ディスコ堂 by mrkick

音楽に貴賎なし ―Discoの考察とCD批評

ショー・ナフ (Sho-Nuff)

Sho Nuffいやあ天気もたぶんよさそうだし、あしたは富士山に行こう!……というわけで、今回は息抜きに「ショー・ナフ(Sho-Nuff)」と参りましょう。

う〜ん、正直困りました。左写真のレコードジャケットを見てもおわかりの通り、確かにホントは「いくぶん陽気なおじさんソウルディスコ」の人たちであると思うのです。でも、その笑顔の裏に隠されたとて〜も恥ずかしい一面についても、ここでは触れなければなりません。

まずはこの人たちの素性について。アメリカ南部のサザンソウル音楽の本場であるミシシッピで結成された5人組ファンクバンドで、Sho-Nuffとは、英語の「そんで案の定」とか「いやはや思ったとおりに」などの意味を持つ「Sure enough,...」の黒人スラングの発音形です。ディスコブーム絶頂期の1978年、サザンソウルの中心レーベルであるスタックス(Stax)から「From The Gut To The Butt」というデビューアルバムをリリースしました。

続いて1980、82年には、同じくサザンソウルの発信源だったMalacoレーベルから「Tonite」と「Stand Up For Love」というアルバムをそれぞれリリース。しかし、これ以降はすっかり音沙汰がなくなってしまいました。

3枚のアルバムともに、情感豊かに歌い上げるバラード群を主軸に置きつつ、「Tonite」や「Smile」みたいにファンク/ディスコの雰囲気にも溢れていて相当に楽しめるのですけど、ヒット曲は皆無。78年に「I Live Across The Street」(米R&Bチャート93位)、「What Am I Gonna Do」(81年、82位)というバラードが下位にチャートインした程度です。

ところが、本国で行き場がなくなってしまった直後の1983年のこと、世にも不思議なディスコシングルをなんと日本で秘かに発売していたのです。邦題は、のっけから意味不明な「ヤキ!ヤキ!不思議な媚薬」(洋題は「Yakki Yakki」=今ならeBayでちょっと視聴可能)となっております。

この曲は、ずいぶん前に紹介した「ディスコ歌謡」CDシリーズのキングレコード編に収録されておりまして、あらためて聴いたところ、曲調は一般的なファンクディスコの風情でありながら、歌詞内容はやっぱり奇妙奇天烈摩訶不思議、抱腹絶倒笑止千万なお気楽ぶり。イントロから「イ〜モ〜、イシヤキ〜モ〜。ハイッ!イラシャイマセ!ドモドモ!ヤキ、ヤキ、ヤキ、ヤッキイモ〜〜〜♪」てな調子で脱力必至の「変なガイジン日本語」がぽんぽん飛び出します。

ついでに、「フジヤマ、ゲイシャ、スキヤキ、ギュウドン」などなど、まったくやきいもに関係のない単語まで容赦なく降り注ぐ有様。もうせっかく渋くてゴスペルフレーバー満載のサザンソウルなグループだったのに、正真正銘のおちゃらけディスコバンドに変貌してしまったわけです。

もっとも、70年代から80年代半ばにかけて、お笑い和製ディスコはけっこう世に出ておりましたから、こんなことも不思議ではありません。特に、同じキングレコードからは、同様に落ち目だったサザンソウルのグループ「エボニー・ウェッブ(Ebony Webb)」の「ディスコお富さん」という猛烈におバカさんな最高傑作が1978年にリリースされて、かなりヒットしましたし。ディスコの真髄「なんでもあり精神」からすれば、むしろ大歓迎の展開だったといえるかもしれません。

それにしても、サザンソウルから「やきいも」とはあまりにも哀しい。どんな誘い文句ではるばる日本に出稼ぎにやってきて、どんな気持ちでレコーディングに臨んだのでしょうか。私も聴いていて最初は大笑いしてましたけど、やがて涙が止まらなくなってしまいました。

この人たちのCDは、ときどき思い出したように発売されます。上写真は、最後の3枚目アルバム「Stand Up For Love」をあしらった96年発売の国内P-Vine盤で、「Stand Up…」とその前の「Tonite」の全曲が1枚のCDに収録されています。最近、この2枚のアルバムが再び日本から紙ジャケット仕様でCD発売されていますが、またすぐにレア化して、忘却の彼方へと旅立つことでしょう。

パトリース・ラッシェン (Patrice Rushen)

Patrice Rushenいやあ、いつもながら唐突です。今回は極めて正統派の女性R&Bアーチスト、パトリース・ラッシェンとまいりましょう。

左写真は82年発売の代表的アルバム「Straight From The Heart」です。邦題はなんと「ハート泥棒」! そんなきゃわゆ〜いタイトルをひっさげ、ちょいと往年の南沙織(古い)ばりのアイドル顔で登場しているのですが、実は幼いころからジャズピアノの天才少女として騒がれ、ギターもパーカッションも難なくこなしたという、相当に伊賀流忍者な手だれ演奏家だったのです。

代表曲は、なんといってもこのアルバムに入っているダンスチューン「フォゲット・ミー・ナッツ(Forget Me Nots)」(全米R&Bチャート4位、一般23位、ディスコ2位)。イントロ途中でやおら始まるハンドクラップと「ピン、ピン、ピン、ピン♪」という律儀なおとぼけ電子リズムが印象的でして、かなりの人が一度は聞いたことがある旋律と思われます。

1954年、米ロサンゼルス生まれのパトリースさんは、音楽好きの親の影響で5歳のときにクラシックピアノを始めて、高校時代にジャズに開眼。10代後半でメジャーなジャズフェスティバル(Monterey Jazz Festival)のピアノソロ部門に出場して見事優勝し、すんなりとレコードレーベルとの契約を果たします。

1974年のデビューアルバムを含めてジャズのアルバムを3枚出してヒットさせた後、ジャズレーベルからメジャーのエレクトラ(Elektra)・レコードに移籍。78年に「Patrice」という雰囲気を変えた一般向けR&Bアルバムを発売して以降、別のレーベルに移った84年まで計5枚のアルバムをエレクトラから出しました。その楽曲のほとんどは、彼女自身の作によるものです。

