ディスコ堂 by mrkick

音楽に貴賎なし ―Discoの考察とCD批評

ジョルジオ・モロダー

スパークス (Sparks)

Sparks_Newいやあ気がつけば、夏もすっかり終わってました!……というわけで今回は、火花飛び散るド迫力のディスコ伝道師、スパークスと参りましょう。

スパークスは、米ロサンゼルス出身のRon Mael(ロン・メイル)とRussell Mael(ラッセル・メイル)兄弟が中心になって1960年代後半に結成した「Halfnelson」が前身。2人は当時のアメリカ西海岸で盛んに流れていたフォークソングやプロテストソングに「あまりに理屈っぽい!」と嫌気が差し、ザ・フーやピンク・フロイドといったイギリスのモッズ、プログレッシブロック、グラムロック、アートロックに傾倒していきました。71年に「スパークス」と改名し、英国を中心に売り込みを開始。現地でトップ10ヒットを放つなど人気を不動のものとします。

アメリカの音楽業界で60年代と80年代に「ブリティッシュ・インベージョン」(英国の来襲)という言葉が使われたように、アメリカで人気を高めた英国人ミュージシャンは星の数ほどいます。でも、米国人なのに英国の音楽に心底惚れ込み、英国に出かけていってそこでまず火がついてしまったユニークな米国人ニューウェーブバンドになったわけです。

スパークスは、高音ボイスと派手な動きでステージを駆け回る弟ラッセルが前面に出て、その傍らで兄ロンが極端な無表情でキーボードを弾き続けるという摩訶不思議な「陰と陽」の設定。音楽的にはやはりプログレかつグラムロックな内容で、70年代半ばまでは「This Town Ain't Big Enough For Both Of Us」(74年)などの一風変わったロック系の大ヒットを英国で連発していたのですが、70年代後半には早くも息切れしたのか、人気が下降線になりました。そこで目を付けたのが、当時世界中を席巻していた「ディスコ」だったのです!(安易だけど)

彼らはここでなんと、いきなり「ディスコ百獣の王」の名を欲しいままにしたイタリア人音楽家ジョルジオ・モロダーさんにプロデュースを依頼。太っ腹のジョルジオさんは二つ返事で承諾し、ドナ・サマー顔負けの「ビロビロデケデケ」シンセサイザーを駆使したアルバム「No.1 In Heaven」(上写真)を制作し見事、英国チャートでのトップ10入りを再び果たすことになったのでした。

このアルバムで2人は、「Beat The Clock」(79年、英レコードリテーラー・ミュージックウィーク誌チャート9位)、「The Number One Song In Heaven」(同、同12位)、それに「Tryouts For The Human Race」(同、同5位)というディスコ曲を連打したわけです。いずれも弟ラッセルのひょろひょろした高音と幻惑の宇宙的シンセサイザーが妙に調和し、それを正確無比の生ドラムが律儀に下支えしている感じ。独特のクラシカルなメロディーラインもどこか哀愁を帯びていて、心地よく踊りの境地へと誘い込みます。しかも、これらの12インチシングルでは赤とか青の様々な色付きレコードやピクチャーレコードも数多く発売され、もう「ディスコ全開でスタンバってま〜す!」状態なのでした。

ラッセル&ロンは、このアルバムを契機にシンセ街道をばく進。80年代全体にわたってほぼ毎年、ダンス系アルバムを世に送り出しました。特に83年に発売したアルバム「In Outer Space」からは、ゴーゴーズのギタリストであるジェーン・ウィードリン(Jane Wiedlin)とのデュエット曲「Cool Places」、が米ビルボード総合一般チャートで49位、同ディスコチャートで13位まで上昇するヒットとなり、逆輸入的な形で故郷に錦を飾ることにもまんまと成功したのです。私もこの曲は当時ディスコで耳にしましたが、イントロから「デデデデ…」と野太いシンセ音が小気味よく展開し、のっけから踊り心がくすぐられたものでした(テンポやたら速いけど)。

さて、この兄弟は80年代までの勢いはないにせよ、今もその唯一無二のロックディスコぶりは健在。90年代以降もコンスタントに新作を発表したり、世界中をツアーで回ったりして、元気に活躍を続けております。かれこれ半世紀もの息の長〜いキャリアを支えてきたのも、実は70年代末の捨て身の「ディスコ開眼」であったにちがいないのであります。

