ディスコ堂 by mrkick

音楽に貴賎なし ―Discoの考察とCD批評

スペシャルズ

スペシャルズスペシャルズは、80年代前半、フロアの最高潮の盛り上がりタイムによくかかった。ただし聞いたのは「リトル・ビッチ(小さい悪魔)」のみ。一緒に「ワン、ツー!!」の掛け声を上げるのが約束事だった。2分半しかない超短い曲なのだが、かなり早いテンポなので、踊った後は疲れてしまったものだ。

アルバム自体の発売は79年なのだが、80年代に入ってもかなり長い間、ディスコで生き残った珍しい曲でもある。いわゆるスカ・ビートで、英国ではパンクと並んで若者(特に不良)に人気があったジャンルだ。スカはレゲエのルーツでジャマイカが発祥の地。70年代になって中南米から大量の移民労働者が入ってきたことを背景として、海岸部の工業都市を中心に広まっていった。

80年代には、ディスコに英国モノがあふれていた。スペシャルズだけではなく、パンク系もロック系もニューウェーブ系も全盛。やはりヤズーやデペッシュモードのようなテクノ系が強かったのだが、シンセ音をあまり使わないデキシーズ・ミッドナイト・ランナーズやビッグ・カントリーなんていう渋めのものもよく耳にした。

「ジャスト・ゴット・ラッキー」などのヒットがあるジョー・ボクサースなんてのも良かった。労働者階級の象徴であるデニムのオーバーオールを着て演奏していたニューウェーブロック系の人々である。いかにも英国の古い工業都市で生まれ育った若者といった風情。でも、踊りやすい曲が多かった。

スカにしろパンクにしろ、当時の英国が今以上に失業問題が深刻で、かつサッチャー政権下で階級格差もさらに広がった時期だからこそ、盛り上がった。英国とアイルランドとの宗教紛争もまだひどい時期だったし、なんか苛立ちがあったのだろう。でも、どこか反抗的な音は、ディスコでも受け入れられる素地がある。わけの分からない混沌とした闇と光の中で、皆でストレスを解消できる格好の場でもあるのだ。

ちなみに、スカ・レゲエ好きの米フロリダ在住の米国人の友人に言わせると、「スペシャルズはスカとはいえない」ときっぱり。本来は、もっとゆったりとした能天気な音なのだという。まあ、「何でもありのディスコ」ということからすれば、あまりに厳密なジャンル分けこそ、本来、野暮なことではあるが。


ロック・ザ・カスバ

ロック・ザ・カスバパンク王クラッシュはディスコでもなかなか人気だった。ビルボード・ディスコチャートで「ロンドン・コーリング」(80年)は30位、「ディス・イズ・レディオ・クラッシュ」(81年)は17位にまでそれぞれ上昇。そして82年はかの「ロック・ザ・カスバ」が8位に食い込んだ。ポップチャートでも初のベスト10に輝いた。

70年代の「白い暴動」のころみたいなもろパンクだったら、こんなに大衆受けはしなかったであろうクラッシュ。でも、路線修正はディスコ的には大正解で、私も「ロック・ザ・カスバ」をよくリクエストしたものだ。特に出だしのドラム、ギター、ピアノの掛け合いがすばらしい。

同じパンク王でも、さすがにセックスピストルズだとちょっときつい。いきなり「アナーキー・イン・ザ・UK」では、それこそアナーキーなフロアで暴動が起きかねない。個人的にも、あまりにやんちゃなシド・ビシャス(ピストルズのボーカル)より、適度に大人のジョー・ストラマー(クラッシュのボーカル)の方が好きである。2人とも今は故人になってしまったが。

それにしても良い時代であった。「クール&ザ・ギャング→シンディー・ローパー→マドンナ→ボビーO→ジャーニー→クラッシュ→スペシャルズ」なんてつなぎが、平気で行われていたのである。とてつもなく節操がないが、客が喜んでいたのだから、それでよかったのだ。

