Cameo今回はまったりとカメオで〜す。「キャミオ」とか「キャメオ」といった表記がされることもありますが、英語の発音に忠実過ぎてちょっと気持ち悪いので、当ブログでは昔の国内盤LPで使われていた一般的な表記「カメオ」で統一したいと存じます。

さて、このカメオの中心人物は、ブラコン界の大立者ラリー・ブラックモン(Larry Blackmon)さんです。1956年、ニューヨークのハーレム地区生まれ。名門ジュリアード音楽院にも通っていた才人で、10代のころからドラマーとして一流プロのミュージシャンのセッションに加わっていました。1975年に仲間たちと前身の「New York City Players」というグループを結成し、これが後にCameoに名称変更されます。

75年発売のデビュー曲は「Find My Way」というもろディスコの逸品。それもそのはず、彼らがこの時に最初に契約したレコード会社は、このブログではしつこいほど登場してきた"ディスコの殿堂"カサブランカ系列のレコード会社(Chocolate City)だったのです。この曲は数年後、以前に紹介した1978年公開のカサブランカ制作のディスコ映画「サンク・ゴット・イッツ・フライデー」用にリメイクされて、挿入歌として使われました。つまり、後に個性派ファンクグループとして一時代を築いたカメオも、まずはディスコで第一歩を記したのでした。

その後、80年ごろまでは大編成(最大13人)のファンクディスコ・グループとして、オハイオ・プレイヤーズバーケイズ、タワー・オブ・パワーみたいなホーンセクションを軸とした曲作りに勤しんでいました。それにラリーさんの粘着質な歌声や、スライ・ストーン、オハイオ・プレイヤーズ、バーケイズなどにもよく見られた「ヤウヤ〜ウ!」という掛け声が乗っかってくる感じです。70年代ではもう1曲、「I Just Be Want To Be」(79年。米R&Bチャート3位、米ディスコチャート52位)も、いかにもファンクディスコのノリで豪快に攻め込んでくる佳作となっております。

これが1980年代半ばになると、音楽的に大きな変貌を遂げます。当時、急速に浸透していったシンセサイザーやドラムマシーンを多用するようになり、アーバンなヒップ・ホップの要素を強く打ち出すようになっていったのです。

このころに大ヒットしたShe's Strange(1984年。R&B1位、ディスコ25位、米一般総合チャート47位)とかSingle Life(1985年。R&B2位、ディスコ26位)、そして代表曲のWord Up(86年。R&B1位、ディスコ1位、総合6位)などは、音数はやや少ないものの、シャープでソリッドなダンスミュージックに仕上がっております。全米の一般総合(ポップ)チャートにも食い込むようになり、セールス的にはピークを迎えました。

同時に、ラリーさんは80年代半ばにバンドの構成員数を3人にまで絞り、残りは適宜サポートメンバーとして加わってもらうという方法に切り替え、人件費の大幅削減にも成功。70年代に活躍した多くのソウル・ファンク系バンドが80年代になって低迷していく中、音楽的にも経済的にも怒涛のバンドマスターぶりを発揮したのでした。

日本ではとりわけWord Upが、80年代後半のバブル期の定番曲としてもてはやされたものでした。「ピヨピヨ、ヒュルル〜ン」とお得意のシンセ音が縦横に飛び回り、フロアにいるこっちも心がピョンピョンと躍りだしたものです。テンポ数(BPM)は少なく遅めの曲ですので、踊り方は海藻のようにゆらゆら、ゆったりとしたもの。一部のブレイクダンス好きの人々などは、もっとバックビート(裏拍子)を意識して跳ねるように踊っていたのをよく見かけました。プロモーション・ビデオ(PV)もまた、ラリーさんの見事に股間を強調したファッションセンスを含めて、なかなかに奇抜な内容です。

