ディスコ堂 by mrkick

音楽に貴賎なし ―Discoの考察とCD批評

80年代後半

デッド・オア・アライブ (Dead Or Alive)

Dead Or Alive「こんな曲がついに出たか!」。デッド・オア・アライブ(DOA)をディスコで初めて聞いたときの身震いする感覚。ハイエナジー系のうねうねシンセ・サウンドの一つの到達点であり、あまりにイケイケで吐きそうなほどでした。

1983年、当時の地元札幌のディスコ「釈迦曼陀羅」で耳にしたのは、「What I Want」という曲でした。最高潮に盛り上がったときにいきなりかかり、何だか分からないままに、フロアに飛んでいったのを記憶しています。すぐに客で満杯になり、地響きが鳴り響くような状況になりました。ボーカルのピート・バーンズの野太い声が、いまも鼓膜の奥によみがえってきます。

DOAは1979年、同性愛風の派手派手コスチュームに身を固めたピートを中心に結成された、「ナイトメアーズ・イン・ワックス」という新手の英国ニューウェーブ・グループが前身。翌80年には、やはりピートを前面に出したDOAに改称し、現在にまで至っています。私が聞き始めたころには、既に結成から3年も経っていたというわけです。

私は当時、What I Wantが入ったデビューアルバム「Sophisticated Boom Boom」(84年発売)のピートの姿(左写真)などを見て、同じころに流行ったカルチャークラブのボーイ・ジョージの真似だ、と即座に感じました。同様の女装ゲイっぽいキャラのマイナーアーチストは、(ディバインのような奇天烈なやつも含めて)ほかにもたくさんいましたし。

けれども、カルチャークラブの結成は81年ですから、「ゲイコスチューム路線」という意味でも、DOAの方が少し先を行っていたようです(ただし、ピートとボーイは、互いに「あっちが真似した」と争い続けています。つまり仲が悪い)。

まあ、ルックスはともかく、デビューアルバムの曲はどれも秀逸だったものです。A面収録のKCの「ザッツ・ア・ウェイ」のリメイクなんかも、非常にソリッドかつトリッキーなシンセ使いに、ピートのあの「オペラでもやっていたのか?」と思わせる豊かな声量の歌声が、うま〜く調和しております。

85年に出した2枚目アルバム「ユースクエイク(Youthquake)」あたりから、セールスのピークを迎えます。プロデュースはお約束のストック・エイトケン・ウォーターマン(SAW)。「ユー・スピン・ミーラウンド」(英国チャート1位、全米ディスコチャート4位)のほか、「ラバー・カム・バック・トゥー・ミー」、「マイ・ハーツ・ゴーズ・バング」が収録され、このどれがかかっても、フロアは「どっか〜ん、どっか〜ん」の大花火大会でした。

86年発売の3枚目「Mad, Bad, and Dangerous to Know」も売れ行き好調。「ブランド・ニュー・ラバー」(全米ディスコチャート1位)、「サムシング・イン・マイ・ハウス」(同3位)はまたまた、ディスコフロアを激しくにぎわせました。

日本では、この後もヒット街道ばく進。バブル景気にもろに乗っかって、全国各地のディスコは皆、DOAモノで本当にむせ返るほどだったのですが、米国や本国英国では徐々に失速します。もともと変人扱いのピート・バーンズは、やれ「整形手術で唇が変になった」とか(事実らしい)、同棲相手の男と大喧嘩して警察沙汰になったとか(これも事実らしい)、とりわけゴシップで世間を騒がせる存在になっていったのです。

私自身もこのころから、DOAには正直、「そろそろマンネリかな??」と飽き始めてきました。90年代以降は、少し曲のトーンをソフト路線へと変えたようですが、ほとんど聴いていません。

ここで意外な事実。実は、ピートさんは80年代前半から普通に結婚していて、昨年離婚したばかりだというのです。でも、男性とも同棲しているわけですから、「バイセクシャル」ということになります。(まあ、そんなことはどうでもいいのですが)。

ほとんどのアルバムがCD化されていますが、写真のデビューアルバムは最近は希少価値大。2年ほど前には、待望の12インチ集CDが計画されたにもかかわらず、発売直前でなぜかお蔵入りになっています。「2003年●●ミックス」のようなセルフリメイクが非常に多いアーチストですので、今後、再び12インチ集を編集するのであれば、オリジナルバージョンをそろえてほしいものです。