写真は「カスバ」が収録されているアルバム「コンバット・ロック」。一般受けを狙ったものだとして従来のファンからは不満も出た。バンドメンバーの仲もぎくしゃくしてしまった。これを気に主力メンバーが相次いで脱退して、第一期クラッシュは終焉を迎えてしまったのだが、私にとってはやはり、80年代前半の名盤の一つなのである。


バリー・マニロウ

バリー・マニロウ今回はアダルト・コンテンポラリー(アダコンとはいわない)の雄、バリー・マニロウだ。「哀しみのマンディ」みたいなバラードで有名ではあるけれど、ラテンノリの明るい曲が多いので、ディスコにも向く人だ。78年のヒット曲「コパカバーナ」は日本でもばか売れ。でも、詞の内容は「落ちぶれたショーガールが、昔の名声と恋人を懐かしむよ〜」としみったれたものである。

NYブルックリン生まれ。子供のころからピアノや作曲が得意だった彼は、音楽学校に通いながら、CBSレコードでアルバイトをしていた。あるディレクターから「ミュージカルの曲づくりを手伝わないか」と誘われて作曲したところ、そのミュージカルがヒットして、業界では多少知られるようになった。このときはまだ18歳。その後、ベット・ミドラーのツアー・ピアノマンをやるなど下積みを経験し、28歳のときの74年、「マンディ」でついにスターになった…というわけだ。

80年代に入ると大ヒットが出なくなったが、ディスコの佳作を出している。シンセを駆使して、曲調がめちゃめちゃポップになった。このころの代表曲「君は恋フレンド」(82年)、「君はルッキンホット」(84年)は、フロアの盛り上がりタイムによくかかっていた。でも、「君は恋…」の方はロングバージョンがなかったようで、かかってもすぐ終わってしまって、次の曲につなげられてしまっていたのを思い出す。

90年代になるとジャズに傾倒していったもようで、最近の音楽サイトなどでは、ジャズ・ボーカリストと紹介されていることもある。ちなみに93年には、コパカバーナのダンスバージョンのリメイクがリリースされたが、こてこてのハウスになってしまってて辛かった。

写真は3年前発売のベスト。コパカバーナの5分45秒のプロモ版ディスコバージョンが収録されているのが良かった。「ルッキンホット」も入っている。そのほかのバラードとかは私にとってはあまり関心はないが、「マンディ」だけは名曲だと思う。1曲目収録の「恋はマジック」(73年)は、ドナサマーが76年にディスコリメイクしヒットさせたことで知られる。それでも、全般的には、あのフリオ・イグレシアスにも似た「おばさん向けポップス」といった軽い印象である。





Con Funk Shun

コン・ファンク・シャン私にとって1980年代前半はディスコのストライクゾーンど真ん中。「レッドゾーンデビュー」からも何とか立ち直り、いよいよディスコ通いが本格化したころにあたる。一番よく聞き、よく踊った時代である。しばらくはこの時期にこだわってみたい。

前にも触れたが、本当にいろんなジャンルの曲が同じディスコでかかっていた。東京ではニューウェーブ系の新宿ツバキハウスとか、ソウル系中心のサーファーディスコ「ナバーナ」だとか、そこそこ分かれていたのだが、今に比べれば細分化されていなかった。特に、地元に何十カ所もディスコが林立することがない地方はそうだった。

私がいた札幌を含めて、地方都市のディスコでかかる曲は、東京とそれほど違いはなかったのだが、中でも勢いを増してきたのが、黒人ソウルの流れをくむブラックコンテンポラリー(ブラコン)と呼ばれたジャンルである。中でもノリの良いものはディスコ・ファンクなんて表現も使われていた。

