ディスコ堂 by mrkick

音楽に貴賎なし ―Discoの考察とCD批評

アシャ・プスリ (Aha Puthli)

asha_puthli今回は、少し前に読者の方からリクエストがあった、インドのムンバイ出身の「妖艶系」歌手、アシャ・プスリさんを取り上げてみましょう。なんといっても、そのもわ〜んとした“女性版バリー・ホワイト”みたいな特徴的な声が印象深く、ディスコ的には底ぬけにメロウな「The Devil Is Looose」、「Music Machine」などの曲で知られています。

幼少時にはオペラなどの古典音楽を学び、後に米国に渡って前衛的な歌唱法のジャズ歌手として活動。さらに欧州でも70年代に入って、プレ・ディスコ期のダンス曲「I Am a Song」などを発表しました。世界を股にかけた活動ぶりでして、今やすっかり定着した音楽ジャンルであるワールドミュージックのさきがけとも言える人です。

70年代後半には、ディスコ・アルバムを相次いでリリース。当時流行していた、コスチュームの派手なグラム・ロックの影響を受け、ジャケットもなかなかに個性的なデザインのものがありました。

The Love Is Devil」、「Space Talk」などのしっとりとした曲が多く収録された1976年のアルバム「The Devil Is Loose」(写真)に続き、78年にはJean Vanlooというディスコ・プロデューサーを起用して本格的なディスコアルバム「L'Indiana」を発売。特に「L'Indiana」には、「四つ打ち」ドンドコディスコの王道をゆく「I'm Gonna Dance」、ドナ・サマーばりのアルペジエーター・シンセが炸裂する「There Is A Party Tonight」、やや緊迫したイントロが逆に踊り心を否応なしにくすぐる「Music Machine (Dedication To Studio 54)」といった、スペーシーかつ真っ正直にフロアを意識した楽曲が連なっており、好感度抜群です。

さらに、79年には「1001 Nights of Love」(愛の千一夜)という正統的なディスコアルバムを、80年には「I'm Gonna Kill It Tonight」というちょいとロックっぽいアルバムを発表。その後も精力的に新作を発表し続けました。同時に、美貌を生かして映画出演やモデルとしても人気を博しています。

以前に紹介したマドリーン・ケーンアンドレア・トゥルーアマンダ・レア、それにユニークな美声を誇ったケイト・ブッシュあたりを彷彿させる魅惑系ディスコ歌手として、独特の存在感を発揮したアシャさんですが、低音からソプラノまでぐいぐい伸びる幅広い歌声こそが、彼女の真骨頂と言えるでしょう。

残念ながらヒットチャートを派手ににぎわしたような曲はなく、CD化はほとんどされておりません。日本での知名度もあまりありませんけど、インド出身というだけでも珍しく、それに声質といい曲調といい、かなり異色な実力派女性歌手ですので、ディスコ好きであれば、レコードであっても何枚かコレクションに加えておくと面白いと思います。

彼女は現在も米フロリダ州を拠点に音楽関連の仕事を続けています。私のFacebookの「友だち」でもありますので、簡単にメッセージを送ったところ、「マサノリ、素敵な言葉と私の音楽への愛をありがとう。あなたのブログの読者に紹介してくれてとても感謝しています」といった返事が来ました。

アシャさんの曲はYouTubeに大量にアップロードされておりますし、現在のアーチストによるサンプリングなどでも使用されているようですので、またどこかで脚光を浴びる日が来るかもしれません。

レイクサイド (Lakeside)

Lakeside今月10周年を迎えたこのブログ、地味に始まり、気がつけば今も地味〜に続けております。今後とも何卒よろしくお願い申し上げます。

さて、今から30年以上もの昔、「Sound Of Los Angeles Records」の略語である「Solar(ソーラー=太陽の意)」というレーベルがありました。ディック・グリフィー(Dick Griffey)という人物が、友人で音楽番組「ソウル・トレイン」の司会で有名なドン・コーネリアスとともに創立。発祥は米東海岸のフィラデルフィアですが、すぐに文字通りロサンゼルスに拠点を移しました。以前にも紹介したシャラマーウィスパーズのほか、ミッドナイト・スターやダイナスティ、キャリー・ルーカスなどのこてこてダンス系の人気者が多数輩出した元気いっぱいのレーベルだったのです。

今回はその代表的な所属アーチストのひとつ、レイクサイドに光を当てましょう。上写真のアルバム「Fantastic Voyage(ファンタスティック・ボヤージ)」の表題曲シングルが、1980年の全米R&Bチャートで栄えある1位(全米ディスコチャートでは12位)に輝いた最大9人編成の「楽器、ボーカルなんでもそろってま〜す」の大所帯黒人グループです。

確かに「ファンタスティック」あたりは、当時のディスコでもラジオの洋楽番組でもよ〜く耳にしました。シンセベースの音色も楽しい、もう「ぶいぶい、ぶっりぶり」の泥臭さ満点の重量級ファンクでして、踊る際にも、丹田(へその下あたり)に力を込めて心してかかったものです。

レイクサイドの起源は1960年代末にさかのぼります。ファンクの本場であるオハイオ州デイトンで、地元のギタリストStephen Shockley(スティーブン・ショックレー)、リード・ボーカルになるMark Wood(マーク・ウッド)らが結成した「Young Underground」がルーツ。シカゴのタレント発掘コンテストで優勝するなどして実力が認められ、ソウル界の大御所カーティス・メイフィールドらが創立したカートム・レコードと契約しましたが、その会社は間もなく倒産してしまいました。