追記*この投稿の4カ月後、待望のデビューアルバムのCDが発売されました。しかも12インチバージョンのボーナストラック入り! けっこうなことでございます。

カイリー・ミノーグ (Kylie Minogue)

Kylie MinogueSAWの流れであらぬ方向に行っちゃいま〜す…ってなわけで、今回はカイリー・ミノーグ。正真正銘のアイドルでである彼女ももう38歳であります。私と3つしか違わなかったのでした。

もちろん、東京のディスコ各店でもヘビープレイされていたわけですが、私が彼女の曲を最初に聞いたのは、東京ディズニーランドの中の変なディスコ。北海道から東京に出てきたばかりのころで、大学1年の夏休み、道内の短大に通う妹たちが東京に遊びに来たので、「おのぼりさんの定番」ディズニーランドに連れていったというわけです。

そのときには「I Should Be So Lucky」と「Got To Be Certain」が何度となくかかっていたのですが、「曲調がいかにもTDLだなあ」と思ったものです。その後、TDLには一度も行っていませんが、テレビなどでTDLを見るたびに、カイリーさんを思い出します。

彼女の場合、活躍時期が既に80年代末期ですので、もはやユーロビートそのもの。テカテカし過ぎちゃって、私などには抵抗感が出てきます。SAWの勃興期の立役者の一人ですけど、「ディスコの最終コーナー」の人、といったところです。「もういいかな」って感じ。

まあ上記2曲と「Step Back In Time」は許せる範囲でしょうか。それと、88年に全米ポップチャート3位まで上昇した「Locomotion」なんかも、案外よいリメイクだと思いました。

彼女は68年、オーストラリア生まれ。少女時代からテレビドラマなどで活躍していた様子です。歌手としては、80年代後半にSAWのプロデュースを仰ぐようになってから、鬼のようにヒット曲を連発。特に本国と欧州、さらには日本ではアイドルスターの地位を確立しました。

ところが、90年代中盤にスランプに陥りました。「自分のキャラを確立したい」と言い出し、「SAW(=アイドルユーロ)離れ」をしてしまったのでした。確かに当時の彼女の曲を聴くと、マンネリ感は否めません。

しかし、試行錯誤の末、2000年以降には別のプロデューサーと組み、新手の「ダンスポップ・アーチスト」として見事に復活。「Can't Get You Out Of My Head」と「Love At First Sight」の2曲が全米ディスコチャートのトップに輝いておりますね。2005年には乳がんの手術を受けてますが、克服して再び復活しております。現在も、特に本国オーストラリアではカリスマ的な存在のようであります。

個人的には、カイリーの声を聴くと、同時期にSAWプロデュースで一時期ちょっと注目を浴びたソニアをなぜか思い浮かべます。代表曲は「You'll Never Stop Me Loving You」(89年、英国一般チャート1位)。これまたバブルなディスコで、カイリーの曲などとつながれてよ〜くかかっていました。

ソニア(・エバンス)という女性は、素人時代、スタジオで仕事中だったSAWのピート・ウォーターマンを訪ねて直接、自分の歌声を売り込んだエピソードを持つつわものです。当然ながら、カイリーの曲と曲調はまったく同じですし、ルックスも正直言って「??」なのですが、こっちの方が「ド根性」な感じで好感が持てます。「You'll Never…」のPVもけっこうほほえましい内容になっております。

カイリーのCDは山ほど出ていますが、写真の12インチミックス集(2枚組)が一番、充実しています。Vol.4まで出ておりまして、全部そろえるとカイリー・ミノーグ通になれます。ソニアのCDは昔出ていましたが……今は廃盤です。

SAWモノは今回で一応おしまい。来月は時代を遡ろうと思います。

バナナラマ (Bananarama)

バナナラマSAWの代表選手「バナナラマ」は、1981年にカレン、サラ、シボーンの女友達同士で結成した英国の3人組でした。後にシボーンが結婚して抜けたものの、今も2人組で活躍中の大ベテラン。世界で最もチャート入りを果たした女性ボーカルグループとして、ギネスブックに載ったほどであります。