ご存知EW&Fとか、ジャズファンクからポップ路線へとイメージチェンジしたクール&ザ・ギャング、レイパーカーJrあたりが代表格で、性能が上がってきたシンセを多用し、都会的な雰囲気を醸しているのが特徴。とりわけ、派手派手しいハイエナジーやアップテンポのロックの曲が続いた後や、開店直後、夜中過ぎの時間帯によく聞いた。

当時、ディスコで聞いた曲のレコードがほしくても、お金がないため、FMラジオから録音する「エアチェック」をしたり、「黎光堂」とか「YOU&I」のようなレンタルレコード屋でレコードを借りて、しこしことテープに録音したりすることも多かった。毎日、学校の帰り道にレンタル屋に寄っていたのだが、最初のころに借りたのが、これもブラコンの代表格コン・ファンク・シャン(CFS)だった。

CFSといえば80年の「タイトなあの娘」が有名だが、私のお気に入りは82年発売のMs. Got-The-Body(邦題:気分はライト)で、写真のベスト盤に収録されている。札幌のディスコでもよく耳にした。自分より少し年上の20代の人々に人気があったようだ。ビルボードのブラックチャートでは15位まで上がった。

7人の大所帯バンドではあるが、もうすっかりシンセやドラムボックスが音作りの主体になっている。それでも、もともと正統派ソウルレーベル「スタックス」の出身でもあるだけに、なおベースやギターは存在感を示しているし、楽器音同士が適度に離れていて主張し過ぎていないので、ボーカルがくっきり明瞭で迫力がある。

彼らはこの後、クールのイメチェンを手がけた売れっ子プロデューサーのデオダートにプロデュースを依頼して、大衆受けを狙ったものの失敗してしまう。だが、クール、ダズバンド、バーケイズ、ギャップバンドなどと並ぶメジャーなダンス系ブラコンバンドとして、ダンスフリークたちの記憶の中にはいつまでも生き続けているグループだ。

デュラン デュラン

デュラン デュラン私が「ディスコデビュー」したのは高校生だった1982年初頭。ちょうどイギリスの新進ニューウェーブ・グループ、デュランデュランがデビューしたころだ。

当時の住所は札幌近郊。既に中学のころから好きなディスコのレコードを集めていた私は、ディスコデビューをひたすら夢見る少年だった。

高校1年も終わりに近づいたころ、ついに友人たちとススキノのディスコに行くことになった。男中心に総勢10人ほど。田舎の中途半端なつっぱり少年だった私は、パーマのリーゼント頭にゴルフウエアみたいないでたちだった。上は真っ赤なトロイ(というブランド)のポロシャツ、下が黒のフレアー(と呼ばれるズボン)というもの。格好だけを見ると40代以上のおやじそのものだった。

入ったのは「生羅栗巣樽(なまらくりすたる)」という変てこな名前のディスコだ。当時、つっぱりの格好ではなかなかディスコには入れなかったのだが、そこはなぜか入店を許可してくれた。

友人たちと暗い店内に入ると、入り口付近で既に、奥のフロアの方から「ドスドス」とバスドラが響いてくる。耳を澄ますと、よく知っている音色が聞こてきた。メン・アット・ワークの「ノックは夜中に」だった。

いてもたってもいられない。私は友人たちと店の奥になだれ込んだ。まあ、なんてきらびやかなダンステリア!!。「クリスタル」ということもあって、ガラスの虎みたいな置物とか、金色のまがい物の装飾品みたいなものが随所に配置されている。まあ、今思うとダサいことこの上ないが、私はただ興奮していた。

しばらくは、フリードリンクの飲み物を取りに行ったり、聖子ちゃんカットの女の子を物色したり、店内をうろうろしていたのだが、そのとき突然、曲調が変わった。一世を風靡し始めていたデュラン・デュランの2作目(写真)に入っている「マイ・オウン・ウェイ」だ。