失意のうちにロサンゼルスに移り、レイクサイドと改名。ここではなんと、かのモータウンとの契約にこぎつけました。しかし芽は出ず、メジャーのABCレーベルに移ってから初のレコードを出しましたけど、これも売れず…という具合に、不遇続きのグループでした。それでも、1970年代後半には、成長著しいソーラーとの契約という大きな転機が訪れたわけです。

ソーラーでは、78年にアルバム「Shot Of Love」をリリース。その中の「ぶいぶいベース系」ダンス曲「It's All The Way Live」がR&Bチャート4位まで上昇するヒットとなり、ようやく日の目をみることになりました。その後、「Pull My Strings」(79年、同31位)、先述の「ファンタスティック」、「Raid」(83年、同8位)、「Outrageous」(84年、同7位、ディスコ42位)といったヒット曲を出しています。私自身、「ファンタスティック」以外では、「Outrageous」もずいぶんとディスコで耳にしました。

いずれもやっぱり重量ファンク系なのですが、ビートルズのスタンダードナンバーのリメイク「I Want To Hold Your Hand」(82年、同5位)などのスローバラードも高水準です。彼らは大都会ロサンゼルスの垢抜けた雰囲気を感じさせつつも、もともとはどファンクの激戦地区オハイオで鍛えてきた人々なので、演奏力は折り紙付きです(コンテストで優勝したし)。ビレッジ・ピープルみたいなコスプレなアルバムジャケットを見ても分かるように、衣装がいつも奇抜で、ライブパフォーマンスの評判も高かったグループです。それに、マーク・ウッドを中心としたボーカルは、時には男臭く、時には耳に心地よくメロウに響いて変幻自在です。アメリカの中西部と西海岸が融合した音作りになっていると思います。

アメリカでは各地方や都市に独特の音楽があって、そのまま代名詞になっていました。例えば、ケンタッキーのカントリー、シカゴのブルース、ニューオリンズのジャズやソウル、メンフィスのサザンソウル、といった具合。ロックでも、西海岸ロックとか、サザンロックなどたくさんあります。ディスコで言えば、フィラデルフィア・サウンドからマイアミ・サウンドに至るまで、ご当地ディスコがかなりありました。世界に目を向けても、欧州やアジアならではのディスコがありました。もちろん、今もそうした見方はされますけど、昔の方が地理的な色分けがはっきりしていたのです。

ディスコ音楽は90年ごろを境にクラブ音楽に移行し、テクノ、ハウス、ヒップホップ、R&B、ジャングル、ドラムンべース、ディープソウルといっ た具合に、ジャンルがより細分化していきました。シンセサイザーやコンピューターによる作曲技術の進化により、それまでは考えられなかったような音がどんどん作れるようになり、リスナーの嗜好も同時に多様化、個人化したことが背景にあると思います。

逆に、とりわけ高度情報化によりボーダレスかつグローバル化する中で、地理的には音楽の境界が薄くなったようです。少し前でもシカゴ・ハウスとか、デトロイト・テクノみたいなのは一部ありましたけど、基本的には、ニューヨーク、ロサンゼルス、それにロンドンや東京で制作されようとも、ヒップホップはヒップホップですし、ハウスはハウスです。地域別の個性は、かつてより感じられません。観客の目の前で演じるライブ音楽の価値はいまだに色あせていないにせよ、mp3などの音声ファイルに音楽を取り込めば、よい音質で世界中、誰でもどこでも手軽に手渡しして楽しんでもらえる時代ですしね。

レイクサイド、ソーラーレーベルともども、80年代後半には活動が急速に衰えていき、やがて消滅しました。そんな意味でもレイクサイドは、オハイオとロサンゼルスという2つの地域的特徴を濃厚に醸す最終世代のファンクバンドといえます。

再発CDは、ソーラーの原盤権を受け継いだカナダのUnidiscを中心に出ておりますが、かなり希少になってきております。ベスト盤であれば、英国Recall盤の2枚組(下写真)が、主なヒットが網羅的に収録されていてお勧めではあるものの、2枚目の収録曲の目録が間違っているなど、けっこうトホホです。
Lakeside_Best

ホット・ブラッド (Hot Blood)

Hot Blood10周年、細く、長〜く、せめて月イチ更新で…というわけで今回、奇妙奇天烈摩訶不思議、抱腹絶倒笑止千万な奇人変人と自ら称してはばからない私mrkickが満を持してお送りするのは、「チーン、チーン…♪」ってな具合に、珍妙な柱時計の効果音で始まる究極のへなちょこおバカさんディスコ、「ソウル・ドラキュラ」で〜す。

これ、当時流行った「エクソシスト」なんかのホラー映画に影響を受けた、一発狙いの欧州系ディスコ・プロジェクトであることは間違いないのですが、あまり情報がない謎のグループでもあります。でも、「ドラキュラ」だけは、多くの人が一度は聞いたことがあると思います(ラジオとか駅前の喫茶店の有線とかで)。

各種資料や欧州の友人のディスコDJにあたっても、「実体ははっきりしない」との答えが返ってきます。単に「camp(低俗)でcheesy(安っぽい)なホラーものでしたな」という感じ。それにしても、「Hot Blood(熱い血)」って、ホット・コーヒーとかホット・ココアみたいな感覚で、人様の生き血をすすってはいけません。