スパークスのCDは、キャリアが長いだけにたくさん出ていますが、ディスコ好きとしてはどうしても欠かせない「No.1 In Heaven」のほか、80年前後の12インチバージョンを集めた2枚組「Sparks Real Extended」(英Repertoire Records、下写真)がダンサブル爆発の好盤となっております。

Sparks Real




ジャネット・ジャクソン (Janet Jackson)

Janet84さ〜て、今回は何食わぬ顔でジャネット・ジャクソンさんで〜す! これまたバブル期の1980年代後半、ホイットニー・ヒューストンと並んで黒人歌姫の名をほしいままにしたトップスターでした。

兄マイケルの死から早くも3年以上が過ぎ、この人も懐かしい存在になりつつありますが、まあディスコ界でもよく活躍したものでした。米ビルボード誌のディスコチャートでは、バカ売れし始めた1986年から2001年までの15年間に15曲も1位になっています。これを上回るのは女王マドンナ(同時期に23曲)しかいません。

この人は言わずと知れたジャクソン・ファミリーの10人きょうだいの末っ子で、1966年に米インディアナ州に生まれした。ジャクソンファミリー全体のマネジャーでもある父ジョセフの指導の下、7歳で芸能界にデビューし、偉大なきょうだい達と各種ステージをこなす日々となりました。

16歳だった82年にはソロデビューアルバム「Janet Jackson」(上写真)、84年には2枚目の「Dream Street」(写真)をリリース。ところが、この2枚とも、その毛並の良さもあってチャートインまではしたものの(シングルで10位前後)、大ヒットというわけにはいきませんでした(例:「Say You Do」=83年、米ディスコ11位)。

デビュー盤は、ジャクソンズと同じようなきょうだいグループだったシルバーズの中心人物で、70年代後半の「ディスコ仕掛け人」の一人でもあったレオン・シルバーズらがプロデュース。2枚目は、ドナ・サマーをスターに育てたかの“エレクトロディスコの大魔神”ジョルジオ・モロダーとピート・ベロッテが万全の態勢でプロデュースを担当したのですが、デビュー盤よりも売り上げが落ちる始末だったのです。

2枚のアルバム自体、大物プロデューサーを起用した上に、偉大な兄達やジャクソンズ人脈の手練れスタジオミュージシャンの助けを借りた割には、「可もなく不可もなし」のアイドルR&B歌手としての作品内容でした。ステーシー・ラティソウやステファニー・ミルズイブリン・キングのような20歳前後の売れっ子黒人女性歌手が数多く輩出していましたから、その中に埋もれてしまった感もあります。

このころは、公私ともに壁にぶち当たった時期でした。「Dream Street」発表の後、父親のマネジメントから離れて独立。姉ラトーヤ、兄マイケルの自伝「La Toya」と「Moon Walk」などにも書かれていますが、とにかく父親が音楽活動に対して厳格で、しょっちゅう暴力も振るう人物だったために、嫌気が差して逃げ出してしまったのが真相でした。84年には突然、幼なじみで、「I Like It」「Rythm Of The Night」などのソウル&ディスコヒットで知られるデバージ(これまたきょうだいグループ)のジェームズ・デバージと電撃結婚し、すぐに離婚するという「お騒がせ事件」も起こしています。

停滞期の真っただ中の85年には、姉ラトーヤと一緒にいきなり東京の「世界歌謡祭」(ヤマハ音楽振興会主催)に出場して見事(?)「銀賞」を獲得しました。まあ、とりわけ兄マイケルの破竹の勢いと比べると、とても地味な状態が続いていたわけです。

しかし、日本がバブル期に突入した1986年に大変身したのがジャネットさんのもの凄いところ。少女風の出立ちを果敢に捨て、「ちょいワル」な感じで大人びた雰囲気のアルバム「Control」(下写真)を発表したら、なんとまあ、空前絶後の大ヒットを記録してしまったわけです。

カットされたシングルの全米チャートだけでみても、「What Have You Done Fome Me Lately」(R&B1位、ディスコ2位)、「Nasty」(同1位、同2位)、「When I Think Of You」(同3位、同1位)、「Control」(同1位、同1位)、「The Pleasure Principle」(同1位、同1位)といった具合に、兄マイケルをも凌駕する大爆発ぶりを見せつけたのでした。