この5枚とも、ディスコフロアを意識した内容になっているところが大いなるプラスポイント。お得意のジャズ・フュージョンの雰囲気を濃厚に映しながらも、それ故にこじゃれたダンスチューンが満載になっております。「フォゲット・ミー」以外では、アップテンポでぴょんぴょん飛び跳ねる感じの「Haven't You Heard」(79年、R&B7位、一般42位、ディスコ5位)、軽快なベースラインとサビのコーラスが印象的な「Never Gonna Give You Up」(80年、R&B30位、ディスコ2位)、スローテンポにも合うリズムマシンの名機TR808を駆使した「Feel So Real」(84年、R&B3位、一般78位、ディスコ10位)などがあります。

ただし、アルバムの邦題は、78年から順に「妖精のささやき」(英題:Patrice、78年)、「陽気なレイディ」(Pizzazz、79年)、「おしゃれ専科」(Posh、80年)、「ハート泥棒」(Streight From The Heart、82年)、「夏微風〜サマー・ウインド」(Now、84年)てな具合に、ことごとく夢見る乙女の脱力系です。やはりかなりのアイドル扱いだったのですね。

この5枚の曲調やジャケットのデザインは、「踊らば踊れ、天まで昇れ」の80年前後の能天気ディスコ&ポストディスコ期を反映しており、以前に紹介したイブリン・キングステイシー・ラティソウステファニー・ミルズデニース・ウィリアムスあたりと似たところがあります。

でも、こうした人たちはあくまでもボーカリストとして勝負していたのに対し、パトリースさんはピアノを軸としたミュージシャンとして売り出していた点に違いがあります。…というわけで、ボーカル力については「いま一つ!」との声もありましたが、本当は別にアイドルではなく、小柄な体つきにふさわしい可憐な風情の歌声は、まずまず及第点に達していたと思います。

80年代半ばにはエレクトラからアリスタ・レコードに移籍。ここでは、ジャネット・ジャクソンみたいな歌とPVに果敢に挑戦したものの、ちょいとミッキーマウスみたいな踊りでずっこけてしまいそうな「Watch Out !」(87年、R&B9位、ディスコ22位)というダンストラックをリリースしました。

また、チャート上位には入らなくても、重量ファンクに挑んだ「The Funk Won't Let You Down」(「おしゃれ専科」より)とか、パトリース自身による上品なジャズピアノの旋律が心地よいインスト曲「Number One」(「ハート泥棒」より)とか、珍しく少々シャウト気味に歌う「Break Out」(同じく「ハート泥棒」より」)、スロー系の「Remind Me」(またしても「ハート泥棒」より)などなど、ピーク時間帯から真夜中過ぎのスモールアワーズまで、あまねくフロアを彩る佳作がけっこうあります。

80年代中盤以降は、ヒットを量産する単独アーチストとしてはさすがに勢いを失っていったパトリースさん。それでも、若いころからの実力者ゆえに、リー・リトナーやビル・ウィザーズ、ハービー・メイソン、クインシー・ジョーンズ、カルロス・サンタナといったジャズ・フュージョン界の大物らとの親交が深く、ジャズのセッションミュージシャンや作曲家、音楽監督としての活躍は続きました。ソウル音楽の海外著名ウェッブサイト「SoulMusic.com」でのインタビューによると、これまで制作に関わったアルバムは計1,000枚近いといいますから驚きです。

それに、ディスコ時代から良作が多かったため、後年にはサンプリングされることも非常に多かった人です。だからこそ、多くの人の耳に残る旋律が多いともいえます。特に「フォゲット・ミー」は、ウィル・スミス主演の大ヒット映画「メン・イン・ブラック」(97年公開)のテーマ曲に使われたことでも知られます。

しかも、現在はなんと名門バークレー音楽大学の教授というご身分。ディスコ時代にはた〜っぷり茶目っ気を見せたとはいえ、最終的にはジャ〜ズに回帰し、まさに多芸多才の正統派音楽家として王道を歩んだのでした。

CDについては各アルバム、ベスト盤ともに、R&B時代を中心に豊富に出ております。中でも下右写真の英国Edsel盤2枚組CDは、エレクトラ時代の70年代後半に発売した3枚の全曲と12インチバージョンが網羅されていてお得感があると思います。このシリーズは2作ありまして、「ハート泥棒」など80年代前半のアルバム2枚の全曲と12インチバージョンを収録した2作目を入手すると、エレクトラ時代の5枚がすべて聴けるという趣向になっています。

Patrice Rushen2

スティービー・ワンダー (Stevie Wonder)

Stevie Wander今回はやぶから棒にスティービー・ワンダー! 前回登場のスターズオン45にも真似されるぐらいですから、芸歴は長く知名度抜群。ヒット曲はべらぼうな数です。

スティービーは1950年、米ミシガン州に生まれ、間もなくデトロイトに移りました。未熟児で誕生したことが原因で盲目となりましたが、幼少期に音楽に目覚め、黒人教会のゴスペルコーラス隊に参加します。9歳までにはピアノ、ドラム、ハーモニカを習得。もちろん歌もお上手。視覚を補って余りある天才少年ぶりを発揮します。

11歳のとき、地元デトロイトに誕生したばかりのモータウン・レコードの関係者に発掘され、すぐにデビュー。「リトル・スティービー・ワンダー」と銘打って大々的に売り出され、63年、尊敬するレイ・チャールズやサム・クックを意識したダンスナンバー「フィンガーチップス(Fingertips)」が米ビルボードチャートのポップ、R&B部門で堂々1位を獲得。これをスタート地点として、60年代から2000年代に至るまでヒットを量産し続けています。