素性がよく分からない人たちではありますが、レコードのクレジットをよくよく見ると、ボニーMのディスコリメイクの名曲「サニー」(76年)などのアレンジャーでもあったステファン・クリンクハマー(Stefan Klinkhammer)らが中心的に関わっていたようですので、旧西ドイツのミュンヘン・ディスコの範疇であることが浮かび上がります。日本のウィキペディアでは「フランスのグループ」と記載されていますが、根拠は不明。楽曲データベース「Discogs」や「Disco Delivery」をはじめ海外のサイトではことごとく「ドイツのグループ」となっておりますので、やはりドイツの線が濃厚です。

しかも、最初にフランスのCarrereレーベル(ディスコものをよくリリースしていた)からシングル(写真)が発売されたのは1975年ですから、かなり早い段階の「ミュンヘンひねりワザ恐怖ディスコ」となります。

この「ドラキュラ」は日本を中心に大ヒット。翌1976年には、2枚目のシングル「Le Chat (邦題:快傑!ソウル・キャット 」を発売し、特にフランスで大ヒットしています。フランス語の分かる海外の友人によると、「歌詞がすごいスケベ〜だから、面白くて売れたんだよ」といいます。まあ、歌うことより踊ることに重きを置くディスコの歌詞ってのは、大概はそんなもんです。

その翌1977年には、「ドラキュラ」など7曲が収録されたアルバム「Dracula And C°」を発売しましたが、これが最初で最後のアルバムになってしまいました。でも、内容的には、「Blackmail」とか「Baby Frankie Stein」など、例によってエコーを利かせた「トゥールッ、トゥルットゥ♪、ワッハー、シュワシュワハー♪」の女性ボーカルと低音の男性ボーカルにストリングスを乗せたオーケストラディスコが縦横無尽に展開していて、至ってまともな印象です。

薄暗いフロアでかかったら、踊りながら背後霊を感じてしまいそうな世にも恐ろしい「ホラー・ディスコ」。似たような例としては、同時代では以前にちょっと紹介した“吸血鬼ディスコ”のサントラ「Nocturna」(79年)とか、クラウディオ・シモネッティらがいたゴブリンの「Tenebre」(82年、映画「シャドー」のテーマ。ゴブリンはイタリア・ホラーの傑作「サスペリア」の音楽も担当)、イージー・ゴーイングの「Fear」(79年。シモネッティはこのグループにもいた)、ラロ・シフリンの「ジョーズ」(76年)、そしてマイケルジャクソンの「スリラー」(笑。82年)あたりが思い浮かびます。純粋なホラーではないにせよ、ドナ・サマーの「Deep」(77年)なんかも緊迫しててけっこうコワい。あからさまな直球勝負のホット・ブラッドも、そうした系譜に連なる存在といえましょう(実体不明にせよ)。

ホット・ブラッドのアルバムの再発CDは、ロシアの変な海賊盤以外はありません。正規盤があったら欲しいけど、謎が謎を呼ぶグループだけに原盤権探し自体が難しそうです。「ドラキュラ」を収録したディスココンピであれば、以前に紹介したものも含めてたくさんあります。

ノーランズ (The Nolans)

Nolan Sisters 2今回は肩の力を抜いて、ノーランズと参りましょう。ご存知、イギリスが生んだガールポップ・グループで、1970年代末〜80年代前半に本国や日本で大人気となりました。

グループ名は、アイルランド人歌手の両親にもとに生まれた6人姉妹に由来し、うち年長の5人がアイルランド生まれ。62年にイギリス西部の「社交ダンスのメッカ」であるブラックプールに一家で移住しました。

人気が出たのは70年代後半ですが、既に63年には、地元ブラックプールで両親や2人の兄弟と一緒に「シンギング・ノーランズ」として活動していました。このとき、後にノーランズの一員となる末っ子のコリーン(Coleen、65年生まれ)はまだ誕生していませんでしたが、総勢9人もの大所帯ファミリー・ボーカル・グループだったのです。

後の1974年、姉妹は親や兄弟と離れて、EMIに所属して本格的なレコードデビューを果たします。当時のグループ名は「ノーラン・シスターズ」で、テレビのコメディやバラエティ番組に出演して人気者となりました。ただし、ヒットには恵まれませんでした。

転機が訪れたのは1979年のこと。アルバム「Nolan Sisters」収録のシングル「Spirit, Body and Soul」が英国チャートで34位になった後、セカンドシングルの「I'm In The Mood For Dancing」(邦題:ダンシング・シスター)が3位まで上昇。その人気が日本やオーストラリア、ニュージーランドにも飛び火したのでした。ガールポップ・コーラスグループや女性コーラスグループはほかにもたくさんありましたが、姉妹だけで(しかも大勢)構成していること自体が非常に珍しく、そんな新奇性も人気を後押ししたと思われます。

リードボーカルは、コリーンの次に若いバーニー・ノーラン(Bernie Nolan)。つい2年前、がんにより52歳の若さで亡くなってしまいましたが、あどけないルックスの割には、ときどきド演歌顔負けの“こぶし”をきかせるけっこうな迫力ボイスの持ち主でした。

この曲の歌詞は、この手のグループにありがちな夢見る乙女のロマンチックな恋心を綴ったような内容ではなく、「とにかく踊らば踊れ!頭のてっぺんから爪先まで!」「いやあ、踊りたくてたまんねえぜ!」などと(英語で)連呼するかなり積極的なダンシングぶりを見せつけており、おなじみのあの旋律も、王道を行くディスコポップとでも言うべき能天気な明るさが持ち味です。かっちりとした8ビートのリズム進行に身をゆだねれば、なかなか爽やかに踊り続けられそうな曲でしたけど、その爽やかさが仇になったのか、ディスコで聞くことはありませんでした。