プロデューサーは、SOSバンドなどを手掛けたことで知られるジャム&ルイス(Jimmy Jam & Terry Lewis)。さらにプロモーションビデオでは、ブレイク前のポーラ・アブドゥルを「ダンス振付師」として起用しています。その後のニュージャック・スイング・ブームを予感させるようなシンセサイザー重視の鋭角的なビートと挑戦的な歌詞は、まさに斬新。MTVなどですっかり定番になった彼女のダンスは、正確無比そのもの。「ついさっきまでの甘えん坊末っ娘歌手」の変貌ぶりには、まったく度肝を抜かれたものです。

私自身、当時のあほあほバブルなディスコの現場では、ホイットニー、マイケル・フォーチュナティープリンス、ジョディ―・ワトリーあたりと並んで、いや一番耳にしたであろうアーチストでした。とりわけ、最近あの世にも恐ろしい「クラブ・フラワー撲殺事件」が勃発した六本木ロアビルにあった「リージェンシー」というディスコで、ジャネットのNastyやらControlやらが盛んに流れていました。それでも、格差社会や貧困問題、ドラッグの蔓延などとはまだほぼ無縁で浮かれ気分だったあの時代、フロアはどこまでも平和で能天気だったわけですけど。

豹変ジャネットさんは、「Control」の後も大勢力を持続し、「Rhythm Nation 1814」(89年)、「Janet…」(90年)と発表アルバムはことごとく大ヒット。押しも押されぬ大スターの座を不動のものとしました。90年以降、そして21世紀のクラブ時代にもしっかりと根を下ろし続けるパワーはさすがですけど、原点はやはり「Control」にあったといえるでしょう。

CDはとにかく大量に出ておりますので心配御無用でございます。「Control」については、ディスコ的には12インチバージョンで構成された「More Control」か「Control Remixes」あたりは必須と思われます。

Janet86

ロバータ・ケリー (Roberta Kelly)

Roberta Kellyドナサマー追悼で3年ぶりに踊りに行ったら腰をやられて1日寝込みました……というわけで、老体にムチ打って今回ご紹介するのは、ドナさまにはかないませんけど、しかしドナさまとも濃密に絡み合いながら、ディスコ史にしっかりその名を刻んだロバータ・ケリーさんで〜す!(カラ元気)

え〜と、このジャケット(左写真)からまずはスタートです。どうです? もうすっかりアフロな笑顔が弾けてるでしょう? それもそのはず、ロバータさんは、ディスコ黎明期の70年代前半には既にディスコ界にちょろりと顔を出し、かの「ミュンヘン・ディスコ」の先鞭をつけた偉人なのでありました。

1942年、米ロサンゼルス生まれ。幼少時にゴスペル音楽で喉を鍛え上げ、地元でソウルグループのリードボーカルを務めるなどの活動を始めました。米モータウンレコードの関係者から評価され、デビュー寸前までいったこともあります。それでも、やはり芽が出なかったので、70年代初頭、30歳ごろになって一念発起、ドイツに旅立ちます。

そのころのドイツ(旧西ドイツ)は、72年のミュンヘン五輪に向けてエンターテインメント界も各種イベントを計画するなどして、明るく盛り上がろうとしていました。「ナチスの悪夢」から逃れ、新しいドイツを築こうと懸命だったのです。つまり、ドナ・サマーと同様にロバータさんも、“オリンピック祭り”に加わってチャンスをうかがおうと考えたのです。

現地でロバータさんは、「フライ・ロビン・フライ」を後に大ヒットさせるシルバー・コンベンションの歌手ペニー・マクリーン、さらに68年にミュージカル出演のために訪独して下積み時代を送っていたドナ・サマーとも知り合うことになります。ドナとは、同じアフリカ系米国人の修行中の歌手として、すぐに意気投合しました。ここで、大物プロデューサーであるジョルジオ・モロダーとその相棒ピート・ベロッテとの繋がりも生まれたのでした。

ロバータさんはまず、74年にジョルジオらのプロデュースで「Kung Fu's Back Again」というトホホなカンフーものディスコでデビューしたもののあまり売れず、75年の「フライ・ロビン・フライ」のボーカルの一人として参加します。これは大ヒットしたものの、レコードのクレジットには彼女の名前が記されないという残念な結果に終わりました(特に黒人女性歌手にはよくあることだったのだが)。