SAWがプロデュースし始めたのは1986年のこと。バナナラマ側が、彼らがプロデュースしたデッド・オア・アライブの曲を聴いて気に入り、制作を依頼したという経緯があります。同年に出たお馴染みの「ビーナス」は、いきなり全米1位を記録する特大ヒットとなり、世界中のディスコで定番化したというわけです。

「打ち出の小槌」SAWの力を得たバナナラマは、ビーナス以外にも「モア・ザン・フィジカル」「アイ・ハード・ア・ルーマー」「ラブ・イン・ザ・ファースト・ディグリー(第一級恋愛罪)」などなど、バブル景気真っ盛りの80年代後半を彩るダンスコヒットを連発しました。言うまでもなく、ディスコフロアでは「耳にタコ、靴ずれでかかとにもタコ」状態でしたね。

特に「アイ・ハード…」は、マイケル・フォーチュナティーのあの「ギブ・ミー・アップ」にそっくりだと話題になりました。実際はどっちが真似をしたのかよく分からないのですが、確かに当時は、ちょっとはオーケストラな雰囲気を持っていたハイエナジー系が、「もろ打ち込み」のユーロビートに変貌し、似通った曲が量産されてきた時代でもありました。

まあこのあたりは、賛否が分かれるところでしょうが、80年代後半という時代性を考えれば、「おバカの頂点」という意味で、私はぎりぎり好きな部類に入ります。

というわけで、バナナラマにとっての絶頂期は80年代後半ですけれども、私としては結成直後の曲に注目したいところ。このころは、元スペシャルズのメンバーで結成された「ファン・ボーイ・スリー」の協力により制作された曲が多い。つまり、スカロックなテイストがにじんでいるのです。

「リアリ・セイイング・サムシング」「シャイ・ボーイ」「クルエル・サマー」といったあたりがこのころの代表作。とりわけ「クルエル」は、83年に全米ポップチャート9位、全米ディスコチャート11位までそれぞれ上昇する中ヒットになっています。当時のジャケットやPVをみると、まだいかにも“おてんば少女”のアイドルという感じです。でも、曲にはユーロっぽい軽さはなく、逆にこのころの方が大人っぽさを感じさせます。

もともとバナナラマはボーカルに特徴がありまして、3人がパート別に分かれてハモるのではなく、一斉に同じ調子で歌う方法をとっていたことで知られています。初期のレコーディング時には、1本のマイクを3人で一緒に使うこともありました。それで、なんだか合唱団のような独特のボーカルが展開されているというわけです。

写真のCDは、少し前に発売された12インチコレクション。12曲入りなので、26年ものキャリアからして網羅的にはなりえないものの、クルエル・サマーやシャイ・ボーイのロングバージョンが入っているのが嬉しいところ。クルエルはオリジナルの12インチとは内容が違っていまして、しかしなかなかカッコよいです。ホット・トラックスあたりのDJミックスが収録されているのだと思います。

ストック・エイトケン・ウオーターマン (Stock Aitken Waterman)

ストック・エイトケン・ウォーターマンいやあ、来週また出張になりそうなので、今のうちに……というわけで、今回はストック・エイトケン・ウォーターマン(SAW)!! ハイエナジー&ゲイの流れからすれば、ある意味当然の帰結ではあります。

日本人にとっては、猛烈にバブルな曲の数々。80年代後半に訪れた、美しき放蕩、夢にまで見た似非日本経済王朝期に最もふさわしかったといわざるを得ません。「一期は夢よ、ただ狂え」(「閑吟集」)ならぬ、「踊れや叫べ。ディスコの出番!」てなわけで、もう全国各地に「マハラジャ」が出現しちゃってたころであります。SAWって、そんなアホな雰囲気にぴったりだった気がします。

とにかく私もアホでした。ファッション雑誌「メンズノンノ」とか「チェックメイト」とか買っちゃって、誌面でにっこり笑うモデルの阿部ちゃん(阿部寛)や風間徹を見習ったつもりになって、「丸井」でローンで買ったDCブランド(その多くは今は消滅)の衣料品に身を包み、ディスコに夜な夜な出かけるのでした。