そんなわけで、ソウル界ではトップクラスの大御所になるわけですが、ディスコへの貢献度も絶大でした。実は、彼はピアノからドラム、ベース、ギター、ハーモニカまでこなすマルチインストゥルメンタリスト(多楽器奏者)だった上に、以前に紹介したジャズ畑のハービー・ハンコックと同様、いやそれ以上にシンセサイザーに代表される新技術の導入に積極的な先駆者でした。「新しもの好き」の本領を発揮し、ブームが来る前に「ディスコっぽい曲」も発表していたのです。

まず、1966年には、誰でも耳にしたことがあるであろう「アップタイト」という曲が大ヒット(ビルボード一般3位、R&B1位)。これは完全にダンスフロアを意識した曲調で、あのモータウン独特の跳ね上がるようなドラムビートが特徴になっています。同じ時期にヒットしたマーサ・アンド・ザ・バンデラス「ダンシング・イン・ザ・ストリート」(64年、ビルボード一般2位)などと並び立つ「モータウン・ダンスビート」の代表曲といえます。後の時代には、ワム「フリーダム」やバネッサ・パラディス「ビー・マイ・ベイビー」などでもみられたビート展開ですね。

70年代に入ると、音楽会社側からの提供ではなく、自分自身で手がけた曲が多くなり、キャリアとしてもピーク期を迎えます。後に「君の瞳に恋してる」で知られるボーイズ・タウン・ギャングもリメイクした「Signed, Sealed, Delivered I'm Yours(邦題:涙をとどけて)」がビルボードR&Bチャート1位に輝く大ヒットを記録したのに続き、72年にはアルバム「Talking Book」の収録曲「迷信(Superstition)」が、ビルボード一般、R&Bチャートでともに1位を獲得しました。

特に「迷信」は、いくつかのリズムを混合した「ポリリズム」と呼ばれる複雑な曲調がベースになっており、まだ目新しかった電気キーボードのクラビネットの音色がぴょんぴょん飛び回る、まさに時代を画する一作。欧米を中心に芽吹いてきたディスコのフロアにも新風を吹き込んだのでした。

さらに、1974年に発表した大ヒットアルバム「Fullfillingness’ First Finale(ファースト・フィナーレ)」では、ジャクソン・ファイブポール・アンカ、それに当ブログでも紹介済みのミニー・リパートンデニース・ウィリアムスという「超絶高音系」の二大ソウル女性歌手が参加するという豪華ぶり。まだ20代半ばだというのに、既に大御所の貫禄を醸しています。

「Fullfilingness'…」の後、2年間の準備期間を経て、1976年に発表した2枚組アルバム「Songs In The Key Of Life(キー・オブ・ライフ=写真)」はもう、無敵の“良曲百貨店”状態。最高傑作といってよいと思います。デューク・エリントンに捧げた「Sir Duke(愛するデューク)」(一般1位、R&B1位、ディスコ2位)、わが愛娘に捧げた「Isn't She Lovely(可愛いアイシャ)」(ディスコ2位)、自らの幼少期を振り返った「I Wish(回想)」(一般1位、R&B1位、ディスコ2位)、いま聴いてもめちゃくちゃ盛り上がってみんな踊り出すこと必定の「Another Star(アナザー・スター)」(一般32位、R&B18位、ディスコ2位)といった具合に、どれもフロアキラーになりうる名曲ばかりです。

この後、ディスコブーム真っ只中の79年には「Journey Through The Secret Life Of Plants(シークレットライフ)」という一風変わった2枚組アルバムを発表。もともとドキュメンタリー映画のサントラに使う予定で制作されたこともあり、インストィルメンタル曲が中心で、なんだかコワくて奇妙な雰囲気です。

それでも、例えば1枚目B面収録のエレクトロディスコ「Race Babbling」などは、ミニマルでスペーシーでハウス音楽的な面白さがあると思います(ちょっと入ってるスティービーのボコーダーの声がハービー・ハンコックみたいだが)。2枚目B面「A Seed's A Star And Tree Medley」もディスコ系。それと、1枚目A面には、「Ai No Sono」という日本人の子供たちが合唱で参加している変てこな曲も入っています。

惜しむらくは、この「大ディスコ祭り」の期間中、リリースされたアルバムがこの1枚だけだったこと。各楽曲をじっくりと熟成して仕上げる職人肌のスティービーらしさゆえかとも思いますが、どうせならスティービー流のもっとポンポコポンな「もろディスコ」アルバムを出して欲しかった気もします。

さて、80年代に入ると、大方の予想通り、シンセサイザーが縦横無尽に駆け回る曲が目立ってきます。80年発表のアルバム「Hotter Than July(ホッター・ザン・ジュライ)」からは、「ズンチャ♪ ズンチャ♪」とのんびりレゲエ的展開の「マスター・ブラスター」(一般5位、R&B1位、ディスコ10位)がおもむろに大ヒット。また、68年に暗殺されたマーティン・ルーサー・キング牧師に捧げた収録曲「ハッピー・バースデー」が、そのまんま世界のダンスフロアの「お誕生日おめでとうアンセム」となっております。

このほか、80年代には、ディスコ的にいうと「That Girl」(82年、一般4位、R&B1位、ディスコ27位)「Do I Do」(82年、一般13位、R&B2位、米ディスコチャート1位)とか、めくるめく愛の賛歌「I Just Call To Say I Love You」(84年、一般1位、R&B1位)とか、高速テンポで目が回る「Part Time Lover」(85年、一般1位、R&B1位、ディスコ1位の3冠達成!!)とか、「Go Home」(85年、一般10位、R&B2位、ディスコ1位)、「Skeltons」(87年、一般19位、R&B1位、ディスコ20位)といった代表曲が生まれました。

特に、「I Just Call...」と「Part Time Lover」については、当時のフロアでも相当に耳にした定番曲で、セールス的にも絶好調だったわけですが、かつては濃厚に見られた政治的メッセージ性やソウル性は、かなり後退していきました。つまり、このあたりから「ゴーストバスターズ」のレイ・パーカーJrのごとく、80年代らしく商業的に「いけいけどんどん」になっていった模様です。まあ、それまでの功績を考えれば、ある程度は「やり尽くした感」が出てきても仕方がないとは思いますが。

