
54年、モータウン・レーベルの本拠地であるデトロイトに生まれたレイ・パーカーJr.。80年代初頭の日本で言う“ブラコン”時代に、本格的なブレイクを果たしましたが、本当はかなり早熟です。まだ十代だった60年代後半に既に、地元のクラブで「カッティングの名手」のギタリストとして名声を得ており、すんなりとスカウトされてプロの道に入ります。最初は同じデトロイトのスピナーズなどのバックミュージシャンとして活躍し、70年代にはバリー・ホワイトやスティービー・ワンダーらのもとで着々と地歩を築いていきました。
スティービーなどは、ホントに若きレイ・パーカーに惚れこみ、自ら「オレのバックで弾いてほしい」と電話。けれどもレイ・パーカーは「ウソだろ?」と電話を切ってしまいました。ちょー慌てたスティービーは、再びすぐに電話して、彼のヒット曲「迷信」の一節を必死に口ずさみ、ようやく納得して快諾してもらったというエピソード(伝説)があるほどです。
77年ごろには、自分中心のバンドであるレイディオ(Raydio)を結成し、「Raydio」(77年)と「Rock On」(79年)の2枚のアルバムを出し、いずれもヒットしました。前者には「Jack & Gill」(R&B5位、一般8位)という、彼のキャリアを通しても代表曲とされるヒットシングルが含まれています。ディスコブームの絶頂期に出た後者は、まさに「ディスコ・オンパレード!」のアルバムで、バーケイズばりの「ぶいぶいシンセ」を多用したよりファンキーな内容になっています。(例:Hot Stuff)
Raydioのメンバーとしては、後の84年に「Breakin'」(ディスコチャート1位)のブレイクダンス・ヒットを飛ばすオリー&ジェリーのオリー・ブラウンも、ドラム担当で参加していました。
80年代に入るともっと勢いが増し、「Ray Parker J. & The Raydio」や「Ray Parker Jr.」の名義で、前述のウーマン・ニーズ・ラブ、「The Other Woman」(82年、R&B2位、ディスコ24位)などのヒットを連発します。軽快なリズムで万人をフロアへといざなう「Bad Boy」(82年、R&B6位)、インストのダンス・クラシックとして名高い「Still In The Groove」(81年、ディスコ35位)、特に日本のフロアでお馴染みだった「パーティー・ナウ」(81年、ディスコ61位)といった定番どころも、このころにシングル化されました。
ところが、80年代半ば、なんだか雲行きが怪しくなっていきます。原因はあの「ゴーストバスターズ」であります。当ブログでも2年前に触れましたが、曲そのものは彼最大のヒット(84年、一般とR&B1位、ディスコ6位)となったものの、ファンキー・ソウル畑の「歌ってよし、弾いてよし」の一流ミュージシャンにしては、どうにもしまらない「ふにゃふにゃ」な感じ。「これは子供向けですね」というプロモビデオにも出演していましたが、レイパーカーの「まあ、売れたんだからいいじゃん」的なやや自虐的な笑顔を見て、私は涙が止まりませんでした。
しかもこの曲、同時期に売れていたヒューイ・ルイスの「I Want a New Drug」のパクリだとして問題化。ヒューイ・ルイスが抗議し、結局二人は、レイ・パーカーが解決金を払うことで和解したのでした。つまり、パクリ(盗用)を認めたわけですな。
さらに二人の因縁の対決は続きます。2001年、逆にレイ・パーカーがヒューイ・ルイスを提訴したのです。盗用問題の和解内容として「解決金を払ったことは互いに公言しない」と決めていたのに、ヒューイ・ルイスがテレビでしゃべっちゃったというのです。まだ係争中なのかどうか、その後の経緯は不明ですが、完全にこじれちゃってます。
思うに、レイ・パーカーは、ゴーストバスターズさえなければ、ずっと一流でいられたはずですね(断定)。ディスコ期の大スターが、とりわけ80年代に入って凋落していく例は、このブログでも何度も取り上げていますけど、かなり悲惨な部類だと考えております。事実、レイ・パーカーは、あれ以降、「I Don't Think That Man Should Sleep Alone」(87年、R&B5位)などを除いては、さしたるヒットも名作も産んでいません。
というわけで、彼のホントの絶頂期は、実はRaydio時代あるのではないか、という強引な仮説を立てました。無邪気にディスコに没頭していた時代の方が、まだ自由奔放で可愛げがあった。「盗用してまで売れてやるぜ(笑)」みたいな気負いがなく、何より曲の内容も演奏も良かった気がするのです。
Raydio時代のアルバムのCD化は、長らく実現していなかったのですが、なぜか日本盤で最近、2枚とも紙ジャケット仕様で再発されました(写真は「Rock On」)。これには世界中のディスコフリークも驚いていて、英語のディスコサイトなどでは「なんで日本人はこういうレア盤、珍盤をどんどんCD化できるのか?」と話題にしているほどです。面倒なマスターテープの確保や、年月が経っていて複雑になっている権利問題をクリアしてでも再発する市場価値があるということでして、一定のセールスが見込めるほどに、コアなソウル/ディスコファンが日本にいる証だともいえます。
そんなディスコ系の「意外な日本盤CD化」の例としては、最近ではスリー・ディグリーズのジョルジオ・モロダー・プロデュース時代のアルバム「ジャンプ・ザ・ガン」と「恋にギヴ・アップ」、それにYMOの「ビハインド・ザ・マスク」のディスコ・リメイクで知られるグレッグ・フィリンゲンズの「パルス」などがあります。ただし、速攻で廃盤になるので、私が知らない間に中古で「超貴重盤化」している場合も少なくありません。Raydioもその類になるのだろうと推測されます。
ついでに、あのボーカルの人(カーマイケル?)が、その後どうなったかも、ご存じでしたら、お教えください。