Janet84さ〜て、今回は何食わぬ顔でジャネット・ジャクソンさんで〜す! これまたバブル期の1980年代後半、ホイットニー・ヒューストンと並んで黒人歌姫の名をほしいままにしたトップスターでした。

兄マイケルの死から早くも3年以上が過ぎ、この人も懐かしい存在になりつつありますが、まあディスコ界でもよく活躍したものでした。米ビルボード誌のディスコチャートでは、バカ売れし始めた1986年から2001年までの15年間に15曲も1位になっています。これを上回るのは女王マドンナ(同時期に23曲)しかいません。

この人は言わずと知れたジャクソン・ファミリーの10人きょうだいの末っ子で、1966年に米インディアナ州に生まれした。ジャクソンファミリー全体のマネジャーでもある父ジョセフの指導の下、7歳で芸能界にデビューし、偉大なきょうだい達と各種ステージをこなす日々となりました。

16歳だった82年にはソロデビューアルバム「Janet Jackson」(上写真)、84年には2枚目の「Dream Street」(写真)をリリース。ところが、この2枚とも、その毛並の良さもあってチャートインまではしたものの(シングルで10位前後)、大ヒットというわけにはいきませんでした(例:「Say You Do」=83年、米ディスコ11位)。

デビュー盤は、ジャクソンズと同じようなきょうだいグループだったシルバーズの中心人物で、70年代後半の「ディスコ仕掛け人」の一人でもあったレオン・シルバーズらがプロデュース。2枚目は、ドナ・サマーをスターに育てたかの“エレクトロディスコの大魔神”ジョルジオ・モロダーとピート・ベロッテが万全の態勢でプロデュースを担当したのですが、デビュー盤よりも売り上げが落ちる始末だったのです。

2枚のアルバム自体、大物プロデューサーを起用した上に、偉大な兄達やジャクソンズ人脈の手練れスタジオミュージシャンの助けを借りた割には、「可もなく不可もなし」のアイドルR&B歌手としての作品内容でした。ステーシー・ラティソウやステファニー・ミルズイブリン・キングのような20歳前後の売れっ子黒人女性歌手が数多く輩出していましたから、その中に埋もれてしまった感もあります。

このころは、公私ともに壁にぶち当たった時期でした。「Dream Street」発表の後、父親のマネジメントから離れて独立。姉ラトーヤ、兄マイケルの自伝「La Toya」と「Moon Walk」などにも書かれていますが、とにかく父親が音楽活動に対して厳格で、しょっちゅう暴力も振るう人物だったために、嫌気が差して逃げ出してしまったのが真相でした。84年には突然、幼なじみで、「I Like It」「Rythm Of The Night」などのソウル&ディスコヒットで知られるデバージ(これまたきょうだいグループ)のジェームズ・デバージと電撃結婚し、すぐに離婚するという「お騒がせ事件」も起こしています。

停滞期の真っただ中の85年には、姉ラトーヤと一緒にいきなり東京の「世界歌謡祭」(ヤマハ音楽振興会主催)に出場して見事(?)「銀賞」を獲得しました。まあ、とりわけ兄マイケルの破竹の勢いと比べると、とても地味な状態が続いていたわけです。

しかし、日本がバブル期に突入した1986年に大変身したのがジャネットさんのもの凄いところ。少女風の出立ちを果敢に捨て、「ちょいワル」な感じで大人びた雰囲気のアルバム「Control」(下写真)を発表したら、なんとまあ、空前絶後の大ヒットを記録してしまったわけです。

カットされたシングルの全米チャートだけでみても、「What Have You Done Fome Me Lately」(R&B1位、ディスコ2位)、「Nasty」(同1位、同2位)、「When I Think Of You」(同3位、同1位)、「Control」(同1位、同1位)、「The Pleasure Principle」(同1位、同1位)といった具合に、兄マイケルをも凌駕する大爆発ぶりを見せつけたのでした。

プロデューサーは、SOSバンドなどを手掛けたことで知られるジャム&ルイス(Jimmy Jam & Terry Lewis)。さらにプロモーションビデオでは、ブレイク前のポーラ・アブドゥルを「ダンス振付師」として起用しています。その後のニュージャック・スイング・ブームを予感させるようなシンセサイザー重視の鋭角的なビートと挑戦的な歌詞は、まさに斬新。MTVなどですっかり定番になった彼女のダンスは、正確無比そのもの。「ついさっきまでの甘えん坊末っ娘歌手」の変貌ぶりには、まったく度肝を抜かれたものです。

私自身、当時のあほあほバブルなディスコの現場では、ホイットニー、マイケル・フォーチュナティープリンス、ジョディ―・ワトリーあたりと並んで、いや一番耳にしたであろうアーチストでした。とりわけ、最近あの世にも恐ろしい「クラブ・フラワー撲殺事件」が勃発した六本木ロアビルにあった「リージェンシー」というディスコで、ジャネットのNastyやらControlやらが盛んに流れていました。それでも、格差社会や貧困問題、ドラッグの蔓延などとはまだほぼ無縁で浮かれ気分だったあの時代、フロアはどこまでも平和で能天気だったわけですけど。

豹変ジャネットさんは、「Control」の後も大勢力を持続し、「Rhythm Nation 1814」(89年)、「Janet…」(90年)と発表アルバムはことごとく大ヒット。押しも押されぬ大スターの座を不動のものとしました。90年以降、そして21世紀のクラブ時代にもしっかりと根を下ろし続けるパワーはさすがですけど、原点はやはり「Control」にあったといえるでしょう。

CDはとにかく大量に出ておりますので心配御無用でございます。「Control」については、ディスコ的には12インチバージョンで構成された「More Control」か「Control Remixes」あたりは必須と思われます。

Janet86