転機が訪れたのは30代も半ばになった76年のことでした。同様にジョルジオ&ピートが手掛けた「Trouble Maker」がようやく欧米で大ヒット(米ディスコチャート1位)。続く「Zodiacs(邦題:恋の星占い)」も世界中のディスコで人気となりました。

このころには、「ジョルジオ繋がり」でドナ・サマーとともに米カサブランカ・レコードに移り、いよいよメジャー化するかと思われました。親友のドナが猛烈な勢いでスターダムにのし上がる中、78年に満を持して、ゴスペル曲で構成された珍しいディスコアルバム「Gettin' The Spirit」を発表したものの……不発に終わりましたとさ。残念!

その後、二度と表舞台には出てこなくなってしまったロバータさん。とはいえ、前述の「Kung Fu's…」は、おとぼけサウンドとはいえ、ジョルジオによるプレミア付き初期ディスコではあります。五輪後の本格的なドイツの経済成長と軌を一にして登場した、バカラ、ジンギスカン、ボニーM、アラベスクといった底抜けに明るいミュンヘン・ディスコの礎をジョルジオ、ピート、ドナらとともに築いたのは確かなのです。

CDについては2-3年前、再発レーベル「Gold Legion」から2枚発売されました。代表曲「Touble Maker」や、雰囲気のいいミデアムテンポのリメイクダンス曲「Love Power」が入ったアルバム「Trouble Maker」、それと「Zodiac」やノリの良い「Love Sign」が入った“アフロな占い歌謡アルバム”「Zodiac Lady」(上写真)であります。

2枚のうち、「Trouble Maker」には詳細なライナーノーツ(英文)がついており、在りし日のドナ・サマーやジョルジオ・モロダーのコメントも載っていてとても貴重です。ドナさまは70年代初頭のミュンヘン暮らしを振り返り、ロバータについて「彼女とその母親は、私の娘ミミの子守りをよくしてくれたわ。あれ以来、私たちはずっと友達なのよ」などと語っています。

一方、ジョルジオさんは「ロバータもドナも、あるアメリカのアーチストのデモ音源を制作するために起用した。2人とも素晴らしい声の持ち主だったから、別々に歌手として売り出したかったんだ」と語っています。

70年代半ばの同時期、ドナさんには音楽史に残るほどに実験的な「Love To Love You Baby」や元祖テクノディスコ「I Feel Love」を手掛けて大成功を収めたのに対し、ロバータさんには「二番煎じっぽいカンフーもの」とか脱力の「占いもの」だったとは…。そこが運命の分かれ道でした。厳しいぜよ、ジョルジオ(いきなり土佐弁)…と、ここはしんみり訴えておきましょう。

追悼・ドナ・サマー (Obit: Donna Summer)

Donna Summer She Works Hardどなたさま〜?のドナ・サマー」と投稿したのはもう7年前のこと。以来、映画サンク・ゴッド・イッツ・フライデーとかジョルジオ・モロダーとかポール・ジャバラとか、ディスコシーンのさまざまな重要場面や立役者をここで語る際にもことごとく登場していたわけで、押しも押されぬ「ザ・ディスコ・クイーン」です。私ももちろん、アルバムを全部持っています。そんなドナさんが米現地時間17日にがんで亡くなりました。享年63。18日付ニューヨーク・タイムズも1面で大きく報じました。

1948年にボストンで生まれたドナ・サマー(本名・ LaDonna Andrea Gaines)は、敬虔なクリスチャンの家庭で育ち、まずは少女時代にゴスペル音楽に傾倒します。とはいえ、一般的なR&B歌手とは違い、10代のころはロックバンドでボーカルを務めるなど、ジャンルにとらわれない音楽活動を行っていました。

転機となったのは、60年代後半にニューヨークの人気ミュージカル「Hair」のオーディションに合格し、海外ツアーに出演するために一時ドイツへの移住を決めたときでした。しばらくはソロ歌手として芽が出なかったものの、そこでミュンヘンディスコやイタロディスコを創り上げたジョルジオ・モロダー、さらにピート・ベロッテという2人の敏腕プロデユーサーに出会い、74年にはようやくデビューアルバム「Lady Of The Night」の発表にこぎつけました。

