
この人たちはもう、「燃えるディスコアーチスト」と断定して構わないと思います。何しろ代表アルバムは、ディスコ映画「サタデーナイト・フィーバー」でも表題曲が使用された「Disco Inferno=ディスコ・インフェルノ」(ディスコ灼熱地獄、77年、米ディスコチャート1位)。しかも、60年代半ばの結成当初のグループ名は「Volcano=ボルケーノ」(噴火口)ですので、既に爆発エネルギーが有り余っている状態で音楽活動を始めたことになります。
ほかにも、「That's Where The Happy People Go」(76年、同1位)、「ディスコ・パーティー」(76年、同1位)や、80年代のフジテレビの人気番組「なるほど!ザ・ワールド」のテーマ曲でもあった「トランプス・ディスコのテーマ(Trammps Dsico Theme)」、「Hard Rock And Disco」(80年、同76位)など、もろ「ディスコ」がテーマのヒット曲が目白押しである上、「Zing Went The Strings of My Heart 」(72年、米R&Bチャート17位)のように、早くも70年代初頭から、やがてホントに大爆発するディスコブームに向けたダンサブルな曲作りにいそしんでいたことから「本格的ディスコバンドの元祖」とも言われているのです。
主に活躍したレーベルは、ソウルとディスコを融合させた「フィリーサウンド」で知られるフィラデルフィア・インターナショナル・レコード(PIR)で、グループの中心人物はアール・ヤング(Earl Young)。このアールさんはドラム奏者兼低音ボーカリストでして、「テケテケテケテケ、テケテケテケテケ♪〜」と2小節32ビートを連ねる「ドンドコ生ディスコドラム」の元祖といわれるほど、黒人ディスコ界ではとても重要な人物です。
この人たちの代名詞「ディスコ・インフェルノ」は、同時期に大ヒットした映画「タワーリング・インフェルノ」にヒントを得て作られたと言われております。軽快なディスコビートに乗せて、「Burn, Baby, Burn♪=バーン、ベイビー、バーン♪」(燃えろや燃えろベイビー!)と連呼するという、それはそれは恐ろしい曲なのでありました。ただでさえ、履いてる本人にとっても隣で踊る他人にとっても危険極まりない超厚底靴で溢れた熱いフロアが、ますますめらめらと燃え上がることウケアイです。
アルバムとしては、もう一枚、77年に発売された「ディスコ・チャンプス(Disco Champs)」も面白い。もともと彼らが70年代前半にシングルとしてリリースしていた「Where Do We Go From Here」、「Love Epidemic」、前述の「Trammps Disco Theme」といったダンス曲数曲を、かのディスコリミキサー王のトム・モールトンがミックスし直し、完全無欠のディスコアルバムへと変貌させた内容になっているのです。ですから、これ1枚をかけ続けるだけで、しばらくは往時のディスコセンセーションを味わうことができるという趣向になっています。
ただし、この人たちの選手寿命はとても短かった。ディスコブームが終わった80年以降も、移籍先のアトランティック・レーベルから、息を吹き返したロックに急接近した前述の“無理矢理融合ディスコ曲”「Hard Rock And Disco(ハードロックとディスコ)」(注:曲自体は結構ノリがよくて悪くないが)を出すなどしてみたものの、セールス的には落ち込む一方となります。やがてメンバーが離脱したり、不仲になってしまったりして、自己崩壊を起こしてしまったのでした。これまで何度となく触れてきた「節目の80年」をうまく越えられなかったアーチストのひとつに数えられるでしょう。
80年代初頭からディスコに行き始めた私も、この人たちの曲をフロアで聞くことはもはやありませんでした。シンセサイザードラムの時代となり、アールさんの「早打ちドンドコ生ドラム」自体、古臭さが否めない状況になっていたのは残念でした。
彼らが70年代に出したアルバムのCDは、ベスト盤を含めてまずまず順調に制作されています。上写真は米アトランティック盤の「ディスコ・インフェルノ」。「Disco Champs」(下写真)の方も、5年前に米PIR盤として再発されています。とりあえず、先駆者たちに敬意を込めて「ディスコファン必聴!」と明記しておきましょう。