同時代を生きたソウル界の大立者である故ジェームズ・ブラウンや故マイケル・ジャクソンと比べても、スキャンダルとは無縁で、非常に穏やかで朗らかな人格者とされるスティービーさん(昔から日本のテレビ番組にもよくニコニコ顔で出てたし。そんで10年ちょっと前には日本の缶コーヒーのCMにも出てたし)。ディスコからクラブミュージックへと移行した90年代以降も、昔ほどの勢いはないものの、コンスタントにヒットを出し続けております。幼くしてスターになったため、長〜いキャリアながらもまだ60代前半という若さでもありますので、これからもますますのご活躍を祈念いたしたく存じます。

スターズ・オン・45 (Stars On 45)

Stars On 45今回は「ディスコ好きなら一度は通る道」、「ショッキング・ビートルズ」でおなじみのスターズ・オン45で〜す。

1970年代末、オランダで結成された無名のセッションミュージシャン集団。音頭を取ったのは、かつて当ブログの「ロックなディスコ」でちょっと取り上げたオランダの老舗人気バンドのゴールデン・イヤリングの元ドラマー、Jaap Eggermontなる人物です。ポール・マッカートニーやジョン・レノンに声がそっくりのボーカルを探してきて、にわか作りのつぎはぎビートルズ・ヒットメドレーをリリース。アーチストの創造性ではなく、「これやったらウケるんじゃね?」のノリで実現した典型的な企画モノです。

えっ?「いかがわしくて、いかさまで、インチキ」だって?…その通り!でもそんなまがい物精神こそが、「なんでもあり」ディスコ文化の真髄です。しかつめらしく「ゴホン! ええ、そもそもディスコとは…」なんて理屈を説いては元も子もありません。ディスコとは、はっちゃけたおめでたさが命。虚実の皮膜を渡りきる、けだし勇敢な試み――「考えるな、感じろ(いやむしろ踊れ)!」なのであります。

ヒットメドレー・ディスコ自体は、それまでもシャラマーリッチー・ファミリービーチボーイズ・メドレーで知られるシー・クルーズ(Sea Cruise)といった数多くのアーチストが手がけているので、特別新しいわけではありません。でも、それらはあくまでも新たなアーチスト自身の声で歌うメドレーであり、「モノまね」ではありませんでした(モノまねだったらそれも面白いけど)。あのビートルズの手ごわい権利関係をクリアしつつ、原曲をとことん忠実に再現し、それにのりのりのディスコビートを絡めた点がユニークだったのです。

実際、驚くなかれ、このシングルは、あれよという間に由緒正しき全米ビルボードヒットチャートで堂々1位(81年4月、米ディスコチャートでは18位)を獲得したのです。ディスコブームが終わった後ですから、これは素直に偉業といえるでしょう。後のディスコ曲に多く見られる「メガミックス」にも通じる百花繚乱な贅沢さを兼ね備え、踊る阿呆を量産してきたのは確かです。もちろん、ディスコの現場でも人気曲でした。

……というわけで、私もまあ、聴き倒しました当時。最初は友人からレコードを借りて、奮発して“高級メタルテープ”に録音し(といっても400円程度の代物だが)、部屋にあったアイワ製ラジカセに入れてがんがん鳴らしていたものです。特にLPに入っているロングバージョンだと15分以上もあるので、鼓膜にこびりつくほどたっぷりと楽しめました。

しかし、そんな能天気に乗せられがちな私も、「さすがに安易過ぎる!」と、徐々に義憤を感じ始めました。気がついてみたら、彼らはアバだのスティービー・ワンダーだのローリング・ストーンズだのスペンサー・デイビス・グループ(これは渋い)だのと、ほかの大物たちの同系統の「ショッキングもの」メドレーを次々と世に送り出していたのです! しかも、ビートルズ以降の「似てる度」は微妙に低下し、“2匹目のドジョウ作戦”に飽き飽きしてきたのでありました。残念ながら、もはやショッキングではありません。

セールス的にもビートルズメドレー以外はふるわず、ディスコ界では栄えある「一発屋」(One Hit Wonder)の称号を得たスターズ・オン45。でも、何年も聴いていないと不思議とまた、古ぼけたレコードやCDに手が伸びてしまう魅力だけは、なんとなくある。そんなわけで、私のような人間がけっこう多いのか、再発CDは今も世界の市場でかなり出回っております。写真は国内ベスト盤(ビクター)全2巻のうちの1巻目。どのメドレーも似通った展開ではありますが、四の五の言わず、「あはははははははっ!」と頭を真っ白にして踊るには最適かと思われます。

エーディーシー・バンド (ADC Band)

ADC Band今回もまたまた黒人ファンク系で〜す!出自はなかなかゴージャスなのに、70年代ディスコブーム期にディスコ化してもさっぱり売れなかった残念さもさることながら、気を取り直して今聴いてみたら「やっぱりいいじゃん!」となってしまう麗しいグループ「ADCバンド」であります。

このバンドを下支えした人物にジョニー・メイ・マシューズ(Johnnie Mae Matthews)という女性がいます。彼女は、米アラバマ州出身の中堅ソウルシンガーだったのですが、実は1958年もの昔、アメリカで初めて黒人女性がオーナーのレコードレーベル「ノーザン・レコーディング・カンパニー」を米デトロイトで設立し、後にテンプテーションズで活躍するデビッド・ラフィンらを育成。2年後にべリー・ゴーディ(Berry Gordy)が同じデトロイトで設立した「黒人音楽の殿堂」モータウン・レーベルに対し、多大な影響と示唆を与えた偉大な人物だったのです。

そんなパワフルな先駆者だったジョニーさんは、1972年、ADCの前身であるブラック・ナスティ(Black Nasty)を結成し、これまた「70年代黒人音楽の雄」であるスタックス系のレーベルからデビューさせます。メンバーには、自分の子供2人(ArtwellとAubrey)も含まれていました。