その後、ジョルジオらが手掛けた「ラブ・トゥー・ラブ・ユー・ベイビー」(75年、米一般チャート2位、R&B3位、ディスコチャート1位)が大ヒットを記録。破竹の勢いだったディスコレーベル「カサブランカ」との契約も果たし、あとはよく知られた「ディスコディーバ伝説」の時代に突入していくわけです。

この曲の長さはなんと17分もありました。ラジオのDJに番組内でかけてもらうため1曲3〜4分が普通だったのですが、まさに「ディスコのDJにじっくりかけてもらうため」長くしたのです。また、ほぼ全編が、まだ出始めたばかりのシンセサイザーを駆使した「エレクトロディスコ」でした。おまけに、曲自体が“女性の喘ぎ声”が頻繁に聞こえてくるなど相当にエロくて、英BBCで放送禁止になったほど。先駆的かつセンセーショナルな試みだったので、一気に注目されたのですね。

これをきっかけに、レーベルの後押しを得て勢いをどんどん増していきます。完全無欠の世界初の本格的シンセサイザーディスコ「アイ・フィール・ラブ」、「ラスト・ダンス」、「オン・ザ・レイディオ」、元ドゥ−ビー・ブラザーズのジェフ・バクスターによるギターリフが素晴らしい「ホット・スタッフ」、「トゥー、トゥー、ヘイ、ビ、ビー!♪」の掛け声も楽しい「バッド・ガールズ」、さらにはバーブラ・ストライザンドとのド迫力異色デュエット「ノー・モア・ティアーズ」などなど、大ヒットを飛ばし続けたのでした。

80年代に入ると、ディスコブームの終焉やゲイについての失言騒動があって人気は下降線をたどるわけですが、83年の“女性労働賛歌”「シー・ワークス・ハード・フォー・ザ・マネー(邦題:情熱物語)」(写真上)がビルボード一般チャート3位まで上昇する久々の大ヒット。日本のバブル絶頂期の89年には、「ええ? ドナサマーがユーロビート界進出?!」と私も度肝を抜かれたわけですが、あのストック・エイトケン・ウォーターマンがプロデュースした「ディス・タイム・アイ・ノウ・イッツ・フォー・リアル」(米一般7位)がヒットしました。完全に消えたわけではなかったのですね。

なかなかに個性的で魅力があるものの最高ランクの声質ではなく、バラードのヒットもない。グラミー賞を5つも取るほどのトップ歌手だったにもかかわらず、正統派のソウル歌手との評価はありません。やはり「色物ディスコ」の歌手だということが、どこかでネックになったわけでしょうが、CMやバラエティ番組や駅前の喫茶店で誰もが耳にしたことがある曲がいくつもあるというのは、とても偉大なことです。もちろん、ディスコ堂としては「だからこそディ〜バ!」と声高らかに賞賛いたします。

ダンス音楽界では、現在のテクノだとかハウスだとかレディー・ガガだとかの元祖にあたる人。電子ダンスミュージックの確立、(失言騒動があったにせよ)ディスコフロアにおけるゲイの解放、「ホット・スタッフ」で見せつけたロックとダンスミュージックの融合などなど、数々のエポックな功績を残して逝ったドナサマー。ディスコ宇宙のミラーボールのごとき大きな星がまた一つ、消えてしまったのです。心より哀悼の意を表します。

CDですが、これがアルバム単位だと意外と少ない。でも、ベストアルバムは国内外から豊富に出ているので、ひとまず網羅的に味わうことから始めたいところです。個人的には、なんとブルース・スプリングスティーンが作曲したロックディスコ「Protection」(曲調がどことなく葛木ユキ「ボヘミアン」に似ている)が入っている82年のアルバム「Donna Summer」とか、ミデアムテンポの切ない美メロ曲「Oh Billy Please」や雰囲気のいいバラードが収録された84年のアルバム「Cats Without Claws」(写真下)あたりの再発を期待したいところです。どちらも当時のディスコではよく耳にしたものです。

