ディスコ堂 by mrkick

音楽に貴賎なし ―Discoの考察とCD批評

大震災から2年

東日本大震災から2年が経ちました。2月下旬から3月初めにかけて、4回目の現地取材に行って参りましたので、自分で撮った写真をいくつか紹介しておきます(クリックで拡大)。記事は来週、再来週の2回にわたって、ネットメディアの「nippon.com(ニッポンドットコム)」に掲載されます。今後も定点観測を続けたいと考えています。次回からは再び通常の音楽ブログに戻ります。


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津波でひしゃげた線路は撤去された。周囲には新築の家も=JR仙石線東名駅



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ここも津波に流されたが、一部の松は生き残った=宮城県東松島市野蒜地区




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誰もいなくなった松原の住宅跡に、持ち主不明の黒電話が置かれていた=同市野蒜地区



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震災直後には流された家や車が沈んでいた運河。橋は補修されていない=同市野蒜地区



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地元住民によると、付近の店の商品は震災5日後には全部なくなっていた=JR仙石線野蒜駅




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全校児童の7割が犠牲になった大川小学校。傍らでは整地工事が進む=石巻市釜谷地区



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瓦礫は取り除かれ、この防災対策庁舎跡の周囲は更地になった=南三陸町志津川地区



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港から1キロほど内陸へ進むと、プレハブの仮設商店街に辿りついた=同町志津川地区



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巨大な船は、流されたままの形で更地の中にぽつんと残されている=気仙沼市



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かつての中心市街地。津波は、病院のあるこの土手の上に達した=女川町



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土地のかさ上げを含む港の復旧工事は、最近になって本格化したばかりだ=同町



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倒壊した鉄筋のビルは、突き刺さった車とともに放置されている=同町



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朝日を臨む丘に建つ慰霊碑。この町の死者・行方不明者数は約900人を数える=同町



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道の駅「高田松原」付近。観光ホテルの取り壊し作業が続く=岩手県陸前高田市



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白砂青松の海浜は跡形もなく消えた。遠くの一本松が天災の惨さを物語る=同市

デニース・ウィリアムス (Deniece Williams)

Denice Williams, When Love Comes Calling昨日、部屋で朝方まで本を読みふけっていたら、近くの公園の樹木から「キョッ、キョッ!」と、ウグイスかホトトギスの地鳴きのような澄んだ鳥の声が聞こえてきました。寒空の中、春の兆しもちほら。今回はソウルディスコ界きっての「シンギングバード」、デニース・ウィリアムスと参りましょう。

ディスコ的には1979年のはっちゃけチューン「I've Got The Next Dance」(米ディスコチャート1位、R&B26 位、一般ポップチャート73位)と、84年のお馴染み「Let's Hear It For The Boy」(米ディスコ、R&B、一般ポップともに1位!)ということになりますが、バラードでもミディアムスローでもなんでもこなす、ソウル界屈指の美声の持ち主です。

耳に心地よく響くユニークな声質は、かつて紹介した“黒猫系ボイス”のチャカ・カーンとかアーサ・キットの逆をゆくかのごとく、「おとなしめの三毛猫」をも彷彿とさせます。4オクターブもの音域を生かした「さえずり唱法」が身の上でして、まさに、ミニー・リパートンと並ぶ「ソウルソプラノの女王」といえましょう。パティ・ラベルのような特大声量パワーで攻めるタイプとは、対極に位置する歌姫ですね。

1951年、米インディアナ州生まれ。バルティモアにある大学に通っていたころまでは、看護婦を目指す普通の女性だったのですが、地方のクラブで歌手のアルバイトをやっているうちに音楽関係者に「あまりに歌がお上手!」と発掘され、プロの道を歩み始めたのでした。

70年代前半まではマイナーなグループでボーカルを務めたり、スティービーワンダーのバックコーラスを担当したりと、地味な活動が目立ちました。しかし、76年のデビューアルバム「This Is Niecy」からシングルカットされたモータウンっぽいミディアムスロー「Free」が米R&Bチャート2位、ポップ(一般)チャートで25位まで上昇するヒットとなり、一躍注目の的になりました。

その後はしばらく安定した人気を保ち続けます。78年には、ストリングスを重視したイージーリスニング系ディスコ「Gone Gone Gone」(79年)などでも知られる往年のソウルボーカリスト、ジョニー・マティス(Johnny Mathis)とのデュエットによるミディアムスロー「Too Much, Too Little, Too Late」がポップチャートとR&Bチャートで1位になる大ヒットとなります。ディスコブーム期には、前述の「I've Got…」ではじけまくって大活躍。しっとり気分で丁寧に歌い込んだかと思うと、いきなりアップテンポで飛んだり跳ねたりと忙しい日々でした。

80年代に入ってからはさらにパワーアップ! まず、82年に再び甘美なボーカル魔術を駆使したバラード「It's Gonna Take A Miracle」(R&B、ポップ1位)がヒットした後、映画「フットルース」のサントラに使われた前述「Let's Hear It…」が彼女にとっての最大のヒットとなり、完全に油がのったサンマ状態で歌いまくることになったわけです。
 
まあ、セールス的にはこの辺がピークでした。個人的には、「指ぱっちん」とともに厳かに始まる緊迫のミディアムテンポ「So Deep In Love」(82年、これもジョニーさんとのデュエット)とか、朝もやに包まれたヨーロッパの田園風景のようなメロウなイントロから突然、「ダンサブル上等!」な展開になる「Next Love」(84年)、「打ち込みシンセドラム」を駆使したいかにも80年代なディスコ曲「Never Say Never」(86年)といったお気に入りがあるのですが、80年代も後半になると、どうしてもひところの勢いがそがれた感じになっております。

