ボハノン「90年に入ると、別のビジネスで忙しくなった」。70年代から80年代にかけてのディスコ時代を彩ったミュージシャンであるボハノンは今、こう振り返っています。「別のビジネス」とは、ほかのアーチストの曲の一部を切り取る「サンプリング」からの著作権収入のことです。

ボハノンは1942年米ジョージア州生まれ。小学生からドラムに熱中し、中学に入るころには自分のバンドを結成。地元の飲食店などで演奏しながら腕を上げていきました。高校卒業後は、大学の音楽科に進んで教員資格を取り、そのまま小学校の教師になりましたが、「音楽を本格的にやりたい」とまもなく休職して、プロのドラマーへの道を歩みだします。

幸運にも、実力はすぐに認められました。ブラックミュージックの頂点に君臨するモータウンレーベルが、彼のバックミュージシャンとしての評判を聞きつけ、当時14歳の花形スターだったスティービーワンダーのドラマーとして契約したのです。このころのバンド仲間には、レイ・パーカーJrやマイケル・ヘンダーソンがいました。その後も、テンプテーションズ、ミラクルズ、ダイアナ・ロスといった大スターと共演を重ね、業界内での地位を確立したのです。

ソロとして活動を始めたのは70年代半ば。「ディスコ・ストンプ」、「フット・ストンピン・ミュージック」、「ボハノンズ・ビート」といった典型的なディスコヒットを飛ばしました。中でも、78年発売の「レッツ・スタート・ザ・ダンス」はビルボードのディスコチャート最高7位となり、長く定番となりました。いずれも、彼の得意とするジャズの雰囲気に満ちた、踊りやすいファンクナンバーとなっています。

そんなボハノンも、80年代に入るとさすがに人気が失速。一時は「子供たちとの時間を増やしたい」と休業するなどしましたが、80年代後半に再び、光を浴びることになります。70年代のダンスクラシック復活の動きが出てきたのです。ヘビー・D・アンド・ザ・ボーイズやクレイグ・マックといったアーチストがボハノンの曲をサンプリングするようになりました。ボハノン自身、最近のあるインタビューで「サンプリングの権利収入がすっかりフルタイムの仕事になった」と述べています。

私自身、ボハノンについては、80年代までは名前と曲を知っている程度で、特別にファンではありませんでした。意識するようになったのは、新しいブラックミュージックの流れであるニュージャックスイングがはやりだしたころの90年、C+Cミュージックファクトリーの「エブリバディ・ダンス・ナウ」を聞いてからです。巷でしつこいぐらいかかっていたこの曲の「エブリバディ・ダンス・ナウ!!」という女性の掛け声が、かの「レッツ・スタート・ザ・ダンス」の途中で入ってくる女性の叫び声とほぼ同じだったのです。

ディスコの曲がサンプリングされたり、曲調が真似されたりするのは今ではごく普通のことになりました。「人の曲で飯を食うとはなさけない。アーチストなら自分で音を創造しろ!」などと青臭く憤った時期もあったものの、かつてのディスコアーチストにとって貴重な収入源にもなりうるのだと知って、「まあいいかな」と考え直すことにしています。ボハノンをはじめとする昔のアーチストの曲が別の形で受け継がれていくこと自体、歓迎すべきことなのかもしれません。

写真のCDは数あるボハノンのベスト盤の一つ。ヒット曲がほぼ網羅されている上、復刻モノの音質の良さで名高いライノレーベルなので、安心して聞けます。ライナーノーツには彼の昔の写真がいくつか掲載されているのですが、トレードマークだったというでっかいドラムスティック(長さ80センチ以上?、直径最大4センチほど?)に注目。「何か意味があったのだろうか」と少々不安になります。
ボハノンのスティック