80年にはノーランズと改名。イントロの「おとぼけアナログシンセ」のピコピコ音が脱力感を誘う「Gotta Pull Myself Together」(恋のハッピーデート)のほか、小粋なカントリー&ウエスタン風に攻め立てる「Attention To Me」(アテンション・トゥ・ミー)、再びバーニーさんのド迫力ハイトーンボイスが弾ける「Sexy Music」(セクシーミュージック)といった印象深いヒット曲を出しました。特に日本での人気はなかり持続しました。「ダンシング・シスター」なんて、日本語バージョンがあったくらいです。

けれども、80年代半ばにはセールスは急降下。メンバーがソロ活動に重心を移すなどして、気がつけばあえなくフェードアウトしていたわけです。同時代のイギリス産「男版アイドル」のベイ・シティー・ローラーズと違い、アメリカで人気が出なかったのも、世界的にはいま一つ印象が薄くなってしまった要因といえます。

それでも、6年前には再結成ツアーを行って好評を博しています。気をよくして2013年にもツアーをやると発表したのですが、バーニーさんの病状悪化により中止になりました。彼女は中心ボーカルでしたから、ここに本当の意味でノーランズは幕を下したといえましょう。

再発CDは、ベイシティー・ローラーズと同様に、ベスト盤を中心に比較的出回っています。写真もその一つで、2004年に発売されたSony Music盤のものです。

タントラ (Tantra)

Tantra大晦日だけに今年最後となりますが、ここはひとつ純粋にディスコらしいグループを紹介しておきましょう。幻惑スペーシーディスコの真髄を究めたイタリアの5人組ディスコグループ、タントラ(Tantra)さんたちでありま〜す!

プロデュースを担当したのはCelso Valli(セルソ・ヴァリ)。ほかにもMachoやAzotoなどのギンギンなダンスチューンを70年代後半から80年代半ばにかけて世に送り出していた人でして、Easy Goingのクラウディオ・シモネッティ(Claudio Simonetti)やステファノ・プルガ(Stefano Pulga)、ジョルジオ・モロダーらと共に、イタロディスコのパイオニアの一人に数えられます。

タントラとはインド密教やヒンドゥー教の経典のことですが、その音楽もまさに神秘の精神世界を演出しており、西洋と東洋の音楽的融合、さらにアフリカの大地の祈りをも随所に感じさせる独創的なサウンドが特徴。インストゥルメンタル中心でボーカルは抑え目であり、その後のハウスミュージックにもつながる催眠術系の曲調にもなっております。

代表曲は、なんといっても「The Hills  Of Katmandu」(80年、米ディスコチャート2位)。ヒットはこれだけですので一発屋のカテゴリーに入るのですけど、逆に言えば「この1曲だけでディスコの殿堂入り」も可能なぐらい、発売当時から現在までディスコ好事家たちの人気を集め続けている曲で、アナログシンセサイザーが縦横無尽、うねうねに大展開した佳作となっております。

特に、かのパトリック・カウリーがリミックスを手がけたThe Hills Of Katmanduは、12インチのプレス数が少なかったこともあり「幻の名曲」扱いでした。実際に13分以上もあるそのリミックスを聴いてみると、同様にカウリーさんがリミックスを手がけたドナ・サマーの「I Feel Love」を、さらに果てしなく催眠術系に変貌させた感じです。彼ならではの職人技がちりばめられており、「次はどんなカウリー風うにょうにょ音が入ってくるかな?」とバカ長いのに最後まで飽きさせません。

ほかにも、「Hills of」と同じくオリエンタルな楽器音(シタールなど)が印象深く立ちあらわれてくるWishboneという曲があります。これまた12インチだと15分以上もあるのですが、「単調な反復」の美学を感じさせてくれています。催眠術系がある極限まで達し、気がつけば催眠ならぬ睡眠をも誘ってしまい、太古ヴェーダの修行のごとく、「眠りながら踊る」という未だかつて誰も到達したことがない瞑想の境地をも味わえるかもしれません。

一方で、見事に無難でディスコテークなGet Ready To GoGet Happyといった曲もありまして、いやはや、続けて聴いていってもけっこう飽きずに楽しめるグループなのでありました。

CDは、なんと1年ほど前にどど〜んと復刻・発売となりました(上写真)。以前に取り上げたあの「Disco Discharge」の姉妹シリーズである「Disco Recharge」の一つでして、2枚組となっております。ほぼすべての主要曲とバージョン(パトリック・カウリー・リミックスも)が網羅されていて、新年早々(間もなく)、かなりお勧めではあります。

ベイ・シティ・ローラーズ (Bay City Rollers)

Bay City Rollersいやあ、今回はまたまた突飛な展開、ベイ・シティ・ローラーズと参ります。先ごろ、「独立しちゃうの?」ってな具合で、地味だったのにいきなり話題になり、それが国民投票で否決されると一瞬にして記憶から遠ざかってしまったスコットランドの出身。ビートルズやモンキーズを意識した典型的な男性アイドル・ロックグループで、本国英国や米国だけでなく、日本でも相当に売れました。うちの妹も、メンバーだった「パット・マグリン」のステッカーを部屋の柱に貼ってましたし。

基本的には、世の少女たちを熱狂させたアイドルバンドですので、この人たちにはかる〜い感じがどうしてもつきまといます。でも、よ〜く探ってみると、楽曲の中には音楽的に工夫の跡が見られるものがあり、ディスコな雰囲気も多少あわせ持っていたことが分かります。なにしろ、結成自体は1960年代後半と古いものの、主な活動時期がディスコブームの最中の1970年代半ばから後半でしたから。