90年代に入ると、自身のルーツである黒人ゴスペルミュージックに傾倒。スピリチュアルな世界観を表現するようになり、逆にポピュラー音楽の表舞台からは去っていきました。このあたりは、ドナ・サマーグロリア・ゲイナーを始めとする、かつてディスコで鳴らした歌手たちの一つのパターンでもあります。

嬉しいことに、彼女の全盛期のアルバムが近年、続々とCD化されております。例えば、「I've Got…」が収録された「When Loves Come Calling」(上写真)。レイ・パーカーJrEW&Fのモーリス・ホワイト、デビッド・フォスター、TOTOのスティーブ・ルカサーなどが参加した豪華盤で、英国の再発レーベルであるBig Break Records(BBR)が3年前に発売したものです。「I've Got」と、別のミデアム系ディスコ曲「I Found Love」の12インチバージョンが入っていて楽しめます。

フランキー・ゴーズ・トゥ・ザ・ハリウッド (Frankie Goes To The Hollywood))

Frankie Goest Toいやあ、早いもので前回投稿から1ヵ月以上が過ぎました。実際まったりと終わった(笑)久々のディスコイベントも無事乗り越え、新年一発目の投稿は……またまた長〜い名前のフランキー・ゴーズ・トゥ・ザ・ハリウッド(FGTH)であります!

もともとは英国で1970年代に隆盛を極めたパンク音楽に影響を受けた英リバプールの若者が、80年に結成したニューウェーブバンド。さしたる特徴のない凡百のアーチストだったのですけど、83年に発表した「リラックス(Relax)」(左写真、米一般チャート10位)がいきなり大ヒットし、一躍スターダムにのし上がったわけです。

リラックスを始めとする彼らの曲そのものは、当時ぽんぽんと出てきたシンセサイザーの打ち込み編集による「テケテケポコポコ」ダンスミュージック。売れた大きな理由は、とにかく「マーケティングの力」といえました。

発掘したのは、この手の英シンセポップのスタンダード曲「ラジオスターの悲劇」(79年)のヒットで知られるバグルズのメンバーで、売れっ子プロデューサーでもあったトレヴァー・ホーンです。そのトレヴァーらが83年にZTTレーベルを創設した際、目玉アーチストとしてFGTHを起用し、見事に大穴を当てたのです。とりわけ本国英国での人気は絶大でした。

まず、リラックスという曲自体、ゲイの“禁断の愛”を歌った挑発的な内容。英国の代表メディアであるBBCは、リリース直後は「へ〜、新しくて面白い曲じゃん」と平気でラジオ番組でかけていたのに、後で歌詞の意味に気づいて「わいせつに過ぎる!」と即刻放送禁止。プロモーション・ビデオも、ダンスクラブを舞台に際どいシーンが続出の素晴らしい“表現の自由”が展開されていたのですが……やっぱりBBCやMTVで放送禁止となりました。

それでも、洋の東西を問わず、際モノ狙いはときに成功するもの(はずすとイタいが)。「FGTHオリジナルTシャツ」などのノベルティ・グッズも売れ行き好調で、リラックスは英国内でチャート1位を続け、かのビートルズにも匹敵するほどの特大ヒットになっていったのです。BBCなどの放送禁止措置についても、あまりに人気が出たために間もなく解禁になりました(これも節操がないが)。

続く「トゥー・トライブズ(Two Tribes)」(84年、米ディスコ3位)も、打ち込みポコポコ路線を踏襲したダンスチューン。トレヴァー特有のオーケストラヒット(オーケストラ風のサンプリング音)を連打する大仰なメロディーと重厚ビートが、クドいほどに耳を突き刺します。歌詞の方も、米ソの「東西冷戦」をテーマとしており、だから曲名も「2つの部族(Tribe)」となっているわけです。

ただし、前作ほどのインパクトはなく、この辺りからセールスは急降下(早い)。けっこう泣かせるバラードの「The Power Of Love」、ちょっとしっぽりした感じの「Welcome To The Pleasure Dome」、これまたオーケストラな雰囲気のミディアムテンポのダンスナンバー「Rage Hard」といった佳作は出しましたが、特にアメリカでのセールスはふるいませんでした。

日本のディスコでも、リラックス、トゥー・トライブズともに、フロアの定番曲でした。私も、リラックスのあの長〜いイントロの12インチバージョンがかかっていたのをよく覚えています。もうこうなったら、歌詞の内容も何も関係なく、狂喜乱舞するほかありません。

際モノは物議を醸す、だから売れることもある――。常に刺激を欲しがる浮世にあっては、これはもうセオリーですけど、とかく当局筋(お上)との関係は問題になります。今なら大したことがないような歌詞であっても、30年前の当時は、ゲイとかセックスとかはまだまだご法度だったということです。

歌や踊り、つまり歌舞音曲は、昔から時の権力の取り締まりや保守的な人々からの白眼視の対象になってきました。私の好きな「700年前の元祖DJ」一遍上人(ご参考1ご参考2)も、民衆を引き連れて、「踊念仏」で鐘を鳴らしながら踊りまくり、魂の救済(衆生済度)を図ったわけですが、“首都”鎌倉に入ろうとしたら「まかりならぬ」と警備兵に止められ、やむなく手前の村の広場で踊り狂った、との記録が残っています。盆踊りのもとになった室町時代の風流踊り、江戸時代の歌舞伎なんかも、取り締まりの対象になりました。

人間はやっぱり自由でいたいし、心の解放を求めます。時にはハメをはずして歌いたいし踊りたい。好きな音楽を思う存分、楽しみたいんですね。

今の日本でも、未明に客に踊らせないようにする「ダンス規制」なんていうアホらしい決まり事が論議を呼んでいます。現在のクラブでは、昔のディスコ以上にドラッグや暴力が目立っている風潮が背景にあるのかもしれませんが、あまりに行き過ぎて過激化、暴動化しない限り、「ええじゃないか!」と自由に踊らせるべきでしょう。「きょうは無礼講じゃ!」と酒を飲んで踊りまくり、おバカさんになって憂さを晴らした先祖伝来の村祭りと同じ祝祭空間であることを考えれば、まったく野暮なことです(トホホ)。

