Sharon Redd80年代前半に隆盛を極めたニューヨーク・ディスコの代表レーベルといえば、今はなきプレリュード。現在のR&Bにも通じる都会的なクラブヒットを連発したわけですが、中でもシャロン・レッドは特筆すべき所属アーチストでありました。1992年、この人もエイズで亡くなりました。享年46。遅咲きの花は、散るのも早かった。

1945年、ニューヨーク生まれ。実父がキング・レコードに勤め、継父もジャズのベニー・グッドマン・バンドのメンバーでした。さらにきょうだいたちも、クール&ザ・ギャングのプロデューサーだったり、プロの歌手だったりと、まさに音楽一家の血統だったのです。

彼女自身は、70年代に入って、まずミュージカルの道に入りました。出演したのはなんと、前回投稿のメルバ・ムーアと同じ「ヘア」であります。ベッド・ミドラーのバック・コーラス・グループに入っていた時期もあります。そうして少しずつ実績を積み、プレリュードと契約。80年代に入ってようやく、ディスコ/クラブ音楽の歌手として名を上げるようになりました。血筋の割には、売れるまでにけっこう苦労を重ねたわけです。

最初のヒットは、ファーストアルバム「シャロン・レッド」(80年)に入っている「キャン・ユー・ハンドル・イット/ユー・ガット・マイ・ラブ」(2曲でワンセット扱い)で、全米ディスコチャートで5位まで上昇。続く82年発売の2枚目のアルバム「レッド・ホット」は、全曲セット(All Cuts)扱いで見事1位に輝きました。このアルバムには、「イン・ザ・ネーム・オブ・ラブ」、「ネバー・ギブ・ユー・アップ」、「ビート・ストリート」などの名曲が収録されています。このあたりがピークだっといえます。

83年の3枚目「ラブ・ハウ・ユー・フィール」も、アルバム同名曲と「ユーアー・ア・ウィナー」が中ヒットとなりました。このころ、私は札幌のディスコで「ユアー・ア・ウィナー」を耳にして気に入ってしまい、地元の輸入盤店で12インチを購入した覚えがあります。曲調は、派手さや華やかさはないのですけど、落ち着いていてまったりした感じ。何より、シャロンさんの一風かわった低めの声質が好きになったのでした。

でも、気がつけば、彼女もこの世にいなかったのですなあ。何年か遅れて知ったときは、感慨深いものがありました。以前にも触れたように、ディスコアーチストは短命な人が多いのであります。とりわけエイズが死因のケースが目立ちます。彼女の場合、性交渉起因説とドラッグ起因説と、二通りの説が流布しているようですが、以前の投稿で触れたボーイズ・タウン・ギャングドナ・サマーのエピソードを思い出させます。

彼女は海外、特にアメリカでなお根強い人気があるようです。左記リンク先にある米国ディスコHP「Discomusic.com」を閲覧すると、彼女のアーチスト説明欄には、他のアーチストと比べても、かなりの数の追悼コメントが付いています。確かに、アメリカでのディスコブームが下火になった時代にあって、実力を発揮できた数少ないディスコ系歌手だとはいえると思いますね。

CDはまあまあ再発されている方だと思います。84年に倒産したプレリュードの権利が、カナダの現役ディスコレーベルであるユニディスクに引き継がれていることが大きいのだと思います。写真はそのうちのアルバム「シャロン・レッド」。「キャン・ユー・ハンドル・イット」が怒涛の4バージョン、収録されています。