でも、行くのは新宿とか六本木とか渋谷のフリーフード/フリードリンクの店が中心でしたな。ゼノン、リージェンシー、ヴィエッティ、メイキャップ、ウイズ、キゼー(日本発の「お立ち台」を導入)、スターウッズ、ラ・スカーラ……。そんなあたりが出没店でありました。

一方で、有名なマハラジャ、エリアのほか、88年の正月に「バブル崩壊の予兆」として悲惨な機材落下事故を起こしたトゥーリアなどは、一通り行きましたけど、通うほどにはならなかった。服装チェックとかVIPルームとか、今の格差社会じゃあるまいし、庶民の変な優越感を助長する感じも「トホホ」でありました。何しろ、所詮はおバカさんで陽気なディスコなわけで、もっとラフな格好で自由奔放に踊る方が好みだったわけです。

そんな当時のディスコで、派手やかにかかっていた曲の多くは、SAWのプロデュース作品でした。デッド・オア・アライブ、ディバイン、バナナラマ、リック・アストレー、カイリー・ミノーグ……。いま聴くと、「曲調やっぱどれも似てるなあ」とはしみじみ思いますが、20代前半の気恥ずかしい思い出が確実によみがえります。とにかくフロアは、SAWの大洪水でした。

SAWは1984年、文字通り、英国のストック、エイトケン、ウォーターマンの3人によって結成されたプロデュースチームの名前。プロダクション会社名は、3人のうちピート・ウォーターマンさんの名前をとってPWL(Pete Waterman Limited)です。これまでに紹介してきたイアン・レヴィーン(レコード・シャック・レーベル)とかイアン・スティーブン・アンソニー(パッション・レーベル)などと同様、メロディーは米モータウン・サウンドを源流としたハイエナジーであります。

特に80年代末期になってからの作品は、前期ハイエナジーのよさを踏襲しつつも、もっと複雑かつ多様になっていきます。80年代末〜90年代初頭に定着する「ユーロビート」、さらには「ユーロハウス」などの元祖とも称されますが、こちらはもう私の定義する「ディスコ」の枠外になってしまいます。私の場合、トゥーリアの事故あたりから、リアルタイムのディスコには関心がなくなっていくのでありました。

SAWの曲の中身は、基本的には、シンセサイザーの打ち込みにボーカルを乗せる構成で、万人受けするタイプ。「ストップ・エイトケン・ウォーターマン!」なんてからかって、嫌うムキも多かったのですが、ディスコというものは、ノリがよくてフロア栄えするのなら、まずはオッケー!!。「踊る阿呆たち」の額に流れる汗は、とどまるところを知らないのであります。

実際、欧州やアジアでは、一般チャート上位に入るほどに大メジャー化。本国英国では、80年代後半、カイリーミノーグなどの曲をトップ10にがんがん送り込んでいました。実は、80年代の英国も、サッチャー保守政権の改革路線により、土地の価格が急騰するなどなかなかのバブル景気になっていました。「浮かれた気分はハイエナジー」という標語(?)は、万国共通なのかもしれません。

ただ、凡百のハイエナジープロデューサーとは違い、この人たちはR&B風の曲もけっこう制作しています。私などは、プリンセスという女性ボーカリストの「Say I'm Your Number One」(85年)とか「After The Love Has Gone」(86年)なんて、アダルト向けの名曲だと思います。ディスコでもよく耳にしました。

写真のCDは、彼らの代表作品を集めた豪華3枚組ボックス・セット。シングル・バージョンが多いのですけど、3枚目は素敵な12インチバージョン集となっております。これには、みんな知ってるディバインの「ユー・シンク・ユア・ア・マン」の貴重なリミックス(男性ナレーションが入っている)や、前述したプリンセスのしっぽりR&B「Say I'm Your Number One」、SAW名義でリリースした「ロードブロック」のレア・グルーブ・ミックスなどが収録されております。

ず〜と聴いているとさすがに飽きますが、なぜだか落ち込んだとき、自分をバブリーに盛り上げたいときには最適でしょう。

Johnny Hates Jazz (ジョニー・ヘイツ・ジャズ)