確かに、今振り返っても、手足をくねらせて踊り狂うのは恥ずかしい。バブルに踊らされるのも恥ずかしい。でも、あ〜あ、それでも人は、踊らずにはいられないのです。

――この人たちのCDは、ベストも個別アルバムも豊富に出ています。特に最近、日本で発売されたZTT編集盤「フランキー・セッド(Frankie Said)」(下写真)は、各種出ている12インチシングルのうちの貴重盤も含めて網羅的に収録されていて面白いと思います。

Frankie Said


ハロルド・メルヴィン & ザ・ブルー・ノーツ (Harold Melvin and The Blue Notes)  &イベント告知

Harold Melvynフィリー・ソウルの大御所といえばこの人たち。米国ディスコの源流とも言われるほどダンサブルな面々ですけど、あくまでも渋くて真面目でダンディーな5人組です。

結成はなんと1954年。日本がまだ戦後の混乱期にあったころです。文字通りフィラデルフィア出身のハロルド・メルヴィンさんを中心にした男性ボーカルグループで、60年代まではパッとしなかったのですが、70年代初頭からディスコ系のヒットを連発して一躍トップスターになりました。

メジャー化の原動力になったのは、ちょうど70年にメンバーとして加わったテディ・ペンダーグラス(Teddy Pendergrass)でした。もともとはドラマーだったのですが、類まれなる甘〜〜〜いバリトンの声の持ち主で、この人の歌声を聴く者はみんなメロメロ状態になってしまったのです。

彼の加入の2年後には、その後の米国ディスコの流れを決定づけるパイオニアレーベルで、名ディスコ仕掛け人であるギャンブル&ハフ(Gamble & Huff)が率いる「フィラデルフィア・インターナショナル・レコーズ(PIR)」と契約。「I Miss You」(72年、R&B7位)、「If You Don't Know Me By Now」(72年、同1位)という「とろ〜りはちみつ」なバラードで軽くジャブを飛ばした後、いかにもフィリーなディスコ曲「The Love I Lost」(73年、R&B1位)を大ヒットさせ、後に大爆発するディスコブームの到来を大いに予感させたものでした。

PIRからの3枚目アルバム「Wake Up Everybody」からは、テルマ・ヒューストン(Thelma Houston)も歌った「Don't Leave Me This Way」(75年)とか、「Wake Up Everybody」(75年、R&B1位)というディスコヒットが生まれました。

さらに、同じ75年に出した4枚目のアルバム「To Be True」からは、「Where Are All My Friends」(R&B8位、米ディスコチャート11位)と「Bad Luck」(R&B4位、ディスコ1位)というディスコシングル曲をリリースしました。特にBad Luckはディスコチャートで11週間も続けて1位になる特大ヒットになっています。

ダンス系とバラード系のヒットをバランス良く出しているのが、この人たちの特徴でもあるわけですが、それもこれも「テディの美声」あればこそ。アップテンポでもスローテンポでも、彼の声はいつでも耳に心地よく響きます。天賦の才とはこのことでしょう。

しかし、グループとしての一体感は、いつの間にか損なわれていきました。案の定、あまりにも「おお!テディ、ソーグーッド!」ともてはやされたために、とりわけ長年のリーダーであるハロルドさんとテディさんの関係がしっくりこなくなってしまったのです。自信あふれるテディ自身も、「コンサートやレコードで、自分の名前をもっと前面に出してほしい」などと強気に迫ったとされ、火に油を注ぐ形になりました。

結局、「To Be True」を最後にテディさんはソロに転向し、その後もヒットを飛ばし続けました。残されたメンバーは、もちろん活動を続け、70年代後半以降も「Prayin'」(79年、R&B18位)、「Tonight's The NIght」(同61)、「Hang On In There」(81年、同51位)みたいな結構すぐれた軽快ディスコ曲も出したわけですけど、目玉のボーカルを失って一気に存在感は低下。切ないものです。

ところが、好事魔多し。テディさんは82年、交通事故で突然、半身不随になり、歌手活動が著しく制限されてしまったのです。それでも、車いすでライブや慈善活動を続け、88年にはミデアムダンス曲「Joy」(R&B1位、ディスコ42位)も大ヒットさせています。

波乱万丈の歴史を刻んだフィリーディスコの帝王、ハロルド・メルヴィン&ザ・ブルー・ノーツ。現在ではハロルド(97年に57歳で死去)、テディ(2010年に59歳で死去)を含めて、ほとんどの主要メンバーが鬼籍に入りましたが、ディスコ史、そしてソウル史においても強烈なインパクトを残したグループだったことは確かです。

CDはベスト盤、アルバム再発ともにけっこう出回っております。上写真は10年ほど前に出たエピック盤「The Ultimate Blue Notes」。価格が1枚1000円前後と非常に手頃な上に、主なヒット曲が網羅されていてお得な感じです。


*イベントお知らせ
12月8日(土)夜、西武新宿線新井薬師駅南口の目の前のバー「ゆんたく」にて、まったりとアホアホなディスコDJパーティーを行います。入場お値段は1ドリンク付き1000円。ご興味のある方は、お気軽にお立ち寄りくださいませ!! 詳細は↓

http://www.facebook.com/events/300433423400391/

テリー・デサリオ (Teri Desario)

Teri Desario最近、日韓企業を比較する雑誌企画の取材をやりまして、そこで改めて感じたのが日本の巨大メーカーの低落ぶり。周知の通り、ソニーやパナソニック、それに一時は液晶テレビで破竹の勢いだったシャープなどなど、家電業界の業績の落ち込み方は尋常ではありません。財閥寡占や格差拡大といった矛盾を抱えながらも、相変わらず快走を続ける韓国企業とは対照的でした。