さて、彼らの大ヒットといえば、誰もが耳にタコだったであろう「サタデーナイト」(1975年、米ビルボード一般チャート1位)です。お隣の大イングランドからの数百年にわたる圧迫や懐柔を巧みにかわしながら、独自の文化を保ってきたスコットランド人だけに、独特のタータンチェックとストライプ靴下のキメキメのファッションで、ビジュアル効果も満点でした。文字どおり世界中のお茶の間の人気者となったわけです。このサタデーナイト自体、以前に紹介したジグソーの「スカイ・ハイ」みたいに、とってもベタだが親しみやすいメロディー展開で、血沸き肉踊る名曲だとは思います。

彼らのベスト盤「Bay City Rollers」(Arista Records)のライナーノーツによると、まだ無名時代の70年ごろ、彼らに転機が訪れました。ある日、大手レコード会社Aristaの前身レーベルであるベル・レコード(Bell Records)の重役が、出張先のスコットランドからロンドンへの帰途、飛行機に乗り遅れてしまいました。数時間後の別の便に乗るべく、時間つぶしに立ち寄ったエジンバラ市のクラブで、地元の少女たちから黄色い声援を受けて演奏するローラーズをたまたま見かけたのでした。あまりの熱狂ぶりに、「これはいけるかも」と感じたその重役は契約を申し込み、本格デビューを果たしました。そこから「サタデーナイト」も生まれたというわけです。

この人たちにはほかにも、ドゥービー・ブラザーズの「Listen to The Music」(1972年)そっくりのギターリフで軽やかにスタートする「Sweet Virginia」とか、私の好きな「Rock And Roll Love Letter」(同28位)みたいな疾走感あふれる良曲もありますし、往年の女性アイドルのダスティ・スプリング・フィールドが大ヒットさせた「I Only Want To Be With You」(邦題:二人だけのデート)のリメイク(同12位)とか、男前ハードロック全開の「Yesterday's Hero」(同54位)とか、体が自然と動き出すようなヒット曲がいくつかあります。

ほかにも、ビーチボーイズ風あり(「Remember (Sha La La La)」とか)、ELO風(「Turn On The Radio」や「Would't You Like It」)ありと、なんでも揃っています。かと思えば、「Dedication」(同60位)、「The Way I Feel Tonight」(同24位)のような美メロバラードなんかもしっかり発表しています。

もちろん、ディスコの影響をもろに受けた曲も混じっています。76年に発売したアルバム「Rock N' Roll Love Letter 」には、前述のアルバム同名曲のほかに、珍しく12インチのディスコバージョンも制作した「Don't Stop The Music」(米ビルボード・ディスコチャート24位)という四つ打ちの曲も入っています(あまりインパクトがない曲調だが)。最もディスコを意識した内容の77年発売のアルバム「It's A Game」(写真)には、アルバム同名曲やしっとりしたAOR風の「You Made Me Believe In Magic」(同10位)、それにファンキーな感覚が漂う「Love Power」や「Dance, Dance, Dance」のようなフロア向けの曲が入っています。

…とここで冷静になって考えてみれば、これまたやっぱり「ジグソー」のごとく一貫性がないみたいです。真面目な音楽好きの人々からは、なんだかちょいと支離滅裂で中途半端な展開といわれかねません。

実は、このバンドはいちおう、レス・マッコーエン(Les McKeown)とかデレク・ロングマー(Derek Longmuir)といった著名な主力メンバーがいるにせよ、結成直後からメンバーチェンジを繰り返しておりまして、リードボーカルを担当していたのも、アルバムによって誰が誰やら。そんな背景もあって、音楽職人的なこだわりと統一性に欠ける結果になった可能性があるのです。しかも、彼らはこの70年代後半、お約束のメンバーの不仲説が飛び出したり、ストレスから放蕩生活に陥ったり、ギャラへの不満が噴出したり、ドラッグに溺れたりと、ありがちな絶頂アイドルの転落の道を歩み始めてもいました。

80年代に入るころには、日本など一部の国でしかセールスを維持できなくなり、あえなく過去の人となっていきます。それでもまあ、そのなりふり構わぬ音楽性は、「なんでもあり」ディスコ時代における一つの成果として記憶されてよいとは思っております(試行錯誤にせよ)。

この人たちのCDは、お騒がせながらもメジャーだっただけに、まさに百花繚乱雨あられ、ベスト盤を含めていろいろと揃っております。晩秋の夜長、40年近い時を経て、アイドルバンドに隠された意外な「楽曲のデパート」ぶりをあらためて味わうのも一興でしょう。

次回は満を持して、純粋ディスコものに回帰する予定でございます!

