したダンスミュージックをがんがん繰り出していました。

代表曲はなんといってもデビューアルバム「The Lexicon Of Love」に収録されていた「The Look Of Love」(全米ビルボード一般チャート18位、ディスコチャート1位)でして、ぶりぶりシンセサイザーにサックスの音色がほどよく絡み、そこにマーティンの情熱的なボーカルが乗っかってきます。おまけに「ピンピンポンポン!♪」とハープの音なんかもうっすらと入ってきて、なかなか個性的な音作りをしていました。

この曲は、アメリカの音楽番組MTVでよくオンエアされていたプロモーション・ビデオ(PV)も印象的でした。往年のミュージカル映画「メリー・ポピンズ」を模した底抜けにカーニバルかつフェスティバルなメルヘン動画となっており、お子様でも安心して楽しむことができます。

アルバムのプロデュースは、数多くのアーチストのヒットアルバムを手がけた売れっ子プロデューサーのトレバー・ホーン。収録曲からの2枚目のシングルカットとなった「Poison Arrow」(一般25位、ディスコ39位)も、まずまずのヒットを記録しました。

このころは、アメリカのヒットチャートにイギリス産音楽が続々と進出していった「第2次ブリティッシュ・インベージョン」の時期にあたります。曲調的には、同様に80年代半ばに人気が出たスパンダー・バレエとかフランキー・ゴーズ・トゥ・ザ・ハリウッドなどとも似たところがありますが、やはりマーティンのボーカルに最も特徴が出ているグループです。

さらに、1985年にリリースした3枚目のアルバム「How To Be A Zillionaire!」からは「Be Near Me」(米一般9位、ディスコ1位)やサンプリングエフェクトをちりばめた「(How To Be A) Zillionaire」(同20位、同4位)、「Vanity Kills」(同91位、同5位)が、1987年にリリースした「Alphabet City」からはスモーキー・ロビンソンへの敬意を込めた「When Smokey Sings」(同5位、同1位)といったヒットを飛ばしています。いずれもボーカルとシンセサイザー、ホーンセクション、ドラムビートがうまく調和したスタイリッシュな佳作ぞろいとなっており、躍り甲斐があります。当時のディスコでも頻繁に耳にしたものでした。

CDは、各アルバム、ベスト盤ともに一応発売されておりますが、一部レア化して高騰しています。

キム・ワイルド (Kim Wilde)

Kim wildeさて今回は、80年代の英国を代表する女性歌手キム・ワイルドさんで〜す!その名のとおり、当初はブロンディみたいなワイルドなロックまたはポップスの曲調が多かった人ですけど、80年代半ばから緩やか〜にディスコ化。怒涛のエネルギーに満ち溢れた数々のヒットを放っています。

当時は、シーナ・イーストンとかマドンナとか、女性の音楽的社会進出を思わせる美貌系のソロ女性歌手ブームがありましたので、彼女もその一人ということになります。

1960年生まれの彼女の父親は、1950〜60年代の英国ロックンロール&ロカビリー界のトップスターだったマーティー・ワイルド。1981年の20歳のとき、その父親の協力の下、同じくミュージシャンである実弟のリッキーがプロデュースして、デビューアルバム「Kids In America」を発表。収録曲の同名シングル「Kids In America」が、いきなり本国のシングルチャートで2位に輝きます。全米チャートでは最高25位といまひとつでしたが、ドイツやフランス、豪州などでも軒並みチャートインしました。

この曲は、父の影響を感じさせるアップテンポのロック調で、随所にアナログ・シンセサイザーの「びよんびよん」な音が響き渡ります。キムさんのクールで無機質な表情に似合わないあどけない声が、現在にも通じるミスマッチな魅力を放っています。

続く82年に発表した2枚目「Select」では、ロック色をやや弱める一方、シンセポップ、ニューウェーブ色を強めました。この中には、昔紹介したウルトラボックスみたいなブリティッシュ・ニューウェーブロック大全開でアゲアゲな「Words Fell Down」や「View From A Bridge」や「Chaos At The Airport」、かと思えばしっぽりと哀切感漂わせる隠れた名曲「Cambodia」などが収録されています。

その後、毎年のようにアルバムを発表した彼女ですが、「Kids In America」ほどのヒット曲には恵まれませんでした。ただ、1984発表の4枚目「Teases & Dares」に収録されている「The Second Time」などは、テイラー・デインみたいな“ラッパ・シンセ”が縦横無尽に駆け回り、それを几帳面な電子ドラム音が「まあそう慌てなさんな」とばかりにしっかりと下支えするダンサブルさが持ち味で、当時のディスコでもけっこう耳にしました。

さらに、同アルバムの別の収録曲としては、もろ「親父の影響」で作られたと思われるロカビリー・ディスコ(?)の「Rage To Love」にも、個性的な発想の音作りを感じさせます。

セールス的に停滞気味になった彼女にとって本当の転機となったのは、やはり86年発売の5枚目「Another Step」(写真)に収録の「You Keep Me Hangin' On」でしょう。ついにというか、いきなりというか、あれよと言う間に米ビルボード一般チャート1位(ディスコチャートでは6位)に輝いてしまったのです。

この曲は、ザ・シュープリームスの名曲をハイエナジー風のディスコにリメイクした内容で、当時流行りのゲートリバーブのエフェクトをかけた「ビシッ!バシッ!」ドラムも絶好調の一品。「おもしろうて、やがてかなしき鵜舟(うぶね)かな」(By 芭蕉)の大バブル経済下だった六本木界隈のディスコでも、バナナラマ並みに高らかに響き渡っていましたとさ。