このブラック・ナスティはアルバム1枚で終わってしまい、えもいわれぬがっかり感が残ってしまいましたが、バンド名をADCに変更した1978年、上写真のアルバム「Long Stroke」を今度はアトランティック系レーベルのコティリオン(Cotillion)から発表します。プロデュースは「デトロイトママ」ジョニーさんが自らご担当。これは時代を映して非常にディスコファンクな内容で、ずっしりキックの効いたバスドラやお約束のハンドクラップなんかも満載。ちょいとスローでいかしたディスコファンクブギーのアルバム同名曲は全米R&Bチャート6位まで上昇する大ヒットとなりました。

けれども、あれあれどうしたことでしょう、この曲以降はぱったりとヒットはナッシング。Cotillionのレーベルメイトのマス・プロダクションの全面プロデュースを得た3枚目「ルネサンス(Renaissance)」(80年)と4枚目「ブラザー・ラック(Brother Luck)」では、「In The Moonlight」とか「Hangin' Out」とか「Super Freak」みたいに、うにょうにょシンセや大重量ドラムやびろんびろんベースや哀愁漂うホーンセクションや「泣きのギター」(?)を織り交ぜつつ、かなり鋭角的なディスコファンクで押しまくったのですけど、やっぱり浮上できませんでした。

その後、ファットバックバンドのメンバーが全面的にプロデュースして5枚目「ロール・ウィズ・ザ・パンチズ(Roll With The Punches)」(下写真)を1982年にリリース。このアルバムも、アルバム同名曲や「Girls」などを含めて、さらにノリノリでダンサブルな展開を見せるものの、セールスは伸びず。これを最後に表舞台から消え去ってしまいました。まあ、ボーカルにしても曲作りにしても演奏にしても、まとまりはあって及第点はとれるにせよ、どうにも特色が薄かったのが敗因といえましょうか。

「Roll With The Punches」には、ジャケットからも分かる通り「(ボクシングなどで)攻撃をうまくかわす」「物事を柔軟に切り抜ける」といった意味があります。このアルバムのジャケット裏面には、"後見人"ジョニーママさんの「いろんな複雑な考えが頭に浮かんで、私たちはそれをうまく説明しようと努力する。でも、結果的には内面の不安や不満を上手く説明して切り抜けることができる(just roll with the punches)」といった内容のメッセージが載っています。…う〜ん、うまく切り抜けられませんでした。

ただし、私自身は、当時のディスコでも耳にしたことはありますし、その無邪気なディスコぶりがそもそも大好きでしたので、ずいぶん昔にLPを買い漁ったものでした。しかも、「CD化なんて無理だろう」とあきらめていたら、最近、ラストアルバムの「Roll With The…」が国内盤(ワーナーミュージック)で発売となって腰を抜かしました。おまけに価格1000円という熱血かつ出血ぶり。ほかのアルバムもこの際どど〜ん!とCD化してもらいたいものです。

ADC Band 2

ブール・ノワール (Boule Noire)

Boule Noireいやあここ東京地方、きのうの突然の大雪には参りました(家にいたけど)。……というわけで、今回は前回と同じアフロソウル系でも、一風変わったフレンチディスコ「ブール・ノワール」をご紹介しておきましょう。

ブール・ノワールは芸名。本名はGeorge Thurston(ジョージ・サーストン)といいます。1951年、カナダのケベック州生まれ。60年代に主に地元のR&Bグループで音楽活動を始めて、1970年代半ばにソロ活動を本格化。とりわけ「カナダのディスコレジェンド」と言われるほどにディスコ分野で楽曲を発表し続けました。

カナダのケベック州では、住民の多くがフランス系移民の末裔のため、英語も話しますが、公用語はフランス語。ですので、アングロサクソンなイギリスからの影響が色濃い北米の中でも、独特の文化が根付いてきました。昔北海道にいるころ、スキーのやたら上手な(当然と言えば当然)ケベック人の友人がいたのですけど、「俺たちはカナダ人ともアメリカ人とも違うんだ!」と強調していたのを思い出します。特にアメリカと一緒にされるのは嫌だ、とよく言っていました。

ブール・ノワールは1976年、ジャケットイラストの目がうるうると昭和少女マンガ風になっちゃってるソロデビューアルバム「Boule Noire」(上写真)を発表。ブルースの雰囲気を漂わせたソウルディスコですが、歌詞が全編フランス語ですので、耳慣れた英語によるソウル/R&Bとは一味違った、とてもエキゾチックな不思議な魅力を放っています。カナダのディスコ界では有名だった人ですが、ほかの国ではほぼ無名。けれども、一度聴くと病み付きになる感じです。収録曲中では、Aimes-Tu La Vie Comme Moi ?」などがシングルカットされています。

フレンチディスコ自体は、セローンとかシルビー・バルタンとかフランス・ギャルとか、フランス本国発のディスコとして当ブログでも何度か取り上げています。けれども、英語で歌われたものが多く、フランス語でしかも黒人系というのは非常に珍しい。あとは、フランスの植民地が多かったアフリカ大陸の国々に少々、フランス語の黒人ディスコ音楽が見られた程度です。スウェーデンのアバなどの例を持ち出すまでもなく、アーチストがネイティブではなくても、ディスコのマーケットは圧倒的に英語重視でしたので、フランス語でかつ黒人系というのは、逆にユニークで希少価値があったともいえます。

ブール・ノワールは1977年、次のフランス語アルバム「Les Annees Passent」をリリース。シングルカットされたA面1曲目のアップテンポの「Loin D'Ici 」は、なかなかに日本人好みのする切なさいっぱいの佳作です。このあたりの物悲しいメロディー展開は、例えば米ソウル/R&Bディスコの牙城フィラデルフィア・レーベルなどにはあまり見られない「カナディアン・フレンチディスコ」そのものだと思います。私の一番のお気に入りの曲でもありまして、随所に入ってくるMoog的な初期シンセサイザーの「うねうね音」も底抜けに素敵です(称賛)。

