Haywoode今回は80年代の中・後半から。イギリスが生んだ短期間限定ディスコディーバ、ヘイウッドさんで〜す。

「ミニテバ、ミニテバ♪(minite by minite)」……。当時とにかくよくフロアで耳にしたのが、このアーバン風味で耳に心地よい女性コーラスのイントロで入ってくる「Getting Closer」(85年)です。私にとっては、六本木あたりのネオン輝く“うれし恥ずかしバブルディスコ”を象徴する一曲でもあります。

彼女の曲を担当した主なプロデューサーは、バナナラマリック・アストリーなどの大物を手がけたご存知ストック・エイトケン・ウォーターマン(SAW)です。ちょうどデッド・オア・アライブのプロデュース成功でようやく芽が出始めた1985年ごろ、後に主力分野となるユーロビートとはひと味違うR&B系の黒人女性ボーカルとして育てようとしていたのが、プリンセス(Princess)とこのヘイウッドでした。

とりわけヘイウッドの方は、少女時代から歌とダンスに熱中し、下積みを経てメジャーレーベルのCBSと契約。83年にはシングル「A Time Like This」でレコードデビューまで果たし、さらには「I Can't Let You Go」(84年)、「Roses」(85、米ディスコチャート30位)をリリースしていました。順調に地歩を固めていたので、SAWサイドの期待も大きいものでした。

けれども、アメリカ、本国英国ともにチャート上位に惜しいところで食い込むことができなかったことから、CBSは宣伝にあまり力を入れなくなりました。結局は、ヒットメーカーSAWの協力を得ながらも、「Getting Closer」と「Roses」などが一瞬、ディスコで受けた程度という哀しい展開。それまでのシングルを集めた待望の「アライバル(Arrival)」というアルバムを85年に一枚出し、ほかにディスコシングルを数枚出したきりで、表舞台からは去ってしまったのです。皮肉にも、Arrival(到着)した途端に消える運命となったのでした。

おまけに、SAWの方はヘイウッドとの関わりがなくなった直後、前述のバナナラマ、リック・アストリーのほか、メル&キム、カイリー・ミノーグらを次々とプロデュースして「お気軽ユーロビートの権化」として特大の成功を収めたのでした。ヘイウッドさんって、まったく不遇な人としかいいようがありません。

ただ、「アライバル」自体の評価は、世界のDJやディスコ界の好事家たちの間では古くからとっても高かったのです。「アライバル」は伝説化し、80年代に日本でのみ発売されたCDは、eBayなどのオークションサイトで数百ポンド(数万円)の値を付けるほどでした。でも、本人からすれば新譜として売れなければ収入に結びつかないわけですから、悔しさもひとしおだったはずです。

ところが……そんな“幻のディーバ”ヘイウッドさんの「アライバル」のCDが、20年以上もの時を経て先ごろ、UKソニーからなぜか再発となりました(写真上)。日本でかつて発売されたCDと同様、12インチバージョンがふんだんに収録されているのが非常にありがたいところです。私もディスコでよく聞いた「I Can't Let You Go」のロングバージョンが入っていないのが惜しいのですが、近年まれに見るディスコ系の“珍盤発掘”CDとなっております。

このCDの特徴として、英文ながらライナーノーツが充実している点が挙げられます。字がものすご〜く細かくて、乱視がひどくなってきた私などは虫眼鏡がないと読めないほどなのですが、ヘイウッド本人や関係者のインタビューが豊富に入っていて、本格的なノンフィクションの構成でとても読み応えがありました。

ヘイウッドはなかなか気骨ある女性だったらしく、ライナーノーツには、「ヘイウッドは子供のころ、学校の合唱団員として英国のテレビに出る機会があったが、自分だけ黒人だったので番組プロデューサーから出演を辞退するように説得された。しかし、気丈な彼女は堂々と出演した」といった記述が見えます。

さらに、ヘイウッド自身が「10代の下積みのころ、ダンサーの仕事があるというのでイタリアにいったら、ほとんど裸で、乳首に花だけをあしらってステージで踊るような内容だったの。私頭にきて、即座に断ってイギリスに帰ってきたわ」とコメントしています。

1983年、ディスコでも人気があったブラマンジェというニューウェーブ系アーチストのシングルヒット「Waves」のプロモーションビデオに出演した際のエピソードについても「私の役は『人魚』だったのよ。実際に海に行ってね。なんと真冬の1月に!。おかげでウィスキーをたっぷり飲まないとやってられなかったわ」と熱〜く証言してます。

実際にそのYouTubeビデオがありますので以下、張っておきましょう。たぶん途中で出てくる3人(頭?)の人魚のうち、左端ではないかと推測されます。……にしても、そこまで根性をむきだしにした苦労人であったならば、歌手としてちゃんと活躍させてあげたかった気もいたします。