「行くぞ!!」と誰かが小さく掛け声を上げた。私たちは、タバコやらライターやらをテーブルの上に置いて、踊りに飛び出した。

いやあ、狂喜乱舞の異次元空間!踊りは適当、単にリズムに合わせるだけだったが、私はさらに舞い上がってしまった。フロアはさほど混んではいない。もみ上げを剃り、刈り上げにしたテクノカットの兄ちゃんが2人、七色のカクテル光線を浴びながら、向かい合って軽快に体をくねらせている。

そこはロック系の曲が中心のようだった。「アップサイド・ダウン」のようなブラコンもかかったが、フロック・オブ・シーガルズの「アイラン」のようなニューウエーブ、ニューロマンティックが多かったのを憶えている。もちろん、世界中でヒット街道をばく進していたデュラン・デュランは一番人気で、何度も繰り返しかかっていた。

ミラーボールの星の下、忘我の極地でしばらく踊っていると、友人たちが私を見て、けらけら笑い始めた。せっかく気持ちよく華麗なる宴に酔っているというのに、失礼な話ではある。「なによ!(注:北海道弁。女ことばのようだが、北海道では男がこう言う。東京だと「なんだよ!」)」と、私は怪訝な顔を友人たちに向けた。それでも、友人たちは笑い転げるばかりだ。

すると、「開いてるぞ!お前」と友人の一人が、嬉しそうに私の下半身を指差した。

…なんと、「社会の窓」が元気よく開いていたのである。あの一張羅ともいえる「赤のトロイ」のシャツのすそが、全開のファスナーの間から顔をのぞかせ、しっかり自己主張していたのだった。「みんな、みてみて!!」と言わんばかりに。ズボンが黒いだけに、その赤がいっそう目立っていたのが哀しかった。というより、むしろ消えて無くなりたかった。フロアの隅では、さっきちょっと目をつけていた女子が、くすくすとこちらを見て笑っているのが見えた…。

狂気の異空間で一人、現実に引き戻された私はその日、二度と踊らなかったことは言うまでもない。というか、とっとと家に帰りたかった。こんな恥、めったにかけるものではない。まさに、ほろ苦過ぎるディスコデビューであった。

以来、バイク好きでもあった悪友たちからつけられた私のあだ名は、「(全開バリバリ)レッドゾーン」ということになった。

ドナ・サマー (Donna Summer)

ドナ・サマー「どなたさま〜?」のドナ・サマーについて語りたい。元祖ディスコ・クイーン!!!最近、早くも息切れしつつあるも、投稿数なんとか30回超えたことだし。

以前にも「カサブランカレコード」の欄で触れたが、ばか長い17分バージョンの75年発売「ラブ・トゥ・ラブ・ユー・ベイビー」(写真)でディスコのスターダムにのし上がったわけだが、80年代に入るとさすがに勢いが衰えた。今では12インチが1万円ぐらいする「プロテクション」とか、MTVで流れた“女性労働賛歌PV”が印象的だった「シー・ワークス・フォー・ザ・マネー(邦題:情熱物語)」とか、なかなかのヒット曲を出しているのだが、ビルボードで1位を立て続けにとっていた頃とは様変わり。地味になったのは否めない。

そんな中、83年に一つの事件が起こった。米国内で開かれたあるコンサートでの彼女の発言が物議を醸し、イメージを大きく損ねたのである。内容は「エイズは、乱れた性を実践してきたゲイに対する神の天罰である」というもので、各メディアに紹介されてしまった。これをきっかけに、ゲイピープルから猛反発を食らってしまったのである。

米国では、ディスコは言うまでもなく、ゲイ文化と深いつながりを持つ。70年代中期、快楽主義的かつ刹那主義的なディスコは、ベトナム戦争や失業増大によって疲弊した米国人を再び陽気にさせたのだが、もう一つ、人種や同性愛を含めた「解放」をもたらしたことも重要な功績だったのである。