Johnny Hates Jazz80年代後半ということでは、ジョニー・ヘイツ・ジャズも印象深い人たちです。デビューアルバム「Turn Back The Clock」(88年)が大ヒットした後、すう〜っと消えていったという「一作屋」なんですね。

ただし、このアルバムの出来は非常に良かった。特に好きだったのは、「Shattered Dreams」と「I Don't Wanna Hero」の2曲。どちらもミディアムテンポのオトナっぽい曲調で、前者は全英・全米チャートともにベスト10入りし、後者は米ビルボード・ディスコチャートでは19位までいきました。バブル真っ盛りの東京のディスコでもときどき耳にしました、深夜の時間帯あたりに。

「ジョニー・ヘイツ」は英国で友人同士3人によって結成。この変なバンド名は、3人の共通の知人であるジョニーという人物が、ジャズが大嫌いだったことから付けたそうです。テキトーですね。

3人のうち中心人物はリードボーカルのクラーク・ダッチラー。しかし、そのクラークが、このアルバムを出した直後、ソロ志向を強めて脱退してしまいます。残ったメンバーは新しいボーカルを模索したのですが、失敗に終わってしまったというてん末です。バンドではよくあることですけど、ボーカルの抜けた穴は大きかったということですね。

確かに、クラークの声はとても落ち着いていて、耳に心地よく入ってくるタイプで秀逸です。曲づくりは、シンセ音が爽やかに入っていてかつダンサブル。当時はシンプリー・レッド(「マネー・トゥー・タイト・トゥー・メンション」など)レベル42(「レッスンズ・イン・ラブ」など)とか、フォックス・ザ・フォックス(「プレシャス・リトル・ダイヤモンド」のみ)とか、欧州発の似たような人気バンドが多かったような気がしますが、それが時流に乗った音だったのでしょう。

写真のCDはその「Turn Back The Clock」。Turn Back The ClockとI Don't Wanna HeroとHeart Of Goldの代表的な3曲もが、12インチバージョンでも収録されています。ほかにベスト盤も何種類かあります。80年代後半のユルめのディスコを聞きたければ、とてもオススメでございます。朝の寝起きにも合います。

Jermaine Stewart (ジャーメイン・スチュワート)

Jermaine Stewart今回はあまりやってこなかった80年代後半モノを。私は1986年春に札幌から東京に出てきて、新宿や六本木のディスコに出没するようになるわけですが、そのころにフロアでよく聞いて印象に残っているのが、ホイットニー・ヒューストンと写真のジャーメイン・スチュワート。特に頻繁に行っていた六本木リージェンシーという店では、どちらも定番化していました。

ホイットニーは「How Will I Know(恋は手さぐり)」が超ヘビープレイ。大物ですから、今さら解説の必要もありません。でも、ジャーメインの方は日本ではそれほど知られていないのではないでしょうか。「We Don't Have To Take Our Clothes Off」という曲が86年初頭、全米一般チャート5位に入る大ヒットを記録。ディスコでも耳にするようになりました。ギンギン、うねうねのシンセサイザーが炸裂する元気の良い曲です。

80年代後半になると、シンセサイザーがかなり進歩しまして、ディスコでもすっかり定着してまいりました。私はこのころがディスコ的な意味で「シンセの頂点」だったと思っています。90年代に入ると、シンセが進歩し過ぎてしまい、逆に無味乾燥な音に聞こえるようになりました。逆にアコ−スティックな音に親近感を覚えたりしましたからねえ。

さて、ジャーメインさんは、1957年米オハイオ州生まれ。10代で踊りを始めてメキメキと腕を上げ、学校の帰りにはストリートでちょっとしたショーもやっていたようです。後に人気TV番組ソウル・トレインにも出演するようになりました。

ソウルト・レインといえば、シャラマーのメンバー(ジョディー・ワトリーなど)が出演していたことでも知られます。ジャーメインはこのシャラマーに認められて、80年ごろからバックダンサー兼ボーカルとしてステージで共演するようになりました。さらに、カルチャー・クラブのバックも務めておりまして、「ミス・ミー・ブラインド」ではボーカルで参加しています。