変てこな形のアンテナを自作し、FMや遠距離のAM、短波放送を小学生のころから聞いていたラジオ好きの私にとっては、とりわけ戦後日本の高度成長の象徴であり、高性能トランジスタ・ラジオで名を馳せた「ソニー」の御威光はとにかく大きかった。そんな私の小型ラジオから頻繁に流れていたのは、ほかならぬ当時大流行のディスコ音楽でした。

でも、兄貴分の欧米のメーカーを脅かすほどに勢力を拡大した「メード・イン・ジャパン」も今は昔。2年前、ソニーの終戦後の歴史について調べるため本社に取材に行ったことがあるのですが、広報担当の中堅社員が「いやあ、トランジスタラジオとかウォークマンを発売したころの勢いなんて、もう夢のようですよ」なんてやや力なく語っていたのを思い出します。

もちろん、SONYのブランド力はなおあるとは思います。特に音楽業界の取材をしたときは、ある大手レコード会社の幹部社員が「アーチストのネット配信での楽曲販売やテレビ番組への出演交渉など、ソニーのマーケティングの上手さにはなかなか勝てない」などとボヤいていました。実際、「ソニー・ミュージック」所属のアーチストは今も綺羅星のごとくです。往年のテープレコーダーやラジオの生産、音楽業界進出に端を発する「エンタメ力」は相当なもの。私も携帯プレーヤーはi-Podではなくウォークマンを使っていますし、気に入っている携帯AMラジオもソニー製です。

それでも、あの右肩上がりの上気した時代の空気とは、とても比べものになりません。

1984年、ソニーのカセットテープのCMに使われたテリー・デサリオの「オーバーナイト・サクセス」(YouTube動画ご参照)。ソニーだけでなく、日本のあらゆるメーカーが最も脂が乗っていた時期に、この曲は日本で大ヒットしました。前年に公開された「フラッシュダンス」とか80年公開の「フェーム」を意識した「オーディション再現型」の構成になっていて、ブロードウェイ・スターになる夢を実現しようと奮闘する米国の若者たちの群像を描いています。

カセットテープなんて今はほとんど使われていないわけですが、79年に発売されたソニー自慢のウォークマンが世界市場を席巻していたころですので、底抜けにポジティブな展開になっております。日本企業が制作したので世界ヒットではなかったのですけど、国内のディスコではガンガンかかっていましたし、私ももちろん、即座に12インチレコードを買いにレコード店に走ったものです。

さて、このテリーさんは、実は正真正銘のディスコ畑の歌手です。1951年にマイアミで生まれた彼女は、10代のころにはフォークやジャズに熱中。地元のクラブを中心に歌っている時に、たまたま知人から評判を聞いたビージーズのバリー・ギブに見出され、ディスコレーベルとして勢力を伸ばし続けていたレーベル「カサブランカ」よりレコードデビューを果たしたラッキーガールです。

78年発売の初のアルバム「プレジャー・トレイン(Pleasure Train)」(写真)からは、プロデュースしたバリーさんがバックボーカルで参加したAint Nothing Gonna Keep Me From You」が米ビルボード一般チャートで43位に入り、ディスコでもヒット。邦題は「夢見る乙女」ということで、いきなり脱力するわけですが、彼女の澄んだ高音が全編にわたって横溢していて、かつビージーズっぽさもしっかり感じさせてけっこう良い曲です。ここで彼女は、ひとまず「ディスコ歌手」としての礎を築いたのです。

翌79年、同じアルバムからのシングルカット「The Stuff Dreams Are Made Of」も米ディスコチャートで41位まで上昇し、まずまずのヒットとなります。同年後半には2枚目のアルバム「Midnight Madness」を発売し、その中からはマイアミの学生時代の級友で、K.C. & The Sunshine Bandのリーダーであるハリー・ウェイン・ケーシーとのデュエットによるバラード「Yes, I'm Ready」が、米一般チャートで2位まで上がる大ヒットを記録しました。

80年代になると、やはりディスコブームが下火になったことで活躍の場が狭まり、カサブランカとの関係もこじれてきます。80年にはポップ/ロック色を強めた3枚目のアルバム「Caught」を発売するも、ほとんど売れずじまいでした。

4枚目のアルバム「Relationships(関係)」はなんと、録音を終えていたのに発売中止となり、カサブランカとの“関係”も契約解除により途切れてしまったのです。今年発売された「Caught」の再発CDのライナーノーツにはテリーさんのコメントも載っているのですが、「(契約解除には)すごく落ち込んだ。たった18ヶ月間で、ヒット歌手から契約解除に至ったんだから。
私のマネジャーのプロモートが上手じゃなかったの。やっぱり歌手は、周囲に信頼できるスタッフがいないとダメね。そして、強固なファン層を持っていないと、うまくいかない」などと振り返っています。

その後は信仰に目覚め、キリスト教のゴスペル音楽に傾倒。ポップス歌手としてはTVドラマの挿入歌を歌う程度となり、表舞台からは遠ざかっていきました。
なんだか前回のステイシー・ラティソウみたいな展開ですけど、彼女の場合は、この間にソニー側からのオファーを受けて「オーバーナイト・サクセス」というCM曲を1曲、録音してその名を刻んでいたわけです。

このCMが流れた翌85年、日本が欧米各国との間で取り決めた「プラザ合意」や利下げをきっかけに急激な円高が進行。金が余ってバブル経済の引き金となり、それが崩壊した90年以降には日本経済の「失われた20年」が始まりました。そう考えると、あの曲は、テリーさんにとってもソニーにとっても日本経済にとっても、まさに一夜の夢のごとく出現した「最後の輝き」だったのかもしれません。

テリーさんのCDは最近、少しずつ再発されています。「Pleasure Train」は米国のCD再発レーベルGold Legionから、「Caught」も英国のRock Candy Recordsから、それぞれリリースされています。