「何でもあり」のディスコで、ダイアナ・ロスのヒット曲「アイム・カミング・アウト」よろしく、ゲイたちは堂々と自己主張しはじめた。ディスコヒットを飛ばしたゲイ系の歌手やプロデューサーは、シルベスターやダン・ハートマンなど数知れない。ゲイは、黒人たちとともに、ディスコを支えてきた立役者だったわけだ。そんな大切なファン層に対して「天罰だ」などと言うことは、とんでもないことだった。

ドナサマーは後日、この発言を「言っていない」と否定したのだが、米国の複数のメディアが報道していることや、問題のコンサートの観客による詳細なルポがネット上に流れていることなどから、「やはり本当だった」とされているようだ。即座に名誉毀損などの法的措置を起こさなかったことも「やはり怪しい」と言われる根拠になっている。

あるにはあるものの、人種差別や同性愛差別が巷の大きな話題にならない日本では考えにくいが、キリスト教国家の米国では「ゲイ差別」は大問題になる。先の大統領選でも、家族の価値観や性の倫理は争点になっていた。

80年代の米国といえば、70年代の民主党優勢の時代が終わり、かの「ハリウッド西部劇男」のレーガン大統領の時代に入っていた。米国が大きく保守に傾いていた時代なのだ。ちょうどディスコが衰退し、ロック系やブリティッシュ系の新しい波が現われたのと軌を一にしている。

落ち目のドナサマーはこのころ、大ヒット曲が出なくなったばかりではなく、カサブランカとの契約トラブルや離婚問題などでかなり精神的に参っていた。保守的なキリスト教にのめりこみ、救いを求めていった時期だった。

ドナは、共和党支持者が好むこてこてのキリスト教番組に出演して歌ったり、公の場で宗教的発言を繰り返してみたり、民主党支持者からみれば「変節」の度合いを強めていたのである。ゲイは民主党支持者が多いから、「裏切られた」との思いを募らせていた。そこに出てきたのが、「ゲイ差別発言」だったのである。

発言の真偽はともかく、ディスコ隆盛期に「行き過ぎた」自由な倫理を逆側に戻そうとの動きが、音楽業界だけではなく、米国社会全体に出ていたのは事実なのだ。

私自身は、「性倫理の乱れ」があろうがなかろうが、そんなことは知ったことではなく、「陽気でおばかなディスコ大賛成」。ドナ・サマーだって今でも大好きなのだが、一つのムーブメントにまでなってしまうと、いろんなサイドから注目され、圧力がかかるようである。政治的なにおいが漂ってくると音楽は途端につまらなくなる。けれども、映画もそうだけれども、エンターテイメントに特定の思想や意図が込められ、アーチスト像が何だか歪んで見えてくることがあるのは確かである。ドナはディスコを象徴する存在だっただけに、そんなしがらみが、よけいに際立って見えてしまうのだ。

マイケル・ゼーガー・バンド

マイケル・ゼーガー・バンド日本盤のディスコものCDは確かに音は良いのだが、コレクター的な集め方をしていると、やはり物足りなくなってくる。2000枚も3000枚も物好きで集めていれば、それも仕方ないと思うのだが、このCDは別である。

何でこんなCDが出たのか、今だにちょっと不思議なくらい。いや、本当にうれしかったのである。もう6年くらい前になるが、安易なジンギスカンとかEW&Fではなく、日本盤できちんとした再発ディスコCDが出たのを知って、即買いしてしまったのを憶えている。レーベルはなんとテイチク。昔は得意の演歌だけではなく、こうしたディスコも手堅く発売していたのである。

黒鉄ヒロシ画のジャケットで知られる「レッツ・オール・チャント(邦題チャンタでいこう!)=1978年」のロングバージョンだけではない。マイケル・ゼーガーが手がけたホイットニー・ヒューストンの母シシー・ヒューストンのディスコヒットThink It Overのロングが入っているのがうれしい。ほかの曲もかなりオススメだ。