ソロデビューは84年で、「The Word Is Out」(アルバムも同名)というシングル曲が、全米ディスコチャート4位まで上昇。続いて86年に、「We Don't Have To…」が収録された2枚目アルバム「フランティック・ロマンティック」(写真CD)を発表し、ブレイクしたというわけですな。このアルバムは、ナーラダ・マイケル・ウォルデンがプロデュースしていて、ジェリー・ビーンも一部参加。なかなか豪華であります。

「We Don't Have To…」の歌詞は、「君と僕は、服を脱ぐことなんてしなくても、ダンスをすれば楽しくなれるぜ」といった単純な内容で、曲調もいたって能天気。ですが、特に12インチのイントロは「これから来るぞ!」みたいな感じでカッコ良いですし、爽やかさもあって親しみを覚えます。私自身、ディスコで聞いてから、すぐに12インチを買いに走った記憶があります。ビデオクリップがYouTubeなんかで観られますけど、ソウルトレイン仕込みだけに、さすがに踊りも軽快で上手であります。

この人は、その後も英国を中心に人気を維持し続けたものの、AIDSにおかされてしまいました。1997年に他界。享年39でした。

写真はドイツ盤で、「We Don't Have To」と「The Word Is Out」のそれぞれロングが入っていてお得な内容になっています。

Paul Hardcastle (ポール・ハードキャッスル)

Paul Hardcastle世にも珍しい「反戦ディスコ」のタイトルは「19(ナインティーン)」。80年代前半からディスコミキサーとして活躍した、英国出身のシンセ奏者ポール・ハードキャッスルの作品であります。

ずばりベトナム戦争をうたった異色作。特に、帰還兵たちの心的戦争後遺症をテーマにしています。「They fought the longest war in American history(彼らは米国の歴史上、最長の戦争を戦った)」という、ニュースキャスターのサンプリングフレーズで始まる印象的な曲です。

19とはベトナム戦に参加した米軍兵士の平均年齢。第二次大戦時の26歳より7歳も若い……その多くの命が戦場に散ったわけです。米軍の戦死者数5万8000人。心的ストレスから犯罪に走る帰還兵も多く、社会問題化しました。

開高健の代表作のルポ「ベトナム戦記」には次のようにあります。「ふたたび猛射が起った。森そのものが猛射しているとしか思えなかった。べトコン兵士の姿は黒シャツの閃きひとつ見えなかった。潰走が始まった。……背後でふたたび乱射が起こった。カートリッジをつめかえおわったのだ。ガクガクする膝で夢中になって走った」

明日の命をも知れぬ地獄の戦場。しかし、無事に帰ってきても、恐怖の記憶は消し去ることができません。19のサンプリングフレーズには、こんなのもあります。「None of them received a hero's welcome (帰還兵の誰もが英雄として迎えられることはなかった)」。世界のリーダーの地位を確立することになった第二次世界大戦とは違い、米軍が唯一、負けた戦争といわれるベトナム戦争の虚しさと愚かさを象徴するかのように、曲中では何度も繰り返されていきます。

どんな大義があろうとも、結果は悲惨でしかない戦争と、桃源郷の平和なダンスフロアを結びつけた力技に、ハードキャッスルの特異な才能を感じざるを得ません。

曲調もなかなかよろしい。ヒップホップの要素を盛り込んだミデアムテンポのダンスミュージックをベースに、サンプリングや戦争をイメージした効果音が、リズミカルに小気味よく入ってきます。当の米国のダンスフロアでも人気を博し、85年の米ディスコチャートで2週連続1位になりました。

もちろん、日本のフロアでもよく耳にしました。84年といえば、まだ経済成長神話が信じられていて、北朝鮮有事だ憲法改正だ収入格差だなどと騒いでいる今と比べれば、きな臭い話題も少なかった。とにかく世の中が平和かつ平等でなければ、ディスコなど楽しめるものではありません。あの時代は、反戦ディスコも平和に平等に楽しめたわけです。

ハードキャッスルには、ほかにも「レイン・フォレスト」(84年)というディスコ系の代表作があります。こちらはぐっと落ち着いた曲調。実は、前回紹介のバーバラ・メイソン「アナザー・マン」と「つなぐ」と、絶妙な調和を醸し出します。