ステイシー・ラティソウ (Stacy Lattisaw)

stacy latisaw祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり、沙羅双樹の花の色……というわけで、今回は、夢幻(ゆめまぼろし)のディスコ界を疾風のごとく駆け抜けた、一人の天才少女歌手を取り上げます。

前回登場のジャネット・ジャクソンと同じ1966年に、米ワシントンDC生まれたステイシー・ラティソウさんは、1979年、ジャネットさんより4歳も早い12歳でデビューアルバム「Young And In Love」を発表します。

このアルバムは「ハッスル」などのヒットで知られるディスコの仕掛け人、ヴァン・マッコイが全面プロデュース。特にシングルカットされた「When You're Young And In Love」とか、変則的なリズム進行を特徴とするシャッフルビートの「Rock With Me」などは、なかなかの佳作。12歳なのであどけなさが多少はあるにしても、単なるアイドル歌手ではなく、中高音域を伸びやかに歌い上げるソウルな歌声は高く評価されました。

彼女が本格的にブレイクしたのは、翌80年に発表した2枚目アルバム「Let Me Be Your Angel」(上写真)。プロデュースは、これまたディスコ期に頭角をあらわした売れっ子アーチストのナーラダ・マイケル・ウォルデンです。ディスコブームが米国では衰退期に入っていたにもかかわらず、シングルカットされた「Dynamite/Jump To The Beat」は全米ディスコチャートで1位、R&Bチャートでも8位を獲得しました。ダンス系だけではなくしっぽりバラードも得意で、アルバム同名曲の「Let Me Be Your Angel」も同じくR&Bチャートで8位まで上昇しています。

このころになると、知名度も飛躍的にアップ。テレビなどの出演回数も格段に増えました。81年には、憧れていたジャクソンズのツアーにも前座として参加。ステイシーさんは、米国人音楽ジャーナリスト、ジャスティン・カンター(Justin Kantor)氏による最近のインタビューに答えて、「ほかにも候補はたくさんいただろうに、彼らはこの私を選んでくれたのよ。歌手としての地位を上げてくれるまたとない機会になった。ステージの後、楽屋でマイケルたちと直接話せて感激したわ」と話しています。

その後もアルバムを年1回のペースで順調にリリースし、ヒット曲も連発。けれども、自ら、生来内気な性格だったというティーンエイジャーのころの彼女にとっては、いきなり人気者になったことには戸惑いもありました。通学と全米をまたにかけた音楽活動の両立は困難を極め、妬んだ同級生や先生(!)からの苛めにも遭っていたのでした。

レコード会社の方針にも、かなり不満があったようです。このインタビューでは、担当してもらったプロデューサーについて、「自分の好きなように歌わせてくれたヴァン・マッコイとナーラダ・マイケル・ウォルデンはお気に入りだった」と振り返っていますが、他の制作者とはしっくりいっていなかった様子です。「あるプロデューサーは、『このパートはジャネット・ジャクソンのように歌ってよ』なんて言ってきた。『はあ?何言ってんの?私は私。ジャネットじゃないわ!』と憤慨して言い返したのを覚えている」と話しています。

特に、「1985年にマイケル・マッサー(Michael Masser)がプロデュースして発売した『I'm Not The Same Girl』は完全な失敗作だった」ときっぱり! 「彼はホイットニー・ヒューストンやダイアナ・ロスと仕事をしてきた人だけどもう最悪。私を酷い目に遭わせたの。思うに、あのアルバムには、ホイットニーが歌うのを断った曲がいくつかあったのよ。ホント最悪な曲ばっかだった」とかなり辛辣です。生来内気ではあるけれども、芯はなかなかしっかりしていると思われます。

確かに、この「I'm Not…」は、やっと大人になってきたステイシーさんにとっては、少々子供っぽくて軽い収録曲が多かった(例:「Can't Stop Thinking Thinking About You」「I'm Not The Same Girl」)。ちょうど以前に紹介したティファニーやデビー・ギブソンといった少女歌手が台頭してきた時期でもあったので、レコード会社側としては同じような路線で成功させたかったのだと思いますが、彼女自身は「こんな曲はもう卒業したい。ぜんぜん成長できない!」と憤懣やるかたなかったのでした。とりわけ「I'm Not The Same Girl(私はもう同じ女の子じゃない)」というタイトルは、皮肉にも聞こえます。

その後、アトランタレーベル系のコティリオンから「黒人音楽の王道」モータウンへとレコード会社を移籍しました。86年に通算8枚目となるアルバム「Take Me All The Way」をリリース。「Nail To The Wall」(ディスコ2位、R&B4位)と「Jump Into My Life」(同3位、同13位)のダンスナンバー2曲がシングル曲としてヒットしました。

この2曲ともよく“バブリーディスコ”では耳にしました。アルバム自体が小粋なファンク系あり、力強いゴスペル風のバラードありとバラエティーに富み、かつ歌声にも円熟味が増していて、相当に出来栄えが良いと思っております。ただし、全体的に売れ線狙いが見え隠れして、同時期に特大ブレイクした「Control」の「ジャネットくささ」は否めませんが。

さて、モータウンで心機一転、アルバムを再びヒットさせたステイシーさん。89年に発表した記念すべき10枚目のアルバム「What You Need」からは、幼なじみのジョニー・ギルとのデュエットによるねっとりしたスロージャム「Where Do We Go From Here」が大ヒットし、全米R&Bチャートで初の1位を獲得したのでした。

ところが、間もなく再びレコード会社側との関係が悪化します。アーチストを型にはめようとする音楽業界にもともと疑問を抱いていた彼女は、契約を更新することなく、そのまま引退してしまったのでした。「チャート1位」を獲得してすぐに引退するケースなど滅多にありません。「驕れる平家は久しからず」のような例ではないにしても、あれよと言う間に20代半ばで儚く消えていった「天才少女歌手」の引退劇に、栄枯盛衰の一つのパターンを見ることは可能でしょう。