それにしても「チャンタ」は良い。ディスコの曲が流れる映画でもしょっちゅう使われている。「フー!フー!」の掛け声よろしく、典型的な「おばかディスコ」全開なのである。もちろん踊りやすさも文句なし。マイケル・ゼーガーはその後まともな音楽人となって、今ではアメリカの音楽大学の教授なんぞをしているらいが、この時代をぜひとも恥じないでいてほしい。




Mickey Mouse Disco

Mickey Mouse Discoミッキーマウスは1979年にディスコデビューした。ジョン・トラボルタ風のいでたちでジャケットに登場し、保守的なディズニーファンからは猛烈な非難を浴びたという。しかし、異色盤としてたちまち人気となり、全米で売上げ100万枚を超す「プラチナアルバム」となった。

ディズニーは、ディズニーランドのアトラクションでかかっているようなダンス調の曲を多数、制作しているが、「ディスコ」は後にも先にもこの1枚だけである。代表曲の1曲目「ディスコ・ミッキー・マウス」では、イントロから安っぽいシンセサイザーパーカッションが炸裂し、続いて正統派女性ボーカルが「ミッキーマウスはダンスフロアの人気者。女の子がキャーキャー騒ぐ!」みたいな歌詞を歌い上げるというパターンだが、ノリは非常によろしい。

ほかにも、ドナルドダックの実物(の声)が登場する「マッチョダック」、スティービーワンダーのダンス系の名曲「アナザー・スター」を思い起こさせるラテンディスコ「ウエルカム・トゥー・リオ」、「チム・チム・チェリー」のもろオーケストラディスコ・バージョンなど、聞き所がけっこうある。有名な「イッツ・ア・スモール・ワールド」のファンク版みたいのも入っているが、これはいまひとつである。

オリジナルのLPは日本でもたまに中古盤で目にするが、写真の95年発売の再発CDは、入手困難になってきている。ディスコとディズニーの双方のコレクターがこぞって探し回っているようである。米アマゾンで中古販売しているのを見かけるものの、6000円〜1万円もする。

ただ、その米アマゾンに投稿されているレビューを眺めていると、30代ぐらいの多くの人が懐かしがってこのCDを購入していることが分かる。10以上あるレビューの「☆」の数は、なんとすべてが満点の5つ。米国人のディズニーへの崇拝ぶりを垣間見る思いだ。

セローン (Cerrone)

Cerrone 3久しぶりの投稿である。気合を入れて紹介したいのは、70年代中期から活躍していたこのCerrone(セローン、セローニ)。典型的なディスコ音楽の源流を作ったといえる人なのである。ディスコという意味では地味な国のフランスの人でありながら、シンセサイザー音をいち早く取り入れて、後の欧州系ディスコや、ひいては現在に通じるテクノの流れを作った偉人だと私は思っている。

彼の代表曲は、Love in C Minorと写真のアルバムに入っているSupernatureの2曲。特に後者は、77年の発売ながら、既に電気音の長所をあますところなく採用した名曲だ。シンセ技術が未熟な時代、例えば各楽器音をシンクロさせることが技術的に非常に難しかったにも関わらず、シンセ、ボーカル、効果音などが見事に調和している。曲調はやや神秘性を帯びた緩やか系。BPMは120ぐらい。何度も何度も採りなおしながら録音したと思われる労作なのだ。今のクラブでも十分、使えることうけあいである。

発売から5年近く経った81〜82年ごろになっても、私の地元だった札幌のディスコでは、盛り上げ時間帯が終わり、一息ついた時間にふとかかっていた。当時、同様にディスコヒットを飛ばしていたゲイリーズ・ギャングとか、英国初期テクノダンスの雄であるヒューマン・リーグなんかと一緒にかかっていたのを思い出す。

さて、やっぱり70年代ものだけに、12インチのアナログやLP盤は入手が困難になってきている。まずはCDをオススメしたい。Hot Production盤とMaligator盤の2種類が出ている。Hot…はたいてい音が良くないのだが、この盤はまずまずの線を行っている。CDジャケのうたい文句の通り、マスターテープが入手できた例なのだろう。例によって2、3曲目とつながっているのだが、非常に自然で無理がない。つなぎ部分も聞き所になる。