才人ハードキャッスルは90年以降、それまでのディスコ調から脱皮して「スムーズ・ジャズ」と呼ばれる新境地を開拓し、さらに地位を不動のものにしました。

その変貌について、マスコミのインタビューではこう語っています。「シンセサイザーを使ったダンスミュージックという意味では、80年代でもうすべて、やるべきことはやってしまった。別の道を探すしかなかったんだ」。余裕の発言というべきでしょうか。

写真のCDは、彼の20年間の作品を集めたベスト盤(英Jazz FMレーベル)。旧作、新作を問わず、ほかにもいろんなCDが出ています。

バカラ

5b81f665.jpgトランプのゲーム名から名付けられた「バカラ」は、スペイン出身のメイトとマリアによる女性デュオです。2人でスペインのナイトクラブで歌って踊っていたところをスカウトされて世に出ました。デビュー曲の「誘惑のブギー」(1977)が、女性グループとしては世界最高の1600万枚も売れてスターになりました。特に欧州とアジアのディスコでヒット。英国とドイツでチャート1位を記録しています。

ところが、1曲目があまりにもバカ売れしたせいか、その後は失速しました。1981年には、新曲「スリーピー・タイム・トイ」をリリース直後、すぐに店頭回収となる騒ぎが勃発。マリアの方が「私の歌が目立っていない!!」と文句をつけて、レコード会社を相手取っての訴訟にまで持ち込んでしまったのです。メイトの方は「なんでいきなり?今までだって私の方がボーカルのメーンだったじゃない」と気色ばみました。そして間もなく活動中止。完全に仲違いしてしまったわけですね。

2人はソロの道を歩みますが、さっぱり売れませんでした。仕方がないので、1983年、メイトは別の女性とデュオ「ニュー・バカラ」を結成し、ユーロビート「ファンタジー・ボーイ」「コール・ミー・アップ」「タッチ・ミー」とまずまずのヒットを飛ばします。

しかし、変なことがまた起きます。1985年、今度はなんとマリアの方が、対抗心を燃やして別の女性と「ニュー・バカラ」を結成したのです。「2つのニュー・バカラ」のそろい踏みです。

その後、先発ニューバカラは「バカラ2000」、後発ニュー・バカラは「バカラ」へとそれぞれ名称変更し、現在まで続いています。「2つのバカラ」はやはり続いていて、はたから見てるとややこしい限りなんです。

問題は、昔の曲を集めた「ベスト・オブ・バカラ」のようなベストアルバムです。例えば、CDの表紙は一番最初の「バカラ」のメイトとマリアの写真なのに、中身は、ニュー・バカラ以降の「2つのバカラ」が最近になって録音した曲だったりするのです。「2つのバカラ」ともに、「誘惑のブギー」に代表される過去のヒット曲を自分たちのベスト盤に入れたり、コンサートで歌ったりしたい。けれども、はたから見てると混同することはなはだしい状況となっています。

写真のベストCDの表紙写真には、マリアとメイトが写っています。タイトルが「オリジナル・ヒッツ」となっているし、中身も2人が歌ったものだと思いますが、私もなんだか自信がありません。まあ、誘惑のブギーはさすがにオリジナルだと思いましたが、ほかの曲はたいしたことがないもので…詳しく検証していません。デュオっていうのは、一度関係がこじれると、後々まで尾を引いてしまうものだなあ、と感慨深い心持になります。
プロフィール

mrkick (Mr. Kick)

「ディスコのことならディスコ堂」----本名・菊地正憲。何かと誤解されるディスコを擁護し、「実は解放と融合の象徴だった」と小さく訴える孤高のディスコ研究家。1965年北海道生まれのバブル世代。本業は雑誌、論壇誌、経済誌などに執筆する元新聞記者のジャーナリスト/ライター/翻訳家。もはや踊る機会はなくなったが、CD&レコードの収集だけは37年前から地味〜に続行中。アドレスは↓
mrkick2000@gmail.com

*「下線リンクのある曲名」をクリックすると、YouTubeなどの音声動画で試聴できます(リンク切れや、動画掲載者の著作権等の問題で削除されている場合はご自身で検索を!)。
*最近多忙のため、曲名質問には基本的にお答えできません。悪しからずご了承ください。
*「ディスコ堂」の記事等の著作権はすべて作者mrkick(菊地正憲)に帰属します。

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