ちなみに、このアルバムの他の収録曲では、「Another Step (Closer To You)」もなかなかおもしろい。というのも、同じく英国のソウルディスコ歌手で、「ママ・ユース・トゥ・セイ」のヒット曲を持つJunior(ジュニア)さんとの異色デュエット曲になっているからです。曲調はオーソドックスな80年代ロックディスコという感じですが、2人の一風変わったソプラノ系の声質が、ディスコに集う者たちに、「はて踊るべきか、踊らざるべきか」と一瞬戸惑いを起こさせるような、独特の高揚感を生み出しています。

80年代後半にはもう1曲、「You Came」(88年、米ディスコチャート10位)という曲を発表しました。もうこのあたりまでくると、確信犯というかある種の開き直りというか、メロディーライン重視の「ちょいとユーロビート」な感じになっちゃってます。

というわけで、90年代に入ると、20代のころのワイルドさもさすがに影を潜め、セールスまでもが落ち込む一方になっていったキムさん。それでも、鮮烈デビュー作だった「Kids In America」からの一連の鋭角的な作品群は、その風貌とも相まって、パワフルで華々しかった80年代の音楽シーンを象徴しており、相当なインパクトがあったと思います。

再発CDは各アルバムともに発売されています。写真は「You Keep Me…」が収録された代表的アルバム「Another Step」で、収録曲のロングバージョンを網羅したCD2枚組の英Cherry Pop盤が5年前に出ています。

次回も、ニューウェーブとかそのへんに焦点を絞ってみたいと考えております。

カレン・カーペンター (Karen Carpenter)

Karen Carpenterいやあ、ゴールデンウィークもとうに終わり、間もなく梅雨入りとなります。今回はひとつ、「ありそでなさそな、でもあったカーペンターズ・ディスコ」を紹介しておきましょう。

カーペンターズといえば、まずはカレンさんの天下無敵の美声が醸す珠玉のメロディーラインということになりますが、大ディスコブーム期の1979年から1980年にかけて制作された彼女の唯一のソロアルバムには、ディスコ的な空気が横溢しています。

中心プロデューサーは、ポップスやロックを軸に数々の大物ミュージシャンを手がけていたフィル・ラモーン。とりわけ呼び物の「My Body Keeps Changing My Mind」では、のっけからドンドコディスコ全開で、立ちくらみがするほどです。ドラム、ベース、ストリングス、ホーンセクションが恥ずかしげもなく大展開する中で、A、Bメロから後半のコーラスにかけて、あの透き通る歌声が負けじと響き渡ります。「ダンシン!ダンシン!」と連呼なんかしちゃってもう、完全に茶目っ気たっぷりの「あげあげカレン」状態です。

もう一曲、「Lovetlines」もなかなかにしたたかなディスコ・フュージョン路線。最初は"朝もや田園風"のさわやか風味でそろりと入りつつ、コーラスでは――やっぱりドラムやらベースやらがにぎやかに競演してディスコ大全開!(喝采)。この「フュージョンからのディスコ」という変化球もまた、否応なしに踊り心をくすぐることウケアイなのです。

さらに、「Remember When Lovin' Took All Night」という曲も、8ビートのドラムがしっかりと下地を作り、そこにメロディアスな歌声が乗っかるパターンで、ほんのりとしたディスコ路線を打ち出しています。

それもそのはず。彼女は、ディスコをはじめとするダンスミュージックの基礎となる「リズム感」が抜群なのでした。もともと高校時代にはドラマーとしてバンドに参加していたほどで、プロになってからもよく披露していました。Youtubeにはいつくかその時の映像がありますが、ステージを目が点になるほど縦横に駆け回る姿からも明らかなように、相当な腕前なのでした。彼女のウリは、天性の歌声だけではなかったのです。やはり音楽の申し子としか思えません。

けれども、この華々しき「ディスコ系アルバム」は完成後、レコード会社(A&M)や、長年の音楽的相棒である兄リチャードからの反応が芳しくなく、なんとお蔵入りになってしまいました。自信作の発売見送りの知らせを受けたカレンさんは、相当に落ち込み、激しく抗議したと伝えられています(そりゃそうだ)。その3年後、1983年にはカレンさんは32歳で急死。それから13年の時を経て、1996年に発売されることになり、ようやく日の目を見ることになったいわくつきの「幻のカーペンターズ・ディスコ」でもあったのです。

というわけで、このアルバム「Karen Carpenter(邦題:遠い初恋)」では、王道の「イエスタデイ・ワンス・モア」とか「トップ・オブ・ザ・ワールド」とは一味ちがった、カーペンターズの世界が堪能できます。もちろん、得意のバラード調も収録されております。CDは入手容易となっております。
プロフィール

mrkick (Mr. Kick)

「ディスコのことならディスコ堂」----本名・菊地正憲。何かと誤解されるディスコを擁護し、「実は解放と融合の象徴だった」と小さく訴える孤高のディスコ研究家。1965年北海道生まれのバブル世代。本業は雑誌、論壇誌、経済誌などに執筆する元新聞記者のジャーナリスト/ライター/翻訳家。もはや踊る機会はなくなったが、CD&レコードの収集だけは37年前から地味〜に続行中。アドレスは↓
mrkick2000@gmail.com

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*最近多忙のため、曲名質問には基本的にお答えできません。悪しからずご了承ください。
*「ディスコ堂」の記事等の著作権はすべて作者mrkick(菊地正憲)に帰属します。

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