そして1978年、ソロ3枚目アルバム「Aimer D'Amour」を発表。この中からは、アルバム同名曲「Aimer D'Amour」が、後の80年代後半以降、欧州を中心にレア・グルーブとして注目されました。これまたシャンソンとR&Bが融合したような、まったりしたミデアムスローの面白いディスコ曲。お約束の“ポンポコディスコドラム”(シンドラム、ピング)や絶唱系女性ボーカル、「泣きのギター」を効果的にフィーチャーしており、こんな曲が今フロアでかかれば、多少戸惑いを覚えつつも、「おしゃれなブギーでゲット・ダウン・オン・ザ・フロア」状態になることウケアイです。

80年代に入ってからは新作発表のペースも落ちてきて、表舞台から遠のいていった「哀愁のブール・ノワール」。既に2007年、がんのため55歳の若さでこの世を去っています。それでも、数々の音源はしっかりと今に伝えられ、熱きダンスフリークたちの心を躍らせてくれています。CDについては、ディスコの原盤権を幅広く所有する同じカナダのUnidisc(ユニディスク)レーベルから、アルバム再発盤が発売されております。

クイック (Kwick)

Kwick 1980_2「3K」シリーズのしんがりは、黒人4人組ボーカルグループのクイック。米テネシー州メンフィス出身で、1960年代後半から、地元の黒人音楽の拠点であるスタックス(Stax)レーベルで「ザ・ニューカマーズ(The Newcomers)」という名前で活動していました。

このころは、「Pin The Tail On The Donkey」(71年、米R&Bチャート28位)という自前の小ヒットも出したものの、同じメンフィス出身のアル・グリーンや同じスタックスレーベルのバーケイズエモーションズなど、別の大物ミュージシャンたちのバックコーラスとか前座として主に活躍しておりました。

長年の下積みを経て心機一転、名前をKwickと変えて、EMIレーベルから初の8曲入り本格アルバム「Kwick」(写真)をリリースしたのは1980年のこと。プロデューサーは、スタックスの数々のトップミュージシャンを手がけたアレン・ジョーンズ(Allen Jones)。これがまたかなりディスコテークな内容で、もはやディスコなんてアメリカではNGワードになりかけていたにもかかわらず、ジャケット写真同様に元気いっぱいな楽曲が目白押しになっています。

特に、シングルカットされたA面1曲目「I Want To Dance With You」では、お約束のシンセドラムの「ぴゅんぴゅんぽんぽこ」音が随所に鳴り響き、ぐいぐい踊り心を揺さぶります。リズム展開が、同時代のあの奇天烈ファンキーチューン「Double Dutch Bus」(Frankie Smith、80年、R&B1位、ディスコ51位)や、「都会派ディスコ」GQの「Disco Night」(79年、同1位、同3位)に似た感じ。ディスコ的には熱烈に好感の持てる一曲です。

ほかの7曲を聴いてみても、バーケイズやリック・ジェームスばりの「うねうねシンセサイザー」が飛び出したかと思うと(A3「Can't Help Myself」とか)、80年代前期ブラコンの定番「ぶいぶいシンセベース」で腹の底がひっくり返されるような重量感を演出(A4「Serious Business」とか)しています。おまけに、70年代末期みたいな折り目正しい「四つ打ちもろディスコ」まで秘かに紛れ込ませる始末(B1「We Ought To Be Dance」)。圧倒的な“腰浮きファンク”ぶりとなっております。

・・・とまあ、けっこう惚れ惚れする「うきうきアゲアゲ」アルバムになっているわけですが、セールス的に今ひとつだったというのも、この手のディスコファンクグループのお約束です。クイックになってからの最大のヒット曲が、このアルバムB面3曲目のスローバラード「Let This Moment Be Forever」(R&B20位)だったというのは、(私的には)なんだか皮肉です。でもまあ、もともとのウリがコーラスなわけですから、不自然ではないのかもしれません。

クイックは翌81年、プロデューサーをはじめほぼ同じ制作陣で「To The Point」というアルバムをリリース。今度はもっとあからさまにシンセサイザー音を前面に出し、エレクトロファンクなノリを加えて勝負しましたが、前作を超えることはできませんでした。結局、クイックは83年に出したもう一枚のアルバム「Foreplay」を最後に、表舞台から消え去ることとなりました。

それでも、「To The Point」でいうと、「まるでジャクソンズ!」というべき「Shake Till Your Body Break」は秀逸。マイケルたちの「Shake Your Body To The Ground」をもろに意識していますが、ディスコならではのちょっとした小っ恥ずかしさが素敵です。ほかにも、イントロで展開するのんびり感あふれる電子音が哀愁を誘う「Nightlife」、「You're The Kind Of Girl I Like」など、味わい深いディスコファンクが含まれています。

こうしてみてみると、ディスコ的には、地味ながらも一応ツボを押さえた曲群を世に放っていたように思います。 商業的に成功させようとする意図が露骨に見える痛々しさはあるにせよ、フロアで「非盛り上がり時間帯」にゆらゆらと流してみたり、家の中でゆったりと聞き流すにはほどよいグループだと思っています。「ビギナーとマニアックの狭間」を行くディスコ堂のブログ趣旨からしても、外せない人々です。

この人たちの再発CDは、1年ほど前にようやく発売となりました(英Expansion盤)。上記2枚のアルバムが1枚のCDに入っているお得盤であります。 

クリーア (Kleeer)

Kleeer今回はKleeerと参りましょう。1970年代後半から80年代にかけて、前回紹介のKlique同様にディスコファンク・バンドとして一定の支持を得た4人組ですが、既に70年代初頭に活動を開始しています。

彼らが79年に出したアルバム「I Love To Dance」の再発CD(2013年発売、英Funky Town Grooves盤)のライナーノーツによると、米ワシントントンDCで1972年に結成し、当初はザ・ジャム・バンド(The Jam Band)という名前でした。「チョイス・フォー」(Choice Four)という同じワシントンのソウルグループとか、ちょっと売れたディスコグループ「ディスコ・テックス・アンド・ザ・セックス・オーレッツ」(Disco Tex & The Sex-O-Lettes)のバックバンドとして活動を始めた後、75年にはパイプライン(Pipeline)という名前に変更しました。