その後は結婚して夫や子供たちとの家庭生活に専念するとともに、キリスト教に深く傾倒する日々となったステイシーさん。昨年には自伝を発表したのですが、そのタイトルは、何だかこだわった感じの「I'm Not The Same Girl----Renewed(もう同じ女の子じゃない----生まれ変わった私)」でした。

この人のアルバムは一応10枚ともCDで再発されていますが、一部は入手困難になっています。ベストであれば、16曲入りの米Rhino盤(下写真)がよいでしょう。1位になった「Where Do We Go From Here」がなぜか入っていませんが、それ以外のヒット曲はほぼ網羅されています。

Stacy Lattisaw Best

ジャネット・ジャクソン (Janet Jackson)

Janet84さ〜て、今回は何食わぬ顔でジャネット・ジャクソンさんで〜す! これまたバブル期の1980年代後半、ホイットニー・ヒューストンと並んで黒人歌姫の名をほしいままにしたトップスターでした。

兄マイケルの死から早くも3年以上が過ぎ、この人も懐かしい存在になりつつありますが、まあディスコ界でもよく活躍したものでした。米ビルボード誌のディスコチャートでは、バカ売れし始めた1986年から2001年までの15年間に15曲も1位になっています。これを上回るのは女王マドンナ(同時期に23曲)しかいません。

この人は言わずと知れたジャクソン・ファミリーの10人きょうだいの末っ子で、1966年に米インディアナ州に生まれした。ジャクソンファミリー全体のマネジャーでもある父ジョセフの指導の下、7歳で芸能界にデビューし、偉大なきょうだい達と各種ステージをこなす日々となりました。

16歳だった82年にはソロデビューアルバム「Janet Jackson」(上写真)、84年には2枚目の「Dream Street」(写真)をリリース。ところが、この2枚とも、その毛並の良さもあってチャートインまではしたものの(シングルで10位前後)、大ヒットというわけにはいきませんでした(例:「Say You Do」=83年、米ディスコ11位)。

デビュー盤は、ジャクソンズと同じようなきょうだいグループだったシルバーズの中心人物で、70年代後半の「ディスコ仕掛け人」の一人でもあったレオン・シルバーズらがプロデュース。2枚目は、ドナ・サマーをスターに育てたかの“エレクトロディスコの大魔神”ジョルジオ・モロダーとピート・ベロッテが万全の態勢でプロデュースを担当したのですが、デビュー盤よりも売り上げが落ちる始末だったのです。

2枚のアルバム自体、大物プロデューサーを起用した上に、偉大な兄達やジャクソンズ人脈の手練れスタジオミュージシャンの助けを借りた割には、「可もなく不可もなし」のアイドルR&B歌手としての作品内容でした。ステーシー・ラティソウやステファニー・ミルズイブリン・キングのような20歳前後の売れっ子黒人女性歌手が数多く輩出していましたから、その中に埋もれてしまった感もあります。

このころは、公私ともに壁にぶち当たった時期でした。「Dream Street」発表の後、父親のマネジメントから離れて独立。姉ラトーヤ、兄マイケルの自伝「La Toya」と「Moon Walk」などにも書かれていますが、とにかく父親が音楽活動に対して厳格で、しょっちゅう暴力も振るう人物だったために、嫌気が差して逃げ出してしまったのが真相でした。84年には突然、幼なじみで、「I Like It」「Rythm Of The Night」などのソウル&ディスコヒットで知られるデバージ(これまたきょうだいグループ)のジェームズ・デバージと電撃結婚し、すぐに離婚するという「お騒がせ事件」も起こしています。

停滞期の真っただ中の85年には、姉ラトーヤと一緒にいきなり東京の「世界歌謡祭」(ヤマハ音楽振興会主催)に出場して見事(?)「銀賞」を獲得しました。まあ、とりわけ兄マイケルの破竹の勢いと比べると、とても地味な状態が続いていたわけです。

しかし、日本がバブル期に突入した1986年に大変身したのがジャネットさんのもの凄いところ。少女風の出立ちを果敢に捨て、「ちょいワル」な感じで大人びた雰囲気のアルバム「Control」(下写真)を発表したら、なんとまあ、空前絶後の大ヒットを記録してしまったわけです。

カットされたシングルの全米チャートだけでみても、「What Have You Done Fome Me Lately」(R&B1位、ディスコ2位)、「Nasty」(同1位、同2位)、「When I Think Of You」(同3位、同1位)、「Control」(同1位、同1位)、「The Pleasure Principle」(同1位、同1位)といった具合に、兄マイケルをも凌駕する大爆発ぶりを見せつけたのでした。

プロデューサーは、SOSバンドなどを手掛けたことで知られるジャム&ルイス(Jimmy Jam & Terry Lewis)。さらにプロモーションビデオでは、ブレイク前のポーラ・アブドゥルを「ダンス振付師」として起用しています。その後のニュージャック・スイング・ブームを予感させるようなシンセサイザー重視の鋭角的なビートと挑戦的な歌詞は、まさに斬新。MTVなどですっかり定番になった彼女のダンスは、正確無比そのもの。「ついさっきまでの甘えん坊末っ娘歌手」の変貌ぶりには、まったく度肝を抜かれたものです。

私自身、当時のあほあほバブルなディスコの現場では、ホイットニー、マイケル・フォーチュナティープリンス、ジョディ―・ワトリーあたりと並んで、いや一番耳にしたであろうアーチストでした。とりわけ、最近あの世にも恐ろしい「クラブ・フラワー撲殺事件」が勃発した六本木ロアビルにあった「リージェンシー」というディスコで、ジャネットのNastyやらControlやらが盛んに流れていました。それでも、格差社会や貧困問題、ドラッグの蔓延などとはまだほぼ無縁で浮かれ気分だったあの時代、フロアはどこまでも平和で能天気だったわけですけど。

