Giorgio Moroder巨匠ジョルジオ・モロダーについては、イタロ・ディスコの創始者としても捉えたいところです。いうまでもなく、「ミュンヘンディスコ」といわれた1970年代後半のドナ・サマー(当時ドイツ在住)とのコラボレーション「ラブ・トゥ・ラブ・ユー・ベイビー」(75年)などで有名になったのですが、彼はもともと、イタリア生まれのドイツ在住イタリア人。イタリアン・ポップス業界にこそ多大な影響を与えました。

イタロ・ディスコは70年代後半、ジョルジオとジャックス・フレッド・ぺトラスの2人によって打ち立てられたといっても過言ではありません。ジョルジオはシンセサイザーを使ったディスコの「四つ打ち」のドラム&ベース・ラインの面で、フレッドはキャッチーなメロディーラインの面でそれぞれ影響を与えたわけです。

イタロ・ディスコは80年代、フレッドのプロデュースによるThe B.B. & Q Band(「オン・ザ・ビート」など)とかチェンジ(「パラダイス」など)といったファンク系のバンドも出たものの、全般的にはますますかる〜いタッチのシンセ・ディスコと化します。ディスコマジックやタイム・レコーズなどのレーベルから大量の「ほんわかタイプ」の曲が発売されるようになりました。代表的なのは「ドルチェ・ビタ」のライアン・パリスや、「オンリー・ユー」のサーベッジ(Savage)あたりでしょうか。

やがて、80年代後半からは、ユーロビートとかイタロハウスといった感じになる。デン・ハロウ(「フューチャー・ブレイン」など)とか、ガゼボ(「アイ・ライク・ショパン」など)あたりが人気を博します。日本でもエイベックスのようなレコード会社が次々と安く版権を買って、普及させていきました。

なぜ、80年以降にイタロ・ディスコが大量生産されたかというと、当時、イタリアの経済力が弱まり、通貨のリラが安く、米ドルが高くなってしまったという背景があります。音源獲得などの点で、米国からの輸入が高くつくようになったため、しかたなく自国製ディスコの製造に走ったということです。

80年代のイタリア産ディスコは、「経費を安くあげよう」がスローガン。楽器はシンセのみ、ボーカルもギャラの高いメジャーな歌手を使わず、新人ばかりを起用しました。曲がヒットして、歌手がギャラのアップを要求すると、容赦なくクビにしたそうです。そんなこともあって、例えば、デン・ハロウという人物は実際は3人いました。歌手名はある種の「ブランド名」でしかなかったのです。

ここら辺が、「ディスコは粗製乱造だ」と言われてしまうゆえんでしょう。けれども、安く作っている割には、どの曲もなかなか良いと私は思います。「おばかでチープ」はディスコ的には大歓迎。要は聴いて、踊って、楽しめればそれでよいのですから。感覚的に好きなのであれば、後は理屈は要りません。ジョルジオ・モロダーが築いたシンセ道は、母国でしっかり開花したと言わざるを得ません(断定)。

写真のCDは、ご存知ジョルジオの出世作「From Here To Eternity」。この中で展開する上質で未来的なシンセ音は、文字通りイタロ・ディスコの永遠(eternity)への道を暗示するかのようですな。現在のテクノやトランスやハウスの音に占めるシンセの比重を考えれば、なおのことでしょう(再び断定)。