ただ、一つ難点がある。CDはいずれも、なんと肝心のSupernatureが冒頭、LPのものと比べて30秒ほど切れているのである。何でなんだろう?理由は私にも分からないが、残念なことだ。完全10分超バージョンは、Atlantic Dance ClassicsというダンスコンピCDにのみ収録されている。米アマゾンで比較的、たやすく手に入るのでチェックしてみていただきたい。

Cerroneは息の長いアーチストで、現在までアルバムを何十枚も出し続けていることでも知られる。新作のHysteriaは、かつてのディスコのテイストをしっかり生かしていて感心だ。同じように最近、ハイエナジーのBobby Oも新作を出したが、音はいかにも現代に媚びていて(テクノあたりを意識しすぎ…)私は違和感を覚える。Cerroneは良い意味でこだわりがあって好きだ。ジャケットもかつて以上にエロくなっているし(?)、健在ぶりをアピールしているかのようである。

Dee Dee Bridgewater

Dee Dee Bridgewater本業が忙しくて久しぶりの投稿なのだが、Dee Deeのこのアルバム「バッド・フォー・ミー」から再開したい。70年代ディスコの中でも5本の指に入ると私は思っているのである。

この人はジャズシンガーとして知られた存在だ。まあ、歌唱力は文句のつけようがない。もちろん、例えば、アレサ・フランクリンやパティ・ラベルには負けるかもしれないが、非常に迫力があるのだ。私などは彼女の声を聞くたびに「ジャズとかゴスペルの人って、70年代ディスコに合うよなあ」って思う。

ご他聞にもれず、「ブームだったのでディスコやっちゃいました」系ではある。アルバムタイトル曲は彼女の唯一のディスコヒット。しかし、時は既にディスコ下火直前の79年春、チャートは最高72位だった。

しかして、この曲の魅力は彼女の声だけではない。ピアノがものすごくよろしいのである。軽快でフュージョンっぽくて都会的でねえ。そう、あの「シャイン・オン」(ディスコ的には代表曲)のジョージ・デュークなのであった。当時出始めたヤマハの電子ピアノの鍵盤を縦横無尽に叩きまくって、ことごとく「躍らせる」のである。

このアルバムのほかの曲もけっこう良い。CDは輸入だと送料込みで1500円くらいで入手できる。典型的な「ディスコinジャズ」を堪能してほしいと思う。

ちなみに、「バッド・フォー・ミー」はこのアルバムでは5分半だが、ロングバージョンだと8分半あって、ジョージのピアノが長ーく聞けてさらに素敵だ・・・いずれ紹介したいと思っているが、このバージョンは唯一、Give Your Body Up/Vol.1というライノレーベルのCDに収録されているのでご注目を。たまにアマゾンで中古で手に入る。




プロフィール

mrkick (Mr. Kick)

「ディスコのことならディスコ堂」----本名・菊地正憲。何かと誤解されるディスコを擁護し、「実は解放と融合の象徴だった」と小さく訴える孤高のディスコ研究家。1965年北海道生まれのバブル世代。本業は雑誌、論壇誌、経済誌などに執筆する元新聞記者のジャーナリスト/ライター/翻訳家。もはや踊る機会はなくなったが、CD&レコードの収集だけは37年前から地味〜に続行中。アドレスは↓
mrkick2000@gmail.com

*「下線リンクのある曲名」をクリックすると、YouTubeなどの音声動画で試聴できます(リンク切れや、動画掲載者の著作権等の問題で削除されている場合はご自身で検索を!)。
*最近多忙のため、曲名質問には基本的にお答えできません。悪しからずご了承ください。
*「ディスコ堂」の記事等の著作権はすべて作者mrkick(菊地正憲)に帰属します。

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