豹変ジャネットさんは、「Control」の後も大勢力を持続し、「Rhythm Nation 1814」(89年)、「Janet…」(90年)と発表アルバムはことごとく大ヒット。押しも押されぬ大スターの座を不動のものとしました。90年以降、そして21世紀のクラブ時代にもしっかりと根を下ろし続けるパワーはさすがですけど、原点はやはり「Control」にあったといえるでしょう。

CDはとにかく大量に出ておりますので心配御無用でございます。「Control」については、ディスコ的には12インチバージョンで構成された「More Control」か「Control Remixes」あたりは必須と思われます。

Janet86

デキシーズ・ミッドナイト・ランナーズ (Dexys Midnight Runners)

Dexies Midnight Runners時間があるので、さっさと次行きま〜す。ジグソーばりの一発屋といえば、この人たちも私にとっては印象深い。80年代にいきなり大ヒットを飛ばした途端、さっそうと表舞台から走り去ってしまった「デキシーズ・ミッドナイト・ランナーズ」であります。

82年に出したアルバム「Too-Rye-Aty(邦題:女の涙はワザもんだ!!)」からのシングルカット「カモン・アイリーン」があれよと言う間に全米1位(ビルボード一般チャート)を獲得したのですが、それっきりになってしまいました。

この曲は、しょんぼりしたアルバムジャケット(写真)とは対照的に、やけに陽気なアコースティックかつフォークダンスな曲調です。なんだか、日本人なら誰でも知っている米国民謡「オクラホマ・ミキサー」(原曲はTurky In The Straw)みたい。そんな牧歌的フォーク&カントリーにソウル、ロックの要素を組み合わせた英国発ニューウェーブサウンドです。シンセサイザーが使われていないディスコ曲は既にほとんどなくなっていた時期だけに、異色のダンスヒットとなりました。

このグループは、アイルランド系英国人のケビン・ローランド(Kevin Rowland)が中心になって結成し、自らリードボーカルも務めています。「ミッドナイト・ランナーズ」とは、「(薬物などでハイになって)夜通し踊る人々」の意味。彼はもともとパンクロッカーだったのですが、自身のルーツでもあるアイルランド音楽、さらにはアイルランド人の先祖にあたるケルト人の民族音楽を基調としたユニークな音に目覚め、結果的に(1曲だけだが)名作を世に残したのです。バイオリンやバンジョー、アコーデオンといった生楽器を導入し、独自の世界観を創り上げたのでした。

先に述べた「フォークダンスぶり」は、彼がアイルランド系であることに起因します。18世紀以降、隣の大国・英国の圧迫や飢饉から逃れようと、貧しきアイルランド人が大量に米国に移住してゆきましたので、米国の民謡(フォークソング)や民族舞踊(フォークダンス)といったルーツ音楽には、ケルト音楽やアイリッシュダンスといったアイルランド風味がふんだんに盛り込まれています。「デキシーズ…」と「フォークダンス」の親和性、相似性には、そんな背景があると考えます。

私自身、「カモン・アイリーン」は当時のディスコでよく耳にしました。直前にかかっていたマイケル・ジャクソンデュラン・デュランなどのシンセでポップな流行曲との“繋がりの悪さ”を薄々感じながらも、フロアはけっこう老若男女で埋め尽くされたものです。ほかの曲では絶対にそんなことなかったのですが、後半に曲のテンポが加速度的に上がっていく部分があったりして、その違和感がかえって人々の意表を突き、「歓喜の舞」へと駆り立てたのでした。

このアルバムには、ほかにもカモン・アイリーンを多少速くした曲調の「ケルティック・ソウル・ブラザーズ」のような小気味よいダンス曲がありました。「カモン…」以降は人気が急落してしまったのは残念ですけど、かつて新天地を求めて米国に渡ったアイルランド移民のごとく、不況で失業者が急増していた80年代欧州の若者の憂さを晴らすかのような、元気な音楽を残してくれたわけです。

CDはほかのアルバムやベスト盤(?)を含めて各種出ておりますが、ディスコ的には「ワザもんだ!!」が1枚あれば十分だと存じます。

ジグソー (Jigsaw)

Jigsawこの人たちは、もう絶対にあの曲しか浮かびません。……いや、いくらなんでも、もう1曲ぐらいあったはずだぞ……やっぱり、残念ながらどうしても浮かびませーん。……ハイそうです、「スカイ・ハイ」。

というわけで、今回は「天下御免の一発野郎」ジグソーであります。まあ、いまさら「リング・マイベル」「ディスコ・ダック」なんかの例を出すまでもなく、ディスコってやつは一発屋を大量に生んだジャンルですので、別にどうってことはないのですが、それにしても切な過ぎる、この一発ぶりは。

この曲は1975年の発売。文字通り天にも昇るような明るさと、親しみやすいにもほどがあるポジティブ・メロディー&リズム進行を特徴としています。米ビルボード一般チャートで3位まで上昇するなど、世界的に記憶される名曲の一つとなりました。ただし、詞の内容は「どうして僕たちの愛は終わらなければならなかったのか! 君が空高く吹き飛ばしてしまったんだぞ!」といった感じで、失恋を明るく歌っているようですが。

とりわけ日本での人気は別格で、当時テレビで大人気だったプロレスラーのリング入場曲に使われたこともあります。近くのスーパーの特売セールや子供向けイベントの会場などで、誰もが一度は必ず耳にしたことがあるはずです。当然ディスコでも流行りましたが、ホントにかかっちゃったら恥ずかしくて踊れなくなることウケアイです。

さて、そんなジグソーとはどんな人々なのでしょうか。実は、60年代から80年代にかけてかなり長期間、活動した英国のグループで、デビュー当初は相当に過激なハードロックバンドでした。あまりにも売れなかったからなのか、70年代には節操なくビートルズみたいなソフトロック路線に変更。それでもあまり売れなかったけれども、ディスコっぽさを導入した75年にかろうじて「スカイハイ」をヒットさせたのでした。