マリリン・マックー&ビリー・デイヴィス・ジュニア (Marilyn Mccoo & Billy Davis Jr)

Marilyn McCoo秋も深まってまいりました。今回は「こみ上げ系ソウルディスコ」の代表格として一時代を築いた夫婦(めおと)デュオ、マリリン・マックー&ビリー・デイビス・ジュニアと参りましょう。

2人とも、聴いているうちに宇宙の果てまで飛んでいくこと必定の「アクエリアス」をはじめ、60年代から70年代にかけて豪快でサイケなヒットを連発した米国のソウル・ボーカルグループ「フィフス・ディメンション」の主力メンバーでした。

2人は1976年、「フィフス」を脱退して夫婦で仲良く初のアルバム「I Hope We Get To Love In Time」を発表。この中のミデアムテンポのダンスシングル曲「You Don't Have To Be A Star」(邦題:星空のふたり)が、全米ビルボード一般、R&Bチャートでともに第1位を記録する特大ヒットとなります。

このアルバムからは、ダンサブルながらも哀切な香りを放つ「Your Love」(一般15位、R&B9位)もヒット。2人の息のあったボーカルは、以前に紹介した同様の仲良し夫婦ディスコデュオのアシュフォード&シンプソンにも似た感じ。特に、妻マリリンさんの伸びのあるド迫力4オクターブの歌声を軸に展開する、流麗なメロディーラインが出色であります。もちろん、いくつか収録されているバラードも聴きごたえがあります。

2人は翌77年、2枚目のアルバム「The Two Of Us」をリリース。この中からは、シングルカットされた正統派ダンスナンバーの「Look What You've Done To My Heart」やミデアムスローの「Wonderful」、妙な緊迫感とおトボケ感がある「The Time」あたりがディスコ向けの曲になっていますが、ヒット曲は生まれませんでした。

この後、ディスコブーム最盛期の78年には、3枚目のアルバム「Marilyn & Billy」を大手コロムビア・レーベルから発売。「Shine On Silver Spoon」という爽やかなアップテンポの曲が、ディスコではまあまあのヒットになりました(米ディスコチャート32位)。ユニークなところでは、後にホイットニー・ヒューストンがカバーしてヒットさせた「Saving All My Love for You」のオリジナル曲も収録されています。

結局、金字塔の「星空のふたり」以降はさしたるヒットには恵まれず、夫婦(めおと)アルバムの制作はここでひとまず終了となりました。でも、妻マリリンさんの方は、名門UCLA(カルフォルニア大学ロサンゼルス校)出身という知性と美貌を生かし、80年代に米国で一世を風靡した音楽番組「Solid Gold」の司会を務め、人気を博しました。

ついでにマリリンさんは、そのまんま「Solid Gold」とタイトルをつけたソロアルバムを83年に発売します。そのシングル曲であるこれまたそのまんまの「Solid Gold」は、80年代らしく、フラッシュダンスみたいなわざとらしい盛り上がりを見せるけっこうなロックディスコで、私も当時はFM番組からカセットテープにエアチェック録音して、一人ウキウキ気分で聴いていたものでした。

このソロアルバムには、そのころ流行っていたヒット曲のカバーがいくつか収録されています。とりわけデビッド・ボウイメン・ウィズアウト・ハッツのヒット曲のメドレー「レッツ・ダンス〜セーフティ・ダンス」は、なんだかもっさりしていて変てこです。ここでちょいとずっこけてしまうわけですが、彼女の歌唱力は折り紙つきであるだけに、全体としては、アゲアゲで文字通りソリッドな内容にはなっているとの印象です。

この人たちのアルバムは長らく、CD化されていたとしても超レアものだったのですが、なぜか最近になって海外で次々とCD発売されています。上写真は前述のデビューアルバム「I Hope We Get To Love In Time」。まずは、このアルバムが基本になると思われます。

ブリック (Brick)

Brick今回は少々渋めに「ブリック」と参りましょう。腕っこきの演奏者や歌い手たちが結集し、70年代後半から80年代前半にかけて、ジャズとファンクをうまく調合した味わい深いディスコをいくつか発表しておりました。

1972年に米アトランタで結成した黒人男性5人組。地元でバンド活動をしているうちに評判となり、1976年、ポール・デイビスやニール・ダイアモンドが輩出したバング(Bang)というレーベルからデビューアルバム「Good Enough」をリリースしました。

そのアルバムの中に入っているシングル曲「Dazz」こそが、この人たちの最大のヒットであり代表曲です。文字通り、ディスコ(Disco)とジャズ(Jazz)をうま〜くメロウに融合させた逸品で、米ビルボードR&Bチャートで1位、米一般チャートで3位、米ディスコチャートで7位まで上昇しました。

ほかの曲群もしかり。サタデー・ナイト・フィーバーが公開になるまさに1年前、ディスコの可能性にいち早く目を付け、ディスコならではのシンプルでダンサブルなリズム構成を土台にしつつ、ホーンセクションやベースなどの基本楽器をきちんと取り込んだジャズファンクを展開しています。

ただし、なんといってもこの人たちの特徴は、「ぴーぴーひょろろ、ぴーひょろろ♪」と時折、響いてくる笛の音色にあります。奏者は、リードボーカルもサックスも器用に担当していたジミー・ブラウンなる人物で、「Dazz」の中間奏でもしっかり存在感を示しています。

ジャズ系フルートのディスコといえば、ハービー・マン、ボビー・ハンフリーあたりを思い出します。D.D.サウンドの「カフェ」とか、トランプスの「トランプス・ディスコのテーマ」とか、ヴァン・マッコイの「ハッスル」といったディスコのメジャーどころでも、フルートは不可欠な存在になっております。繊細な音ですので主役になることは少ないとはいえ、フルートは、地味ながら意外にアゲアゲな曲でも威力を発揮しているわけです。

さて、デビューアルバムがかなり好調だった彼らですけど、1977年に発売した2枚目「Brick」からは、R&Bチャートで2位まで上昇した「Dusic」というさらにフォンキーでディスクテックなヒット曲が生まれました。ここでも、ジミーさんのフルートが効果的に使われています。前半からドラム、ベースや吹奏楽器を軸にした重厚なうねうねファンキーぶりを見せつけつつ、「あれあれ?まだかな」と思ったあたりの中間奏で突如、「ぴーひょろろん♪!」と素っ頓狂に登場してきます。