Donna Summer--Cats Without Claws

サブリナ (Sabrina) &イベント告知

Sabrinaさて、今回は「ディスコおねえさん特集」の続きでサブリナ(本名:Sabrina Salerno)です。写真はデビューアルバム「サブリナ」の日本盤CD。80年代後半、ご覧の通りバブリーな容姿で大人気だったアーチストであります。

1968年イタリア生まれ。「地元の美人コンテストで優勝→モデル→歌手」という一般的なパターンを歩んだ彼女は86年、「セクシー・ガール」という曲をリリースして注目されます。続く87年に発売した「ボーイズ」がヨーロッパを中心に世界的なディスコヒットとなったわけです。日本でもバブル・ディスコ時代を代表するアーチストに加えられますね。

ヌード姿やお色気路線のビデオクリップも話題となりました。ディスコ界では珍しくはありませんが、歌の上手い人ではまったくありませんので、最初からもろセクシー(エロ)狙いの歌手だったといえます。男子にとっては「ジャケ買い必至」といえましょうか。な〜んとお下劣!……いや、私も当時、そんな感じで12インチを買ってしまった一人であると告白いたします。

曲のスタイルは、典型的なシンセ打ち込み型のイタロディスコ(ユーロビートでも可)です。上記2曲以外にも、「ライク・ア・ヨーヨー」とか「ホット・ガール」とか「オール・オブ・ミー」などのポップナンバー、さらには「レディー・マーマレード」、「アイム・セクシー」、「マイ・シャローナ」などのリメイクものを数多くリリースし、それぞれ相当な人気を博しました。

売れっ子になったこともあり、プロデューサーやアレンジャーには、ジョルジオ・モロダーラビヨンダストック・エイトケン・ウォーターマンをはじめとするディスコ界の大御所も起用されています。

サブリナさんは歌手活動だけでなく、恵まれたルックスをフルに生かし、舞台女優やテレビタレントとしても活躍しました。日本で言えば、80年代タレントの武田久美子とか伊藤かずえに似た感じですね(特に顔)。

それでも、90年代に入ると「アーチストとしての私」に目覚めたのか、セクシーイメージを払拭しようとして事務所と対立するようになり、セールス的に低迷した時期がありました。それでも90年代後半には無事カムバックを果たし、本国では40代に突入した現在も、かなりの人気を保っているようです(セクシー路線はどうやら“遠い昔”ですが)。

CDは、デビュー当時からけっこう日本盤でも海外盤でも出ていたのですが、最近はほとんどが廃盤になっています。とはいえ、ベスト盤はドイツの「L.T. Series」などからいくつか出ておりまして、入手はそれほど難しくありません。往年のバブリーディスコを堪能したい向きには、このバブリー歌手は欠かせない存在かと思われます。

★★★ところで、今回はちょいとイベント告知を・・・・・・。本ブログのコメント投稿で毎度お世話になっておりますベテランDJ「ボビQ」さんが3月7日、東京・高円寺にてディスコイベント「幕の内ナイト」を再び開催いたします。私もちょくちょく行っておりますが、80年代のハイエナジー&ユーロビート&ニューウェーブを中心に、ロック、パンク、R&Bさらには和モノなど盛りだくさんの内容でして、文字通り“幕の内な夜”を満喫できます。その該博な音楽知識と選曲センスにはいつも感銘を受けております。東京界隈の方はぜひ! 

詳しくは専用サイトをご参照ください↓
http://www.geocities.co.jp/makunouchi_night/
プロフィール

mrkick (Mr. Kick)

「ディスコのことならディスコ堂」----本名・菊地正憲。何かと誤解されるディスコを擁護し、「実は解放と融合の象徴だった」と小さく訴える孤高のディスコ研究家。1965年北海道生まれのバブル世代。本業は雑誌、論壇誌、経済誌などに執筆する元新聞記者のジャーナリスト/ライター/翻訳家。もはや踊る機会はなくなったが、CD&レコードの収集だけは37年前から地味〜に続行中。アドレスは↓
mrkick2000@gmail.com

*「下線リンクのある曲名」をクリックすると、YouTubeなどの音声動画で試聴できます(リンク切れや、動画掲載者の著作権等の問題で削除されている場合はご自身で検索を!)。
*最近多忙のため、曲名質問には基本的にお答えできません。悪しからずご了承ください。
*「ディスコ堂」の記事等の著作権はすべて作者mrkick(菊地正憲)に帰属します。

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