それでも、よくよく聴いてみれば、他の曲もそんなに悪くはありません。リードボーカルのデス・ダイヤー(Des Dyer)を中心としたコーラスワークは美しくまとまっていてなかなか印象的ですし、演奏もアレンジもしっかりしている。随所にシンセサイザーのような新しい技術を導入するなど、工夫の跡もみられます。

例えば、ギルバート・オサリバンみたいなポップロックの「Who Do You Think You Are」とか、いかにも70年代なバラード「My Summer Song」とか、メロウソウルな雰囲気の「You Bring Out The Best In Me」(素敵なMC付きのYouTube動画でどうぞ)なんて、(ディスコではないにせよ)もっとヒットしていても不思議はないほどの佳作だと思います。でも如何せん、ハードロックからディスコ、R&Bまでがむしゃらに手出しした分、キャリアを通してのバラバラ感や個性の乏しさ、軽さはどうしても否めません。

やっぱり、すべてにおいて「天下御免のスカイハイ」の大成功が災いしたのではないでしょうか。この曲はあまりにもインパクトが強過ぎました。もう完全に「ジグソー=スカイハイ=天下御免」が成立しています。もちろん、「不発の無名」よりはずっといいわけですけどね。

ジグソーのCDは、一発屋とはいえベスト盤がいろいろ出ています(全曲スカイハイというわけではなく)。5、6年前には、日本盤で個別アルバムもいくつかCDで発売されていまして、写真はその1枚の「Pieces Of Magic (邦題:恋のマジック)」(ビクター)。「スカイハイ」の後の77年に発売されたものですが、mrkickとしては恐る恐る買ってみたわけです。知らない曲ばかりでなんだか怖かったのですけど、意外や意外、ポップあり、かなりアゲアゲなシンセサイザー・ディスコあり、ファンク風あり、バラードありと、けっこう楽しめました(やっぱりバラバラなわけだが)。

シェイラ&B.ディヴォーション (Sheila & B. Devotion)

 Devotion Spacerいやあすいませ〜ん。落下傘で降りてきちゃいました!……というわけで、今回はパラシュートに赤いコスチューム(でも目は笑っていない)、さらに周囲には謎の怪鳥プテラノドンが飛び交う意味不明なジャケットでお馴染みのシェイラさんであります。

シェイラさん(本名:Anny Chancel)は1945年フランス生まれ。実は以前に紹介したフランス・ギャル、シルビー・バルタンと同様、60年代にはフランス発の少女ポップス音楽である「イェイ・イェイ(ye-ye)」のトップスターとして鳴らしました。70年代後半には、男性ダンサーをくっつけて「シェイラ&B.ディヴォーション」というグループ名となり、ディスコスターとして活躍しています。

「イェイ・イェイ」の歌手たちは、英語で言う「ガール・ネクスト・ドア」(隣のお嬢さん)的な身近な存在であり、昔のアメリカで言えばオリビア・ニュートン・ジョン、日本で言ったら松田聖子なんかのアイドルに近い。女性アイドルには大きく「セクシー系」と「非セクシー系」があるといえますが、シェイラさんは後者の方で、「あらシェイラさん?こんにちは」とあいさつすれば、「こんにちわ〜!」と明るい笑顔で返ってきそうなところが魅力でした。確かに、隣に住む“セクシー系の権化”マリリン・モンローやマドンナやビヨンセに「あらあらこんにちは!」なんて声を掛けても、貫録たっぷりにシカトされそうです。

そんな親しみ安さ抜群のシェイラさんの人気も、70年代にイェイ・イェイ・ムーブメントが終わると陰りを見せました。そこですかさず目を付けたのが、大流行し始めていたディスコ。もともとアイドルとディスコの親和性は高いので、いくつかのヒットを飛ばすことができたわけです。

「ディボーション」としての最初のアルバム「Singin' In The Rain」(77年)からは、タイトル曲が欧米でヒット(米ビルボードディスコチャート30位)。2枚目の“意味不明ジャケット”の「King Of The World」(80年、写真)からは、「Spacer」という曲がヒット(同44位)しました。特に2枚目はナイル・ロジャーズとバーナード・エドワーズがプロデュースしており、「Spacer」を聴くと、イントロのピアノソロが非常に印象的である上、いかにも彼ららしい流麗なメロディーやギター&ベースリフが展開していて秀逸です。ただし、シェイラさんの歌声は今一つなので覚悟する必要がありますが。

2枚のアルバムの発売以降は、ディスコブームが終わったこともあり、人気がパラシュートのように急下降してしまったのは残念なところ。でも、数あるフレンチディスコの代表例として、疾風怒濤のディスコ界に一定の貢献を果たしたといえます。CDは、2枚のアルバムの再発、それにベスト盤が欧州ワーナーミュージックから出ています。
プロフィール

mrkick (Mr. Kick)

「ディスコのことならディスコ堂」----本名・菊地正憲。何かと誤解されるディスコを擁護し、「実は解放と融合の象徴だった」と小さく訴える孤高のディスコ研究家。1965年北海道生まれのバブル世代。本業は雑誌、論壇誌、経済誌などに執筆する元新聞記者のジャーナリスト/ライター/翻訳家。もはや踊る機会はなくなったが、CD&レコードの収集だけは37年前から地味〜に続行中。アドレスは↓
mrkick2000@gmail.com

*「下線リンクのある曲名」をクリックすると、YouTubeなどの音声動画で試聴できます(リンク切れや、動画掲載者の著作権等の問題で削除されている場合はご自身で検索を!)。
*最近多忙のため、曲名質問には基本的にお答えできません。悪しからずご了承ください。
*「ディスコ堂」の記事等の著作権はすべて作者mrkick(菊地正憲)に帰属します。

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