当時のディスコはまだ連日、非常に混み合っていましたので、フロアは常にカオス状態。でも、とりあえず自分が楽しめばそれでいいわけですので、とても自由でわがままなフロア空間が展開されておりました。Word Upにも「Do your dance, do your dance」(自分の踊りを踊りたまえ!)とか「We need to dance」(俺たちは踊らねば!)といったダンサブルなフレーズがどんどん出てきます。ラリーさんはこの曲で若者たちを(変な格好で)鼓舞して、「魂を揺さぶらせて自由に踊れ!」と叫んでいるかのようです。

当ブログでは音楽やアーチストの考察に重きを置いているため、これまで具体的な「踊り方」には敢えてあまり触れてこなかったわけですが、70年代には日本では「ステップ」という踊り方がありました。曲や曲調に合わせてあれこれと色んな「型」を覚えて、フロアのお客さんたちが同じ踊りをラインダンスのように踊っていたのです。

踊りの種類は、「ファンキー・フルーツ」とか「チャチャ」とか「ブロードウェイ」とか「スケーター」とか「フォーコーナーズ」とかもう無数にありました。しかも、東京や大阪その他の都市ごとにそれぞれ微妙に違うステップがあり、皆ものすごくこだわってそれを踊っていたのです。

世界的にもディスコ空間でのこうしたステップ・ダンスはほぼ皆無で、日本特有の現象でした。これまでに当ブログでも何度も登場してきた一遍上人の踊念仏をひとつの源流とする「盆踊り」の伝統が、ステップ現象の背景にあったことは間違いないでしょう。皆と同じ踊りを舞うことで、ダンスフロア・コミュニティの一体感を味わっていたのですね。

その伝統は、少し間を置いて90年代以降のクラブで流行った「パラパラ」へと引き継がれました。今だって、アニメソング(アニソン)やアイドルの曲に合わせて同じ形式で踊るライブイベントが一部にあります。

ディスコでは70年代まではステップが盛り上がりを見せましたが、80年代に入ると、日本でも海外と同様、基本的にリズムに合わせて自由に手足や腰を動かす踊り(フリーダンス)が主流になりました。客層も老若男女に広がりを見せ、日本人全体が「ディスコ慣れ」してきたのだともいえます。

「自由」ということは、往年のステップ・ダンスで踊っても別にぜんぜん構わないわけですけど、音頭取りのDJがかける音楽にゆるりと合わせて、お客さんたちが上手も下手もなく勝手気ままに踊り狂い、なおかつ何となく調和している様子が、踊り手と見物人が明確に分かれる「舞台型」ではなく「参加型」であるディスコ本来の姿であり、醍醐味です。フロアでタバコを吸ったり、酔っ払って何度も隣の人にぶつかってその足を「イテテ!」と踏んだり、尋常ならざるバカ騒ぎをしたりといった迷惑さえかけなければ、他人の目を気にする必要などないわけです。それこそがまさに、束の間の「解放と融合」の非日常空間といえましょう。

とまあ、理屈はさておき、ディスコの「考えるな、感じろ(いやむしろ踊れ)!」(ブルース・リーの名言より)の精神は、現代ダンスカルチャーにも脈々と受け継がれております。「国富論」で知られる18世紀の「経済学の父」アダム・スミスまでもが、意外にも「舞踊と音楽は人間が発明した最初の快楽である」との名言を残しています。人類が人類である以上、これからも人々は踊り続けるに違いありません!(断定)

カメオのCDはアルバム、ベスト盤ともにとても充実しております。写真の「Secret Omen」は79年発売のアルバムの再発CDで、珠玉ディスコの「Find My Way」と「I Just Wnat To Be」収録。ベスト盤だと、90年代に発売された米MercuryのFunk Essentialsシリーズの「The Best Of Cameo」(Volume1と2)および「The 12" Collection And More」が網羅的な内容となっております。これらを聴いて自宅で好き勝手に踊り狂い、日ごろの憂さを晴らすのもまた一興でしょう。