
欧州以外では、やはりユーロビート好きの日本で人気が出ました。代表曲「プレイボーイ」の(86年)ほか、「バンビーノ」「バイ・バイ・ミ・アモール」といった「こりゃあいかにも!」の打ち込みメロディーは、バブル真っ盛りのディスコにて、ホントにうんざりするほどよく耳にしたものです。
・・・・・・いや、私もけっこう好きになりまして、ディスコで聞いた後にすぐ、プレイボーイのビリヤードジャケットの12インチレコード(上写真)を買いに行ったものです。
同時期に流行った同じユーロビートのマイケル・フォーチュナティやポール・レカキスやケン・ラズロなどと比べると、やや抑制的で大人びた雰囲気の曲が多かったデヴィッドさんですが、とりわけ個性的というほどでもなく、さほど強く印象付けられたアーチストではありません。まあ目立った曲は上記3曲のほか「I Don't Wanna Lose You」など2〜3曲でしょうか。特にプレイボーイが特別にしつこくかかっていた記憶があります。
日本で人気があっただけに、CDはもう80年代後半、デビューアルバムの「Like A Star(邦題:プレイボーイ)」が日本フォノグラムから発売されています(下写真)。2枚目の「Lady」も90年、日本盤(エイベックス)が発売されましたが、曲群自体は無難で悪くはないものの、ほとんど無視された状態となりました。いずれも今では廃盤ですので、かなりのレアものになっているようです。まあ、日本のバブル期と重ね合わせるように、あくまでも80年代後半に集中的に活躍した人といえます。
ご覧の通りイケメンでしたので、モデルとしても活躍していたデヴィッドさん。ですが、とにかくユーロディスコの人ですので、大市場アメリカではまったく売れませんでした。
欧米ディスコの清濁併せ呑むフロア文化をはぐくんできた日本については、ユーロビートのような欧州型ヒットも、初期のハウスやヒップホップ、ニュー・ジャック・スイングといった米国型ヒットも平等に楽しんでいました。デビッド・ライムもランDMCもボビー・ブラウンもMCハマーも、なんでもありです。マハラジャやエリアのフロアを賑わせた“ボディコン・ワンレン・太眉”女(例:石原真理子)も、“鋭角的DCブランド・スーツ”男(例:玉置浩二)も、欧米のおいしいところをたっぷりと味わっていたわけです。
90年代以降、デヴィッドさんは完全に表舞台を去ったわけではなく、主に欧州のポピュラー音楽の作曲家として安定的な地位を築いたようです。ということであれば(?)、後世に業績を伝えるCD再発という点でも、せめてベスト盤ぐらい安定的にプレスされるべきだと私は思っております。