けれども、こうした勢いもだいたいここらへんまでで終息です。その後も、「Stoneheart」(79年、ボズ・スキャッグスを手がけたビル・シュネーがプロデュース)、「Waiting For You」(80年)、「Summer Heat」(81年、「ゴーストバスターズ!」のレイ・パーカー・ジュニアがプロデュース)、「After 5」(82年)と、立て続けにアルバムをリリースしたものの、セールス的には下降線をたどり、あえなく「過去の人たち」に。

それでも、ありそうでなかった「Disco + Jazz」というコンセプトを初めて明確に打ち出した先駆者として、また華麗なる「フルート・ディスコ」の実践者として、なかなかインパクトがある活動ぶりだったとはいえましょう。ディスコらしい能天気かつおバカさんな要素はほとんど感じられないにしても、正統派の“ザ・ファンク・ディスコ”として一定の評価は得られると思います。

CDは各アルバムとも再発されています。写真は、4年前に英国のレーベルFunky Twon Grooveから発売された「Waiting For You」。アルバム全体がディスコ中心の軽快な内容になっている上に、あの「Dazz」と「Dusic」のロングバージョンもボーナストラックとして入っていてお得感があります。

トロピカル・ディスコの数々 (Tropical Discos)

1どど〜んとお盆に入りましたが、まだ大方暑さが続いております。夜半過ぎになっても近くの公園のアブラゼミたちが全力で鳴きまくって宴を楽しんでおりますので、今回はおもむろにトロピカルなディスコをいくつか。

まずはバート・バスコーン(Bart Bascone)!!いきなりお盆らしからぬド迫力な名前ですけど、曲調もけっこう積極的。彼が1979年に発表した左写真のディスコアルバム「ブルーハワイ・ディスコ」(Blue Hawaii Disco)の表題曲はハワイアン音楽をベースにした非常に珍しいディスコで、ウクレレをフィーチャーした軽快ビートが連なり、南国の心地よい潮風を感じさせています。

このアルバムには、「My Hawaii」という曲もあって、こちらはハワイアンミュージックの打楽器乱れ打ちの中間奏が小気味よい。ハワイアンとディスコの相性は特別良好というわけではないですけど、その試み自体は評価しておきたいと思います。ただし、あまりに珍盤で、CDは発売されておらず、レコードでもあまりお目にかからない変り種ディスコとなっております。

あと、南国ディスコの類いとしては、1970年代後半に出てきたリスコ・コネクション(Risco Connection)というグループもあります。以前にも少し紹介したレゲエディスコの系統でもかなりレアなグループ(それとこれあたりもご参照)。ニューヨークにあった人気会員制ディスコ「The Loft」の「ロフトクラシック」として知られるカリプソバージョンの「Ain't No Stoppin' Us Now」という代表曲があります。こちらは4年前、グループの12インチ音源集のCD「Risco Connection」(Musica Paradiso盤)が発売になっております。

この「Ain't No…」もそうですが、この人たちは既存のディスコのヒット曲をしっぽりとレゲエ(カリプソ)風にリメイクするのが得意でした。シックの大ヒット「グッド・タイムズ」やインナーライフの「アイム・コート・アップ」のカバーもやってます。いずれも、うんと激しく盛り上がるわけにはいかないにしても、のんびりとすまし顔で聞き流しつつ、気が向いたら手足や腰をくねくねと動かしてリズムに乗ってみたい、という人向けの曲調です。緩急自在なディスコワールドの中でも、極めて「緩」系のサウンドになっています。

さて、お次は下写真の「Disco 'O' Lypso」。プエルトリコのレコード会社Trans Airから4年前に発売されたCD。カリブの70年代後半を中心としたほとんど誰も知らないディスコ曲が収録された、ひなびた感じのコンピレーションになっています。しかし、「Disco」の単語が随所に出てくる上に、かなりファンキーな力作が多くて楽しめます。

もちろん、トレードマークのスティールドラムも、レトロなオルガンも、おとぼけ「ウホホホホホホ!」音でお馴染みのクイーカ(Cuica)も全開。幻惑のレゲエファンクであるタッパ・ズッキーの「フリーク」とか、ザ・ビギニング・オブ・ザ・エンドの名曲「ファンキー・ナッソー」のリメイク「Nassau's Disco」なんてゴキゲンな曲も入っています。

まあ、このあたりは基本的には70年代のソウル&ファンク&レゲエの正統派ですので、ディスコの真骨頂であるおバカさ加減についてはあまり望めないわけですが、とっても渋くて夏らしくて趣があると思います。世界のすみずみまで「DISCO」が行き渡っていたことを改めて実感する次第です。
Disco O Lypso

B. B.・アンド・Q. バンド (B. B. & Q. Band)

BB&Q「エッブリィバディ、ダンシン、エッブリィバディ、オンザビート♪」の軽快なサビが踊り心をくすぐる「On The Beat」でおなじみのB. B. and Q. バンドは、1981年に結成されたセッションミュージシャン集団のディスコグループ。86年に解散するまで、計4枚のアルバムを発表しましたが、やはりオンザビートが入ったファーストアルバム「The Brooklyn, Bronx & Queens Band」(写真)が代表作となりましょう。