パイプラインとなった彼らは、独り立ちしてコロムビア・レコードと契約し、「Gypsy Rider」というシングルを76年に発表。なかなか仕上がりの良いロック風味のファンクチューンでしたが、ほとんど売れませんでした。前述ライナーノーツでは、ギター担当の中心メンバーのリチャード・リー(Richard Lee)が「このときは、コロムビアのマーケティング担当者が、黒人ロックとかファンクロックをやるパイプラインをどう売り出したらいいか、分からなかったんだ」とほろ苦く述懐しています。せっかく満を持してのデビューだってえのに、不本意だったみたいです。

それから間もなく、パイプラインは売れっ子ディスコ・プロデューサーであるパトリック・アダムズ(Patrick Adams)、グレゴリー・カーマイケル(Gregory Carmichael)らのディスコ・プロジェクトチームに編入されました。ここでのグループ名は、今度は「ユニバーサル・ロボット・バンド」(Universal Robot Band)。なんだかいきなり変てこな名前ですけど、とにかく、いよいよ本格的にディスコグループとしての活動に入ったのであります。

この「ユニロボ」時代の76年には、「Dance and Shake Your Tambourine」(直訳:踊ってタンバリンを鳴らそう!)という驚愕のおとぼけディスコをリリース。しかも、ちょこっと売れたのです(米R&Bチャート48位、ディスコチャート25位)。「お聴きいただいて納得」と思いますが、ムーグ(Moog)あたりのアナログシンセサイザーの音色が縦横無尽、往年の幼児向け番組「ロンパールーム」のBGMみたいにピニュピニョと飛び交っている有様。ディスコ堂的には大歓迎の展開になっていくのでありました。

結局、ユニロボとしての活動は2年ほどで終局。79年にようやくKleeerというグループ名に相成り、名門アトランティック・レコードから、前述「I Love To Dance」というあからさまなディスコアルバムを皮切りに、ラストアルバムを出した85年までの間に計7枚のアルバムを発表しました。

代表曲を見ていきますと、70年代には、「I Love To Dance」に収録された「Keep Your Body Workin'」(R&B60位、ディスコ54位)、「Tonight's The Night」(R&B33位)や、2枚目アルバム「Winners」収録の「Winners」(R&B23位、ディスコ37位)などのディスコ曲がヒット。80年代には、小気味よいリズム展開とコーラスワークが特徴の「Get Tough」(R&B15位、ディスコ5位)、「Taste The Music」(R&B55位、ディスコ31位)といった、シンセファンクの雰囲気も持つダンサーが人気曲となりました。

Kleeerになってからは、いずれの曲も確信犯の脱力ユニロボ時代とは打って変わり、ダンサブルながらも落ち着いた感じのディスコファンクの装いになってきています。例えば、アース・ウィンド・アンド・ファイヤーとかクール・アンド・ザ・ギャングみたいにスター性の強い歌い手がいるわけではなく、ボーカル力は今ひとつで凡庸との印象がありますが、商業的にまずまず健闘したとはいえると思います。それに、なにはともあれ前身が「ユニロボ」だという点が私的にはプラス評価です。

再発CDは近年、けっこうな勢いで発売されています。写真は、私が一番気に入っている「Get Tough」収録の「License To Dream」(81年)。ほかの多くのアルバムもCDになっています。ベスト盤としては、米Rhino盤の「The Very Best Of Kleeer」が網羅的で、かつディスコフロア向けロングバージョンが多く収録されていてお得感があります。

クリーク (Klique)

Kliqueいやあクリスマスなんてあっという間に終わり、暮れも押し迫ってまいりました。きょうはまず手始めに、「ホップ、ステップ、ジャンプ!」とか、ハロウィンの「トリック オア トリート!(Trick or treat !)」の要領で、「クリーク、クリーア、クイック!」と幸せを呼ぶおまじないを3回つぶやいてみてください。

…というわけで、今回はそんな舌を噛みそうな「Klique」「Kleeer」「Kwick」の「似たようなファンクディスコ3K軍団」の一角を占める「クリーク」について、唐突かつ元気に取り上げてみましょう。

英語で「徒党」を意味するClique(クリーク)をもじったと思われるKliqueは、知名度的にはかなり地味ながら、80年代初頭、シンセサイザーのベース音(シンセベース=ぶいぶいシンセ)を駆使した曲を次々に繰り出し、ダンスフロアの名わき役となりました。

米ロサンゼルスのアイザック・サザーズ(Issac Suthers)と妹デボラ・ハンター(Deborah Hunter)、そしてハワード・ハンツベリー(Howard Huntsberry)で構成するシャラマーみたいな男女3人組。1981年にデビューアルバム「It's Winning Time」を発表し、シングル「Love's Dance」が米R&Bチャート24位に入る中ヒットを記録しました。

この曲は、コン・ファンク・シャンのマイケル・クーパー(Michael Cooper)の作曲で、けっこうダンスクラシックとして人気の曲。とはいえ、リズム進行が「よっこらしょ、どっこいしょ♪」な曲でして、踊っていても“天竜川下りの船頭さん”を彷彿とさせてなんだか愉快です。

翌82年には、2枚目のアルバム「Let's Wear It Out!」(写真)を発表。全編アーバンなダンス風味に仕上がっているのですけど、この中からは「Dance Like Crazy (Let's Wear It Out)」(R&B39位)と「I Can’t Shake This Feeling」(同47位)が少しばかりヒットしました。特に「I Can't Shake…」は、爽やかでキャッチーなメロディーラインが特徴。私自身も高校生のころ、同じディスコ好きの友人宅で執拗に聞かされていたので、かなり印象深い曲です。

さらに、83年には3枚目「Try It Out」を発表。やはりダンス系が多く収録されているものの、バラードのシングルカット「Stop Doggin' Me Around」が米R&Bチャートで2位まで上昇する大ヒットとなりました。この曲は往年のソウル歌手ジャッキー・ウィルソンが60年に放った大ヒット「Doggin' Around」(R&B1位)が原曲。リードボーカルのハワードの声質はジャッキーにそっくりだったこともあり、非常にうまくいったリメイクといえるでしょう。

クリークはその後もう1枚、85年に「Love Cycles」というアルバムをリリースし、再びジャッキーのバラードヒットのリメイク「A Woman, A Lover, A Friend」がR&B15位に。アルバム全体をみれば、「Breakin'... There's No Stopping Us」(84年、米R&Bチャート3位、一般9位、ディスコ1位)のブレイクダンス大ヒットで知られるオリー・ブラウン(Ollie Brown)などが参加し、時代を象徴してシンセサイザーやドラムマシーンがますます存在感を発揮するダンス曲が多くて面白い内容なのですけど、どうにも大ヒットにはつながらなかったのでした。ジャッキー・ウィルソンのリメイクばかりが注目されて、個性を発揮するまでには至らなかったのかもしれません。

結局は凡庸なディスコファンクバンドの域を出られなかった彼らですが、ヒット曲は少なくても、どのアルバムも80年代ダンスクラシックの「名わき役」として聴けば、なかなか侮れない完成度になっていると思います。近年は「Let's Wear It Out」や「Try It Out」などのCD化もひそかに実現しています。

さて次回は、この流れでいくとKleeerということになりましょうか。年明けにまた考えま〜す!ディスコフリークの皆さま、よいお年をお迎えくださいませ。

ザ・ポケッツ (The Pockets)

Pockets今回も70年代後半のファンク系ディスコから一つ。プラティパスとは正反対に、トランペットやトロンボーンといった「ディスコ盛り上げ隊」のホーンセクションを駆使して、ちょいと人気を博した米国の8人編成グループ「ポケッツ」です。

「天下御免のディスコバンド」アース・ウィンド・ファイアー(EWF)のバンドリーダーである御大モーリス・ホワイトさんは、70年代後半からはプロデューサーとしても活躍しましたが、弟バーディン・ホワイトも、EWFでベースを担当しつつ、プロデューサー業にもせっせと精を出していました。そんな彼が手がけた代表的なバンドが、ポケッツというわけです。

自然なことながら、バンドの楽器編成も曲調もEWFに似ています。それが彼らにとっては個性を発揮し切れなかった要因にもなっているのですけど、ディスコブーム期にはいくつかヒットも飛ばしています。バーデンさんだけではなく、トムトム84(Tom Tom 84)の異名をとる名アレンジャーのトム・ワシントン、80年代にホール&オーツなどのディスコアレンジャーとして名を上げたロバート・ライト(Robert Wright)などの助太刀を得て、ファンキーでグルービーでディスコパラダイスな曲を次々と世に送り出しました。

ファンキーディスコ風味に満ちあふれたデビューアルバム「Come Go With Us」は1977年発売。この中からは、ダンスシングル「Come Go With Me」がまずまずのヒット(米R&Bチャート17位、ディスコ32位)となりました。2枚目アルバム「Take It On Up」も、「パンパカパーン♪!」と終始ラッパが鳴りひびき、やはりディスコな雰囲気が満載で、同名シングル曲「Take It On Up」(R&B24位)は、あらゆる楽器隊が「飲めや歌えや、踊れや踊れ!」てな調子でがんがん攻めまくるいけいけチューンであります。

そして79年に出た3枚目「So Delicious」も…。EWFの「ブギーワンダーランド」にも似たアップテンポ曲で、日本でもダンクラ定番となったシングル「Catch Me」(R&B69位、ディスコ79位)を始め、陽気で能天気でオラオラでわがままなダンス曲が目白押しです。

……けれども、ご覧の通りチャート的には確実に落ち込んでいったのが辛いところ。やはり、EWFの弟分バンドの宿命か、兄貴分の影響があまりにも濃すぎて、実力を十分に発揮できないまま、記憶の彼方に追いやられてしまったようです。EWFの「隠し球バンド」として、文字通り“ポケット”から出られないまま、上記「黄金のディスコトリロジー(三部作)」)を発表した後、あえなく表舞台から消え去っていったのであります。

まあ、このブログお約束の切々たる無常感が再び漂ってしまうわけですけども、ディスコ好きであれば、この三部作はいずれも底抜けに楽しめる、という点だけは強調しておきたいと思います。ディスコ以外のミデアムテンポ、スローバラードも含めまして、手だれが関わった アレンジやミックスはもちろん、メンバー自身のボーカルも演奏も非常にしっかりしております。

CDは“3部作”ともに一応出ておりますが、近年レア化が激しいため、上写真の米Collectablesレーベルのベスト盤「Golden Classics」がお手軽でよいかと存じます。全員純白のスーツで決め決めニヤニヤのジャケットが目印。最も売れた 「Come Go With Me」、疾走感あふれる中間奏も必聴の「Catch Me」のロングバージョンなど、主な代表曲が網羅的に収録されております。
プロフィール

mrkick (Mr. Kick)

「ディスコのことならディスコ堂」----本名・菊地正憲。何かと誤解されるディスコを擁護し、「実は解放と融合の象徴だった」と小さく訴える孤高のディスコ研究家。1965年北海道生まれのバブル世代。本業は雑誌、論壇誌、経済誌などに執筆する元新聞記者のジャーナリスト/ライター/翻訳家。もはや踊る機会はなくなったが、CD&レコードの収集だけは37年前から地味〜に続行中。アドレスは↓
mrkick2000@gmail.com

*「下線リンクのある曲名」をクリックすると、YouTubeなどの音声動画で試聴できます(リンク切れや、動画掲載者の著作権等の問題で削除されている場合はご自身で検索を!)。
*最近多忙のため、曲名質問には基本的にお答えできません。悪しからずご了承ください。
*「ディスコ堂」の記事等の著作権はすべて作者mrkick(菊地正憲)に帰属します。

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