そもそも、バンド名がバーベキューみたいで変テコなんですが、上記ファーストアルバムのタイトルをみてお分かりのとおり、米ニューヨークで黒人が多く住む下町の3地区を並べてグループ名にしたわけです。

これまで何度か登場したイタリア系ディスコの仕掛け人で、カリブ海グアドループ出身のジャックス・フレッド・ぺトラスがプロデュース。作曲や構成は、その相棒のキーボード奏者マウロ・マラバシ(Mauro Maravasi)が主に担当。

両人ともに、本拠地のイタリアとニューヨークを行ったり来たりしながら音楽活動をしていたため、70年代後半に頭角を現したメロディアスなイタロディスコと、電子音やエコーを多用した都会的で透明感のあるR&B音楽の要素を合わせ持った、ユニークなダンスミュージックを世に送り出していました。以前に紹介したチェンジやハイ・ファッション、それに今回のBB&Qバンドがその代表例になります。

BB&Qバンドの曲は、基本的にはチェンジに似た曲調ではありますけど、もっとダンサブルにアレンジした感じです。ほぼ無名のセッションミュージシャンの集団とはいっても、どれもぺトラスが高い金をつぎ込んで集めた腕利きばかりですので、リードをとるアイク・フロイド(Ike Floyd)をはじめとするボーカル、それに演奏もアレンジも非常にしっかりしています。同時期に大人気になったSOSバンドなどを手がけたプロデューサーコンビのジャム・アンド・ルイスの音作りにも近いものがあります。

81年発売のファーストアルバムからのシングルカット「オン・ザ・ビート」は、米ディスコチャートで3位、R&Bチャートで8位まで上昇するヒットとなりました。私自身、当時のディスコやFMラジオでよく耳にした曲で、相当なインパクトを持っていました。ほかにも、このアルバムにはMistakesとか、Starletteといった同系統のディスコの佳作が並んでいます。

ただし、この人たちはこのアルバム(特にオンザビート)でほぼおしまい。85年にかけてさらに3枚、ダンス系のアルバムを出しましたが、ファーストほどの話題にはならず、セールスもどんどん下降線をたどることになります。結局、86年にはあえなく解散してしまいました。

まあ、後に出た3枚とも、よくよく聴くと悪いわけではないのですけど、なんだかダズ・バンドとかコン・ファンク・シャンみたいな、このころ大量に出回っていたエレクトロファンクの色が強くなり、あのシャープでクールでアーバンな独自色が薄れてしまったのが残念なところです。トホホ。

…で、トホホといえば、BB&Qの仕掛け人のぺトラス氏が翌87年には何者かに殺されてしまうというおぞましい結末が待っていました。まことに珍しいぺトラス氏にまつわる専門サイトやCDライナーノーツや各種の資料を読みますと、もともとマフィアと関係があったとの噂が絶えない人物で、大名買いの音楽制作や贅沢三昧の生活が原因で巨額の借金も抱えていており、命を狙われた可能性が高いということです。あなおそろしや。

とはいえ、かなり前に紹介した米国のディスコ本「And Party Every Day」にも書かれていましたが、洋の東西を問わず、ディスコとマフィアはどこかで繋がっていたものです。あの「サタデー・ナイト・フィーバー」のジョン・バダム監督も、DVDの特典映像の解説の中で、「街中のディスコで撮影中、地回りマフィアからの用心棒の申し出を断ったら、そのディスコでボヤ騒ぎを起こされ、示談金を払った」と証言しています。日本もそう。お祭りとテキヤとの関係を見ても分かるように、大金が動く非日常の祝祭空間には、闇社会のかぶき者が暗躍する余地が少なからずあるわけです。

BB&QのCDはまずまず再発されております。BB&Qを中心としたぺトラス関連の作品が詰まった2006年発売の5枚組CDセット「Album Collection」や2011年発売の4枚組CDセット「Final Collection」(いずれもイタリア盤)などが網羅的でお勧めですが、新品の値段はどれも、ひと頃よりつり上がっています。円安、消費増税の影響を実感します。
プロフィール

mrkick (Mr. Kick)

「ディスコのことならディスコ堂」----本名・菊地正憲。何かと誤解されるディスコを擁護し、「実は解放と融合の象徴だった」と小さく訴える孤高のディスコ研究家。1965年北海道生まれのバブル世代。本業は雑誌、論壇誌、経済誌などに執筆する元新聞記者のジャーナリスト/ライター/翻訳家。もはや踊る機会はなくなったが、CD&レコードの収集だけは37年前から地味〜に続行中。アドレスは↓
mrkick2000@gmail.com

*「下線リンクのある曲名」をクリックすると、YouTubeなどの音声動画で試聴できます(リンク切れや、動画掲載者の著作権等の問題で削除されている場合はご自身で検索を!)。
*最近多忙のため、曲名質問には基本的にお答えできません。悪しからずご了承ください。
*「ディスコ堂」の記事等の著作権はすべて作者mrkick(菊地正憲)に帰属します。

Archives
検索してみよう!

このブログ内
ウェッブ全体
本業分野の著書!(Amazonリンク)


初証言でつづる昭和国会裏面史!
著書です!(Amazonリンク)


キーワードは意外に「ディスコ」。
TOEIC930点への独学法とは…
CDのライナーノーツ書きました(Amazonリンク)


たまには「ボカロでYMCA」。
キュート奇天烈でよろし。
訪問者数(UU)
  • 今日:
  • 昨日:
  • 累計:

最近の訪問者数(UU)

    Recent Comments
    blogramボタン
    blogram投票ボタン
    QRコード
    QRコード
    • ライブドアブログ